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孫破虜討逆伝第一

 

孫堅 孫策

 

 

呉主伝第二

 

孫権

 

 

三嗣主伝第三

 

孫亮 孫休 孫晧

 

 

妃嬪伝第五

 

孫堅呉夫人(付、呉景) 孫権謝夫人 孫権徐夫人(付、徐琨) 孫権歩夫人 孫権王夫人 孫権王夫人 孫権潘夫人 孫亮全夫人 孫休朱夫人 孫和何姫 孫晧滕夫人

 

 

宗室伝第六

 

孫静(付、孫瑜 孫皎 孫奐) 孫賁(付、孫鄰) 孫輔 孫翊(付、孫松) 孫匡 孫韶 孫桓 

 

 

呉主五子伝第十四

 

孫登 孫慮 孫和 孫覇 孫奮

 

 

 

張顧諸葛歩伝第七

 

張昭(付、張奮 張承 張休) 顧雍(付、顧邵 顧譚 顧承) 諸葛瑾(付、諸葛融) 歩隲(付、歩闡)

 

 

張厳程闞薛伝第八

 

張紘(付、張玄 張尚) 厳畯(付、裴玄) 程秉 闞沢(付、唐固) 薛綜(付、薛珝 薛瑩)

 

 

周瑜魯粛呂蒙伝

 

周瑜 魯粛 呂蒙

 

 

程黄韓蒋周陳甘淩徐潘丁伝第十

 

程普 黄蓋 韓当 蒋欽 周泰 陳武(付、陳脩 陳表) 董襲 甘寧 凌統 徐盛 潘璋 丁奉

 

 

朱治朱然呂範朱桓伝第十一

 

朱治 朱然(付、朱績) 呂範(付、呂拠) 朱桓(付、朱異)

 

 

虞陸張駱陸吾朱伝第十二

 

虞翻(付、虞汜 虞忠 虞聳 虞昺) 陸績 張温 駱統 陸瑁 吾粲 朱拠

 

 

陸遜伝第十三

 

陸遜(付、陸抗)

 

 

賀全呂周鍾離伝第十五

 

賀斉 全琮 呂岱 周魴 鍾離牧

 

 

潘濬陸凱伝第十六

 

潘濬 陸凱(付、陸胤)

 

 

是儀胡綜伝第十七

 

是儀 胡綜(付、徐詳)

 

 

呉範劉惇趙達伝第十八

 

呉範 劉惇 趙達

 

 

諸葛滕二孫濮陽伝第十九

 

諸葛恪(付、聶友) 滕胤 孫峻 孫綝 濮陽興

 

 

王楼賀韋華伝第二十

 

王蕃 楼玄 賀邵 韋曜 華覈

 

 

立伝無し

 

孫夫人(孫尚香) 孫邵 谷利 祖郎

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:徐州広陵郡射陽県

 

 

 

 

張紘(チョウコウ)、字は子綱(シコウ)。史書的にも知名度的にも張昭(チョウショウ)とはお互いのスペアといった立ち位置の人ですが、片割れがあまりに派手過ぎるため割を食って存在感が微妙な人物。

 

が、張昭も張紘も名士としてはまさに超一流といった人物で、特に文才に優れてそちらでの活躍もしたようですね。

 

 

あんまりに堅物すぎて滅茶苦茶な張昭と比べて特に悶着を起こさなかったあたり、人物的にもかなり優等生気質だったのではないでしょうか。

 

 

 

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張昭のスペア

 

 

 

張紘の若い頃は、なんと都での学業三昧。華の都で最先端の学問を多く身に着けた都会派だったようですね。

 

『呉書』によれば、韓宗(カンソウ)という博士に師事。注釈入りの易経や書経をはじめ、多くの書物に習熟。その後今度は東に下って陳留(チンリュウ)で濮陽闓(ボクヨウカイ)なる人物からも手ほどきを受けたとのこと。

 

とはいえ、張紘が学問に打ち込んでいる時には、もう時代は乱世の秒読み段階。時代が荒れに荒れることは誰の目にも明らかでした。

 

 

張紘は学問を究めて故郷に帰った後からも三公(太尉、司徒、司空。言ってしまえば大臣)の役所からじきじきにオファーを受け取るほどの優等生でしたが、上記の事情もあったためか出仕を拒否。それどころか戦乱を嫌って長江を下り、揚州(ヨウシュウ)まで逃げてしまいました。

 

 

その後、孫策(ソンサク)が兵を挙げて江東の制覇に乗り出すと、この新興勢力に初めての仕官を果たし、校尉として迎えられました。『呉歴』では母の喪中に孫策の訪問を受け、三顧の礼で迎えられた旨が書かれていますが……実際のところはよくわかりません。

 

しかし、この若き大将はいささか血気に逸るところがあったため、時折自らが陣頭に立って指揮を執りたがる悪癖がありました。張紘はそれを見て「いかんな」と思い立ち、孫策に諫言を送っています。

 

「総指揮官というのは全員の命を預けるための役職であり、目先の敵にぶつかるための役どころではありません。軽はずみな行動はお控えください」

 

この諫言を孫策が受け入れたかどうかは史書に書かれていませんが……まあ、当人の性格を考えると「もっともだ」とか言いながら従わなかったのでしょう、たぶん。

 

 

再び『呉書』の記述。孫策はどこかに戦争に出かける時、必ず張昭か張紘のどちらかを連れていき、片方には留守番をお願いしていました。この辺からも信頼が伺えますね。

 

呂布(リョフ)が故郷の徐州を占拠した時は張紘の引き抜き工作を行ったようですが、呂布が大嫌いな張紘は歯牙にもかけなかったそうな。

 

また孫策の方でも張紘が離れるのを避けるため、「真珠は産出される海以外でも欲しい人は多いし、春秋戦国時代も楚の出身者が外国の天下統一に尽力したこともあった。立派な才人が力を発揮できるのは故郷だけと決まっている道理はない」という旨の手紙を送って引き留めたとか。

 

 

 

 

真珠はどこにいても皆欲しがるのです

 

 

 

建安4年(199)には、ようやく孫策の急速な勢力拡大にも落ち着きが見え始めました。

 

そこで、孫策はとうとう外交にも本腰を入れることを決意。張紘を使者に立て、帝を擁する曹操(ソウソウ)の元に送ることにしました。

 

 

張紘は曹操が帝のために宮殿を作った許都(キョト)に到着すると、さっそく孫策の上章文を提出。一通り使者としての役目をこれで果たしたことになりますが……なんと人材コレクターである曹操によって引き留められ、侍御史(ジギョシ:官吏相手の検察)の官位を与えられてしばらく許に滞在することになったのです。

 

この時に張紘は多くの名士からも一目置かれ、多くの人と交友を結ぶことになったのですが、あくまで気持ちは孫策に向いていた様子。

 

張紘は孫策の訃報をはるか遠くの許で聞くことになりましたが、曹操がこれに付け込んで孫策の旧領を攻めようとしたときに「死を利用して攻めるのは道義に反し、失敗すれば恨みを買ってしまう」と断固反対。この辺りからも、孫一門への忠誠心がかなり高かった可能性が伺えます。

 

 

曹操もそんな張紘を見て懐柔は無理と思ったのか、兄の事業を引き継いだ孫権(ソンケン)にそのまま孫策の位を譲渡。張紘も「孫権を配下に引き入れるための駒」という名目で揚州に帰すことにしました。

 

 

と、こんな状況から曹操側とも孫権側ともわからない立場で送り返された張紘ですが……『呉書』によればこの後孫権からも大いに信頼され、外交文書の起草なんかを行ったそうな。

 

また、呉の戦記のような記録も残しており、孫権の父や兄を絶賛する文章を孫権に提出して感嘆させたり、また問題行動の多い孫権に対する諫言も片割れと違ってオブラートに包んだり……

 

いずれも正史本文にない記述なので、案外途中まで任用されなかったか魏からすると「重宝された」記述が都合が悪いので削除されたのかはわかりませんが……少なくとも『呉書』を見る限りかなり重宝されていますね。

 

 

後に孫権は喉元の刃物に等しい立地の合肥(ガッピ)を攻めることになりましたが、ここでも孫権は孫家の血筋から自ら突出しようとしました。

 

そのため、参謀としてついてきていた張紘はこれに対して「それは部将の仕事であり、全員の心を集める総大将のやることではありません」とどこかで聞いたことがある諫言を行い制止。

 

結局この時に戦争の目標は果たせず帰還しましたが……孫権は「これで終わるものか」と翌年にも再び軍を動かそうとしたため、張紘はここでも出陣の取りやめを懇願。

 

「軍事的な成功は時節に噛み合ってこそ成し得るものです。今は兵を休ませ、内政や人事に力を入れましょう」

 

孫権はこの意見を受け入れ、合肥への侵攻は一旦停止。数年の空白期間が設けられることになったのです。

 

 

後に張紘は、本拠地を呉から秣陵(バツリョウ:のちの呉の都・建業)に移転することを提案。孫権にこれを受け入れられ、移転後の後始末に追われるのですが……張紘はそんな大移動の最中に折悪く病死。死の間際、孫権に対して置手紙を残しており、本文にもそれが記されています(後述)。

 

享年60。孫権は置手紙を読むと、涙を流したと記されています。

 

 

 

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張紘の置手紙

 

 

 

と、このように相方と違って静かながらも確かに重宝された張紘は、三国志を編纂した陳寿からも高く評価されています。

 

曰く、その評は以下の通り。

 

 

その申し述べるところは筋が通っており、意図するところも道理にかない、まさに一世の逸材だった。孫策の彼に対する礼遇が張昭に次いだのも、確かな理由があった

 

 

張昭≧張紘といった感じの評価ですが、いずれにしても大物であったことに変わりはありません。

 

また文豪としても知られていたようで、詩、賦、銘など、学術書に限らず多くの分野で十余りの作品を世に遺していますね。

 

 

さて、そんな政治に文芸に学術にと名士のたしなみをとことんマスターした張紘が最期に遺した置手紙を書いて、張紘の記述のまとめをしめたいと思います。

 

 

昔から統治者は徳のある政治を行い、かつての黄金時代に匹敵する時代を築きたいと考えているものですが、これがなかなか上手く行きません。

 

そんな芳しくない結果に終わるのは必ずしも忠臣や有能な者がいなかったからというわけではなく、主君の個人的な好き嫌いでそういった者たちに真っ当な働き口を用意できなかったからです。

 

 

そもそも人の性というものが、困難を嫌って楽な方に転がり、同じ意見が大好きで考え方の違う者を排除したがるわけですが、こういった気持ちは良き治世に逆行するものです。

 

「善に従うのは坂を上るようで、悪に従うのはどっと崩れるよう」という言葉がありますが、これだけ善行というのは難しいのです。

 

君主たる者、世襲と地勢に拠って人の上に巨大な権力を振りかざしているのですから、おべっか使いの同調者に喜んでしまい、他人の意見を求めるようなことはなかなかできません。

 

それに対し、忠臣ほど正しくも実現困難な道を示し、耳の痛い言葉を吐くわけですから、それは主君に嫌われるのも当然と言えるでしょう。

 

 

主君と臣下の間がピッタリと埋まっていないと、できた隙間から弁舌だけが得意な連中が取り入りに入ってきます。連中のくだらない自称忠義立てに心を乱され、寵愛に引っ張られて賢者と愚者の区別もつかず、序列を乱すことは主君によくある破滅の道ですが、原因は好悪感情で心が乱されて正常な判断ができなくなることにあります。

 

だからこそ、聡明な主君は道理に従い、賢者を飢え狂ったように探し求め、諫言にウンザリすることなくどんどん受け入れ、感情も欲望も抑えて正しい道義のために恩愛を割くのです。

 

 

上に立つ者の寵愛が不公平で理不尽なものであれば、下の者は僥倖など期待することもしません。どうかこの事を常に思い出し、決して高ぶることもされず、大きな仁愛で人々を包んでいかれますようお願い申し上げます。

続きを読む≫ 2019/01/23 14:37:23

 

 

生没年:?~建安8年(203)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡呉県

 

 

 

呉の皇族のひとりに、呉景(ゴケイ)なる人物がいます。この人は言ってしまえば孫堅(ソンケン)の奥さんの弟、ようは呉の初代皇帝・孫権(ソンケン)の叔父にあたる人物ですが……史書を読む限り、孫一門との関係はどうにも微妙というか何とも言えないものだったようです。

 

呉景自身はなかなかの名家の出身であり実力もそれなり以上に備えていたようですが、それが余計にややこしい事態を招いてしまった感がありますね。

 

 

とはいえ、最後には割とあっさり孫一門に臣従している辺り、当人的には別段悪印象はなかったようですが……ともあれ、記述を追ってその辺りを考えてみましょう。

 

 

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有力豪族、孫家と血縁へ

 

 

 

呉景はもともと呉郡に家を持つ人物で、豪族としての地位もなかなかの家の出に生まれましたが、折悪くも父母が早くに死去。姉と共に故郷を出て、銭唐(セントウ)の地へ移住。そこで暮らすことを余儀なくされていました。

 

が、そんな生活の折、呉景の姉が才色兼備の見事な女性と聞いてある男が銭唐を訪れます。

 

 

――後に江東の虎などと呼ばれることになる男、孫堅です。孫堅は呉景の姉を妻にしたいと強く懇願。一族はみな「あんな卑しい身分の男に……」とひどく孫堅を嫌いましたが、それを人づてに聞いた孫堅は呉一族に恨みの感情すら抱き、場合によっては身に直接の危険すら及ぶ可能性も出てきました。

 

さて、そんな気性の荒く危険な男である孫堅を見た呉景の姉は、「一族に危険が及ぶよりは……」と結局孫堅に嫁ぐことを決意。弟の呉景もそれに付き従う形で、まだ無名であった孫堅の部将として戦場をかけることになったのです。

 

 

こうして有力豪族であり血縁者の代表として孫堅軍に入った呉景は、彼の部将として共に各地を転戦。しっかりとした武勲を立てて孫堅から破格の扱いを受け、最終的には騎都尉(キトイ:近衛隊長。無名の将軍であった孫堅の配下にしては破格)にまで上り詰めます。

 

 

しかし、孫堅という人物は圧倒的に強くはあるものの身の回りの守りに無頓着な人物であり、やがて戦禍の中で死亡。孫堅軍は解体となり、呉景も故郷の揚州近くにまで退避。そのまま揚州北部に勢力を持っていた袁術(エンジュツ)によって目をつけられ、孫堅軍残党を率いる孫賁(ソンフン)ともどもその配下に収まることになりました。

 

 

 

 

袁術軍の一員

 

 

さて、こうして袁術配下として拾われた呉景は、その家柄と孫堅時代の功績を買われて袁術軍中でも高い評価を得、重要拠点である丹陽(タンヨウ)の太守を任されます。
この時丹陽は、袁術を嫌って独立した周昕(シュウキン)なる人物によって収められていましたが、呉景はこれに攻撃を仕掛け、周昕から丹陽を奪い取ることに成功。名実ともに丹陽郡の支配者となったのです。

 

 

こうして、袁術軍で一定の地位を確立した呉景は、旧孫堅軍の中でも特に立場の大きな存在にまで出世。後に居場所を無くした孫堅の長子・孫策(ソンサク)が配下と共に呉景の元を訪れた際には、彼らを迎え入れて兵力の増強を許可しています。

 

が、この時丹陽の中で幅を利かせていたのが、ある宗教結社。地理的におそらくは仏教系かと思われますが……その結社のボスである祖郎(ソロウ)なる人物が大変強力な人物だったのです。

 

そこで、呉景は孫策と共同戦線を組み、同時に祖郎を攻撃。なんとか撃退に成功しています。

 

 

ちなみに孫策伝に注釈として載せられている『江表伝』では、孫策は祖郎の軍勢に襲撃され、せっかく集めた兵が全滅に近い打撃を受けたと書かれています。

 

後に地盤を固めた孫策が丹陽攻略の際に祖郎と戦ったという記述もされており、もしかすると祖郎相手に勝てなかった、もしくは勝っても追い出すほどの打撃を与えられなかったのかもしれません。

 

 

また、漢王朝から正式に揚州刺史(ヨウシュウシシ:揚州の長官)となった劉繇(リュウヨウ)を迎えに行って、そのまま孫賁と共に役所まで護衛したりもしたのですが、この劉繇は実は反袁術の人。役所を掌握した途端に態度を一変させ、袁術の配下として動いている呉景らを任地から追い出してしまいました。

 

これによって、袁術は揚州の南を掌握した劉繇と開戦。呉景は督軍中郎将(トクグンチュウロウショウ)として孫賁と共に劉繇の軍勢と激しくぶつかり合います。

 

呉景らの軍勢は劉繇が派遣した将軍らと一進一退の攻防を繰り広げますが、両者とも決定打を出せないまま膠着状態に陥りました。

 

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甥の快進撃、そして

 

 

 

孫策が自ら呉景らの戦線に参加することを志願、そのまま袁術に借りた兵や幕僚、そして行軍中にいつの間にかついてきた志願兵らと共に援軍に駆けつけたのです。

 

孫策が戦争に参加したことで、膠着状態だった戦線は一気に袁術軍側に傾きます。一時期は偶然受けた矢により孫策が負傷、袁術側についた兵たちが再び騒動を起こすなどしましたが、呉景は反乱兵たちを殲滅する等、戦場はいつしか孫策中心に変わっていたことが伺えます。

 

 

かくして袁術軍は孫策の手により連戦連勝し、ついに劉繇は本拠を捨てて逃亡。独自に軍を率いて独断で揚州の他勢力に挑む孫策と別れ、呉景は孫賁と共に袁術の元に引き上げることにしました。

 

ここで孫策を放っておいたのが後々袁術の痛手となるのですが……実はこの時、袁術も結構手一杯な状態だったようです。

 

 

というのも、周囲はいつしか敵だらけ。味方だったはずの陶謙(トウケン)がすぐ北の徐州(ジョシュウ)で勝手に敵対し、北側に力を注がなければならない状況に陥っていたのです。

 

しかもこの時の徐州の主は、亡くなった陶謙の後を継ぐ形で入ってきた劉備(リュウビ)。戦上手の彼を叩き潰すには兵が足りず、呉景らも孫策の監視どころではなくなっていたわけですね。

 

 

呉景は袁術の元に戻ると、すぐに北の戦線に異動。国境線にある広陵(コウリョウ)の太守となり、劉備軍との戦いに明け暮れるようになったのです。

 

 

が、そんな時は長く続きませんでした。

 

甥の孫策が、とうとう袁術と手を切って独立。しかも袁術は連敗の果てに自ら皇帝を名乗る等してその勢力を大幅に衰えさせてしまったのです。

 

 

もはや袁術に未来無しと見た呉景は、すぐさま彼の軍を出奔。孫策の元に鞍替えし、彼の元で改めて丹陽太守の役目を引き受けることになったのでした。

 

また、呉景は独自に漢王朝から沙汰を受けて揚武将軍(ヨウブショウグン)に昇進。この辺りからも、孫策から一線を引いたような動きが見て取れます。

 

 

とまあこんな感じで、どこか袁術とも甥とも一線を画したような立ち位置にいた呉景ですが、建安8年(203)に在官中に死去。息子はこんな微妙な関係でも割と上手くやっていたようですが、孫やひ孫は粛清のとばっちりを受けて殺されるという最期を迎えています。

 

孫一門は、お互いに血縁者であっても油断はならなかったようですね。

 

 

 

 

当人は結構あっけらかんとしてそう

 

 

 

数代先の粛清劇からも見て取れる通り、孫一門の事情は非常に複雑。というのも、その偉業の始祖ともいえる孫堅が三流豪族の出で、しかも次男坊。孫策や孫権は従兄弟の孫賁兄弟に対してもそうですし、叔父にあたる呉景に対してもある程度の警戒をしなければならない立場だったと言えます。

 

特に呉景は、袁術の元にいた頃は完全に立場が上。後々孫策が将軍になって抜き返したと言っても、事実上袁術勢力下の旧孫堅軍では呉景がトップだったのではと思ってしまう描写も少なくありません。

 

 

もっとも、呉夫人伝付伝の呉景伝では終始孫策配下のように語られていますが……漢室から勝手に将軍職までもらっている辺り、その主従も相当に胡散臭いもののように思えてきます。

 

 

とはいえ、呉景自身は案外その辺はあっけらかんとしていたようで、あっさり孫策を受け入れて居候させ、おまけに募兵までさせてますし、袁術を見限って孫策に鞍替えするのも早かったような気がします。

 

当人が孫堅らをしっかりと認めていたのか、血族だと思っていたのか、呉景自身が実力主義者だったのか、はたまたドス黒い物を腹のうちに抱えながらも割り切ったのか……この辺はなんとでも想像ができますが、その辺りも含め、孫家の外戚らしい人物だったと言えるのではないでしょうか。

続きを読む≫ 2019/01/11 21:07:11

 

 

生没年:?~ 赤烏6年(243)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州会稽郡山陰郡

 

 

闞沢 教師 ブサメン 庶民上がり 努力家

 

 

 

闞沢(カンタク)、字は徳潤(トクジュン)。孫権軍の幕僚の中でもひときわ信頼されているイメージのある人ですね。

 

裏方ゆえにどうにもあまり出てこないイメージはありますが……貧乏人上がりのブサメンで次期皇帝の教育係になるって当時では凄まじい出世です。

 

 

逆境だらけのボロボロな出自の本来世に出るはずもなかった人物がこうして歴史に名を連ねるって、なんだか見てて面白いですよね。

 

 

 

 

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仁徳と知性を兼ね備えた成り上がり貧者

 

 

 

当時華やかな身分にいる人たちは、現代よりもさらにボンボンの貴族育ちが多かったとされています。闞沢はその中では珍しく、農民……つまり貧民の出であることが明らかになっています。

 

そのため、当然ながら学問に充てるお金もなし。当然ながら華やかな立身出世とは無縁で、いつも他人の文字おこしの仕事をしてお金を稼いでいました。

 

が、やはり当人も何かしら思うところがあったのかもしれません。文字おこしの仕事の際には、ただ無心に文字を写すだけでなく何と中身も完全に記憶。仕事の官僚を報告するときには、すっかりその本の内容を記憶してしまっていたのです。

 

 

こうして無学の貧乏人という立場から様々な書籍の知識を取り入れた闞沢は、いつしか学者としての道を志すようになったようで、突如として自らの師匠となる人物を求めて故郷を飛び出していきました。

 

残念ながら正史において「良き師に出会えた」という記述は一切なされませんでしたが……旅先で様々な議論をおこなったり論文を出したりという活動や暦をはじめ更なる研鑽を積み重ねていった結果、闞沢はいつしか周囲からも一目置かれる存在に。独学で勉学を極めた結果、師を仰ぐ必要すらなく名士の仲間入りを果たしたわけです。

 

 

こうして農民にあるまじき名声を得た闞沢は、ついに政治家としての推挙を受け、その第一歩を踏み出します。銭唐(セントウ)や郴(チン)といった各県のトップを務め、後の呉の皇帝・孫権(ソンケン)に目をつけられ彼のお膝元の役人に栄転。一度世に出てからは、驚くほどのスピードで出世を遂げていったようですね。

 

そして黄龍元年(229)に孫権が帝位に就任すると、尚書(秘書)に抜擢され、嘉禾(かか:232年~238年)の間に、今度は中書令(皇帝のプライベートの秘書長・あるいはその次官)、さらには侍中(皇帝直属のご意見番)も兼任という近侍職まで任されるほどになりました。

 

そして赤烏6年には、ついに皇太子の教育係という将来の重役を約束された立場に昇進。その傍らで呉での暦のズレを修正したりと、重要な議論には必ず声がかかるほどの信任を得て、学者としての功績から都郷侯(トキョウコウ)の爵位を拝命するほどの大身となったtのです。

 

しかし闞沢の死はこの1年後の赤烏7年(243)。この意外過ぎる死は、君主である孫権をも絶望に叩き込んでしまったようで、数日間食事に手を付けることはなかったと言われています。

 

 

 

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性格はまさに高級官僚の鑑

 

 

このように血筋は完全に貧民のそれでありながらも、持ち前の知力で大役まで上り詰めた闞沢ですが、その性格は謙虚にして実直。まさに高級官僚にはなかなか見かけない性格でありながら、その鑑ともいえる人物だったようです。

 

宮廷や行政府で人に呼び出しを掛けた時も、身分を気にせず常に対等の立場で接し続け、欠点を見つけた時も直接口にすることはなかったそうな。

 

間違っても暴言を吐いたり素行不良による不祥事を引き起こさなかったのでしょうね。

 

 

 

そんな彼を史書では一言でこう評しています。「見た目は冴えない無学のおっさんだったが、実際の知識はほぼ無尽蔵だった」。苦学の時から非凡さを見せていた分、もはや博識さは普通の人が追い付けないレベルだったのかもしれません。

 

また、厳しすぎることの欠点もよーく見抜いていたらしく、「最近は不正が多いので厳罰を敷いて取り締まりたい」という声にも「礼と律とによるべきだ」と反対し、和と正直を貫いて、その姿勢につられる人も多かったとか。

 

極めつけは、孫権の側近という立場を利用して好き勝手していた呂壱(リョイツ)という人の悪事が発覚した際も、「死刑だ」「見せしめにむごたらしく殺そうぜ」などという意見が大多数を占める中、闞沢だけは「そんな苛烈な刑罰は、この盛んで輝かしい、繁栄の時代でやるものではありません」と進言。孫権は結局、この意見に従ったそうな。

 

 

さて、こんないい人が教育係としても、頭の固い「頭でっかち」であるはずがありません。雑多でまとまりのない文章をわかりやすいように自分なりにまとめて、それを孫権の子供たちに享受。さらに子供らのために、外出や人と会う時の作法なども自分なりに制定したのだとか。

 

しかもその間に『乾象暦注』なるものを著書。これによって、ようやく季節や暦などが完全に一致するようになったのだとか。

 

 

知識人は偏狭と穏やかの二種類に分かれるとどこかで聞いたことがありますが、闞沢は明らかに後者の人物。我々も見習いたいですね……。

 

 

 

知識と仁徳が合わさり最強に見える

 

 

 

先述の通りの人格で周囲からの声望も高かった闞沢ですが、知識だけでなく、いわゆるトンチも兼ね備えていたようです。

 

 

魏の曹丕が帝の座に上って魏帝国を打ち立てた時、自身と曹丕の年齢を考えて自分のほうが年上であることを気にし、弱気になった孫権を、「気にする必要はありません」と激励。

 

孫権がなぜかと訊いてみると、闞沢はすかさず、「曹丕の『丕』の文字は、言ってしまえば『十まで届かない』という意味。つまりは十年ももたないという意味です」と返答。

 

偶然か必然か、曹丕はこの後本当に在位七年、十年足らずで病に倒れる事になったのですが……この辺りの切り返しのうまさはさすが知恵者といったところでしょうか。

 

 

こういった才気は、あの名誉棄損に定評のある虞翻(グホン)すら認めるところで、「才能は抜きんでていて、徳も高い。董仲舒(トウチュウジョ・前漢の時代の人で、儒教を国教にすることを献策した人)でも見ているようだ」と絶賛したとか。

続きを読む≫ 2018/12/22 23:14:22

 

 

生没年:?~黄武5年(226)

 

所属:呉

 

生まれ:幽州遼西郡

 

韓当 忍者? 呉 古参 特殊部隊 名将 勇将 敢死軍

 

 

韓当(カントウ)、字は義公(ギコウ)。孫堅の代から古参として活躍する超大物武将。なのですが……どういうわけか記述が非常に少なく、破格の名声を得た超一流武将にしては、黄蓋や程普ともども、いや、下手するとこの二人以上に影が薄い。

 

というか呉にはそういう武将が多い気がするのですが……やはり終始豪族同士で水面下の争いが行われていた事が大きな要因でしょうか?

 

 

ともあれ、最低限の記述はあるわけで……。とりあえず韓当伝から書かれている記述を拾い上げていってみましょう。

 

 

 

 

 

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呉の礎に欠かせない猛将……のはず

 

 

 

韓当は同僚の程普ともども、中国最北端の幽州の出身です。

 

それがどういうわけか南の出である孫堅に拾われ、そのまま一生をその勢力下で生きることになったのですが……どうやら韓当の場合は弓術、馬術共に人並み外れていて、さらにはとんでもないタフガイだったのを気に入られ、そのままスカウトされたようですね。

 

最初は下っ端として己の武ひとつで危険も顧みず暴れまわり、その活躍が認められて別部司馬(ベツブシバ:部隊の指揮官)に取り立てられます。

 

 

孫堅の死後、韓当の活躍ははしばらく鳴りをひそめますが、その長男である孫策が江東の諸勢力相手に台頭。

 

すると、韓当もそんな孫策の将として各地を転戦し、先登校尉(セントウコウイ)に昇進して2千の兵を与えられるようになりました。

 

 

その後も周辺に巨大勢力を築いた劉勲(リュウクン)や、旧主孫堅の仇・黄祖(コウソ)の討伐に従軍。そして後方に転任して山越(サンエツ)の不服従民の討伐にも参加し、いずれも武を振るいしっかりとした活躍を示したようですね。

 

山越討伐を終えると、韓当は辺境の安楽県(アンラクケン)の県長として、山越の民たちが再び攻めてこないように睨みを利かせ、しばらくその地を守護。韓当の監視下にいる山越たちは、彼に対しては非常に従順だったと書かれていますね。

 

 

 

孫呉古参の猛将

 

 

 

時代が孫権に代わると、今度は中郎将(チュウロウショウ:校尉より格上で将軍のひとつ下)として、赤壁の戦いに参加。曹操の大軍相手に勇戦し見事に撃退。

 

その直後には攻勢に転じて、呂蒙らと共に曹操軍の領地である南郡(ナングン)を奪って呉の荊州における足掛かりを築くことに成功。韓当もこの功績を良しとされ、偏将軍(ヘンショウグン)にまで出世することになったのでした。

 

 

後に程普や黄蓋といった同輩の宿将らが世を去った後にも、韓当は数少ない古参の老将として、第一線で戦い続けていますね。

 

黄武元年(222)には、陸遜、朱然といった世代の若い武将たちと協力し劉備の軍を壊滅状態に追い込むことに成功。威烈将軍(イレツショウグン)に昇進し、都亭侯(トテイコウ)の爵位を賜ります。

 

 

また同年、魏の帝である曹丕(ソウヒ)が呉の隙を突こうと三方から攻撃を開始しましたが、呉軍はこれをすべて撃退。

 

韓当はこの時朱然(シュゼン)の援護として南郡の一方の門を堅守し、疫病や援軍の敗走、内通者の出現という絶望的状況下を潜り抜けることに成功したのでした。

 

 

ここら辺りの韓当の活躍は軽く流されていますが……おおよそ呉の重鎮として非常に頼りにされていたのでしょう。翌年の黄武2年(223)には昭武将軍(ショウブショウグン)、石城侯(セキジョウコウ)に更なる出世を遂げ、ついに軍団を束ねる都督(トトク)の地位に就いたのです。

 

 

しかし、古参の老将として大いに躍進を遂げた韓当の寿命は、もう幾何も残っていませんでした。黄武5年(226)、孫家三代にわたりその躍進を見届けてきた韓当は死去。息子の韓綜(カンソウ)が跡を継ぎますが……諸事情あって、韓当の死から翌年には、遺族らはみな呉を離れることになってしまったのです。

 

 

 

 

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長く呉を見続けた宿将の意外な顔?

 

 

韓当は孫権時代の代表的な武将としてしばしば名前が上がり、資料不足仲間の程普、黄蓋、そして祖茂(ソモ)という人と並んで、四天王に数えられることもあったとか。

 

この中で韓当は武の体現者という立ち位置がふさわしく、自身の武力もさることながら、強力な軍隊を擁していたとも言われています。

 

南郡での一戦の後、韓当は第一線を退いて地方に出ていますが……その時も軍勢をしっかりとまとめ、模範的な武官として法律とお目付け役の言葉をしっかりと順守したとか。

 

 

とまあそんな遅咲きの立派な軍人といった感じの韓当ですが、なかなかに興味深い部分もあります。

 

それが、最晩年の戦いの事が書かれた記述。

 

 

黄武5年(223)に地方へと引っ込んだ韓当ですが、実はその後、一度だけ大規模な反乱軍を相手に戦ったという記載がされてあります。

 

その時に韓当が率いていたのが、なんと特殊部隊。敢死軍、及び解煩軍と呼ばれる、名前からしても普通でない軍を率いて山越の助力を得た反乱勢力と戦い、撃破したと言うのです。

 

 

まあもしかしたら対山越部隊はみんな特殊部隊なのかもしれませんが……韓当伝にわざわざ軍隊の名前がこうして記述されているのが個人的に不思議でなりません。

 

孫呉の戦い方は水上での決死隊を使った物も多いのですが……案外その類に関係している部隊の名前なのでしょうか?

 

 

まあ何をどうしても、少なくとも今の私にはこれらの部隊が何者なのかはわかりませんが……仮に暗殺部隊みたいなものとかだったら、模範的将軍である韓当の見方もなかなか興味深いものに変わっていきますね……

続きを読む≫ 2018/12/21 00:25:21

 

 

生没年:中平4年(187)?~建安24年(219)?

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡呉県

 

 

 

 

陸績(リクセキ)、字は公紀(コウキ)。無双シリーズをはじめ多くのメディアで陸遜(リクソン)が「江東陸氏」と自称していますが、陸績はそんな江東陸氏の宗家にあたる家系の人ですね。

 

主な逸話は、みかんと予言。今回はそんな陸績の伝を追ってみましょう。

 

 

 

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宿敵の元へ

 

 

 

陸績の父親は陸康(リクコウ)といって呉の四姓と言われる超名門の長でしたが、興平2年(195)、袁術(エンジュツ)配下として活動していた孫策(ソンサク)によって攻撃を受けて滅ぼされ、そのあおりで病没してしまいます。

 

陸績は父の死の直前、彼の手配によって故郷に逃げ帰っており九死に一生を得ましたが、孫策らの一門とは怨敵関係と言っても差し支えない状態になっていたのです。

 

 

後に孫策は、袁術の元より離反。陸一門の長となっていた陸績は、ついに怨敵の間柄を水に流して孫策に仕える一大決心をすることになりました。

 

賓客として迎えられた陸績は「まだ若いから」という理由で孫策陣営幕僚たちの末席に置かれましたが、この時、武力統治による強硬策を唱えた孫策に対し、陸績は真っ向から反論します。

 

 

「昔、宰相として諸侯をまとめた管仲は、その統治に軍を用いませんでした。また、孔子も『遠方の者が屈さぬ時には、自ら文徳を修めてこちらへ招き寄せるべきだ』とも言っております。あなたの意見はひたすら武力鎮圧を考えるばかりで、道徳を無視しています」

 

 

この意見の裏にあるのは、孫策の武力頼みな生活で壊滅した陸一門の恨みか、はたまた悲劇を味わったがゆえの厭戦論か……。

 

いずれにせよ、末席の若造にもかかわらずハッキリ意見を言う姿は孫策の幕僚陣の目には「非凡だ」と映ったらしく、彼らはみな陸績に心を打たれたという旨が史書に書かれていますね。

 

 

何にしても、陸績はあくまで孫一門に心から屈したわけではない証左でしょうか。しかし、彼の強固な姿勢はすっかりパワーバランスが変わってしまった東呉の雰囲気とは馴染まず、やがて陸績の身に大きな災厄が訪れることになるのです。

 

 

 

 

 

ほろびのよげん

 

 

 

やがて孫策が死亡して弟の孫権(ソンケン)が立つと、陸績も属官として彼に仕える事になりました。

 

陸績はその博学多才さから、非常に大きな信望を獲得。親子ほども年が違う虞翻(グホン)や年代も出身地も違う龐統(ホウトウ)など才人たちとも密接に関わり、その名声はまさに天を突く勢いでした。

 

 

 

しかし、江東陸氏は並外れた名門。非常に意識が高い人が多く、言論にも容赦や遠慮がないものばかりで、言ってしまえば意識が高すぎる人物が多いのが特徴。

 

陸績もそんな陸氏の悪癖を持ち合わせていたようで、また「少し前まで隆盛の極みにいた没落貴族」という立場も手伝ってか、次第に周囲から嫌厭されるようになっていったのです。

 

 

やがて陸績は中央からとうとう締め出され、はるか遠方である交州(コウシュウ)の鬱林(ウツリン)郡に太守として赴任。偏将軍(ヘンショウグン)の位と2千の兵が与えられはしたものの、事実上辺境に左遷されたと言って間違いない待遇でした。

 

学者としての出世ルートを志望していた陸績にとって、幅を利かせるのも自分の論文著書を発表するのも難しい辺境勤務は、事実上自身の夢が完全に潰えたも同然。ましてや足に障害を抱えていたために軍務には不向きであり、半分死んだも同然の扱いだったのです。

 

 

陸績はそんな環境下でもあくまで著作を続行、自分のやりたいことを貫き通しましたが、もはや本人の目から見ても奇跡が起こる可能性などどこにもありませんでした。

 

とうとう精魂尽き果てて絶望した陸績は、いつ自分が死んでもいいように自分の辞を生きているうちに著書。その内容は、以下のようなものだったとされています。

 

 

漢王朝の志士である陸績は、幼少から『詩経』『書経』に通じ、長じては『礼』と『易』を楽しんだ。

 

主命によって南方の軍事に参加したが、病を得てとうとう長生きできなかったのだ。

 

ああ、なんと悲しい事か! 生涯は己の願いと大きくかけ離れてしまった!

 

 

また同時に、「あと60年もすれば天下は統一される。それを見られないのは残念だ」とも述べたと言われています。

 

結局、陸績はこの予言通り33歳の若さで死去。晋による天下の統一も、その数十年後に見事果たされたのでした。

 

 

 

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孫一門に最後まで逆らった男?

