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虞翻 仲翔

 

 

生没年:延熹7年(164)~嘉禾2年(233)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州会稽郡余姚県

 

 

 

 

虞翻(グホン)、字は仲翔(チュウショウ)。いつの時代のどこでもそうですが……特に呉では極端な迎合や、あるいは逆に自分にあまりに正直すぎる人物は大きな力によって消されてしまう末路を辿ります。

 

虞翻も、言ってしまえばそんな人物の例に漏れない結末を迎えた人物の一人。彼は昔から辛口の皮肉屋でその弁才、文才を野心でもなく率直な意見表明のために使った結果…………という感じですね。

 

 

 

 

 

 

 

敵を作る性格ゆえに……

 

 

さて、このように占術や医術にも優れた虞翻ですが……見事に呉が大勝した後に、その性格の欠点が史書にて露呈してしまいます。

 

 

というのも、関羽が捕らえた魏の将軍・于禁(ウキン)の扱いがとんでもないことになっていますね。

 

孫権が于禁を客人として招き入れ、自分から馬を並べて歩こうとした際には、虞翻は大激怒。孫権から特待を受けた于禁に対して「降伏者ごときが我が主と轡を並べるのか!」と鞭で打とうとしたり、孫権が宴の場で于禁のために魏の曲を流してやったことで于禁が泣き始めると「ウソ泣きで許してもらおうとは図々しい奴め!」と罵ったり……。

 

 

また糜芳に対してもやたらと突っかかっていたようです。というのも、ある時糜芳の船と遭遇した時の事。

 

虞翻は将軍より身分が低かったため、通りかかった糜芳軍の兵士は「将軍のお通りだ。道を開けろ」と告げられると……虞翻はたちまち「忠義も守れぬ裏切り者が将軍などと名乗るな!」と一喝し、逆に糜芳が遠慮して道を開けてしまいました。

 

さらにはたまたま通りかかった糜芳軍の門が締まって立ち往生する羽目になったときも、「閉めるべき時に開けて開けるべき時に閉めておくとはどういう了見だ!」と怒鳴り散らしたとあり……まあ、気に入らない相手には容赦がない人物だったようですね。

 

 

 

それでもまあ功臣だからとしばらくは放置されていた虞翻でしたが……とうとう完全に干される時がやってきます。

 

 

孫権が張昭(チョウショウ)と議論をしていたある日のこと。2人の議論はどこかで脱線したのかもともとそういう手合の話だったのか、神仙の存在についてというものに変わっていきました。

 

さて、そんな話に耐え切れなかった「神仙などいない」派の虞翻は、会議の無意味さに腹を立てたかはたまたそんなものを信じる2人を愚かに思ったのか、突如立ち上がっては張昭を指し、とうとう爆弾発言をぶちかましてしまったのです。

 

 

「あいつらは死んだ人間だ! そんな架空の連中の存在をいい歳こいてペラペラ語りおって!」

 

 

……これが樊城の戦いの後と仮定して、だいたい60前後、下手すると半ばの人物の発言がこれです。

 

虞翻は割と問題発言ばかりの人物で孫権も日頃から彼にはイラついており、溜まっていた鬱憤ががこの発言でついに決壊した様子。議題をぶち壊した虞翻は今度こそ遠方の交州(コウシュウ)に左遷となり、生涯そこから出ることがなかったのです。

 

とはいえ、完全に政治への道が断たれた後も意外と文芸活動に精力的だったようで、『老子』、『論語』、『国語』に注釈を加えては世に出し、また学問教育に関しても門下生を常に数百人抱える大所帯で裏方活動をつづけたそうな。

 

 

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口からミサイル野郎

 

 

 

意味不明な見出しをつけましたが……おおよそ虞翻の性格を表すならばそれくらいのボンバーな方が似合う感じがしますね。というのも、上記の通り虞翻の舌鋒はとにかく相手を真っ黒焦げになるまで爆破。周囲一帯を絨毯爆撃して焼け野原にするのに等しい威力を持っていました。

 

