陸遜 伯言


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陸遜 伯言

 

 

生没年:光和6年(183) ~ 赤烏8年(245)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡呉県

 

 

勝手に私的能力評

 

陸遜 呉 重鎮 孫権 名士代表 夷陵の戦い 名将 丞相 凋落

統率 S あの劉備や曹休を手も足も出ないまでに捻り潰すのは、並大抵のことではない。呉の外征にも何度も出陣し、名士陣の代表にまで上り詰めた。
武力 D 個人武勇は何とも言えない。呉は守戦特化の人物が多いが、陸遜も攻めでの功績はあまり聞かない。口での攻撃は強そうだけど。
知力 S 独自の伝が立っているのは、三国の主を除けば彼と諸葛亮だけ。圧倒的情報力で敵の弱点を見抜く戦いを得意とした。
政治 A 孫権に次ぐほどの権限を持った人物で、内政も得意だったようだ。しかし正論や名士権益を前面に出しすぎて身を滅ぼした感はある。
人望 A まさに呉でも屈指といえる名声を誇ったが、後世からの評価は意外と賛否両論。孫の代で途絶えたのが痛手となったか、当人の性格上の問題か。

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陸遜(リクソン)、字は伯言(ハクゲン)。この人も、孫呉における昨今の立場では「顔役」として定着しています。

 

諸葛亮(ショカツリョウ)に嫉妬して手紙でザラキをかけられた周瑜(シュウユ)やあからさまに無能な魯粛(ロシュク)、関羽(カンウ)の祟りで死んだ呂蒙(リョモウ)といった面々と違って演義での極端な評価引き下げも無く(ただし「ぼくらの孔明さまの方が数段上だし」みたいな描写はしっかりとされている)、その点でも総合力では最強候補の一角に挙げられていますね。

 

 

当然正史でも演義に劣らず……下手をするとそれ以上の大器として書かれ、諸葛亮と並んでひとつの伝に独自に記述をまとめられた稀有な人物です。

 

 

 

天才的でかつ人格者としても描かれる陸遜ですが、正史の記述から深読みしてみると、なかなかどうして暗い影が……

 

 

そこのところは後述することとして、今回は陸遜の記述を追いかけていってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

さて、これだけの大活躍をして呉でも屈指の大物として君臨した陸遜でしたが……歴史家からの評価はなぜか今一つ。

 

陳寿は大絶賛してるはずなのにどこか含みのある言い方を残してますし、裴松之に至ってはほぼ全否定という有り様。

 

 

 

恐らく彼自身の人物像に、中国の歴史家たちは思うところがあったようですが……

 

 

とりあえず、まずは彼の人物評から見ていきましょう。

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼をこう評しています。

 

 

無名のまま壮年に差し掛かった陸遜が、老練な戦術家である劉備を打ち破った夷陵での功績は大きい。

 

陸遜の類稀なる才覚、そしてその力量を見抜いて起用した孫権の器には感嘆を覚える。

 

 

陸遜の忠誠心、そしてそのために命まで縮めた生き様は、まさに社稷の臣のようであった

 

 

 

社稷の臣と言えば、国家の超重要人物のような意味合いの言葉ですが……陳寿はハッキリと「そうである」と言い切っていないのが気がかりです。何か思うところがあったのか……。

 

まあ何がともあれ、しっかりと高く評価して褒め称えており、国家の重鎮らしい評に収まっていますね。

 

 

 

さて、問題は裴松之の評について。

 

 

(襄陽から撤退中に江夏の各都市を襲撃したことについて)わざわざ必要のない拠点を攻撃し、無辜の民を苦しめた許されざる悪行である。
また、その時に捕虜を多く獲得したもののそれらを寛大に迎え入れて逃がしてやった件だが……そもそもにぎわっていた街を攻撃して得た捕虜である。言ってしまえば鳥の巣を自分で潰しておきながら生き残った雛を育てるようなマッチポンプ。善行ともいえない、取るに足らないやけっぱちである。

 

 

(江夏太守に仕掛けた離間策について)国境線なんだから荒らし回られるのはいつものこと。それを大仰に手柄として書いているわけだが……国家の危機でもない小事に対してわざわざ自分の身を卑しめてまでこざかしい謀略に走るのは、個人的にどうかと思う。

 

 

 

まあ賈詡のように人物評にまでケチをつけるほどのものではないにしろ、これまた随分な嫌いようですね。

 

見方によっては賈詡よりはマシかもしれませんが、ネガティブに捉えるともはや人物評にケチをつけるのすらアホらしくなっていた可能性も……

 

 

 

 

さて、なぜこんなキツイ評価になってしまったか、陳寿に関しても微妙に歯切れが悪いのかと言いますと……まあ、思い当たる節はなんとなくあります。

 

それは、本人の正直というか、機械のような共感を得にくい性格にあったのではないでしょうか?