 

 

 

 

陸績伝の記述によると、陸績は雄々しい風貌を持ち、博学多識で知らないことがなかったとか。当時では希少な計算術や暦法にも通じていたようで、とにかく学者としてはかなりレベルの高い人物だったようですね。

 

しかしまあ、自分で自分を祭るための言葉を書くとは……この時点で相当精神的に参っていたのがわかります。

 

 

さて、そんな陸績が遺した辞のひとつに、「漢王朝の志士」……原文では有漢志士という言葉があります。

 

まあ陸績が死んだときはまだ呉という国は存在せず、孫権も漢王朝の臣下でした。つまり、形式上は間違っていないし誰であっても辞にはこう刻まれるでしょう。

 

が、わざわざ自分自身でこんな言葉を残すあたり、もしかしたら孫策や孫権に対しては「漢王朝による江東平定のために使える駒」という意識を持っていた可能性がどうしても浮上してしまいます。

 

 

そもそも、陸氏は一度孫策によって滅ぼされており、しかも孫策の率いていた孫一門は陸氏からすると庶民に毛が生えた程度のもの。そんな一族に滅ぼされた怨恨は、もしかしたら最期まで陸績の心に残り続けたのかもしれません。

 

 

ちなみに陳寿は、陸績の評において以下のような言葉を残しています。

 

陸績のような人物を南方の守りなんかに配属した孫権の行いは、立派な人物を損なうやり方だったのではないか。

 

三国志が漢、魏と受け継がれたバトンを握っている晋の監修であり、それを考えると妄想じみた考察が止まりません。

 

 

 

 

陸績とみかんと蜂蜜

 

 

 

さて、最後に有名な逸話を載せて陸績伝をしめましょう。

 

これはまだ父親の陸康が健在で、しかも蜂蜜皇帝こと袁術とも完全に敵対しきっていなかったときのこと。

 

 

当時6歳だった陸績は、親睦(あるいは様子見)のため袁術にお目通りに向かいました。

 

この時に袁術は、陸績に対しておやつとしてみかんをいくつか差し出したのですが……陸績はそのみかんを3つほど懐にこっそり隠し、黙って持ち帰ろうとしたのです。

 

 

そしてとうとう退出するとき、お辞儀をした陸績の懐から、隠していたみかんが転がり落ちてしまいます。

 

袁術はそれを見て「陸家の若君は、みかんを懐に隠すような人物なのか」と咎めましたが、陸績はひざまずいて以下のように受け応えたのです。

 

 

「母のために、みかんを持ち帰りたかったのです」

 

 

孝行息子としての陸績の態度に袁術は感銘を受け、「彼はその辺の子供とは違うな」と感心。後にこの話は、親孝行の例のひとつとして後世に残ることになったのです。

続きを読む≫ 2018/11/22 11:24:22

 

 

生没年:?~嘉禾3年(234)

 

所属:呉

 

生まれ:兗州東郡発干県

 

潘璋 呉 猛将 暴力団 ジャイアン 吐き気を催す邪悪 知勇兼備

 

潘璋(ハンショウ)。字は文珪(ブンケイ)。孫権にその才能を愛され、また本人もそれに応えることにより、ある意味どんな困難も跳ね飛ばすだけの絆を結んだ人。

 

一言で言えば、めっちゃ強い上に極悪非道なジャイアンです。たまに優れてる割に人柄がアレな人っていますが、この人は根が山賊気質なんやろうなぁ……

 

 

 

 

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ところで、ヤクザの事務所付近は治安がいいらしい

 

 

 

 

潘璋は昔からアレな性格だったようで、出生払いと称して酒をタダ飲みするような人だったそうな。

 

しかし、そんな潘璋も同じアレな性格の孫権に取り入りに行って瞬間、彼によって「コイツは戦争させたら強い」とその器を大きく買われ、「お前部下を集めてこいや」とそのまま募兵を命じられ、集まった100人余りの兵士が彼の最初の配下になったのです。

 

 

やがて潘璋は呉を騒がす不服従民である山越(サンエツ)の討伐に従軍し大暴れ。別部司馬(ベツブシバ:非主力部隊の隊長)となって、今度は治安の悪い市場の取り締まりの任務を与えられるようになりました。

 

こうして市場の監視を始めたのは当人の才覚もあってか、市場を騒がせていた殺傷沙汰がピタリと止んで超安全な市場に大変身。たぶん怖かっただけじゃないかな

 

こんな功績もあって名声が高まると、今度は劉表(リュウヒョウ)の軍に荒らされて困り果てていた西安(セイアン)県のボスに栄転します。こうして潘璋が西安を治めるようになると、今度は劉表軍の略奪がピタリと止んでしまったのでした。たぶん怖かっただけじゃないかな

 

 

続けて隣県で住民反乱がおきると、潘璋は武猛校尉(ブモウコウイ)に昇格してこの反乱鎮圧に出立。なんと1ヶ月で平定を完了し、離散していた兵士800人ほどを収容。堂々、孫権の待つ建業(ケンギョウ)へと帰還したのでした。

 

 

 

 

 

前門の敵、後門のDQN

 

 

 

建安20年(215)、孫権軍は思い切って曹操軍の前線基地・合肥(ガッピ)を総攻撃。敵は圧倒的少数で負ける要素は無かったはずなのですが、敵将たちの獅子奮迅の働きにより奇跡の大敗北を喫してしまいました。

 

この時、敵将の張遼(チョウリョウ)が猛然と孫権軍を奇襲、陣中深くまで突撃し、主力の将軍だった陳武(チンブ)は討死。前線部隊の指揮系統は崩壊し、兵士たちは我先にと逃走を図ったのです。

 

そこでサッと動いたのが、後方に控えていた潘璋。彼は逃走を始めた軍に猛然と駆けつけると、そのまま流れるように逃げて来た兵士2人をスパッと斬首

 

 

「これ以上逃げたら殺される!」と本気でビビった兵士たちは慌てて持ち場に戻ったことで、崩壊寸前だった軍はなんとか持ちこたえることができたのです。「敵が怖くて逃げたのなら、敵以上に怖い味方がいればいい」。なんとも単純な原理ですが、潘璋の働きは確かに大きな原動力になったのですね。

 

実際、これを見た孫権は潘璋の現場判断力を見て高く評価。陳武の死で不在となった偏将軍(ヘンショウグン)に潘璋を昇格させ、彼を数年の酒代など余裕で返せるどころかブルジョア待った無しの地位まで押し上げたのでした。

 

 

また、建安24年(219)に、関羽の討伐部隊に参加。逃げようとする関羽を待ち伏せる伏兵部隊の役割を受け、重臣や息子もろとも関羽をひっ捕らえる大手柄を挙げたのです。

 

こんな大手柄を挙げたのですから、もう孫権もホクホク。固陵(コリョウ)郡なる軍を新設し、そこの太守と奮威将軍(フンイショウグン)の地位を潘璋に与え、さらに溧陽侯(リツヨウコウ)の爵位まで賜ったのでした。

 

また、前後して亡くなった甘寧(カンネイ)の軍勢も潘璋配下に引き入れられており、潘璋が孫権にどれほど信頼されていたかがわかるほどの優遇を受けています。

 

 

 

孫呉のDQNは知勇兼備

 

 

 

黄武元年(222)、関羽の死に怒った劉備(リュウビ)が報復戦を仕掛けてきました。

 

後に夷陵の戦いと呼ばれる1つのターニングポイントになる大戦でしたが、潘璋も呉の有力武将の1人としてこの戦いに参加。前衛の大将をしていた馮習(フウシュウ)を討ち取り、さらに敵兵も多数撃破という大手柄を挙げ、蜀郡の壊滅に尽力。

 

 

 

その後、平北将軍(ヘイホクショウグン)に昇進し襄陽(ジョウヨウ)太守に転進した後に、今度は魏の軍勢が大規模な攻勢を呉に対して仕掛けてきます。

 

潘璋はこの時、荊州方面に向かってきた夏侯尚(カコウショウ)らの軍勢と対峙。潘璋らの軍勢が駆け付けた時には既に夏侯尚の攻撃を受けた南郡(ナングン)は包囲され危機的な状況を迎えており、どう敵を撃退すべきかで連日軍議となりました。

 

その中で、潘璋は「勢い盛んに戦う敵と正面からあたるべきではない」と述べた上で、思いついた秘策を提案します。

 

 

「敵は長江の中州に一本の渡しをかけて、それを使って中州に渡り、城に圧力をかけとりますな。だったら、その渡しを燃やしちまえばいいんすよ」

 

 

潘璋はすぐさま兵を連れ、魏軍の陣地の上流に移動。長江の水かさがまだ少ない時期だったため、座礁しないように葦を切って軽いイカダを大量に作成します。

 

そして準備ができると、イカダに火をつけて川に流し、それで渡しを通行不能にしてやろうと考えたわけですね。

 

この作戦はあと一歩で夏侯尚に察知されて失敗しますが、渡しを安易に使えなくなったことで攻め手を失い撤退。結果として、潘璋の策が城を救ったのでした。

 

 

 

その後潘璋は、呉の守りの要である陸口(リクコウ)に後退。孫権が皇帝になると、右将軍(ウショウグン)に任じられ、ついに潘璋の栄華は極まりました。

 

それから先は特に活躍の機会が書かれておらず、嘉禾3年(234)に死去。家族は孫権に非常に優遇されて息子の潘平(ハンペイ)が跡を継ぎましたが父ほどの力量はなく、そのくせ素行不良なところは父にそっくりだったので完全に干されてしまったのでした。

 

 

 

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お前のものは俺のもの!

 

 

 

と、このようにDQN仲間の孫権からは非常に重宝された潘璋でしたが……その性格は最悪の一言。言ってしまえば、アホみたいに有能でとてつもなく恐ろしい力を持ったチンピラです。

 

その悪行は酒代のツケだけで飽き足らず、日頃の周囲に対する態度も小悪党じみたものだったと書かれています。

 

 

 

性格は粗暴、贅沢好きで強欲。身分に合わない立派な装飾品を身に着けて贅沢にふけり、晩年に大出世を遂げるとその贅沢や残念な振る舞いも悪化の一途をたどったとか。

 

特に盗み癖が最悪で、人のものが欲しくなると冤罪をでっちあげて処刑し、当然の押収という形でそれを手に入れるほどだったとか。その矛先は兵士も役人も問わず、孫権が力量を惜しんで黙認したのをかさに「お前の物は俺の物」精神をとことん貫いたのです。

 

 

しかしその軍勢は精強で、数千の兵しかいなかったにもかかわらず、実質的な戦力は1万ほどの軍勢にも匹敵する強さを誇りました。

 

そしてやはり才覚のひとつとして上げられるのは、市場の管理能力。恐怖で不正が起こりにくいだけでなく商品の管理も上手かったようで、他の軍からも不足品を買いに来る将兵が多数いたとされています。

 

 

演義では夷陵の戦いで関羽の息子から逃げようとして戦死という割とどうしようもない最期を迎えますが、正史に興味を持つ人が増える最近、情けない最期が創作と理解される一方でどうしようもないDQNとして名が上がる潘璋。

 

まあどちらでも名将であることに変わりはありませんが……果たして後世の評価で言えばどちらがマシなのでしょう。

続きを読む≫ 2018/10/30 19:27:30

 

 

生没年:?~建安24年(219)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州九江郡寿春県

 

蒋欽 知勇兼備 名将 隠れた名将 呂蒙 晩成

 

蒋欽(ショウキン)、字は公奕(コウエキ)。何とも地味~な印象の人ですが、荒々しくもプライドが高い呉の将軍の中では明らかな優等生。倹約と謙虚を徹底する人格者だったようで、その手の逸話には事欠かない人物です。

 

さらには呂蒙とともに学問にはげみ、ともに晩年になってから2人一緒に仁・知・勇を兼ね備えた名将へとなりあがったという、地味にとんでもない大物……かもしれません。。

 

 

さて、ではそんな蒋欽の伝を、今回は辿っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

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こいつ……強いぞ!

 

 

 

彼の名前が史書に出るのは、孫権(ソンケン)の兄である孫策(ソンサク)がまだ袁術(エンジュツ)の配下だった時。

 

この時の孫策は後々大きな行動を起こすために多くの勇士を仕官させたと史書にありますが、この蒋欽もその中の1人。どこで知り合ったか、周泰(シュウタイ)と共に彼に仕官したという記述があります。

 

 

ともあれ。最初の役職は召使い。本来ならば戦場には出ても兵を率いることのない身分でしたが……たわむれか才覚を見込んでか、ある時ついに兵を孫策から与えられました。

 

こうして部下の兵士を得た蒋欽は、突如としてその才能を開花。ついに群雄としての独立に向けて動き始めた孫策の部将として各地を転戦し、あちこちで華々しい活躍を上げて存在感を示します。

 

さらには、揚州の主要な郡のひとつである豫章(ヨショウ)の平定にも従軍し、蒋欽は紆余曲折あってついに県を治める県長の立場にまでのし上がったのです。

 

 

蒋欽は転任すること2回、3つの県を治めたとされていますが、そのいずれも不服従を誓った山越(サンエツ)の民族がたむろする治安の悪い土地。蒋欽は、完全にその武勇と軍事的才能を買われて起用されたわけですね。

 

 

そんな期待を受けた蒋欽は各地で大活躍しており、他の人物の伝で山越討伐のことが書かれている時にはだいたい援軍か協力者の1人として名前が出ています。そんな活躍もあって、蒋欽は会稽(カイケイ)郡の西部都尉(セイブトイ:都尉は軍事担当者)に昇進します。

 

後に山越の不服従民が兵をまとめて反乱を起こすと、蒋欽はこれの討伐に出立。反乱を首謀した総大将を見事に討ち果たし、反乱地帯の周辺一帯を軒並み鎮圧することで討越中郎将(トウエツチュウロウショウ:中郎将は将軍より下位の将校)に栄達。

 

 

さらに賀斉(ガセイ)が大規模な反乱の鎮圧に乗り出すと、蒋欽も討伐軍の援軍として1万の兵を率いて賀斉軍に合流。協力し、無事に反乱鎮圧を終えたのでした。

 

 

 

 

呂蒙+周泰÷2=蒋欽

 

 

 

こうして賀斉と協力しての反乱鎮圧を終えた蒋欽は、建安20年(215)、その足で更なる戦いに臨みます。

 

亡くなった孫策の後を継いで15年、名君としての器を徐々に花開かせていった孫権は、曹操軍の重要な前線基地である合肥(ガッピ)に総攻撃を開始。

 

しかし、そこを守っていた武将たちの獅子奮迅の戦いにより、元来勝てるはずだった戦いに勝利するのが絶望的な状況に陥ってしまいました。

 

 

孫権は撤退を余儀なくされ、やっとの思いで渡し場の北まで迫った時……最大の絶望が孫権軍を襲います。

 

なんと守将の1人である張遼(チョウリョウ)がすさまじい勢いて突撃を開始。兵の大半は渡し場を渡った後で、孫権を守れる兵はそう多くないというタイミングでの奇襲でした。

 

孫権はこの時命の危機に見舞われますが、諸将の奮戦によって何とか撃退に成功しました。主君の身を危険から守る殊勲を上げた部将の中には蒋欽の姿もあり、彼はこの功績で盪寇将軍(トウコウショウグン)に昇進したのです。

 

 

その後、今度は孫権側の前線基地である濡須(ジュシュ)が曹操軍の大軍に狙われますが、蒋欽は呂蒙と共に曹操軍の迎撃にあたり、何とか窮地を乗り切ったのでした。

 

 

その後の建安24年(219)、蒋欽は呂蒙と共に関羽討伐に参加。

 

この時の作戦は、関羽軍の拠点を水軍で奇襲するというものでしたが、この時に水軍を率いたのは蒋欽でした。

 

 

孫権軍は蒋欽の水軍指揮の腕前もあって無事に作戦を成功させ、関羽を討ち取ることに成功しますが……作戦から帰還する途上、蒋欽は病のために死去。

 

蒋欽の死を知った孫権は自ら喪服を着て蒋欽の死を悼み、その遺族には土地を与えて保護したのでした。

 

 

 

 

 

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人知勇を備えた傑物?

 

 

 

さて、こんな史書の裏で地味に大活躍した知勇兼備の勇将・蒋欽ですが……彼にはもう1つ、強力な個性があります。

 

それが、人格者としての逸話。

 

冒頭でも述べた通り、彼は謙虚と倹約を旨としたような生き方をしており、孫権がたまたま蒋欽の家の近くを通りかかった時も、母親は折り目の粗い服装をしていたそうな。

 

孫権はそれを見て「高い身分にあるのに……」と大いに感動し、豪華な衣服を彼の母親や妻妾たちにプレゼントして回ったのでした。

 

 

 

また、公務においても私情を挟まない"出来た"人としての一面を見せています。

 

 

蒋欽と同列に伝が立てられている徐盛(ジョセイ)という人は、ある時蒋欽の留守番を任されている役人を捕縛、そのまま処刑しようとしたことがありました。

 

結局「蒋欽は遠征中で連絡が取れない」という理由で役人の処刑は執り行われなかったのですが……以後、徐盛は蒋欽に対して一種の負い目というか、「いつか仕返しされる」という感情を抱くようになり、以後しばらく避けていたのです。

 

 

しかし、曹操軍が濡須に来襲すると、徐盛もこの防衛戦に参加。ついに蒋欽の下で動く瞬間が来てしまったのでした。

 

 

「いよいよアカン」と内心絶望する徐盛でしたが……なんと蒋欽は徐盛を罰するどころか、孫権に対して徐盛の力量を賛美するような言葉を述べたのです。

 

事ここに至って、徐盛は蒋欽と和解。その器に心服し、周囲の人々も蒋欽の立派な態度を褒め称えたのでした。

 

 

『江表伝』での話によると、その後孫権にこの事を指摘され、「公務を私情で行うものではないと聞いています。徐盛は忠誠心や知略、勇気も抜群の、万の軍勢を率いるに値する将。そんな大物を、どうして余計な感情から紹介せずにいられましょうか」と答え、孫権に絶賛されたという話もあります。

 

 

また、呂蒙伝から注釈された記述によれば、呂蒙と共に学問に精を出して大化けした人物として密かに蒋欽の名前も挙げられています。

 

「士別れて3日」とは呂蒙が放った言葉ですが、蒋欽もそんな人物の中にはいっているのですね。

 

 

 

と、このように大きな手柄を上げた蒋欽。陳寿からは他の将たちと一緒くたに評されて個人に向けた評論はありませんが、呂蒙が国士ならば、もしかしたら彼も国士と呼ぶに相応しい、あるいはそれに準じる才覚があったのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 7巻

 

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続きを読む≫ 2018/10/30 18:32:30

 

 

生没年:?~赤烏元年(238)

 

 

所属:呉

 

生まれ:徐州臨淮郡淮陰県

 

 

 

歩夫人(ホフジン)、または練師(レンシ)。歴史書においてはほとんど名が上がらない女性の中では比較的キャラ立ちさせやすい人物という事で、三国志系のゲームにも意外と出番は少なくない人物ですね。

 

……といっても、やはり戦争したり策略を用いたりといったこともないので、王異(オウイ)なんかと比べると知名度はまだまだといったところですが……

 

 

ともあれ、孫権(ソンケン)の寵愛を受けた歩夫人の存在は、確かに呉の宮中ではかなり大きいものだったのは間違いありません。

 

 

 

 

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実質皇后でいいんじゃね?

 

 

 

さて、この歩夫人という女性、実は後々呉の丞相にまで上り詰めた歩隲(ホシツ)の血縁者でした。

 

しかし、大乱によって幼い頃は結構な苦労をしていたようで、母親は曹操(ソウソウ)、そして孫権の兄・孫策(ソンサク)の侵攻を受けて2度も一家での移住を余儀なくされています。

 

しかしいつしか歩夫人は美しい女性に育ち、孫権に惚れられて後宮入りを果たし、最終的には孫権の娘を2人生み落とします。

 

 

歩夫人の立場はあくまで側室でしたが、孫権からの寵愛は随一。孫権が呉王になった時には、血筋からして最有力候補の徐夫人(ジョフジン)を抑え、孫権は歩夫人を皇后に選ぼうとしたほどに愛されていました。

 

 

しかしまあ結局は臣下に猛反対されたらしく、なんと孫権は皇后不在のまま決着を付けずに問題を放置。10年もの間皇后を指名せずに歩夫人を寵愛し、宮中では最終的に歩夫人=皇后という暗黙の了解が出来上がったのでした。

 

 

こうして実質的に皇后同然となった歩夫人でしたが、赤烏元年(238)に病気で死去。孫権は彼女を死をもって皇后を取り決めることを決定し、そのまま亡くなった歩夫人を強引に皇后にまで押し上げたのでした。

 

 

この時に孫権は追悼の言葉を残していますが……それは最後に回しましょう。

 

 

 

 

性格:そりゃ好かれるよ……

 

 

 

さて、三国志本文には歩夫人の性格について言及された一文もあり、そこには以下のように書かれています。

 

 

嫉妬知らずの性格で、しばしば後宮の他の女性たちに対しても後ろ盾として働いた。だからこそ、孫権に長く愛されたのである。

 

 

特に孫権の寵愛に調子に乗って何かをしたとか、皇后の地位欲しさに何かアクションを起こしたわけでもない。それどころか「後ろ盾となった」ということは、他の夫人を皇后にするつもりだったとも取れます。

 

捻くれた私からすると「実は母を追い詰めた孫策の弟である孫権に内心複雑な心情を抱いていた」とか、そういう解釈もしたくなりますが……まあなんにしても、他の側室からも実質的に皇后として認められたのは事実。

 

孫権の後宮は、嫉妬深い上に周囲の支持を得た正室の徐夫人や「陰険で嫉妬深い」と史書にすら書かれる潘夫人(ハンフジン)など、性格に問題のある大変個性豊かな女性の集まる魔境の大奥。

 

そんな中で、第一夫人を押しのけて皇后とされるのですから、まず間違いなく相当な人物ではないでしょうか。

 

 

ちなみに娘は後々大乱の中心人物となる孫魯班(ソンロハン)と孫魯育(ソンロイク)。隣にいる夫人たちも強烈なら、娘たちも強烈だったのでした。

 

 

 

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孫権からの追悼の言葉

 

 

今思えば、あなたこそが我が覇業を支える補佐者であり、二人して天地の秩序に慎み従ってきた。

 

あなたは日夜敬虔に務めて私と苦労を共にし、夫人としての在り方を修められ、礼の根本に違うことなく、心はひろく思いやり深く、貞淑の徳をしっかり身に着けておられた。

 

臣下も民衆も皆あなたを仰ぎ見て、遠方の者や弱者でさえ、あなたに心を寄せた。

 

 

私はまだ天下が治まらないことから、あなたの御心に沿って謙譲を旨とし、それ故に急いで皇后を取り決めることはしなかった。だが、それはあなたが長寿を得て末永く付き添っていけると考えていたからだ。

 

だが、あなたは思いがけずも世を去られ、その命は決して長いものではなかった。

 

 

あなたに皇后の位を与えたいという正直な気持ちを明かさなかったことを心残りに思い、また天の授けた幸運を十分に享受されることが無かったことを悲しみ、深い哀惜の念は我が心を痛ましめる。

 

 

かくして、孫権は歩夫人に皇后の位と練師という諡号を追贈し、彼女を送り出しました。

 

また、後年孫権が死去した時は、歩夫人も墓を移されて孫権と合葬という形になったのでした。

 

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/29 18:07:29

 

 

生没年:永寿2年(156)~黄武3年(226)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州丹陽郡故鄣県

 

 

 

 

朱治(シュチ)、字は君理(クンリ)。なぜか孫堅(ソンケン)四天王から除外された結果、知名度としては「三国志ゲームを孫堅(ソンケン)や孫策(ソンサク)でプレイしてたら初期キャラとしてなんかいた」ぐらいの人物。

 

しかし、実際は30年も孫家本貫地を含んだ呉(ゴ)の土地を守り抜くという、言ってしまえば呉という国のお膝元の守護者でした。

 

 

もっとも、自分の息がかかった人材をゴリ押しで後年の派閥争いの起爆剤にもなってしまった人物ではありますが……間違いなく大物です。

 

 

 

 

 

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孫家の窮地に朱治有り

 

 

朱治という人物は元々は小役人の立場でしたが、能力だか人格だかを相当に買われていたようで、州の従事(ジュウジ:副官)という立場にまで出世。この時まだ朱治は20代から30歳くらいの間なので、やはり当初からかなりの大物として期待されていたのでしょう。

 

 

そんな有能な官吏の朱治でしたが、ある時孫堅の配下に移籍。中平5年(188)には孫堅軍の軍事官僚である司馬(シバ)に任じられ、荊州南部の大規模反乱鎮圧において少なからず活躍し、そのまま都尉(トイ:郡の軍事担当)として、孫堅軍の中核を担うようになったのです。

 

 

当然、反董卓(トウタク)連合にも参加して主君と共に洛陽(ラクヨウ)入りを果たし、督軍校尉(トクグンコウイ)に昇進。そのまま別動隊を率いる指揮官となり、黄巾賊の残党に苦戦する陶謙(トウケン)の救援にも赴きました。

 

 

と、このように孫堅の腹心となった朱治でしたが、孫堅が戦死して軍が崩壊すると、孫堅の上司であった袁術(エンジュツ)に軍ともども吸収され、そのまま朱治も袁術配下の一人となります。

 

……が、数年の後に、朱治は完全に袁術の器量を半ば見放すような状態になっていきます。そしてついに、孫堅の息子である孫策にある提案をしたのです。

 

「多くの勢力が割拠する江東に入り、そのまま併呑なさいませ」

 

 

しかし当時、呉郡を中心とした一帯は、公式に認められた揚州の長官である劉繇(リュウヨウ)が治めており、彼は孫策袁術配下として自分を攻めるのではないかと警戒。下手に動けば劉繇配下の土地に本籍を置いている孫一族の身柄が危険であり、孫策は大規模な行動がとれずにいました。

 

そこで朱治は、自ら迎えの者をやって孫一門を鄭重に保護します。当然、劉繇勢力の一派である呉郡太守・許貢(キョコウ)が妨害に入りますが、朱治はこれを戦ってそのまま撃退。

 

ちょっと前に自分が呉郡の都尉の位を貰っていたのもあって役所を占拠し、そのまま許貢の逃亡で空席となった呉郡太守の職務にあたるようになったのでした。

 

 

かくして不安要素が無くなった孫策は、軍をまとめて劉繇の軍勢を攻撃。破竹の勢いで劉繇を破り、その後も周辺の敵対勢力を一掃して江東一帯を制覇することができたのです。

 

 

 

 

孫権配下の呉郡太守

 

 

 

さて、朱治と言えば、なかなかに人を推挙して何かしらの官職などにつけることの多い人物でした。孫策亡き後に呉の君主にまで成り上がった孫権(ソンケン)も、また15歳の時に朱治の推挙で官吏となっており、彼にとって朱治は頭の上がらない存在だったようです。

 

 

孫策が急逝した時も、朱治は張昭(チョウショウ)らと共に中心人物として孫堅を支え、建安7年(202)にはついに正式に呉郡太守に就任。扶義将軍(フギショウグン)としての将軍位と朱治自身の領地も与えられ、朱治領となった土地には代官が置かれるほどの厚遇を受けたのです。

 

 

その後朱治は史書の表舞台にほとんど姿を現すことは無くなりますが、孫権を裏から支える影の番人として常に彼を助け続け、また黄巾党や不服従民によって領内が荒らされるとたびたびそれらも掃討。不安定な地盤を史書に載らない裏方で常に支え続けてきたのです。

 

そんな功績もあって、孫権が呉王となった黄武元年(222)には毗陵侯(ヒリョウコウ)として県丸々を領地に拝領。しかし呉郡太守の任を外されることはなく、そのまま留任。翌年には安国将軍(アンゴクショウグン)にまで昇進し、高い身分を示す金印とそれにつける飾り紐を受け取りました。

 

 

しかし最晩年、朱治は長年勤めてきた呉から離れ、異民族鎮圧という名目で故郷の故鄣(コショウ)県に移動。これは郷愁の念に駆られた朱治の立候補によるもので、あくまで呉郡太守の仕事との兼任という形での任務でした。

 

里帰りを果たした朱治は、押し寄せてきた親族や旧友らと共に宴会を開き、任務の合間という限られた時間ではあるものの、生まれ育った故郷を満喫。1年余りの大罪の末に、再び任地の呉郡に戻っていったのです。

 

 

朱治が亡くなったのは、それからしばらく後。黄武3年(224)、呉郡太守をつとめること31年が過ぎた、69歳のことでした。

 

 

 

 

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驕らぬ人物像

 

 

 

このように、朱治は孫権からしてもまったく頭の上がらない立場にいる非常に大身な人物でした。

 

孫権からの歓待の有り様たるや、彼が呉王になってからも朱治には自ら挨拶をして共に拝礼。酒の席でも特別な土産でもてなす特待で、お付きの役人の立場にある人物までもが謁見が許され、呉郡からの献上品には明らかに過剰な返礼がされるほどでした。

 

 

しかし朱治本人はそんな待遇には一切驕らず、あくまで生活は質素。儀礼や政治上どうしても着飾らなければならないとき以外は高貴な道具や装飾品は一切使罠かったとされています。

 

 

そんな朱治は、陳寿によって以下のように評されています。

 

古くからの臣下として信任を受けた。

 

これは呂範(リョハン)と一緒くたにされている評ですが、実際に古参の重鎮として多大な権力、そしてそれに驕らない姿勢を持っていた事は確かです。

 

 

また、孫権の弟である孫翊(ソンヨク)の粗暴な性格を諫める記述もあり、孫一門にはなくてはならない存在だったのです。

 

 

 

 

独自軍閥?

 

 

 

と、このように尊敬されて然るべき人物であった朱治ですが、個人的にどうにも気になる一面が存在します。それが、三国志本文における以下の言葉。

 

 

孫権はお目付け役を派遣して直接彼らに処理させており、朱治が租税を処理していたのは4つの県だけだった。

 

しかし呉皇族や呉軍屈指の名家たちがこぞって彼の役所に出仕することになったため、常に呉郡の役所にいるのは数千人、孫権への数年に一度の挨拶も数百人が向かう事になったのである。

 

 

……これは、もしかすると孫権と朱治の水面下の対立?

 

また諸葛瑾(ショカツキン)伝には「孫権は朱治のことを内心腹立たしく思っており、しかし過失も何もないので内心に溜め込んでいた」とあります。もっとも、史書にある人の内面なんざアテになりませんが、諸葛瑾がわざわざ孫権の怒りを解きほぐすのに動いている以上、どうにもキナ臭い。

 

また呉国内では地元名士と君主、外様名士の争いは特にひどく、後々には二宮の変なる事件を筆頭に、次々と問題を引き起こすに至っています。

 

 

この辺から考えるに、もしかしたら朱治と孫権の間には何かしらの確執があり、後々の事件は朱治筆頭の確執から延長線上にある可能性も……?

 

 

まあこの辺りは完全な憶測ですが、数千人の役人という行き過ぎた地元名家ゴリ押しや、孫権による呉郡統治への過度な介入、そして孫一門のネックとして最後まで尾を引いた君主影響力、さらには孫権の暴走や名士間の派閥争い……

 

どうにも、この辺がつながりそうな気がしてなりません。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/28 17:35:28

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉(蜀)

 

生まれ:揚州呉郡富春県?

 

 

 

 

孫夫人(ソンフジン)、または孫尚香(ソンショウコウ)。あるいは演義だと孫仁(ソンジン)なんて名前もありましたか。

 

一般的には孫尚香という名前で日本では親しまれている人物ですが、実際に本名は知られておらず、単純に孫夫人というのが正史での呼称になっています。

 

 

吉川英治氏の三国志をはじめいろんな媒体では、弓を常に腰にかけていることから弓腰姫(キュウヨウキ)などと呼ばれる事もありますが……実際の孫夫人もとんでもない女傑、下手すると完全なDQNでした。

 

 

 

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劉備の!妻でも!屈しません!

 

 

 

孫夫人の夫である劉備(リュウビ)は彼女の兄・孫権(ソンケン)と同盟関係にあり、お互い仲良く肩を寄せ合っては料理に毒を盛り、握手する手に画鋲を仕込むような……言ってしまえば、お互いにとって油断のならない同盟相手でした。

 

まあ実際に料理に毒を仕込んだり刃物を仕込んだりというのはあくまで例え話なのですが、それでも外交の場でお互いの国や人材を公然とディスり合う等、表向き親密な同盟関係とは裏腹に大変ギスギスしたやり取りが日常茶飯事だったのです。

 

 

孫夫人は、そんな状況下で孫権が送り込んだ劉備への刺客。同盟関係をより親密なものにする一方で、どうにもそれだけでないような印象があります。

 

 

というのもこの孫夫人、劉備と会う時はいつも下女の100人余りを扉の前で武装待機させ、その上で劉備との会話だったり夜伽なんかに応じたのです。

 

後述する孫夫人の性格もまあ理由としてありますが……この応対は明らかに夫どころか、ただの味方として接するものかも怪しいところ。

 

 

当然劉備はこんな対応をされては常に神経を研ぎ澄まして臨戦態勢をとるしかなく、いつもビクビクしていたとのことです。

 

この話は諸葛亮(ショカツリョウ)も後に言及しており、法正(ホウセイ)の身勝手を告訴された時、告訴した部下に以下のように語っています。

 

 

「北に曹操(ソウソウ)、東に孫権、内部に孫夫人。劉備将軍はこれだけの驚異に囲まれていたところを、法正はしっかりと補佐して立派な国主に押し上げてくれたのだ。そんな人物が多少身勝手を働いたところで、何を咎めることができる」

 

 

……孫権はまだわかります。が、そんな脅威の存在から嫁いできた相手とは言え、妻が敵対勢力に匹敵する脅威というのは、さすがにどうなのか。

 

 

ちなみに孫夫人が兄と夫の同盟関係の本質を知っていたのかどうかは知りませんが、『趙雲別伝』によれば孫夫人の生活態度はぶっちゃけ悪く、兄が孫権なのをいいことに連れてきた部下ともども法律を無視して好き勝手していたそうな。

 

部下も好き勝手やって同盟国に多大に迷惑をかけていた辺り、さすがにわざとな気もしますが……ともあれ、これに耐えかねた劉備は厳格な趙雲(チョウウン)を孫夫人のお目付け役に任命。

 

 

策謀か天然かはわかりませんが、孫夫人は見事に蜀の名将を一人、実質的な行動不能に追いやったのでした。

 

 

 

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帰る時もタダでは済まさん!

 

 

 

まあ趙雲別伝にある極端な驕慢さはどうなのかわかりませんが……ともあれ、そんなギスギスした同盟国間のギスギス結婚生活が長続きするはずもありません。

 

結局ギスギスした仲は取り持つことができず、最後には劉備と別れて呉に帰ることになったのです。

 

 

『漢晋春秋』および『趙雲別伝』には、その孫尚香の離婚に関する逸話が書かれています。

 

劉備が益州(エキシュウ)平定を終えたことで、孫夫人は劉備との短い結婚()生活にピリオドを打ちますが、やはり離婚の際にもタダでは済ませる人物ではありませんでした。

 

 

なんと呉に帰還する際、劉備の皇太子である劉禅(リュウゼン)を連れて出立

 

確認ですが、劉禅の母親は甘夫人。間違っても孫夫人ではなく、我が子に情が沸いて慈母の精神で連れ去ったとか、そんなのはまずありえないです。それどころか一国の皇太子をさらうあたり、マジで蜀を潰すつもりだった可能性すらも……

 

 

まあ結局はお目付け役の趙雲(趙雲別伝では張飛も)が軍を率いて帰路を封鎖、劉禅の身柄を取り返したことでなんとか事なきを得ますが……本当、最後までおっかない女傑でした。

 

 

ちなみにその後の孫夫人は、呉に帰ったっきり史書に顔を出していません。後の創作では夫の死を聞いて長江に身投げしたことになっていますが……間違ってもそんなことをする人物でも、そこまでの関係ではないのは明白。

 

演義でのおしどり夫婦っぷりはどこへ行ったやら、実際の二人の関係は冷え込むを通り越してかなり剣呑としていたのです。

 

 

 

 

蜀の夫人伝に立伝はない

 

 

 

まあしっちゃかめっちゃかにするだけしてそのまま帰った(水面下では)敵国の夫人に伝なんて立てられるわけもありませんよね。

 

孫権と劉備の同盟やお互いの心境、信頼関係はどうだったのかは、おおよそ劉備と孫夫人のこの上なく物騒な夫婦関係が物語っていると思います。

 

 

一応、演義やその他の創作メディアではかなり仲の良いおしどり夫婦になっているんですけどね……やはり現実はそうはならなかった。

 

 

まあ孫夫人からすれば、失敗と妻子を捨てて逃亡を繰り返し流浪しまくってた数十歳年上の、しかも同盟関係にあるとはいえ実際敵国の君主をやってるオッサンに嫁がされたという話ですから、反攻できる余地があるならしたくなるのもわからなくもない……のか?

 

とはいえ、孫家は兄の孫権をはじめ危ない人ばかりの家系。アル中暴走大魔王の孫権の妹である以上、やはり一定数はそういった危険な血が混じっていた可能性は否めません。

 

 

ちなみに正史本文には、孫夫人の性格を以下のように記されています。

 

才気と剛勇において兄たちの面影があった。

 

 

殺戮の小覇王・孫策(ソンサク)と酒乱で名君かつ暴君の孫権、そして軽率で早死にした孫翊(ソンヨク)はじめ兄たちの面影……嫌な察ししか付きません……。

 

当時は政略や家を守るためのものに過ぎなかった女とはいえ、やはり孫家の血筋。実体はいまひとつわからないことも多いですが、女傑というのは孫夫人のような人を指すのかもしれませんね。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/24 20:18:24

 

 

生没年:延熹4年(161)~五鳳3年(256)

 

所属:呉

 

生まれ:徐州広陵郡海陵県

 

 

 

 

 

呂岱(リョタイ)、字は定公(テイコウ)。三国志でいうおじいちゃん武将と言えば、おおよそ思い浮かぶのは蜀の黄忠(コウチュウ)ですが、呉にはそんな黄忠を凌ぐレベルでのトンデモなご長寿武将がいます。

 

 

呂岱の寿命は、驚異の96歳。晩年にも兵を率いて反乱討伐に赴いたこともあり、非常に息の長い武官でした。

 

 

今回はそんな長命の反乱鎮圧専門家・呂岱の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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疎開先で大ヒット

 

 

 

呂岱は元々は地元の役人でしたが、大乱の影響で徐州に疎開していきました。

 

 

そんな呂岱が歴史の表舞台に姿を現したのは、兄の後を継いだ孫権(ソンケン)が人材を探していた時の事。

 

孫権のところでは君主自らが視察しては現地の役人に質問をしていくのが恒例でしたが、たまたま地方官として仕事をしていた呂岱は孫権の琴線に触れるレベルの高い受け答えをしたために、そのまま中央幕府の役人に抜擢されることになりました。

 

 

後に呂岱は幕府から地方に出て余姚(ヨヨウ)県長となり、募兵をかけて千余りの兵を配下に加えます。そして後に呉の領内で不服従民の反乱が起きると、呂岱は督軍校尉(トクグンコウイ)に昇進。将軍である蒋欽(ショウキン)と共に反乱討伐に赴いて、これといった問題もなく平定を完了したのです。

 

この功績によって呂岱は武官としての才覚を評価され、昭信中郎将(ショウシンチュウロウショウ)として、校尉より一つ上のランクで戦うことになったのでした。

 

 

 

なお、『呉書』には建安16年(211)に張魯(チョウロ)と連絡を取るために呂岱が二千の兵を率いて出迎えに行ったという記述があります。

 

しかし、張魯は途中で中間地点に位置する道を封鎖してしまったために、孫権の益州進出は失敗してしまったのでした。

 

 

 

 

荊・交州戦線

 

 

 

建安20年(215)には、孫権と同盟者・劉備との関係に亀裂が入り、孫権軍は劉備軍との国境を越えて進軍。

 

呂岱もこの時10人の部将を指揮する大将として出撃し、劉備が所有していた長沙(チョウサ)、零陵(レイリョウ)、桂陽(ケイヨウ)を武力制圧し、抵抗していた勢力を包囲し屈服させます。

 

 

一方の劉備軍も孫権軍の中から内通者を出して反乱を扇動します。

 

しばらく長沙に滞在していた呂岱は、魯粛(ロシュク)と分担してこの反乱鎮圧に出撃。呂岱率いる別動隊は、見事に反乱首謀者を追い詰めて処断に成功し、盧陵(ロリョウ)の太守に昇格。数え年にして55歳、ついに1郡を預かる太守にまで上り詰めたのです。

 

 

 

延康元年(220)には、それまで南を守ってきた歩隲(ホシツ)と交代する形で交州刺史(コウシュウシシ:刺史は州の監査官)に任命されました。

 

こうして南方の未開拓地を任された呂岱は、服従を申し入れてきた不服従民を慰撫すると同時に、自身に反発する不服従民らは軒並み討伐。反逆者が役所を包囲すると軍を率いてこれを撃退し、また周辺を荒らしまわる大勢力に対しては大規模討伐を行い、討ち取ったり捕らえた敵の数は一万余りに上ったのです。

 

呂岱はこの功績を大いに評価され、60歳という老齢にもかかわらず安南将軍(アンナンショウグン)に昇格。都郷侯(トキョウコウ)の爵位を拝領しました。

 

 

このように徹底的に自分たちに迎合させるスタイルで、呂岱は未開の地での影響力を強化していき、もともと孫権の影響力が少なかった交州を孫権色に染めていきました

 

そして黄武5年(226)に表向き孫権に従属していた南方の巨魁・士燮(シショウ)が亡くなると、呂岱は絶大な影響力を持つ士燮一族の影響を無力化すべく行動を開始。動乱を引き起こすことにつながるのです。

 

 

 

 

 

 

交州動乱

 

 

 

 

呂岱は影響力の高い士燮が亡くなると、ついに孫権の認可のもとで南方にもメスを入れ始めます。

 

まず交州の土地を分割し、孫権の影響力が比較的強い東側に新たに「広州」と名付け、そこに自ら刺史として赴任。そして残った西側の土地を交州として認めて息のかかった将軍を交州太守に任命したのです。

 

 

本当にザックリとになりますが……だいたいの感じは以下の図の通りですかね。

 

 

 

さらに孫権の狙いは州の分割だけでなく、士燮の本拠地であった交阯(コウシ)に後釜の太守を自身の部将にやらせること。

 

呂岱はこの意を受けて二人を派遣しましたが、当然ながら交州は士燮によって支配されてきたようなもの。士燮の息子である士徽(シキ)は新たな交州刺史や交阯太守の赴任を妨害。武力行使に出て、あくまで反対の意を示しました。

 

 

こうして士一族を討伐する口実を得た呂岱は、「これは叛逆行為だ」としてついに討伐軍を発足。三千の兵を率いて完全な南方平定に乗り出したのです。

 

呂岱はこの時、昼夜兼行で軍を進めて単騎で決着をつけるように進軍。「士一族は生半可では勝てません」と慎重策を唱える者もいましたが、呂岱はあくまで「油断しているうちが勝負だ」と強行軍を押し進めました。

 

 

こうして強行軍を進めた結果、士徽は「もう呂岱が来たのか!?」と大変驚いて従弟の士匡(シキョウ)の説得を受けて降伏。呂岱はこれを許さずに士徽を弟ともども全員処刑し、さらに攻めてきた士燮の元部将ら残党軍も撃退。

 

呂岱はこうして士一族の勢力をすべて滅ぼすと、その功によって番禺侯(バングウコウ)の爵位を拝領。また、広州も謀略という役目を終えて再び交州に組み込まれることになったのでした。

 

 

呂岱はその後も南方への進出を続け、数万という数の異民族らを討ち取ったり捕虜にしたりしました。

 

また、占領地も役人を派遣してしっかりと教化。完全に手なずけるようにしたために、最後には異民族の王たちの中からも孫権への服従を誓う人物が多く出てきたのです。

 

 

こうして呂岱によって南方は非常に平穏になり、功績が認められて鎮南将軍に昇格。

 

黄龍3年(231)にはついに南方平定を完了させ、その任を解かれて長沙に戻ってきたのです。この時、数え年にして71歳。

 

 

 

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老将呂岱

 

 

 

さて、こうして孫権の影響下である長沙に戻ってきた呂岱でしたが、実は荊州南部も不服従民や異民族の多い地域。隣の武陵(ブリョウ)郡でも異民族が怪しい動きを見せており、反乱も時間の問題となっていました。

 

そのため呂岱は、潘濬(ハンシュン)と力を合わせて武陵異民族の討伐を実行。危険の芽を事前に摘み取ります。

 

 

嘉禾3年(234)に猛将の潘璋(ハンショウ)が亡くなると、呂岱はその軍勢を引き継ぎ。その後も荊州の重要拠点を渡り歩いて国防に努めます。

 

 

また、大規模な反乱が呉の領内各地で起こると、呂岱は鎮圧軍の総大将として出撃し、各地を諸将に任せて自身も1方面の反乱軍討伐を開始。長年呉を苦しめてきた賊徒の李桓(リカン)らを斬首すると同時に、降伏してきた隋春(ズイシュン)なる人物は将軍に取り立てるなど硬軟を織り交ぜた対応をして、呉の国難を取り除くことに成功。

 

赤烏2年(239)に潘濬が亡くなると、ついに呂岱は荊州の公文書を認可する政治的な仕事にも参入。、陸遜(リクソン)と共に荊州の本部に身を置きながらも、率いていた軍の駐屯地はそのままで指揮を任されることになったのです。

 

 

 

こうして呂岱が非常に重い役職に就いてしばらくすると、廖式(リョウシキ)なる人物が呉に対して反乱。周囲の城に攻撃を仕掛け始め、周辺情勢が悪化しはじめました。
呂岱はこれに対してすぐ孫権に上奏文を送ると、その返事や認可を待たずして出撃。呂岱は孫権の追認を受けて交州牧(コウシュウボク:牧は州の長官)となり、援軍を次々と呂岱へと派遣したのです。

 

 