そんな虞翻を、陳寿は以下のように記しています。

 

 

虞翻はいわゆる狂直(極端に思った事や正しいと感じた事を他人に押し付けようとする狂人)だったので、禍を受けるのはまず間違いなかっただろう。

 

しかし、彼を十分に受け入れることができなかった孫権の度量にも非があったのではないだろうか。

 

 

つまり、孫権の度量にも虞翻左遷の一端があるとしながらも、基本的に虞翻のヤバいレベルまでの我の強さが災いを招いたとしています。

 

また、日頃の性格や態度においても他人の気持ちを一切無視したようなド正論を吐きまくっていたようで、特に酒の席ではその舌鋒は余計凶器と化していたようですね。

 

 

何というか、他人の欠点を徹底的にあげつらって糾弾するのが、良くも悪くも天才レベルで上手かった人物ですね。組織運営には必要なのですが、今の日本企業に社内政治バリバリのギスギス具合を引っ付けたような呉という組織ではあまりに危険な立ち位置の人物だったと言えるでしょう。

 

 

で、もう一つの問題が、虞翻本人の忠義。王朗には心配されるまで付き従い、曹操に「うちに来いよ」と誘われても断り、于禁、糜芳という悪く言えば裏切り者を狂気的なまでに徹底糾弾し……この辺を見ていると、虞翻が何かしらに対して厚い忠誠を持っている人物にも見えてきます。

 

それは果たして漢王朝か、はたまた会稽という地元か、はたまた亡き孫策か。後述の逸話からして、呉という国への忠誠ではないように思えますが……?

 

 

 

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呉成立の宴でのやらかし

 

 

 

一応ここまでを見てみれば、虞翻は呉という国へ一定以上の忠誠心を持っているように思えます。

 

が、果たして本当に虞翻の忠誠心は呉に向いていたのかというと……孫権の呉王就任への宴の話を見るに、いよいよもってその辺りがわからなくなってきますね。

 

 

この宴は、言ってしまえば建国記念の大宴会。言うまでもなく、国を挙げて行われる一大イベントです。同時にこれまで続いた漢王朝、そしてそれを受け継いだ魏からの離脱という裏の意味も含んでおり、言ってしまえばすでに滅んだ漢や便宜上呉が臣従している魏への忠誠心を捨てられるかどうかを試す意味もあったことが想像できます。

 

で、宴もたけなわ、呉王となった孫権自身が家臣に手酌して回っているときに、虞翻は不服と取られても仕方のない事をしでかします。

 

 

なんと、酔いつぶれたふりをして孫権の手酌を拒否。そして孫権があきらめて立ち去ると、ケロッとした顔で起き上がってまた仲間と飲み始めたのです。

 

要は、「お前の酌する酒なんぞ飲むものか」、ひいては「呉王就任反対」と。やったことの表面だけを見れば、嫌いな上司の手酌をスルーする程度の可愛いものですが、裏の意味まで考えると国家反逆罪レベルの大事件ですね。

 

もっとも、虞翻がその辺の意味合いもバックレという行為に込めたかどうかは謎ですが……孫権はこれに対して大激怒。その場で剣を手に取り、虞翻を斬り捨てようとしました。

 

 

周囲は騒然となり、孫権の側近である劉基(リュウキ)は慌てて孫権を羽交い絞めにして動きを止め、「虞翻のやったことは論外ですが、名声ある彼を斬れば一大事になります!」と思いとどまるよう諫言するほどの騒ぎに。

 

孫権は「曹操だって孔融を殺したぞ! あれと同じだ!」と一見意味不明な反論をしますが、劉基の「それによって曹操は各所から批難を受けました。曹操ごときとご自身の身を比べてはなりません」と続けたため、ようやく孫権の怒りは収まったのです。

 

 

その後、孫権は反省して「酒の入った自分が人を殺すと言っても、絶対に信用しないように」というお触れを出したのですが……ここで気になるのが、孫権の「曹操だって孔融を殺した」という意味不明な屁理屈ともとれる言葉。

 

虞翻は曹操から帝の勅命を通じて爵位を受けていますし、中央エリートの孔融ともかかわりを持っていました。おそらくはその辺りを孫権が引き合いに出したのではと思われますが……もしかして中央とのパイプを自慢していた?

