太史慈 子義


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太史慈 子義

 

 

生没年:延熹9年(166)~建安11年(206)

 

所属:呉

 

生まれ:青州東莱郡黄県

 

 

勝手に私的能力評

 

太史慈 群雄 孫策 野心家 危険人物 すぐ独立する人 神弓

統率 C 意外かもしれないが、兵を率いて活躍というのはあまり聞かない。どちらかというと個人武勇で有名になった人。
武力 S 当時屈指の武人。白兵戦や一騎討ちもさることながら、弓術においてはまさに神弓。結構人間やめている。
知力 B 地元官吏をしていた時には、結構こすっからい謀略を使っている。他にも包囲突破や劉繇を裏切る形での独立など、短期スパンでの考え方はなかなか抜け目がなかった。
政治 D 一応は官吏出身だが、政治に関する功績はあまり聞かない。
人望 C 武略において有名人になったが、当時から警戒する人も多かった。夢はでっかく、皇帝陛下! どう見ても危険人物です。

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太史慈(タイシジ)、字は子義(シギ)。呉に仕えた勇将としてメディアでも多く取り上げられている人物ですね。

 

そのため、すっかり信義に厚い呉の将軍として地位が定着してしまっていますが……実は正史三国志では群雄扱いされているという稀有な人物ですね。

 

 

一応孫策がその地位を引き取ったという事になっている劉繇(リュウヨウ)の次に伝が立てられており、形の上では「劉繇と共に孫呉の礎として、その勢力を役立ててくれた」という、踏み台ないし協力者としての扱いになっています。

 

 

 

 

 

 

 

評価・人物

 

 

 

正史三国志によると、太史慈は七尺七寸(177cmほど)の偉丈夫で、立派な髭を生やすなど容姿に恵まれていたようです。

 

それと同時に弓術の腕も当時では最高峰のもので、こちらも大いに賞賛されています。

 

 

そんな太史慈を陳寿は以下のように評しています。

 

 

信義を守ることに一身をかけ、いにしえの人々にかわらぬ操行を持した。

 

 

つまり、正史三国志をして「信義の人である」という太鼓判を押されており、大変義理堅い人物であったことが伺えますね。

 

当然、それらは彼自身の逸話や軌跡から察することができますが……どうにも、この人の場合純粋な信義だけの単純な人物ではありません。

 

 

 

というのも、太史慈は信義と共に大きな野心を持っており、良くも悪くも自身の気持ちに忠実な人物だったのではないかと。

 

 

孫策の元に降ってからは大人しくなっていますが、それまでの太史慈の動きは野心高い壮士そのもの。相手への義理は尽くす一方で自身の野望を成し遂げるためのルートを常に計算し、機会を虎視眈々と待つ姿は一介の群雄に劣る物ではありません。

 

 

この辺は昨今の三国志マニアたちにも言及されており、必ずしも「信義の人」という単純な評価で収まらないから面白い人物です。

 

というか、太史慈はヤバい人であってくれた方がこっちとしても想像がはかどって楽しい

 

 

 

さて、そんな太史慈の特徴と言えば弓と野心。

 

正直活躍時期があまりに短すぎたため、他にこれといった部分が無いのが正直なところですが……それでも、この2つの特徴を表す逸話はなかなか濃いものがそろっています。

 

 

 

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神弓の太史慈

 

 

 

孔融を助ける際、弓の訓練をネタに策を仕込んだことから、太史慈は弓の名手という印象が強いです。

 

当然これは正史三国志でも言及されており、「矢を射れば百発百中」とその実力は手放しに賞賛されています。

 

 

 

太史慈が孫策に降って後、彼と共に賊軍の討伐に赴いたときの話です。賊軍の一人が砦内にある櫓の上に上り、散々に口汚く罵って孫策らを挑発してきました。

 

 

敵は砦内の安全地帯におり、とても弓で狙うなど普通ならば不可能な距離があったのですが……なんと太史慈はそのまま矢をつがえ、わめき続ける賊に向けて発射。

 

この時敵は梁に手をかけていたのですが、太史慈の放った矢は彼の手に命中。そのまま撃ち抜いて、敵の手を櫓の梁に縫い付けてしまったのです。

 

 

これには包囲していた味方からも大絶賛。太史慈の行動は敵味方の士気を大きく左右したことでしょう。

 

 

これだけでなく長柄を使っても孫策と互角、さらには暗器である手戟にも長けていたわけですから、太史慈の武勇はまさしく規格外だったのでしょう。

 