この廖式の反乱は非常に大きかったようで、廖式によって勝手に官位を与えられた者が多数、さらに討伐期間も1年ほどかかってしまっています。

 

それでも呂岱は上手くこの反乱を鎮圧し、勝手に廖式が任命した地方官を斬ってその部下を接収。完全に収めてから本拠に帰還しました。

 

 

赤烏8年(245)に陸遜が亡くなると、今度は諸葛恪(ショカツカク)が荊州本部に赴任。孫権はここで本部の役所を右部と左部の二つに分け、その右部を呂岱に任せることにしたのです。

 

 

後に呂岱は上大将軍(ジョウダイショウグン:指揮官の最高職?)に昇進。そして孫権がいよいよ危篤になると、彼より20歳以上年上の呂岱も臨終の場に呼ばれ、後事を託されています。

 

 

こうして孫権が崩御して孫亮(ソンリョウ)が二代目に即位すると、呂岱は大司馬(ダイシバ:軍部の最上部。言ってしまえば国防長官)にまで上り詰めました。

 

しかし、この時の呂岱はすでに90を超える大長老。結局押し寄せる年波には勝てず、大司馬就任の5年後にあたる太平元年(256)に、96歳の長寿をついに全うしたのでした。

 

 

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人物像

 

 

 

と、だいたいの記述を追っていきましたが……呂岱はどちらかというと外憂内患の内患を処理するタイプの武将だったわけですね。そのせいかあまり影は濃くありませんが、そもそも中国は全土を敵に囲まれているような状態。そのため、三国間だけでなく、こういった諸外国の介入にも力を注ぐ必要があったのです。

 

 

さて、そんな呂岱ですが、陳寿は以下のように彼を評しています。

 

 

純粋な誠意をもって国に尽くした。

 

 

呂岱は年老いてなお国の要職を全うし、老齢にもかかわらず軍事行動にも参加しています。この事は呉の将軍である張承(チョウショウ)も非常に敬意を表され、褒め称えられています。

 

曰く、「礼については鄭重さを取り上げ、徳については盛んさを取り上げる。この2つの美徳を兼ね備えていらっしゃる」とのこと。

 

 

 

反面、この手の忠臣にありがちな事ですが……国のために家族は大事にしないという点も持ち合わせていました。

 

 

自身も大変に質素な生活をしていた呂岱ですが、なんとそのせいか家族にも何年にも仕送りをせずに放置、ついには食べるものすら困るような有様だったのです。

 

さすがの孫権もこれを知って特大ため息をつき、呂岱……ではなく自身の臣下たちにお説教を垂れました。

 

 

「呂岱は身を削って国のために尽くしている。そんな忠臣の家族を困窮させて無視を決め込むとはどういうことだ」

 

 

かくして、呂岱の家族は年に1回、決められた数の銭、米、反物を受け取ることになり、ようやく貧困を脱したのでした。

 

 

 

 

呂岱のマブダチ

 

 

 

最後に、呂岱の親友ともいえる徐原(ジョゲン)なる人物との友情を記してしめたいと思います。

 

徐原は気概と才能を持っている人物で、呂岱は常々「こいつは大物になる」と思い、生活や権力面でいろいろ融通を利かせるとともに非常に仲良く接していました。

 

 

一方の徐原は真心を持っていたものの思った事はすぐ口にするタイプで、言いにくい事や他の臣下の見ている前であっても、堂々と呂岱に対して思いの丈を述べて諫言を行ったのです。

 

当然、そんな人物は権力に媚びる者の讒言にあってそのまま落ちぶれるのが世の常。徐原もしばしば讒言を受けてしまいますが……呂岱は怒るどころか逆に徐原の遠慮のなさを賞賛。「ああいう奴だからこそ大事にしてるんだ」と返したとか。

 

 

後に徐原は御史(ギョシ:官吏の監査官)にまで出世しましたが、呂岱に先んじて死去。

 

呂岱はその死を嘆き悲しみ、「真の友人だった。これでもう俺に諫言できる奴はいなくなったな」と独白し、この話は大きく広まって友情の美談として語られるようになったとか。

 

 

二宮の変では孫覇(ソンハ)を支持した急進派であり、彼らは悪名高い存在として世に残っています。

 

呂岱も裴松之から「語るに及ばない小悪党」とまで呼ばれて世間からも蔑まれる存在ですが……どうにもそれは実態とは大きく乖離した存在ですね。

 

 

実際、交州への措置などを見ても苛烈な政策が目立つ呂岱ですが、それだけには決してとどまらない人物なのではないでしょうか。

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 7巻

 

正史 三国志〈7〉呉書 2 (ちくま学芸文庫)

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続きを読む≫ 2018/10/22 12:15:22

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:揚州九江郡下蔡県

 

 

勝手に私的能力評

 

周泰 孫権 呉 名誉の傷 護衛 猛将 孫権被害者の会 漢中太守

統率 B 寒門出身のためナメられる事もあったが、兵から不満があったような話は聞かない。濡須なんて重要拠点を任される辺り、相応に統率力も持っていたのだろう。
武力 S 全身傷だらけになりながらも暴れ回るタフガイ。孫権が若くして死ななかったのは彼の功績が非常に大きい。彼にかけられた短命の呪いを打ち破ったのだから、武勇は間違いなく最高峰だったのだろう。
知力 D 知力エピソードは悲しいくらいに存在しない。
政治 D 武官である以上、政治に口出しすることはない。
人望 C+ 孫策、孫権からは高く評価されたが、やはり寒門出身という出自が足を引っ張ったようだ。

 

 

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周泰(シュウタイ)、字を幼平(ヨウヘイ)。昔は結構なマイナー武将でしたが、三國無双なんかのメディアで取り上げられてから知名度が大幅に上がった人ですね。

 

ゲームなどではたびたび孫権のボディガードとして登場し、だいたいのメディアで無口な印象を与える人物ですが……史書でもあまり変わりなく、ほぼその通りの人物像を形成しています。

 

 

今回はそんな寡黙な勇者、周泰の伝に迫っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

傷だらけの守護神

 

 

周泰は昔から蒋欽と仲のよい友人だったようで、はじめは孫権の兄・孫策に二人そろって加入。慎み深い忠勤と戦争でたびたび手柄を立てる能力を気に入られ、またたく間に孫策の側近に加えられました。

 

 

そして建安元年(196)孫策が会稽(カイケイ)の攻略を成功させ江東一帯を制圧すると、別部司馬(ベツブシバ:別動隊隊長)に任命され、一軍を預かる身分になります。

 

そんな折、周泰は孫策の弟・孫権に出くわすのですが、孫権は周泰に一目惚れ。孫権の猛アタックと孫策への打診を経て、孫権の配下に移籍することになりました。。

 

 

さて、この頃(というかだいたいいつも)江東では山越族という異民族の領内侵攻に悩まされており、呉はたびたび山越攻撃の軍を起こしていました。

 

当然、呉ができる20年以上前の孫策の時代にも山越の動きは活発で、孫策自身が山越討伐に出向くこともしばしばでした。

 

 

そんな山越討伐の折、孫権と周泰らが孫策の山越討伐のお留守番として宜(ギ)城を守っていた時、『まさか』の瞬間が訪れます。

 

なんとお留守番中の孫権の元に、山越軍数千が攻め寄せてきたのです。対する宜城の兵は千に満たず、攻められることを想定もしていなかったため防備も中途半端という有様。兵たちも混乱し、山越の攻撃に右往左往といった様子。

 

そして孫権自身にも敵が殺到し、馬の鞍にすら刀傷がつくほどに追いつめられる中、周泰は一人奮戦し、孫権を護衛。その雄姿は常人の及ぶところではなく、周泰のこの奮戦によりようやく兵たちも息を吹き返し、数倍にも及ぶ敵軍をすべて追い返すことに成功したのです。

 

 

しかしこの代償に12か所も傷を被る瀕死の重傷を負った周泰は、戦いが終わると昏倒。しばらくの間休養を余儀なくされたのです。

 

 

ともあれ、この働きによって後の呉国初代皇帝・孫権の命が守られたことは言うまでもなく、孫権も彼に深く感謝。傷が癒えると一つの県を任地として丸々彼に与え、後々には県で集めた税金すべてを周泰の財産にするのが許されたとされています。

 

気性が荒く気難しい孫権も、命の恩人には最大限敬意を表したのです。

 

 

当然、孫権孫策の跡を継いだ後も、父の仇敵・黄祖(コウソ)討伐や赤壁の戦いなどにも従軍。その都度戦功を挙げ、ついには平慮将軍、さらには対曹操最前線である濡須(ジュシュ)の司令官にまで上り詰めました。

 

 

 

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名誉の傷は味方も動かす

 

 

さて、これだけの働きを見せても、所詮はどこの馬の骨かもわからない家の出。特に呉では豪族の力が強く、家柄や血統が何より重視される場合も少なくはありません。

 

孫権がよくても、その配下の中には血統や門地の劣る彼をよく思わない人物も大勢いました。その代表格として名前が挙がるのが、朱然(シュゼン)と徐盛(ジョセイ)。どちらも孫権軍では人知勇を兼ね備えた名将中の名将ですが、それだけにプライドが高く気難しい部分もあったのです。

 

 

しかも彼らだけでなく、将軍の誰もが周泰に従おうとせず、全く統率が取れない状態。

 

そこで孫権は濡須に自ら視察に乗り出し、将軍らを集めて大宴会を実施。しかも主君自ら手酌を行い、諸将のご機嫌取りに終始します。

 

こうして自ら場を盛り上げた後、孫権は周泰をその場で裸にし、彼が負った傷の一つ一つを指差して、どこで何をして負った傷なのかを答えさせたのです。当然、それらの傷の中には以前山越から孫権を守ったときの物までありました。

 

そんな周泰の武勇伝と忠義を見せられては、さすがに朱然も徐盛も彼を認めざるを得ません。この宴会を境に、周泰を見下していた諸将の行動は一変。彼に最大限敬意を表し、その命令を素直に聞くようになりました。

 

ちなみにこの時、孫権は周泰を字で呼び、最大限敬意と親愛を示したとされていますが……以前命を救われた恩義のある孫権ならば、こういうことをしたくなるのもわかる気がします。

 

 

 

孫権関羽を討ち取って劉備らと敵対すると、周泰は昇格の上、漢中太守に任命されました。これはもし劉備を滅ぼせれば対魏最前線を任せるという意味合いで、ここからも孫権の厚い信頼が伺えますね。

 

 

しかし周泰はその後活躍を見せることなく、数年後に病死。これほどの忠臣の死期が歴史に記されていないのは、何とも悲しい気がしますね……

 

 

 

 

庶民出身者は扱いが悪いのです

 

 

 

どの国、どの時代も、どうしても身分の壁というものは存在します。結局人は見下したいものはメリットが無くても見下すもので、家柄差別なんかは特にその最たる例だったと言えるでしょうね。

 

例えば魏では、徐庶(ジョショ)や薛悌(セツテイ)のような庶民出身の大物が高い位に上り詰めていますが、正史三国志の本文に伝が立てられる事がほぼなかった辺りからも何となくその辺の事情が伺えます。

 

 

周泰が所属していた呉は、土着名士中心の派閥と外様中心の名士派閥の間で水面下の争いが繰り広げられる国。気位の高い人物も多く、庶民出身で高い身分にある人物はそれだけで精神が削られる思いだったでしょう。

 

 

事実、周泰も朱然や徐盛といったそこそこ以上の家の出のお坊ちゃま将軍から突っかかられています。もっとも、この二人はプライドが高いものの話は分かる人物なので、結局丸く収まったのですが……中央の名士の中には、周泰のような庶民の事を良く思わない人物も大勢いたのではないでしょうか。

 

 

 

ちなみに陳寿では、徐盛や友人の蒋欽らと共に「勇猛な人物で、呉が割拠する大きな要因となった」と評されています。

 

庶民は高官に上り詰めても伝は消されてしまう事が多いのですが……やはり周泰の活躍がそれだけ大きかったという事でしょうか。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/17 12:59:17

 

 

生没年:光和5年(182)~赤烏12年(249)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州丹陽郡故鄣県

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 A+ やはり一流の将軍で、兵の心をがっちり掴んだ。防戦やピンチの時の爆発力は圧倒的だが、攻めに関してはどうにも……。一応、一通りはこなせたはず。
武力 江陵防衛の時は死ぬしかないくらいの劣勢の中、魏の陣営を二つ陥落させた。陣が軽く百はありそうなことを考慮するとショボい戦果だが、そもそも状況が状況だけに陥陣営もかくやという武勇伝。
知力 B 夷陵における対劉備慎重策、孫権から意見を求められるなど、知勇兼備の人物だったと言って良いだろう。
政治 政治でどうしたという話は聞かないが、呂壱事件後の孫権が彼にも意見を求めた。一定の統治能力や大局眼は持ち合わせていたのだろう。
人望 学友、所属派閥無しという稀有な存在で、孫権から重宝された。どの派閥にも顔が利く無所属というのは、何気に呉の中ではかなりレアな人物。

 

 

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朱然(シュゼン)、字は義封(ギホウ)。孫権(ソンケン)の学友でマブダチ。そして防衛線で神がかり的な活躍を見せるというトンデモ武将の一人なのですが……どうにも影が薄い人物です。

 

基本的にはその他大勢のちょっと目立つ人。雑魚に少し毛が生えた程度のヘボ武将として長い間知られてきたという不遇の時期を味わっており、現代でも注目されるたびに「こんな雑魚を……」と呼ばれる事もたまーにあるくらい、知名度と人気がかみ合わない悲しい光景も……

 

 

しかし、最近では少しずつ風向きが変わりつつある朱然。今回はそんな彼の事績を、列伝から追っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

実は呂蒙の後継者!?

 

 

 

朱然は元々は施(シ)という家の子でしたが、母方の兄弟は孫家古参の名士である朱治(シュチ)。彼は自らの跡継ぎがおらず困っていましたが、おそらく何か見どころがあったのでしょう。まだ十三歳の施然を後継ぎにすえることに決定します。

 

朱治はそのまま孫策に話を通して施然を呼び寄せてもらい、君主ともども厚い礼をもって出迎え、そのまま孫策主導の下で養子縁組を行って、施然は以後、朱然と名乗るようになったのです。

 

 

また、孫策の弟とである孫権(ソンケン)とは、机を並べて勉学に励んだ仲でもあります。そんな朱然がいたことは孫権にとっては心強かったようで、孫策死後の動乱の中で朱然をそのまま起用。

 

十九歳の若さでいくつかの県の長を歴任し、最終的には折衝校尉(セッショウコウイ)という役職と共に5つの県を丸々面倒見る立場へと昇進。後年さらに昇進し、今度は新しく設立した郡の太守として、最終的に二千の兵を率いる立場にまでなったのでした。

 

 

 

さて、呉と言えば不服従民である山越との問題に苦しめられ、終始その対応に追われている側面がありました。一郡を預かる太守となった朱然もとうとう山越討伐の仕事を担うことになりましたが……なんと、朱然は軍を出動させると、この反乱を一ヶ月ほどで平定。

 

この事で軍事能力を買われた朱然は、後に曹操(ソウソウ)が濡須(ジュシュ)に進軍した際には要地の守備を任され、そのまま偏将軍(ヘンショウグン)に昇進。さらに建安24年(219)の関羽(カンウ)討伐にて潘璋(ハンショウ)と共に別動隊を率い、関羽を捕らえる役割を担う活躍を見せました。

 

 

この功績により、朱然はさらに昭武将軍(ショウブショウグン)に昇格し、呉の大黒柱である呂蒙(リョモウ)からは、「私の後は朱然が適任です」と推され、荊州部隊の本拠地である江陵(コウリョウ)の兵を預かる立場にまでなったのでした。

 

 

 

 

防戦の鬼

 

 

 

ほどなくして、蜀の劉備(リュウビ)が呉に対して荊州失陥の報復を開始。全軍を率いて荊州へとなだれ込んだ蜀軍に領内深くへと入り込まれ、後に夷陵の戦いと呼ばれる一大決戦の様相を呈しました。

 

朱然も五千の兵を率いてこの戦いに参加。敵軍との長期間のにらみ合いを経て、ついに反撃の機会を得ます。好機と見た総大将・陸遜(リクソン)は反撃ののろしを上げ、朱然も別動隊を率いて出撃。先鋒部隊を打ち破った後、劉備の退路を遮断してそのまま大勝を上げまたのです。

 

なお、この後に逃げた劉備を追うかどうかで軍議が行われましたが、朱然は敵軍の接近を察知して、追撃には反対を唱えました。

 

 

 

結局は朱然の献策が取り上げられてそのまま呉軍は撤退することになりますが……この時の朱然の判断は正解だったようで、後に魏軍は総攻撃を仕掛けて呉領内の各地に侵攻。朱然が守る江陵にも、主力級の部将が大勢率いる大軍が押し寄せてきたのです。

 

 

魏軍は数万の兵を率いて朱然のいる江陵を包囲、何重にも陣を重ねて退路を遮断してしまい、さらには頼みの援軍すらも精強な魏軍を前に敗走してしまいます。

 

おまけに、タイミング悪く疫病の発生により戦える兵が五千ほどにまで激減し、もはや江陵を守り切るのが絶望的な状況になってしまったのでした。当然、敵はそんな状況の朱然軍を本気で壊滅させるため、毎日のように大量の矢を討ちかけて地下道も掘り進め、あの手この手を使って総攻撃を仕掛けてきます。

 

 

が、朱然はその様相を見ても顔色一つ変えずに兵たちを激励。さらに隙を伺って逆に打って出てみせ、敵陣を2つ陥落させるなど逆に魏軍を押し返さんと奮戦します。

 

また、包囲の末に食料が尽きかけて内通者が出ても、その内通者を探し出して処刑して軍の総崩れを阻止。結局包囲は半年以上続けられましたが、ついに敵軍はあきらめて撤退していき、この絶望的状況を耐え抜いてみせたのです。

 

 

 

また黄武6年(227)に孫権自らの指揮で魏軍を攻めた時も、朱然は参陣。結局攻撃は失敗に終わりましたが、敵の追撃に苦戦する友軍を救援して自らは悠然と撤退し、その力を存分に見せつけています。

 

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呉の重鎮

 

 

 

黄龍元年(229)に呉が建立されると、朱然は将軍位として最上位クラスの車騎将軍(シャキショウグン)に昇進。さらに右護軍(ウゴグン:護軍は軍団の監督役で、右は左より上位)と兗州(エンシュウ)牧の地位になりますが、兗州牧は「魏を滅ぼしたら兗州は蜀の領土」との取り決めがなされたために解任。

 

嘉禾3年(234)には蜀との連携によって孫権自ら魏の合肥(ガッピ)に攻め込み、朱然は全琮(ゼンソウ)と共に軍の指揮を任されたのですが……この時運悪く疫病が軍中で発生し、結局は総攻撃の前に撤退という残念な結果に終わっています。

 

 

 

赤烏5年(242)、朱然は再び魏を攻めますが、この時には全軍が散開した隙に魏軍に襲われ、しかも少数兵力のまま退路を断たれるという危地に立たされました。

 

この時の朱然の戦力は旗本の八百のみで、敵軍は数千。散っている軍を呼び戻す余裕もないという危険な状況でしたが……朱然は旗本を指揮して反転すると、背後から迫る敵軍数千に突貫、これを撃退して敵軍の作戦を打ち破ったのでした。

 

結局この戦いには撤退しますが……朱然らしい底力が発揮された戦いではないでしょうか。

 

 

赤烏8年(245)には敵からの投降者・馬茂(バボウ)によって孫権暗殺計画が行われました。この計画は発覚して未遂に終わったのですが……これに怒った孫権のため、朱然は翌年、意気揚々と報復に出陣。

 

この時にはまたしても敵軍に背後を取られて撤退ができなくなりますが、朱然は逆に夜襲を仕掛けて敵軍を撃破。これで報復がなされたと撤退していき、喜んだ孫権から左大司馬(サダイシバ)・右軍師(ウグンシ)の官職が与えられることになりました。

 

 

このように武働きで孫権を支えた重臣・朱然でしたが、赤烏10年(247)に病を発し、二年に及ぶ長い闘病生活の末に永眠。68歳でした。

 

孫権は朱然の闘病中には食事も睡眠も平時よりも少なくなり、心配すぎるあまり衣料品を大量に届けてその病状を逐一観察。葬儀においても心を込めて朱然を送り出し、かつての学友の死を悼みました。

 

朱然に対する孫権の心遣いは、孫権に最も信頼された呂蒙凌統(リョウトウ)に次ぐものだったとされています。

 

 

 

 

人物像

 

 

朱然は170cmには及ばない小柄な体格でしたが、からっとした気持ちの良い性格だったと言われています。

 

陣頭で指揮を執って平時でも兵をきちんと統率し、その陣容は変幻自在で敵を惑わすことばかり。また冷静沈着で不測の事態にも動揺することがなかったのだから、動けば手柄を立てるのは当然だとまで本文で言及されています。

 

 

生活も慎ましやかで、ゴテゴテに飾るのは軍事に関係する物のみ。私物はすべて質素で、生活態度も品行方正で清潔。そのため、他の二世たちの統率者としての役割も担っていたのです。

 

 

そんな朱然を、三国志を編纂した陳寿は以下のように評しています。

 

 

朱桓と共に、勇猛で知られていた。

 

 

江陵の防衛があるのだから当然でしょうが……やはり朱然の勇名は、魏にも広く伝わっていたようですね。そんな自分をアピールして敵を脅かすために、軍器だけは派手にしたのでしょうか。

 

 

 

ちなみにこの人は名刺を持っていたことが明らかになっており、1984年に墓が見つかった際に多数の副葬品と共に出土。現在では世界最古の名刺として記録され、他の副葬品ともども、三国時代の様式を知るための貴重な資料になっているとか。

 

現在は朱然の墓の周りはきれいに整備され、博物館の一部として一般公開されているそうな。

 

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孫権と朱然

 

 

 

上でも何度か記述しましたが、孫権と朱然は大事な学友。それだけに、孫権から朱然への思いも大きかったように見えます。

 

どの主君にも言えることですが……特に孫権は名士たちの御輿という立場に近く、お互い頼もしい主従であると同時に、牽制し合う仲でもあった事でしょう。

 

 

死に際の孫権の待遇格差は、呂蒙、凌統、そしてそれらに次いで朱然といった具合になっていますが、彼らはいずれも、名士派閥の影響が少ない人物。

 

中でも凌統は孫権の優れた護衛、武人として個人的な敬愛を向けたのでしょうが……呂蒙や朱然は、それと同時にある程度名士らにも顔が利く人物でもあります。

 

 

だからこそ、油断ならない君主という立場からすると、こういったしがらみに無関係どころか頼りになる人物。そして早死にしてしまった呂蒙と違って長く自分を支えてくれた朱然には、やはり並々ならぬ感情があったのでしょう。……無論、ただの憶測ですが。

 

 

この友情は、呂壱(リョイツ)という酷吏を孫権が信用しきったことで一度ひびが入っていますが、その後を考えると、どうにも持ち直した模様。後年の朱然の働きを見ると、やはり完全に見捨ててしまったとは言い切れないところがあります。

 

 

 

油断ならないものの頼りになる陸遜が亡くなり呉の黎明期を支えた名臣たちも残りわずかになった時、孫権の朱然に対する計らいは以前にも増したものになってきます。

 

そんな朱然が亡くなった時、孫権が強く悲しんだのは先述した通り。やはり親友であり頼りになる同志に先立たれるのは、歳を取って老成した孫権であってもかなり堪えたのかもしれませんね。

 

 

続きを読む≫ 2018/10/17 11:52:17

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡陽羨

 

 

 

 

周魴、字は子魚。無双シリーズでも、モブながら石亭の戦いで毎回登場。専用セリフもだいたい用意されている人物ですね。

 

当然、正史三国志でも石亭の戦いにおける記述(というか主にその時に書いた7通の長い手紙)が彼の伝のほとんどを占めますが……実際は主に山越(サンエツ)の異民族を相手に奮戦した人物の模様。

 

 

今回は、そんな周魴伝の記述を追ってみましょう。

 

 

 

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若かりし日の武勲

 

 

 

周魴は若かりし日から学問が好きで、名士や策士の素質がありました。

 

彼が世に出たきっかけは、孝廉(コウレン:儒教に基づいた推挙システム)によって推挙され、寧国(ネイコク)の県長に抜擢されたこと。

 

 

この頃から治績が高かったようで、周魴は懐安(カイアン)県のトップを経由し、今度は反乱頻発地帯の銭唐(セントウ)の相(ショウ:郡の他に国という知育区分も当時はあり、国のトップが相)に転任。

 

ここで一月余りのうちに首謀者らの首を斬り、あっという間に大規模反乱を鎮めてしまったのです。

 

 

周魴はこの功績が大いに認められ、精兵と反乱で有名な(?)丹陽(タンヨウ)西部の都尉(トイ:軍事管理職)を任されることになりました。

 

 

後に黄武に年号が変えられてしばらくすると、これまた反乱地帯である鄱陽(ハヨウ)にて、彭綺(ホウキ)なる人物大規模な反乱を実行。鄱陽の街々を武力制圧していきました。

 

周魴は、これまでの反乱鎮圧実績が買われ、この時鄱陽太守に転任してこの事件の収束に力を注ぐことになりました。

 

 

そして中央からの援軍である胡綜(コソウ)と協力し、鄱陽の反乱軍を次々と撃破。そう時間をかけないうちに彭綺をひっ捕らえ、孫権(ソンケン)の元に身柄を護送して反乱を鎮圧。

 

ここでも並外れた武勲を上げた周魴は、そのまま昭義校尉(ショウギコウイ)に昇進。呉の高級武官の一人に名を馳せるようになりました。

 

そしてこれが、後の大役へと繋がっていくのです……

 

 

 

 

 

曹休に送る7通の手紙

 

 

 

さて、この時、呉国内では敵の名将にして総大将である曹休(ソウキュウ)を嵌めるため、北方にも名が知れ渡った名将が偽りの内通を仕掛けて曹休を誘い込むという計略を実行しようとしていました。

 

そのため、呉は山越討伐のスペシャリストをあえて魏に寝返らせるため、偽投降を行う勇士を募る事にしたのです。

 

 

周魴は、「その辺の民間人などであれば策は失敗するはずです」として、なんとこの作戦に立候補。曹休に7通の熱烈なラブレターを送って彼に内通を持ち掛け、表向き必死に、曹休の軍勢に寝返るという旨を伝えました。

 

 

その伝、なんと周魴伝のほとんど。とても書ききれる量ではないので、バッサリ削って概要だけ以下に記します。

 

 

 

「私は不毛な辺境の土地を任されましたが、今まさに孫権のクソバカに理不尽な重罪をふっかけられようとしています。昔に許すと言っていながら家臣を粛清した孫権のやり口は知っていますし、今回も祖のパターンでしょう。かくなる上は、もはや天命。反乱を起こし、あなたに忠誠を誓いたく存じます。

 

私が治める鄱陽の民は、無駄にバカでバイオレンスなので、命令は無視する癖に反乱だけは意気揚々と行います。それに、今私の手紙を届けている使者たちは、皆我が家で育った者たち。信用してくださって大丈夫です。それに、今の孫権軍は軍事行動のために本拠は空っぽ。今こそ好機なのです。

 

かくなるは、味方の軍事行動と布陣をあなた方にバラします。どうか民心をまとめるためにも私を中郎将(チュウロウショウ:将軍の下の位だが校尉より上)として私を雇い、反乱の火種を一気に燃え上がらせてしまってください」

 

 

周魴はそんな手紙を曹休に送った後、続けざまに孫権に対して「今こそ策を実行すべき時。私が曹休軍に逃げ込み、そのまま奴を罠に嵌めてみせましょう」とひっそり上奏。孫権は作戦を実行するためにあえて公衆の面前で周魴を詰り、内通がバレた設定で妙なリアリティを持たせ、曹休をより強く信じ込ませることにしました。

 

 

 

 

 

石亭に曹休を破る

 

 

 

さて、一方の曹休の軍中ではこの話は半信半疑。周魴の寝返りは嘘だとする声も多数ありました。

 

しかし、周魴の計略はそれだけではありません。なんと、上記の通り、わざわざ自分の頭を丸坊主に丸めることで、孫権に謝罪。親からの授かり物で、切るのはタブーとされる髪をわざわざ剃ってしまったことで、周魴はこの寝返り作戦を成功させた流れになります。

 

その後に「いよいよ殺される」とばかりに降伏したのですから、曹休側はいよいよ信じるという意見が非常に多くを占めるようになったわけですね。

 

 

かくして、周魴は曹休の部将として彼の軍勢を誘導。呉軍の作戦行動を明かし、ガラ空きになった(という設定)の要衝・唍城(カンジョウ)を攻撃するよう献策します。

 

すっかりこの降伏を信じ切った曹休は、罠とも知らずにむざむざ死地と化した唍城を攻撃して伏兵により大敗。呉は魏の将軍らの奮戦によって曹休自身は取りのがしますが、数万の兵を討ち取る大戦果を挙げることができました。

 

 

この大勝利に気分が乗った孫権は、大宴会を催して「わざわざ親からの授かりものすら捨てたお前の偉業は、やがて書物にて大々的に語られるだろう」と周魴を賞賛。周魴を裨将軍(ヒショウグン)、関内侯(カンダイコウ)に取り立てたのです。

 

 

ちなみに以後、戦線では偽降の計が大流行し、特に魏では自軍大将が破られたこの作戦を高く評価したようですね。

 

例えば魏呉戦線では隠蕃(インハン)なる人物が名声を盾に呉の内部を引っ掻き回し、蜀でも十数年後に宰相の費禕(ヒイ)が郭循(カクジュン)なる人物に暗殺される大事件が発生しています。

 

 

とはいえ、儒教的に周魴の行いはあまり褒められたものではないようで、彼の偽降はあまり取り沙汰されません。

 

それどころか、『異同評』では「剃髪してまで功名を得ようとした、身勝手で不誠実、後の時代で評価されないのも当然の行い」と厳しく非難されています。

 

当時の儒教観念が何だかわかる評論ですね。

 

 

 

 

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その後の周魴

 

 

 

その後、周魴はやはり内部の反乱鎮圧に尽力。董嗣(トウシ)なる人物が周辺を荒らしまわっている時に、再びその名前が出てきています。

 

が、この董嗣という人物が、なかなかどうしてかなりのクセモノ。吾粲(ゴサン)、唐咨(トウシ)の二将が三千の兵を率いて鎮圧に向かっても、被害を防ぐのがやっとで、何ヶ月経ってもその根城を陥落させることができないほどの相手だったのです。

 

 

これはどうした物かと周囲がお手上げになりかけた時、周魴はついに動きます。彼は孫権に上奏すると、軍事行動を中止させて自らの一存で董嗣を消すことを約束。正攻法ではなく、刺客を放って董嗣を暗殺させたのです。

 

実のところ、反乱軍はほとんど董嗣が柱石となっていたも同然。突然大事な柱が消え去った事で軍は崩壊し、戦々恐々となった董嗣の弟は陸遜の元に出頭。かくして、周辺に平和が訪れたのです。

 

 

と、このように知力に秀でた活躍を見せた周魴でしたが、危険地帯の統治を行う事十三年、そのまま病没しました。

 

しかし、その息子の周処(シュウショ)も見事な人物で、呉に多大な功績を残したのです。

 

 

 

人物像

 

 

 

正史三国志の本文によると、周魴は信賞必罰な政治を貫き、威徳は郡全体にいきわたったとか。

 

また、陳寿の評にはこのように書かれています。

 

 

周魴は、優れた策略を用いて内患を良く処理した。

 

 

これは石亭での謀略、そして董嗣の暗殺を評価しての言葉だと思われます。

 

 

このように見事な策謀をもって反乱も魏も打ち破った周魴ですが……個人的な感想を言うと、おそらく功名心の非常に高い、野心的な人物だったのかもしれません。

 

というのも、石亭の戦いでは、わざわざ危険な役割に「その辺の小物では策が成りません」と立候補。さらに董嗣暗殺の時にはわざわざ軍事行動を中断するよう上奏しています。

 

 

当然、野心に見合う実力のある周魴でしたが……もしかしたら、そのポーカーフェイスの裏では野心を高ぶらせて功名を求める、そんなギラついた部分があったのかもしれませんね。

 

何にしても、周魴をはじめ呉の人々の野心とフロンティア精神には、つくづく圧倒されます……

 

 

 

 

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続きを読む≫ 2018/10/12 20:19:12

 

 

生没年:?~黄武5年(226)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州会稽郡上虞県

 

 

 

 

呉範(ゴハン)、字は文則(ブンソク)。この時代には占いや未来予知、神通力といった力は今以上に信奉され、それらが仕える人物は非常に重宝されることがありました。

 

この呉範という人も、占いによる未来予知という摩訶不思議な力によって重宝された人物の一人です。

 

孫権(ソンケン)もその力に魅了され、どうすれば占いの精度がそこまで高いのか興味を持っていたそうですが……結局呉範はそれを教えなかったため、現代にその方法は残っていません。

 

 

さて、今回はそんな呉範の伝、追ってみましょう。

 

 

 

 

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風水占術を極めし者

 

 

 

当時の中国は儒教の学問を究めることが出世の王道でしたが……一方で人物評や占術をはじめとする一風変わった芸風で上を目指すという道も作られていました。

 

そんな中で呉範がたどったのは、占術による名士としての栄達でした。彼は当時ではレア技能であった歴術を習得。さらに風向きなどから未来を予知する『風占い』に熟達し、地元の会稽(カイケイ)郡ではすっかりおなじみの有名人となったのです。

 

そしてついに呉範はその手のエキスパートとして漢帝国の中央から招聘をうけ、都・洛陽(ラクヨウ)に行くことに!……なったのですが、この時はすでに乱世。呉範は都に向かおうにも迎えず、結局断念してしまったようです。

 

 

 

ちなみに『後漢書』では、陶謙(トウケン)が趙昱(チョウイク)なる人物をなんとしても陣営に引き入れようとしたとき、呉範にも「趙昱を説得してくれ」と頼んだようで、彼もまた趙昱に陶謙の元へ向かうよう促しています。

 

この時も趙昱は断ったのですが、後に陶謙はキレて「お前来なかったら罰するよ」と権力行使に出て無理矢理趙昱を出仕させたとか。

 

 

もしかしたら、このまま趙昱が断り続けたら危険と予見したのかもしれませんね。

 

 

 

後に呉範の住む一帯は孫策(ソンサク)の領内に組み込まれるようになり、孫一門の影響下に。呉範はその弟・孫権(ソンケン)がその勢力を率いるようになると、その配下に取り立てられることに。

 

そこでも占いの能力は冴えに冴えていたようで、事あるごとに占いを的中させ、呉範の言う通りの事件や災禍が発生したと言われています。

 

 

 

 

この人ガチや……

 

 

 

建安12年(207)、孫権は宿敵の黄祖(コウソ)を討つべく軍を進発させようとしました。しかし、呉範は反対し、歴術の結果と合わせて以下のように述べたのです。

 

 

「今回の黄祖討伐は得るものが少なく、やめたほうが良いでしょう。それよりも来年は吉兆が見えます。おそらく荊州の主・劉表(リュウヒョウ)が死に、国が滅びます」

 

 

孫権はこの意見を棄却して黄祖を攻めたものの、住民を強制移民させるだけで大きな戦果は無し。しかし翌年には黄祖の主である劉表が本当に病没し、それに前後して黄祖を攻めたところ本当に黄祖軍を打ち破ったのです。

 

この時には呉範も同行していたようで、戦う前から勝利を予見して祝賀を述べたほか、夜闇に紛れて逃げた黄祖を追う時にも「まだ遠くには行っていません」と断言。果たして黄祖は明け方に捕まえることができ、孫権は親の仇を見事に討つことができました。

 

 

そして劉表が滅んで孫権軍の災難が去り、それからしばらくした建安17年(212)にも、再び呉範は占いによる予見を行います。

 

「劉備(リュウビ)が益州の土地を狙っていますが、再来年にはこれらすべてを併呑するでしょう」

 

この時孫権は、将軍の呂岱(リョタイ)から「劉備は軍を分散させて戦っており、勝つ見込みは薄そうです」という報告を受けており、孫権はそちらの意見を信用。呉範を難詰しますが、「呂岱将軍は見える範囲の人を、私は見えない天の理までを話しています」と返答。

 

果たして建安19年(214)、劉備は益州を奪って我が物としたのでした。

 

 

建安24年(219)に劉備と決裂してその将軍である関羽(カンウ)を追い詰めた際、関羽からは降伏するという旨の使者が届きました。

 

この時も呉範は姿を現し、「降伏などと言いますが、ここには逃亡の気があふれています」と断言。さらに関羽が捕まることと、それが翌日の日中であることも予見し、果たしてすべてその通りになりました。

 

 

他にも、孫権が魏と手を取り合っている時には「魏はやがてこちらと敵対して侵攻してきます」と断じ、また劉備が自ら軍を率いて攻めてきた時には「後に和睦し同盟国となりましょう」と予見。これらもすべて、後にはその通りになったのでした。

 

 

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占術の極意は極秘なのです

 

 

 

 

ここまで占いを見事に的中させてきた呉範でしたが、肝心な占いの方法に関してはまったく誰にも教えませんでした。

 

当然、その態度は孫権に対してもまったく同じ。彼はたびたび占いの極意を孫権から聞き出されましたが肝心なところは一切口にせず、次第に孫権の不興を買っていきました。

 

呉範は孫権から「占いが当たれば列侯に加える」と約束され、最終的には騎都尉(キトイ:近衛兵長)と太史令(タイシレイ:占いや暦法の責任者)を兼任するほどの大身になりましたが、孫権からは最後、ついに嫌がらせに近い行いを受けることになります。

 

 

孫権が呉範を列侯に加える条件となったのが、「干支でいう亥から子の辺りに、土地に流れる王の気と合わさって慶事が起こる」という予言が当たる事でした。

 

そしてこの予言は当たり、庚子……つまり子の都市にあたる延康元年(220)、孫権は呉王に立てられました。

 

 

呉範は宴の時にこの事を話題に出し、孫権も「そんなこともあったね」と諸侯の証である印綬を渡そうとしますが……実はこれは見せかけのパフォーマンス。孫権は呉範を諸侯に加えるつもりはなかったのです。

 

それに気づいた呉範は一切を固辞して印綬を受け取ろうとはしませんでした。

 

 

その後に功績が評定されたとき、呉範は都亭侯(トテイコウ)の爵位を受けることになりました。が、直前になって孫権は「あいつは占いを教えてくれないからなあ」と突如呉範の名前を削除し、功臣から除外。

 

結局、呉範が列侯に加えられるという約束は果たされることが無かったのです。

 

 

黄武5年(226)、呉範は死去。その息子は早死にしていたせいで、結局彼の占いは世に出ることがありませんでした。

 

孫権はこの時「列侯に封じる」という条件で凄腕の占い師を急募で探しましたが、結局それに値するだけの人物はみつからなかったのです。

 

 

 

 

職人気質の頑固者?

 

 

 

正史本文によれば呉範の性格は一本気で己を誇るきらいがあるとされ、いわゆる職人気質だった事が伺えます。

 

孫権に占いの極意を教えなかったのも、自分の占いというアイデンティティが他人に取られて、自分に価値がなくなるのを恐れた結果かもしれませんね。実際に『呉録』にも、このような推察が書かれています。

 

 

さて、そんな呉範は友情に厚く、自分の認めた人物にだけは最後まで変わらない友情を貫いたとか。

 

 

 

ある時、自分の同郷の友人である魏滕(ギトウ)なる人物が罪を得て孫権の怒りを買い、「コイツを庇ったやつは死刑」とまで言い放つという事件がありました。

 

呉範はそんな魏滕に対して、何の得にもならなくとも「一緒に死のう」と言い放つと、頭を丸めて囚人の格好をし、孫権の邸宅に突撃。

 

殺されるからと取次ぎを渋る受付に対して「万一があれば君の子供は私が預かる」と約束すると、ついに孫権の元に向かいました。

 

 

しかし、孫権の碇は収まりようもなく、取次ぎが説明のための言葉を言い終わる前に、戟を投げつけようと構える始末。ヤバいと逃げ去る取次ぎ役。呉範は取次ぎ役が逃げてきたのを確認すると、入れ替わる形で孫権邸に突撃し、そのまま彼の前で土下座したのです。

 

こうして血を流すほどに頭を打ち付け涙ながらに助命を嘆願する呉範を見て、やがて「これ無理だろ」と思われるほどだった孫権の怒りも氷解。

 

 

かくして魏滕は罪を免れ、「良心ですら見捨てたというのに……。こんな奴が友達として一人いれば、もう何人も友人は必要ない」と述べたとか。

 

 

プライドが高いという事はそれだけ味方が少ないとも取れます。占い師・呉範は、だからこそ数少ない友人を大事にしたのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/10/03 15:45:03

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉?

