孫権 仲謀


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孫権 仲謀

 

 

生没年:光和5年(182)~神鳳元年(252)

 

所属:呉

 

生まれ:徐州下邳郡下邳県?

 

 

 

勝手に私的能力評

 

孫権 呉 皇帝 危ない人 謀略家 暴走 酒乱 偉人

統率 C+ 家臣統制は文句無しだが、戦争はダメ。バランス感覚は三国君主でも随一だったが、それでも完全に名士層を抑えきれない辺り孫呉もなかなか修羅の国のようだ。
武力 B+ 張遼曰く、「やたら騎射の上手い赤ひげの短足野郎」。虎狩りなんかにも出かけて怒られることも多く、武勇は間違いなくあった。
知力 A 天性の謀略家。孫策時代から謀議には参加しており、その力量は中年期以降の外交にも表れている。越王勾践に例えられるあたり、長期スパンで見て損を取る事も得意だったようだ。
政治 S 人物眼に優れるだけでなく、複雑な外交を見事に捌いて呉帝にまで上り詰めた。晩年は陰りが見えたが、おおむね最高峰の能力を持っていたと見ていいだろう。
人望 S 酒の席で暴れては反省が定番となった暴走君主だが、呉の君主がそれだけの小物であるはずがない。事績を見ても、まずもって当時屈指の英雄だった。

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孫権(ソンケン)。字は仲謀(チュウボウ)。三国志の一角である呉の国主として知られる一方、他の主君らと違い評価の分かれる面が多い人物ですね。

 

史書を見た限りでは、性格的に興が乗ると暴走しやすい暴君タイプであり、晩年に耄碌していったダメ君主。そして戦争が苦手であった点もあって、どうにも「無能な暗君」として、時に不当に貶められているように見受けられます。

 

 

まあ彼の評価のだいたいは、

 

・呉がそもそも豪族の連合体に過ぎなかった事

 

・蜀とのやり取りはあくまで外交であり、水面下の戦いでもある事

 

 

この辺りの事実をどこまで重く見るかで変わってくるような気もしますが……ともあれ、まずは事績を正史「呉主伝」に沿って見ていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

非常に評価の難しい孫権ですが……悲しいことに「正史では実は大したことのない人物」として諸葛亮と共に槍玉に挙げられることが多く、その評価は概ね芳しいものではありません。

 

 

しかし、三国のうちの1国を治め、安定させることでどんどん力をつけていったその実績は、まかり間違っても「暗君」との評価で終わっていいものではありません。

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼をこう評しています。

 

 

身を低くして恥を忍び、才人に仕事を任せて緻密な計略を練る、まさに越王勾践にも似ている傑出した人物だった。だからこそ、長江南域を広く支配し、呉という国を築くことができたのである。

 

しかし性格は疑い深く残忍なところもあり、晩年ではそれが顕著に出て後継ぎに支障をきたし、その結果少なからず呉滅亡の遠因になった部分もある。

 

 

要するに、「名君だけど晩年はアレ」といった感じですね。

 

 

もともと豪族の集合国家で、君主権を多少なりとも強化しとかないと色々マズかったのはなんとなく想像はつきますが……晩年の呂壱事件や二宮の変に関しては失策と言われればそうとしか言いようがないでしょう。

 

百歩譲って二宮の変は豪族たちが好き勝手動いて勝手に潰し合っただけだから全面的な責任は問えませんが……呂壱事件。あれは無い←

 

 

 

とはいえ、晩年になるまではしっかりと配下の豪族たちとも折り合いのついた行動がとれており、その他内政面や謀略面では終始一貫してキレッキレなのが見て取れます。

 

曹操孫権の様子を見て「ああいうのが息子にいれば……」と呟いたとか何とかと言われており、当時の世評でも非常に高い評価を得ていました。

 

 

 

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孫権の個人スペック

 

 

 

孫権の容姿はかなり恵まれていたようで、若い頃に「貴人の相で、他の一族と違って長寿の相である」と漢の使者から言われています。

 

『江表伝』には容姿に関してさらに詳しいことが書かれており、赤ん坊のころから「顎が張って口が大きく、目がキラキラしていた」とされていますね。何にせよ、容姿からにじみ出る威厳は人一倍……という事でしょう。

 

 

さらには意外なことに武勇も達者なようで、狩りを趣味にして家臣にも怒られていたようです(後述)。

 

得意分野は騎射で、合肥の戦いで窮地に陥った際にも存分にその力を発揮していたようです。『献帝春秋』では張遼をして「騎射がやたら上手い短足野郎(意訳)」などと言われるほどだったとか。

 

 

 

性格は陳寿の評にも「疑い深く残酷」とありましたが、当然それだけではありません。『公表伝』には「朗らかで度量が広く、優しいだけでなく決断力のある英傑」と評されており、同時に「無茶苦茶な冗談をよく飛ばす」ともされており、なかなかお茶目な性格であったことが記されていますね。

 

 

まあ、このお茶目さは時として家臣団の中にも混沌の渦を呼び起こしたりもするわけですが……

 

 

また、新しいもの好きで意外となんにでも飛びついてしまうタイプらしく、当時珍しかった仏教の寺を建てたり、透明人間だか自称神だかを重用したり(後にトンズラこかれた模様)、海外に兵を送り出して版図を広げようとしたり……曹操劉備とはまた違った意味でアグレッシブな孫権像が浮かんでくるようです。

 

 

と、ここまで書きましたが……意外なことにその生活は質素そのもの。終始一貫して農民にはかなり気を使っていたようで、恩赦や農民保護には頻繁に乗り出しており、宮殿の建造などにも消極的だったとか。

 

 

実際に宮殿が老朽化した際も、「昔立てた宮殿を壊して、その木材リサイクルして宮殿立てようぜ」と、1国の主としてあるまじき倹約ぶりを披露。

 

近臣らは「仮にも帝国の宮殿ですから、こういう時くらいは大々的に農民を駆り立てましょう」と提案しますが、結局孫権は首を縦に振らず。
新造の宮殿も木材を完全にリサイクルしたものを活用し、造営作業も官吏と作業員のみ。結局、農民に賦役を課すことはなかったとか。

 

 

 

 

酒、酒、酒!!!!