 

 

 

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野心家・太史慈の最期

 

 

 

役人同士の上訴合戦では上奏文を破り捨てるという大チョンボで勝利し、母親の無茶ぶりにも乗り気で応えた太史慈。

 

しかし、その行動をかいつまんでみると、つまりは自分を認めた孔融、そして半信半疑だった劉繇を見限って独立、負けてようやく孫策の元に落ち着いたというなかなかクレイジーな経歴の持ち主です。

 

 

孔融は後に曹操に処刑され劉繇は落日の中で病死と、どちらも群雄としては残念な末路を迎えており、もしかしたら太史慈は彼らの将器を見極めたうえで「俺の力を使いこなせる代物ではない」と切って捨てたのかもしれません。

 

 

良禽は木を択ぶなどとも言いますが……太史慈も己の野心を胸に、並大抵の人に仕えることを嫌ったのかもしれませんね。

 

 

勇名をとどろかせながらも前半生は君主に恵まれず、孫策の元では活躍を見せる前に亡くなってしまった太史慈ですが……その最期に際して、『呉書』ではとんでもないことを口走って息絶えています。

 

 

「大丈夫と生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登るべきものを、大志成し遂げずして俺は死ぬのか……」

 

 

今風に言い直すと、「男に生まれたからにはでっかく頂点(帝)を目指すべきだというのに、それを道半ばで……!」といったニュアンスでしょうか。

 

つまり、孫策という無二の君主でさえも一時的な共闘関係。後々は再び乱世に名乗りを上げて天下の覇権を争う気満々だった……とも思われる一言。

 

 

実際に負けはしたものの、一度は空白地帯を糾合し孫策と揚州の覇権をめぐって争った人物。そんな彼の胸中には、常に野心の炎が渦巻いていたのかもしれませんね。

 

ちなみにこんな危険な事を言っちゃう人物と知っているはずなのに、孫権は彼の死を悼んでいたと伝えられています。

 

 

群雄太史慈、旗を掲げ乱世に名を上げる……。

 

 

恐らくそのあおりを受けるであろう孫権にとってはたまったものではありませんが、生き長らえて孫家への義理を果たした太史慈がいったいどう動くのか……一度見てみたい気がします。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/06/16 11:40:16

 

 

 

 

江東の地へ

 

 

 

さて、はるか南へと下り、長江を渡った太史慈は、今度はある人物を頼ることにしました。江東の地で揚州刺史(ヨウシュウシシ:揚州の長官)の仕事についた劉繇(リュウヨウ)です。

 

劉繇は実は太史慈と同郷の出身者であり、当時の同郷は血縁と同義と言えるほど強い結びつき。そのため、同郷として一度挨拶しておくと後々につながるのではと踏んだのです。

 

 

こうして主要都市である曲阿(キョクア)にて劉繇と面会した太史慈ですが、彼がその地を発たないうちに、揚州に激震が走ったのです。

 

 

――孫策(ソンサク)襲来。

 

 

態勢は盤石ではないとはいえ兵力差は有利なはずでしたが、この風雲児の将としての器は規格外。真正の化け物相手に、劉繇軍は劣勢に立たされ苦戦していたのです。

 

そこで劉繇軍中では、「武名高い太史慈を総大将に迎え撃たせてはどうか」という声が上がりました。

 

しかし、劉繇はこれを渋ります。

 

というのも、当時の太史慈は個人武勇こそ圧倒的でも軍勢を率いた功績がこれといって存在せず、何より、上奏文の一件もあって世間の評判はあまり良いものではなかったのです。

 

 

「評判の悪い太史慈を使うと、政界を握っている許劭(キョショウ)に悪印象を与えて今後に影響を与える……。未知数の統率力に賭けて博打を打つだけの見返りはないかもしれない」

 

 

そう考えた劉繇は太史慈を任用することはせず、彼には偵察任務を与えるだけに留めたのです。

 

 

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大将との一騎打ち

 

 

 

さて、こうして1人のお供と一緒に敵情視察に発った太史慈でしたが、ここで思わぬ僥倖にありつきます。

 

なんと、敵総大将の孫策がわずか13人の供回りと共に、同じく敵情視察に向かっていたのです。おい大将何やってんだ

 

 

一応孫策の脇に控えているのは、韓当(カントウ)、黄蓋(コウガイ)、宋謙(ソウケン)ら勇壮たる猛者ばかり。しかし、これだけの少数で大将が行動するのは珍しく、まさに千載一遇のチャンスでもあったのです。

