周瑜 公瑾


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周瑜 公瑾

 

 

生没年:熹平4年(175)~建安15年(210)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州盧江郡舒県

 

 

勝手に私的能力評

 

周瑜 呉 赤壁の戦い 天才 美周郎 イケメン 完璧超人 薄命

統率 S 軍を統率しての戦いは間違いなく屈指だった。兵の心を良くつかみ、周囲を奮い立たせたらしい。さすが大都督。
武力 B 孫策の無茶に付き合い、江陵の戦いでは負傷するほど前線に立つ。この辺から、前線で指揮を執るほどの武勇はあったと思われる。
知力 S- 諸葛亮に対抗して天才軍師とされるが、実際は軍師ではなく総大将。しかし、曹操軍の弱点を看破したり天下二分の計を実行しようとしたりと知力も優れていたようだ。
政治 B+ 外交や統治でどうしたという話は聞かないが、人事に関しては自分を嫌う程普すらも心服させる調整力を持っていた。
人望 S 近年の呉での人気武将では、おそらく孫策と並んでツートップ。イケメンで隙が無く何でもこなせる完璧超人に、あこがれない人物はそうそういない。

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周瑜(シュウユ)、字は公瑾(コウキン)。呉と言えばこの人を連想する人も多いのではないでしょうか。

 

容姿、性格、能力と全てにおいて死角無し。唯一の弱点は寿命とすら言われる超人で、現代でもファンの多い、三国志の顔役の一人です。

 

 

そんな彼も三国志演義では諸葛亮の引き立て役として描かれていますが……正史ではどうなっているのでしょうか?

 

 

今回は、そんな周瑜の正史の姿を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

周瑜は立派な風采を誇る美形だったようで、孫策の元で活躍していた時には「周郎」などとあだ名され、多くの人々から敬愛される等人望もかなり厚かったと言われています。

 

 

その上、知勇兼備で優れた才覚は天下にも通用し、曹操劉備も彼を恐れるあまり孫権との離間を目論んだという話も残っています。

 

 

 

そんな周瑜に対して陳寿が贈った評は以下の通り。

 

 

漢室を擁する大勢力たる曹操軍は、荊州を占領すると次の敵を呉に定めた。そのため孫権の軍中では多くの者が降伏すべきだという結論を導き出した。

 

しかしそんな中で、周瑜魯粛と共に、世間や他人の評に惑わされる事無く明確な見通しを立て、人々に抜きんでた存在を示した。

 

これは、真に非凡な才能がなせた事なのである。

 

 

また、その内面に関しては「寛大で人の心を掴むのが得意だった」という記述もあり、まさに人・知・勇いずれも人並み外れた傑物であったことが史書にて証明されていますね。

 

 

そのため、三国志に詳しくない人でも名前くらいなら聞いたことがあるという人も多く、三国志の好きな武将ランキングでも上位に食い込むほどの人気を誇っています。

 

 

特に地味な扱いを受けやすい呉ですが、そんな地味な呉の人気を引き上げる強烈な存在として、昨今の三国志媒介でも輝きを放っています。

 

 

 

 

……そして、妙に逸話が多いのもこの人の面白いところ。

 

 

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周瑜と程普の確執

 

 

 

多くの人からの人気を集める周瑜ですが、そんな彼をもってしても、やはりそりの合わない人物が存在します。

 

 

それが、孫堅の代から仕える古参の将・程普。

 

程普は周瑜と同じく人知勇を兼ね備えた名将でしたが、史書を見る限りその在りようはほぼ真逆。武骨な程普からすると良家のおぼっちゃまである周瑜の存在は鼻についたのか、程普は事あるごとに侮辱の言葉を並べたようです。

 

 

常人ならばここで何かしらの仕返しを画策、そのまま派閥争いにでも突入する所ですが……周瑜はあくまで腰を低くして、程普に逆らわず下手に出ることで確執となることを避けたのです。

 

 

 

そんな周瑜の姿を見て、程普はやがて考えを改めて逆に周瑜を尊敬するようになり、いつしか両者は親しい間柄に。

 