 

 

 

さて、最近は無双シリーズはじめ多くのメディアでも猛プッシュされていますね。やはり主君というものはストレスがたまるのか……孫権は酒が入ると妙なスイッチが入ってしまう酒乱としての1面も持ち合わせていました。

 

 

 

例えば呉王になった宴の席では、自ら手酌をして回るという気前の良さを見せますが……すでに孫権の酒癖の悪さを知っていた家臣も多く、そのうちの一人である虞翻(グホン)は酔いつぶれたふりをして孫権をやり過ごし、彼が立ち去った後には当たり前のように談笑して盛り上がる有り様。

 

当然、酒乱の孫権はこれを見て怒り心頭。

 

「ぶっ殺してやる!!」と虞翻をその場で斬り捨てようとして周囲をヒヤッとさせました。結局部下の制止でその場は収まりましたが……色々アレですね。

 

なお、後日孫権は「酒の席で俺が処刑を命じても無効だから」という規則を作ったとか。なんじゃそりゃ

 

 

 

さらに後年、またしても宴会の場で酒が回った孫権は、宴会で酔いつぶれた家臣に水をぶっかけて無理矢理たたき起こし、酒を注いで飲ませて回るという暴挙に出ます。

 

この時に孫権宿敵後見人である張昭(チョウショウ)が胸糞悪くなって帰ろうとするのを見て「貴様、なぜ帰ろうとしている!?」と呼び止めると、張昭は「殷のの紂王(チュウオウ:酒池肉林の語源になった人。暴君の代名詞として知られる)もそうでしたな」と見事なカウンターを決められ、正気に戻った孫権は即座にお開きにしたのでした。

 

 

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暴走→反省

 

 

 

 

さて、先ほど孫権が狩り好きだと言いましたが、もはや周囲の制止を無視するほどのドハマりだったようで……張昭伝によれば、孫権はしょっちゅう虎狩りに出かけていたとか。

 

そしてある時、いつも通り虎狩りに出た孫権は虎に矢を射かけますが……虎も生き物。孫権が放った矢に驚いて、その日だけは孫権に向けて突進してきたのです。

 

結局は難を逃れることが出来ましたが、それを知った張昭は大激怒。

 

「英雄というのは賢人を手足の如く扱う者! 原っぱを駆けまわって狩りを楽しむ英傑がとこにいますか!」とお冠だったようで、孫権は「申し訳ない」とさすがに素直に反省することに。

 

 

そしてこの事件を猛省した孫権は、その後虎狩りの際には堅牢な戦車を持ち出し、戦車の窓から矢を射かけることで安全に虎狩りを楽しむことにしたのでした。

 

いやそういう意味じゃなくて

 

 

 

 

 

さらには『江表伝』よりの抜粋。大型艦船「長安」なるものを開発し、その進水式に自ら参加した際の出来事。

 

この時試行の最中に突如風が強くなり、艦船も転覆の危険もあったため多くの家臣が戻るように促したのですが……当の孫権はすっかり浮かれており、「構うな! 目的地まで進め!」と命令。

 

 

結局孫権のそばに控えていた谷利(コクリ)なる人物が船頭を刀で脅して無理矢理岸に戻させたのですが……当の孫権は不機嫌だったかはたまた笑いながらか、谷利に対して「ビビってんのか、この臆病者め」とからかおうとするという有り様。

 

 

その様子に対して谷利は「殿は呉王であられながら、軽々しく何が起こるかわからぬ状況で船遊びに興じられました。万一の事があっては、どうなさるおつもりか。それを憂い、私は死罪を覚悟で引き留めたのです」と膝を屈して返答。

 

以後孫権は、谷利に敬意を表して接することにしたとか。いや本当何してんの

 

 

……と、こんな感じで孫権はかなり無茶ぶりをしでかした形跡があり、ここを知っているととても地味とは言えないような色々アレな人物なのです。

 

 

 

 

創作では三国の君主の中でも地味無難な形に落ち着くことが多い人物ですが、こうやって見ると、一番色々やらかしてるのは孫権なのかもしれませんね。

 

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天下を逸する

 

 

 

さて、呉の戦いの花形と言えば、やはり魏との揚・荊州をめぐる争いですが……それも諸葛亮の死により同盟国の蜀が衰退してからは、どこか保守的で保険を必ずかけるような攻勢になり始めています。

 

それと同時に、魏呉の争いもお互いの陣営から偽の投降者が続出するなど、正面衝突というよりは謀略や陰謀が主体となった戦いに切り替わりつつあるようにも思えます。

 

 

 

また、魏帝・曹叡の死後を始めたまーに大攻勢を仕掛ける事もあったのですが、いずれも散発的で、援軍が来れば即時撤退という成果の薄いものに終わってしまっています。

 

一応、赤烏6年(243)に諸葛恪(ショカツカク)が魏軍を打ち破る等、局地的な戦果はあったようですが……。

 

 

一方、魏からの攻勢も、偽投降や後方部族の反乱扇動といったものにとどまっており、こちらも孫権存命中は大きな動きを見せた様子はありません。

 