 

 

太史慈は一切の逡巡なく突き進んで大音声を上げ、そのまま孫策に向かって行ったのです。

 

また、孫策の方も自ら躍り出るようにして太史慈と打ち合い、両者はほぼ互角の激しい攻防を見せたと伝わっています。

 

 

孫策は太史慈の馬を突き殺してうなじの部分につけている手戟(シュゲキ)を奪い取り、また太史慈も孫策の兜を奪い取って見せるなどして自身の力を存分に見せつけました。

 

 

……が、両者の決着が着く前に双方の軍勢が事態を察して駆けつけたため、勝負はお預けに。

 

こうして絶好の機会を逃した劉繇軍は孫策軍によって一気に打ち破られ、そのまま再起を図るべく逃亡を余儀なくされたのです。

 

 

本当何やってんだこいつら

 

 

 

 

 

 

大志VS大志

 

 

 

劉繇の落日をこの目で見た太史慈は、途中で姿をくらまして軍を離脱。山の中で潜伏した後、取り残された敗残兵を糾合し、驚くべき行動に出たのです。

 

 

孫策が東に目を向けたのを見計らい、空白となった丹陽(タンヨウ)太守を自称。自らが江東の覇者になるべく、行動を開始したのです。

 

全体の情勢を見極め、太史慈は自身の本拠を孫策の影響力がない西側の涇(ケイ)県に設置。未統治の空白地帯を根こそぎ奪い、それらを糾合して孫策と戦う腹積もりでした。

 

 

……が、孫策の動きは早く、またたく間に東側を制圧。時間にもある程度余裕を見ての蜂起だったにもかかわらず、それを上回る快進撃に、太史慈は一気に窮地に立たされてしまいました。

 

 

それでも帰服してきた山越(サンエツ)族の兵士らを率いて太史慈は奮戦しましたが、孫策軍主力による怒涛の攻めの前に敗北、とうとう膝を屈することになってしまったのです。

 

 

死を覚悟して孫策の前に引き立てられた太史慈でしたが、そんな覚悟をよそに、孫策は縄を解くと唐突に話しかけてきたのです。

 

 

 

「さて、お前は俺と派手に一騎打ちをした仲だが……もしあそこで俺が負けて捕われていたのなら、お前は俺をどうしたと思う?」

 

 

唐突な問いに、真意を測りかねた太史慈は「皆目見当もつきません」と受け応えると、孫策は大笑い。

 

 

「だったら、お前がとったであろう行動と同じことを俺がしてやるよ!」

 

 

そう云い放った孫策は、太史慈に折衝中郎将(セッショウチュウロウショウ:ここでいう中郎将は将軍の下に当たる位)に任命。まだ将軍職すら得ていない孫策軍の配下としては異例のVIP待遇を与えることにしたのです。

 

これ以降太史慈のその派手な危険行動は鳴りを潜め、完全に孫家の忠臣という立場に収まる事となったのでした。

 

 

 

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己を知る者には信義を

 

 

 

太史慈が孫策に降ってほどなく、再起を図って力を蓄えていた劉繇が病により死去。突然の死により、劉繇に付き従っていた兵や民たちは行き場を失ってしまいました。

 

孫策はこの様子を見て、拠り所を無くした民たちの慰撫、吸収のため、最後に劉繇が拠っていた豫章(ヨショウ)に太史慈を派遣しました。

 

 

しかし、この判断は他の者たちからすると不穏分子でしかありません。当然周囲では動揺が広がり、「ついこの間まで覇権をめぐって争っていた太史慈が、野放しにされて返ってくるはずがない」と、側近たちは皆口々に唱えていたのです。

 

しかしそんな中でも孫策は、「太史慈は俺以外の奴と合力できねえよ」と至って楽観。

 

 

自身をすっかり信任してくれた孫策に対して太史慈も「60日以内に終わらせて戻ります」と告げ、孫策本人に見送られながら出向。宣言通り、60日以内に領内慰撫を終わらせて戻ってきたのでした。

 

 

『呉歴』では、この話は太史慈が降伏してすぐ、劉繇軍の敗残兵を集めて戻ってくるという話に変わっています。

 

また史書によって側近の予測も変わっており、『江表伝』では「同郷の華歆(カキン)と共に敵対する」「黄祖(コウソ)の元へ逃げる」など様々といったところ。

 