 

生まれ:揚州丹陽郡陵陽県

 

 

 

 

祖郎(ソロウ)という人物は……まあ、知らなくて当たり前くらいのドマイナーな人物ですね。かく言う私も、史書を片手にこうしてサイトを作ろうと思うまではまったく知らなかった人物です。

 

さて、この人は何をしたかというと、まあ孫策(ソンサク)のライバル的存在とでも言いましょうか。太史慈(タイシジ)辺りと妙にかぶる人物ですが……二人で同時に孫策のライバル群雄と位置付けてもいいかもしれません。

 

 

今回は、そんな祖郎について記述を追っていきましょう。

 

 

 

 

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死闘、孫伯符

 

 

 

祖郎という人物は元々一揆勢力を束ねるボスであり、呉郡(ゴグン)周辺に根城を構える厳白虎(ゲンハクコ)と並び、非常に強力な民間勢力として有名でした。『江表伝』によれば一種の宗教勢力ともされており、天災と戦乱によって困り果てた民も彼の勢力下に収まっていたのかもしれませんね。

 

さて、そんな祖郎ですが、父・孫堅(ソンケン)を失った孫策が、父の主君であった袁術(エンジュツ)の元に身を寄せてしばらく。袁術の勧めで叔父の呉景(ゴケイ)らが治める丹陽(タンヨウ)にて募兵を行ったときに名前が出ています。

 

 

祖郎にとって、敵対勢力である孫策が自分の根城付近で兵を集めるのは面白くありません。しかも丹陽の兵は精強で知られており、そんな地元の精兵を敵対勢力が率いるのは、祖郎にとってはなはだ不愉快な話だったようです。

 

 

結果、祖郎は徴兵を行って数百の軍勢に膨れ上がっていた孫策軍を襲撃。大軍にて包囲し、全滅に近い大打撃を与えて大敗北を与えました。

 

しかもこの時、孫策を討ち取る寸前にまで追い詰め、『江表伝』には馬の鞍に傷をつけるほどに迫っていたと言われています。

 

 

が、その快進撃も、孫策を打ち漏らしたことによってチャラとなってしまいます。

 

 

孫策は帰還した後、袁術から父の直属兵であった千の軍勢の返還を受け、より巨大な勢力に膨張。祖郎にとって、安易に戦いを挑めない勢力になってしまったのです。

 

 

『江表伝』の記述によれば、袁術から兵を返してもらった後、孫策は祖郎を急襲。祖郎軍は一旦壊滅し、そのまま逃げ去ってしまったとされています。

 

 

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宿敵との戦いの果て

 

 

 

後に祖郎が史書に姿を見せたのは建安2年(197)のこと。呉(ゴ)や会稽(カイケイ)を占拠した後、将来性のない袁術と手を切った孫策袁術を打ち滅ぼさんとする反袁術連合に加わりましたが、後に連合の一翼である陳瑀(チンウ)が反逆。

 

祖郎は陳瑀の誘いに乗って、厳白虎らと共に孫策と敵対。今一度彼と雌雄を決することになりました。

 

 

この時は祖郎の動きは史書には載っていませんでしたが、孫策は彼の同盟相手である陳瑀と厳白虎を撃破。もともと周辺に大きな勢力を持つ祖郎でしたが、この孫策の快進撃に、いよいよ苦しくなり始めます。

 

孫策は自らの信頼する指揮官らをそろえると、自ら軍を率いて祖郎討伐に出向。祖郎もこれを迎撃する構えを見せます。

 

 

かくして両軍入り乱れての総力戦となりましたが……その序章を制したのは、なんと祖郎の軍勢でした。

 

祖郎軍はなんと大部隊を持って孫策を包囲。今一度孫策を追い詰め、今度こそ討ち取らんと一斉に攻めかかります。

 

 

こうして戦いは祖郎の勝利に終わるかと思われましたが、ここで思わぬ事態によって、戦況は一変してしまいます。

 

なんと、孫策軍の猛将・程普(テイフ)が、名も知らぬ旗本一人と共に単騎駆けを実行。孫策を追い詰めた包囲網の網が食い破られ、孫策を取り逃がしてしまったのです。

 

 

これによって孫策軍は再び体制を整えて祖郎は劣勢に追い込まれ、そこから逆転することができず敗北。祖郎は孫策軍に生け捕りにされてしまい、以後史書から姿を消してしまいました。

 

 

ちなみに『江表伝』によれば、捕まった祖郎は孫策の元に引き立てられ、彼から以下のようにスカウトされています。

 

 

「お前はかつて馬の鞍を斬りつけて俺を殺しかけたことがあったが……でも今は、そんな事はどうでもいいんだ。重要な事じゃない。俺は天下のため、才ある者の力が欲しい。今、多くの降伏者が、今俺に従っている。心配はいらない。お前もその一人になってくれ」

 

 

かくして祖郎は孫策に完全に降伏し、以後は門下賊曹(モンカゾクソウ:護衛官?)に任じられ、これら反乱討伐の凱旋時には同じく群雄として孫策に敗れた太史慈と共に先導役として軍の先頭に立ったのでした。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/25 21:52:25

 

 

生没年:?~黄武7年(228)

 

所属:呉

 

生まれ:豫州汝南郡細陽県

 

 

 

 

 

 

呂範(リョハン)、字を子衡(シコウ)。どうにも知名度が低く、「誰この人」感が否めない将の一人。

 

かくいう私も、ここ最近までは名前と軽い概要程度しか知らない人物でしたが、よく見るとまだ帝国でもなかった呉で大司馬(ダイシバ)までのし上がった人なんですね。

 

 

大司馬というと、いわば国防長官のさらに上にいる人という立ち位置。ぶっちゃけ、船を流されることと贅沢だけが取り柄の人物には、決してなれない職業なのです。

 

さて、今回はそんな不明の人物、呂範の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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呂範の才覚

 

 

 

呂範は若くして町の役人となりましたが、その立ち位置はあくまで小役人。とても名家や有力者と言えるほどのものではなかったようです。

 

そんな呂範はある日、良家の大変美しいお嬢様に一目惚れ。すぐに彼女に求婚しに、家まで押し掛けることになりました。

 

 

が、劉(リュウ)氏と名乗るその家は、おそらく皇族かそれに連なる血筋。彼女の母親は小役人の呂範程度が生意気だと猛反対する始末。呂範はそんな母親の反応に困り果てていましたが……思わぬところから最大級の援護が飛んできます。

 

「この男、小役人程度の器ではあるまい」

 

そう口を開いたのは、なんとお嬢様の父親。彼は呂範を優れた人物だと見抜き、そのまま娘をくれてやったのでした。

 

 

さて、嫁取りに大成功した呂範は、奇しくも父親を亡くして亡命してきた孫策(ソンサク)と出会い、才覚を大きく評価されます。

 

一方の呂範も彼に何かしらシンパシーを感じたようで、孫策から招かれるのを待たずして自分から仕官。食客百人を引き連れて孫策配下に加わりました。

 

 

こうして孫策軍となった呂範の最初の任務は、彼の母である呉氏(ゴシ)の呼び寄せ。呂範はさっそく使者として呉氏の元に向かいますが……折悪く周辺を治めていた陶謙(トウケン)に捕捉され、勘違いから捕縛。拷問にかけられてしまいました。

 

しかし、呂範が囲っていた私兵たちが陶謙の勝手を許さず、なんと彼の元から呂範の身柄を強奪。なんとか逃げおおせることができました。

 

 

その後、呂範は孫策の数少ない純粋な配下として行動。共に弱小組織としての苦労を味わいながらも進んでいき、孫策もいつしか呂範に一族同然の信頼を置くようになっていったのです。

 

 

 

江東制覇

 

 

 

さて、後に孫策が庇護者である袁術(エンジュツ)の指示を受けて盧江(ロコウ)を攻撃すると、これに従軍。続けて孫策が自身の独立をかけて江東制覇に乗り出すと、呂範も軍を引き返して随行しました。

 

そして揚州(ヨウシュウ)のトップに鎮座していた劉繇(リュウヨウ)の武将である、張英(チョウエイ)と于縻(ウビ)を撃破。周辺地域を制圧し、自身はそのまま占領地のトップとしてその地に居座り、孫策の躍進をサポートしたのです。

 

かくして、孫策はやがて劉繇らを蹴散らし、江東一帯を制覇。呂範は孫策から感謝のしるしとして兵2千と騎馬50を受け取り、宛陵(エンリョウ)県の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)に就任。丹陽(タンヨウ)の不服従民を蹴散らし、後に呉に戻って軍の指揮官である都督(トトク)に任じられました。

 

 

 

建安2年(197)、同じ敵を共にする同盟者の陳瑀(チンウ)が突如孫策を裏切り、敵対勢力の厳白虎(ゲンハクコ)と結んで呉郡(ゴグン)太守を自称。孫策に敵対してきました。

 

呂範はこの時も、孫策が厳白虎を征討する裏で陳瑀討伐軍を率い、彼と激突。陳瑀配下の軍団長を討ち取る手柄を上げて、陳瑀の勢力を駆逐することに成功します。

 

その後も呂範は、孫策に従って祖郎(ソロウ)や太史慈(タイシジ)といた敵対勢力の平定に尽力。征虜中郎将(セイリョチュウロウショウ)となり、後にも黄祖(コウソ)への攻撃や不服従民討伐でも軍を率いて活躍しました。

 

 

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孫呉の次代

 

 

 

こうして孫策の腹心として活躍をつづけた呂範でしたが、建安5年(200)、その耳に訃報が届きます。

 

孫策、暗殺者の手にかかり死亡。

 

呂範は急ぎ葬儀の場に駆けつけると、その地位を継いだ孫権(ソンケン)に引き続き仕えることに。そしてその後、孫権が黄祖討伐のために動いたときは、呂範は留守番役として本拠地の守りに当たっています。

 

 

 

とはいえ、ここで呂範が孫権に服従を誓った形跡は無く、いきなり黄祖討伐時の留守番役として名が挙がっています。つまり、孫権に仕えるのに難色を示したか、あるいは日和見をした可能性もあり。

 

203年に不服従民を討伐した記述もあり、干されたわけではないようですが……

 

 

建安13年(208)に曹操(ソウソウ)が大部隊を率いてくると、呂範は迎撃部隊のひとつとして参陣。いわゆる赤壁の戦いにも、1武将として参加しています。

 

この時にも呂範は少なからぬ活躍をしたようで、裨将軍(ヒショウグン)、彭沢(ホウタク)太守に就任。彭沢の他にも、柴桑(サイソウ)、歴陽(レキヨウ)も知行所として与えられました。

 

後、平南将軍(ヘイナンショウグン)となって柴桑に駐屯。建安24年(219)には留守番役としてガラ空きになった本拠を守って建威将軍(ケンイショウグン)となり、宛陵侯、丹陽太守に。

 

孫権が本拠を移す間、建業を中心とした東の戦線をほとんど丸々呂範に任せたのです。

 

 

 

黄武元年(222)には、魏帝・曹丕(ソウヒ)が呉に対して攻め込める全方位から総攻撃を開始。呂範はこの時前将軍(ゼンショウグン)となって仮節(カセツ:軍令違反者を罰する権限)を受け、1方面の大将として水軍を率い、敵将・曹休(ソウキュウ)の迎撃に当たりました。

 

が、この時、折悪くも長江では強風が吹き荒れ、呂範ら水軍の船は敵陣側の岸に押し流されたり転覆したりして、数千人の死者が出る大損害を被る事になりました。そのため、呂範は軍を撤退させることにしましたが、諸将の活躍によって巻き返しに成功。揚州牧の任を授かりました。

 

 

その後黄武7年(228)には、ついに大司馬にまで上り詰めましたが……すでに呂範の寿命は尽きかけており、大司馬就任の印綬を受け取る前に病死。孫権は兄の代から仕える宿臣の死に涙し、後日墓参りをした時には名前を呼んだっきり言葉が出ないほどだったとか。

 

長男が早死にしていたため、その後は次男が継ぐことになりましたが……呂範の次男もひとかどの人物で、呂範伝に付伝して活躍が語られています。

 

 

 

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派手好きかつ厳格な人物像

 

 

 

知名度の大半が派手な生活と魏軍相手の敗戦だけで、イマイチ目立たないのがこの呂範という人物ですが……こうしてその事績を追ってみると、やはりかなり優秀な人物であったと言えるでしょう。

 

格式と伝統を重視する人となりで、特に礼儀や法令を重視していた事が史書でも語られています。

 

 

また、結構慎重派な性格でもあったようで、派手好きで身分以上に華美な性格を送る反面、軽薄な行動は控えていたとされていますね。

 

その性格が伺えるのは、孫策が存命中で、孫権がまだ年若かったころ。

 

この時の孫権は遊び盛りで好き勝手遊んでおり、呂範にお金をせびるものの、呂範は孫策の許可を常に求めるばかりでお小遣いをほとんどくれませんでした。

 

そんな孫権がどうしても遊びたい時に取った手段が、公金横領。たまたま話が分かる周谷(シュウコク)なる人物が会計帳簿をつけていましたが、周谷は孫権のためにあえて帳簿を改ざんして手助けをしてやっていました。

 

 

さて、そんな孫権が立派に成長し、孫策に代わって呉を治めるようになると……彼が信任したのは、よくしてくれた周谷ではなく、お小遣いをくれないドケチっぷりを披露した呂範。

 

孫権はガキの頃こそドケチな呂範を嫌っていましたが、国主として信用するなら誰かという話となると、迷わず呂範に軍配を上げ、彼の忠勤と人柄を信任したのでした。

 

 

 

この話は呂範が倹約家ならば美談なのですが……如何せん当の呂範は超贅沢屋。『江表伝』では、似たような傾向のある賀斉(ガセイ)ともどもその豪奢な暮らしを告発されたこともあります。

 

まあ公私を分けた人物であるとすれば、これはこれでいいのですが……個人的には、自分はよくて他人はダメというふうにも思えてきて内心複雑……

 

 

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呂範の智謀

 

 

 

さて、では最後に、呂範の知才に関わる逸話を紹介して終わりにしましょう。

 

 

時は建安13年(208)、赤壁の戦いに勝ち、同盟者の劉備(リュウビ)があいさつに来た時の事。

 

劉備といえば大徳の将軍と言われていますが……それは実は数ある顔のたったひとつ。内心では孫権を出し抜いて自分の戦力を得ようと思っており、そのために孫権を牽制しにやってきたのです。

 

この事は誰もが気づいてはいましたが……呂範は劉備がせっかく自分から来たという事で、ひとつ孫権に提案。

 

 

「この機会に、劉備めを接待漬けにして閉じ込めてしまいましょう」

 

 

しかし、孫権は呂範の案を採りませんでした。この時、親劉備派の魯粛(ロシュク)が頑なに劉備を使っての戦略を主張したからです。

 

 

……が、後に劉備は孫権と同格になると、その外交環境は一変。孫権はただ劉備にいいように使われただけの形になり、しかも強くなった劉備に対して強固な要求ができなくなってしまったのです。

 

 

 

建安24年(219)劉備に好き勝手され続けていよいよ後がなくなった孫権は、劉備を裏切るという一か八かの手段に出ます。そんな折、孫権は呂範に対してこう口を開いたのです。

 

 

「ああ、君の言う通りにしとけば、今頃こんな気苦労はせずに済んだろうに」

 

 

 

これは忠義ともとれる話ですが……『江表伝』には、こんな逸話もあります。

 

孫策の生前、呂範が都督となる前の話。孫策と碁を打っている時、呂範は唐突に、「私に都督の任をお与えください」と孫策に頭を下げてきました。

 

「もうお前の身なりは十分立派なものだ。今更都督なんぞになって、こまごました雑務に当たる必要もないだろう」と、孫策。

 

 

しかし呂範は「これは妻子や栄光のためではありません」と返し、以下のように力説しました。

 

「この乱世は一蓮托生。大船に皆で寄り合っているようなものであり、弱い箇所があってよい事はありません。弱点に何かしらの補強を為さないままでは、そこから最後には沈没する憂き目に遭ってしまうのです」

 

 

結局孫策はその場でにっこり笑ったまま、何も答えようとしませんでした。

 

これでは認められることがないと考えた呂範は、退出すると軍服に着替え、勝手に都督を自称。諦めた孫策は、改めて都督の任を授けることにし、かくして軍中は規律と法令によって引き締まる事になったのでした。

 

 

于禁(ウキン)や張飛(チョウヒ)のように軍中の引き締め役はどの軍にもいますが、呉では呂範がその役目を背負っていたわけですね。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/23 13:48:23

 

 

生没年:?~黄武6年(227)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州会稽郡山陰県

 

 

 

 

 

 

賀斉(ガセイ)、字は公苗(コウビョウ)。前まではまったく無名の「誰それ?」武将だったのに、ニコニコ動画の劉禅(リュウゼン)が大活躍する某動画で神のごとき活躍を披露。

 

一躍「賀斉神」として多くのファンを抱えることになった、対異民族戦線異例の有名武将の一人ですね。……といっても、その人気はまだまだ限定的な物ですが。

 

 

今回は、そんな賀斉の伝から彼の活躍を拾っていきましょう。

 

 

 

 

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反乱潰すマン大地に立つ

 

 

 

賀斉はそこそこの家系の出だったようで、父親は県のトップ、伯父は有名な学者という立ち位置の人物だったようで、最初は剡(セン)県のトップを代行という形で行っていました。

 

が、この時、斯従(シジュウ)なる役人が、影響力のある土豪の出であるのをいいことに、任侠気取りで悪さばかり働いていたのです。

 

賀斉はこれを聞いて斯従をひっ捕らえようとしますが、さすがに部下はそれをよしとせず、「奴を捕らえれば、必ず周辺が黙っていません」と必死で賀斉を止めようとしました。

 

 

……が、賀斉はそんな周囲の制止を聞くと、逆にマジギレ。「めんどくせェ!!」と言わんばかりに斯従の元に向かい、彼の一派を残らず叩き斬ってしまいました。

 

当然それを聞いた斯従の一族らは、賀斉に対し怒り心頭で、千人以上の兵を束ねて役所へと殺到。剡県そのものを敵とみなして復讐戦を仕掛けてきましたが、なんと賀斉はこれに対して官吏や住民で構成された民兵隊を指揮し応戦。斯従の一族らをボコボコに叩きのめしてしまったのでした。

 

 

 

この武勇伝はあっという間に周囲に広がっていき、山越(サンエツ)の異民族間では賀斉はすっかり有名人に。役所でも賀斉を反乱討伐のエキスパートとして起用して紛争地帯に放り込むようになり、賀斉もそんな期待に応えて、わずか1年で任地周辺の反乱を終焉に導いたのです。

 

 

 

『晋書』によれば、元の姓は「慶」。しかし、これは皇族の祖先と同じ名前。そこで、彼らに配慮して苗字を賀と改めたとされています。

 

 

 

 

対不服従民エキスパート

 

 

 

建安元年(196)に孫策(ソンサク)が王朗(オウロウ)を倒して周辺を治めるようになると、賀斉も彼に推挙される形で官吏に登用。そのまま王朗派の残党である反乱組織との戦いの場に投入させることにしました。

 

この時、反乱組織のリーダーは賀斉の威名を知っており、賀斉に対して降伏しようという動きを見せていました。が、そんな弱腰のリーダーに怒りを覚えた過激派が彼を殺害。過激派は一枚岩となり、賀斉ら討伐隊の兵力を圧倒。正面から戦っても勝ち目がないと判断し、賀斉はしばらく彼らの様子を観察することに。

 

 

さて、こうしてしばらく自体が膠着した孫策軍と反乱軍の戦いですが……やはり一枚岩に固まったとはいえ、所詮は即席。後に過激派同士でも内輪揉めが起きるようになり、派閥間の連携が難しくなりつつありました。

 

その状態を見定めた賀斉は、ついに重い腰を上げて反乱軍と交戦。わずか一戦で反乱組織を壊滅させ、恐慌の末に一派は皆賀斉に降る事になったのでした。

 

 

 

また、孫策が急死して弟の孫権(ソンケン)の時代になると、その3年後の再び反乱が発生。建安8年(203)、賀斉は討伐隊を率いて反乱の中心地帯である建安(ケンアン)を奪取、そこに役所を置いて、会稽郡の各県に五千ずつの兵を配備して反乱に備えるようになりました。

 

 

しかし、まだその周辺は不服従民の本営が複数点在。予断を許さない状態でした。

 

そこで賀斉は、元は同僚であった丁蕃(テイハン)という人物に、不服従民の本営を監視、牽制するよう指示。しかし、丁蕃はプライドから元同僚の賀斉の言う事を無視。

 

ナメられたまま終わると後に支障をきたす。そう感じた賀斉は、あくまで自分の意見を無視しようとする丁蕃を殺害。軍全体を恐怖心で締め上げ、以後従わない者はいなかったとされています。

 

こうして軍をまとめ上げた後に、ほとんどを攻撃隊として統率して周囲の不服従民本営を陥落させ、名のある頭目たちをことごとく降伏、あるいは捕縛。この時に斬った兵士は六千、さらに平定した地区の政治機構を立て直すと1万もの兵を徴兵して帰ったのでした。

 

これにより、賀斉は平東校尉(ヘイトウコウイ)に昇進。さらに建安10年(205)には、孫権領の東南端から上饒(ジョウジョウ)に進軍してこれを平定。新たに建平県を立てることに成功します。

 

 

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賀斉の奇策

 

 

 

建安13年(208)には、賀斉は威武中郎将(イブチュウロウショウ)に昇格。赤壁の戦いや荊州動乱が起こる裏側で丹陽(タンヨウ)、黟(イ)、歙(ショウ)県の不服従民を鎮圧。

 

後にいくつかの郷が降伏を宣言したため、そのうちのひとつを県に格上げしようとしましたが……黟、歙2県の頭目がこれに反発。それぞれ不服従民を率いて敵対し、砦のある山へ閉じこもってしまいました。

 

彼らが閉じこもった山は、崖と細く険しい小道しかない天然の要害。普通に攻めようにも、崖の上から落石を行うため攻撃は困難を極めたのです。

 

 

しかも、何日と膠着が続く中、将兵から次々と不満が飛び交い、士気は減退するあまり。賀斉はそんな様子を見てこれ以上の対陣は危険と判断し……ある奇策に打って出たのです。

 

 

ある日、賀斉は山の周囲を自ら見渡すと、どうにかよじ登れそうな場所を記憶。山登り用のハーケンを作って身軽な兵士たちを集め、彼らにハーケンを手渡してやったのです。

 

そして夜闇に紛れ、賀斉の送り込んだ百数十人の隠密部隊がひそかに登山。一斉に角笛や太鼓を打ち鳴らさせて、敵軍を大混乱に陥れました。

 

かくして守りが崩れたところを賀斉らも本隊を率いて山を登り、敵軍を一気に蹴散らして大勝を飾りました。

 

 

後にこの混乱があった地域は新たに県を整備され、それらを合わせて新都(シント)郡となり、賀斉は偏将軍(ヘンショウグン)に昇格してそこの太守になったのでした。

 

 

また、時期は定かでありませんが……『抱朴子』では、世にも不思議な賀斉の戦い(たぶんさすがに創作)について書かれています。

 

賀斉は山越の不服従民を討伐に向かいましたが、なんとこの時、敵軍に一切の攻撃が通用せず。武器を手に取っても一切扱うことができず、矢を放っても不思議な力で跳ね返されてしまうのでした。

 

 

聞けばこの時、敵軍には呪術師がついており、その術師が刃物による斬撃属性の攻撃を一切シャットアウトしているのだとか。

 

周囲が絶望的な雰囲気に包まれる中、賀斉だけは打開策を考え、やがて一つの結論にたどり着きます。

 

 

「聞けば、その手の術師は斬撃を防げても、別の攻撃を防げないらしい」

 

 

かくして賀斉は「打撃攻撃ならば敵に通用する」という理論にたどり着き、堅木で棍棒を作成。力自慢の兵5千にそれを支給すると一斉に突撃し、呪術頼みだった敵軍をあっという間に粉砕。数万を討ち取ってしまったのです。

 

どういうことだってばよ

 

 

建安16年(211)に呉郡の余杭(ヨコウ)で千人余りの反乱軍が結成されましたが、賀斉はこれを瞬殺。ここでも賀斉の提言で余杭は分割され、臨水(リンスイ)県が建立。

 

建安18年(213)に1万以上の大軍が集まって引き起こされた大規模反乱も、賀斉はあっさりと討伐。兵役に耐えられる者は兵に加え、それ以外には県の戸籍を与えて無事に鎮圧して見せ、奮武将軍(フンブショウグン)に昇格。

 

 

ほとんど異民族制圧ばかりでしたが、賀斉はすっかり孫権軍の数少ない将軍の仲間入り。異民族討伐が、どれだけ呉にとって大事な事だったかがわかります。

 

 

 

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賀斉神

 

 

ここまでの戦績はずっと異民族討伐ばかりだった賀斉でしたが……なんと建安20年(215)、ついに三国志の表舞台にも出撃。孫権自ら率いる十万ともされる大軍の1武将として、手勢を率いて合肥(ガッピ)に攻めかかりました。

 

が、この時、敵軍を率いていたのは張遼(チョウリョウ)はじめ魏の名将たち。戦力では圧倒していた孫権軍でしたが、敵軍の見事な策に翻弄されて敗北。この時、賀斉の同僚であった徐盛(ジョセイ)も怪我を負わされ、自身の将軍の証である旗を奪われてしまったのです。

 

 

賀斉は、そんな絶望的な状況下でも兵を指揮し、なんと合肥の守備軍を跳ね返し、徐盛の旗を奪い返してしまいました。すげぇな賀斉神

 

 

その後、曹操(ソウソウ)の計略で再び異民族が反乱を起こすと、賀斉は陸遜(リクソン)と共にこれを討伐。降伏させ、新たに8千人の兵士を迎え入れました。

 

 

そして黄武元年、曹操の後を継いだ曹丕(ソウヒ)によって大規模侵攻が始まると、賀斉は再び魏との戦線に参加。この時、味方の船の多くが強風によって転覆、あるいは敵の陣地に漂流して大打撃を受けたのですが、賀斉の軍勢だけは無傷だったとされています。

 

さらにその後、侵攻してきた曹休(ソウキュウ)の軍を戦わずして追いやったことにより、後将軍(コウショウグン)に昇格。徐州牧(ジョシュウボク)となりました。

 

 

その翌年、晋宗(シンソウ)なる人物が呉を裏切って魏へと出奔。そのまま謀反を起こすという事件がありました。賀斉は糜芳(ビホウ)や鮮于輔(センウホ)らを率いて晋宗の反乱を討伐。難なく彼を生け捕りにしたとされています。

 

 

後に賀斉は史書からは姿を消し、晋宗討伐から4年後の黄武6年(227)、息を引き取りました。

 

その子や孫も、優れた人物であったと伝えられています。

 

 

 

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派手派手将軍賀斉神

 

 

 

さて、このように異民族討伐における功績を山ほど残した賀斉。陳寿からは特別な評を受けてはいませんが、「呉の異民族との国境は特に荒れやすく、そんな内患に良く対応した」とされる諸将のトップバッターを飾っています。

 

 

そんな優れた将軍である賀斉ですが……その生活態度は大変に華美豪奢なもので、『江表伝』ではとある人物から告発を受けるほどだったとされています。

 

が、その派手好きも時に真価を発揮するもの。賀斉の場合は特に軍事面で派手好きがプラスに働き、軍器や武具はとびっきり華やかで、特に彼の軍船は山のような威圧感があったとされています。

 

そんなド派手さは敵軍を威圧し、なんと曹休を戦わずして追い返した事績が本文にまで載っているのだから、恐ろしいものです。

 

 

 

孫権も彼は非常に高く買っており、特に余杭の反乱鎮圧の後には、これまでの功績をたたえて自分の馬車に迎え入れたほどでした。

 

当時の権力者と同伴するという行為は、実際には手打ちにされるレベルの無礼行為。それを権力者自らが許可するのは、この上ない栄誉だったわけですね。

 

そんな栄誉をはじめは恐れ多いと拒否した賀斉ですが、孫権は近習に指示して無理矢理馬車の中に賀斉を押し込み、その栄誉をたたえたのだとか何とか。

 

 

彼が最後に就いた後将軍という将軍位は、言ってしまえば魏蜀で言う五大将や五虎将軍にノミネートされた人物と同格の証なのですが……後にはそんな称号が存在しないのは残念です。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/22 19:50:22

 

 

生没年:中平5年(188)~赤烏4年(241)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡

 

 

 

 

孫韶(ソンショウ)、字は公礼(コウレイ)。呉の皇族はほぼ事績不明のまま名将として名を残している事が多いですが……彼もそんな一人。

 

というか、『孫韶伝』なのに本人よりも孫翊(ソンヨク)殺害事件の方が記述が多いってどうなの……

 

 

ともあれ、孫韶は孫一門の名将として、国を挙げた戦いの数々に参加。孫呉の主力武将の一人として活動していたのは間違いないでしょう。

 

今回は、そんな孫韶の事績を追っていきましょう。

 

 

 

 

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叔父の兵は俺が継ぐ!

 

 

 

孫韶の叔父である孫河(ソンカ)は元々、兪(ユ)氏の出だったと言われています。孫河は孫策(ソンサク)に気に入られて孫姓を与えられ、以後は彼らの一門として生きることになりました。

 

が、孫策が亡くなってその弟である孫権(ソンケン)が跡を継いでしばらくすると、孫家内でゴタゴタが引き起こされてしまいます。そしてそのトラブルの中で、孫権の弟・孫翊が死亡。そのついでとばかりに、孫河までもが殺されてしまったのです。

 

孫韶は、そんな非業の死を遂げた孫河の兵を引き継いで取りまとめることに。当時はまだ20歳にも満たない若者でしたが、孫韶は叔父の遺した兵をうまく取りまとめて京城(ケイジョウ)の補修を行い、敵の来襲に備えて櫓の整備や兵器の増設を行い、見事に防備を整えてみせました。

 

 

さて、孫韶がこうして防備を固めているところに、孫翊及び孫河が死亡したと知らせを受けた孫権が引き返してきます。孫権は撤退途中に孫韶が防備を強化していた京城に接近。お手並み拝見とばかりに攻撃を仕掛けます。おい何やってんだ

 

すると、孫韶は見事な統率で兵をまとめ、孫権軍に一斉射撃。これに舌を巻いた孫権が正体を明かすと、ようやく矢による一斉射撃も停止。

 

 

孫韶の見事な防御態勢を見て感心した孫権は、孫韶に対して孫河の私兵と領土、そして承烈校尉(ショウエツコウイ)の位と叔父同様の権限をその場で与えたのでした。

 

 

 

一族の勇将

 

 

後に孫韶は広陵太守(コウリョウタイシュ)、偏将軍(ヘンショウグン)となり、孫権が呉王となると揚威将軍(ヨウイショウグン)となり、建徳侯(ケントクコウ)の爵位が授与されました。

 

また、黄武元年(222)に曹丕(ソウヒ)が大軍を率いて攻めてきた時には、呉軍きっての名将たちと肩を並べて呂範(リョハン)の指揮下で戦い、天候が味方せず一時期危機に陥ったものの、それを撥ね退け撃退に成功します。

 

 

『呉録』によれば、その後の曹丕によって呉が侵略されたときにも防衛線に参加。

 

この時に曹丕は河が凍って船が出せないのを見てやむを得ず撤退しますが、孫韶はその退路に決死隊500人を送り込んで曹丕の度肝を抜き、決死隊員たちは曹丕が乗っていた馬車を奪い取ってくるという大戦果を挙げています。

 

 

後に孫権によって呉帝国が建立すると、孫韶は北の抑えを担当する鎮北将軍(チンホクショウグン)に昇進。その後も合肥侵攻などに一局面の大将として姿を現し、魏呉戦争の主力の一人となったことが伺えます。

 

 

孫韶はこうして対魏の主力武将として働くこと数十年、常に兵の育成に力を注ぎ、決死の覚悟で戦場を駆ける勇猛な兵を数多養成し、国境の防備を強化。

 

また武官でありながらも周囲の情勢には鋭く目を光らせ、ほとんど負けなしの優れた名将へと成長していったのです。

 

そんな孫韶の風貌たるや、八尺(190cmオーバー)の大男にもかかわらず風雅な面持ちで、孫権からも「すっかり別人のようにたくましくなった」と喜ばれています。

 

 

孫韶は後に幽州牧(ユウシュウボク)として、孫呉が天下を取った暁にも北方の国境地帯で防備を任されることが決まり、軍事的な処罰権である仮節(カセツ:軍法違反者を独自裁量で裁ける)を授かることになりました。

 

 

赤烏4年(241)に、孫韶は死去。息子たちもひとかどの武人だったようで、やはり高位に上がっています。

 

 

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洞察の達人

 

 

 

孫家の他の皇族たちともども、孫韶も陳寿によって独自に評が与えられている人物ではありません。が、彼の伝に書かれている記述を見るに、非常に洞察というか、情報収集に精力的な人物だったと言われています。

 

 

「彼を知り己を知れば、百戦殆からず」

 

とは孫子の言葉ですが、彼はそんな言葉を忠実に実行した結果、敗北自体がほとんどないとされるほどの名将として知られるようになったのです。

 

実際に魏の国境帯からの投稿者多数、さらに味方も孫韶が目を光らせているおかげで防衛戦力を空っぽにしてその分を攻撃に割くことができたとか。

 

 

また、孫権の元に向かった時には青州・徐州一帯の魏領内の情勢について尋ねられましたが、孫韶はそのすべてを仔細に報告。敵の防衛戦力、距離、兵力指揮官の名前など、その情報には穴がありませんでした。

 

 

このように情報をしっかりと取り扱う人物は、基本的にどこの時代でも名将です。孫韶もまた、そんな『名将』のテンプレを踏襲した、優れた人物だったのです。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/18 14:10:18

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:?

 

 

 

谷利(コクリ)。合肥の戦いで窮地に陥った孫権(ソンケン)が脱出するときに活躍した……のですが、伝が立つどころか三国志本文にその名前は無し。もっぱら記述があるのは裴松之により注釈として追記された『江表伝』のみという人物です。

 

というのも、この人の立ち位置は武将や将帥でなく親衛隊長。典韋(テンイ)や許褚(キョチョ)に近い役回りですが、あちらと違って軍を率いたという話も聞きません。

 

 

今回は、そんな謎多き人物、谷利について記述を追っていきましょう。

 

 

 

 

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合肥でのファインプレー

 

 

 

谷利が登場するのは、合肥の戦いのとき。

 

この戦い、数こそは孫権軍が圧倒していたのですが、敵将・張遼(チョウリョウ)を始めとした魏軍の激しい抵抗により全軍の統制が取れず、混乱状態に陥ってしまいました。

 

 

この時の張遼の勢いは圧倒的で、立ちはだかる圧倒的多数の孫権軍を粉砕。少数の兵力とは思えない勢いで本陣に向かっていき、ついには孫権自身も命の危険にさらされてしまったのです。

 

さらに運が悪いことに、川を渡ってきた孫権は渡しとして掛けていた橋を撤去してしまい。どこにも退路はありませんでした。

 

 

そんな時、孫権の後ろに谷利が控えていたのですが……逃げ延びる方策を思いつき、一か八かで実行に移すことにしたのです。

 

 

「殿、手綱を緩め、鞍にしっかりと掴まっていてください」

 

 

そう言い放つが先か、谷利は孫権が載る馬の尻を鞭で殴打。驚いて勢いづいた馬は一直線に全力疾走すると、そのまま崖をジャンプ。

 

孫権が乗っていた馬が駿馬だったのもあり、崖を飛び越えて安全地帯に脱出するという無茶を成し遂げたのでした。

 

 

孫権は自身の命を救ってくれた谷利に大いに感謝し、なんと1親衛隊長にもかかわらず、都亭侯(トテイコウ)の爵位と領地を与えられることになったのだとか。

 

 

 

 

 

 

君主の命のために

 

 

 

メディアに登場する孫権は慎重派で非常に大人しい人物であることが多いのですが、正史の彼は一味違います。

 

悪ふざけと無茶が大好きで、たびたび無茶苦茶な行動をしては家臣に怒られるような人だったのです。

 

 

さて、黄武5年(227)のある日のこと。孫権が完成を楽しみにしていた大型船が、ついに艤装を完成させていつでも出航可能な状態になった時の事。

 

孫権はこの船を『長安』と名付け、そのまま進水式を行うことになりました。

 

しかし、長安が出航してしばらくした時の事。それまでご機嫌だった長江が突然機嫌を損ね、長安は激しい強風にさらされてしまったのです。

 

 

谷利は近くの港に戻るよう周囲に指示を出しましたが、当の孫権はご機嫌なまま、「構わん! このまま当初の目標まで突き進むぞ!」と言い出す始末。

 

結局どっちの指示に従うべきか迷って混乱し始める船内。その時、谷利は突如として剣を抜き、船頭にそれを突きつけて周囲に声を張り上げたのです。

 

 

「最寄りの港に戻れ! 従わない者は斬る!」

 

 

騒然としながらも、大型船長安は結局近くの港に寄港。後に風がさらに強くなり、航行不可能となって長安はそのまま元の港に帰ることになったのでした。

 

そんな一連を見ていた孫権は何かを面白おかしく思ったのか、谷利におふざけ半分に詰め寄ります。

 

 

「おいおい利ちゃんよ、水がそんなに怖いとか憶病すぎじゃんよ?」

 

 

対して谷利は、その場にひざまずき、孫権のからかいに対して答えます。

 

 

「殿はこの呉王国の主でいらっしゃるのです。こんなお遊びで万一命を落としてしまわれるようなことがあれば、国はどうなるのですか。それを考えたため、こうして死罪を覚悟で無理矢理お止めしたのです」

 

 

この返答を聞いた孫権は、谷利を以後、さらに信頼。苗字の「谷」と呼ぶようになり、谷利の君主からの寵愛はさらに強くなったのです。

 

 

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結局何者?

 

 

 

谷利は孫権の側仕えとして主君に尽くし、その態度は謹厳実直そのもの。いい加減なことを言わず一本気であるのを気に入られ、そのまま親衛隊長に任命されたと言われています。

 

 

また、谷利という名にも諸説あり、何でも「谷利」というのが実名でないという話も……

 

出自に関しても謎が多く、一説には解放奴隷の出だったとか何とか。

 

 

 

ともあれ、どれほどの功績があれども所詮は孫権の親衛隊長。伝が残るどころか三国志の本文にも姿が見えず、何とも残念なところではあります。

 

 

もし都亭侯の爵位と共に何かしらの武官としての官職が与えられていたら、許褚や典韋ほどでないにしろ、それなりの活躍を……というのは考えすぎでしょうか。

 

何にせよ、孫権の命の恩人でありながらよくわからない人物というのは、一種のロマンを感じます。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/15 22:49:15

 

生没年:建安9年(204)~嘉禾6年(237)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州廬江郡

 

 

 

陳脩(チンシュウ・陳修とも)。孫権の命を救った猛将・陳武(チンブ)の長男ですね。実際は腹違いの弟である陳表(チンヒョウ)ではなくこちらが正式な後継ぎでしたが、短命という恐ろしい運命のせいで大きな功績を残すことができずに死亡した、非常に残念な人物です。

 

一応、父親譲りの気前の良さを持ち合わせていたのですが……

 

 

 

 

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陳家は前任の家系?