 

 

以下には、そんな陸遜の、よく言えば清廉潔白で合理的、悪く言えば人情に疎い陸遜の性格に迫る逸話を紹介しましょう。

 

 

 

 

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陸遜、味方を見捨てる?

 

 

 

夷陵の戦いのとき、孫一門で陸遜とも血縁関係にある孫桓(ソンカン)という人物が、劉備の大軍勢に包囲されて絶体絶命の窮地に陥ってしまいました。

 

諸将はこの様子を見て「すぐに助けに行かなければ」と進言しましたが、陸遜は一歩も動かず。

 

 

「孫桓ならばあの状況でも十分に耐えきれる。捨て置けばよろしい

 

 

 

結局陸遜は援軍を1兵たりとも送らず、孫桓は陸遜の読み通り自力で拠点を守り抜いて生還できたのです。

 

なんとか生き延びた孫桓は「見通しがきちんとあったのだから何も言わない」としつつも、「さすがに動く気がないのを知ったときは本気で恨んだ」と胸の内を明かしました。

 

 

 

ちなみに医療の戦いの際中、陸遜は自分に逆らった人物の告訴を控え、後に孫権から問われると「国のために立ち上がった名将を処罰し、国家の力を落としたくなかったのです」と語っています。

 

この辺りから、性格が悪いというより、人情よりも合理性に思考回路をガン振りしている人物であることが伺えます。

 

 

 

 

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容赦なき公平なジャッジマン

 

 

 

呂蒙による関羽討伐の数年前、淳于式(ジュンウシキ)なる人物が陸遜を告発し、「徴兵によって民に不満が生じています」と孫権に伝えたところ、陸遜は意に介さず。

 

むしろ後になって彼を「立派な役人である」と称したという話があります。

 

 

 

他にも陸遜に対して悪意を持っていた人物も、その能力やしっかりとした心構えを備えていた人物は公平に見られてしっかり評価されている記述が史書に散見されています。

 

 

 

 

また同時に無能や怠惰には一切の容赦無し。

 

 

孫権の息子である孫慮(ソンリョ)が戦鴨(トウオウ:闘鶏の鴨バージョン)にドハマりし、そのために柵を仕掛けるほか様々なレギュレーションを仕込んでいた時に陸遜は厳しい顔で言い放ちます。

 

 

「高貴な身分の方ならば、こんなものより書物を読んで特性を磨かれるべき。で、その上でお伺いしますが、これは何ですか?」

 

 

陸遜にビビった孫慮はすぐに柵を取り壊し、勉学に励んだのです。

 

 

 

 

また、孫権の甥にあたる孫松(ソンショウ)が自身の立場に気を良くして訓練をサボっていた時も、これに激怒。

 

さすがに本人にはこれといった罰は与えられませんでしたが、取り巻きの役人を丸坊主に。

 

 

当時、体の毛は親からの授かりものとして、切ったりするのは御法度という価値観だったのですが……まるで容赦がない。

 

 

 

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礼が先か罰が先か

 

 

 

 

議論においても、自身の正義を貫く陸遜の姿勢は変わりません。

 

 

劉廙(リュウヨク)なる人物の「刑罰最優先。礼儀はその後だ」という発言は大きな賞賛を呼び、孫登の配下である謝景(シャケイ)もこれを絶賛。

 

ここでも陸遜は猛反発し、謝景を責め立てています。

 

 

「昔からのしきたりだろう。礼節や刑罰よりも優先する。こざかしい発言で先人の偉大な教えを否定する時点で、この議論は間違っている!
仮にも皇太子にお仕えする身で、そんな間違った教えを太子に吹聴するのか!」

 

 

 

個人的には卵が先か鶏が先かの議論に近いものを感じるのですが……陸遜的には古くからのしきたりはとても大事なものだったようですね。

 

 