一応魏からの攻勢を受ける隙は曝さなかったため最低限国を保つという使命は果たしたことになりますが……もともと魏の国土は呉とは比べ物にならないほど圧倒的。

 

皇帝の崩御と代替わりの隙を突き切れなかった時点で、天下への道は頓挫したと見てよいでしょう。

 

 

 

さらに孫権を襲った悲劇は、度重なる人材の喪失。孫権の晩年は、多くの宿将の死期とも重なっているのです。

 

 

主立ったところだと、嘉禾5年(236)に孫策が跡を任せた後見人である張昭、赤烏3年(240)にはどの派閥にも属していない貴重な重臣である諸葛瑾、赤烏10年(247:一説には赤烏12年(249)とも)には同じく地元名士グループ外の全琮、赤烏12年(249)には学友だった朱然……。

 

丞相でも顧雍、陸遜、歩隲と数年おきに相次いで亡くなっており、いよいよこれといった人材も頭打ちになりつつありました。

 

 

中でも孫権にとって衝撃が大きかったのは、皇太子・孫登の死去。名士層との折り合いもしっかりつけられる太子であり将来を渇望されていた孫登でしたが、赤烏4年(241)に死去し、これがのちに二宮の変と呼ばれる大きな内紛に繋がってしまったのです。

 

 

 

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呂壱事件

 

 

 

さて、そんな大変な状況にもかかわらず内政面は刑法の改定や農民保護など意外にもしっかりしていましたが……孫権を語る上で欠かせない失策が2つあります。

 

そのうちの一つが、赤烏元年(238)ごろに決着したとされる呂壱事件ですね。

 

 

これは孫権が呂壱(リョイツ)という人物を重用してしまったことで起きた一連の大事件。

 

まず孫権は呂壱を中書典校(チュウショテンコウ:文書の監査官。伝書によって名前が安定しない)という官僚職に任命するのですが……彼は苛烈な性格で、法律を振りかざして厳しく人を罰する、いわゆる「酷吏」と呼ばれる存在でした。

 

彼の罰則は公平さを欠き、ひたすら重罪人を量産し、時には私怨によって罪を適用するほどのものだったとされています。

 

 

当然、呂壱のそんな態度には孫権配下らも激高。皇太子・孫登を始め、顧雍や歩隲、朱拠といった重臣らの度重なる諫言と忠言が孫権の元に送られたにもかかわらず、孫権はこれを聞き入れず。

 

ついにはこの有り様にマジギレした潘濬(ハンシュン)が、死刑覚悟で呂壱を殺そうとするほどの大事件にまで発展しました。

 

 

結局この後、呂壱の悪事が明るみにされてようやく事件が解決するのですが……この事件により孫権の信頼はガタ落ち。

 

 

孫権自身が謝り倒したことによりなんとか分裂は避けられましたが、諸葛瑾、歩隲、朱然、呂岱らに「俺に間違いがあったら何でも言ってくれ」と意見を求めますが、四人とも「自分らは軍事専門ですから」と逃げの一手。家臣団とは完全に溝ができてしまったと言ってもよいでしょう。

 

 

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二宮の変

 

 

 

さて、孫権の落ち目として話題に出されるもう一つの事件が、孫登死亡後に国を二分してしまった、この「二宮の変」でしょう。

 

 

この事件はちょっと謎が多すぎるため、ここでは推論は避けて史書にある記述を追っていきたいと思います。

 

 

孫登の死後、孫権は三男の孫和(ソンワ/ソンカ)を皇太子に据えますが、この後、周囲の強い要望もあり、同時に四男の孫覇(ソンハ)に所領を与えて魯王とします。

 

皇太子に選ばれなかった庶子を王に封じる。この行動自体は、古代中国ではごく自然な事。したがって、ここで孫覇を王にすること自体はよかったのですが……一つ、とんでもない火種を孫権は撒いてしまいました。

 

 

なんと、孫覇の待遇は、皇太子の孫和とほぼ同じ。これで国の心が一つならば問題ないのですが、呉は元々豪族のひしめく土地柄であり、非主流派の中で野心を燻らせる者も多いのです。

 

そしてそんな中、火種となった人物は……あろうことか孫権の娘である孫魯班(ソンロハン)。彼女は孫権の皇后である王夫人とは上手く行かず、策謀によって王夫人を貶めた後、孫権の孫和に対する寵愛を削いでいったのです。

 

 

さらにはその様子を見ていた魯王の孫覇は、「もしかしたらこれは次期皇帝になれるのでは?」と野心をたぎらせるようになり、次第に有力豪族たちを巻き込んだ派閥争いに発展。

 

最終的には、孫和を盛り立てようとする地元名士派閥と、孫覇派の外様名士や非主流名士らの派閥によってしのぎを削っていくことになるのです。

 

 

結局この争いは双方派閥の讒言による処刑や冤罪によって血生臭い闘争へと発展しますが……この時不思議なのは、孫権自身が何かをしたという記述がない点。

 

他伝ではなかなかにいろいろ書かれていますが、孫権伝ではこれらの記述には触れられず、淡々と別件の記述が書き連ねられています。

 

 

 

そしていよいよ孫権伝に二宮の変と思しき記述が出たのは、赤烏13年(250)。

 

孫和は廃嫡。孫覇は自害。喧嘩両成敗の形で決着がついた。皇太子には、まだ幼いながらもしっかりしている孫亮(ソンリョウ)が置かれた。

 

 

約8年もドロドロの抗争を続けた結果、共倒れで事件が解決。その間に、孫権伝に確たる記述無し。つまるところ、孫権は事件勃発から解決まで、自主的な行動を起こしていないわけです。

 

この辺りは諸説ありますが……ここでは明言は避けておきます。

 