 

 

現代でも東京に在住している地方出身者で、なぜかそれを必要以上に誇る人物も何人かいますが……案外虞翻もそんな感じで、朝廷の中枢部とのパイプができたことを誇りに思い、孫権の呉王就任=中央からの離脱によって、そんな肩書きが振り出しに戻るのが嫌だったのかもしれませんね。

 

 

まあ虞翻が見ている先がどこなのかはわかりませんが……昔からプライドが高かったともありますし、どこか都会にあこがれる地方住民みたいなところがあったのかもしれませんね。主に嫌な意味で。

 

続きを読む≫ 2018/12/27 15:37:27

 

 

 

 

 

辛口役人の忠義

 

 

『呉書』によると、若い頃から虞翻はプライドが高く、高潔な生き方と学問漬けの生活を送っていたようですね。そして12歳の時からその皮肉の切れは絶好調。兄に面会に来た客人が自分のことを歯牙にもかけなかったことを根に持ち、後に以下のような内容の手紙を書いたとされています。

 

「琥珀は腐りきった塵芥を受け付けず、磁石は曲がった針を受け付けないとか。なるほど、あなたが私と会おうとしなかったのも道理ですな」

 

 

……なんというか、将来有望。

 

実際にこの手紙を受け取った客人は虞翻の予想外のセンスに驚き、この悪趣味な手紙によって、虞翻は一躍時の人へと上り詰めていくのでした。

 

 

さて、そんな虞翻ですが……成人してしばらく、地元の会稽(カイケイ)に新太守として王朗(オウロウ)なる人物が訪れると、彼のお付きの役人として人事を中心に仕事を取り仕切るようになりました。

 

が、建安元年(196)、突如として江東に一大勢力を設けた孫策(ソンサク)により、王朗らの会稽も危機に陥ります。

 

孫策の勢いは圧倒的で、当人の軍事的センスも周辺の有象無象とは桁違い。それを知った虞翻は喪中にもかかわらず喪服のまま役所へ向かい、王朗との面会を要求します。

 

王朗は「喪服で政庁に入れない」というルールがあったため外に出て虞翻に会おうとしましたが、なんと虞翻はそれでは遅いと自ら喪服を脱ぎ捨て、「孫策と戦ってはなりません」と強弁したのでした。

 

 

結局王朗は太守の責任を投げ捨てることができず孫策と決戦、そして敗北してしまいましたが……虞翻は船で海に出た王朗を追いかけ、これを護衛。なんとか別の役所にたどり着き、門を閉じて保護を拒否する長官に対して自ら説得に出向くことで、ようやく王朗の身の安全を確保することができたのです。

 

が、ここまで虞翻に守られた王朗には、ひとつだけ気がかりなことがありました。それが、虞翻の年老いた母親の事。

 

 

「君には母がいるだろう。いつまでもここにいるべきではない」

 

 

ひとつの決意をした主から虞翻が切り出されたのは、主従関係の解消、つまり別れでした。この時虞翻が何を思ったのかは定かではありませんが……結局は主君・王朗の勧めに従って会稽に帰郷。その地を占拠した孫策によって召し出され、以後彼の元で働くことになったのです。

 

 

 

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正直な辛口ご意見番

 

 

 

さて、こうして故郷に戻って孫策に主を変えた虞翻でしたが、やはり辛口の皮肉屋という自らのスタンスは崩さず、すっかりご意見番としての地位が定着します。

 

 

例えば孫策がしょっちゅう一人で狩りに出かけているところを見ると、「まああなたは高祖・劉邦ほどではないけど、それでも慕われてみんな心配してるのは事実だから軽々しく行動しないでください」とバッサリ。

 

もっとも、孫策は「言いたいことは重々わかってるが、座ってるだけだと気持ちが鬱屈としてくる。やっぱ野原で動きながら考えるのが一番だよね!」と微妙に反省する気がない様子でしたが……。

