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朱治 君理

 

 

生没年:永寿2年(156)~黄武3年(226)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州丹陽郡故鄣県

 

 

 

 

朱治(シュチ)、字は君理(クンリ)。なぜか孫堅(ソンケン)四天王から除外された結果、知名度としては「三国志ゲームを孫堅(ソンケン)や孫策(ソンサク)でプレイしてたら初期キャラとしてなんかいた」ぐらいの人物。

 

しかし、実際は30年も孫家本貫地を含んだ呉(ゴ)の土地を守り抜くという、言ってしまえば呉という国のお膝元の守護者でした。

 

 

もっとも、自分の息がかかった人材をゴリ押しで後年の派閥争いの起爆剤にもなってしまった人物ではありますが……間違いなく大物です。

 

 

 

 

 

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孫家の窮地に朱治有り

 

 

朱治という人物は元々は小役人の立場でしたが、能力だか人格だかを相当に買われていたようで、州の従事(ジュウジ:副官)という立場にまで出世。この時まだ朱治は20代から30歳くらいの間なので、やはり当初からかなりの大物として期待されていたのでしょう。

 

 

そんな有能な官吏の朱治でしたが、ある時孫堅の配下に移籍。中平5年(188)には孫堅軍の軍事官僚である司馬(シバ)に任じられ、荊州南部の大規模反乱鎮圧において少なからず活躍し、そのまま都尉(トイ:郡の軍事担当)として、孫堅軍の中核を担うようになったのです。

 

 

当然、反董卓(トウタク)連合にも参加して主君と共に洛陽(ラクヨウ)入りを果たし、督軍校尉(トクグンコウイ)に昇進。そのまま別動隊を率いる指揮官となり、黄巾賊の残党に苦戦する陶謙(トウケン)の救援にも赴きました。

 

 

と、このように孫堅の腹心となった朱治でしたが、孫堅が戦死して軍が崩壊すると、孫堅の上司であった袁術(エンジュツ)に軍ともども吸収され、そのまま朱治も袁術配下の一人となります。

 

……が、数年の後に、朱治は完全に袁術の器量を半ば見放すような状態になっていきます。そしてついに、孫堅の息子である孫策にある提案をしたのです。

 

「多くの勢力が割拠する江東に入り、そのまま併呑なさいませ」

 

 

しかし当時、呉郡を中心とした一帯は、公式に認められた揚州の長官である劉繇(リュウヨウ)が治めており、彼は孫策袁術配下として自分を攻めるのではないかと警戒。下手に動けば劉繇配下の土地に本籍を置いている孫一族の身柄が危険であり、孫策は大規模な行動がとれずにいました。

 

そこで朱治は、自ら迎えの者をやって孫一門を鄭重に保護します。当然、劉繇勢力の一派である呉郡太守・許貢(キョコウ)が妨害に入りますが、朱治はこれを戦ってそのまま撃退。

 

ちょっと前に自分が呉郡の都尉の位を貰っていたのもあって役所を占拠し、そのまま許貢の逃亡で空席となった呉郡太守の職務にあたるようになったのでした。

 

 

かくして不安要素が無くなった孫策は、軍をまとめて劉繇の軍勢を攻撃。破竹の勢いで劉繇を破り、その後も周辺の敵対勢力を一掃して江東一帯を制覇することができたのです。

 

 

 

 

孫権配下の呉郡太守

 

 

 

さて、朱治と言えば、なかなかに人を推挙して何かしらの官職などにつけることの多い人物でした。孫策亡き後に呉の君主にまで成り上がった孫権(ソンケン)も、また15歳の時に朱治の推挙で官吏となっており、彼にとって朱治は頭の上がらない存在だったようです。

 

 

孫策が急逝した時も、朱治は張昭(チョウショウ)らと共に中心人物として孫堅を支え、建安7年(202)にはついに正式に呉郡太守に就任。扶義将軍(フギショウグン)としての将軍位と朱治自身の領地も与えられ、朱治領となった土地には代官が置かれるほどの厚遇を受けたのです。

 

 