とにかく君主であれ血縁者であれ世評の流れであれ、自分が違うと思った物は毅然として「否」と答えるのが陸遜の良さであり、同時に晩年の悲劇を引き起こした原因、ネックでもありました。

 

 

 

この特性は陸遜の血筋に連なる欠点でもあったようで、孫の陸機(リクキ)は晋に仕えたものの方々の嫉妬や恨みを買って一族郎党処刑され、陸遜の直径は孫の代で途絶えることになってしまったのです。

 

 

 

英傑かどうかと訊かれるとほぼ間違いなく「YES」と言える陸遜ですが、その合理性を追求した鉄の意思が逆に災禍を招いてしまったという点に関しては、どうにも惜しい。

続きを読む≫ 2018/04/03 18:02:03

 

 

 

重鎮・陸遜の権威

 

 

 

諸葛瑾と言えば、孫権をして「マブダチ」と言わしめたほどの超人格者で、我の強い人物の多い修羅の国呉の緩衝材として大きな役割を担っていました。

 

陸遜は、孫権が全幅の信頼を置いていた諸葛瑾とほぼ同格(というかわずかに階級は下ですが)の地位を得て、さらには軍事のみならず政治においても大きな立場を獲得。権威はすでに呉の中でも圧倒的なものになっていたのです。

 

 

そんな陸遜の任地は有事に前線基地となる荊州にありましたが、孫権から内外の相談事をしばしば受け、さらには皇太子の後見人にも任命される等、非常に重用されました。

 

 

 

陸遜もそんな孫権の期待に応え、例えば「昨今は厳罰化が著しいかと。完全に悪に染まりでもしていない限り、罪を犯した者にもう一度機会を与えるようにしましょう」と進言したり、全琮らと共に孫権の海外出兵を反対したりと、中央の事に意見を申し出た記述が多くあります。

 

 

 

また戦争面においても、嘉禾5年(236:呉主伝(孫権伝)では嘉禾3年、つまり234年の事となっている)には孫権の合肥進出に合わせて荊州から北進して襄陽(ジョウヨウ)を攻撃。

 

味方の伝令が敵の捕虜になった事から作戦が失敗に終わってしまいますが、見せかけの攻撃で敵の戦意を挫くという陸遜の策によってさしたる被害もなく撤退することに成功します。

 

 

また、その撤退途中に江夏の一部の県に奇襲を仕掛けて敵軍を捕虜にした上で全員を暖かく労って解放することで敵軍の心を攻撃し、地元の豪族らの心を攻撃。

 

また、江夏太守の逯式(ロクシキ)なる人物が過去に孫権軍を苦しめた名太守:文聘(ブンヘイ)の息子と不仲と聞くと、してもいない寝返りの約定を手紙に書いて魏軍に送付。周囲が逯式に対し疑念を抱くように仕向け、彼を失脚させるなど、謀略面での活躍も記述に残っています。

 

 

そんなこんなですっかり重役としての立場が定着した陸遜でしたが……過ぎた力は余計な禍根を招くもの。陸遜の運命はこの辺りから狂っていってしまったのです。

 

 

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暗雲

 

 

 

嘉禾6年(237)、山越の不服従民を討伐、徴用して兵力を増強したいと陸遜に強く願い出た者がいました。

 

陸遜はその作戦は反乱により失敗する可能性が高いとして気乗りはしませんでしたが、その人物があまりに強固に主張したため仕方なく許可。

 

 

こうして彼は山越討伐に向かいましたが、討伐に成功して兵を集めたところで、その兵たちに反乱を起こされて死亡。これ好機とばかりに周辺にまで反乱の戦果がおよび、陸遜はここに来て兵を挙げてこれらを討伐し、新たに8千の兵士を孫権軍に加えて反乱を鎮圧しました。

 

 

 

 

……さて、ここまでよかったのですが、この辺りから呉の中央には暗雲が立ち込めます。

 

 

 

呂壱(リョイツ)という人物が監査官の権力を悪用し、自身の望むままに呉の臣下らを告発。呉国内の権力バランスを自分の都合がいいように書き換えようとしていたのです。

 

 

呂壱の身勝手な振る舞いにより失脚した人物は数知れず。

 

 

陸遜は同じく荊州にて政務を行っていた潘濬(ハンシュン)と共にこの事を嘆き、他の家臣らともども幾度も孫権に上訴。

 