 

 

また『江表伝』には、豫章(ヨショウ)の地に立ち寄った際に反孫策の名士のひとりである華歆(カキン)を説得して投降させましたが、その後にも孫策とちょっとしたやり取りをしていることが書かれています。

 

というのも、孫策が「中央の重役は江東の名士をナメている。どうか中央へ行って論破してきてくれ」と虞翻に依頼するも、「家臣は宝。もし宝を他人に見せたところ返してくれない事態になった場合、誰があなたを支えるのですか」と反論していますね。

 

 

後に虞翻は中央を離れ、孫策の本貫地である富春(フシュン)県の長となりましたが……建安5年(200)、孫策死すとの訃報が虞翻に届けられました。

 

この突然の報告に領内は騒然。皆すぐにでも葬儀に駆けつけようとしたのですが、虞翻は「下手に行動すればそれこそ命取りになる」として、任地を動かずその場で喪に服し追悼を行います。虞翻のこの動きは他の郡県でもこれにならうという流れが作られ、間接的に虞翻は領内の動乱を最低限に抑えることに成功したのです。

 

 

 

 

 

虞翻、干される

 

 

 

さて、孫策の死後、その役職は弟の孫権(ソンケン)が継ぐことになりましたが、その領内では未だ動乱が続いていました。

 

『呉書』によると、孫策の従弟である孫暠(ソンコウ)なる人物が群雄として立ち上がるべく混乱中の土地を自らの領地にしようと動きましたが、虞翻が街をしっかりと防衛したうえで孫暠を説得、思いとどまらせたとあります。

 

また、この時から曹操(ソウソウ)による孫権旧臣やその客人の引き抜き工作が盛んになり、虞翻も目をつけられてさまざまな役職を与えられましたが、結局虞翻が中央に出仕することがなかったのです。

 

とはいえ、彼ほどの有名人ともなれば、やはり中央とのパイプも太い物を持っていた様子。曹操の傘下にいた孔融(コウユウ)に手紙を送り、自分が注釈を施した『易経』を送ってその感想をもらう等けっこう濃い関係を持っていたようですね。

 

 

まそんな大物であることもあって、虞翻は孫権により騎都尉(キトイ:首都近郊の警備隊長)に選ばれたものの、やはり口の酸っぱさは相変わらず。そして孫権には孫策のような鷹揚さと忠言などどこ吹く風な様子のない人物だったため、虞翻のボロカスな舌鋒に次第にストレスをため込んでいきました。

 

また、虞翻自身も協調性無しの個人主義者。そんな人物が様々な自己利益や陰謀を含んだ協調社会でやっていけるはずもなく、結局批難を集中的に受けて田舎へと強制移住させられてしまったのでした。

 

 

 

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関羽討伐

 

 

 

こうして不遇をかこっていた虞翻でしたが、建安24年(219)に孫権と関羽(カンウ)の間でいよいよ衝突間近になると、突如としてスポットライトが当たりました。

 

関羽討伐の大将を任された呂蒙(リョモウ)はいったん任地を外れ、計略のために本拠地まで戻ってきたのですが……なんと「医療にも詳しい」という理由があるため、病気がちの呂蒙に付き人として選ばれたのです。

 

 

これには呂蒙が虞翻の復帰を取り計おうとしたからというのもあったようですが……とにかく、作戦開始と共に虞翻も関羽討伐軍に従軍。関羽に不満がある士仁(シジン)を寝返らせ、それに便乗した糜芳(ビホウ)が降ったこともあって、完全に関羽の背後を突き崩すことに成功しました。

 

ただし、糜芳に関しては「二心が無いのは間違いないですが、その配下まで信用できるとは思えません」と進言し、糜芳配下による奇襲を未然に防いでます。

 

これによって、勢い盛んだった関羽もついに敗走。虞翻は占いによって「関羽は2日以内につかまるでしょう」と予言し、本当にその通りになったとされていますね。

続きを読む≫ 2018/12/26 15:04:26
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