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武帝・文帝・明帝紀

 

曹操 曹丕 曹叡

 

 

三少帝紀第四

 

曹芳 曹髦 曹奐

 

 

皇后伝第五

 

卞氏 甄氏 郭氏(文帝) 毛氏 郭氏(明帝)

 

 

 

 

任城陳蕭王伝第十九

 

曹彰 曹植 曹熊

 

 

 

武文世王公伝第二十

 

曹昂 曹鑠 曹沖 曹拠 曹宇 曹林 曹袞 曹玹 曹峻 曹矩 曹幹 曹上 曹彪 曹勤 曹乗 曹整 曹京 曹均 曹棘 曹徽 曹茂 曹協 曹蕤 曹鑒 曹霖 曹礼 曹邕 曹貢 曹儼

 

 

 

 

諸夏侯曹伝第九

 

夏侯惇(付、韓浩 史渙) 夏侯淵(別資、夏侯覇) 曹仁(付、曹純) 曹洪 曹休(付、曹肇) 曹真(付、曹爽 曹羲 曹訓 何晏 鄧颺 丁謐 畢軌 李勝 桓範) 夏侯尚(付、夏侯玄

 

 

 

荀彧荀攸賈詡伝第十

 

荀彧(付、荀惲 荀甝 荀霬) 荀攸 賈詡

 

 

 

袁張涼国田王邴管伝第十一

 

袁渙 張範(付、張承) 涼茂 国淵 田疇 王脩 邴原 管寧(付、王烈 張臶 胡昭)

 

 

 

 

崔毛徐何邢飽司馬伝第十二

 

崔琰 毛玠 何夔 邢顒 飽勛 司馬芝(付、司馬岐)

 

 

 

鍾繇華歆王朗伝第十三

 

鍾繇(付、鍾毓) 華歆 王朗

 

 

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生没年:?~嘉平元年

 

所属:魏

 

生まれ: 楚国平阿県

 

 

 

蒋済(ショウサイ/ショウセイ)、字は子通(シツウ)。現代メディアではあまり有能なイメージを持たれない魏呉の参謀陣ですが……蒋済はそんな人物のうちのひとりにして、曹操から続く魏、およびその前身の隆盛を見続けてきた人物です。

 

その性格は硬骨、下手をすると偏狭にも見えるかもといった感じで人望はありませんでしたが……逆に芯の強さが評価されることもあったようです。

 

 

そして一番の面白エピソードが……酒。この人物を知る人は、このネタはある意味鉄板なのかもしれません。

 

今回は、そんな蒋済の伝を追っていこうと思います。

 

 

 

 

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硬骨の策士

 

 

 

蒋済が曹操に出仕したのは、曹操が揚州北部で人材を発掘していた時だったと言われています。曹操軍に仕官した蒋済は郡の役人から州の重役にまで出世。

 

建安13年(208)では赤壁の戦いの直後、合肥(ガッピ)に進軍してきた孫権(ソンケン)軍と対峙します。

 

この時、味方は少数の非主力部隊。さらには将軍の一人を後方にやって急遽兵力を増強させようとしましたが、増強部隊は疫病の流行で頼りにならない数にまで激減してしまうという危地に立たされますが……蒋済は一計を案じます。

 

味方に対し、彼は「味方の本隊が増援として迫っている」と嘘の情報をながし、後方で部隊編成を行っている将軍に対して本隊を迎えに行くよう指示する旨を伝令に伝えに行かせたのです。

 

 

こうして城の外へと報告に行った伝令部隊は、大部分が孫権軍に捕らえられてしまったのですが……味方本隊の援軍という偽情報はこれによって孫権軍にも伝えられ、結局孫権は陣を焼き払って撤退。蒋済らは窮地を脱することができたのです。

 

 

 

しかし、その後も孫権軍はたびたび合肥に侵攻。これではかなわぬと思った曹操は、「袁紹(エンショウ)との戦いで上手く行ったし、いっそ民を強制移住させてしまうか」と蒋済に相談します。しかし蒋済の意見は反対。

 