 

 

 

正直なところ、たった数行で終わってしまうのがこの人の記述。三国志本文にある内容をザックリ述べるだけで、人物評やエピソードはどうしようもないので今回は省略させていただきます。

 

 

彼の父親・陳武は孫権(ソンケン)にとって頼れる優れた猛将でしたが、合肥の戦いで早くして戦死。陳脩はこの時まだ未成年だったようで、おそらく孫権の保護を受けるか父の遺産で食いつなぐかして、母親が女手ひとつで育てた子なのでしょう。

 

そんな陳脩が孫権の元に仕えるようになったのは、奇しくも孫権が兄から役職を引き継いだのと同じ19歳の時。彼は孫権から直々に「父親同様励むのだぞ」と激励の言葉を受け、別部司馬(ベツブシバ:非主力隊隊長)として500の兵を率いる指揮官になったのでした。

 

 

また、この当時の呉はなかなかに安定しない時期で、逃亡兵も多く出てしまうなど、軍の統率に支障をきたしていた時代でもありました。が、陳脩の部隊は彼がしっかり兵士の心を掴んだため、逃亡兵は0。

 

孫権はこれを見て大喜びで、すぐに陳脩を校尉(コウイ:将軍より格下だが充分位の高い高級軍人)に格上げさせたのです。

 

 

建安の末に、今度は荊州を奪った呉は亡くなった功臣たちの生前の功績を称える論功を行い、陳脩も父の功績をたたえられて、都亭侯(トテイコウ)として列侯に連ねられ、さらには解煩督(カイハントク)という特殊部隊指揮官の役職を与えられることになったのです。

 

 

当然、無能であれば父が功臣であってもそんな役職は与えられず、名誉職に留められたことでしょう。それを考えると、陳脩もやはり一端の武将であったと言えるかもしれません。

 

 

……が、史書に載るような活躍の機会は与えられることはなく、黄龍2年(230)、陳脩は若くしてこの世を去ることになったのでした。

 

 

 

史書に曰く「父の面影があった」とありましたが……父のような猛将か、弟のような人知を併せ持った名士然とした武人か、そこを知るには、あまりに活躍が少なすぎる人物でした。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/13 23:03:13

 

 

生没年:建安9年(204)~嘉禾6年(237)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州廬江郡

 

 

 

 

陳表(チンヒョウ)、字は文奥(ブンオウ)。三国志に限らず、史書には父親の伝に付属して子に伝が立てられることが多いのですが……中には父親以上の存在としてその伝を食ってしまう人物も少なくありません。

 

陳武伝は、陳武(チンブ)、そしてその子供2人の列伝として構成されていますが、その半分以上が陳表の伝。陳表は父親以上の活躍を残した人物として、歴史に名を連ねているのです。

 

 

今回は、そんな陳武伝付、陳表伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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貴人聖人(ガチ)

 

 

 

陳表は陳武の妾の子であり、元来は庶子という事で、彼の跡継ぎからは程遠い人物でした。

 

そんな陳表が見つけた新たな生活の道は、孫権(ソンケン)の皇太子である孫登(ソントウ)の側仕え。陳表は諸葛恪(ショカツカク)、張休(チョウキュウ)、顧譚(コタン)といった重臣の二代目たちと共に孫登の宮殿に住まい、彼らと共に「太子四友」と言われる孫登の側近になったのです。

 

 

また、その他にも曁豔(キエン)なる人物と仲良くしていましたが……後に曁豔は呉の重臣を讒言で失脚させたとして大罪人となってしまいました。

 

この時、曁豔にすり寄っていた多くの官僚たちはこぞって手のひらを返し、曁豔の行動を徹底弾圧。その中でも陳表だけは彼に対して何も言わず、筋を通したことで名士層からも一目置かれるようになったのです。

 

 

 

また黄龍2年(230)、兄の陳脩(チンシュウ)が死去したことにより、陳一家の屋敷でトラブルが発生しました。

 

この時陳武の正妻がまだ存命中であり、女性間の序列は彼女が一番上でしたが……妾というコンプレックスからか、陳表の母は陳武の元妻の言いつけを完全無視。正妻に対して驕慢な態度を取るようになっていったのです。

 

 

この時も、陳表は道理と筋を通すことを良しとし、自分の母に対して以下のように言い放っています。

 

 

「兄上が亡くなったために、私は家中を取りまとめて正妻様にお仕えすることになったのです。もし母上がお気持ちをやわらげ、正妻様の言葉に従っていただけるのなら幸いです。が、もしそのようにしていただけないのなら、ここを出て別居していただく必要があります」

 

 

この言葉に心を打たれたのか、陳表の母は正妻の言う事に従順になり、家中の混乱は未然に避けられたのです。

 

その後陳表は、父に倣って自身も武将になる事を志願。兵士500を率いる身分となり、陳表は彼らを手厚く遇することにしたのでした。

 

 

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いい人過ぎて逆に怖い

 

 

 

さて、こうして父や兄と同じく軍の指揮官となった陳表でしたが……そんな軍人スタートを切ったある日のことでした。兵卒の施明(シメイ)なる人物に罪の容疑がかかったものの、勇猛な施明は毅然として口を割らず取り調べが難航していました。

 

困り果てた孫権は、この手の勇士の心をうまくつかんでいると評判の陳表を呼び寄せ、事由に取り締まってよいと詔を出して施明の取り締まりを主導させます。

 

 

こうして取り調べを受け持つことになった陳表は、なんと施明の手枷を外して風呂に入れ、立派な衣服を着せて酒の席を設けてやったのです。この手の輩は拷問をしても頑なに心を閉ざすばかり。ならば逆に温情を与えてやり、善意と報恩の心に訴えかけて白状を呼び掛けた訳ですね。

 

この方法は大成功で、施明はすぐに罪を認め、共犯者を告発。報告を受けた孫権は共犯者を次々と摘発処刑しましたが、陳表の心意気を裏切らないよう施明だけは特別に助命したのです。

 

 

後に陳表は、施明の所属する軍の右部督(ウブトク:督は指揮官)に昇進し、都亭侯(トテイコウ)の爵位が与えられる事に。

 

また、陳脩の死後空白になっていた位を継いで、実質的に陳武や陳脩の後継者になるよう孫権からほぼ強制的に命じられ、陳脩に子がいたにも関わらず、その家督を継ぐことになったのです。

 

 

嘉禾3年(234)には、諸葛恪の援軍として山越(サンエツ)の不服従民討伐に乗り出し、その後しばらく山越の討伐、鎮圧に力を注ぐようになったのです。

 

この時に陳表は、山越の不服従民にはしきりに自軍への帰順を呼びかけ、気付けば帰順兵力は1万を超し、隣の郡で大規模な反乱がおきた際にも敵将を追い詰め降伏させる功績を上げています。

 

 

こうして異民族との戦いで大きな手柄を挙げた陳表は、陸遜(リクソン)の推挙もあって偏将軍(ヘンショウグン)に昇格。爵位も都郷侯(トキョウコウ)に格上げされて将来を渇望されましたが……その後何年としないうちに、34歳の若さで死去。

 

陳表は生前に兵士を厚遇するあまり家に財貨が無く、その死後に遺族が路頭に彷徨うほどに落ちぶれ、見かねた孫登によってようやく生活が安定することになったとか。

 

 

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人物像

 

 

 

元々父や兄も気前が良く無欲だったとのことですが、この陳表は気前の良さでいえばさらに格上。あえて悪い言い方をすると、病気を疑いたくなるくらいの“いい人”であり続けました。

 

実際に兵たちへの配慮も十分すぎるくらいで、兵卒は全員陳表のために喜んで戦ったともあります。実際、父や兄に劣らぬ、下手をするとそれらを超える統率力や人望を持っていたと言えるでしょう。

 

 

そんな陳表を、陳寿は評で以下のように語っています。

 

 

しがない武将の、しかも庶子であった。にもかかわらず大物のところのお坊ちゃまや名士と肩を並べ、最後には同輩すらも追い抜いてしまった。素晴らしい事ではないか。

 

 

また、裴松之も「父親を超えたのではないか」とも語っており、陳武伝の実質的な主役に恥じない評価を与えられた人物です。

 

 

さすがに家族まで巻き添えにするほどの気前の良さは行き過ぎという気もしますが……陳表は理想の上司の一人と言っても過言ではなく、大役を任されて花開く前に亡くなったとはいえ、その人物像を知るには十分すぎるほどでしょう。

 

 

 

 

小作人を兵士に

 

 

 

さて、陳表の記述の中には、孫権から賜った200世帯の小作人を兵士にジョブチェンジさせたというものがあります。

 

陳表が孫権から新たに200戸の小作人を賜った際、よくよく調べると彼らは全員兵士にするのに十分な人物でした。

 

陳表はすかさず孫権に対し、「彼らをお返しします。兵士として使ってやってください」と上奏。孫権から「これくらいは受け取れる功績がお前にはあるんだから黙って受け取りなさい」と言われると、今度は以下のように返答したのです。

 

 

「天下を平定し父の仇討ちを行うには、何よりまず人材です。彼らは兵士として十分な資質をもっているのに、それを活かさずただの召使にするのは、本意ではありません」

 

 

そうキッパリ告げると、陳表はすぐに小作人の中から兵士に向いている者を選別し、実戦部隊として投入。後に報告を受けた孫権は怒るどころか逆に喜び、兵役についていけない者を選んで、新たに陳表の小作人として送り込んだのでした。

 

 

まあこれはいい人というより適材適所の知性的な話になってきますが……陳表の軍勢は先ほども述べた通り厚遇される名誉の役職。召使よりも待遇が良いでしょうし、そういう意味でもいい人伝説の中に組み込まれる話かもしれませんね。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/13 17:30:13

 

 

生没年:光和7年(184)~建安9年(204)

 

所属:呉

 

生まれ:?

 

 

 

 

孫翊(ソンヨク)、字は叔弼(シュクヒツ)。孫家一門に実に色濃く残っているDNAとして、軽率な性格とそのせいで寿命を全うできない呪いとも言うべき短命が挙げられます。

 

孫翊は孫権(ソンケン)の弟でありながら空白となった孫一門の頭領の座を彼とどちらが継ぐかで問題になるほどの勇猛な人物でしたが、孫一門に相応しい短命の呪いを一身に受け、その呪いの通り若くして暗殺されてしまいました。

 

この短命、軽薄という孫家のお家芸を見れば、あるいは孫翊の方が孫家の後取りと言っても良いかもしれませんね。

 

 

さて、今回はそんな孫翊伝、短いですが追っていこうと思います。

 

 

 

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孫家の跡取りに相応しい……?

 

 

 

孫翊は孫策(ソンサク)や孫権の弟であり、孫権と比べるとはるかに孫策に似たような気風があって将来を嘱望されていました。

 

 

その剛毅果断な性格はやがて孫一門の勢力の中枢を担うのではとされており、古参の名士・朱治(シュチ)によって孝廉(コウレン)に推挙。

 

その後、曹操(ソウソウ)からも兄・孫権と共に官職が贈られ、孫権と共に長兄・孫策(ソンサク)を支える大きな柱として期待され、今後も孫一門の重鎮として居座ることを期待されたのです。

 

 

建安5年(200)に孫策が暗殺されると、今度は次兄・孫権に孫家の命運が託されるようになりました。

 

カリスマを発揮した兄亡き勢力下、おそらく孫翊の立場もより重要になっていったことでしょう。その証左か、建安8年(203)には、20歳という若さで偏将軍(ヘンショウグン:将軍位は下級だが、そもそも当時の孫権勢力で将軍職は稀)となり、重要地域である丹陽(タンヨウ)の太守を任されます。

 

 

こうして孫一門の重鎮として、主に武での働きを期待された孫翊でしたが……その翌年、突如として部下の辺鴻(ヘンコウ)なる人物に暗殺され、孫策死後のゴタゴタから抜け出しつつあった江東にまたしても暗い影を落としてしまうことになるのです。

 

 

朱治からは生前、その感情的で軽薄な態度を諫められていましたが……まさしくその懸念がそのまま早すぎる死を招いたのでした。

 

 

ちなみに『典略』によれば、彼の元の名前は孫儼(ソンゲン)。

 

孫策が亡くなる際には、重臣の張昭(チョウショウ)らによって孫翊が後を継ぐようにと述べていたとか。しかし、孫策はその意見を棄却して孫権を呼び、彼に後を託したのです。

 

 

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異説とその後

 

 

さて……ここからが本番。『呉歴』にある異説と、彼の死後の一波乱についてもここに記しておこうと思います。

 

彼の妻に徐氏(ジョシ)という人がいましたが、この人がなかなかに切れ者。馬鹿感情的な夫の良きパートナーでした。

 

 

孫翊暗殺の前日、実は丹陽郡中の重役が集まっての宴会を行うことになっていたのですが……占いの達人でもある徐氏が「この日は危険」という占い結果を出し、日を改めるよう進言しました。

 

結果から言うと、この占いは大当たり。辺鴻は、孫翊から理不尽な叱責を受けて恨みを募らせた嬀覧(キラン)や戴員(タイイン)といった人物らと孫翊暗殺計画を企てていたのです。

 

 

しかしそんなことを知らぬ孫翊は、「官吏たちが来てから長いし、そろそろ帰らせねば」と予定通り宴会を決行。酔っぱらった拍子に辺鴻に殺されてしまったのです。

 

嬀覧と戴員は罪を辺鴻にすべて着せて処断。嬀覧は孫翊に代わる立場にのうのうと居座ってしまいました。側室から侍女にいたるまで自分の物とし、未亡人となった徐氏すらも愛でてしまおうと考えたようです。

 

徐氏は喪を理由にうまく切り抜けましたが、まだまだ予断を許さない状況。周囲は嬀覧らの仕業であるとわかっていたものの、あえて告発する力もなく、結局黙るしかないという有り様でした。

 

 

しかしそんな中、徐氏は孫翊の仇討ちを決意。喪に服している間に信頼する者らを集めて暗殺計画を企て、あえて嬀覧の女になる事を表明したのです。

 

これに気を良くした嬀覧は、得意満面の表情で徐氏の元に向かい、そして……

 

「さあ、やーっておしまい!」

 

……などと言い放ったかは不明ですが、徐氏の合図とともに、孫翊の側近であった孫高(ソンコウ)と傅嬰(フエイ)は嬀覧の前に飛び出して彼を殺害。他の参加者も戴員を殺し、徐氏は見事に夫の仇を討つことができたのでした。

 

 

 

まあこの話は美談すぎてどこまで信じたものかといったところですが……何にせよ、暗殺されるという事はそれなりの理由があるのは間違いなし。孫翊が恨みを買い、その結果としてこのようなドラマが史実で展開されることになったというのも、まああり得ない話ではないでしょう。

続きを読む≫ 2018/09/08 22:29:08

 

 

生没年:?~赤烏8年(245)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡鳥程県

 

 

 

 

吾粲(ゴサン)、字は孔休(コウキュウ)。伝が立つほどの優れた人物とは言え実体はただの優れた一軍政官で、正直目立つような立ち位置の人物ではありませんが……なんと言うか、ぶっちゃけ昭和の主人公。

 

たった一つのエピソードからこの人の人となりと格好良さはにじみ出ており、そのためにごくごく一部の限られた人たちから一目置かれている、そんな人です。

 

 

ただ、惜しむらくは性格とは裏腹の、主人公補正の無さ。普通に処刑されて終了という、本当に惜しいというか締まらないというか、そんな終わりを迎えています。

 

今回は、そんな吾粲の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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庶民出身の宰相の器?

 

 

 

吾粲が史書に姿を現したのは、孫権(ソンケン)の皇族である孫河(ソンカ)が故郷の県長をしていた時。庶民の身分という事もあって下っ端小役人としての器用でしたが、吾粲の仕事は群を抜いていて孫河も密かに目をつけていたとか。

 

孫河が後に将軍となると、孫権軍の人手不足というのもあって一気に上級役人にまで出世して、さらにさまざまな仕事で高い業績を打ち立ててどんどん有名人に。

 

やがては庶民出身でありながらも、まだ若かりし日の名族・陸遜(リクソン)らにも並ぶほどの名声を得たのでした。

 

 

後に吾粲は、孫権に目をつけられて幕府の主簿(シュボ:秘書官)に就任。やがて山陰(サンイン)県令、そして参軍校尉(サングンコウイ)と、中央と外の役職を行き来しています。

 

 

ここでの活躍は特に記されてはいませんが、恐らく立派に職務を果たしたのでしょう。黄武元年(222)には、魏の曹丕(ソウヒ)の侵攻を阻むために水軍部隊指揮官のひとりとして戦いに参加しています。

 

 

 

『呉録』によると、吾粲は数歳の時にとある老婆と出くわし、その老婆は吾粲の顔を見るなり、「この子は大臣レベルの器の相だよ」と吾粲の母親に述べたとか。

 

 

 

 

溺れた味方は捨て置けん!

 

 

さて、黄武元年(222)の、曹丕による魏帝国を挙げた大攻勢の時のこと。

 

この時吾粲らは敵将曹休(ソウキュウ)率いる軍勢と対峙していましたが、ある夜、突如として突風が発生。水上で敵とにらみ合っていた呉軍は船を風に流され、転覆して溺れたり敵陣に乗り込んでしまったりして大損害を受けてしまったのです。

 

船が沈んで溺れた味方は、なんとか無事だった味方の中、大型船に殺到。そのせいで大型船までもが傾きかけ、「自分たちも死んでしまう」と思った大型船の船員たちは、よって集まる味方を矛で突き落として船のバランスを取っていたという有り様でした。

 

 

しかしその惨状を見ると、吾粲は「窮地にある人を放っておけるか!」と発起。ともに軍を率いていた黄淵(コウエン)なる人物とただ二人だけが水夫に命じて、船が沈む危険もお構いなしに救える者を救っていきました。

 

結果として、助かった人数は百人以上。この功績か別の功績かはわかりませんが……戦後吾粲は揚州政治の要である会稽(カイケイ)の太守に任じられることになったのです。

 

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庶民破格の出世の果て

 

 

 

会稽太守として認知に赴いた吾粲は、当時まったくの無名無官であった謝譚(シャタン)という人物に注目。彼に人事評価を任せようと自らの元へ呼び寄せることにしました。

 

しかし謝譚は、病気を理由に出世せず、吾粲の元に訪れませんでした。

 

 

吾粲はあくまで謝譚の才を惜しみ、文書を直接送りつけて説得。

 

「応龍(オウリュウ:翼のある龍)は時が来ればその力を振るうからこそ喜ばれ、鳳凰は見事な鳴き声をしているからこそ尊ばれる。それほどの才を持ちながら、なぜに隠遁して出てこようとしないのだ」

 

どこか教養臭い気取った文章ではなく、民間にも知られる神界の生物に例えてのこの言葉。歴史を題材にした堅苦しいものではない辺り、なんとも吾粲らしい説得文です。

 

 

さて、吾粲はその後軍事でも活躍し、志願兵を集めて呂岱(リョタイ)と共に山越(サンエツ)の反乱軍を討伐。後に中央へと戻り、ついには孫権の太子の教育係にまで上り詰めたのです。

 

 

……が、今度は二宮の変と呼ばれる後継者争いが呉の領内で勃発。

 

この争いは孫和(ソンワ/ソンカ)と孫覇(ソンハ)という二人の太子のどちらが後継者となるかで行われましたが……吾粲はこの政争に、年上で始めに嫡子と決められていた孫和の派閥に属しました。

 

この時の吾粲は正論を一切の遠慮なく述べてみせ、孫覇派の重鎮である楊竺(ヨウジク)の排斥を直訴。また、孫和派のトップである陸遜との橋渡し役なども務めましたが……こんな派手な動きを見せた人物が、敵対派閥からマークされないはずがありません。

 

とうとう孫覇や楊竺らに標的にされた吾粲は激しい弾圧を受け、そのまま投獄、殺害されてしまいました。宰相にまで登ると言われた異例の平民の、あまりにあっけない最期でした。

 

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人物評

 

 

さて、こんな補正に恵まれることなくモブとして果てた主人公・吾粲ですが、三国志を編纂した陳寿は彼のことを以下のように評しています。

 

困難な状況下で正義を貫こうとしたが、悲しいことにそれが仇となって身を滅ぼしたのである。

 

 

これはまた別の状況で殺された朱拠(シュキョ)という人物とセットで語られたことですが……まあ、言ってしまえば巻き込まれた同情が評のメインといったところでしょうか。

 

優れた才覚と何より主人公的な熱い性格、そして平民スタートという主人公要素をこれでもかと詰め込んだ人物にも関わらず、非情な現実は味方してくれず、その他大勢として消えていった吾粲。

 

 

「お前誰?」という評を除けば、おおよそ同情的な人物評と身の危険を顧みない熱い献身が半々といったところか。

 

結局政争は楊竺の方が一枚上手でしたが……中心人物の相次ぐ病死で孫覇派の弱体化が始まるまでの数年間活きていられれば、吾粲の立場はどうなったのでしょうか?

 

少しばかり、気になる所ではあります。

続きを読む≫ 2018/08/27 23:02:27

 

 

生没年:光和元年(178)~赤烏2年(239)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡呉県

 

 

 

 

朱桓(シュカン)、字は休穆(キュウボク)。呉の初期を支えた勇将にして、軍の要ともいえる人物の一人ですね。

 

呉は往々にして血気盛んで男伊達を好み、忠義に厚いもののプライドが高い……そんな人物を多く輩出しています。朱桓はその中でもとりわけ……まあなんというか、濃いです。というか率直にヤバい人です。

 

そのプライドの高さたるや、実際に癇癪に巻き込まれた死人が出るほど。でも忠義を尽くすべき主君としたがってくれる兵には優しい。なんとも両極端な人間性が、史書の記述から伺えます。

 

 

今回はそんな朱桓の伝を見ていきましょう。

 

 

 

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孫権ところの名将軍

 

 

朱桓の伝の始まりは、孫権(ソンケン)が将軍として勢力を得た瞬間。ちょうど孫権は兄・孫策(ソンサク)の急死を受けて慌てて次期当主の座についた直後であり、大規模な人材登用や孫権自身の影響力拡大が急がれていた時勢ですね。

 

朱桓は孫権の誘いを受けて、後に名をとどろかせる名将らの一人として仕官。側仕えを経て、やがて余姚(ヨヨウ)県のトップとして幕府の外に赴任していきました。

 

 

朱桓が赴任した時、余姚は大規模な疫病に苦しめられ、農耕者の不足で飢饉状態という危険な状態でした。

 

朱桓はこの惨状を見ると、すぐに医薬品の手配を開始。外部から医療器具の買取を大々的に行うと同時に住民に向けて炊き出しを行い、疫病と飢饉の両方に対処したのです。

 

 

おかげで住民たちの被害は大規模な物にはならず、すっかり朱桓は住民たちの人気を得ていったとか。

 

 

その後、今度は盪寇校尉(トウコウコウイ)として二千の兵を預かる指揮官に任命されます。県の政治家からエリート軍人への転向ですね。

 

こうして軍人としてスタートを切った朱桓の最初の任務は、手持ちの兵力を増強するための募兵活動。異民族の影響力も強い東端の呉(ゴ)、会稽(カイケイ)二郡で散在する兵士を集めて回り、1年かけて軍の規模を1万以上にまで増強します。

 

そして集めた兵を率い、今度は孫権の本拠にもほど近い丹陽(タンヨウ)、鄱陽(ハヨウ)郡の異民族反乱軍を鎮圧。周辺地区を荒らして実際に戦死したり捕虜になった長官も出るほどの大規模反乱でしたが、朱桓はこれらをあっという間に鎮圧、併呑してしまったのです。

 

軍事的才覚がこの戦いで認められ、朱桓は後に卑将軍(ヒショウグン)、新城亭侯(シンジョウテイコウ)として、当時まだ少なかった将軍の席を得ることができたのでした。

 

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魏の名将をボコす者

 

 

 

さて、続けて朱桓が活躍したのは、黄初2年(222)に魏の曹丕(ソウヒ)が呉への大規模遠征を敢行した時です。

 

病死した周泰(シュウタイ)に代わって濡須の前線基地に投入された朱桓の身分は、その戦線の総大将。おそらく、記載されていない裏でいろいろと戦功を重ねたのでしょう。

 

 

さて、この時の相手は、魏が誇る最高峰の名将、曹仁(ソウジン)でした。曹仁は巧みな情報戦で朱桓を圧倒し、迎撃軍を分断。翻弄された朱桓は、わずか5千という兵力で数万の曹仁軍を迎え撃つという状況に陥ってしまったのです。

 

絶望的な状況下で、兵たちもすっかり恐慌状態。しかし朱桓は撤退せず迎撃することを決定。兵たちに以下のように号令しました。

 

 

「勝敗は指揮官の優劣だ。俺は曹仁に劣っていると思うか?兵法にある勝敗は、条件が同じである場合を前提として語られている。
我々は山岳と山々に囲まれた地で、十分な休息を得た上で、行軍で疲弊した軍を相手にするのだ。曹仁ごときでは話にならん!」

 

 

かくして、朱桓はこの難局に意気高く望むこととなりましたが……結果は大勝。弱兵を演じて敵をおびき寄せ、敵を二方向に誘い込んで各個撃破してしまったのです。

 

この時、城とは別にある中州の砦を攻撃した常雕(ジョウチョウ)を討ち取り、さらに敵将王双(オウソウ)を捕縛。曹仁の息子である曹泰(ソウタイ)の陣には火攻めを行ってとやりたい放題の大勝利で、敵軍の犠牲は四桁にも上ったとされています。

 

 

 

また、黄武2年(228)にも、敵大将曹休(ソウキュウ)が偽の投降に騙されて領内に深入りした際にも、陸遜(リクソン)や全琮(ゼンソウ)らと共に出撃。全琮とそれぞれ三万の兵を率いて曹休軍を急襲し大破させています。

 

この時曹休は仕返しに一戦仕掛けようとしますが、それを見た朱桓は、曹休生け捕りの策を提案。

 

「皇族で大任を背負っているというのに、大したものではありませんな。あれならばもう一度戦っても結果が知れていますし、退路も大方予想がつきます。私に一万を預けていただければ、退路を断って奴を捕らえてみせましょう」

 

結局この案は採用されず、曹休は辛うじて逃走するという結果となりましたが……朱桓が大勝利に貢献したのは間違いありません。

 

 

翌年の黄龍元年(229)、呉帝国が建国すると、朱桓は前将軍(ゼンショウグン)に昇格し、仮節(カセツ:戦犯者を独自判断で処罰できる権限)を得、さらには北方の青州(セイシュウ)を治める州牧(シュウボク:1つの州の長官)にまで任命されることになったのです。

 

 

その後も朱桓は、呉の軍事の要として働き続け、その過程で気持が暴走してとんでもない凶行を行ったりもしましたが……まあ、呉、ひいては三国志を代表する名将の一人にふさわしい人物だったことは間違いないでしょう。

 

 

赤烏2年(239)に病気で死去するまで呉の孫権に尽くし続け、病に倒れた際には多くの部下や領民がその死を嘆きました。

 

これほどの高官にもかかわらず家には貯えが全くなかったことから、孫権は国庫から葬式費用を負担したのでした。

 

 

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人物評

 

 

さて、そんな呉有数の名将朱桓の人物評ですが、陳寿はこのように記しています。

 

思いあがって偏狭なところがあったが、勇猛で武勲を良く立てたことで知られ、生を全うした。

 

 

まあ実際の評価は文脈的に前後する部分がありますが、おおよそこんな感じ。同僚や周囲への態度がアレな人物ではあったものの、勇敢で武略に優れ、たとえ劣勢であったとしてもそれを跳ね返す力があった人物です。

 

その威名は敵陣にもよく届いており、撤退中の呉軍に追撃を仕掛けようとした敵将が、殿軍の指揮を執る朱桓の姿を確認しただけで怯えて出撃を取りやめたほどとか。

 

 

さて、では、その内面について、以下にいくつか記していきましょう。

 

 

彼は非常に部下思いで、朱桓の軍勢はプライベートがしっかり保証される、当時では珍しいホワイトな職場だったとされています。補助は手厚く血縁者にまで及び、朱桓自身のポケットマネーから給料が支給されることもしばしばで、葬式費用がなかったのもこういう使い方をしたせいだったのです。

 

また記憶力も抜群で、一度あった人の顔を覚えておくのが特技だったと言われています。

 

この特技を使って、直属の軍政官や兵士の名前も完璧に記憶。数にして一万とされていましたが、彼らとその妻子の顔まできっちり覚えていたのですから、兵士たちも力を尽くすわけです。

 

 

……が、問題点は偏狭な一面もあったこと。

 

これは、史書にも朱桓の性格として以下のように書かれており、部下への聖人ぶりとは打って変わって呉でも問題になっていた事が伺えます。

 

自分の間違いを認めず、人の下につくのが嫌いで、軍中で思い通りにならないとよく癇癪を起した。

 

上司としては最高の聖人ですが、同僚や部下としてはこれほどの危険人物もそういない、なかなか稀有な人物だったようです。

 

その性格を表す話として、史書の”本文”に以下の逸話が載っています。

 

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危険なプライドの塊・朱休穆

 

 

 

朱桓が前将軍なった後のある時。全琮を総大将として魏軍に攻め入った呉軍でしたが、なかなか進展がなく戦いは膠着状態にもつれ込んでいました。この時、総大将は全琮出会ったものの、実際は孫権からの指示を受けた胡綜(コソウ)という人物が取り仕切っていた様子。

 

そんな折、呉軍は膠着状態を打開しようと、別動隊を設けての奇襲作戦を行おうと動きます。

 

 

……が、そんな折、全琮に食って掛かった男がいました。お察しの通り、朱桓です。抗議を行っていた朱桓は、全琮との言い争いの上で完全にヒートアップして、半ば発狂状態に陥ってしまったのです。

 

そんな折、実際にそうだったのか責任転嫁か、全琮は「これは殿の指示を得た胡綜の提案だ」と朱桓に言い返したとか。朱桓が怖くなって逃げたのか、始めは胡綜の名を伏せてたものの感情的になって思わずポロリと出してしまったのかは、史書に書かれていません。

 

 

いよいよブチギレた朱桓は、胡綜をぶっ殺すという発想に至ります。そして胡綜に人をやって、「俺が殺る」と告げて側近に隠れるように命じますが……朱桓が外に出た時、胡綜の姿はどこにもありませんでした。

 

自分の副官が、胡綜に告げ口をした。これでいよいよ怒りの火が爆発した朱桓は、自身の副官をその場で一刀両断。さらに朱桓を諫めに出た副官も叩き斬るという蛮行を働き、気が触れたとしてそのまま都に帰宅、数ヶ月間養生を理由に引きこもったのでした。

 

 

ちなみに孫権は朱桓の才覚を惜しみ、この件を不問。医者をやって精神を落ち着かせるサポートを行い、数か月後に朱桓が現場復帰する際にも激励の言葉を送りました。

 

 

『呉録』では、孫権に杯をささげた朱桓は、孫権に髭を撫でさせてほしいと懇願。孫権は身を乗り出して朱桓に髭を撫でさせてやると、朱桓は「今日、虎の髭を撫でられました」と述べて孫権を大笑いさせています。

 

 

とはいえ、この事件は後世の歴史家も眉をひそめるところ。

 

三国志の注釈に引かれている資料を手掛けた孫盛は、彼を「自由を行う主君でもこれはダメだろうに、部将や宰相ならなおのこと。心のままに人を殺すのと気持を抑えて刑罰を緩めるのでは、どちらが失うところが大きいのか」とまあ、思いっきり否定しています。

 

 

 

 

朱桓の下女は飛頭蛮?

 

 

 

『捜神記』では、朱桓と妖怪の謎の邂逅が描かれています。

 

ある時朱桓は、下女の一人の寝室に侵入。いわゆる夜這いを敢行しました。しかし、見れば寝ているその女、頭から上が無いではありませんか。

 

「おおお俺は殺してないぞ!?」

 

あらぬ疑いをかけられてなるものかと、朱桓は結局夜這いを中止し部屋へと全力で撤退。翌日には首無しで死んでいたはずの下女が部屋へとお湯を運んできたため、、「あれは夢なんだ!」と無理矢理納得することにしました。

 

 

しかし後日、今度は家でボヤ騒ぎが発生。みんな集まって慌てふためく中、例の下女は一人だけ遅れてその場にたどり着いたのです。

 

……が、その下女、なんと首なしの自分の胴体をかつぎ、耳を羽のようにパタパタとはばたかせながら迫ってくるではありませんか。そしてゆっくりとその場に降り立つと、頭は胴体にパイルダーオン。何事もなかったかのように下女は目を覚ましたのです。

 

 

その下女、いわゆる飛頭蛮という妖怪で、人里に密かに紛れ込んでいたのです。

 

朱桓はこの事を誰にも口に出しませんでしたが、さすがにちょっと怖くなったのでその下女は解雇。以後、飛頭蛮の姿を見る事はありませんでした。

続きを読む≫ 2018/08/26 20:06:26

 

 

生没年:?~赤烏2年(239)

 

所属:呉

 

生まれ:荊州武陵郡漢寿県

 

 

 

 

潘濬(ハンシュン)、字は承明(ショウメイ)。完全に地元の名士といった人物で、最後の最後まで、何度主君を変えることになろうとも地元を治める主君に仕え続けた人物です。

 

そのため、2度主を変え、そのうちの1度はよりにもよって大正義の劉備(リュウビ)軍からの脱退。しかも関羽(カンウ)と不仲でその死に際しても荊州に留まっていたこともあり……それが原因で小悪党のような扱いを受けることも多く、とても人気のある人物ではありません。

 

 

が、よく見るとかなり立派な硬骨漢。義に厚く古風、そして過激といった印象を多く受けます。今回は、そんな潘濬の伝を見ていきましょう。

 

 

 

 

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荊州に根付く地元名士

 

 

 

潘濬の生まれは武陵(ブリョウ)で、荊州でも南に位置する場所でした。家柄は決して悪くなかったようで、20歳前後の時に宋忠(ソウチュウ)という人のやっていた学校で教えを受けて学問を習熟。その縁からか、30歳にも満たない年齢で荊州を治めていた劉表(リュウヒョウ)から招かれ、江夏郡の役人に就職しました。

 

この時、賄賂を横行させた汚職が横行してひとつの県を治める県長もこれに乗っかかっていましたが、潘濬は厳格に法規を当てはめて県長を処刑。その厳正さで江夏郡内の風紀治安を引き締めるのに大きく貢献し、その後ひとつの県を任された際も見事に任地を治めてみせたのです。

 

 

その後、劉表が没するとその子の劉琮(リュウソウ)に仕えましたが……後に劉備(リュウビ)が荊州を席捲するようになると、今度は劉備軍に転職。後に劉備が益州を占拠しても潘濬は荊州にとどまり、州内の内政を一任されるなど大きく期待されます。

 

 

が、建安24年(219)には荊州全軍の指揮を任されていた関羽(カンウ)が敗死。荊州は呉の孫権(ソンケン)領有となり、必然的に地元密着型の名士である潘濬も、孫権の配下に収まることになったのです。

 

『江表伝』では、ドライに変節をやってのける器用さも不義理も持ち合わせていない潘濬の、劉備に対する裏切りの一部始終が詳しく書かれています。

 

劉備から鞍替えして孫権に仕えることになった潘濬でしたが、当初は荊州失陥の責任を感じて拒否。他の官吏がこぞって孫権に帰順する中、潘濬だけは病気と称して引きこもってしまったのです。

 

 

結局どうやっても無駄なことに業を煮やした孫権は、使者をよこして担架に縛り付けて無理矢理運んでくるように指示。孫権との強引すぎる引見を果たした潘濬は、そんなのお構いなしとばかりに泣き叫び、突っ伏したまま起き上がろうとはしませんでした。

 

そんな中、孫権はゆったりと潘濬に近寄って、慰めるために言葉をかけたのです。

 

 

「あなたと同郷の古人たちの中には、降将の身から重鎮となって名を上げた者もいる。あなたはあくまでこういった古人の在り方から逆行した行動をとっておられるが、あなたから見た私には、優れた降伏者を重用する度量がないようにみえるのかな?」

 

要するに、「降伏した昔の名将たちのように、自分の元で力を存分に発揮してほしい」という言い分ですね。これに心を打たれた潘濬は、荊州失陥の挫折から救われて呉の臣下に加わったのです。

 

 

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厳正なる荊州軍事官

 

 

 

統治の厳正さを買われた潘濬に与えられた仕事は、荊州方面の軍事官。

 

元々は蜀の土地であった上に統治も不安定な荊州南部は反乱の頻発地帯で、異民族による蜂起や地元名士の劉備軍への寝返り未遂といった問題が降りかかってきたのです。

 

 

『江表伝』によると、樊伷(ハンチュウ)なる人物が異民族と結託。武陵郡を丸ごと手土産に劉備へと寝返る手筈を整えていたようです。

 

この反乱未遂は「1万の兵が必要」という声が上がるほどの大規模な物だったようですが、孫権から意見を聞かれた潘濬は、「5千もあれば結構」と事態を軽く見たような発言をしています。

 

「奴は口先だけ達者で計画性がほとんどなく、程度は知れております」

 

孫権は言われた通り潘濬に5千の兵を与えて出撃させましたが、あっさりと企みを打ち破り樊伷を処断。異民族の慰撫もきっちりとこなして反乱を見事に抑え切ったのです。

 

 

また、呉帝国が立ち上がり自らも太常(タイジョウ:儀式儀礼の総責任者。国の重役)に任命され、それからしばらくとしないうちのこと。呉の領内では再び異民族の動きが活発になり、部族間で連携して大規模反乱を実行。潘濬はその討伐隊の大将として大軍の指揮を任されるに至りました。

 

この反乱討伐は数年にかけて行われ、捕虜や討ち取った敵兵は数万に上るほどの大激戦となりましたが……潘濬はその中でも軍規を徹底。信賞必罰を心掛けてしっかりとした統率を保ち、それが勝利の要因になったとされています。

 

 

呉に行くまではほとんど政治家として動いていた潘濬でしたが……その厳正さは呉においては軍の引き締めに1役買ったのです。

 

 

 

『呉書』では死亡した将の率いていた兵を引き継いで指揮する等、やはり呉においては軍事てきな活躍が多くなっているのがわかります。

 

また、高位に上り詰めた歩隲(ホシツ)が「独自の軍を持ちたい」と考えていた際には、独自に軍閥が作られることを懸念してこれに反対。孫権は結局、歩隲の軍閥形成を許可しなかったのです。

 

また、名声の高さを笠に、好き放題に振舞う部下を野放しにした徐宗(ジョソウ)という人物をためらいなく処断。当時人々の最大の武器であった名声を持つ者にも、潘濬は遠慮しなかったのです。

 

 

息子が降将である隠蕃(インハン)という人物の巧みな弁舌に魅了されて食料提供などをした際にも、同じ降伏者として自身との違いを感じ取ったのか、息子にこんな手紙を送っています。

 

「投降者なんぞとねんごろに付き合って食糧援助などをするとは何事か。一刻も早く罰を受け、悔い改めて贈った食料の返還を求めよ」

 

隠蕃の弁舌に魅了された人は多く、多くの人はむしろ潘濬の言い分をどうかと思ったりもしたのですが……なんと隠蕃は後に魏と通じて謀反を企て、処刑されてしまいました。皆から慕われた隠蕃は、実は魏が差し向けたスパイだったのです。

 

 

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不正の輩は絶対殺す

 

 

 

潘濬は特に何もないときには荊州で軍を預かっていたのですが……今度は中央にて大事件が発生します。

 

呂壱(リョイツ)と呼ばれる人物が、孫権に気に入られて出世。気に入らない人間を誹謗中傷して罷免に追い込んで回る等好き勝手に暴れはじめたのです。

 

 

潘濬もこの動きを遠くの荊州で聞いていましたが……ついには黙っていられなくなり、官吏をかき集めて中央へと直行し。直訴するも受け入れられず、最後の最後には自らの手で叩き斬ろうと計画したのです。

 

結局この計画は呂壱が怯えて会合の場に姿を見せなかったため失敗しますが……その少し後には、ついに潘濬はじめ多くの臣の訴えが実を結びます。

 

孫権は度重なる批判によって呂壱への寵愛を失い、彼を酷吏であるとして処刑。ひとまず、どうにか呉の国を傾ける事態を未然に防いだのでした。

 

 

呂壱処刑の翌年に当たる赤烏2年(239)、潘濬は死去。呂壱事件に始まる呉崩壊の、序章での脱落でした。

 

 

 

 

人物評

 

 

 

潘濬は三国志においては、呉の良き牧民者としてその先頭に伝を立てられています。陳寿から与えられた評は、以下の通り。

 

 

私利を求めず国家に尽くし、大胆に事を行った。

 

 

陳寿からすれば祖国を裏切った人間であるにもかかわらず、呉の辺境における統治者、政治家として非常に高い賛辞を贈られています。

 

史書からもその厳正で潔白、硬骨な生きざまは見て取れ、政治家としても将帥としてもすぐれた人物だったのでしょう。

 

 

また、魏に仕えて希代の文人となった王粲(オウサン)、そして潘濬自身は終始警戒し続けていた相手の歩隲からも高い評価が挙げられており、特に歩隲には「荊州にて事績を上げている優れた人物」の一人としてその名を挙げられています。

 

 

一方、蜀からすれば裏切り者も同然。蜀漢末期に作られた人物伝である『季漢輔臣賛』では裏切り者としてその名を書かれ、「呉蜀の笑い者となった」とされています。

 

後世の評価も、おおよそ蜀側から見たそのまんま。関羽と仲が悪かったことも潘濬が不義理な人間である証として大々的に取り上げられるなど、次席と扱いがかみ合っているとは言い難い有様です。

 

 

潘濬は義侠溢れる優れた人物なのか、義理も能力も欠けた愚か者なのか。今後の評価がどう転ぶのか……すこし楽しみではあります。

続きを読む≫ 2018/08/18 11:51:18

 

 

生没年:建安2年(197)~???

 

所属:呉

 

生まれ:???

 

 

 

 

孫桓(ソンカン)、字は叔武(シュクブ)。魏、呉、蜀……どの国を見ても、主君の血族者の中で傑出した才を持つ人物は存在します。

 

孫桓も、呉の皇室の中で優れた才覚を見せつけた人物のひとりであり、優れた軍事能力によって孫権軍の危機を跳ねのけた若き勇将のひとりです。

 

 

……が、そのもっとも惜しむべきは驚異的な寿命の短さ。亡くなったのは下手をすると20代半ば。孫呉の優れた人物の大半は「短命の呪いでも受けているのか」と疑問になるほど大事な局面で病死してしまいますが、孫桓もこの先の活躍が期待される中で忽然と世を去っています。

 

 

今回は、そんなあまりにも惜しい宗室のディフェンサー、孫桓の伝を見ることにしましょう。

 

 

 

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夷陵の戦い・孫桓窮地に立つ

 

 

 

孫桓のデビューにして唯一の華々しい活躍は、黄武元年(222)に行われた夷陵(イリョウ)の戦い。

 

この戦いは、呉の同盟破棄と荊州(ケイシュウ)失陥、そして主力武将であった関羽(カンウ)の戦死に怒った蜀帝・劉備(リュウビ)が、全戦力を上げて呉への報復に向かったのが起因となっています。

 

 

劉備率いる蜀軍はこの時、周辺の山々を埋め尽くすほどの大軍を動員したと言われていますが……その軍勢を食い止めるべく出撃したのは、陸遜(リクソン)率いる5万の精兵たち。その士気はともかく、純粋な戦力では劣るものではなかったと思われます。

 

 

こうして両軍は激突するわけですが……陸遜が敷いたのは、最終防衛ラインを固守するだけの徹底した防御策。戦力差はほとんどないにしても、相手は劉備を筆頭に非常に戦意が旺盛で、まともに戦うと大損失を免れない状況だったと言えるでしょう。そのため、陸遜は相手の疲れを待って逆襲を仕掛ける事を考えたわけですね。

 

 

しかし、陸遜率いる呉軍は防衛側。最終防衛ラインまで軍を引き払うにしても、前線の防衛陣地を構えている味方は孤立してしまうという危険もありました。

 

 

この戦いに安東中郎将(アントウチュウロウショウ)として参加して前線部隊を率いていた孫桓は、まさにこの懸念通りの危地に陥り、殺到する劉備軍に包囲されて激しい攻勢にさらされてしまったのです。

 

この時、孫桓は若干25歳。『呉書』によると先の関羽討伐には参加していたようですが、とても窮地に陥った際の防御指揮を執ったことがあるような年齢でもなく……この状況を心配する者も多かったようです。

 

 

 

 

驚異のディフェンス能力

 

 

 

こうして完全に危地に陥った孫桓でしたが……なんと総大将の陸遜はこれを救援する動きを一切見せず、まるで孫桓の窮状を無視するかのように悠然と防備を固めていました。

 

見かねた部将らが「救援を送るべきです」と進言しても、陸遜は一切耳を貸さず。孫桓からの救援要請も完全に無視するという有り様でした。曰く、

 

「孫桓殿は兵を良くまとめ、強固な陣に拠って戦っておられる。しかも食糧の備蓄も充分ならば、救援する必要も心配もまったくない。反撃の時が来れば、我らに呼応して自力で包囲を抜け出すだろう」

 

 

悠然と構える陸遜の予見通り、孫桓は危機的状況においても力戦奮闘。陸遜が火攻めと強襲により反撃を開始すると同時に包囲網を打ち破り、逆に逃げる劉備を追跡。要所要害をがっちりと固めて安全な逃げ道を封鎖してしまったのです。

 

これを見た劉備は、孫桓の力量に思わず感嘆の声を上げたと言われています。

 

「わしが呉に身を寄せていた時は小童だったというのに、ここまでわしを追い詰めるほどに成長したのか……」

 

 

かくして劉備は危険な山中を超えての逃走を余儀なくされ、蜀軍は壊滅的被害を受けて敗走していったのでした。

 

後に孫桓は、救援をよこさなかった陸遜に対してこんな言葉を残しています。

 

 

「援軍をいただけないと知ったときは正直怨んだりもしたが、後になってその意図がよくわかった」

 

 

絶望的な状況下で完全無視されたのだから怨みたくなるのは当然。ですが、孫桓はそれが計略だと知った瞬間にすべてを水に流したのですね。

 

陸遜の予測能力もさることながら、死にかけたにもかかわらず水に流した孫桓の人格も見事といったところ。ともあれ、孫桓はこの功績で建武将軍(ケンブショウグン)に昇進し、丹陽侯(タンヨウコウ)として孫権のお膝元に領土を与えられました。

 

後に孫桓は揚州での対魏戦線に移動し、横江(オウコウ)に砦を建設して魏の侵攻に備えようとしていましたが……その最中に突如として死去。あまりに早すぎる最期でした。

 

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人物像

 

 

孫桓に関する記述はかなり少なく、陳寿の評にもその人物面は一切描かれていません。それっぽいのは、陸遜伝にて「陸遜に救援拒否されたのを根に持たなかった」という部分のみ。

 

しかし、『呉書』にはわずかとはいえ、孫桓の人となりの一部を知ることができる(かもしれない)文が残っています。

 

 

孫桓は容姿端麗で頭脳明晰。博学で多くを知っており、人との議論や応対に巧みだった。

 

この先の話も呉書にある記述からの抜粋ですが……孫権は彼を孔子の一番弟子である顔回(ガンカイ)に例えて褒め、後に関羽征伐に赴いて関羽軍の残党を説得。敵兵5千を降伏させ、大量の物資を確保しています。

 

 

この辺りを見るに、孫桓は泥臭い記述こそあれどもその本質は知力と性格で人を導く、風雅な人格者……だったのかもしれませんね。

 

何にせよ、年齢的にも活躍的にもこれからという時に亡くなったのが非常に惜しい人物です。

続きを読む≫ 2018/08/11 21:55:11

 

 

生没年:?~建安24年(219)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡富春県

 

 

 

 

 

 

孫皎(ソンコウ)、字は叔朗(シュクロウ)。おおよそ名将らしい孫静(ソンセイ)の息子の、剛の方。

 

兄の孫瑜(ソンユ)は学問や名士然とした人望によって他の将軍らと一線を画する人物でしたが、孫皎は記述を見る限り、他の将らと一緒になって戦う前線タイプの一門衆でした。

 

 

実際、多くの一流武将の死後、その引継ぎ役として名前が挙がっています。そして恐ろしいことに、あの人物と大喧嘩したという話も……?