後に程普は、「周瑜との交遊は、上質な酒のように、酔ってしまってもそれに気づかない」と人に語ったとされています。

 

 

 

どれだけ侮蔑されても下手に出ようとする周瑜と、そんな姿を見て考えを改める程普。双方立派な人格者だからこそ成り立った交遊として、現在でも語られることは少なくありません。

 

 

 

 

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周瑜と内通疑惑

 

 

 

さて、先ほども軽く触れましたが、周瑜曹操劉備に離間工作を仕掛けられたという逸話があります。

 

 

曹操周瑜が若くして優れている人物だとうわさに聞くと、彼の友人である蒋幹(ショウカン)なる人物に命じて周瑜の引き抜き工作を開始。

 

蒋幹はさっそく周瑜に出会い、まずは外堀を埋めようとしますが……この時、周瑜はすでに蒋幹の目的を察知。蒋幹に対して礼を尽くすと同時に、孫権への忠誠を強くアピールし、自らが裏切る気がないことを暗に示しました。

 

そんな周瑜の態度を一通り見届けた蒋幹は結局話を切り出すことなく帰還し、周瑜の態度を賞賛したのです。

 

 

 

また、劉備孫権に対して離間工作を仕掛けたという話がありますね。

 

 

孫権軍中から帰還する際に呉の面々から宴会を開いてもらった劉備は、その機会を利用して孫権と二人きりになり、そこで周瑜をべた褒めし、孫権に疑念を抱かせようとしたのです。

 

これは劉備なりの離間策の一種。実は孫権軍ではすでに劉備勢力を潜在敵国と定めており、そのトップである劉備をどうするかで議論の最中だったのです。そんな中で、目下一番警戒すべき男が、重臣をまるで親しい人物であるかのように語れば、もしかしたら孫権の側から周瑜に疑念を抱くかもしれない……そんな思惑があったのです。

 

 

これに関しては結果は語られていませんが、その後の周瑜の動きを見ると失敗したのは明らかでしょう。

 

 

とにかく周瑜はその才覚をこれだけ危険視されていたわけですね。

 

 

 

 

 

周瑜と音楽

 

 

 

周瑜の才覚は軍事面だけではなく、金持ちの息子らしく文化にも通じていたようです。

 

その筆頭格が、音楽。

 

 

彼は音楽に精通するだけでなく絶対音感まで身に着けていたらしく、「演奏が一瞬でも間違ったり欠けたりすれば、それがどんなものでも聞き分けてしまった」という話が本伝に残っています。

 

 

そして間違いを見つけると本人も振り向いてしまうものだから、人々には「曲に誤りがあれば周郎(周瑜)が振り向く」などと言われ、ある意味音楽業界では恐れられていたとか。

 

 

 

なんでこんなことが史書に書かれているのかは謎ですが……周郎という呼び名自体、孫策の時代の物と推測されます。つまりはこんな歴史的にどうでもいい話が残るくらいに、周瑜の人気は高かったのでしょう。

 

 

 

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周瑜だからこそ

 

 

 

 

曹操はなぜか負け惜しみの言葉が多く史書に残されていたりしますが……赤壁の大敗北の際も、「周瑜に負けたんなら仕方ない。このザマも恥とは思わん」と言い切ったとか。

 

また、後に孫権に書状をよこし、「赤壁は病気が蔓延したからこっちで船焼いて撤退したんだからね! 周瑜がすごいって言うのはみんなが広めた嘘っぱちなんだからね!」という謎理論を並べたとか何とかかんとか。

 

 

 

また、君主の孫権周瑜が亡くなったと聞いたときには「これから何を頼ればいいんだ!」と泣きながら嘆いたと言われており、また後年呉帝国を建立した時も、「周瑜がいたからこそ、こうして俺は帝王を名乗れるのだ」と重臣たちに対して述懐しています。

 

と、いろいろと微妙な立ち位置にいながら最終的に孫権から信頼された周瑜ですが……後の孫権の態度を見ると、やはり周瑜だからこそ信頼されたという側面が強い気がします。

 

 

