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呉景

 

 

生没年:?~建安8年(203)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡呉県

 

 

 

呉の皇族のひとりに、呉景(ゴケイ)なる人物がいます。この人は言ってしまえば孫堅(ソンケン)の奥さんの弟、ようは呉の初代皇帝・孫権(ソンケン)の叔父にあたる人物ですが……史書を読む限り、孫一門との関係はどうにも微妙というか何とも言えないものだったようです。

 

呉景自身はなかなかの名家の出身であり実力もそれなり以上に備えていたようですが、それが余計にややこしい事態を招いてしまった感がありますね。

 

 

とはいえ、最後には割とあっさり孫一門に臣従している辺り、当人的には別段悪印象はなかったようですが……ともあれ、記述を追ってその辺りを考えてみましょう。

 

 

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有力豪族、孫家と血縁へ

 

 

 

呉景はもともと呉郡に家を持つ人物で、豪族としての地位もなかなかの家の出に生まれましたが、折悪くも父母が早くに死去。姉と共に故郷を出て、銭唐(セントウ)の地へ移住。そこで暮らすことを余儀なくされていました。

 

が、そんな生活の折、呉景の姉が才色兼備の見事な女性と聞いてある男が銭唐を訪れます。

 

 

――後に江東の虎などと呼ばれることになる男、孫堅です。孫堅は呉景の姉を妻にしたいと強く懇願。一族はみな「あんな卑しい身分の男に……」とひどく孫堅を嫌いましたが、それを人づてに聞いた孫堅は呉一族に恨みの感情すら抱き、場合によっては身に直接の危険すら及ぶ可能性も出てきました。

 

さて、そんな気性の荒く危険な男である孫堅を見た呉景の姉は、「一族に危険が及ぶよりは……」と結局孫堅に嫁ぐことを決意。弟の呉景もそれに付き従う形で、まだ無名であった孫堅の部将として戦場をかけることになったのです。

 

 

こうして有力豪族であり血縁者の代表として孫堅軍に入った呉景は、彼の部将として共に各地を転戦。しっかりとした武勲を立てて孫堅から破格の扱いを受け、最終的には騎都尉(キトイ:近衛隊長。無名の将軍であった孫堅の配下にしては破格)にまで上り詰めます。

 

 

しかし、孫堅という人物は圧倒的に強くはあるものの身の回りの守りに無頓着な人物であり、やがて戦禍の中で死亡。孫堅軍は解体となり、呉景も故郷の揚州近くにまで退避。そのまま揚州北部に勢力を持っていた袁術(エンジュツ)によって目をつけられ、孫堅軍残党を率いる孫賁(ソンフン)ともどもその配下に収まることになりました。

 

 

 

 

袁術軍の一員

 

 

さて、こうして袁術配下として拾われた呉景は、その家柄と孫堅時代の功績を買われて袁術軍中でも高い評価を得、重要拠点である丹陽(タンヨウ)の太守を任されます。
この時丹陽は、袁術を嫌って独立した周昕(シュウキン)なる人物によって収められていましたが、呉景はこれに攻撃を仕掛け、周昕から丹陽を奪い取ることに成功。名実ともに丹陽郡の支配者となったのです。

 

 

こうして、袁術軍で一定の地位を確立した呉景は、旧孫堅軍の中でも特に立場の大きな存在にまで出世。後に居場所を無くした孫堅の長子・孫策(ソンサク)が配下と共に呉景の元を訪れた際には、彼らを迎え入れて兵力の増強を許可しています。

 

が、この時丹陽の中で幅を利かせていたのが、ある宗教結社。地理的におそらくは仏教系かと思われますが……その結社のボスである祖郎(ソロウ)なる人物が大変強力な人物だったのです。

 

そこで、呉景は孫策と共同戦線を組み、同時に祖郎を攻撃。なんとか撃退に成功しています。

 

 

ちなみに孫策伝に注釈として載せられている『江表伝』では、孫策は祖郎の軍勢に襲撃され、せっかく集めた兵が全滅に近い打撃を受けたと書かれています。

 

後に地盤を固めた孫策が丹陽攻略の際に祖郎と戦ったという記述もされており、もしかすると祖郎相手に勝てなかった、もしくは勝っても追い出すほどの打撃を与えられなかったのかもしれません。

 

 

また、漢王朝から正式に揚州刺史(ヨウシュウシシ:揚州の長官)となった劉繇(リュウヨウ)を迎えに行って、そのまま孫賁と共に役所まで護衛したりもしたのですが、この劉繇は実は反袁術の人。役所を掌握した途端に態度を一変させ、袁術の配下として動いている呉景らを任地から追い出してしまいました。