 

 

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巨星堕つ

 

 

 

15歳の頃から孫策に期待され、19でその後を継ぎ、以後は豪族らの思惑や複雑な情勢の中で必死に戦い続けてきた孫権

 

彼は父や兄とは違い非常に長寿でしたが……とうとう、その命も尽きる時が来ました。

 

 

 

太元元年(251)の冬、大赦を行った後病により倒れ、翌年神鳳元年(252)、ついに危篤状態に。

 

死期を悟った孫権は、庶子らを王に任命し国内の人事を安定化。その後、幼い孫亮を諸葛恪始め重臣らに託して死去。71年にも及ぶ激動の人生を、ここに終えたのです。

 

 

 

諡は、「大皇帝」。墓陵はすでに発見済みで、現在の南京の東側にあるとか。

 

 

 

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魏蜀の間で

 

 

 

建安25年(220)に曹操が死去。その後を継いだ曹丕(ソウヒ)は、同年、漢王朝の皇帝に禅譲を迫り、漢に代わる新たな国家である魏を建立。

 

その翌年である黄初2年(221)には、お隣の益州でも劉備が皇帝の座に就き、漢の後継者を自称する蜀漢帝国を樹立したことで、天下に皇帝が2人も存在するという異例の事態となりました。

 

 

一方の孫権は、ほとんど独立勢力とは言え、扱いは未だに魏の臣下。曹丕に媚びを売ることでなんとか呉王の地位に就くことはできましたが、王の位は帝の下。あくまで魏の下に立つ勢力であるという旗色はそのままに、虎視眈々と独立の機会をうかがうことにしたのです。

 

史書に目を通すと、この頃から息子に爵位を与えるという曹丕の計らいを頑なに遠慮したり、荊州の魏軍に対して侵攻にも似た不穏な動きを見せていたり……どう考えてもほぼ黒としか言いようのない動きを見せています。

 

そういう怪しい行動の一方で魏にはとことん遜っている辺り、この人やっぱり怖い……

 

 

こうして魏との腹の探り合いをしている中、荊州と関羽を失った劉備孫権領への侵攻軍を発足。関羽の仇、荊州を奪った裏切り者の討伐という大義名分のもと集まった蜀軍は士気が高く、正面切っての戦いは困難を極めました。

 

結局対峙は1年ほど続きましたが、黄武元年(222)、迎撃軍大将の陸遜劉備軍の疲労と遠征軍ゆえに伸びきってしまった戦線に着目。火攻めと水路を活かした強襲により劉備軍を徹底的に叩き潰し、国としての機能を完全に麻痺させるまでに至ったのです。

 

 

こうして蜀との荊州争奪戦に完全勝利した孫権は、その後蜀軍と戦う理由がなくなったため、すぐに和睦交渉を開始。元来勝者からの和睦提案はあり得ないことなのですが……この頃の孫権は、すでに別の敵の襲来を捉えていたのです。

 

 

 

 

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呉帝降臨

 

 

 

怪しい動きを常に見せたり、息子を人質に取ろうとしても拒否をされたり……孫権の明らかに臣従する気のない態度は、魏の面々からするとさぞ危険に映った事でしょう。

 

 

明らかな背信を続ける孫権に対して業を煮やした曹丕は、「外交戦ではキリがない」と見て、ついに呉と決裂。大軍を率い、揚州、荊州双方の計3路から一斉に孫権領に攻勢を仕掛けてきました。

 

 

 

しかし、この曹丕の攻勢を読んでいた孫権は、直ちに次代を担う武将らを各地に派遣し、魏軍を迎撃。途上で背後にて魏と結んだ将が反乱を起こす、孫策の代から仕える歴戦の将・呂範(リョハン)の敗北もあって、苦境に立たされますが、朱然(シュゼン)・朱桓(シュカン)らの奮戦もあって曹丕軍は撤退。この危機を何とか切り抜けます。

 

その後も曹丕はしばしば呉への攻撃を続けますが、すべていなされて不発のままに撤退。孫権は、完全に曹丕を手玉に取った形となったのです。

 

 

 

一方、内部は地元名士出身の曁艶(キエン)という人物が暴走して意に沿わない人物を弾劾し続けたことで恨みを買って失脚し、曁艶を推薦した張温(チョウオン)までも立場を失うなど、連合政権ゆえのまとまりの無さこそ問題になりましたが内政面は比較的安定。

 

おかげで刑法改定や農業の推進を始め、内政面の多くを改革することができたようです。

 

 

 

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しかし、黄武5年(226)に曹丕が崩御したと聞くと、再び魏に対する攻勢を強化。自身は江夏の石陽(セキヨウ)を攻撃、そして別動隊には襄陽(ジョウヨウ)を攻めさせます。

 

難攻不落の防衛線が曹丕の死により揺らいだ事を期待しての行軍となりましたが、すでに強固になった防衛線は易々とほころぶ物でもなく、数十日の包囲の後に撤退。

 

 

単独での攻略は不可能と見た孫権は、これ以降は蜀の北伐と合同する形での侵攻を画策するようになります。

 

 

さて、その後黄武7年(228)、前年に韓当(カントウ)の息子らが呉を抜けて魏に寝返ったという事件が起きたのを逆手に取り、孫権陸遜らと謀議して偽降作戦を実施。

 

太守をしていた周魴(シュウホウ)が魏に寝返ったように見せかけ、敵将・曹休(ソウキュウ)を領内の石亭(セキテイ)に誘引。罠に嵌めて大打撃を与えることで、魏の面目を丸潰れにして大いに揺るがすことに成功したのです。

 

 

 

そしてその翌年……孫権はついに呉帝に即位。魏を叩き潰し、そして漢王朝以外の王朝を認めない蜀も信念を曲げざるを得ないというタイミングでの、見事な呉王朝設立でした。

 

これには蜀の丞相・諸葛亮も異議を唱える事が出来ず、使者を出して祝賀を述べるしかなかったようです。

 

 

実のところ水面下の外交合戦では蜀を相手に劣勢気味だった呉ですが……この皇帝即位によって一気に立場を対等以上に戻すことができたと言えるでしょう。

 

 

 

 

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孫権三本の矢

 

 

 

さて、こうして三人の皇帝による完全な鼎立状態にまで状況を持っていった孫権ですが……その後の対外政策は、大きく分別して3つに分けられます。

 

1.対魏戦線

 

2.異民族討伐

 

3.フロンティア開拓(!?)