というのも、次男の周胤(シュウイン)という人物の扱いを見ているとそんな側面が顕著なのです。

 

 

周瑜には2男1女がいましたが、兄の方は早くして病没。結果的に弟である周胤が後継ぎに選ばれたのですが……彼は素行が悪く、犯罪を犯してそのまま左遷されてしまったのです。

 

 

重臣たちは、そんな周胤の姿を見て「周瑜の一族がこれではさすがに……」と思い孫権に汚名返上のチャンスを与えるように上奏しますが、孫権自身は「罪を犯して周瑜の功績を汚した罰だ。改心するための薬であり、今のまま赦すつもりはない」と返答。

 

結局周囲の進言もあって後年赦されることが決まりましたが、その決定をした直後に周胤は死去。

 

 

孫権自身、世襲に甘えることを良しとしない側面がありましたが……この周胤の例がその最たるものではないでしょうか。

続きを読む≫ 2018/03/23 19:20:23

 

 

 

 

進撃の小人・曹操

 

 

 

無事に黄祖を討ち果たし、ようやく天下に向けて計画が動こうかという矢先、孫権軍に激震が走ります。

 

曹操軍が荊州を降伏させ、支配下におさめる。

 

 

もともと荊州は、魯粛孫権の覇業に必要であると提唱した地。実際に荊州は豊かな地が広がっており、人的資源も豊富。ここを曹操に奪われたとあっては、もはや孫権の夢は途絶えたも同然と言える状況でした。

 

 

 

当然、孫権軍中では曹操への降伏を求める声が相次ぎ、孫策からの信任も厚かった功臣・張昭すらも降伏派の意見を唱える等、非常に切羽詰まっていた様子がうかがい知れます。

 

 

 

そんな降伏論圧倒的優位の中、抗戦派であった魯粛孫権周瑜を召喚するように提言。それを受けた孫乾の招きによって、周瑜は堂々、降伏を勧める周囲とは真逆の徹底抗戦を主張したのです。

 

 

周瑜による曹操軍の分析は以下の通り。

 

 

・80万という軍勢を誇る曹操の総兵力だが、実際は曹操軍15万に荊州の兵数万を加えた程度

 

・荊州の兵は曹操配下になって間もないため心服しきっておらず、さらに曹操が連れてきた本隊は烏丸討伐からたった数ヶ月での長旅になり、疲れがたまっている

 

・それでも曹操軍本隊は陸戦になれば手強いが、水軍には慣れていないため付け入る隙はある

 

・加えて、西涼には強力な独立勢力が跋扈。いずれも曹操と同盟こそ結んでいるが、旗色次第ではどうなるかわからない

 

・冷え込む冬の時期は馬の餌となる草も無いなど準備は不完全で、そんな状態で川に入ろうものなら、疫病にかかるまでにそう時間はかからない

 

 

 

周瑜曹操軍の弱点をピタリと言い当てた事により、孫権軍の議論の趨勢が逆転。孫権は自身が抗戦を望んでいたのもあり、孫権軍は曹操と相対することとなりました。

 

すでに軍事のトップである周瑜には、豪族たちを黙らせてしまうだけの影響力と納得させるだけの才覚があったのです。

 

 

 

ちなみに周瑜伝本伝では、なぜか議論の場に呼ばれていないはずの周瑜がいたことになっており、魯粛をスルーして周瑜がその場で全員を納得させたことになっています。

 

これには裴松之も激おこ。「最初に口火を切った魯粛の手柄を泥棒するような書き方だ」と述べています。

 

 

 

 

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赤壁の大火

 

 

 

 

こうして曹操にあらがうことを決めた孫権は、周瑜および程普(テイフ)を主将として軍を編成し、魯粛が前もって盟を結ばせでいた劉備の救援に出発。

 

劉備と合流後は即座に長江沿岸の玄関口である陸口(リクコウ)を封鎖し、曹操軍の上陸部隊を封殺し、水軍戦を矯正する動きを見せます。

 

そして水軍指揮がイマイチな劉備には後方で見物するだけに留めてもらい(!?)、孫権軍だけで数倍の曹操軍と対峙。

 

