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【虞翻伝1】正直者の辛口官僚

 

 

 

 

 

辛口役人の忠義

 

 

『呉書』によると、若い頃から虞翻はプライドが高く、高潔な生き方と学問漬けの生活を送っていたようですね。そして12歳の時からその皮肉の切れは絶好調。兄に面会に来た客人が自分のことを歯牙にもかけなかったことを根に持ち、後に以下のような内容の手紙を書いたとされています。

 

「琥珀は腐りきった塵芥を受け付けず、磁石は曲がった針を受け付けないとか。なるほど、あなたが私と会おうとしなかったのも道理ですな」

 

 

……なんというか、将来有望。

 

実際にこの手紙を受け取った客人は虞翻の予想外のセンスに驚き、この悪趣味な手紙によって、虞翻は一躍時の人へと上り詰めていくのでした。

 

 

さて、そんな虞翻ですが……成人してしばらく、地元の会稽(カイケイ)に新太守として王朗(オウロウ)なる人物が訪れると、彼のお付きの役人として人事を中心に仕事を取り仕切るようになりました。

 

が、建安元年(196)、突如として江東に一大勢力を設けた孫策(ソンサク)により、王朗らの会稽も危機に陥ります。

 

孫策の勢いは圧倒的で、当人の軍事的センスも周辺の有象無象とは桁違い。それを知った虞翻は喪中にもかかわらず喪服のまま役所へ向かい、王朗との面会を要求します。

 

王朗は「喪服で政庁に入れない」というルールがあったため外に出て虞翻に会おうとしましたが、なんと虞翻はそれでは遅いと自ら喪服を脱ぎ捨て、「孫策と戦ってはなりません」と強弁したのでした。

 

 

結局王朗は太守の責任を投げ捨てることができず孫策と決戦、そして敗北してしまいましたが……虞翻は船で海に出た王朗を追いかけ、これを護衛。なんとか別の役所にたどり着き、門を閉じて保護を拒否する長官に対して自ら説得に出向くことで、ようやく王朗の身の安全を確保することができたのです。

 

が、ここまで虞翻に守られた王朗には、ひとつだけ気がかりなことがありました。それが、虞翻の年老いた母親の事。

 

 

「君には母がいるだろう。いつまでもここにいるべきではない」

 

 

ひとつの決意をした主から虞翻が切り出されたのは、主従関係の解消、つまり別れでした。この時虞翻が何を思ったのかは定かではありませんが……結局は主君・王朗の勧めに従って会稽に帰郷。その地を占拠した孫策によって召し出され、以後彼の元で働くことになったのです。

 

 

 

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正直な辛口ご意見番

 

 

 

さて、こうして故郷に戻って孫策に主を変えた虞翻でしたが、やはり辛口の皮肉屋という自らのスタンスは崩さず、すっかりご意見番としての地位が定着します。

 

 

例えば孫策がしょっちゅう一人で狩りに出かけているところを見ると、「まああなたは高祖・劉邦ほどではないけど、それでも慕われてみんな心配してるのは事実だから軽々しく行動しないでください」とバッサリ。

 

もっとも、孫策は「言いたいことは重々わかってるが、座ってるだけだと気持ちが鬱屈としてくる。やっぱ野原で動きながら考えるのが一番だよね!」と微妙に反省する気がない様子でしたが……。

 

 

また『江表伝』には、豫章(ヨショウ)の地に立ち寄った際に反孫策の名士のひとりである華歆(カキン)を説得して投降させましたが、その後にも孫策とちょっとしたやり取りをしていることが書かれています。

 

というのも、孫策が「中央の重役は江東の名士をナメている。どうか中央へ行って論破してきてくれ」と虞翻に依頼するも、「家臣は宝。もし宝を他人に見せたところ返してくれない事態になった場合、誰があなたを支えるのですか」と反論していますね。

 

 

後に虞翻は中央を離れ、孫策の本貫地である富春(フシュン)県の長となりましたが……建安5年(200)、孫策死すとの訃報が虞翻に届けられました。

 

この突然の報告に領内は騒然。皆すぐにでも葬儀に駆けつけようとしたのですが、虞翻は「下手に行動すればそれこそ命取りになる」として、任地を動かずその場で喪に服し追悼を行います。虞翻のこの動きは他の郡県でもこれにならうという流れが作られ、間接的に虞翻は領内の動乱を最低限に抑えることに成功したのです。

 

 

 

 

 

虞翻、干される

 

 

 

さて、孫策の死後、その役職は弟の孫権(ソンケン)が継ぐことになりましたが、その領内では未だ動乱が続いていました。

 

『呉書』によると、孫策の従弟である孫暠(ソンコウ)なる人物が群雄として立ち上がるべく混乱中の土地を自らの領地にしようと動きましたが、虞翻が街をしっかりと防衛したうえで孫暠を説得、思いとどまらせたとあります。

 

また、この時から曹操(ソウソウ)による孫権旧臣やその客人の引き抜き工作が盛んになり、虞翻も目をつけられてさまざまな役職を与えられましたが、結局虞翻が中央に出仕することがなかったのです。

 

とはいえ、彼ほどの有名人ともなれば、やはり中央とのパイプも太い物を持っていた様子。曹操の傘下にいた孔融(コウユウ)に手紙を送り、自分が注釈を施した『易経』を送ってその感想をもらう等けっこう濃い関係を持っていたようですね。

 

 

まそんな大物であることもあって、虞翻は孫権により騎都尉(キトイ:首都近郊の警備隊長)に選ばれたものの、やはり口の酸っぱさは相変わらず。そして孫権には孫策のような鷹揚さと忠言などどこ吹く風な様子のない人物だったため、虞翻のボロカスな舌鋒に次第にストレスをため込んでいきました。

 

また、虞翻自身も協調性無しの個人主義者。そんな人物が様々な自己利益や陰謀を含んだ協調社会でやっていけるはずもなく、結局批難を集中的に受けて田舎へと強制移住させられてしまったのでした。

 

 

 

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関羽討伐

 

 

 

こうして不遇をかこっていた虞翻でしたが、建安24年(219)に孫権と関羽(カンウ)の間でいよいよ衝突間近になると、突如としてスポットライトが当たりました。

 

関羽討伐の大将を任された呂蒙(リョモウ)はいったん任地を外れ、計略のために本拠地まで戻ってきたのですが……なんと「医療にも詳しい」という理由があるため、病気がちの呂蒙に付き人として選ばれたのです。

 

 

これには呂蒙が虞翻の復帰を取り計おうとしたからというのもあったようですが……とにかく、作戦開始と共に虞翻も関羽討伐軍に従軍。関羽に不満がある士仁(シジン)を寝返らせ、それに便乗した糜芳(ビホウ)が降ったこともあって、完全に関羽の背後を突き崩すことに成功しました。

 

ただし、糜芳に関しては「二心が無いのは間違いないですが、その配下まで信用できるとは思えません」と進言し、糜芳配下による奇襲を未然に防いでます。

 

これによって、勢い盛んだった関羽もついに敗走。虞翻は占いによって「関羽は2日以内につかまるでしょう」と予言し、本当にその通りになったとされていますね。

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