 

 

 

まず最初に動きがあったのは、2の異民族討伐。もともと山越族に苦しめられていた呉軍でしたが……実はこの時の対象は山越ではなく、荊州南部の武陵に住む雑多な民族だったようで、それもかなり大々的に行っています。結果的に捕虜や討ち取った兵の数は数万に上ったとか。

 

当然ながら山越らの反乱も頻発しており、こういった事業と同時にそれらにも当たらなければなりませんでした。嘉禾3年(234)にも大規模な反乱を鎮圧し、その軍を糾合。その数は6万にも及んだことが史書に記されています。

 

 

また、黄龍2年(230)には、以前交州で味を占めたのか、海を渡った海外に兵を派遣。新たな土地からの移民計画を立てましたが、慣れない気候により送り込んだ多くの兵が病気で亡くなる等、この開拓事業は失敗に終わってしまいました。

 

 

 

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さて、そして最後に残った対曹魏戦略。こちらは常々執念を燃やしていた合肥周辺の奪取、そして一方で不穏な動きを見せていた北端・遼東(リョウトウ)の公孫淵(コウソンエン)懐柔という二段構えで魏を追い詰めようとします。

 

 

まず、合肥攻略。これは一度煮え湯を飲まされた張遼がすでに病死しているのもあって攻撃に踏み切ったようですが……魏の人材層は厚い。

 

後任でやって来た満寵(マンチョウ)なる人物もまた歴戦の名将で、蜀の北伐に合わせて攻撃を仕掛けたものの、新たに建造された合肥新城を前に苦戦し、魏帝曹叡(ソウエイ)自らが軍を動かしたのもあって撤退。芳しい成果を上げることができませんでした。

 

 

 

 

そして一方の公孫淵に関しても……これまた上手くは行かなかった様子。

 

実は公孫淵という人物、一筋縄ではいかない奸雄で、孫権に臣従する姿勢を見せて取り入ってきたまではいいものの、嘉禾2年(233)に信用した孫権から燕王の位を引き出すと、用済みとばかりに孫権からの使者を処断。あっという間に魏に鞍替えし、呉の使者の首を魏に送還してしまったのです。

 

 

さらには赤烏2年(239)、公孫淵は魏に反乱を起こすにあたり、厚顔無恥にも孫権に救援要請の使者を派遣。

 

多くの群臣が反対する中、たった一人の「救援すべき」という意見に賛同して公孫淵への援軍を編成し派遣。

 

 

しかし途上で公孫淵はあっさりと討たれてしまったため、やむなく遼東に残存していた魏軍を攻撃して捕虜を得るにとどまり、はかばかしい進展もないまま撤退することとなったのでした。

続きを読む≫ 2018/06/16 11:39:16

 

 

 

 

奸雄劉備の陰謀

 

 

さて、赤壁の戦いに勝利したとはいえ、曹操軍主力の陸上部隊は未だに健在。特に南郡(ナングン)の曹仁(ソウジン)が目下一番の敵として孫権軍を待ち構えていました。

 

 

そこで孫権劉備と合同で、荊州南部から曹操軍を駆逐する動きをみせたのですが……この時の劉備が実にしたたかな動きを見せました。

 

 

 

なんと厄介な曹仁軍の相手を孫権に押し付け、自身は制圧難度の低い荊南の長沙(チョウサ)、桂陽(ケイヨウ)、零陵(レイリョウ)、武陵(ブリョウ)の4郡を制圧。周瑜らが実に1年以上も苦戦している間に、悠々と領土を広げていったのです。

 

孫権軍は苦戦の末にやっと南郡を確保しましたが、地理的には曹操領と面接。完全に劉備領を守る蓋のような形に収まってしまいました。

 

 

さらに劉備は、この動きとよりも前から荊南名士の抱きこみを始めており、すでに劉備の元には荊州名士の多くが参陣。荊南での影響力も、孫権をはるかに上回るものになってしまっていたのです。

 

 

 

老獪な立ち回りで美味しいところを持っていった劉備に対し、孫権は自身の影響力が劉備に呑まれて領有権を無くす前に、「荊州をお貸しします」という言いがかり名目をつけて南郡を割譲。あえて領土問題をうやむやにして煙に巻く形で領有権を握る事で、劉備との外交戦を辛うじて引き分けに持ち込むことに成功しました。

 

 

 

その後も、老獪な劉備に対して孫権は後手後手に回ってしまいます。

 

 

今度は孫権の方から先制を仕掛け、劉備に対し「合同で西の益州を取ろう!」と提案。これに対し劉備は「同族の劉璋(リュウショウ)が治めてる益州はちょっと……」と拒否。

 

にもかかわらず、単独で益州攻略に乗り出した周瑜が病死したのを見届けてから、劉備軍は突如益州の劉璋を攻撃。一気に各都市を平らげてしまったのです。

 

 