「非常事態であると明らかだったあの時と違い、我が軍はすでに大きく、天下の信望を得ています。それを損なう動きは危険でしょう」

 

曹操は蒋済の意見を聞き入れずに強制移民を行いましたが、これに反発する動きが激化。

 

豪族の反乱と現地民の孫権領への逃亡を招いてしまい、曹操は「蒋済の言うとおりだったか」と反省。そのまま蒋済を郡の太守に任命し、再び州の属官経て、今度は曹操自身のお付きになったのです。

 

 

こうして蒋済が中央勤務になってしばらくの、建安24年(219)。今度は、荊州に陣取っていた関羽(カンウ)が北上し、曹操軍を攻撃。兵力不利な味方は窮地に陥って敵に首都の近くにまで迫られ、編成した援軍も天災のせいで壊滅という憂き目に遭ってしまうのでした。

 

曹操はこれではまずいと本拠地を北へと移そうと画策しましたが……ここでも、蒋済は他の群臣らと共に曹操の判断に反対意見を述べました。

 

 

「主力部隊は天災のせいで敗れたのであって、敵軍に負けたわけではありません。それなのに負けを認めるような行為をするのは、天下の信望を損なう動きです。それよりも、関羽、ひいてはその後ろの言いる劉備(リュウビ)に不満を持つ孫権を動かしましょう。それで勝てます」

 

 

曹操はこの言葉通りに孫権へと交渉を持ち掛けると、元々そのつもりだった孫権は即座に行動を開始。関羽は結局攻めるどころではなくなり、撤退するもののそのまま追い詰められて敗死し、曹操らはなんとか危険を潜り抜けることができたのでした。

 

 

 

 

 

優良なアドバイザー

 

 

 

曹操が亡くなって跡を継いだ曹丕(ソウヒ)が魏帝国を建立すると、蒋済は東中郎将(トウチュウロウショウ:左中郎将とも。近衛軍一角の司令官)に昇進。しかし当人は中央の政界にとどまることを希望し、曹丕から「天下が平穏になってからでもよかろう」と逆に諭されてしまいます。

 

しかし、その後蒋済は政治について意見を述べた『万機論』を献上。それを気に入られて散騎常侍(サンキジョウジ:皇帝の側近。主な仕事は皇帝の意見の伝達)としてすぐに政界に戻りますが。

 

 

とはいえ、長らく軍事的な献策もしてきた能臣が戦争に引っ張られないはずもありません。黄初3年(222)、呉への大親征が行われると、蒋済も一方の大将である曹仁(ソウジン)に従軍。聞き入れられなかったものの敵軍の計略を見抜いた進言を行い、後に曹仁が病死するとその軍勢を預けられるようになります。

 

また、曹丕に対しても無茶な行軍を諌止しようとしたり、邪魔になるから捨てるつもりで預けられた船をあえて保管して水路を作り活用するなどして、すっかり曹丕に信頼されるようになります。

 

 

曹丕が亡くなって曹叡(ソウエイ)が帝に即位すると、再び大規模攻勢に従軍。聞き入れられずに大敗してしまうものの総大将の曹休(ソウキュウ)に的確な進言を行っており、また蒋済が早急に救援部隊を手配したのもあって全滅を回避。中護軍(チュウゴグン:護軍は兵の監督役)として、いよいよ作戦指揮ができる立場に昇進します。

 

さらには、当時大権を握っていた劉放(リュウホウ)、孫資(ソンシ)らを指して「彼らに専横のきらいがあり、人々は2人に媚びへつらうようになっていきます。こうなると、彼らの思惑とは無関係に政治を腐敗させます」と諫言。

 

他にも曹叡の宮殿増設や女色に溺れたことで、独身者が増えて作物も少なくなった際にも、蒋済は厳しくこの態度を諫め、「蒋済がいなければこんな言葉は聞けないだろう」とありがたがられています。

 

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次代の到来と蒋済の背信

 

 

これらは『戦略』、そして『漢晋春秋』の話ですが……蒋済の功績も書かれているので記載。

 

 