 

一時は孫権に一切聞き入れられなかった上訴ですが、重臣や皇太子といった数多くの重要人物による度重なる上奏によって孫権はようやく目を覚まし、呂壱を処刑。

 

 

呂壱による事件はこれにて一件落着しますが……この頃から孫権と家臣団には大きな溝ができてしまい、また、呂壱によって一度崩されてしまった権力バランスは元々危かった薄氷を盛大に打ち破り、後にとんでもない事件へと発展してしまうのです。

 

 

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落日の前触れ

 

 

 

呂壱により国が滅茶苦茶にされただけならば、呉という国は大きく割れることはなかったかもしれません。

 

しかし、赤烏4年(241)年に、国家を揺るがす決定的な事件が発生します。

 

 

 

皇太子:孫登の死去。

 

 

これによって呉は後継者がいなくなり、候補は現在存命している孫権の息子の中で1番年長の三男・孫和(ソンワ/ソンカ)と、その弟である四男・孫覇(ソンハ)の2人が後継者の候補に上がるようになったのです。

 

 

さらに同年、野心高い呉人たちの抑え役でもあった諸葛瑾が死去。

 

 

そして赤烏7年(244)、長年丞相として国を支えてきた顧雍(コヨウ)がこの世を去ると、丞相のお鉢は陸遜に回ってきて、「政戦共に古人に匹敵する活躍を期待する」との言葉と共に、陸遜は呉の家臣団トップに君臨。

 

民政、軍政、司法すべての事務をまとめて担当することとなり、陸遜に寄せられた期待はさらに大きなものになりました。

 

 

 

……しかし、すでに家臣団の暴発を抑えられる人材はすでにおらず……陸遜もその渦中に自ら飛び込むことにより、その最期は悲惨なものとなってしまったのです。

 

 

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陸遜の落日

 

 

 

もともと陸遜は二宮の変ではバリバリの孫和派であり、その立場が明らかな人物が国のトップに立ったことにより、後継者問題は表立って大きな波紋となってしまいました。

 

 

とはいえ一応の皇太子は孫和と決まってはいたのですが、実は弟の孫覇も同程度の領地と権力を持っていたため、現体制をひっくり返そうともくろむ野心家たちによって祭り上げられ、そのまま大きな後継者争いに発展してしまったわけですね。

 

 

 

この話を陸遜が知ったのは、中央にいる全琮からもたらされた知らせによってでした。要するに「これヤバいからどうにかしてくれ!」という一種の救援要請だったわけですね。

 

 

しかし、全琮の息子は、実はバリバリの孫覇派。孫和を支持する陸遜は、これを指して「まずはあなたの息子を殺して始末をつけろ」と言い返したのです。

 

これに対して事なかれ主義者穏健派の全琮はブチギレてしまい、完全に孫覇に加担。陸遜の放った容赦の無い正論が、火に油を注いでしまったのです。

 

 

 

重鎮である全琮の介入により、宮廷内の権力争いは孫覇有利に。

 

 

ここに来て陸遜はこの争いに孫和派として本格介入を開始。

 

孫権に対して直接「すでに皇太子を立てられたのですから立場をはっきりしてください」と正論を突きつけます。

 

 

しかし、ご覧の通り火のついた後継者問題は、非常にデリケートな問題。孫権もこの問題にはまだ首を突っ込みたくなかったのか、陸遜から3、4度と届く上奏文を無視。

 

 

これでは何の意味もないと思った陸遜はいよいよ「直接会ってお話させてください」と孫権に願い出て、そのまま孫権に引見。

 

 

 

ここでも「立場をはっきりさせ、皇太子をそのまま後継者と公的に認めさせることで混乱を収めるべきです」と述べましたが……陸遜もこの争いの1つの派閥を率いるリーダー。さらに甥たちもみな孫和の派閥として第一線で権力争いを起こしている身。

 

孫権には、どちらも等しく呉に混迷を与えている人物に見えたのでしょう。

 

 

 

結局、陸遜の発言は孫権の耳に届くばかりか甥たちの明確な態度を孫権に責められ、諫言は失敗。

 

 

ちくま文庫さんの三国志ではこの時陸遜は流刑に処されたとありますが、誤訳の可能性が大きいことが指摘されています。

 

 

 