こうして外交では完敗に終わった孫権。しかし、この敗北によって何かが変わったらしく、以後の孫権は狡猾で底の見えない、恐ろしさをはらんだ英傑として覚醒していくことになるのです。

 

 

 

 

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曹操との戦い

 

 

 

さて、劉備との外交戦ではズタボロ、頼りになる周瑜も病死と散々な結果に終わった孫権ですが、一方で荊州の南に位置する交州では意外な戦果を得ることになります。

 

なんと交州全般を治めていた士燮(シショウ)なる人物が、孫権に服従を表明。

 

交州を指揮下に置いたことによって貿易ルートが拡大し、珍品などを手に入れることも可能になった孫権。彼はこれにより、中華内部の枠を超えた視点を持つようになるのですが……それはまた別の話。

 

 

 

さて、荊州問題が一応の決着を見せた後、孫権は気持ちを新たに、再び戦う構えを見せ始めた曹操の対応に着手するようになります。

 

 

まず、相手領との境目にある濡須(ジュシュ)に前線基地を作り、以後曹操侵攻を食い止める砦にしました。同時に、濡須にも近い秣陵(バツリョウ)を本拠地に定め、建業(ケンギョウ)と改名。

 

 

こうして準備を整えた後の建安18年(213)、ついに曹操が濡須に襲来し、孫権自ら率いる軍勢と睨み合いになりました。が、この時の衝突は小競り合い程度。対峙して1ヶ月ほどで、曹操は軍の乱れの無さに感嘆し撤退を決意。まず第一の攻勢をはねのけることに成功したのです。

 

 

その後孫権の侵攻を恐れた曹操は、孫権領との境に暮らす領民に移民命令を出したのですが……これが逆効果。長江流域の生活に慣れ親しんだ民たちは生活環境の変化を嫌い、逆に孫権軍に流れ込んできたことで、孫権にとって棚ぼた的な利益となりました。

 

 

さて、こうして孫権側に農民が流れ込んだことで無人となった、長江流域の曹操領側。孫権領の喉元に刺さった盧江(ロコウ)周辺も、ただ皖(カン)を残して無人地帯となってしまいました。

 

そこで孫権は、建安19年(214)に皖城を攻略し、一気に本拠を突かれる危険性を排除。

 

 

 

翌年には、さらに曹操軍の前線基地である合肥への攻勢を開始。俗にいう、合肥の戦いですね。

 

 

この戦いでは1万にも満たない曹操軍相手に孫権自らが大軍を率いて出向くほどの気合いの入れっぷりでしたが……結果は惨敗。

 

守将・張遼(チョウリョウ)らの奇襲によって出鼻をくじかれ、将兵の戦意が上がらず10日ほどで撤退。さらにその撤退途上でも襲撃を受け、各部隊は少なからぬ打撃をこうむり、孫権自身の命もあわやといった散々な結果に終わったのです。

 

 

やっぱりあんたは出ちゃいかんかったんや……

 

 

 

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虚々実々

 

 

 

合肥での敗戦から1年たった建安21年(216)冬、孫家には、赤壁以来の激震が走ります。

 

曹操が南下し、本格的に濡須攻略に着手。一説には赤壁以上とも言われる大軍を率い、濡須にほど近い居巣(キョソウ)に布陣。

 

さらには山越の非服従民を扇動し、内部からの切り崩しも同時に執り行うというガチ攻勢。戦いの前に孫権軍主力を率いる董襲(トウシュウ)が事故により亡くなるという事件も起きており、まさに絶体絶命の危機に陥りました。

 

 

こうして不利な戦いを余儀なくされた孫権でしたが、甘寧(カンネイ)の奇襲や呂蒙(リョモウ)の弩兵を用いた迎撃策などで曹操らに打撃を与え、そのまま膠着状態に持っていくことに成功。

 

しかし、曹操軍の国力は絶大で、今回はしっかりと対策も立ててきており、全体的な勝利をもぎ取ることができずにいました。

 

 

そんな劣勢の中、孫権は思い切った行動に出ます。

 

 

なんと曹操に和睦の使者を出し、曹操と休戦。

 

形の上では「孫権の降伏、臣従」と銘打っていますが、それにしては孫権側はその後も好き勝手やっており、どうにも臣従というほど上下関係がハッキリしたものではないようですね。

 

 

 

ともあれ、あろうことか最大の怨敵であるはずの曹操との和睦という禁じ手を打った孫権。その目は、すでに別の敵を見据えていたのです。

 

 

 

 

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荊州動乱

 

 

 

さて、話は少しさかのぼって建安19年(214)。劉備が益州を完全に手中に収めた後、孫権劉備に対して「荊州を返してほしい」と使者を送りました。しかし劉備からの返答は、「北の涼州取ってからね」。

 

つまりは、孫権軍の言い分に従うつもりはないという一種の意思表示でした。

 

 

その後も孫権は勝手に荊州諸郡の役人を任命して劉備軍が治める土地に送り込みますが、これもすげなく追い返される始末。

 

 

ここに至って、「荊州貸与」という、ある種の言いがかりに等しい言い分が大きな役割を果たします。

 

 

「借りたものを返さないとは、なんて奴だ!」

 

 

荊州攻略の大義名分を得た孫権は、さっそく魯粛呂蒙らに軍を授けて荊州諸郡を攻撃。長沙と桂陽をまたたく間に奪い取り、零陵をも包囲。

 

さらには荊州の守将である関羽(カンウ)を魯粛の軍勢が足止めし、救援の手を完全に封じます。

 

 

一方、孫権軍来襲の報を聞いた劉備も荊州救援の軍を編制。大軍を率いて荊州まで入り、両軍は一触即発の膠着状態に入ってしまったのです。

 

 

