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【虞翻伝2】あまりに強烈すぎるのでドロップアウトしました

 

 

 

 

 

敵を作る性格ゆえに……

 

 

さて、このように占術や医術にも優れた虞翻ですが……見事に呉が大勝した後に、その性格の欠点が史書にて露呈してしまいます。

 

 

というのも、関羽が捕らえた魏の将軍・于禁(ウキン)の扱いがとんでもないことになっていますね。

 

孫権が于禁を客人として招き入れ、自分から馬を並べて歩こうとした際には、虞翻は大激怒。孫権から特待を受けた于禁に対して「降伏者ごときが我が主と轡を並べるのか!」と鞭で打とうとしたり、孫権が宴の場で于禁のために魏の曲を流してやったことで于禁が泣き始めると「ウソ泣きで許してもらおうとは図々しい奴め!」と罵ったり……。

 

 

また糜芳に対してもやたらと突っかかっていたようです。というのも、ある時糜芳の船と遭遇した時の事。

 

虞翻は将軍より身分が低かったため、通りかかった糜芳軍の兵士は「将軍のお通りだ。道を開けろ」と告げられると……虞翻はたちまち「忠義も守れぬ裏切り者が将軍などと名乗るな!」と一喝し、逆に糜芳が遠慮して道を開けてしまいました。

 

さらにはたまたま通りかかった糜芳軍の門が締まって立ち往生する羽目になったときも、「閉めるべき時に開けて開けるべき時に閉めておくとはどういう了見だ!」と怒鳴り散らしたとあり……まあ、気に入らない相手には容赦がない人物だったようですね。

 

 

 

それでもまあ功臣だからとしばらくは放置されていた虞翻でしたが……とうとう完全に干される時がやってきます。

 

 

孫権が張昭(チョウショウ)と議論をしていたある日のこと。2人の議論はどこかで脱線したのかもともとそういう手合の話だったのか、神仙の存在についてというものに変わっていきました。

 

さて、そんな話に耐え切れなかった「神仙などいない」派の虞翻は、会議の無意味さに腹を立てたかはたまたそんなものを信じる2人を愚かに思ったのか、突如立ち上がっては張昭を指し、とうとう爆弾発言をぶちかましてしまったのです。

 

 

「あいつらは死んだ人間だ! そんな架空の連中の存在をいい歳こいてペラペラ語りおって!」

 

 

……これが樊城の戦いの後と仮定して、だいたい60前後、下手すると半ばの人物の発言がこれです。

 

虞翻は割と問題発言ばかりの人物で孫権も日頃から彼にはイラついており、溜まっていた鬱憤ががこの発言でついに決壊した様子。議題をぶち壊した虞翻は今度こそ遠方の交州(コウシュウ)に左遷となり、生涯そこから出ることがなかったのです。

 

とはいえ、完全に政治への道が断たれた後も意外と文芸活動に精力的だったようで、『老子』、『論語』、『国語』に注釈を加えては世に出し、また学問教育に関しても門下生を常に数百人抱える大所帯で裏方活動をつづけたそうな。

 

 

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口からミサイル野郎

 

 

 

意味不明な見出しをつけましたが……おおよそ虞翻の性格を表すならばそれくらいのボンバーな方が似合う感じがしますね。というのも、上記の通り虞翻の舌鋒はとにかく相手を真っ黒焦げになるまで爆破。周囲一帯を絨毯爆撃して焼け野原にするのに等しい威力を持っていました。

 

そんな虞翻を、陳寿は以下のように記しています。

 

 

虞翻はいわゆる狂直(極端に思った事や正しいと感じた事を他人に押し付けようとする狂人)だったので、禍を受けるのはまず間違いなかっただろう。

 

しかし、彼を十分に受け入れることができなかった孫権の度量にも非があったのではないだろうか。

 

 

つまり、孫権の度量にも虞翻左遷の一端があるとしながらも、基本的に虞翻のヤバいレベルまでの我の強さが災いを招いたとしています。

 

また、日頃の性格や態度においても他人の気持ちを一切無視したようなド正論を吐きまくっていたようで、特に酒の席ではその舌鋒は余計凶器と化していたようですね。

 