逆に孫権から問責の使者が頻繁に来るようになったことで、陸遜は無念と憤りの中で倒れ、まもなく死去。享年63。

 

家には財産らしい財産が残っておらず、質素倹約に努めていたことが語られています。

続きを読む≫ 2018/04/02 19:32:02

 

 

 

 

 

荊州地盤の強化策

 

 

 

 

さて、怨敵・関羽を屠り、呂蒙によって民の支持を孫権側に傾けることで地盤を盤石にしつつあった荊州ですが、陸遜にはもう一つ懸念がありました。

 

 

それが、孫権側に靡いた名士層の待遇でした。

 

 

当時の名士の力は絶大で、歴史上に書かれた「民意」という言葉は平民でなく名士らの意識として考えてもよいというほど、国の安定に大きなウェイトを占めていたのです。

 

 

呂蒙の任務を引き継いだ陸遜は、そんな名士層の待遇がまだまだ不十分であるとして、孫権に上奏。

 

孫権もこの意見を容れ、荊州の不安定要素は短期間のうちにみるみる減っていったのです。

 

 

……が、実際はどうあれ、多くの人からしてみれば荊州は劉備から奪ったものであるという認識が弱くはありません。

 

 

ましてや荊州名士を多く抱え、さらには中心人物である関羽を殺された劉備からすれば、今回の孫権軍の動きは許されるものではありませんでした。

 

 

 

黄武元年(222)、このままいいようにやられたままでは終われない劉備は、ついに大軍を率いて荊州に侵攻。孫権領を次々と制圧し、勢力下に加え始めたのです。

 

 

 

 

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夷陵の戦い

 

 

 

劉備率いる蜀軍の侵攻に際し、和睦の道が絶望的な孫権軍も、対劉備の軍勢を立ち上げます。

 

総大将は陸遜孫権は彼を大都督に任命し、仮節(カセツ:軍令違反者の処罰権限)と5万の軍勢を与えて劉備を防がせることにしました。

 

 

 

陸遜はこの時、荊州諸郡に連なる街道を結んだ夷陵(イリョウ)を最終防衛線に制定。この地を劉備軍が占拠する前に敵を撃退することを軍事目標としました。

 

 

……が、そこまで考えたにもかかわらず、当の陸遜は動くそぶりを見せず、蜀軍が攻撃や誘いを仕掛けても一切手を出さずに睨み合いを続けるという戦術を展開したのです。

 

 

これによって蜀軍はこれといった抵抗もされずに夷陵の間近に迫り、各地を占拠。呉軍の将らが陸遜に対し抗議の声を強めた頃には、真正面から止めることができない程に敵軍が勢いづいてしまったのです。

 

 

呉書には皆が口々に「陸遜は臆病者だ」と大きな不満を抱いていた事が記載されている辺り、この時の陸遜と周囲の軋轢は相当なものだったのでしょう。

 

陸遜の戦術を理解できないという点だけでなく、諸将の負けん気が転じてプライドが高かったことも、この不仲が大きくなった原因でしょう。

 

この時陸遜に付き従っていた将は、その多くが孫権の血縁者や孫策時代からの古参で、陸遜よりも先輩にあたる人物がほとんどだったため、それらを統制するのは難しかったのです。

 

 

 

陸遜もこの時剣に手をかけて、

 

 

劉備は一筋縄ではいかん相手だ! そんな非常事態に、殿から大任を預かった私の言葉を軽視し、軍令を乱し、自らの意地を最優先するのか!」

 

 

と一喝するなど、並々ならぬギスギス感が嫌でも伝わってきます。

 

 

 

 

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逆転の炎

 

 

 

 

さて、そんなギスギスした精神衛生上最悪な環境にて膠着すること8ヶ月程。周囲が完全に敗戦ムードになっている状況下で、陸遜は自身の部下に兵を与え、「今こそ好機」とばかりに劉備軍へ攻撃を仕掛けます。

 

しかし、案の定結果は敗北。

 

諸将らはこの様子を「兵を無駄死にさせた」と嘆きましたが、陸遜だけは「これで奴らの弱点がわかった」と強気で言い放ちます。

 

 

もはやこの状況下では陸遜の言葉もハッタリの負け惜しみのようにも聞こえましたが……なんと、本当に陸遜はこの1戦で、自身の思惑通りに事が進んでいることを理解したのでした。

 

 

 