こうなってしまうと、まとまりがつくのも難しい。落としどころが見当たらず睨み合いの続く両軍。しかし、そんな折にタイミングよく、「曹操が益州を狙っている」という報告が届けられました。

 

 

益州は、現在の劉備の本拠地。そこを奪われては、その時点で曹操の一人勝ちが決まったようなもの。

 

 

天の助けか狙って引き起こした惨状か、これ以上の対陣が不可能になった劉備は、魯粛の後押しもあって孫権との和睦を決意。結局、交渉は孫権優位に進み、長沙、桂陽、零陵の3郡は孫権の領地として認められることになったのです。

 

 

しかし、劉備に煮え湯を飲まされて覚醒したこの男が、この程度の結果で満足するはずもありませんでした。

 

 

 

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荊州領有権は我にあり

 

 

 

さて、その後濡須の戦いを経て曹操と和睦関係になった孫権の目は、再び荊州に向くことになりました。

 

「以前は劉備にいいように使われたが、今度はそうはいくものか」

 

 

建安24年(219)、荊州の主将関羽曹操軍を本格的に攻撃すると、いよいよ孫権も磨かれた牙を荊州に突き立てることとなります。

 

なんと、孫権劉備を裏切り、呂蒙を主将として関羽軍に攻撃を開始したのです。

 

 

そして重要拠点である南郡を降伏させ、関羽の背後を遮断。なおも益州に逃げ帰ろうとする関羽を追い立て、ついにはこれを討ち取ってしまいました。

 

そして、奪った荊州では住民の租税を免除して慰撫に努め、住民らを徹底的に懐柔。劉備らに奪われた影響力を徐々に取り戻していったのです。

 

 

孫権がわざわざ曹操の風下に立つような真似をしたのは、すべてこの時のため。重要拠点である荊州を奪い返し、劉備にも一泡吹かせる。これが、孫権の狙いだったようですね。

 

 

ちなみに魏に臣従した形となった孫権ですが、人質を送れと言われてものらりくらりとかわし、さらには関羽の捕虜となっていた将軍・于禁(ウキン)を魏に返還せず数年上客としてもてなしたりと、結構やりたい放題しています。

 

やはり、魏への臣従もただの方便。孫権の志は、このまま魏臣として安寧を得ることにはなかったのですね。

続きを読む≫ 2018/06/16 11:39:16

 

 

 

 

孫策の弟として

 

 

 

孫権は父の孫堅(ソンケン)が下邳県(カヒケン)に赴任しているときに生まれ、9歳の時に父が他界。その後は小覇王とも言われた群雄・孫策(ソンサク)の弟、そして彼を支える有能な家臣団の一人として史書に顔を出し始めます。

 

 

孫権の政治的台頭は、なんと15歳のころ。江東を平定して足場を固めた孫策に、いきなり陽羨(ヨウセン)県の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)に任命されたのです。

 

実は孫堅亡き後の孫家では、彼の直流になる本家が軒並み幼く、孫策に信用できるものが少ない。そのため、孫策は弟の孫権孫策を支える大きな柱としてのお鉢が回ったのかもしれませんね。

 

 

ともあれ、こうして政治の表舞台に立った孫権は、その後茂才(モサイ:官吏登用試験)に推挙されて、代行役としてではあるものの一応の官職も与えられ、着実に孫家の柱として重用されるようになります。

 

 

また、軍事においても孫策は彼に経験を積ませたかったらしく、孫権は劉勲(リュウクン)や父の仇・黄祖(コウソ)など、当時ひしめいていた強敵の討伐にも従軍。時には危機にさらされて命からがらという事件などもありましたが(周泰伝参照)、着実に孫家本流の一員として大きな存在となっていったのです。

 

「江表伝」には、孫権の若かりし日について詳しく載っています。

 

孫権は任侠と思いやりをもって多くの名士と接し、若くして兄・孫策と互角の名声を手に入れました。また、謀議や計略の類にはいつも孫権が参加して非凡な才を見せつけ、孫策も「俺以上だな」と内心感じていたとか。

 

しかし戦争についてはお察しのようで、幼少から孫策に付き従っている割には、功績について何一つ言及がないという……

 

 

 

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兄の後は私が継ぐ!

 

 

 

建安5年(200)、着々と版図を広げつつあった孫策軍に、激震が走ります。

 

 

当主孫策、暗殺者の手にかかり死亡。

 

 

 

孫策の息子はまだ幼い。群臣は孫策個人に仕えていたようなものであり、「孫策様に近い気質の人がいい」と思い立って、孫権の弟である孫翊(ソンヨク)を後継に推す声も小さくはない。さらには周辺は武力で制圧した直後で、未だに不服従派の人民は多い……

 

と、これまで孫策という大きな柱に寄り添ってきていた孫策軍は、巨星を失ったことで早くも瓦解の危機に陥ってしまったのです。

 

 

そんな中、死を間近に控えた孫策が選んだのは、孫権

 

「戦争はともかく、人心を活かした領土の経営はお前の方が上手だ」

 

孫策は臨終の際に孫家の瓦解を予知。これを止めるため、自分にない才能を持った孫権に、自身の官職である会稽(カイケイ)太守を移譲。

 

 

 

こうして孫策の死後その地位を引き継いだ孫権は、後見人に定められた張昭(チョウショウ)に背中を押される形で、喪をほどほどに、即座に軍内の巡回を開始。

 

さらには、まだまだ不安定な領内の名士を懐柔するために、上客として丁重にもてなして手元に置くようにしたのです。

 

 

こうして動向を見守り隙を伺っていた多くの臣下をあらためて自身の配下に止め置き、部下の離反を最低限に食い止めることに成功。

 