 

これによって、袁術は揚州の南を掌握した劉繇と開戦。呉景は督軍中郎将(トクグンチュウロウショウ)として孫賁と共に劉繇の軍勢と激しくぶつかり合います。

 

呉景らの軍勢は劉繇が派遣した将軍らと一進一退の攻防を繰り広げますが、両者とも決定打を出せないまま膠着状態に陥りました。

 

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甥の快進撃、そして

 

 

 

孫策が自ら呉景らの戦線に参加することを志願、そのまま袁術に借りた兵や幕僚、そして行軍中にいつの間にかついてきた志願兵らと共に援軍に駆けつけたのです。

 

孫策が戦争に参加したことで、膠着状態だった戦線は一気に袁術軍側に傾きます。一時期は偶然受けた矢により孫策が負傷、袁術側についた兵たちが再び騒動を起こすなどしましたが、呉景は反乱兵たちを殲滅する等、戦場はいつしか孫策中心に変わっていたことが伺えます。

 

 

かくして袁術軍は孫策の手により連戦連勝し、ついに劉繇は本拠を捨てて逃亡。独自に軍を率いて独断で揚州の他勢力に挑む孫策と別れ、呉景は孫賁と共に袁術の元に引き上げることにしました。

 

ここで孫策を放っておいたのが後々袁術の痛手となるのですが……実はこの時、袁術も結構手一杯な状態だったようです。

 

 

というのも、周囲はいつしか敵だらけ。味方だったはずの陶謙(トウケン)がすぐ北の徐州(ジョシュウ)で勝手に敵対し、北側に力を注がなければならない状況に陥っていたのです。

 

しかもこの時の徐州の主は、亡くなった陶謙の後を継ぐ形で入ってきた劉備(リュウビ)。戦上手の彼を叩き潰すには兵が足りず、呉景らも孫策の監視どころではなくなっていたわけですね。

 

 

呉景は袁術の元に戻ると、すぐに北の戦線に異動。国境線にある広陵(コウリョウ)の太守となり、劉備軍との戦いに明け暮れるようになったのです。

 

 

が、そんな時は長く続きませんでした。

 

甥の孫策が、とうとう袁術と手を切って独立。しかも袁術は連敗の果てに自ら皇帝を名乗る等してその勢力を大幅に衰えさせてしまったのです。

 

 

もはや袁術に未来無しと見た呉景は、すぐさま彼の軍を出奔。孫策の元に鞍替えし、彼の元で改めて丹陽太守の役目を引き受けることになったのでした。

 

また、呉景は独自に漢王朝から沙汰を受けて揚武将軍(ヨウブショウグン)に昇進。この辺りからも、孫策から一線を引いたような動きが見て取れます。

 

 

とまあこんな感じで、どこか袁術とも甥とも一線を画したような立ち位置にいた呉景ですが、建安8年(203)に在官中に死去。息子はこんな微妙な関係でも割と上手くやっていたようですが、孫やひ孫は粛清のとばっちりを受けて殺されるという最期を迎えています。

 

孫一門は、お互いに血縁者であっても油断はならなかったようですね。

 

 

 

 

当人は結構あっけらかんとしてそう

 

 

 

数代先の粛清劇からも見て取れる通り、孫一門の事情は非常に複雑。というのも、その偉業の始祖ともいえる孫堅が三流豪族の出で、しかも次男坊。孫策や孫権は従兄弟の孫賁兄弟に対してもそうですし、叔父にあたる呉景に対してもある程度の警戒をしなければならない立場だったと言えます。

 

特に呉景は、袁術の元にいた頃は完全に立場が上。後々孫策が将軍になって抜き返したと言っても、事実上袁術勢力下の旧孫堅軍では呉景がトップだったのではと思ってしまう描写も少なくありません。

 

 

もっとも、呉夫人伝付伝の呉景伝では終始孫策配下のように語られていますが……漢室から勝手に将軍職までもらっている辺り、その主従も相当に胡散臭いもののように思えてきます。

 

 

とはいえ、呉景自身は案外その辺はあっけらかんとしていたようで、あっさり孫策を受け入れて居候させ、おまけに募兵までさせてますし、袁術を見限って孫策に鞍替えするのも早かったような気がします。

 

当人が孫堅らをしっかりと認めていたのか、血族だと思っていたのか、呉景自身が実力主義者だったのか、はたまたドス黒い物を腹のうちに抱えながらも割り切ったのか……この辺はなんとでも想像ができますが、その辺りも含め、孫家の外戚らしい人物だったと言えるのではないでしょうか。

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 6巻

 

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