直後、陸遜はすかさず火計部隊を編成し、蜀軍の陣所を火攻め。続けて水陸両軍を用いて総攻撃を仕掛け、一気に敵を追い散らし、最終的には数万の兵と多数の将校が討死するという壊滅的な打撃を与えることに成功したのです。

 

 

陸遜の読みは、以下の通り。

 

 

まず、蜀軍は占領軍である上、長江の川沿いを陸路で侵攻。このため占領下には兵を置かざるを得ない上に川沿いという地形もあって、陣営が長く伸びきってしまい、このままでは補給がままならない状態になっていたのです。

 

劉備はその問題を解決するため、木造の砦を多数建造して軍需品を備蓄し、補給問題を強引に解決する手段を択ばざるを得なかったのです。

 

 

こうして、自ら撤退が困難な上火に弱いという致命的弱点を抱えることになってしまった蜀軍は、長期間による遠征軍によって疲労も大きくなり、それらの弱点を意識する注意力を欠いたところに火攻めを仕掛ければ勝てる。

 

 

 

結果は、まさしく陸遜の計算通りといったところ。劉備は急いで撤退し、荊州の影響力を失墜。呉軍はこの戦いに勝利したことで荊州南部を完全に手中に収めることができたのです。

 

 

この大戦果に、陸遜に不満を感じていた諸将は認識を改めて敬服。陸遜の立場は、さらに立場は大きなものとなったのです。

 

 

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対魏戦線の幕開け

 

 

 

さて、この戦いで蜀に壊滅同然の大打撃を与えた呉軍でしたが……呉にとって蜀よりもさらに脅威となり得る国が、すぐ北にいたのです。

 

 

曹丕(ソウヒ)によって帝国として新たに樹立された、魏王朝。

 

曹丕は夷陵の戦いの決着直後に疲弊した呉を討つべく、着々と遠征の準備を進めていました。

 

 

 

蜀軍を打ち破った呉軍中からは「即座に劉備を追撃すべき」という声も多く寄せられましたが、同時に曹丕の動きを警戒する諸将からは待ったの声も同時に上がりました。

 

 

陸遜の決断は、劉備の追撃は中止し、次の行動に備えるというもの。

 

 

 

陸遜がこの決断をした少し後に、曹丕は遠征軍を整えて孫権領に侵攻。揚、荊州の合計3路からなる大攻勢が行われることになったのです。

 

孫権軍は陸遜らによって追撃が取りやめられたのも手伝ってほぼ万全の態勢でこれに備えることができ、辛くもこれを撃退。こうして呉の目下危険は収まり、ようやく領内は安定の兆候を見せ始めたのでした。

 

 

 

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石亭の戦い

 

 

 

夷陵の戦いの翌日には、蜀の劉備は燃え尽きたように死去。これによって大きなわだかまりが一つ消え去った呉蜀の関係は、和睦を成立させて同盟を結びなおすまでに回復しました。

 

 

これによって魏との戦いにほとんどの力を割けるようになった孫権は、これ以降魏への侵攻を強めます。

 

 

 

そしてしばらく一進一退の攻防が続いた後の黄武7年(228)。孫権は魏との戦いに1つの決着を迎えるため、ある秘策を打ち出します。

 

 

それが、魏の対呉戦線総大将・曹休(ソウキュウ)の誘い込みです。

 

 

孫権は周魴(シュウホウ)に命じ、曹休軍への偽降作戦を展開。7通もの手紙で曹休に取り入り、さらには孫権とのいざこざを演出して自らの髪を切って謝罪をするという迫真な演技を使い、曹休の信用を獲得。

 

こうして無事に周魴は策を秘めて曹休軍に投降し、曹休を石亭に誘導。おびき寄せられた曹休の撃破は、陸遜によって決行されることとなりました。

 

 

陸遜孫権から黄金のまさかり(当時は親征代行者の証)を受け取り、満を持して進撃。騙されたと知った曹休もタダでは引けないと陸遜を迎え撃ち、両軍は対陣しました。

 

 

陸遜は軍を三方に分け、左右を全琮(ゼンソウ)と朱桓(シュカン)に任せて中央を自身は進軍。置かれていた伏兵部隊を強行突破して曹休軍を粉砕し、1万の捕虜と大量の軍需物資を獲得する大戦果を上げることに成功したのです。

 

 