 

何というか、他人の欠点を徹底的にあげつらって糾弾するのが、良くも悪くも天才レベルで上手かった人物ですね。組織運営には必要なのですが、今の日本企業に社内政治バリバリのギスギス具合を引っ付けたような呉という組織ではあまりに危険な立ち位置の人物だったと言えるでしょう。

 

 

で、もう一つの問題が、虞翻本人の忠義。王朗には心配されるまで付き従い、曹操に「うちに来いよ」と誘われても断り、于禁、糜芳という悪く言えば裏切り者を狂気的なまでに徹底糾弾し……この辺を見ていると、虞翻が何かしらに対して厚い忠誠を持っている人物にも見えてきます。

 

それは果たして漢王朝か、はたまた会稽という地元か、はたまた亡き孫策か。後述の逸話からして、呉という国への忠誠ではないように思えますが……?

 

 

 

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呉成立の宴でのやらかし

 

 

 

一応ここまでを見てみれば、虞翻は呉という国へ一定以上の忠誠心を持っているように思えます。

 

が、果たして本当に虞翻の忠誠心は呉に向いていたのかというと……孫権の呉王就任への宴の話を見るに、いよいよもってその辺りがわからなくなってきますね。

 

 

この宴は、言ってしまえば建国記念の大宴会。言うまでもなく、国を挙げて行われる一大イベントです。同時にこれまで続いた漢王朝、そしてそれを受け継いだ魏からの離脱という裏の意味も含んでおり、言ってしまえばすでに滅んだ漢や便宜上呉が臣従している魏への忠誠心を捨てられるかどうかを試す意味もあったことが想像できます。

 

で、宴もたけなわ、呉王となった孫権自身が家臣に手酌して回っているときに、虞翻は不服と取られても仕方のない事をしでかします。

 

 

なんと、酔いつぶれたふりをして孫権の手酌を拒否。そして孫権があきらめて立ち去ると、ケロッとした顔で起き上がってまた仲間と飲み始めたのです。

 

要は、「お前の酌する酒なんぞ飲むものか」、ひいては「呉王就任反対」と。やったことの表面だけを見れば、嫌いな上司の手酌をスルーする程度の可愛いものですが、裏の意味まで考えると国家反逆罪レベルの大事件ですね。

 

もっとも、虞翻がその辺の意味合いもバックレという行為に込めたかどうかは謎ですが……孫権はこれに対して大激怒。その場で剣を手に取り、虞翻を斬り捨てようとしました。

 

 

周囲は騒然となり、孫権の側近である劉基(リュウキ)は慌てて孫権を羽交い絞めにして動きを止め、「虞翻のやったことは論外ですが、名声ある彼を斬れば一大事になります!」と思いとどまるよう諫言するほどの騒ぎに。

 

孫権は「曹操だって孔融を殺したぞ! あれと同じだ!」と一見意味不明な反論をしますが、劉基の「それによって曹操は各所から批難を受けました。曹操ごときとご自身の身を比べてはなりません」と続けたため、ようやく孫権の怒りは収まったのです。

 

 

その後、孫権は反省して「酒の入った自分が人を殺すと言っても、絶対に信用しないように」というお触れを出したのですが……ここで気になるのが、孫権の「曹操だって孔融を殺した」という意味不明な屁理屈ともとれる言葉。

 

虞翻は曹操から帝の勅命を通じて爵位を受けていますし、中央エリートの孔融ともかかわりを持っていました。おそらくはその辺りを孫権が引き合いに出したのではと思われますが……もしかして中央とのパイプを自慢していた?

 

 

現代でも東京に在住している地方出身者で、なぜかそれを必要以上に誇る人物も何人かいますが……案外虞翻もそんな感じで、朝廷の中枢部とのパイプができたことを誇りに思い、孫権の呉王就任=中央からの離脱によって、そんな肩書きが振り出しに戻るのが嫌だったのかもしれませんね。

 

 

まあ虞翻が見ている先がどこなのかはわかりませんが……昔からプライドが高かったともありますし、どこか都会にあこがれる地方住民みたいなところがあったのかもしれませんね。主に嫌な意味で。

 

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