 

 

 

 

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名将の引継ぎなら孫皎にお任せ!

 

 

 

孫皎はまだ若いうちから一門衆の1人として駆り出され、護軍校尉(ゴグンコウイ)に任命。2千の兵を指揮監督する将校として、武官デビューを果たしました。

 

曹操(ソウソウ)により本拠地付近の濡須(ジュシュ)が攻められた際にはたびたび奮戦し、幾度か繰り広げられた激戦の中で「精強な軍勢」と謳われるほどの武勲を上げたのです。

 

 

その働きが認められることにより、孫権によって都護(トゴ:辺境警備責任者)・征虜将軍(セイリョショウグン:驚くことに兄の孫瑜よりも上位の将軍職)に昇進。一門衆を支える武の化身として、非常に大きな期待をされていました。

 

 

 

さらには大物の死後には、孫皎がその代わりのポジションに就いた旨も、史書で語られています。

 

その大物とは、まず、兄の孫瑜。そして、孫堅(ソンケン)の代から付き従う古参である程普(テイフ)、黄蓋(コウガイ)。いずれも孫呉を代表する武将として知られており、当時その名を知らぬ者はいないと言っても過言ではない代表人物たちです。

 

 

まず、程普は曹操劉備(リュウビ)両方に対する前線の備えである夏口(カコウ)にて大軍勢を駐屯させており、孫皎はその死後に軍勢指揮権を獲得。

 

後に孫瑜や黄蓋が亡くなると、その配下の軍勢も孫皎が引き取ったというではありませんか。

 

その数、実に数万。孫皎はいなくなった大物の軍勢指揮を代行するうちに、呉でも有数の軍事力保持者となっていたのです。

 

 

さらに孫権からは辺境の境界線があいまいな土地を下賜され、孫皎はそれぞれの地域に長官を独自に配備。必然的に最前線で領土争いに積極的に参加していくという立ち位置になっていったのでした。

 

 

 

 

早すぎる死

 

 

 

続けて孫皎は、孫権劉備の仲が決裂した時にもその名前を出します。

 

呂蒙(リョモウ)主導で行われた、関羽(カンウ)討伐の軍勢。そこにも、孫権は孫皎を起用。なんと呂蒙との二頭体制で軍勢を指揮させようとしたのです。

 

 

……が、この時はさすがに呂蒙から

 

「二頭体制は指揮権が崩れて統率が取れなくなる場合があります。孫皎様か私か、どちらか一方を総大将としなければ大事な目標を損なってしまいます」

 

と苦言を呈され、結局孫皎は後続部隊の指揮に回されました。

 

 

が、この戦いでも孫皎は少なからぬ活躍を示したようで、呂蒙軍は関羽に大勝。関羽を捕らえて処刑することに成功し、荊州を見事に奪取してみせたのです。

 

 

こうして一門のホープとしてどんどん邁進していくことが期待された孫皎でしたが……なんと孫皎はその年のうちに突如として死去。呂蒙らも時を同じくして亡くなり、呉の軍事力、そして孫権自身の国内における影響力に、大きな穴をあけることになってしまったのでした。

 

 

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将の中の将?

 

 

 

孫皎に関する評は、例の如く個人に向けられたものではなく、孫皎個人に対する評は特にありません。

 

しかし、その人物面においては意外にも仔細に記されており、下手に伝を与えられている人物よりも詳しく人物像に触れられています。

 

 

というのも、孫皎は恵み深く気さくな人物だったようで、諸葛瑾(ショカツキン)のような大物と親友関係になる一方で、お金や財宝を惜しまず人に与えられる人物だったのです。

 

部下にも親身になって待遇し、それぞれの得意分野を活かした役割分担を心掛けていたと言われています。何この理想の上司

 

 

 

また、こんなエピソードも本伝には記されています。

 

 

ある時、偵察に出した者が、わざわざ孫皎のために美女を見繕い、捕縛して連れてきたことがあった。

 

しかし、孫皎はそれを見るや否や、その美女に新しい服を与えて送り返してしまったのである。

 

 

そして、部下たちに以下のように命令した。

 

「我らの敵は曹操の一派であり、無辜の民は関係ない。この後、何の罪もない弱者に手を出さぬように!」

 

 

孫皎の領地は曹操軍との境界線が曖昧な辺境の土地であり、言ってしまえば人気勝負みたいなところがあります。その本音はともかく、これは人気争いの一環であるという側面も少なからずあるでしょう。

 

そして、その人気取りを実行した孫皎の目論見は見事大当たり。周囲の名士層の中から孫皎を指示する声が続出し、大きな名声と人望を得ることができたのでした。

 

 

 

とまあ、こんな感じで能力も器も君主の代理として申し分ない孫皎でしたが、一方でこんな面白な話も……

 

 

 

 

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酒の席での大喧嘩

 

 

 

孫一門の気風として、

 

1.エキセントリックで喧嘩早い

 

2.酒の席だと人が変わる

 

という何ともはた迷惑で面白な欠点があり、例えば孫堅孫策は1、孫権に至っては両方を持ち合わせているという有り様でした。

 

そして、この孫皎もやはり孫家の一門衆。史書にあるほぼ唯一の大きな欠点として、酒の席でのやらかしエピソードを持っています。

 

 

しかも、その時に相手になったのが、インテリヤクザの代表格である甘寧(カンネイ)。孫皎は、あろうことかこの甘寧と些細な事からとんでもない大喧嘩に発展してしまいました。

 

しかも強情な甘寧は「宗室だからって調子こいてんじゃねーぞゴルァ!!」と超強気の姿勢。さすがの孫権も頭を痛めて介入してくるほどの大事件となったのです。

 

 

この時孫権が責めたのは、めんどくさい甘寧ではなく、宗族である孫皎。孫権は彼に手紙を送ると、以下のように諭したのでした。

 

 

 

孔子の言葉には「30にして立つ」なんてものがあり、お前ももうそれと同じ年だ。しかも、曹操と事を構えてすでに20年。年端のいかぬ未熟者だから俺もいろいろ援助をしたが、お前ももう立派な歳だろう。そろそろ勝手気ままを卒業しなさい。

 

 

聞けば酒の席で甘寧と揉めて散々罵り、甘寧はへそを曲げて「呂蒙さんの指揮下に入りたいっす」なんて言い出してるらしいじゃないか。

 

あいつは好き勝手やって喧嘩早いし人の気持ちを損ねたりもするアレな奴だが、あれはあれで立派な人物だ。

 

 

 

勘違いするなよ。俺が甘寧に肩入れするのは私情なんかじゃない。

 

お前が慎み深く損得善悪の概念を超えれば人の上に立ち、思いやりの心を持てば人の心を掴める。この2つを理解して初めて、大衆を統率し国難や敵を完全に防ぐことができるのだ。

 

お前もゆくゆくは宗族の中心人物としてこの上ない大任を受ける日が来る。その時に、今回のような怒りに身を任せたままではいかん。

 

人は必ず間違える。大事なのはその後間違いを認め、改められるかどうかだ。今回のことは重々反省しなさい。

 

 

以上、わざわざお前の親友である諸葛瑾を駆り出して、わざわざこの手紙を口頭で読ませてまで伝えたいことでした。仲謀さんこれ書いてて悲しいんだからね!

 

 

え、諸葛瑾、口頭、え?

 

思いっきり私流に意訳させていただきましたが……何にせよ、甘寧擁護はむしろ孫皎の今後に期待してのものであるという事が明確にわかる内容ですね。

 

 

この後孫皎は思うところがあったのか、甘寧の元に自ら赴き口が過ぎたことを謝罪。その後は似通った部分持ったのか、二人の仲は急接近したとあります。

 

 

 

何にせよ、孫一門は平民といっても過言ではない出自にして、気高い血統の豪族たちを束ねる長でもあるというアンバランスな立場にあります。それだけに、数少ない一門衆への期待は並々ならないものだったのでしょう。

 

 

結果として孫皎は兄の孫瑜ともども早死にすることでこの期待に応えることができませんでしたが……もしも長生きしていれば、呉のパワーバランスや政治的な勢力図には少なからず変化が生じていたでしょうね。

続きを読む≫ 2018/07/08 20:21:08

 

 

生没年:熹平6年(177)~建安20年(215)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡富春県

 

 

 

 

孫瑜(ソンユ)、字を仲異(チュウイ)。孫静(ソンセイ)が遺した早死にの名将第1号ですね。

 

弟に孫皎(ソンコウ)という名将2号がいるのですが、あちらが武勇に優れた剛の将だとすれば、こちらは柔の知将といったところ。

 

 

孫静の息子がそれぞれ別の得意分野で活躍したのを見ると、孫一門の血がいよいよ何にでも染まる虹色の血統だったのかなと思えてしまいますね。

 

 

 

 

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父親とバトンタッチ?

 

 

 

孫瑜の記述が始まるのは、孫権(ソンケン)が党首になってしばらく後の事。一門衆の1人として、数少ない校尉(コウイ:将軍には及ばないものの軍の指揮を行う高級軍人)の席と配下の兵を与えられ、孫権軍に加わったのです。

 

 

実は孫権が当主に上ってから血族の反乱も頻発しており、孫瑜の兄も反乱未遂により父と共に故郷に帰って大人しくすることにしたという背景があり……おそらく孫瑜が孫権軍に加わったのは、父と入れ替わりでのことでしょう。

 

つまり、孫瑜が孫権軍に加わってからは、孫瑜自身が家の責任者という事ですね。

 

 

 

そんな一門衆の重責を若くして背負った孫瑜でしたが、決して威張り散らすようなことは無かったことが史書によって明らかになっています。

 

当時孫権軍を強く支えているのは、徐州や長江を隔てた揚州西部の名士たち。孫瑜はそのパワーバランスをしっかりと考慮し、孫権軍の主力名士たちを、謙虚に丁重にもてなしたのです。

 

 

 

そして建安9年(204)には、丹陽(タンヨウ)郡の太守として揚州の中の1郡を治めることになりました。

 

丹陽といえば、当時の孫権にとってはお膝元ともいえる重要拠点。その太守は孫一門の信頼できる人物に任せるというのがお決まりになっていましたが、実は孫瑜の就任する少し前に、孫権の実の弟が暗殺されるという事件が発生していたのです。

 

当然、卑しい身分から成り上がった孫一門では、孫権にとって信頼できる血縁者はほとんどおらず……そのため、お鉢が現状でもっとも信頼のおける孫瑜に回ってきた、というわけですね。

 

 

しかし、孫瑜も名前だけの残念武将ではありません。

 

実際には丹陽の地を見事に治め、彼の名声を慕って続々と近隣から部活に志願する者が集結。孫瑜が太守を務めている間に、実に1万以上もの人が駆け付けたと言われています。

 

 

 

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一門衆の柱・知将孫瑜

 

 

 

 

丹陽太守就任から2年後の建安11年(206)には将軍の位に上がり、周瑜(シュウユ)と共に江夏(コウカ)に遠征。麻(マ)、保(ホ)の2つの砦を打ち破り、捕虜を獲得する戦果を上げます。

 

 

その後、孫瑜の事績は述べられていませんが……おそらく周瑜と共に前線で戦っていたのでしょう。周瑜曹操を赤壁で破った後、西方に進軍を開始しますが、周瑜はまもなく病気により他界。計画は頓挫してしまいます。

 

この時孫瑜は、周瑜から「益州は孫瑜殿に任せたい」という旨の発言をしており、記述はないながらも随所で光る活躍をしていたのでしょう。

 

 

 

周瑜の死により孫権の領土拡大が停滞した後、今度は曹操が揚州の本拠地に向けて大規模進軍を開始。孫権軍は防衛基地である濡須(ジュシュ)の地で幾度となく戦いを繰り広げることになります。

 

この時、孫権は大将であるにもかかわらず前線に立ち、曹操軍に攻撃を仕掛けて挑発攻撃を実行。孫瑜は孫権に対して自重を促しますが、孫権は聞かずに出陣。結局曹操軍が攻めてくることも戦果を挙げることも無く戻ってくることになったと言われています。

 

 

後に、孫瑜は一門衆筆頭格として奮威将軍(フンイショウグン)に昇格。丹陽太守の任務をそのままに、前線基地ひとつである牛渚(ギュウショ)へと駐屯。すっかり、孫権には重く任用されている様子が伺えます。

 

 

それからの孫瑜は、人材発掘に尽力。世に出した人材は列伝を立てられる有名人物ではありませんでしたが、反政府民族の多い土地を見事に管理。支配下に収めることに成功したと語られています。

 

 

このように地味ながら優秀さを大いに見せつけ、その後の更なる活躍が期待された孫瑜でしたが……建安20年(215)には39歳の若さで病没。

 

その息子らの中には、侯爵や将軍職まで上り詰めた者もいたと言われています。

 

 

 

 

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人物評

 

 

 

三国志の生みの親である陳寿からは個別の評が与えられているとは言い難い孫瑜ですが……彼の記述を見ていてわかることがあります。

 

それが、彼は学識と名声を持ち合わせた、風雅な知将であったという事。

 

 

彼の伝には、その生活態度が以下のように記されています。

 

 

学問に傾倒した学者を丁重に招聘し、配下の数百人に命じて教養を身につけさせた。

 

他の部将が軍務一点張りだったのに対し、孫瑜は古典を愛して遠征中にも書物を手放さなかった。

 

 

また、学者気質が転じて自分が招いた講師の授業に自分で参加したりと、学問に傾倒している姿がよく記述されています。

 

特に孫呉の武官は叩き上げが多く、言ってしまえば教養をよく知らない者が多いのが実情。そんな中、孫瑜の学問好きの姿勢はさぞや異彩を放っていた事でしょう。

 

 

三国志の世界は決して無秩序な戦乱の世の中というだけでなく、儒教の「学」と「孝」……つまり、勉強ができて親孝行をよくする人物が非常に好まれたという背景もあります。

 

もしかしたら、孫瑜の飛び抜けた名声は学問を好む姿勢に心を打たれた人たちが、大挙して押し寄せた……というのも大きい理由かもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/07/05 23:36:05

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡富春県

 

 

 

 

孫静(ソンセイ)、字を幼台(ヨウダイ)。孫堅(ソンケン)の末の弟で、孫一門の黎明期を影から見守ってきた裏の番人といったところですね。

 

兄が死んでからは表舞台に出るのを避け、ご隠居のような形で、孫家の隆盛を故郷から静かに見守りました。

 

 

そんな孫静は、何かと前に出たがる孫一門には珍しいタイプの、名前通り静かで穏やかな人物……だったのかもしれませんね。

 

 

 

 

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家を支える影の番人

 

 

 

孫静は孫堅の弟として生まれ、本来ならば彼を支える立場になるはずでしたが……長兄の孫羌(ソンキョウ)は早世。そして次兄・孫堅は家を出て立身出世の道を歩み、一族の長が不在という状態にありました。

 

そこでお鉢が回ってきたのが、末子である孫静。彼は兄に代わり、一族をまとめて家業を引き継ぐことになったのです。

 

 

孫堅の一族は他の英雄に比べると卑しいとはいえ、5,6百人の大所帯。若かりし日の孫堅が県の軍事職に就いたのを考えると、無官とはいえそこそこの家系だったのでしょう。

 

 

ともあれ、家中は孫静の的確な指示もあり、よくまとまったようです。みなが孫静を中心として一丸になり、兄・孫堅が周辺群雄と事を構えた時も、しっかりと守りを固めてそのあおりを受けることが無かったのです。

 

 

孫堅董卓(トウタク)に反発する連合軍のエースとなり、その後は彼の故郷一帯を治める勢力とも険悪になっています。史書ではさらりと流されていますが、やはり一門に対する圧力は少なからずあったと見るべきでしょう。

 

 

そんな中で自身の血族をまとめ上げたのだから、もう少し評価されてもいい……かも?

 

 

 

 

影の助っ人

 

 

 

孫静が次に孫堅の血族と関わるようになったのは、孫堅の死後の事。

 

彼の息子の孫策(ソンサク)が逆境を乗り越えようやく日の目を見ようかという時、孫静に宛てて「せっかくだから軍に加わってほしい」と使者を差し向けたことで、彼は孫策の配下に加わることになったのです。

 

 

この時の孫策は、格上のはずの揚州(ヨウシュウ)刺史・劉繇(リュウヨウ)をまたたく間に打ち破って乗りに乗っている絶頂期。勢いに乗って揚州東部に位置する各郡を抑えるため、会稽(カイケイ)太守の王朗(オウロウ)を攻めようと考えていた段階でした。

 

 

孫静は一家眷族のみを引き連れて故郷を発つと、進軍中の孫策に合流。要害を駆使して戦う王朗に苦戦を余儀なくされる孫策の前に、必勝の策を携えて姿を現したのです。

 

 

「敵の備えに正面から挑んでも勝利は困難。ならば、備え無きを攻めるのが上策でしょう。敵の内部に足掛かりを作っていけば、必ず勝てます」

 

 

かくして孫静は、自ら願い出て先陣部隊を率い出陣。「水を瓶で煮沸消毒するように」という偽の命令通達を行い、夜になると火をくべて敵軍に自軍の居場所をあえて教えてしまいました。

 

その上で、自身は瓶を放置して敵軍の要衝へとこっそり進軍。焦って出てきた敵軍を徹底的に打ち破り、迎撃隊の大将である周昕(シュウキン)を討ち取ることに成功。一気に戦局を傾けてしまったのです。

 

 

この働きに喜んだ孫策はすぐに官位と重要な任務を孫静に用意しましたが……実は孫静はあまり表舞台に立ちたいと考えている人物ではありませんでした。結局、孫策のこの誘いを断り、あくまで故郷の地を守る道を選んだのです。

 

 

その後の孫静は孫策死後に孫権(ソンケン)が跡を継ぐとようやく官位を受けましたが、故郷の地を離れることなく、やがて息子・孫暠(ソンコウ)の反乱未遂により辞任。そのまま実家の畳の上で、静かに息を引き取ったのでした。

 

 

 

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最期まで故郷に生きた人物

 

 

 

 

王朗の軍勢を討ち破る知略がある以上、明らかに将としての生き方の方が歴史に名を刻めたのでしょうが……なるほどこんな生き方もあるのかと、そう実感させてくれる人物ですね。

 

孫一門隆盛の事始めは、どうしても次兄・孫堅が突出しており、他はどうにも地味な印象。しかし、孫静の数少ない活躍を見てみると、やはり目立たないだけでかなりの能力を秘めた人物だったのかなと思われます。

 

 

陳寿からは他の皇族とひとまとめにして評価されているため、その評は何とも言い切れないところはありますが……あえて載せるなら、このように書かれています。

 

 

呉の皇室の子弟たちは、ある者は国家の基礎を定めるのに力があり、ある者は国境の地の守りにあたって、その任務を立派に果たしたのであるから、その栄誉を受けずにいてよいものか。

 

 

何とも投げ遣り感漂う簡素な評価ではありますが……やはり優秀な血族のトップにこの人の名前がある限り、始祖の弟というのもあってかなり重要視されています。

 

 

さて、そんな優秀さもそうですが……個人的にもっとも目を引くのは、兄や甥たちとは似つきもしない、穏やかな生活を選ぶ大人しさ。

 

 

孫堅孫策孫権と孫呉の礎は代替わりで築かれてきましたが、皆それぞれに血の気の多い豪傑で、猪突猛進ともいえる問題行動が目立つ家柄。孫堅孫策は単独で隙だらけな行動をしたばかりに命を落としましたし、孫権に至ってはあろうことか狩りの最中で虎に襲われたこともあります。

 

 

そんな危なっかしい色々と真っ赤な家系に生まれながら、孫静はあくまで稼業優先。高い官位を狙えるにもかかわらず故郷に居座り、一族郎党と共にその生涯のほとんどを過ごしています。

 

 

正直、主君らの破天荒ぶりからは信じられないほどの大人しさ……いったい何があったのでしょう。

 

ちなみに彼の父は瓜商人で、親に尽くす孝行息子だったとか。もしかしたら、孫静以外の血族ほとんどは母親に似た……のかもしれませんね。

 

 

なお、彼の息子たちの中には、孫権の元で名将とも呼べる活躍をした人物もいます。彼らについては、また別のページにて書き記すことにしましょう。

 

 

続きを読む≫ 2018/07/04 22:19:04

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:豫州汝南郡南頓県

 

 

 

 

程秉(テイヘイ)、字は徳枢(トクスウ)。呉には大勢の名士が北部から流れ着いており、その影響か専門の学者が官位を得て、独自の伝をあてがわれていることも少なくありません。

 

程秉も、そんな独自の伝を持っている学者のひとりですね。

 

 

しかし、この人はどうして伝を当てられたのでしょうか? 見る限りは働きも記述も他の伝に比べれば何とも……皇太子の結婚式で重要な役割を担った、はたまた当代有数の学者という顔が買われたのか……

 

 

 

 

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人に教わり学士となる

 

 

 

 

とはいえ、ぼやいていても始まりません。というわけで彼の伝を追っていくと、やはり高名な学者としての顔が見えてきますね。

 

 

まず、彼は鄭玄(テイゲン)という当代でも超一流の儒学者に師事して学問を修めました。

 

鄭玄は貧困に負けずに学を修めて漢王朝の重役にまで招待された、まさに儒教の始祖・孔子を彷彿とさせる人物。また官職を断ってまで学者としての生を全うしており、こうした生き方が非常に根強い人気を得た人物だったのです。

 

 

そんな鄭玄の教えを受けたという事は、程秉も家柄や人格で光る部分を持っていたのでしょう。

 

 

ともあれ学問を超一流の塾で修めた程秉でしたが……時代は乱世。地元も戦禍に見舞われており、程秉はほどなくして、はるか南、南端の交州(コウシュウ)へと疎開していきました。

 

 

そこでも程秉は己を磨くことを徹底し、疎開先で出会った劉煕(リュウキ)なる人物と議論を重ねて切磋琢磨。結果、当時学士のバイブルとされた五経という書物すべてに深く通じることができたのでした。

 

 

 

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政界の大物学者

 

 

 

当時の学者といえば、人の上に立つべき偉い人たちというイメージが強い人たちでした。その結果、多くの群雄がその名声にあやかろうと、学者たちに声をかけて軍中に誘っていたのです。

 

交州を治める士燮(シショウ)なる人物は、程秉の博識さを高く評価して、自身の属官として招聘。程秉もついに、学者として政界に乗り出したのです。

 

 

しかし、すでにこの頃の程秉はかなり高名な学者の一人。辺境の士燮のみならず、もっと大きな群雄からも目をつけられていたのでした。

 

その群雄こそが、呉の主である孫権(ソンケン)。彼は程秉の話を聞くと手厚く歓迎することを約束して彼を勧誘。程秉もこの誘いに乗って孫権勢力に加入すると、なんと彼の太子である孫登(ソントウ)の太傅(タイフ:主君を導く顧問役)のポストが与えられたのです。

 

 

そして黄武4年(225)に孫登が嫁を娶ると、程秉は太常(タイジョウ:儀礼や祭祀の総責任者)に昇進。孫登の妃を迎えに行くという政治的に重要な役割を担ったのです。

 

孫権も程秉の出発前には自ら顔を出し、丁重な礼で彼を迎えだしたと言われています。

 

 

こうして花嫁を迎えに行き、無事に婚礼を済ませたある時。程秉は教育者らしく、何気ない場で孫登に対して自身の結婚観を述べてこう語りました。

 

 

 

「結婚とは人倫の基本ともいえる物であり、王者が仁政を敷く基でもあります。ならばこそ昔の王も結婚を大事にして手本を示し、『詩経』にも最初に夫婦仲睦まじい鳥の歌があるのです。

 

どうか太子さまはよきご夫婦でいらしてください。そうすれば人倫を定める基にもなり、下に立つ者も褒め歌を歌うこともできるのです」

 

 

孫登もこの言葉に感銘を受けて程秉を寵愛しましたが、程秉は在官中に死去。さらには孫登も若くして亡くなり、孫権の跡継ぎはそのまま呉国全土を巻き込んだ争いに発展してしまうのでした。

 

 

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人物評

 

 

程秉は学者として非常に名高い人物だったようで、やはり後世で褒め称えられているのは学者として……といった部分が大きいようです。

 

三国志を編纂した陳寿は、彼を以下のように記しています。

 

 

程秉は厳畯(ゲンシュン)や闞沢(カンタク)と共に、一代の学者であった。

 

 

 

ちなみに、伝になるほど有名な人は、他の人の伝でも密かに名前が出てくることも少なくはありません。が、この程秉は、名前が出てくるのが程秉だけ。要するに、高名な学者として孫登の指導役になった……くらいしか記述がないのです。

 

まあこの辺は厳畯や闞沢も似たり寄ったりではありますが、それぞれ軍のトップに推されたり国家を揺るがす一大事件に関わったりと、程秉よりは出番があります。

 

 

……とまあ、こんな感じで出番があまりないということは、つまり問題も起こさなかったという意味にもつながります。おそらく飛び抜けたところが良くも悪くもない、至って癖のない優等生だったのでしょう。

 

 

 

ちなみに三国志演義ではこの記述の無さを拾われ、諸葛亮(ショカツリョウ)に一方的に論破されたり劉備(リュウビ)に和睦の使者としてあいさつしたところを殺されかけたりと……まあ、その辺の雑魚文官のような扱いを受けています。

続きを読む≫ 2018/06/28 22:16:28

 

 

生没年:?~建衡3年(271)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州廬江郡安豊県

 

 

 

丁奉 呉 つぶて 勇将 スターリン 粛清 驕慢 奇襲

 

 

丁奉(テイホウ)、字を承淵(ショウエン)。コーエー発売の三國無双にもプレイヤーキャラとして参戦している人物ですが、どちらかというと同社の三國志11にて「顔グラがスターリンに見える」ことからネタにされ、そっちの方が有名ではないでしょうか。

 

彼は優れた武人として多くの功績を上げ、三国志の後期において「呉の最後の名将」といわれるほどの人物となりました。

 

 

が、成り上がりという事もあって、高官になると少し性格に難が出始めたそうな。

 

今回は、そんな丁奉の事績を追っていきましょう。

 

 

 

 

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若き勇将

 

 

 

丁奉と言えば、三国志演義の影響で徐盛(ジョセイ)と2人でセットのように思われがちですが、実は彼は徐盛よりも世代は下。主な活躍時期が異なっています。

 

 

そんな彼は若かりし日、武勇に優れていたため小さな部隊を預けられ、甘寧(カンネイ)、陸遜(リクソン)、潘璋(ハンショウ)といったそうそうたる面子に率いられて、しばしば外征に参加していたのです。

 

丁奉はいつも敵陣の不覚に切り込み、敵将を討ち取り軍旗を奪うなど、どの戦場でも抜群の手柄を立てていました。しかしそんな危険が伴う戦い方をしていたため、体はいつも傷だらけになっていたとされています。

 

 

当然これほど暴れ回った人物が無視されるはずもなく、やがて叩き上げの士官として偏将軍(ヘンショウグン)に昇進。

 

孫権(ソンケン)が亡くなって孫亮(ソンリョウ)が後を継ぐと、冠軍将軍(カングンショウグン)に昇進し、都亭侯(トテイコウ)の爵位を与えられました。

 

 

 

 

東興の役

 

 

 

建興元年(252)、孫権の死を聞きつけた魏は、これを好機として全国からかき集めた大部隊を呉に派遣。一気に併呑してやろうと行動を始めました。

 

これに対し、呉は諸葛恪(ショカツカク)を大将として防衛部隊を編成し迎撃。両軍は東興(トウコウ)の地で激突しました。

 

 

この戦いにおいて呉の諸将は「諸葛恪様が直々に迎撃したとあっては、敵軍は怯えているはず。敵前上陸を果たして一気に潰してしまいましょう」と進言しますが、丁奉はただ一人この意見に反対。

 

 

「敵軍がこれだけの大部隊を投入したのなら、勝算あっての行動のはず。コケ脅しが通用するとは思えません」

 

 

結局、諸葛恪が長江を渡って敵前上陸を行うと同時に、丁奉らは別動隊を率いて優位な地形を奪いに向かう形で作戦は決定。

 

 

丁奉ら別動隊はそれぞれ軍を率い、山岳地帯を潜伏しながら進みますが、ここで一つ問題が発生します。

 

それは、部隊の行軍速度。このままでは敵軍に優位な地形を奪われてしまうと考えた丁奉は、他の部隊を置き去りにする形で、自身は3千の部隊を率いまっすぐに部隊を強行させます。

 

そして折しも強風が吹き荒れていたので、それを追い風として船に乗り換え、丁奉の軍勢は奇襲予定地点にわずか2日でたどり着いたのです。

 

 

早速敵軍の様子を探っていた丁奉でしたが、この時敵軍が酒盛りしていたことが判明。まさに絶好の機会だったのです。

 

 

これを好機と見た丁奉は、兵たちに鎧を脱いで兜だけを着用するように伝達。そのまま軽装で敵陣に駆け降りて、一気に先鋒部隊を壊滅させてしまったのです。

 

 

その後置き去りにした部隊も無事に合流し、さらに朱拠(シュキョ)の軍が退路を絶ったことにより敵軍は大混乱に陥り、そのまま重臣の子であった桓嘉(カンカ)や以前呉から寝返った韓綜(カンソウ)を始め多くの戦死者を出しながら敗走。呉の大勝利に終わったのです。

 

 

 

立役者となった丁奉は、滅寇将軍(メツコウショウグン)に任命され、爵位も都郷侯(トキョウコウ)に昇進。すっかり、呉の中でも重鎮の一人に食い込んだのです。

 

 

 

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まだまだ続くよ出世街道

 

 

 

後に敵将の文欽(ブンキン)が呉に投降を申し入れると、丁奉は虎威将軍(コイショウグン)に昇進。当時の実力者であった孫峻(ソンシュン)の配下として彼の救援に赴きました。

 

そして文欽と合流すると、魏から差し向けられた追手を迎撃。丁奉は自ら馬に乗って敵陣に突撃し、数百の首を上げる大立ち回りを披露。兵器を奪い戻ってきて、その活躍から安豊侯へと爵位を上げました。

 

 

その後魏で大身であった諸葛誕(ショカツタン)までもが呉に投降を申し入れると、丁奉は彼の救援部隊の1将軍として参戦。

 

すでに諸葛誕を包囲した敵陣の切り崩しを任された丁奉は、この時も突撃隊長として果敢に戦功を上げ、ついに左将軍(サショウグン)に任命されたのです。

 

 

 

後に孫休(ソンキュウ)が3代目の呉帝となると、それまで政争を次々と勝ち進み強権を振るっていた孫綝(ソンリン/ソンチン)の暗殺を張布(チョウフ)と共に進言。この意見を取り入れた孫休は孫綝を殺害。専横を振るっていた権力者を打ち倒したことで、強いとは言えなかった皇帝権力をいくらか元に戻すことができました。

 

その功績を以って、丁奉はついに将軍職でもトップに当たる大将軍に就任。さらに永安3年(260)には徐州牧(ジョシュウボク)として仮節(カセツ)が与えられ、事実上軍事のトップに食い込み、丁奉の栄華はここに極まったのです。

 

 

 

 

 

重臣丁奉

 

 

 

丁奉が徐州牧になったのと同年、隣国の蜀はついに魏の大部隊によって侵攻を受け、風前の灯火となっていました。

 

丁奉はこの時、魏の目を蜀から引き剥がすべく北の寿春(ジュシュン)に大部隊を送って攻撃しますが、蜀が降伏したことで作戦目標は失敗し、そのまま帰還。

 

 

後に孫休が死去すると、孫晧(ソンコウ)がその後を継いで皇帝になりました。この時、丁奉も孫晧の重臣・万彧(バンイク)の意見に従って彼を皇帝に迎える手助けをしたと言われています。

 

孫晧が正式に皇帝になると、丁奉は右大司馬(ウダイシバ:大司馬は防衛大臣的な役職)、左軍師(サグンシ:軍事統括職)

 

 

その後も丁奉はたびたび魏やそれに代わって建立した晋を攻撃しますが、まったく成果は得られず。

 

せめて物資だけでもと前線基地の徐塘(ジョトウ)を修復して晋の前線都市を攻撃しますが、市民が察知して逃げ隠れてしまったため失敗。この報告に怒った孫晧は、丁奉配下の導軍(ドウグン・斥候……なのか?)を叩き斬ったのです。

 

 

丁奉が亡くなったのはその2年後。建衡3年(271)のことでした。

 

丁奉が死んだと知ると、孫晧は彼の家族を辺境に強制移住させたのです。

 

 

 

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人物像

 

 

 

丁奉は「呉を支えた勇猛なる将軍たち」をまとめた巻に、その名を連ねています。

 

実際にこうして記述を追ってみると、家柄についての記述がない(つまり寒門出身)のに大将軍に上り詰めた辺り、やはり武勲ひとつでのし上がった叩き上げで、並外れた力量の持ち主だったと見るべきでしょう。

 

 

しかし、「位が高くなるとともにどんどん傲慢になっていった」と史書にはあり、実際にそのことを非難する言葉も当初から寄せられていたようですね。

 

 

結局、孫晧にはそういうところが嫌われて、死後に遺族につらい思いをさせることに繋がりますが……陸凱(リクガイ)伝に、孫晧との確執を示す面白い記述があります。

 

 

陸凱が孫晧暗殺を目論んだ際、丁奉はこれに賛同。孫晧が廟に詣でる時を狙う計画を立てた。孫晧の護衛を務める予定の留平(リュウヘイ)にもこの計画を打ち明けて協力を願い出たが、留平は丁奉が嫌いで参加を拒否したため計画は不発に終わった。

 

留平は協力しない代わりにこの事を誰にも漏らさないと約束したため問題にはならなかったが、不審を感じた側近の忠言によって孫晧は警戒心を強めた。

 

 

孫晧の側近はこの時天候を見て、天文的な占いから忠言をしていますが……もしかしたら孫晧はひそかにこの事に気付いていたかもしれませんね。

 

ちなみに万彧が孫晧に失望した時も丁奉にそのことを愚痴っていたり、丁奉が孫晧と対立関係にあったと推測できる逸話には事欠きません。

続きを読む≫ 2018/06/16 11:47:16

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:幽州右北平郡

 

勝手に私的能力評

 

程普 古参 周瑜 知勇兼備 完璧超人 鉄脊蛇矛 赤壁の戦い 都督

統率 A 古参の一人として、軍を率いて戦った知勇兼備の名将。赤壁の戦いでは周瑜と並んで大将となるが、なぜか目立たない。
武力 A 単騎駆けを実行するのは、戦争では結構珍しい。武勇も相当なものだったのだろう。
知力 A- グレーゾーンな逸話には、智嚢としての活躍も多い。古参の中でも一人だけ出世ペースが早く、おそらく知略においても優れていたのだろう。
政治 B 反乱鎮圧地域の統治などにも回る事が多く、内政に関しても能力があった証左として問題ないだろう。
人望 A+ 孫堅軍でも年長だったようで、後々には程公と呼ばれ周りに親しまれている。惜しむらくは近年の知名度か。無双シリーズへの出演も果たしたが……

 

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程普(テイフ)、字を徳謀(トクボウ)。この人は呉の武将の中でも特に「古参」といったイメージの強い人物です。知勇兼備、人格者、イケメンと完璧属性をこれでもかと詰め込んだ人物で、人々からも大変人気だったとされています。

 

なんかその割には伝が妙に短い気もしますが……まあ良しとしましょう。

 

 

今回は孫家を支えた宿臣のリーダー・程普の活躍を見ていきましょう。

 

 

 

 

 

幽州からはるばる南へ……

 

 

 

さて、まず程普の生まれた土地ですが、中国大陸最北端の幽州だと言われています。程普はまず地元の役人として名を馳せますが、この時点で「イケメン、対人スキル高、知的」と、いかにもモテそうな三種の神器を完璧に備えていたようです。

 

さて、そんな最北端のお役所勤めをしていた程普。まったくもって経歴は不明ですが、どういうわけか南の出である孫堅(ソンケン)の配下という立場に落ち着き、以後はその一族を支える立場となっていきます。同僚の韓当(カントウ)もそうですが、どういう経緯で孫堅についていくことにしたんでしょうね? 謎は多いです。

 

 

ともあれ、無事に生涯をささげるべき主家に出会えた程普。まず手始めに、黄巾の一党を各地で撃破。さらには陽人の戦い(演義でいう汜水関の戦い)で董卓の一派を撃破。この辺さらっと書かれてますが、黄巾賊も董卓も、当時の名将を打ち破るだけの力を持った強敵です。そのあたりを考えると、十分にすごい事ではないでしょうか。

 

孫堅が戦死し、息子の孫策が台頭すると、その寄る辺を得るための戦いでも多大な功績を残し、都尉(郡の軍事担当)に任命されます。

 

そこで孫呉の名物である反乱が発生しますが、程普は近辺の反乱勢力をことごとく鎮圧。貫禄の実力を見せつけます。

 

 

そして孫策自らが反乱勢力を攻めた時、孫策自身が程普らとともに大軍に包囲される事件が発生。この時程普は、近くにいた騎兵と二人で孫策を護衛。大声で敵を威圧しながら、矛を持って単騎駆けを強行。孫策は程普と名もなき騎兵の武威に助けられ、この窮地を脱するのでした。

 

しかしそんなイケイケの孫策も、あえなく敵の刺客に襲われて死亡。弟の孫権が跡を継ぎますが、孫策と毛並みの違う弟を快く思わない人物らが、各地で反乱を起こします。
孫権の忠臣たちはこの反乱の鎮圧に動くこととなりましたが、程普もその一人として、各地で勇戦。3つの郡を平定することに成功しました。
その後の仇敵・黄祖討伐の際にも別動隊として進軍し、敵の一軍を撃破。これにより、一気に孫権の信頼を得たようです。

 

赤壁の戦いでは周瑜と二人で軍権を分け合って、曹操撃破に貢献。その後曹操軍を荊州南部から追い払う事にも成功し、孫堅代からの古参の中では最も早く将軍職に就くようになりました。

 

その後も周瑜の跡を継いだり元の任地に戻ったりを繰り返したようですが、ほどなく死去。孫権は彼の功績をよく覚えており、皇帝の位に上ったときに、他の功臣と一緒に程普の名もしっかりと上げたそうです。

 

 

 

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年長の人格者?