曹休は賈逵(カキ)や朱霊(シュレイ)といった魏将らの救援によってなんとか逃げ延びましたが、敗戦の責任を感じてか帰還後すぐに死去。

 

これによって呉は目下1番の強敵を排除し、自国が壊滅させられる危機を取り除くことに成功、その翌年には孫権自らが帝位に就き、呉王朝を称するまでに至りました。

 

 

陸遜もこれまでの戦果を称えられ、上大将軍(ジョウダイショグン:大将軍よりも1つくらい位が下がるが、軍事責任職としてはトップクラス)、右都護(ウトゴ:異民族統治の文官職。左都護とセットの役職だが、あちらの方が上らしい)に昇進。諸葛瑾に次ぐ、呉の軍事ナンバー2にまで栄転したのです。

続きを読む≫ 2018/03/31 20:28:31

 

 

 

 

孫家との確執

 

 

 

江東の陸氏と言えば有力な豪族であり、呉の中でも「四姓」と言われる超名門の一角でした。

 

陸遜はその家の分家に生まれ、始めは陸議(リクギ)と名乗っていましたが、幼くして父親が他界。親戚である陸康(リクコウ)の元に預けらることになりました。

 

 

その後陸康が盧江(ロコウ)太守として任地に赴くと陸遜もこれに同行しますが……後に友好的な関係であった群雄・袁術(エンジュツ)との仲が悪化。

 

袁術配下だった孫策(ソンサク)によって陸康の任地である舒(ジョ)は攻撃を受け、陸遜は陸康の子である陸績(リクセキ)を連れて、本籍である呉に避難することとなってしまったのです。

 

 

 

その後、孫策による長年の包囲の末陸康は病死し舒は陥落。陸氏宗家は散り散りになった後、飢餓によって半数近くが死去。陸氏は半ば滅亡に近い形に追いやられてしまいました。

 

 

 

そんな陸氏の未来を任されたのが、まだ若かった陸遜。彼はまだ幼い陸績よりも数歳年上であったために一族のまとめ役を任され、以後、陸遜が中心となって陸一族は再興の機会を待つことになったのです。

 

 

 

そんな陸遜が孫家と和解したのは、建安8年(203)の事。家を滅ぼした孫策はすでに亡く、一時は混沌とした孫家内部も孫権(ソンケン)によって落ち着きを取り戻しつつあった時の事でした。

 

始めは文官として西曹や東曹の令吏を担当しましたが、やがては地方にでて海昌県(カイショウケン:現在の塩官県)の屯田校尉(トンデンコウイ)として農業、そして同県の統治も任されたのです。

 

 

この県は連年ひどい干ばつに悩まされており民たちは苦しんでいましたが、陸遜は穀倉を開いて貧しい民たちに収穫物を分け与え、同時に農業と養桑を奨励。これのおかげで何とか民の飢餓は緩和され、孫権軍中でしっかりとした功績を建てることができたのです。

 

 

 

 

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孫権からの信頼

 

 

 

 

さて、孫呉の大きな課題の1つと言えば、異民族である山越(サンエツ)への対応。

 

孫策はこれらに対しては武力鎮圧の方針を取っていましたが、それが逆に敵を作り、多くの不服従民を抱えたことが孫権軍中では問題となっていたのです。

 

 

陸遜はそんな現状を見据え、「不服従民を征討し、その中から兵を募りたい」と孫権に具申。

 

この意見が認められて志願兵を連れ、潘臨(ハンリン)なる人物を中心として会稽(カイケイ)に巣食う山越の討伐に乗り出しました。

 

陸遜は険阻な地に拠る山越軍を次々と征討。向かうところすべてを降伏させ、その中から兵士2千ほどを自軍に編入する手柄を挙げたのです。

 

 

その後建安21年(216)、尤突(ユウトツ)なる人物の反乱に際しても兵を動かし、賀斉(ガセイ)と協力してこれも完全に鎮圧して見せました。

 

陸遜は度重なる功績を認められて定威校尉(テイイコウイ)に昇進。さらに孫権からも大いに信頼され、なんと兄である孫策の娘を妻として与えられ、孫一門の親族になってしまうほど重用されたのです。

 

 

 

この頃になると孫権陸遜に対する信頼は厚く、たびたび政治的な意見を求められるほどになったのです。

 

 