 

それでも従わなかった者らは、軍を進めて討伐。しばらくは曹操の外交的介入や山越(サンエツ)の不服従民などにも苦しめられたりもしましたが、孫権の手腕もあって瓦解という最悪の事態は回避。数年の年月を要したものの、だんだんと孫呉の土地は穏やかさを取り戻しつつあったのです。

 

 

 

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荊州戦線

 

 

 

さて、荊州(ケイシュウ)の玄関口である江夏(コウカ)の地には、父・孫堅の仇である黄祖なる人物が割拠しており、兄・孫策の代から熾烈に争いを繰り広げる等、その関係は険悪と言っても差し支えないものでした。

 

しかし、一方で孫権軍は南の側にも山越なる不服従民を多数抱えており、孫権が跡を継いで数年は、片方を叩いてはもう片方が攻めてきての堂々巡りに悩まされていました。

 

少なくとも、孫権と黄祖との戦いの記述は数えるだけでも建安8年(203)、11年(206)、12年(207)、13年(208)の4回。

 

 

いずれも孫呉の記録に残っているもので、おそらく孫権軍側が敗北した記述は全部カットされていることでしょう。そう考えると、かなり激しく戦っているのがわかります。

 

 

記録にある4回の内、建安11年のものを除く3回は侵攻戦。つまり、最低でも2回は攻めきれずに撤退しているわけですね。そしていずれも、山越による侵攻や妨害がちらつきます。それだけ、孫権にとっては障害が多く、そして大きいものだったとすいそくができます。

 

 

 

そして結局孫権が黄祖を打ち倒したのは、最初の激突から5年後の建安13年のこと。1度目の戦いで戦死した凌操(リョウソウ)の子である凌統(リョウトウ)や、黄祖から離反してきた甘寧(カンネイ)らの参陣や後方がようやく落ち着いたのもあり、本格的に黄祖討伐に乗り出すことになりました。

 

 

仇敵との最後の戦いは水軍戦となりましたが、先陣の呂蒙(リョモウ)、そして決死隊を率いた凌統、董襲(トウシュウ)らの活躍により、黄祖軍は瓦解。そのまま一気に城に乗り込んで城を攻略。黄祖も無事に討ち取ることに成功し、ついに孫権は仇敵の排除に成功したのです。

 

 

 

こうしてようやく覇業に向けて本格的な1歩を歩んだ孫権ですが……すでに曹操が中国北部を平定し南下を開始。孫権が江南全ての王として君臨するには、あまりに遅いスタートでした。

 

 

 

 

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赤壁の戦い

 

 

 

この年、曹操の本格的な侵攻を前に、お隣の荊州を治めていた劉表(リュウヒョウ)が病没。曹操の南下とこの事態に際し、孫権は黄祖から奪った城を占拠せずに撤退し、少しでも対曹操の味方を増やすために魯粛(ロシュク)を弔問の使者に向かわせます。

 

しかし、使者として向かった魯粛が到着するのを待たずして、荊州は曹操に降伏。

 

 

ここで魯粛は、独断で降伏反対派を糾合していた劉備(リュウビ)や諸葛亮(ショカツリョウ)と会見し、勝手に同盟を結ぶ方向に話をもって行ってしまいます。そして魯粛は、劉備の使者である諸葛亮を伴って孫権の元へ帰還。

 

一方で、孫権軍中では多くの臣下が曹操への降伏を決め込み、議論の多くは降伏すべしとの声で埋め尽くされている有り様。

 

 

そんな中に、当時大して影響力の無い魯粛が勝手に曹操に敵対する人物からの使者を連れてきたのですから、孫権にとっては胃が痛いことこの上なかったでしょう。

 

 

とはいえ孫権も実のところ抗戦側の意見に近かったのですが、張昭を始め実質的に決定権を持つ家臣は皆降伏寄り。抗戦を唱えようにも、群臣から見たら所詮は孫策の代わり程度の立場に過ぎない孫権にはどうにも言いようがないというのが実情だったのです。

 

 

結局事態に窮した孫権は、ここで亡き兄・孫策の旧友である周瑜(シュウユ)を任地から召喚。非常に大きな影響力を持つ彼に「曹操撃退すべし!」と唱えさせたことで、ようやく議論の立場が逆転。こうして、ついに曹操との開戦にこぎつけることができたのです。

 

 

 

周瑜は老臣・程普(テイフ)と分割して軍事権を握り、劉備救援のための軍を進発。赤壁にてついに数倍もの曹操軍と激突し、俗にいう赤壁の戦いが始まったのです。

 

 

一見無謀ともいえるこの戦いに望む周瑜には、実はしっかりとした勝算がありました。曹操軍は戦争に不慣れ。しかもこの時期は疫病も勃発しやすく、大軍といえども指揮が上手く取れないだろうと見越していたのです。

 

この読みはこの上ないほどに的中。周瑜の予見通り曹操軍は不慣れな水上での布陣と疫病に苦しめられ、病死者と戦闘不能者が大半を占めるようになりました。

 

こうして士気が減退したところに、ダメ押しとばかりに火計を発動。周瑜軍は、驚くほどにあっさりと曹操軍を撃退。その後、荊州に残留した曹操軍との激しい領土争奪を繰り広げるようになるのです。

 

 

 

さて、この一方、孫権は……

 

前後して、東の合肥(ガッピ)に攻めかかり曹操軍を包囲。さらには軍を分割して軍人ではないはずの張昭に別方面を攻撃させ、どちらもまともな戦果を挙げられず撤退というむなしい戦いを繰り広げていたのでした。

 

ここで合肥を取れていれば……

続きを読む≫ 2018/06/16 11:39:16
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