 

 

 

さて、こんな感じで程普の経歴を述べていきました。

 

ここからはその人となりを表す記述をいくつか述べていきましょう。

 

 

まず、年齢に関して。実はこの程普、孫堅に真っ先に仕えた古参武将の中でも一番年上だったとされています。そして程普の死後に跡を継いだのは、215年に亡くなる孫瑜という人物。そして程普自身が跡を継ぐことになる周瑜の没年が210年。

 

この辺を見ると、年齢や生没年に関してはある程度目星がつきそうな感じがします。

 

 

が、没年は210年から215年の間で決まりとしても、困ったことが一つ。実は孫権時代の古参武将、生年がはっきりしている人物が異様に少ない。これがまた、程普の生没年を謎としている大きな要因の一つです。

 

……とまあ歳の話はこれくらいでよろしい←

 

 

続いて内面について。

 

気前のいい性格で施し大好きの好々爺。また、多くの地元有力者とも仲良くするという、言ってしまえば「人格者」という言葉がピンとくる人物。最年長という立場もあって、周囲からは尊敬を込めて「程公」と呼ばれていたとか。

 

で、そんな程普にも、相性の悪い人物が一人いました。

 

程普と同じような完璧超人のイケメン、周瑜です。

 

同じ完璧でもどこか武骨なイメージのある程普と違い、周瑜は音楽や文化にも秀でたお坊ちゃんの優男。
似た者同士は仲が悪いと言いますが、この二人もまた、似たような属性を持ちながらも、上記のような些細な違いで不仲だったとされています。

 

程普自身は周瑜の事を毛嫌いし、こき下ろすような真似もしました。が、周瑜のほうはお互いの愛称など知らぬ顔で、常に下手に出て程普を立てるような振る舞いを見せました。

 

ここまでされると、程普のほうもすっかり根負け。後に「周瑜と話をしていると、自分でも気づかぬうちに、酔ったような心地よさを感じるようになる」と、それはもうぞっこんの姿勢を見せるようになりました。

 

この逸話は嫌われても尊重し続ける周瑜の美談とされますが、一般的に毛嫌いしている人から尊重されても素直になれない人が多いもの。
そう考えると、素直に相手を認めて「嫌い」という評価を改めた程普も、さすがの人格者ぶりのように思えてきますね。

 

 

 

死因に関して不気味な逸話が……

 

 

程普は死亡する100日余り前に、叛逆した罪人を数百名殺したそうな。

 

その時の処刑方法がえげつなく、火の海の中に罪人自ら飛び込ませて焼身自殺させるという物だったと伝わっています。

 

 

そんな残虐な殺害方法を行った程普は、その日のうちに体調不良で倒れ、ハンセン病らしき病を発病。そしてそのまま息を引き取ったとか。

 

 

この話に関しては正直迷信じみており、おそらく後世の作り話なのでしょうが……やはり当時の為政者は人に呪われるような苛烈な刑罰の実施も不可欠だったという事でしょうか。

 

 

まあそんな物騒な話もありますが……彼が死んだときの孫権の反応はあの周瑜と同等のものだったとされており、両者が勝手に奴隷を所持していたのが発覚しても問題にしないようにと、周囲に通達しています。

 

続きを読む≫ 2018/06/16 11:44:16

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:呉郡富春県

 

 

孫輔 孫策 裏切り者 曹操

 

 

孫輔(ソンホ)、字を国儀(コクギ)。孫賁(ソンホン/ソンフン)の弟です。

 

この人は、孫権(ソンケン)というよりどちらかというと孫策(ソンサク)の配下に立場は近いでしょうか。というのも、最後の最後で……。

 

 

まあ、そのあたりは彼の伝を追っていけばわかりますかね。では、さっそく孫輔伝、見ていきましょう。

 

 

 

 

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孫策の従兄弟

 

 

孫輔は幼い頃に両親を亡くし、兄・孫賁により育てられました。『孫賁伝』によれば兄弟仲はむつまじく、孫輔は兄の寵愛を一身に受けて育ったとされています。

 

 

 

そんな孫輔は、大人になるとたくましい武人に成長。揚武校尉(ヨウブコウイ)として、従兄である孫策の揚州平定を支援します。

 

 

この働きから武人としての才覚に目覚めた孫輔は、独立を果たした孫策の元主・袁術(エンジュツ)からの攻撃を食い止めるべく西へと転身。

 

袁術軍の侵攻をことごとく防ぐと同時に、周辺の民衆を説得。孫策に利があることを知らしめることで、その配下の兵を増やし、離散していった民たちを再び呼び戻すことにも成功しました。

 

 

後に孫策に従って陵陽(リョウヨウ)という人物を討伐した際には、敵将・祖郎(ソロウ)らを生け捕りにする功績を上げ、さらには袁術死後の軍を糾合していた劉勲(リュウクン)の討伐でも自ら先頭に立って戦い活躍するという生粋の武人振りを披露します。

 

 

 

この活躍を認めた孫策は、孫輔を新しく設置した廬陵郡(ロリョウグン)の太守に任命。任地を得た孫輔は人々の宣撫に当たり、各城に長官を配置して民心の掌握を図りました。

 

 

 

後に孫輔は平南将軍(ヘイナンショウグン)に任命され、仮節(カセツ)が与えられ、交州刺史(コウシュウシシ)の位が与えられました。

 

 

 

しかし、孫策死後、その弟の孫権に位が移ったとき、ある事件が発生しました。

 

なんと、孫輔が勝手に他勢力の長である曹操との交渉パイプを持っており、独自に使者を送っていたことが発覚したのです。

 

 

この時は孫策が急死し孫権が跡を継いで間もない頃。家中も孫権にこのまま従うか裏切るかで荒れに荒れていた時世です。そんな中で一族から裏切り者が出ていたとすると……これは孫権軍が一気に瓦解するかもしれない大変な事件です。

 

 

そんな時勢もあって、孫輔は孫権の手によって幽閉され、以後は世に出ることもなく数年後に死去。ただし息子たちは一族としてそれなりの地位に就き、名誉は回復していたそうな。

 

 

 

 

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裏切り者?

 

 

さて、本田では裏切りと見るかどうかグレーゾーンな孫輔の内通疑惑ですが、裴松之注で出展された資料の『典略』では、どう考えても黒と言えるような記述がなされています。

 

その内容がこちら。

 

 

孫輔は孫権が器量不足であると考え、孫権の留守中に曹操へと使者を立てて謁見させた。

 

しかし、そんな孫輔の内心を知らない使者は、曹操への謁見をそのまま孫権へと報告してしまった。

 

 

これを聞いた孫権は、何も知らないふりをして、本拠に戻るとすぐに腹心の張昭(チョウショウ)を連れて孫輔に会いに行った。

 

 

そこですぐに、「どうして他勢力の君主に挨拶に行ったのかな?」と問いただすが、孫輔はシラを切るばかり。

 

そこで孫権張昭に手紙を投げ渡し、張昭がその手紙の内容を示してやった所、孫輔は黙って何も言わなくなった。

 

 

これで裏切りが確定したことで、孫権は孫輔の側近を処刑。私兵も他の将らに分け与え、孫輔自身は命こそ助けられたものの東方へと強制移住させられた。

 

 

 

兄の孫賁も曹操のファンで、その息子の曹彰(ソウショウ)に娘を嫁がせたとか曹操の働きがけで征虜将軍に就いたりと不穏な部分はありますが……こちらはどちらかというと曹操による分断工作の一環で、孫賁は受け身の立場でした。

 

が、孫輔に関しては自身から曹操に対し恭順するような意向を示しており、そこが兄弟の扱いの差につながったのかもしれません。

 

 

 

また、孫輔の就いた平南将軍の交州刺史、そして与えられた仮節に関しても、妙に怪しいというか、なんというか……。まさかと思いますが、これも曹操に与えられたものではないですよね、さすがに……

 

 

 

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ついでに祖郎についても記載

 

 

ちなみに孫輔がひっ捕らえた祖郎という人物ですが、彼の事績は『江表伝』に載っています。

 

 

祖郎は袁術が独立した孫策に対して送り込んだ刺客で、しかも以前に孫策と戦い圧勝するほどの人物でした。

 

彼は早速孫策領内で扇動を行い反乱を援助。攻め込んできた孫策に対して逆に包囲を行い、孫策を自軍の中で孤立させることに成功します。が、程普ともう一人(誰かは不明)が奮戦して孫策を守りつつ包囲を突破してしまったことで、形勢は逆転。

 

その後祖郎は、孫輔によって生け捕りにされます。

 

 

こうして捕虜として孫策の元に引っ立てられた祖郎でしたが、二度も窮地に立たされたことが逆に孫策に認められる結果となり、頭を打ち付けてこれまでの敵対行動を謝罪。

 

その戦いの凱旋では、勇将・太史慈(タイシジ)と並んで先頭を進んだとか。

続きを読む≫ 2018/06/16 11:41:16

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:?

 

孫賁 呉 孫策 孫権 従弟 曹操

 

孫賁(ソンフン/ソンホン)、字は伯陽(ハクヨウ)。孫堅(ソンケン)の兄の子で、孫策(ソンサク)、孫権(ソンケン)らとは従兄弟同士という関係の人物ですね。

 

曹操(ソウソウ)の大ファンであり、純粋な孫権軍の家臣というわけではない人物でしたが、何だかんだ最期まで叔父の子たちを支え続けた影の番人です。

 

 

が、どうにも裏で暗い部分が見え隠れする孫呉の人々と同じく、この人もちょっと影が見え隠れするような……

 

とはいえ扱いは親族のそれであり、裏切りや反乱のようなことはしなかったので、真っ当な人物だったのは間違いない……はずです。

 

 

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孫策が育つまでは孫家の当主!

 

 

孫賁の父親は孫羌(ソンキョウ)と言いますが、彼はまだ若いうちに命を落としました。

 

また、母親も早世してしまったため、孫賁はまだ赤ん坊の弟・孫輔(ソンホ)と二人っきりに。結局親がいなくなった孫賁は、孫輔の面倒をよく見て育ててやることになりました。

 

ちなみに「弟思いだった」という記述も正史にはあり、彼が弟を大切に思って育てたことが伺えます。

 

 

 

そんな不遇の幼年期を過ごした孫賁ですが、やがて官吏の道に出て出世。郡の督郵守長(トクユウシュチョウ:政務官の官吏監督役)になりましたが、叔父である孫堅(ソンケン)が挙兵すると官吏を辞め、彼の軍の一員に加わりました。

 

 

しかし叔父について各地を転戦すること数年。孫堅は劉表(リュウヒョウ)との戦いのさなか、突如命を落としてしまいました。

 

 

こうして当主不在となった孫家の軍閥でしたが、孫賁は一族として軍閥を率い、叔父:孫堅の棺を守って故郷まで無事に送り届けることに成功します。

 

 

 

その後、孫堅に所縁のある群雄・袁術(エンジュツ)が揚州の寿春(ジュシュン)に本拠地を移すと、孫賁は軍を率いて袁術軍に加入。以後は、彼から猛将:孫堅の甥として期待がかけられることになるのです。

 

 

 

 

袁術配下として

 

 

袁術は従兄の袁紹(エンショウ)と折り合いが悪く、お互い一触即発の状態でした。そんな中、袁紹が自分の息のかかった周昂(シュウコウ)を袁術影響下の九江(キュウコウ)太守に任命したことで、両者の関係は完全に決裂。

 

袁術は目の上のたんこぶである周昂に対し、孫賁に軍を預けて派遣。孫賁は袁術の期待通り、周昂を追い払うことに成功します。

 

 

さらに袁術は朝廷に働きかけて、孫賁を豫洲刺史(ヨシュウシシ)に任命させ、政務に当たらせました。

 

 

そしてその後も丹陽(タンヨウ)の都尉(トイ:軍事長官)、さらには征虜将軍(セイリョショウグン)などを歴任。袁術軍でも中数部を占める武官としてしっかり働きました。

 

 

後々、袁紹と組んで肥沃な揚州南部に割拠していた劉繇(リュウヨウ)が圧力を強めてくると、袁術はこれをどうにかすべく孫賁と、呉景(ゴケイ)という人物を派遣。

 

早速孫賁らは劉繇軍を攻撃しますが、思いのほか手ごわく苦戦します。そこで袁術孫堅の子、孫策に援軍を預けて援軍に向かわせました。

 

こうして孫策が援軍が来ると、とうとう膠着状態だった戦線が好転。劉繇軍の迎撃部隊を撃破し、彼を追いつめることに成功したのです。

 

 

その後、孫賁は呉景と共に、袁術への戦勝報告に残り、そのまましばらく、袁術軍に残留。

 

 

孫策らに合流したのは、袁術が皇帝を名乗った後のことでした。

 

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孫一族の影の番人

 

 

 

さて、皇帝となった袁術は孫賁を九江太守に任命しますが、孫賁は袁術を見限ったか恐怖を覚えたか、そのまま任官せず、しかも妻子を置いての逃避行。おそらく、袁術の支配下から抜け出すにはそのタイミングしかなかったのでしょう。

 

 

かくして、孫策の配下に鞍替えした孫賁は、江東を平定した孫策の仕上げともいえる劉勲(リュウクン)討伐、そして孫堅の仇である黄祖(コウソ)の攻撃に参加。

 

そして勝利を得たのちの凱旋途中、劉繇が亡くなったという話を聞くと、彼の勢力下に残っていた豫章(ヨショウ)を支配下におさめ、そこの太守として孫策をバックアップする体制をとりました。

 

後に、孫賁は貴重な一族の人材として都亭侯(トテイコウ)の爵位に封ぜられました。

 

 

建安13年(208)には、朝廷からの勅使が孫賁の元へ訪れ、袁術の独断で任じられていた征虜将軍に正式に就任。

 

 

その後もしばらく豫章太守としての仕事に励みましたが、任官から11年後に亡くなり(後述)、息子の孫鄰(ソンリン)に後を託しました。

 

 

 

 

曹操ファン?

 

 

さて、孫賁はこのように孫家に尽くしていましたが、本当に純粋な配下かと言われると、やはり疑問が残る部分もいくらかあります。

 

 

まず、孫策が独自に勢力を広げた後も袁術配下として独立した地位にあったこと。

 

そしてもう一つが、まさかの曹操(ソウソウ)との接点です。

 

 

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208年に孫賁は朝廷から将軍位を得ますが、実は当時の朝廷は曹操の庇護下にあり、いかに最高権力と言えども、保護者である彼の意見は無視できなかったはず。つまり、曹操自身が孫賁の将軍就任を黙認した可能性が高いわけです。

 

……いや、これはあくまで可能性。懐柔のためにあえて敵勢力の配下に官位をバラまくようなことは無いとは言い切れません。

 

しかしこの少し後、孫賁は、最終的に朱治(シュチ)から止められたものの、娘を差し出して曹操に帰順しようとしたという記述もあります。

 

 

信憑性の高い資料ではないものからの出典になりますが、……志林では官渡の戦いの折に曹操の腹心・夏侯惇(カコウトン)から「孫賁に長沙郡(曹操と敵対していた劉表の背後の郡で、孫堅との所縁も深い土地)を授ける」と手紙が送られたとありますし、実際に愛する弟・孫輔(ソンホ)は孫策死後に曹操に寝返ろうとして処刑されています。

 

 

もしかしたら、孫賁の心は実は曹操にあり、しかも孫権らとは主従関係というより半ば独立した盟友のような関係だったのかもしれませんね。

 

 

ちなみに在官11年での死去という話が出ていますが、これに関しては豫章太守に就いてからと言われていますが……朝廷から征虜将軍就任の詔を受けてから数えて11年など、諸説あって確定的なものはありません。

 

 

ただ、孫賁死後の豫章太守には、孫賁・孫鄰・顧邵(コショウ)・蔡遺(サイイ)の順に就いており、蔡遺に関しては219年に亡くなる呂蒙(リョモウ)が推薦して豫章太守になったという記述があります。

 

 

とすれば、208年からの10~11年後……つまり218年や219年に死去したと見ると1年足らずの間に3人も亡くなって太守が入れ替わるという自称が起きており、なんとも現実的とは思えません。

 

そこで、巷では豫章太守に就任してからの11年後……建安15年(210)卒という説がもっとも有効であると見られているようですね。

続きを読む≫ 2018/06/16 11:40:16

 

 

生没年:中平6年(189)~?

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡余杭県

 

 

凌統 勇将 合肥 甘寧 武人 決死隊 呉

 

 

凌統(リョウトウ)、字は公績(コウセキ)。史書では「淩統」名義での記載である一方で一般的には「凌統」と記載されることが多い人物ですが、とりあえず彼の伝を追う上では、「凌統」表記で書かせていただきます。

 

父の代から孫家に仕える武官で、父絡みの逸話も多い人。

 

また、武勇も達者で合肥の敗勢でも奮戦しており、武勇と人格を兼ね備えた武将として、その死は孫権も大いに悲しませたほどの人物です。

 

 

今回は、彼の逸話を追っていきましょう。

 

 

 

 

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父の名を汚す者は……

 

 

 

凌統の父である凌操(リョウソウ)は武勇に優れたエースの一人でしたが、戦争中に矢に当たって戦死。

 

この時凌統はまだ15歳でしたが、凌操が名誉の戦死を遂げたことと、凌統自身の将来性を側近が口にした事もあって、孫権(ソンケン)より父の就いていた地位を代行役という立場で受け継ぐことになりました。

 

 

その後凌統は建安11年(206)の山越(サンエツ)討伐に参加しましたが、ここで大きな問題が発生してしまったのです。

 

凌統は総攻撃を前にして、大将の陳勤(チンキン)と共に酒宴を開いていました。この時陳勤が参加者を見下して好き勝手言い始めたため、凌統はこれを真っ向から諫言。

 

それによって腐れ気の強い陳勤の怒りを買ってしまい、凌統ばかりか亡き父まで罵倒し始めたのです。

 

 

凌統はこの仕打ちに涙を呑んで耐え抜こうとしましたが、酒宴後開きになった後もわざわざ後についてきて延々と父をバカにし続ける陳勤にとうとう怒りが爆発。その場で刃傷沙汰を起こしてしまい、その傷のせいで陳勤は死んでしまったのです。

 

 

 

「この上は死んで詫びるしかない」と感じた凌統は、作戦当日になると真っ先に敵に突撃。将兵を激励しつつ自ら矢面に立って奮戦し、その力に恐れをなした敵軍は一気に瓦解していきました。

 

結局死んで詫びることもできなかった凌統は、戦争が終わった後、やむなしと自ら出頭して縄を受け、孫権の前に姿を現しました。

 

 

そんな凌統の姿を見た孫権は剛毅さに大いに感動し、罪は手柄でまかなうよう計らい、凌統の罪は実質的にないものとなったのでした。

 

 

 

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呉の勇将

 

 

 

建安13年(208)、孫権は江夏(コウカ)を奪うべく黄祖(コウソ)討伐を決行。この時、凌統は先鋒部隊として出陣。

 

本隊よりもはるか前を先行して敵軍を蹴散らして回り、敵将の首を上げるなどの大活躍を見せ、その功績で承烈校尉(ショウレツコウイ)に昇進しました。

 

 

その後曹操が南下してくると赤壁の戦いにも参加し、曹操を撃退した後には残存部隊の曹仁(ソウジン)攻撃にも参加。ここでも本隊が別動隊を救援する間本陣を敵の攻撃から耐え抜くなど、活躍を示しています。

 

 

 

建安19年(214)には呂蒙(リョモウ)らと共に皖城(カンジョウ)攻略に出陣。皖城は孫権軍の喉元に刺さった重要拠点でしたが、これらを陥落させ、盪寇中郎将(トウコウチュウロウショウ)に昇進、沛国の相も一緒に任されるなど大身となったのです。

 

 

 

 

 

合肥戦線、必死の奮闘

 

 

 

建安20年(215)、孫権軍は自分たちの膝元である揚州から完全に曹操軍を駆逐しようと、合肥に兵を進めました。

 

凌統も一軍を率いる将としてこの戦いに参加したのですが、合肥を守る張遼(チョウリョウ)らの奇襲により士気が上がらず、結局包囲を解いて撤退することに。

 

 

その撤退のさなか、再び張遼が姿を現し、猛然と孫権らに襲い掛かったのです。

 

この時凌統は孫権らと共に軍の後方で殿軍をしていましたが、兵たちを呼び戻そうにもすでに遠くへ避難しており間に合わず、孫権は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。

 

 

凌統はそんな絶望的な状況の中、自身の近習300人を招集すると、張遼らの奇襲部隊に突撃を敢行。包囲を突破し、孫権らの退路をまたたく間に確保しました。

 

そして孫権の撤退を見届けると、これ以上の追撃を許さないために再び敵軍に突撃。近習が全滅し自身も重傷を負う中で、数十もの敵兵を討ち取る獅子奮迅の活躍を見せ、孫権の安全が確保するまで戦い抜いたのです。

 

 

その後深手を負ったまま泳いで川を渡り孫権の元に帰還。近習が誰一人として返ってこなかったのを見て涙したと書かれています。

 

孫権はそんな凌統の涙を拭いてやると、

 

「近習たちの事は残念だった。だが、お前がまだいる。それでよいのだ」

 

と凌統をなだめてやり、彼を偏将軍(ヘンショウグン)に昇進。これまで率いていた兵の倍の数を預けたのです。

 

 

 

この時凌統も瀕死の重傷を負っていたようで、孫権はすぐに自分の船で凌統を寝かせて手厚く看病しました。

 

『呉書』には卓氏の良薬なる薬によって快方に向かいなんとか生き延びたともあります。

 

 

 

その後凌統は、人口不足に苦しむ呉の国情を鑑みて「山越には勇敢な者らが多くおります。平定し、彼らを仲間に迎え入れましょう」と申し出たのを最後に、活躍の記述は途絶えます。

 

後に任地から戻る際に病気を患い、そのまま49歳で死去したとか。しかし29歳説もあったり49歳だと他の伝の記述と噛み合わなかったりして、なかなかはっきりしていません。

 

 

その死は孫権を大いに悲しませ、彼が大きなショックを受けたのは、呂蒙と凌統が一番だったとされています。

 

 

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人物像

 

 

 

凌統の人物像に関する記載は、伝の長さを考慮するとかなり多いです。

 

陳寿からの具体的な評は述べられていませんが……彼の人物像としてこんな一文がまず目につきます。

 

 

有能な者と積極的に接し、財貨を軽んじて信義を重んじ、一国の国士たる気風があった。

 

 

その姿は一国を背負うに足りる人物であると、かなりのべた褒めですね。実際に凌統は父の事を尊敬し、近習の全滅を悲しむなど部下を大事にしていた様子があります。

 

言ってしまえば、儒教社会における模範生のような人物だったのではないでしょうか。

 

 

 

同郷者である盛暹(セイマン)なる人物が「凌統以上」と称されたときも、盛暹が夜中に来たにもかかわらず親密に案内して回るという逸話もあり、その人格は概ねベタ褒めされていると言ってもよいでしょう。

 

役人たちにも丁重に挨拶したり、律儀に自分の罪を白状したり……案外、委員長タイプの生真面目で善良な人物だったのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/04/23 21:37:23

 

 

生没年:熹平3年(174)~赤烏4年(241)

 

所属:呉

 

生まれ:徐州琅耶国陽都県

 

 

勝手に私的能力評

 

諸葛瑾 呉 名臣 諸葛亮 孫権 マブダチ 驢馬

統率 B+ 時折忘れそうになるが、彼は武官。特別な策略は持ち合わせていないものの、失敗すると大火傷の撤退戦は得意だったらしい。
武力 D 孫権を説得する話から見ても、柔和な人物と推測できる。防戦は上手かったようだが、攻めになるとあまり戦禍の話は聞かない。
知力 A 奇策は苦手だったようだが、無難な手段においては優れていたようだ。この辺、弟の諸葛亮と似ている。
政治 A いわゆる軍人だが、外交では弟と下手に関わらないなど造詣があった。また、孫権が周りに白眼視されたときに唯一後で対抗策を述べた。ええ人や……
人望 S 将軍には用兵のプロといい人タイプがいるが、彼は後者の最高峰だったらしい。夷陵の戦いのときも蜀への内通が疑われたが、マブダチでもあった孫権はまるで相手にしなかった。

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諸葛瑾(ショカツキン)、字は子瑜(シユ)。天才軍師とされる諸葛亮(ショカツリョウ)の兄で、孫権(ソンケン)からも友人同然の信頼を寄せられた驢馬人物ですね。

 

 

ド派手に立ち回った弟と比べ、なんだか地味なイメージに落ち着くことが多い人物ですが……おそらくその一因は、弟と違って良くも悪くも出しゃばらないタイプで、なおかつ実直で癖のない、善人の典型例であったことが起因しているのではないかと思われます。

 

あと、地味に記述が多くない

 

 

とはいえ、地味なだけでその働きは大きく、孫呉において柱石と言っても過言ではない大人物だったのは間違いありません。

 

 

 

 

 

孫権劉備の取り持ち役

 

 

 

 

諸葛瑾は元々徐州に根差す名士の家の出でしたが、徐州が動乱に巻き込まれたのを機に、他の名士らと共に江東の地に流れ着来ました。

 

対する諸葛亮らはここで荊州の地にわたっており……おそらく、ここで家族と別れたのではないかと思われますね。

 

 

 

ともあれ、江東の地で過ごすこと数年、それまで猛烈な勢いで周辺に勢力を伸ばしていた孫策(ソンサク)が死去。

 

その弟の孫権孫策の後を継ぎ、なんとかゴタゴタする家中を収束しようと多くの人材を引き留め、あるいは登用する動きを見せました。

 

 

諸葛瑾が孫権に仕えたのはそんな時。孫権の姉婿からの推薦を受けての登用でした。

 

 

 

こうして孫権軍に仕えることになった諸葛瑾は他の名士らと共に優遇を受け、次々と頭角を現します。そして最終的には長吏(チョウリ:官吏を取り仕切る役)・中軍司馬(チュウグンシバ:司馬は兵を取り仕切る指揮官職)まで昇進し、すっかり孫権の信用を得たのです。

 

 

 

建安20年(215)には、孫権は同盟者の劉備に向けた使者として諸葛瑾を起用。この頃弟の諸葛亮らが劉備に仕えており、その縁での起用だったようです。

 

 

しかし、諸葛瑾の態度は謹厳そのもの。弟と公の場でこそ顔を合わせるもののプライベートでの接触は避けるようにし、あらぬ疑惑が向けられないように万全の配慮を行っていたと言われています。

 

 

 

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孫劉同盟の破綻

 

 

 

 

建安24年(219)、孫権は同盟者である劉備との間に抱えていた領土問題を清算すべく、荊州に陣取る劉備軍の関羽(カンウ)を攻撃。

 

諸葛瑾はこの作戦にも参加しており、その功績から宜城侯(ギジョウコウ)の爵位を拝命。綏南将軍(スイナンショウグン)として、病に倒れた呂蒙に代わり重要拠点である南郡(ナングン)の太守に任命されました。

 

 

 

しかしその2年後、荊州という肥沃な土地を奪われた怒りと関羽の仇討ちのため、孫権を討ち果たすための軍を展開。両軍は総力戦の様相を見せ始めます。

 

しかし、対する孫権にはすでに戦争をする理由がありませんし、それどころか下手に動けば魏からの侵攻で両軍とも壊滅する恐れがありました。

 

そのため講和の道を模索しており、諸葛瑾はその意を受けて劉備に和睦を訴える書状を送ることになりました。

 

 

 

しかしこの時、弟が劉備率いる蜀軍の重鎮となっているのをネタに、とんでもない噂が飛び交っていたのです。

 

 

「諸葛瑾は劉備に寝返ろうとしている」

 

 

そんな噂を聞いた孫権は、疑いをかけるどころか一切気にする様子はなし。

 

 

「お互い死を超えて心変わりすることはないと誓った仲。俺は諸葛瑾を裏切らないし、それは向こうも同じだ」

 

 

結局諸葛瑾の内通騒ぎは孫権によって握りつぶされ、諸葛瑾も裏切るそぶりは一切見せなかったのです。

 

 

そして翌年の黄武元年(222)、諸葛瑾は軍事の重要職である左将軍(サショウグン)となり、南郡公安(コウアン)の都督として仮節(カセツ:軍事権の一つ)を拝領。宛陵侯(エンリョウコウ)として領地も移封となり、孫権も彼の忠勤に待遇で応えることとなったのでした。

 

 

 

呉の重臣

 

 

 

さて、この年に魏の曹丕(ソウヒ)による大規模侵攻があり、諸葛瑾も一軍の大将としてこの戦いに参陣。

 

もともと事前準備で地道に勝ちを狙うタイプの諸葛瑾は、この時臨機応変の動きが取れず苦戦を強いられますが、潘璋(ハンショウ)らの活躍によってなんとか兵を損じずに魏軍を撃退できたのです。

 

 

 

 

その後も諸葛瑾は、主に荊州戦線での魏との攻防に、軍人としてしばしば名前が出てきますが、どれも一進一退といったところで、防戦では勝利は収めるものの攻撃軍を出すときは退却を余儀なくされるといった有様。

 

呉の戦いは防戦での戦績はいいものの呂蒙らが亡くなってからは攻撃に優れた将兵がなかなか出なかったようで、諸葛瑾もまた防戦に特化した人物だったのかもしれません。

 

 

 

が、それでも孫権の信頼は絶大な物で、呉帝国が立ち上がると、諸葛瑾も将軍のトップである大将軍(ダイショウグン)、そして左都護(サトゴ:近辺の異民族統治をする職)を兼任。さらに豫洲(ヨシュウ)牧としての職務にも当たるようになりました。

 

 

 

その後、呂壱(リョイツ)なる者が台頭して好き勝手に他者を処罰した際には多くの臣下がそのあおりを受けて失脚し、孫権と家臣団の間に亀裂が生じる事件が発生。

 

結局正気に戻った孫権は呂壱を処断すると、「もし今の俺に誤りがあったら教えてほしい」と周囲に求めかけることにしましたが……すでに生じた国内の亀裂は大きく、諸葛瑾はじめ重臣らは口をつぐんでこの求めかけに応じようとしないという大変な事態になってしまったのです。

 

 

しかし、孫権はめげずに何度も謝罪の使者を出し、何としても意見を述べてもらおうと必至に要請。そして最終的に諸葛瑾だけはハッキリとした意見を提出。それらは道理にかなった、見事な物だったと言われています。

 

 

 

こうして自らの厚実な態度によって君臣の間に出来た亀裂を修復した諸葛瑾でしたが、ほどなくして死去、赤烏4年(241)の事で、享年は68だったと言われています。

 

 

葬儀は至って簡素なもので、白木の棺桶に普段着のまま葬られ、嫡男の諸葛恪(ショカツカク)はすでに自力で頭角を現していたため、後はその弟の諸葛融(ショカツユウ)が継ぐこととなりました。

 

 

 

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温厚厚実で実直な人となり

 

 

 

 

さて、陳寿の評では、諸葛瑾はこのように評されています。

 

 

堂々とした風貌と思慮深さを併せ持ち、鷹揚でまっすぐな態度に多くの人が心服した

 

 

実際にフリーダムで気難しい孫権やアクの強すぎる臣下の間を受け持ったり、孫権自身からも「瑾」と諱呼びで親しまれたりしています。

 

正しさの鬼である張昭と違って穏やかで物腰が柔らかなところもあり、受け入れにくい事実などは比喩を使ってわかりやすく、受け入れやすく表現したとの記述もあります。

 

 

 

また、人を見る目も公平でしっかりしていたようで、我が子であってもフィルターはなし。

 

嫡男の諸葛恪は才覚溢れる天才的な若者でしたが傲慢で人をとことん見下すところがあり、それを見た諸葛瑾は「奴では家の存続は無理だろう」と予期。

 

この予言は諸葛瑾の死後12年後に実現し、諸葛恪は失敗の末恨みを多く買ってしまい、そのまま諸葛一族は滅んでしまったのです。

 

 

 

反面、弟と同じく前準備で勝負する分ぶっつけのアドリブには弱いことが史書にて明らかにされており、臨機応変の対応は苦手分野だったようです。

 

 

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人材擁護のプロ:諸葛子瑜

 

 

 

 

さて、諸葛瑾と言えば丁寧な物腰で、孫権と不仲になった人材との間を取り持った逸話も少なくありません。

 

 

まず孫堅時代からの古株である朱治(シュチ)という人物に内心強い不満を抱いたときは、孫権に代わってこの問題を担当。朱治をなじる文章と、それに対して考えうる理由釈明の2つを孫権に提出し、大いに喜ばれることになったのです。

 

 

 

また、別の日には殷模(インモ)なる校尉が不興を買ったときも、孫権は譴責の末死刑を言い渡そうとしました。

 

これに対して臣下らは慌てて止めますが、孫権の怒りは収まらず。そんな折、諸葛瑾だけはずっと黙っており、孫権が「なぜ黙っている?」と訊くと、諸葛瑾は以下のように回答。

 

「殷模の故郷はすでに壊滅し、それゆえ育った地を捨ててここまで来たのです。それを多くの恩赦を受け、今こうして暮らしております。しかし、これは私にも同じことが言えます。だからこそ、同じ境遇の私がしっかりと指導して正しく導くことができなかったばかりにこのような事態となってしまったのです。私は謝罪すらできる立場になく、申し上げる言葉もないのが残念でなりません」

 

 

結局、この言葉を聞いた孫権は感銘を受けて殷模を赦免することとなったのでした。

 

 

 

 

そして、剛直でアクの強い虞翻(グホン)が不興を買って左遷されてしまった際にも、諸葛瑾だけが懸命の擁護を行っています。

 

この時ばかりは結果として虞翻の復帰はかないませんでしたが、この話を聞いた虞翻本人からは非常に感謝され、友人らに送った手紙にこの一見の事が記されていたとか。

 

 

最後に、周瑜(シュウユ)の息子でありながら罪を犯して配流された周胤(シュウイン)の復帰を呼び掛ける運動にも、友人である歩隲(ホシツ)らと共に参加。

 

孫権が赦すと同時に周胤が死去する形でこれもまた失敗に終わってしまいましたが、諸葛瑾の善良さがよく出るエピソードの1つのように思えます。

続きを読む≫ 2018/03/13 15:41:13

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:揚州会稽郡余姚県

 

 

董襲 水軍 溺死 勇将 忠義 猛将

 

 

董襲(トウシュウ)、字は元代(ゲンダイ)。勇猛果敢にして生粋の忠義者。その忠誠溢れる態度は最期には裏目には出たものの、必ずしも彼の名を汚す類のものではなかったと断言できるでしょう。

 

また、見てみると武官としてはかなりの出世頭なのですね。孫権軍所属の将軍自体が希少であった時機に、彼は将軍の位を授かっています。これは、やはり忠義だけでなく武勇にも優れていた証と言ってもよいでしょう。

 

 

 

 

 

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孫策軍の将として

 

 

 

董襲が戦乱の時代に名を挙げたのは、孫策(ソンサク)が地元の会稽(カイケイ)を占拠した辺りから。

 

元々孫策に対して賛否両論入り乱れていた江東の諸郡でしたが、そんな中で董襲は孫策支持派の人間として彼を出迎え、立派な態度に感心した孫策によって召し抱えられることとなりました。

 

 

 

こうして孫策の配下に加わった董襲は、まず手始めに黄龍羅(コウリュウラ)、周勃(シュウボツ)を中心とした反孫策勢力の打倒に従軍。董襲自ら前線で戦って首謀者二人を討ち取り、凱旋の後、別部司馬(ベツブシバ:非主力隊隊長)として数千の軍勢の指揮を任されるようになりました。

 

 

その後しばらくして、揚武都尉(ヨウブトイ)に昇格。その後も劉勲(リュウクン)討伐や黄祖(コウソ)の軍への攻撃にも参加し、すっかり孫策軍の立派な戦力として認められるようになったのです。

 

 

 

 

船の扱いお手の物

 

 

 

躍進する孫策を一武将として支え続けた董襲でしたが、建安5年(200)、君主の孫策を失うという不幸に見舞われ、家中は悲嘆に包まれます。

 

 

「これから、孫策の遺した勢力は大丈夫なのだろうか?」

 

 

 

そんな空気が流れる中、董襲は孫策の遺徳と孫権のカリスマ性、そして堅固な地勢を語り、「万に一つも滅亡の心配はありませんよ!」と強気のエールを送り、周囲を安心させたとか。

 

 

さて、董襲らの考えはどうあれ、突然の世代交代は領内を混乱させます。そんな中、不服従民がこれ好機とばかりに一斉決起。数万もの軍勢となって、孫権の軍勢に牙を剥きます。

 

 

そこで、董襲はこの不服従民討伐隊の一軍を率い、反乱の起きた地域に直行。同じく反乱鎮圧を任された歩隲(ホシツ)、凌統(リョウトウ)、蒋欽(ショウキン)らと分担して各地を制圧していき、なんとわずか10日ほどで反乱鎮圧を完了。

 

反乱軍は、特に董襲の向かうところ敵無しとばかりの無敗の勇戦ぶりに恐れをなし、遠くからそれを見ていた首謀者が尻尾を巻いて逃げ出したのだとか。

 

 

この功績は孫権を大いに喜ばせ、威越校尉(イエツコウイ)に昇進。さらにその後、偏将軍(ヘンショウグン)にまでなり、当時の孫権軍武官でも有数の立場に成り上がったのです。

 

 

 

その後、建安13年(208)の黄祖討伐にも参加。

 

この時黄祖は碇で固定した二隻の蒙衝(モウショウ:突撃艦)を盾に疑似要塞を立て、その船上から弩兵による一斉射撃を行うという戦法で、完全に孫権軍の侵攻を防ぎきっていました。

 

 

この時、董襲は凌統と共に先鋒として決死隊を指揮。それぞれ重装備兵100人ほどで大型船に乗り、黄祖の軍勢に向けて遮二無二突撃。董襲自ら蒙衝の腹下に潜り込んで碇を固定しているロープを断ち切り、防壁代わりの蒙衝を機能停止に追いやったのです。

 

流れの早い川で支えを失った蒙衝そのまま勝手に流れ出てしまい、その隙を孫権軍がすかさず突撃。黄祖は負けを察知して逃げ出しましたが、追いすがる孫権軍はこれに追いつき、見事に黄祖を討ち取ったのです。

 

 

 

さて、黄祖と言えば、孫権の父・孫堅の仇とも言うべき男。それを撃ち果たした孫権軍はお祭り騒ぎとなり、後日大規模な宴会が実施されました。

 

この宴会の際、孫権は自ら董襲の元へと向かい、その手を取って功をねぎらい、「これも董襲が蒙衝をなんとかしてくれたおかげだ」と喜んだとか。

 

 

 

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董襲渦中に消える

 

 

 

その後しばらく董襲は歴史に姿を表しませんでしたが、時代が飛んで曹操が濡須(ジュシュ)に攻め寄せた際、董襲は孫権に付き従うという形でその姿を現します。

 

 

この時董襲は、五楼船(ゴロウセン:楼船といえば、かなり大型の船)なるものに乗って水軍を指揮し、河を固めるように言い渡されます。

 

 

が、この五楼船、何かはよくわかっていないもののかなり大型の船のようで、夜に吹き荒れた突然の暴風により転覆の危機に陥ります。

 

さすがに危険と判断した董襲の側近は、すぐに快速艇へと避難し、楼船の破棄を決意。董襲にもこの旨を伝えて避難を促しますが、董襲はあくまで拒否。

 

怒りの形相で、「殿の命令を受けて敵を待ち構えているのだ! 大事な備えを放棄して逃げるとは何事か!」と怒鳴り散らし、「同じことをいう奴は斬る」と命令して楼船から下りようとはしませんでした。

 

 

結局そんな董襲を置いて逃げることはできず、水軍は皆暴風の中船で敵への備えを始めますが、途中で楼船が壊れ、董襲軍は長江の藻屑へ……

 

董襲自身もこの大荒れの天候のせいで溺死してしまったのです。

 

 

その後、孫権は喪服を身に着けて董襲の葬儀に出席し、その遺族には手厚い経済支援を徹底したとか……

 

 

 

 

その人物

 

 

董襲は身の丈八尺(190cmほど)の大男で、人並み外れた武勇の持ち主であったと伝えられています。

 

また、『後漢書』には「正しく身を持して意気に感ずる人物で、勇猛さを備えて立派な行いをした」とも言われていますね。

 

 

そして最期の死に様と言い決死隊の件と言い、まさしく「命令厳守、上は絶対」の、まさしく理想の軍人だったと言えるでしょう。

 

もっとも、理想的軍人に徹しすぎたあまり、応変さや柔軟性を欠いてその死を決定づけてしまったのは言わずもがな。

 

 

まさしく有能な、どこの軍いても一線を張れそうな猛将なんですが……なーんであそこで逃げなかったのかなぁ。やはり、それだけ上の命令は大きかったという事なのでしょうか。

 

 

 

また、黄祖討伐に際して昇格の記述がなく、その後の活躍もキッパリと省かれてしまっている辺りに疑念を抱く声も少ないながらに存在しますね。

 

本当に何があったのやら……

続きを読む≫ 2017/12/30 16:04:30

 

 

生没年:光和7年(184)~嘉禾元年(232)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州丹陽郡建業県

 

 

劉基(呉)

 

 

劉基(リュウキ)、字は敬輿(ケイヨ)。孫策(ソンサク)による江東平定で勢力を追われた劉繇(リュウヨウ)の子でありながら、新たに江東の主となった孫策の弟・孫権(ソンケン)の寵愛を上手いこと受け続けた人物ですね。

 

重臣でありながらあまりメディアにも取り上げられない人物ですが……処世と道徳性を両立するという地味ながらもかなりすごいことを成し遂げた人物です。

 

 

ちなみに劉基と言う人物は遥か先の明の時代にもおり、一般的にはそちらを指すことが多いのですが……まあ、当サイトとはあまり関連のない情報ですね。

 

 

 

 

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略歴

 

 

 

劉基の父・劉繇はひとかどの群雄でしたが、孫策に敗れて豫章にまで追い込まれ、その後に病を発して亡くなってしまいました。

 

劉基はこの時14若干歳でしたが、父の喪に服している姿はまさに儀礼作法にかなった見事なもので、部下からのお見舞いの品にも手を付けないという儒教の理想形態とも言うべきものだったとか。

 

 

さて、そんな劉基の話を聞いて、孫権は招聘し配下に加えました。孫権は劉基がイケメンだったのもあって彼を痛く気に入っていました。

 

 

建安24年(219)に孫権が将軍でも最高クラスの驃騎将軍(ヒョウキショウグン)に就くと、劉基は東曹掾(トウソウエン:官吏任用、昇進を司る)となり、輔義校尉(ホギコウイ)、建忠中郎将(ケンチュウチュウロウショウ)の官位を与えられました。

 

 

その後孫権が呉王になると大農(ダイノウ:朝廷の金銀貨幣などの物資管理。大司農とも)となり、さらに孫権が帝位に就いて呉帝国を立ち上げると、劉基は光禄勲(コウロククン:殿中衛士の元締め)に出世しましたが、49歳で病死。

 

遺された娘は後に孫権の息子へと嫁ぐことになり、その時孫権からは一区画分の広い屋敷と、四季折々には孫呉の重臣たちに匹敵する贈り物が届けられたのだとか。

 