そんな孫権の信頼に対して、陸遜は建安22年(217)、しっかりと自分の意見を述べることで応えました。

 

 

「現在、情勢は大国同士の睨み合い。それだけでなく各々背後を異民族によって脅かされている状態です。こういう時は、まず異民族の脅威を取り払い国内を安定。同時に山越の兵士らを自軍に組み込み、軍拡に取り組むのが上策でしょう」

 

 

 

おりしもこの頃、費桟(ヒサン)という人物を頭目とした一団が曹操の扇動工作によって独立。孫権を背後から脅かして曹操軍と連携する構えを見せていました。

 

陸遜孫権の名を受けて、費桟討伐に出陣。

 

この時陸遜は兵力の上では劣勢でしたが、奇襲部隊による夜襲作戦によって費桟の軍を一気に蹴散らしたのです。

 

 

続いて陸遜は東の丹陽(タンヨウ)、新都(シント)、会稽の三郡で募兵を執り行い、山越らを含め数万の軍勢を入手。また、体力のないものには平民として戸籍を与えました。

 

 

さらには周辺の山賊たちも根こそぎ倒し、史書には「陸遜のいる所は常に清められた」とあるほど徹底して治安を強化したのです。

 

 

 

 

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関羽戦線

 

 

 

建安24年(219)に対関羽(カンウ)の流れが孫権軍中でも強くなり始めた頃。

 

関羽の中心人物である呂蒙が病によって前線を離れた際、陸遜呂蒙と面会。

 

 

「あなたが病気で前線を去った今、関羽は完全に油断しきっています。今のうちに殿と共に関羽打倒の計略を練られますよう」

 

 

これを聞いた呂蒙は思うところがあったのか、病気で離れた前線の後任として陸遜孫権に推薦。かくして、陸遜は偏将軍(ヘンショウグン)、右都督(ウトトク)の地位を得、荊州軍の指揮官として前線に赴きます。

 

 

前線に着いた陸遜は、関羽の油断を誘うためにとことん関羽をおだてて遜った挨拶状を関羽に送付。

 

 

「将軍の実に素晴らしいお力に、我らもみな心服しております。つきましては、我々にもぜひとも、その強大なお力を以ってご助言くださればと存じます。

 

しかし、曹操めは老い耄れたといえどもまだまだ油断はなりません。どうか万全を期されますよう。

 

私ごとき非才の者が、将軍のようなお方と隣り合わせになれて大変うれしく思っています。まだ教導して敵に当たる事はありませんが、その時がありましたら、どうかお引き回しのほど、よろしくお願い申し上げます」

 

 

もともとナンバー1主義の俺様気質で、頼られればついついうれしくしてしまう関羽の性質を読み切ったともいえる手紙により、関羽は完全に油断。

 

「どうせ大した奴らではない」と完全に警戒心を緩めてしまい、潜在敵国であることがほぼ表面化していることなどほとんど忘れてしまったのです。

 

 

そして陸遜は、すぐさま関羽の油断によって変化した情勢を孫権に報告。ついに孫権自らが動き、関羽討伐に踏み切ることになったのです。

 

 

陸遜呂蒙と共に先鋒を率いて荊州南部の重要拠点である南郡(ナングン)、公安(コウアン)をまたたく間に占拠。

 

 

呂蒙がそこにとどまり領民を慰撫している間に陸遜はさらに北上し、宜都(ギト)郡の各都市も攻略。官吏や近辺の異民族を皆屈服させてしまったのです。

 

 

陸遜はこの時に金銀財宝を褒美に受け取りましたが、これらはすべて寝返ってきた官吏や異民族の王らにばら撒き、占領地慰撫のために全て使ってしまったことが史書に載っています。

 

 

また、部下を遣ってさらに周辺の劉備軍やその支持者を追い散らしていき、各地を占拠。この時に動かしたのはわずか3千の兵に過ぎませんでしたが、1連の軍事行動を終えた後には、捕虜と帰順した者を合わせて数万に膨れ上がっていたと言われています。

 

 

 

とにもかくにも、荊州奪取および関羽討伐は大成功。陸遜はこの功績によって右護軍(ウゴグン:護軍は軍の監督役)、鎮西将軍(チンセイショウグン)に任命され、さらに婁侯(ロウコウ)の爵位も与えられました。

 

 

続きを読む≫ 2018/03/30 13:36:30
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