 

この戦い、数だけでは曹操軍圧倒的優位でしたが……実は曹操軍中では、周瑜の予測通り疫病が蔓延。接敵した時には既に猛威を振るって士気がガタ落ちしていたのですから、周瑜の洞察力はさすがといったところ。

 

 

曹操は数で孫権軍を押しつぶそうとしますが、練度に難がある上疫病で弱った軍ではとても勝利を得られず、緒戦は孫権軍の勝利という結末に終わりました。

 

 

こうして優位を確保した周瑜は、長江の南岸を拠点として水軍を配置。対して敗退した曹操は北岸に軍営を置いて両者は睨み合いの構図となったのです。

 

 

 

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さて、こうして周瑜の構想通りの状況に戦況を持ち込んだところで、古参の将である黄蓋(コウガイ)が周瑜にある提案を持ち込みます。

 

その内容は、以下のようなものでした。

 

 

曹操軍は軍船を密着させて陣を敷いています。これは燃やせばトドメを刺せますな」

 

 

 

黄蓋からの提案を承諾した周瑜は、すぐに闘艦(トウカン:戦艦)や蒙衝(モウショウ:駆逐艦)を数十艘用意。燃えやすいように油を撒いた草や枯れ木を載せ、それを幔幕で隠して牙旗(ガキ:将軍旗)を立て、立派な船団に仕立て上げました。

 

 

さらには、前もって抗戦派を主導した周瑜魯粛の悪口を書き記した降伏の書状を曹操に送り付けたことにより、曹操軍に受け入れてもらうための準備を万全にしました。

 

 

 

そして、曹操に申し伝えた降伏の当日。黄蓋は船団に模した数十艘の船の後ろに走舸(ソウカ:速度重視の小舟)を括りつけてそちらに乗り、黄蓋らは走舸の側に乗船。

 

そして次々と曹操軍に進発すると、走舸を切り離して一斉に船に放火。火は油によりより強く燃え上がり、曹操軍に船が激突する頃には巨大な炎となって曹操の船を焼き払います。

 

さらに、おりしも吹き荒れた強風にあおられ、曹操軍の陣営はさらに延焼。沿岸の陸地に敷いた陣にまで燃え広がり、被害はさらに拡大。

 

 

事ここに至って、曹操は頼れる部下らに荊州の守りを一任し、自らは今後の動乱に備え北に帰還。周瑜らは大勝利を飾ることに成功したのでした。

 

 

 

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南郡争奪

 

 

 

さて、こうして危なげなく曹操軍を撃退した周瑜孫権軍でしたが、まだまだ問題は山積。特に周瑜にとって大きな問題となったのが、重要拠点である南郡を守備する曹仁(ソウジン)の軍勢だったのです。

 

曹仁は魏でも指折りの名将で、率いる兵も猛者揃い。曹操との戦力差が大きい孫権軍にとって、この難敵と陸地で戦う事は困難を極めたのです。

 

 

周瑜は前もって甘寧(カンネイ)に別動隊をあずけて夷陵(イリョウ)の地を攻撃させていましたが、曹仁はこの周瑜の動きを確認すると、即座に部隊を編制し、甘寧の軍勢を急襲。包囲を受けた甘寧は窮地に陥り、本隊に救援を求めてきたのです。

 

 

周瑜呂蒙(リョモウ)の提案を受け、南郡での戦線維持を凌統(リョウトウ)に一任。自ら本隊を率いて甘寧を救援。危いところでしたが、曹仁軍が退いて行ったことで甘寧の無事を確保。ほどなくして甘寧が夷陵を制圧したことにより、周瑜はなんとか優勢な状況を作り出すことに成功したのです。

 

 

 

その後、曹仁は戦術を籠城に切替。南郡に十分な物資が備蓄されていたのもあってしばらく膠着状態が続きました。

 

そんな中、曹仁は部下に無謀な奇襲をさせて案の定孤立したところをほぼ単騎で救出する珍事を引き起こして士気を向上。日を改めて総力戦を挑んできたのです。

 

 