その後朱治は史書の表舞台にほとんど姿を現すことは無くなりますが、孫権を裏から支える影の番人として常に彼を助け続け、また黄巾党や不服従民によって領内が荒らされるとたびたびそれらも掃討。不安定な地盤を史書に載らない裏方で常に支え続けてきたのです。

 

そんな功績もあって、孫権が呉王となった黄武元年(222)には毗陵侯(ヒリョウコウ)として県丸々を領地に拝領。しかし呉郡太守の任を外されることはなく、そのまま留任。翌年には安国将軍(アンゴクショウグン)にまで昇進し、高い身分を示す金印とそれにつける飾り紐を受け取りました。

 

 

しかし最晩年、朱治は長年勤めてきた呉から離れ、異民族鎮圧という名目で故郷の故鄣(コショウ)県に移動。これは郷愁の念に駆られた朱治の立候補によるもので、あくまで呉郡太守の仕事との兼任という形での任務でした。

 

里帰りを果たした朱治は、押し寄せてきた親族や旧友らと共に宴会を開き、任務の合間という限られた時間ではあるものの、生まれ育った故郷を満喫。1年余りの大罪の末に、再び任地の呉郡に戻っていったのです。

 

 

朱治が亡くなったのは、それからしばらく後。黄武3年(224)、呉郡太守をつとめること31年が過ぎた、69歳のことでした。

 

 

 

 

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驕らぬ人物像

 

 

 

このように、朱治は孫権からしてもまったく頭の上がらない立場にいる非常に大身な人物でした。

 

孫権からの歓待の有り様たるや、彼が呉王になってからも朱治には自ら挨拶をして共に拝礼。酒の席でも特別な土産でもてなす特待で、お付きの役人の立場にある人物までもが謁見が許され、呉郡からの献上品には明らかに過剰な返礼がされるほどでした。

 

 

しかし朱治本人はそんな待遇には一切驕らず、あくまで生活は質素。儀礼や政治上どうしても着飾らなければならないとき以外は高貴な道具や装飾品は一切使罠かったとされています。

 

 

そんな朱治は、陳寿によって以下のように評されています。

 

古くからの臣下として信任を受けた。

 

これは呂範(リョハン)と一緒くたにされている評ですが、実際に古参の重鎮として多大な権力、そしてそれに驕らない姿勢を持っていた事は確かです。

 

 

また、孫権の弟である孫翊(ソンヨク)の粗暴な性格を諫める記述もあり、孫一門にはなくてはならない存在だったのです。

 

 

 

 

独自軍閥?

 

 

 

と、このように尊敬されて然るべき人物であった朱治ですが、個人的にどうにも気になる一面が存在します。それが、三国志本文における以下の言葉。

 

 

孫権はお目付け役を派遣して直接彼らに処理させており、朱治が租税を処理していたのは4つの県だけだった。

 

しかし呉皇族や呉軍屈指の名家たちがこぞって彼の役所に出仕することになったため、常に呉郡の役所にいるのは数千人、孫権への数年に一度の挨拶も数百人が向かう事になったのである。

 

 

……これは、もしかすると孫権と朱治の水面下の対立?

 

また諸葛瑾(ショカツキン)伝には「孫権は朱治のことを内心腹立たしく思っており、しかし過失も何もないので内心に溜め込んでいた」とあります。もっとも、史書にある人の内面なんざアテになりませんが、諸葛瑾がわざわざ孫権の怒りを解きほぐすのに動いている以上、どうにもキナ臭い。

 

また呉国内では地元名士と君主、外様名士の争いは特にひどく、後々には二宮の変なる事件を筆頭に、次々と問題を引き起こすに至っています。

 

 

この辺から考えるに、もしかしたら朱治と孫権の間には何かしらの確執があり、後々の事件は朱治筆頭の確執から延長線上にある可能性も……?

 

 

まあこの辺りは完全な憶測ですが、数千人の役人という行き過ぎた地元名家ゴリ押しや、孫権による呉郡統治への過度な介入、そして孫一門のネックとして最後まで尾を引いた君主影響力、さらには孫権の暴走や名士間の派閥争い……

 

どうにも、この辺がつながりそうな気がしてなりません。

 

 

 

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