いずれにせよ、孫策が常道を突き破った起用に周囲が混乱したこと、そして太史慈はそんな孫策の意思に応えたこと。そして太史慈が元劉繇派の人材を呼び込んだことで孫策の東呉の基盤が急速に固まった事は間違いないでしょう。

 

 

 

 

 

孫呉の将軍

 

 

 

さて、こうして孫策軍で一定の地位と信頼を得た太史慈は、続けて西の劉表(リュウヒョウ)との隣接地帯を治めることになりました。

 

この土地は陸続きで孫家が得意とする水軍が活かせないこともあり、半ば相手の侵攻を許容する土地となっていました。その結果、劉表の甥である劉磐(リュウバン)が侵攻し危険にさらされており、その抑え役として抜擢されたのです。

 

 

太史慈は軍を率いて劉磐の軍勢を見事に食い止め、その後劉磐はすっかり鳴りを潜めたのです。

 

 

 

孫策が亡くなってその地位を孫権(ソンケン)が継ぐと、曹操(ソウソウ)による江東勢力の引き抜き工作が激化。太史慈もこの時曹操から当帰(トウキ)という生薬を贈られて暗に「北に戻ってこい」と誘われましたが、あっさりと拒否しています。

 

 

孫権はそんな太史慈を信任して引き続き南方諸県の抑えを任せましたが、赤壁の戦いよりも前となる建安11年(206)、41歳で死去。大きな戦に出ることなく亡くなった事が、呉将でなく群雄の枠に入れられた大きな理由なのかもしれません。

 

 

 

 

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剛の策謀家

 

 

 

武官として活躍した人物の最初期が文官だったというのも歴史ではよくありますが、太史慈もそんなイメージと異なったキャリアを踏んだ人物の一人でした。

 

彼の最初の役職は、生まれである東來(トウライ)郡の郡役人。学問好きだったともあり、おそらくそれなりに大きな家柄だったのでしょう。

 

 

 

さて、そんなある時、郡と青州の役所との間でトラブルが発生。当時は現状証拠を確保しづらいため「先に朝廷に訴えたもの勝ち」という問題も少なくなく、東來と青州の役人たちも自分たちが先に上訴しようと躍起になっていました。

 

結果は州が先に上奏文を片手に出立。東來郡は後れを取ることになってしまいました。

 

 

 

上奏合戦に敗北必至の東來郡は、慌てて使者を選別。太史慈が選ばれることになり、彼はなんとしても州役所の使者に追いつけるよう昼夜兼行で強行。ついに関所にて取次ぎの最中であった州側の使者を見つけたのです。

 

 

「上奏文はどこにあるの?」

 

 

と、追いついた太史慈は何食わぬ顔で使者に声を掛けます。すると使者は無警戒にも車の上を指差し、「そこにあるよ」と返答。

 

これをしめたと思った太史慈は「間違いがあったら大変だからね」と、確認を名目にまんまと上奏文を奪取。それをその場で破り捨ててしまったのです。

 

 

「俺の上奏文があぁぁぁぁ!!!」

 

 

使者はすべてを悟って絶叫するも時すでに遅し。重罪は免れないとあたふたする使者に対して、太史慈はこう呼びかけます。

 

 

「上奏文を俺に渡したのはお前だが、破ったのは俺だ。つまり責任は俺ら2人にある。まあ、俺も仕事は確認だけだったのにやり過ぎたからね。どうせこのままじゃ居場所もないし、逃げちまおう」

 

 

そういうと半狂乱のまま同意した使者を連れて門を発ち失踪。途方に暮れる州役人と共に逃げ出しましたが、なんと太史慈はその後役人を捨て置いてさっさと退散。一人で引き返し、そのまま郡からの上奏文を提出してしまったのです。

 

 

これによって裁判は州の過失が大きいと認められることとなり、太史慈は一躍名を上げました。

 

しかしその代償として青州の州役場からは大きく恨まれることとなり、結局雲隠れすることとなったのです。

 

 

 

 

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世話になった孔融のため

 

 

 

さて、とんでもない大チョンボを犯して遥か北の遼東(リョウトウ)の地まで雲隠れしていた太史慈ですが……実はこの行動をむしろ高く評価していた人物がいました。

 

 

北海(ホッカイ)の国相をしていた孔融(コウユウ)です。

 

かれはあの孔子の子孫でありながら変わり者が大好きという変人でしたが、太史慈の振る舞いは確かに孔融の胸を射抜いていたのでした。

 

孔融は太史慈がいない間、彼の母に挨拶や贈り物を頻繁に行い、太史慈にコナをかけることに。

 