この時、周瑜は自ら前線の指揮を行いますが、なんと曹仁軍から放たれた矢が鎖骨に命中。軍の指揮ができないほどの重傷を負ってしまったのです。

 

これによって孫権軍の士気が減退したのを、曹仁は見逃しませんでした。

 

 

周瑜がケガで寝込んだのを知ると、即座に軍を再編。動揺の隙を突いて、一直線に周瑜のいる本陣に向かってきたのです。

 

もともと不利であった曹仁軍は、起死回生とばかりに孫権軍を追い散らし、本陣に迫ってきます。

 

 

これを聞いた周瑜。常人ならば恐れをなして撤退を決めるかもしれないところですが……なんと、自ら立ち上がり、怪我をおして前線に復帰。兵を鼓舞して回り、皆の気持ちを奮い立たせたのです。

 

 

起死回生のチャンスが失われた曹仁軍は、その後すぐに包囲を破って撤退。1年にも及ぶ南郡争奪戦の結果は、周瑜の粘り勝ちに終わったのでした。

 

 

 

 

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露と消えた夢

 

 

 

南郡を奪取した周瑜は、偏将軍(ヘンショウグン:下位の将軍位だが、当時の孫権軍では実質トップ)、そして奪った南郡の太守として、さらには自分のための領土も与えられることになったのです。

 

そんなある時の事。呉では、友人である周瑜魯粛の間で意見が割れてしまった議題がひとつありました。

 

 

それは、流浪ながら非常に影響力のある群雄・劉備の扱いについて。

 

 

 

彼の影響力を利用して対曹操の走狗として利用することを提案した魯粛に対し、周瑜孫権に提案した内容は、劉備の封殺。

 

いかに影響力の大きな人気者とはいえ、その野心は決定的。魯粛の発言は、雑多な呉の情勢を顧みると確かに的を射たものではありました。しかし、周瑜にはその解決に使う劉備という英雄が、あまりに危険な存在に映ったのです。

 

 

劉備には女をあてがい、宮中で完全に丸め込むのがよろしいでしょう。あの男に領地を与えるのは危険です」

 

しかし、この話に孫権は首を縦に振らず。孫権劉備の危険性はしっかりと見えていましたが、だからこそ飼いならす自信がなかったのです。

 

結局孫権は、劉備の独立を認めながらも彼の未来の本拠となる益州攻めへの介入というどっちつかずの方針に決定。しかし、劉備にはうまく騙されて出し抜かれてしまう結果となってしまったのです。

 

 

一方の周瑜は、こんな状況を読んでいたかの如く孫権の元に再び参内。

 

 

「益州を今から攻め取ってまいります。その後、涼州の馬超(バチョウ)らと同盟。荊州を要に三方から曹操を攻めれば、我らの天下も夢ではないのです」

 

 

 

孫権はその言葉を聞くとすぐに周瑜を益州征伐に送り出し、劉備に先んじて益州制覇を狙い軍を走らせました。

 

 

 

……が、その軍を編成する途上、周瑜は突如として世を去りました。享年36。

 

戦略的視点からさまざまな物を見通す天才・周瑜に唯一欠けた物。それは、皮肉にも大きなことを為すための天命だったのです。

 

 

孫呉巻き返しの転機を作った立役者の死に、孫権も慟哭。

 

その後は魯粛が継ぎ、結局、対劉備の方針も魯粛のものに切り替わっていったのです。

続きを読む≫ 2018/03/22 19:46:22

 

 

 

 

名家の御曹司

 

 

 

周一族は軍務の大臣職である太尉(タイイ)を歴代輩出した超名門で、その名は天下に轟く名家。周瑜自身の父も、首都圏である洛陽で県令を務めるなど、漢王朝において重役と言っても良いくらいの人物だったのです。

 

そんなやんごとなき身分に生まれた周瑜は、成人すると立派な風采を持ったイケメンに成長。

 

 

兄弟分同然の孫策(ソンサク)と出会ったのは、周瑜がそんな立派な若者に成長した時でした。

 

 

 

時は乱世に向かいつつあり、西涼の群雄董卓(トウタク)は漢王朝を席捲。

 