 

また二人の弟はどちらも騎都尉(キトイ:近衛兵長)となり、彼が孫権からどれだけ信頼されていたかを表すひとつの根拠になっています。

 

 

 

 

 

 

 

『呉書』には劉基の日頃の態度に関しても言及されており、こう記されています。

 

劉基は苦難に満ちた人生を送ったが、それにも負けずひっそりと世に処してこれを楽むようにし、悲観するようなことはなかった。

 

また夜遅くに寝て朝は早く、妾達も彼の顔を見るのは稀であった。

 

 

みだりに誰彼構わず交友することも避けており、そのためつまらない人物が彼の家を訪ねることはなかった。

 

 

つまり、ポジティブな姿勢を貫く、尊敬すべき苦労人といったところですね。

 

弟たちもそんな劉基を父のように敬愛し、そんな人物の元を訪れるのも優れた人物ばかりだったと。

 

 

 

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虞翻との揉め事仲裁

 

 

さて、孫権の配下には、優秀で立派な儒学者であるものの口と態度が悪い問題児の虞翻(グホン)という人物がおり、しばしば史書の中でも問題を起こしています。

 

その虞翻がある時、酒の席で孫権の逆鱗に触れます。

 

 

というのも、主君の孫権がそもそも非常に面倒くさい酒乱で、酒の席で問題を起こすこともしばしばだったのですが……虞翻は「そんな面倒な絡みはしたくないわい」と寝たふりをして孫権からの手酌を暗に拒否し、孫権が通り過ぎたところでケロッと起き上がって何事もなかったかのような様子を見せます。

 

 

「俺の酒が飲めんのか」と怒った孫権は、これまでいろいろ貯まっていたのもあってその場で虞翻を斬り殺そうとしました。

 

この時の孫権の怒りを見るや誰にも手の付けようがないほどだったそうですが、この間に割って入ったのが劉基。動転し慌てふためく臣下の中でただ一人落ち着いて立ち上がり、孫権を羽交い絞めにして強く制止。これによって、虞翻は一命をとりとめたのです。

 

 

ちなみにその後、呉領内では「孫権自身が酔っぱらって出した命令は誰も聞いてはならない」という珍妙な法令が出たとか何とか。

 

なお虞翻はその後も着々と孫権のヘイトを稼ぎまくった結果、最後には辺境へと左遷されてしまいました。なんともまあ……

 

 

 

 

孫権の寵愛

 

 

さてもう一つ、孫権の劉基に対する寵愛ぶりを示す話が残っています。

 

 

これまた酒宴の話なのですが……とある日、孫権が船上パーティーを開いていた時のこと。

 

突然の天候悪化により雷雨に見舞われ、酒宴は台無しになってしまいました。

 

 

孫権は貴人用の大きなパラソルを開いて雨を凌ぎましたが、この時孫権は、ただ一人劉基にだけ「一緒に入れ」と命じたとか。

 

 

当時の貴人は神にも等しい存在と言っても過言ではなく、そんな人物と相傘をするなど、言語道断の無礼に値する行為です。

 

そのため、他の参加者たちは傘に入れてもらえず濡れ鼠になったのでしょうが……ともあれ、劉基だけはそこまでの事がゆるされる程度には孫権に気に入られていたという事ですね。

続きを読む≫ 2017/12/11 13:26:11

 

 

生没年:?~建安20年(215)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州廬江郡松滋

 

 

陳武 猛将 人格者 息子のオマケ 名誉の戦死 何気に最強候補 合肥の戦い

 

 

陳武(チンブ)、字は子烈(シレツ)。この人の場合息子が飛び抜けて有能で、彼の伝の記述もそちらがメインになっています。というか、彼自身の記述は最短の伝と言われる孫乾の物より少ないことですっかりネタに……

 

当然、息子ばかりが強く彼は無能というわけでもなく、並外れた武勇と男伊達の人だったのですが……ここに関しては息子があまりに有能過ぎた……。

 

 

 

 

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精強無敵の武の要

 

 

 

陳武は十八歳のころ、袁術(エンジュツ)の配下の一人として寿春(ジュシュン)にいた孫策(ソンサク)に謁見に出かけていきました。

 

この頃の孫策は、あくまで袁術の武将の中でも功績は少なく知名度も微妙なのですが……おそらく何か惹かれるものがあったのでしょう。

 

 

ともあれ、こうして孫策を訪ねた陳武はこのまま彼の配下に収まり、以後は徹頭徹尾孫策、そして弟の孫権(ソンケン)に仕え続けることになります。

 

 

 

さて、こうして孫策の部下となった陳武は、彼に従って長江を渡り、揚州の長官である劉繇(リュウヨウ)を共に駆逐。各所で手柄を挙げ、別部司馬(ベツブシバ)として、非主力隊と言えども一軍を率いる長となります。

 

 

その後袁術が亡くなって孫策が独立すると、袁術の配下であった劉勲(リュウクン)を撃破。孫策は、それまで袁術の軍の一員であった過去と決別するに至りました。

 

 

こうして完全に独立を果たした孫策は、独自の精鋭部隊の結成を決意。劉君を駆逐した際に捕虜にした兵士から特に精強な兵士を選りすぐり、勇猛な指揮官の元で無敵の軍勢に育て上げようと画策したのです。

 

 

この時、指揮官としての白羽の矢が立ったのが陳武でした。

 

 

陳武は孫策の意を汲み、この最精鋭部隊を指揮して戦場を奔走。その軍は向かうところ敵なしの、まさに孫策軍の看板部隊のひとつとして無類の強さを発揮したとか。

 

 

孫策死後もその強さは変わりなく、孫権が跡を継ぐと五校尉(首都防衛の機動隊)の監督役を任されることとなり、平時は防衛軍の重役として警護を担当。

 

当然、戦時には無敵の軍を率いてしばしば戦功を挙げ、最終的には、偏将軍(ヘンショウグン:将軍では下位の位だが、そもそも当時の孫権自身位が低く、将軍職はかなり希少)にまで昇進することとなったのです。

 

 

 

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しかし、建安20年(215)に行われた曹操領の合肥(ガッピ)侵攻では、曹操軍の奇襲や猛攻を前に孫権軍は瓦解。孫権軍本陣の守備隊も壊滅し、圧倒的大敗北を喫してしまいました。

 

陳武もこの戦いに参戦。圧倒的劣勢の中奮戦し命懸けの大立ち回りを見せますが、もはや敗勢は覆しきれず戦死。孫権も彼の死を悲しみ、多忙である君主の身でありながら彼の葬儀には自ら出席したそうです。

 

 

 

人情派の猛将

 

 

陳武の人となりを、三国志を編纂した陳寿はこう記載しています。

 

他者への思いやりが厚く気前もよかった。そのため各所から、戦乱で故郷を追われた放浪者たちが彼を訪ねてきた。

 

孫呉の猛将と言えばどうにも気難しい武骨者のイメージがありますが……戦場で無双の働きをする陳武は、むしろ他者に対しての感受性を持ち合わせていた人物だったんですね。

 

 

そんな彼の人柄ゆえか、君主である孫権の寵愛も厚く、孫権自ら陳武の家を何度も訪ねるほどの仲だったようです。

 

 

 

なお『江表伝』においては、孫権は悲しむあまり陳武の妾に殉死を命令しており、三国志の研究をしていた孫盛という人物は、「他人を殉死させるような君主なら、後々滅びるのも納得ですな」とこの行動を批判したとか何とか。

 

 

まあともあれ、陳武はそれほどまでに愛された猛将だったのでしょう。

 

 

……それはそうと、三国志演義では黄色い肌に赤い瞳という異形の人物として書かれていますが、これの元ネタって何かあるんでしょうか……?

続きを読む≫ 2017/12/02 15:22:02

 

 

生没年:延熹6年(163)~黄武4年(225)

 

所属:呉

 

生まれ:青州北海郡

 

 

孫邵 丞相 青州 外様名士 立伝無し 何この人

 

 

孫邵(ソンショウ)、字は長緒(チョウショ)。呉の初代丞相、つまり現代日本に言い換えると、呉が成立してから一番最初の内閣総理大臣という人ですね。

 

偉大な人物なんだろうなというのは想像に容易ですが……記述の少なさがなあ……

 

 

何より、この人の逸話が一切逸話に残らない辺り、呉の中に潜む闇を感じない気がしなくもない……

 

 

 

 

 

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略歴

 

孫邵は大柄な男性で、身の丈は八尺もあったと伝わっています。

 

まず地元・青州を治めていた孔融(コウユウ)に仕え、「朝廷で使えるべき逸材だ」と絶賛されています。

 

 

その後どういうわけか、おなじ青州出身で揚州刺史(ヨウシュウシシ)に任命された劉繇(リュウヨウ)に引っ付いて、はるばる揚州に移住。

 

孔融との間に何があったのかは不明ですが……孔融に将来性を感じなかったのか、はたまた青州は黄巾軍の本拠の一つですし、荒れているのを嫌がって逃げただけか……

 

 

ともあれこうして南東の揚州の地に居ついた孫邵は、しばらく史書からフェードアウト。

 

 

 

劉繇を倒して江東の主となった孫策(ソンサク)……を飛ばし、その弟であり次の当主となった孫権(ソンケン)の元で再び史書に姿を見せます。

 

 

孫邵はこの時孫権のブレーンとして、曹操が掌中に収める朝廷への融和策を提案。孫権はこれをすぐに承諾して、朝廷に対する貢物と使者を遣わすことで、朝廷への忠義を示すように動きます。

 

 

その後もしばしば外交政策を献じ、廬江太守(ロコウタイシュ)、車騎将軍長史(シャキショウグンチョウシ:皇族や外戚が務める将軍職の属官)に任命され、その後再びフェードアウト。

 

 

その後孫権が驃騎将軍(ヒョウキショウグン:車騎将軍と同格程度の超大物将軍位)に就くと、孫策以来の重臣である張昭(チョウショウ)や鄭札(テイサツ)らと共に儀礼の制定に着手。

 

当時の儀礼はかなり重要視されていた点、そして記述がない鄭札はともかく、同じ仕事に就いた張昭孫権軍でも圧倒的な信望を得ていた点を考慮すると、この時点ではすでに呉の重臣の一人と言っても過言ではないのかもしれません。

 

 

 

そして黄武元年には、周囲から圧倒的な声望を集めていた張昭を押しのけ、見事に丞相の座に就任。

 

 

一時期は名士トップグループの一人である張温(チョウオン)、人物批判大好き人間である曁豔(キエン)らが孫邵を讒言し、孫邵本人も思うところがあったのか辞意を表明するという事件が発生しましたが、孫権は構わず彼を許し、また元のポストに落ち着いたという話もあります。

 

 

 

さて、そんな孫邵も黄武5年(225)に死去。

 

跡を継いだのは張温らと同じ「呉の四姓」と言われる名門中の名門・顧家の出である顧雍(コヨウ)でした。

 

 

 

 

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独自の伝が載らず、逸話ない理由とは?

 

 

 

さて、ご覧の通り、外様の名士(憶測)でありながらも、見事に呉の初代丞相に任命した孫邵。

 

言い方は悪いですが……仮に彼がどれだけの無能でどれほど利己的かつ最低な性格をしていたとしても、これほどの人物ならば何かしらの逸話が残るのが普通です。

 

 

にもかかわらず、事績は飛び飛びでほとんど何をしていたかもわからず、なんか外交政策とかいろいろやっていたらぽっと出で丞相のポストに立った孫邵。

 

しかも事績のほとんどは、裴松之の注釈によってようやく賄われている始末で、そもそも名前の表記も異なっている場合すらあります。

 

 

で、三国のうち一国の宰相ともあろう人物に伝が立てられていない理由については歴史家の中でもある程度見解があります。

 

 

 

例えば有名なのは、『志林』における劉声叔という人の憶測。

 

「孫邵は呉の四姓の一人・張温とは折り合いが悪かった。三国志で呉の記述を述べた呉書を編纂したのは、その張温のシンパだった韋昭(イショウ)である。おおよそ、嫌いだからあえて記述をしなかったのだろう」

 

 

ふむふむ……む?←

 

 

ちなみにこの憶測には『二十二史箚記』という書物でも同意を受けていますが……

 

 

 

正直、嫌いなら嘘記述散々たらし込んで、「こんなクソが上に立ってるんだから世も末だよな!」とかやっちゃった方が早いと思うんですよね。

 

 

ちなみに韋昭という人はこれまた硬派な人物で、嫌いな人間の負の記述を一部でっちあげるくらいはするでしょうが、歴史家として存在を完全無視するようなアホなことをする人間かと言われると……うーん……

 

 

 

とはいえ、周囲による異常な張昭(外様名士ながら土着派)推しといい、張温の讒言や、その張温を「無類の人」と称した顧雍が次の丞相に立ったことと言い……やはり孫呉は名士層の苛烈な闘争が他の国より明白で、かつ激しいのは否定できないかも……

 

続きを読む≫ 2017/11/09 13:18:09

 

 

生没年:建寧元年(168)~赤烏6年(243)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡呉県

 

 

人物伝・呉書

 

 

顧雍(コヨウ)、字は元歎(ゲンタン)。戦争メインに語られる三国志の世界では、バリバリの内政官やバックにいる名士層の影はどうしても薄くなってしまいます。

 

そのため、ハイパークラスの実力者であってももれなく埋もれてしまう事も……。

 

 

顧雍も、そんな後世の注目点のために埋もれてしまった一流文官、一流名士のひとりですね。

 

 

「呉の四姓」などと言われる超大型の名家の出ではありますが……そもそも孫家と名士層の水面下での争いが片鱗をのぞかせている呉国において、最終的に丞相(ジョウショウ:内閣総理大臣的な地位で、献帝時代の曹操や蜀の諸葛亮なんかもこの地位)に上るほどの信望と実力を示していたというのは、それだけで大人物であったことが伺えます。

 

 

今回は、そんな顧雍の伝を見ていきましょう。

 

 

 

 

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寡黙なる大器

 

 

顧雍の若い時の話は、史書にあまり詳しくは載っていません。

 

はじめに名が出たのは、黄巾の乱よりも前の話。高名な名士であった蔡邕(サイヨウ)という人物が、宦官たちから目をつけられていたため辺境の呉まで疎開していた時のこと。

 

顧雍は疎開してきた蔡邕から学問と琴を教わりました。

 

 

蔡邕は後々、董卓(トウタク)に召し出されて中央に戻っていきましたが、顧雍は数年、20歳くらいの時に比較的近くの合肥(ガッピ)の長として就任。

 

その後付近の任地を転々としましたが、いずれも恐るべき治績を挙げたとか何とか。この辺りは詳しくは書かれていませんが……おそらく治安や産業発展にかなり貢献したものだと思われます。

 

 

その後、いつの間にか孫権(ソンケン)に出仕。

 

孫権が会稽(カイケイ)太守の職に就くようになると、彼の代わりに郡丞(グンジョウ:太守の補佐官)として就任。会稽でなく別地で作業を行う孫権の代わりに会稽の民政を代行という形で執り行っていました。

 

 

顧雍は会稽太守代行としての役割を見事に遂行。反抗勢力は自ら武装して掃討し、数年後には民衆も役人も平穏を享受して彼に心服するようになったとか。

 

 

その数年後に中央に戻ると左司馬(サシバ:将軍の補佐官)に任命され、その後も順調に出世。

 

孫権が呉王となって呉国を打ち立てた際には、大理奉常(タリホウジョウ:九卿の役職の一つ。いわゆる法務省的な役職)と尚書令(ショウショレイ:上奏文の管理者)を兼任。さらには陽遂郷侯(ヨウスイキョウコウ)に封ぜられ、独自の領土を得るに至ったのです。

 

ちなみに領土を得たことに関して、顧雍は家族に伝えておらず、後に人からその話を聞いて仰天したとかなんとか。

 

 

黄武4年(225)、顧雍は故郷に居た母を当時の呉の都・武昌(ブショウ)に迎えました。この時、孫権が自ら出向いて祝辞を述べており、孫権の跡取りとして期待されていた孫登(ソントウ)や、その他の群臣たちも祝賀に訪たのです。

 

 

その後、太常(タイジョウ:当時はかなり重要視されていた儀礼や祭祀の責任者)に仕事を変更され、醴陵侯(レイリョウコウ)となり、爵位も上がりました。

 

 

さらに、当時呉の国の丞相をしていた孫邵(ソンショウ)が亡くなると、孫権自らの意思で顧雍は丞相に就任するに至ったのです。

 

 

 

 

家柄に頼らぬ姿勢のモラリスト

 

 

さて、こうして丞相の地位に上がった顧雍ですが、その業務姿勢は

 

・能力主義

 

・良策は身分問わず採用

 

といった感じのものでした。

 

任命する文官のポストはその職に向いているかどうかだけで判断し、個人感情や立場を考慮しませんでした。

 

また、たまに民衆からも意見を求めることがあり、良い意見はすかさず孫権に上奏。その意見が通れば孫権の発案であるという事にして、仮に通らなかった場合は決して人に知らせることがなかったとされます。名士層は基本的に君主であっても容赦がないものでしたが……顧雍はあくまで孫権を立てる姿勢をしっかりと保ち続けたわけですね。

 

 

一方で公の場では穏やかかつ謙虚な姿勢で臨みましたが、自身が正しいと思ったことは譲らないなど芯の通った姿勢を貫いたと言われています。

 

 

 

またある時、孫権から政務に関する不都合があるか尋ねられたことがあります。

 

この時、顧雍と共に孫権の前に居た張昭(チョウショウ)は「法律が複雑で刑罰が重いところがあります。簡略化していきましょう」との述べました。

 

 

この意見を聞いた孫権はしばらく黙っていましたが、次に顧雍に対して意見を求めると「張昭どのと同意見です」と話し、この意見を聞いた孫権はようやく刑罰を緩めたそうな。

 

こんな感じで、孫権は次第に顧雍には頭が上がらなくなっていった様子が伺えますね。

 

 

 

また、『江表伝』には孫権と顧雍の関係を表す面白い逸話があります。

 

孫権は常に役人を顧雍の元に送って様々な事柄に対して顧雍の意見を求めた。

 

顧雍と孫権の意見が合致した際には、顧雍はその場で討議して深く議題を煮詰め、使いの役人に酒と料理を用意した。

 

 

逆に意見が合わなければ顧雍は厳しい顔つきをして押し黙り、使者も早々に引き上げた。

 

 

孫権はこれに対し、「顧雍が喜んでいるのならば、それは時節にあった政策だったのだろう。もし何も言わなかった時は考えが不十分だ。もう一度よく考え直さなければ」と話した。

 

 

もうどっちが上かわかんねぇな……

 

 

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晩年まで法とモラルを忘れず

 

 

こうして顧雍の元で、しばらく呉の政治に安寧が訪れましたが、孫権が呂壱(リョイツ)らを中書(チュウショ:政治監査官)として重用し始めると、顧雍をはじめ土着の名士層の立場が一気に暗転。

 

呂壱は苛烈な性格の持ち主であり、些細な罪や私怨によって人々を讒言。降格、謹慎、投獄とやりたい放題して、多くの実力者を失脚させていきました。

 

地元名士だけでなく、そのライバルである外様の名士たち、果ては皇太子の孫登まで呂壱を非難するような動きを見せたあたり、おそらくこの事件の荒れっぷりは相当なものだったのでしょう。

 

 

また、理由は不明ですが顧雍もこの讒言の被害を受けており、孫権から叱責を受けるようになってしまいます。

 

 

しかし、呂壱は多くの孫権家臣を敵に回してしまったことにより、最後には失脚。そのまま罪人として投獄されたのです。

 

 

こうして名誉を回復した顧雍は、囚人となった呂壱の取り調べを担当。己の受けた仕打ちをあえて忘れ、穏やかな顔で紳士的に申し開きを聞いたとされています。

 

この時同席した懐叙(カイジョ)という人物は、あくまで呂壱が許せず罵倒したと言われていますが、顧雍はあくまで「官では定まった法律が法律がある。私刑のような真似はしてはならない」と懐叙の態度を咎めたとか。

 

 

 

その後もしばらくは丞相として孫権に仕えましたが、赤烏6年(243)、66歳で病没。

 

その臨終の間際も、医者から話を聞いた孫権が末子である顧済(コサイ)を官職に取り立てたのを見て、自らの死を予見。

 

「ご主君が臨終の間際の私に、子が重用される姿を見せてくださったのだな」としみじみ語ったとされます。

 

 

孫権は顧雍の葬式には私服で弔問し、親しみをアピールしたとか。

 

 

ちなみに顧雍の息子は3人いましたが、長男は早くに逝去。次男は不治の病によって満足に働けないため、末子にお鉢が回ったようです。

 

 

後に顧済が亡くなったときは、その息子がいなかったため、惜しんだ呉国によって次男の顧裕(コユウ)がその後を継ぎ、顧雍の家はなんとか断絶することなく続いたのです。

 

 

 

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人となりはあくまで穏やか

 

 

顧雍が蔡邕に教えを乞うていた時、蔡邕は逆に顧雍の才能に驚愕したという逸話があります。

 

この時蔡邕は、「顧雍は絶対大成する」と確信し、自身の諱と同じ読み方をする「雍」の名前を授け、また蔡邕を感嘆させたことから、字にも「歎」の字をつけられたとか何とか。

 

 

 

さて、当時の名士は、言ってしまえば群雄や土地の守り神のような存在にまで祭り上げられており、主家に対しても自分の家の特権や利益ばかりを主張するケースも多く見られました。

 

中には主君など何する顔で、自らの名声や家格に固執した結果、主君との仲を破綻させるような人物までいた始末。

 

 

顧雍の死後数年後に起こる大混乱、「二宮の変」にも、権益を守る土着名士とその権勢転覆を狙う、いわゆるその他の人物らの対立という背景も多分に含んでいるように思われます。

 

 

 

顧雍は、そんな名士の座にながら、この通りに公平無視、特に名士の強い呉では軽んじることもできたであろう主君・孫権をしっかり立てるなど、いわゆる「良識派」の人物像と言えるでしょう。

 

 

概念的というか感情論な儒教観念ではなく法律を重視し、政策も能力主義。よい意見は身分など気にせず取り上げるなど、度量のある人物です。

 

 

が、寡黙、謙虚で自己主張をあまりしない性格によって、後世ではあまりに目立たない人物像に……

 

 

また、孫権は彼の事を「基本だんまりしているが、たまに口を開けば的を射た発言をする」と絶賛しています。もっとも、同時に下戸であり、宴会の場では彼の周囲がかしこまってしまう事から「酒がまずくなる」と愚痴られたりもしていますが……

 

 

また、呂壱への紳士的態度から「愚か者に対して甘すぎる」という意見もありますが……そもそもすでに落ちぶれている者に私情で追い打ちをかける行為もなかなかにアレな気がします……。

 

 

もっとも、そんな彼も言うべき時はしっかりいう人物で、孫の顧譚(コタン)が酔っぱらって宴会で無礼講を働いたときは、「顧家の面子を損なう」として徹底的に搾り上げ、二時間立ちっぱなしにするなどという逸話もあったりします。

 

(ちなみに顧譚はその後、讒言によって失脚してしまいます……)

 

 

また、いくら主家を敬うといっても、やはり出は名士。家格もそれなりに考えて動かなければならない部分もあり、同じ四家のひとつの出である張温(チョウオン)を「並ぶ者はいない」とオーバーに評価するなど、名士同士のネットワークや協調をとろうとする逸話も見られます。

 

 

総じて孫権とは好相性な、「協調も諫言もできて、名士と孫権の間に立つ、バランスのよい人物」と言えるのではないでしょうか。

続きを読む≫ 2017/11/08 13:12:08

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:徐州瑯邪国

 

 

徐盛 呉 名将 忠臣 プライド ハリボテ建築 じょもり 無双出演

 

 

 

徐盛(ジョセイ)、字は文嚮(ブンキョウ)。無双シリーズにも待望のプレイアブル化を果たし、現在乗りに乗ってる武将ですね。

 

名前からしてガセの女性説が囁かれたり、私の友人の間では「じょもり」という滑稽な名称で呼ばれている彼ですが……実際には呉の戦争専門家として知勇兼備の働きを見せた名将です。

 

 

呉の武将の特徴として、血の気が多くプライドの高い一面は散見しますが、その実力の高さは史書からも伺えます。

 

 

 

 

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真・じょもり無双

 

 

徐盛は元々徐州に住んでいたものの、戦乱が広がったため揚州に疎開してきた人物の一人です。若いころから度胸があって義理堅いことで勇名だったと史書にはあります。

 

 

さて、そんな徐盛が史書に顔を出すのは、まだ若き当主・孫権(ソンケン)が亡くなった兄・孫策(ソンサク)に代わり、いよいよ天下に名を馳せようかという頃。

 

徐盛は別部司馬(別動隊長)の役割として兵500を与えられ、孫権の父の仇敵である黄祖(コウソ)の侵攻に備えて彼の領地との境界である柴桑(サイソウ)の長に就任しました。

 

はじめから武働きを期待され、敵と隣接する地域を任されるという事は、おそらくそれまでも孫権、あるいは孫策の軍で活躍していたのでしょうが……そのあたりはまるで分っていないのが残念です。

 

 

さて、徐盛が柴桑の守りに就いたある時、黄祖の息子である黄射(コウシャ)が数千人を率いて攻撃を仕掛けてきたのです。

 

この時、柴桑の守りは多く見積もって200人前後といったところ。とてもではありませんが、数千の兵を防ぎきるだけの力はありません。

 

しかしそこで諦めないのが、この徐盛という人物。彼は200人足らずの兵士をかき集めると、黄射の軍勢相手に一歩も退かず勇戦。敵に大打撃を与え、その後も付近に駐屯する敵軍に何度も攻撃を仕掛け、ついにはついには敵の壊滅という形で、この絶望的状況を乗り切ったのです。

 

これがトラウマになったのか、以後黄射が攻めてくることはなくなり、それを知った孫権にも喜ばれて徐盛は昇進。高級武官である校尉の職につき、蕪湖(ブコ)という、柴桑よりも大きな県の県令(長官)に任命されました。

 

その後は孫権軍を常時悩ませていた山越討伐でも功績を挙げ、その手柄で中郎将という役職に転進。兵士の監督、そして選別の役割を担うようになりました。

 

 

 

その後しばらく徐盛は歴史から姿を消しますが、今度は赤壁以来ともいえる曹操軍の大襲撃である濡須での決戦に姿を現します。

 

 

ある時曹操軍は大挙して横江(オウコウ)という場所に攻撃を仕掛けてきますが、徐盛はこれを撃退するために出陣。

 

この戦いで徐盛の軍は側に布陣し、岸で待ち受ける曹操軍と睨み合う構図になりましたが、不運にも突如吹き荒れた突風により、徐盛の乗る船は曹操軍の岸辺に座礁。

 

この突然の不幸に味方は皆震え上がりましたが、徐盛だけは手勢を率いて船を降り、あろうことか曹操の軍勢に突撃を開始。これにつられて味方も一斉に曹操軍に突貫し、驚く曹操軍に大打撃を与えて追い返すことに成功したのです。

 

 

 

しかしそんな徐盛も、建安20年(215)の合肥の戦いでは、圧倒的強さを見せる張遼(チョウリョウ)には勝てず敗退。自軍の旗を奪われて、徐盛自身も負傷。潘璋(ハンショウ)や賀斉(ガセイ)らに助けられてようやく旗を取り戻すという、痛い敗北を喫しています。無双の豪傑も鬼神には勝てなかったか……

 

 

 

知勇兼備の名将

 

 

合肥では不覚を取った徐盛ですが、これで彼が弱いという理由にするには足りません。

 

いつの間にか将軍職に就いていた徐盛は、合肥の敗走は偶然だと言わんばかりの強さを誇っていたのは間違いありません。

 

 

それを証明するかのように、夷陵の戦いに従軍しては、劉備軍の砦や陣を陥落させ、ことごとく手柄をかっさらって行きます。

 

 

 

そして魏の曹休が洞口まで攻め寄せてくると、徐盛は全琮(ゼンソウ)、呂範(リョハン)らと共に迎撃のため出陣。

 

この時にもまた、徐盛の軍勢にアクシデントが発生。

 

なんとまたもや突風が吹き荒れ、船を運転していた水夫がほとんど河に落ちて死んでしまったのです。それを好機と見た曹休は、すかさず徐盛らを上回る数の軍勢を差し向けて攻撃。

 

が、こんな天丼不運に負けないのが徐盛の強み。彼はすぐさま乱れた隊列を整えて迎撃。少な兵の上、船を満足に操れる者がほとんどいないというハンデをものともせず、曹休の軍勢を撃退。結局勝ちを得られなかった曹休はそのまま撤退し、長江の上での二度目の危機を脱したのです。

 

 

その後、黄武3年(224)には、今度は魏帝である曹丕(ソウヒ)自らが孫権領に侵攻。

 

当然、水上では孫権軍に利があるとはいえ敵は本気。圧倒的な数を前に、まともに戦ったらいずれ敗北するのは必至という状況だったのです。

 

 

そこで徐盛は、一策を献じます。その策とは、孫権軍の本拠地である建業から数百里に渡って巨大な防塁を作り、それにすだれをかけて立派な城壁に見せようというもの。さらには城壁の前には大量の船を浮かべ、大量の水軍がいるように見せかけて接近を阻止しようというもの。

 

言ってしまえば、見掛け倒しの立派な城壁を見掛け倒しの大軍で守り、敵を脅かそうというのが徐盛の編み出した策だったのです。

 

 

当然、こんな見掛け倒しでどうにかなるとも思えなかった諸将は反対しましたが、徐盛は譲らず、強固に策を主張し、反対を押し切って作業に取り掛かりました。

 

 

そしていよいよ曹丕が呉軍とぶつかろうという時に、この鉄壁の城を見て驚愕。さらには城壁に近づこうにも大量の船が浮かんでおり、どこに孫権軍が潜んでいるかわからずに手出しができないという有り様。

 

結局長雨のせいで長江の水かさも増したため、魏軍はあきらめて撤退していったのです。

 

 

諸将から計略面での評価も得て、いよいよ評判も絶頂に達しようかという徐盛でしたが、この黄武年間(229年まで)のうちに死去。息子が兵と爵位を受け継いだとされます。

 

 

 

徐盛 呉 名将 忠臣 プライド ハリボテ建築 じょもり 無双出演

 

 

 

 

剛毅で義に厚いがプライドが……

 

 

さて、徐盛の人格についてですが……一言で表すなら、義と胆力に優れた勇者で、プライドが高いといったところでしょうか。

 

 

黄初2年(221)に魏から「孫権を呉王に任命する」という使者が送られてきた時の話。

 

この時魏から来た使者は、孫権らの真意を確かめるため終始傲慢で不遜な態度をとっていたとあります。

 

 

その態度に呉の諸将は大激怒。怒りをあらわにする中、徐盛は一人、「我々の力不足のせいで、主君に屈辱的な盟約を結ばせてしまった」と号泣。

 

この様子を後で小耳にはさんだ使者は、呉が魏に臣従するような勢力でないことを悟ったのです。

 

 

そして一方のプライドの高さは、周泰の項にある通り。

 

どこの馬の骨かも知らない周泰に従えるものかと反発していた徐盛らは、孫権自ら開催した宴会に出席。その場で周泰の忠勤と名誉の傷をたたえるのを見て、それ以降は周泰に逆らわなかったという話ですね。

 

他にも陸遜との衝突や蒋欽とのいざこざを見る限り、この手の名将にありがちなプライドの高さがあだになるケースも見られますね。

 

 

彼に限らず呉の将には良くも悪くも剛毅な人物が多いですが……彼もまたその典型例のような人物だったのです。

続きを読む≫ 2017/10/23 20:16:23

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:徐州彭城郡

 

厳畯 善人 学者 虚弱体質 馬から落馬

 

厳畯(ゲンシュン)、字は曼才(マンサイ)。彼は絵に描いたような良識派で、若いころから「いい人」として評判でした。

 

もっとも、彼は武将でなく学者がメインで、一度も戦争に出なかったので記述も少なく影は薄いですが……それでも、古今珍しい善性を貫く政治家であったため、挙げていきましょう!

 

 

 

 

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その生涯

 

 

 

若いころから学問をバリバリ積んでいき、詩経、書経、三礼(儀礼、周礼、礼記)といった本を読み漁っており、これらに非常に精通した人物でした。
わかりやすく言うなら、詩や歴史、儒教の教義や思想なんかに精通した一流の教養人といったところでしょうか。
これに加えて「説文解字」という漢字辞典のようなものも好んでいた、それはもうバリバリのガリ勉ともいうべき人物でした。

 

さて、そんな彼ですが、当時の中国は大荒れの乱世。特に中央の洛陽を中心に中国大陸中央から北部は荒廃した土地が広がっており、多くの名士がこれを嫌って土地を離れ、南の肥沃な地に疎開していきました。
厳畯もそうやって故郷を離れた人の一人で、後に孫権軍の中核を担う諸葛瑾(ショカツキン)や歩隲(ホシツ)といった面々と仲良くし、彼らと並ぶ名声を得ていました。

 

後に孫権の腹心である張昭(チョウショウ)に推挙される形で孫権の下に赴き、騎都尉(近衛兵長)・従事中郎(幕僚の官職の一つ)という、中央の栄誉職に就任。いきなり大抜擢ですね。

 

さらには当時の呉の大黒柱・魯粛(ロシュク)が死亡すると、孫権に「彼の後を継いで、1万の軍を率いて要衝を守ってほしい」とお願いされます。
この1万、演義とか見てるとなーんかショボい気もしますが……例えば赤壁の戦いの時の孫権軍は5万に満たなかったといわれています。
こう考えるとかなりの大軍ですね。

 

さて、そんなとんでもない栄誉を受けた厳畯ですが……彼はなんとこの申し出を辞退します。
理由は、「軍事を知らない学者がそんな大役を得ても、役目を全うできるとは思えません!」との事。
しかもこの時、気持ちが昂るあまり涙まで流したとか何とか。
さすがにそこまでされてしまうと、孫権も無理強いはできず、辞退を認めてこの話をなかったことにしました。

 

 

さて、厳畯はこの性格から友人も結構いて、中にはちょっと変わり者もいました。
その一人が、劉穎(リュウエイ)という人物。彼は引きこもり体質な人物で、部屋にこもって学問漬けという毎日を送っていたそうです。
が、ある時、彼は孫権に「うちに来ないか」とスカウトされます。

 

当時は偉い人の勧誘を断るのはたいへん無礼(というか犯罪級)であるとされ、場合によっては処刑されるようなこともある時代ですが・・・この劉穎はあろうことか「病気だから無理」とこれを断ってしまいます。

 

しかし劉穎の弟が死去すると、彼はその葬式に参加。このことが原因で仮病がバレてしまい、孫権の怒りを買ってしまいます。

 

一方、これを聞いた厳畯。慌てて劉穎の元を訪れて彼を決死の説得。そのまま孫権の元へと赴き、劉穎にこのことを謝罪させます。

 

この一連の事件のとばっちりにより厳畯は一時期免職処分を受けましたが、劉穎はなんとか無罪放免。

 

しばらく後に厳畯も復職して事なきを得たとか何とか。史書ではその後に死亡とあり、後の事はわかっていません。

 

 

 

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絵に描いたようなハイパー善人/h6>

 

 

経歴からもわかる通り、とんでもない善人ですね。

 

史書においても、
「実直、一途で思いやりが深い。見どころのある人物には真心をもって指導や忠告を行い、その人の進歩に力を尽くした」
「稼ぎやボーナスはだいたい全部親族や友人に分け与えたせいで、身分に似合わず貧乏だった」
など、絵に描いたような聖人ぶりが手に取るようにわかります。

 

その姿勢は、蜀に使者としてあいさつに行った時も諸葛亮に大きく評価されており、これも彼がひとかどの人物であったことの証明になりますね。

 

 

ちなみに孫権が、彼を馬に乗れるかどうか試してみたという逸話がありますが、
その時厳畯は、馬に乗ったものの、鞍から転がり落ちたとか。

 

軍職を辞退した逸話と言い、まさかわざと落ちたんじゃ……?

続きを読む≫ 2017/05/05 01:40:05

 

 

生没年:?~ 建安19年(215)

 

所属:呉

 

生まれ:荊州零陵郡泉陵県

 

黄蓋 呉 古参 孫家三代 赤壁の戦い 立役者 トイレで死にかけた人

 

黄蓋(コウガイ)、字は公覆(コウフク)。この人は、割と有名どころですよね。なんといっても、あの赤壁の戦いで決定打をたたき出した立役者!

 

ゲームでもしばしば見かけますし、とあるゲームではプロレスラーなおじいちゃんだったり……

 

 

さて、そんな黄蓋なんですが、史実でも、割とゲーム顔負けの濃い逸話を持っています。

 

まあ、それに関しては後で語ることにして……まずはその一生から解説していきましょう。

 

 

 

 

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貧乏人、名領主に

 

 

黄蓋は、家柄こそ悪くはないのですが、幼いころから父が亡くなるなど不幸が重なり、かなり貧乏な生活をしていました。

 

しかし、そんな不幸にも負けず、暇な時間を見つけては勉学に励み、ついには役人となって出世を遂げていったのです。

 

 

 

そして、とある地方の長官を任された時の事。

 

黄蓋は部下の文官を二人呼び寄せて、こういいました。

 

「この地方は賊が多く、軍事の仕事を手放すことができない。そもそも、私は武官であって、文官としての仕事はからっきしだ。そこで、君たちに文官としての仕事を一任したい。ただし、不正があった場合は体罰程度では済まないから、心して仕事に励むように」

 

 

この言葉を聞いた文官は震えあがり、はじめのうちは真面目に仕事をしていました。

 

 

しかし、時間が経つにつれ恐怖心は無くなっていき、次第にこの二人は仕事で不正を働くようになりました。

 

そして、とうとう黄蓋から見てもそれが明らかになったとき……ついに黄蓋は動きます。

 

 

まず、現状を徹底調査して不正の証拠を入手。

 

そして、その後宴会を開いて文官二人を誘い出し、その場で問いただしたのです。

 

文官二人は、土下座して謝罪しましたが、当の黄蓋は……

 

 

「体罰程度では済まないって、言ったよね?(#^ω^)」

 

 

結局二人は処刑され、役所は震え上がったとか。

 

 

とはいえ、厳しいだけでは、こんな歴史に名を馳せることは不可能です。

 

その後9つの任地を転勤して回りましたが、どこに行っても「強きを挫き弱きを守る」の姿勢を貫いて、最終的には山賊すらも黄蓋に肩入れを始めるほどでした。

 

 

そして、有名な赤壁の戦いでは、曹操の船団をしっかりと抑え込んだ後、周瑜に火攻めを進言。勝利に多大に貢献します。

 

 

さらには圧倒的に不利な状況下で異民族たちと相対することになってしまったときは、まともに戦っても勝ち目はないとみると、いきなり守っていた城の門を開け放ち、侵入してくる賊をみすみす見過ごします。

 

そして、彼らが半数ほど城に入り、すっかり油断しきったころに、すかさず奇襲攻撃を仕掛け、数百人を斬り殺しました。

 

 

この戦いにより、領内を荒らしていた異民族の集団は散り散りになり、なし崩し的に解散。

 

黄蓋はこの戦いの首謀者をすかさず処刑しましたが、それ以外の者は何の罪にも問わず見逃し他のです。

 

さらには周辺の反乱も短期間でまとめて鎮圧。結局、反乱勢力は黄蓋が属する孫権軍に忠誠を誓ったのです。

 

 

これらの功績により、最後は将軍職まで上り詰めた黄蓋でしたが、病気により在官中に死亡。

 

その人気は死後も絶えることが無く、呉の国では季節ごとにお祭りをし、その催し物の中には黄蓋の肖像画もあったといわれています。

 

 

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黄公覆、便所に死す?

 

 

いや、一応は一命をとりとめた話ですが……

 

 

さて、ここからが濃い逸話の時間でございます。お待たせしました。

 

 

この黄蓋、兵卒をよくかわいがって、威厳もたっぷりだったとされていますが……どういうわけか兵卒と間違われる逸話がいくらかあります。

 

 

その中でも有名なのが、赤壁の戦いでの出来事。

 

以後、ドラマ性を少しでも出すため話を少し誇張しますが、起きた出来事は事実です。

 

 

 

黄蓋の火攻めによって曹操軍を圧倒し、呉軍は総攻撃を開始。黄蓋もそのまま最前線で自ら武器を振るって戦っていましたが……運悪く敵の弓兵による射撃攻撃を受けて負傷。そのまま川に落ちてしまったのです。

 

しかもこの時、季節は冬。極寒の中で重傷を負い、さらに凍えるように寒い水中に投げ出されたのですから、さしもの黄蓋も無事ではありません。

 

 

薄れゆく意識の中、「俺ももうダメか」とぼんやり考えていたところ、たまたま通りかかった味方により、奇跡的に救助されたのです。

 

 

なんとか命拾いした黄蓋。しかし、彼の不幸はここからが本番でした。

 

 

なんと、助けてくれた兵士は、それを黄蓋であるとも知らず、とりあえず便所に放置。

 

便 所 に 放 置

 

 

再び薄れていく意識。そして飛び交うハエ、さらには漂う便所の臭い。

 

そうこうしている間に意識も朦朧としてきて、「ああ、結局俺はダメなのか」とあきらめかけていました。

 

しかし、それでも、ダメもとで必死に声を張り、長年ともに戦ってきた盟友の名を呼んでみたのです。

 

 

「おーい、韓当(カントウ)!」

 

 

偶然にも近くに居合わせていた韓当。これはいったい何の奇跡か。この盟友のかすれるような声を聞き、韓当は泣きながら便所に突入。

 

 

かくして黄蓋は盟友によって救い出され、今度こそ一命をとりとめたのでした。

 

 

勘違いされることに定評があるとはいえ、この仕打ちはあんまりですね。便所に放置されたときの黄蓋の気持ちは、いったいどんなものだったのか……

続きを読む≫ 2017/04/14 22:45:14
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