 

そんなこんなで太史慈が遼東から戻ってきたある時……なんの偶然か、孔融は未曽有の危機に苦しめられていました。

 

黄巾賊の一団が一斉に蜂起し、孔融らを攻撃。圧倒的な数に追いつめられた孔融は、軍営の中に押しとどめられて包囲を受けてしまったのです。

 

 

母は返ってきた太史慈にそのことを伝えると、彼に向けてすさまじい事を言い放ったのです。

 

 

「孔融さまはお前との面識がないにもかかわらず、お前がいない間に大変なお世話をしてくださいました。賊に囲まれて窮地になっている今こそ、報恩の時です。さあ太史慈よ、行きなさい! 行って孔融さまをお救いするのです!」

 

 

母もとんでもない女傑だった。

 

 

かくして太史慈は、「わかったぜ母ちゃん」とばかりに3日休んだ後に即座に出立。

 

徒歩で孔融の包囲されている戦場に向かい、たった一人で夜陰に紛れて包囲網をすり抜け、孔融の元へとたどり着いたのです。

 

 

 

こうして孔融にお目通りした太史慈はさっそく「兵をお貸しください」と出撃を提言しますが、孔融からは危険だからと許可されず、仕方なく援軍を待つことに。

 

しかし何日待っても援軍は来ず、そうこうしている間にもどんどん敵軍の包囲が厳重になっていきました。

 

 

 

 

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太史慈の本領

 

 

 

 

完全に打つ手が亡くなった孔融は、当時近隣の平原(ヘイゲン)で国相をしていた劉備(リュウビ)へ救援要請を送ることを決めたのです。

 

……が、すでに包囲網は完成しており、とてもではありませんがすり抜けられる余裕はありませんでした。

 

 

こうして救援要請の使者に誰もが出ようとしない中、太史慈はその危険な役割に立候補。

 

孔融は「気持ちはありがたいが、こうも包囲されたんじゃ無理じゃないかな?」と難色を示しましたが、太史慈は儒教にならって以下のように言葉を並べたのです。

 

 

「母はあなた様に大変細やかな気遣いをしてくださって喜んでいます。その母が私をこの場へ駆り立てたのは、何かの役に立つと思っての事。現在人々は包囲を抜けるのは不可能だと言っていますが、これに私まで賛同することはできません。あなた様からの恩義と、母の意に背くことになるからです」

 

 

儒教精神の「忠」と「孝」を前面に出した説得をされては、儒教の本筋を引く孔融は首を縦に振らざるを得ません。

 

結局太史慈を使者として送り出すことに決定したのです。

 

 

 

とはいえ、そのまま無策に出ても無駄死にするのは確実。太史慈の胸中には、相手の隙を突く策があったのです。

 

 

次の日、太史慈はすぐに門を開けて的を抱えた騎兵2人と共に陣の外へ飛び出しました。

 

敵はこれに対して「何事か」と身構えますが、太史慈は敵人に突っ込むことはせず、安全な場所に的を置かせ、唐突に弓術を披露。的を全て百発百中の腕前で見事に射抜き、その後何事もなく戻っていきました。

 

その次の日も、また同じように弓術を披露し、一通り終わるとすぐに陣の中に戻っていったのです。

 

 

そして3日目。いつも通り太史慈が弓を携えて陣の外に出た時には、すでに警戒する敵兵はおらず、みな立ち上がることもしなかったのです。

 

 

それを確認した太史慈は、突如として馬に鞭をくれ、全力疾走。

 

「これまでの弓術披露は油断を誘う策だった」

 

そう気づいたときにはすでに遅く、太史慈は敵陣の中を一気に駆け抜けます。途中で追いすがった者も自慢の弓でことごとく射倒し、突然の事に恐慌状態に陥った賊軍を完全にやり過ごし、太史慈は包囲を突破したのでした。

 

 

 

そして劉備の元に駆けつけると事の次第を説明し、劉備から3千の兵を借り受けました。

 

そして3千を率いて黄巾軍に攻撃を仕掛けると、予想外の事に算を乱した敵軍は一気に離散。

 

 

無事救われた孔融は絶望的な状況を一気に覆した太史慈を「若き友」と呼び、帰った後に母にも「無事に恩返しができたこと、うれしく思います」と功績を褒め称えられたのです。

 

 

……が、どういうわけか太史慈は孔融には仕えず、その後江東へと下っていくことになります。

 

この辺りの理由は、本人のみぞ知ると言ったところか……

 

 

 

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