その董卓の暴虐に立ち向かうため孫策の父である孫堅(ソンケン)は立ち上がり、家族を周瑜の地元に引っ越させたのです。

 

 

地元に越してきた孫策と出会ってみた周瑜は、いつしかピッタリと意気投合。「金をも断ち切る」と言われるほどの特別な友情関係に結ばれ、すっかり孫策を気に入った周瑜は居住地の道を挟んだ南にある屋敷を孫策らに譲渡。

 

孫策の母である呉夫人(ゴフジン)にも挨拶し、お互い足りないものは融通し合うなど家族同然の付き合いをするようになったのです。

 

 

 

しかし、董卓討伐後に引き起こされた荊州の動乱に巻き込まれ、孫策の父である孫堅は戦死。孫策ら一家は地元へと帰ることになり、一時期二人は別れることになったのです。

 

 

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友の元へ

 

 

 

興平元年(194)、孫策袁術(エンジュツ)の武将として、江東鎮圧の兵を発足。それと時を同じくして、周瑜の叔父は丹陽(タンヨウ)の太守に任命されたのです。

 

周瑜は叔父へのご機嫌伺いに行く途上、孫策とバッタリ再開。友の晴れ舞台とあっては黙っているわけにもいかず、周瑜は用事ついでに孫策軍に一時加入。

 

江東に根を張る群雄らを蹴散らして回り、ついには揚州刺史の劉繇(リュウヨウ)を駆逐。孫策軍が安定期に入るまで、その配下に身を置くことになったのです。

 

 

こうして無事に江東に根を張ると、周瑜孫策に送り出されて、ようやく叔父の元へと到着。しばらくそこで過ごしていました。

 

 

 

……が、孫策袁術から離れるような姿勢を見せ始めると、状況は一変。周瑜の叔父は孫策への牽制のためか丹陽太守を解任され、袁術本拠の寿春(ジュシュン)へ送還。代わりに袁術の一族である袁胤(エンイン)が丹陽太守に就いたのです。

 

 

周瑜の才能を買っていた袁術孫策の元へ行かせまいと正式に部下に加える動きを見せましたが、「袁術は失敗する」と見ていた周瑜は叔父を連れて袁術軍からの離脱を決意。

 

自ら孫策の領土に近い居巣(キョソウ)の県令を立候補し、任地へ一度向かい、建安3年(198)にそのまま離脱し、呉へと移動。ここでようやく、正式に孫策の配下に加わったのです。

 

また、この脱走時には魯粛(ロシュク)も加わっていたとか。

 

 

 

ともあれ、これで親友の孫策とようやく共に歩むことになった周瑜。彼は建威中郎将(ケンイチュウロウショウ)に任命され、重要拠点である牛渚(ギュウショ)の守備を担当。後に丹陽郡の中にある春穀(シュンコク)県の長も務める等、孫策からの信頼は厚いものでした。

 

 

 

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孫策の寵愛、そして……

 

 

 

 

さて、地盤が固まってからしばらくすると、孫策は続けて西への侵攻作戦を計画。この時孫策は揚州の東部をわずかに領有するだけでしたが、いよいよ揚州西部の攻略にも着手し、さらにそのまま荊州まで攻め上がろう目論んだのです。

 

 

周瑜はこの戦いで中護軍(チュウゴグン:護軍は軍の監督役)、そして目標の一つである江夏(コウカ)の太守も兼任。さっそく、西の盧江(ロコウ)の主要都市である皖(カン)を陥落させました。

 

皖攻略の際に孫策らは大勢の住民や兵を捕虜として獲得。その中には橋公(キョウコウ)の娘である大橋(ダイキョウ:演義では大喬)、小橋(ショウキョウ:演義では小喬)を見て一目惚れ、孫策は大橋、周瑜は小橋を妻にしたとか。

 

当時としちゃ普通の事ですが、それって略奪行為……

 

 

ちなみに『江表伝』では、さらに袁術配下だった鼓吹(コスイ:楽奏隊)も捕獲、周瑜に下賜されています。さらには立派な屋敷も周瑜のために用意され、その寵愛は留まるところを知らず。

 

しかし当の孫策は、「周瑜は傑物だ。この程度の温情じゃぜんぜん足りねーズェ」と言い放ったとされています。

 

また、大橋小橋を妻にした際にも「美女だって言っても、俺らの妻に迎えられたんだから、あいつらにとっては吉事であるべきだズェ」と男気溢れるんだかアレなのか微妙な発言もしたことが記されています。

 

 

 

その後、さらに西進して袁術の死後実質的な後継者となり替わっていた劉勲(リュウクン)を撃破。さらに江夏に拠点を置く黄祖(コウソ)まで撃破。そこから引き返して豫章(ヨショウ)と廬陵(ロリョウ)を平定。その後、軍を巴丘(ハキュウ)に置きそのまま駐屯。次の戦に備えることにしたのです。

 

結局は黄祖を攻めきれずに西進を中断した形にはなりますが、それでも、孫策軍の強さを確認するには十分な戦果だったと言えるでしょう。

 

 

 

もはや孫策の勢いを止められる者はおらず、もしかしたらこのまま天下にも手が届くのではないか……?

 

皆にそう思わせる快進撃を続ける孫策でしたが、怒涛の勢いの先に待っていたのは、予想もし得ないような結末でした。

 

 

 

 

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孫策の死、孫権との関係

 

 

 

建安5年(200)、次の戦いに向けて準備を進める周瑜に、朴報が届けられます。

 

 

――孫策、刺客に襲われて死去。

 

 

今度は北の曹操に目を向け、本拠である許都を攻めようかという計画が立った矢先の出来事でした。

 

 

 

周瑜は急いで葬儀に駆けつけ、前線の巴丘から撤兵して本貫の呉に移動。孫策に後を託された孫権(ソンケン)を補佐し、孫策から孫権の後見を頼まれた張昭(チョウショウ)と共にすべての政務を取り仕切らざるを得ないという異常事態になったのです。

 

この時、周瑜はいち早く孫権に対して臣下の礼をとったため大規模な瓦解は避けられましたが、それでも孫策が無理矢理押さえつけていた数多くの火種はその死により爆発寸前。予断を許さない状態が続きました。

 

 

その中でもひときわ大きな反乱が、やはり異民族である山越(サンエツ)による大規模侵攻。そして曹操による内部切り崩し工作です。

 

 

まず、曹操の内部工作では、華歆(カキン)を始め孫策配下とは言い切れない立ち位置の人物が、曹操の召喚に応じて中央に退去。

 

さらには拒否したものの虞翻(グホン)や太史慈(タイシジ)といった名士、群雄らにも魔手が伸びています。おまけに一族である孫輔(ソンホ)の内通疑惑に当時無名であった魯粛の離脱未遂と、対応を間違えたら即終了の危険性すらあったのです。

 

 

そんな中、周瑜は友人でもある魯粛を引き留め、孫権軍に残留させることに成功。当時の魯粛の立ち位置を考えるとどうでもいい話ですが、これが後々孫呉に大きな影響を与えることになるのは言うまでもありません。

 

 

その後、建安11年(206)には孫一族の一人である孫瑜(ソンユ)のお目付け役として、山越討伐軍に参加。砦を2つ落としてそれぞれの部族の族長を討ち取り、1万人あまりを捕虜にしました。

 

 

さらには黄祖が部将の鄧龍(トウリュウ)を送り込んできた際も、周瑜はこの軍を迎撃。鄧龍を生け捕りにすることに成功しました。

 

 

 

と、こう書けばなかなか出番も多いのですが、未だに孫策を求める声が大きいという情勢のせいか、はたまた孫権の複雑な感情ゆえか……この辺りの周瑜は、重要な戦いにあまり名前を出していません。

 

 

 

が、建安13年(208)、ここまで主戦場で姿を見せなかった周瑜はついに黄祖討伐軍に前線部隊の司令として参戦。黄祖を討ち取ることに成功し、名将・周瑜はここにきて返り咲くことができたのです。

続きを読む≫ 2018/03/19 15:50:19
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