遥か北東の遼東(リョウトウ)が怪しい動きを見せ始めたのは、だいたい曹叡が帝になってからしばらくしてからの事。この地では、公孫淵(コウソンエン)がクーデターで兄から政権を奪い取り、それから徐々に不気味な動きを見せるようになっていたのです。

 

曹叡はこれを警戒して、ちょくちょく軍事行動を進めていましたが失敗。蒋済は、これについても失敗を予見して反対していたそうな。

 

 

公孫淵はその後も孫権と結んだり再び魏に帰順したりと怪しい動きを見せていましたが、ついに独立して魏と敵対。司馬懿によって追い詰められると、孫権に助けを求めたのです。

 

これを心配した曹叡は蒋済に対し「孫権の動向は大丈夫だろうか」と質問すると、蒋済は一応の注意を促しつつも、「孫権は事の機微を見極めるのに長けており、仮に息子でも見捨てるでしょう。赤の他人ならば余計手を貸す義理はありません」と返答。結果、孫権からの援軍は無く、公孫淵はそのまま滅んだのでした。

 

 

 

さて、そんな曹叡も若くして崩御。まだまだ幼い曹芳(ソウホウ)が次の帝に即位しますが……幼年の帝では政治など動かせるはずもなく、曹叡の遺言通りに司馬懿と、そして曹爽(ソウソウ)の2人が中心となって魏を支えることになりました。

 

蒋済も太尉(タイイ:国防長官)にまで出世しますが……その数年後に国内の雰囲気が怪しくなっていきます。

 

 

司馬懿と曹爽ははじめは二人三脚でうまく国を回していましたが……やがて曹爽は司馬懿を排して政権をほとんど独占。その側近となった人物らが好き勝手にふるまい始めたのです。

 

始めは魏の祭祀における議論などに参加してこれらに深く携わらなかった蒋済でしたが、国政に思うところがあったのか、司馬懿が曹爽にクーデターを起こすと、蒋済は司馬懿に味方。

 

やがて曹爽らを一掃すると、蒋済は司馬懿によって領地を加増。この時蒋済は頑なに加増を拒否し続けましたが、結局は無理矢理領地を増やされたとか何とか。

 

 

その後、蒋済は年を跨がずして死去。景侯と称されましたが……曲がり也にも魏の政権に楯突いた形になった蒋済の最期は、いったいどんな心中だったのでしょう。

 

 

『世語』によれば、蒋済は司馬懿の言葉を信じ、「ただ免職にするだけだ」として曹爽に降伏を勧告。

 

後に降った曹爽が結局殺されてしまうのを見届けると、結果的に背信に近い事をした事実を気に病んで発病、死去したとか。

 

 

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人物像

 

 

 

蒋済の記述を見ると、やはり一切の物怖じをせず、言いにくいこともスッパリと言い切ってしまっている部分があります。しかし、それらの意見はすべて正論。結果として、賢君であった曹丕曹叡からは逆に喜ばれています。

 

陳寿も彼1人についての評は残していませんが、そうそうたる面子のひとりとして蒋済を上げ、まとめて「天下の奇策士である」と高く評価していますね。

 

 

傑出した知略の持ち主でありながら剛毅な人物でもあり、それが人によってはウケた……というのが蒋済の人物像なのですが、やはりそういった性格は、味方と同時に敵も作りやすいもの。

 

知者である桓範(カンハン)の渾身の書物をペラペラ読みしかせずに「貧乏人の分際で名族に楯突くのか!」と散々罵倒されて一触即発になったという逸話もある通り、意外と揉め事の多い人物だったのかもしれません。

 

 

極めつけは、蒋済自身、かなりの酒好きで、非常に酒癖が悪かったというもの。この酒が原因で、時苗(ジビョウ)なる人物と揉め事を起こしています。

 

 

時苗が揚州の政庁がある寿春(ジュシュン)の県令(ケンレイ:県のトップ。つまり県庁所在地の市長のような存在)になった時、蒋済は彼からの面会を受けています。

 

時苗は名のある名士のところの出。対して蒋済は、大したことのない家柄の出身。当時は家柄や血統は絶対のものであり、この場合、蒋済はどれほど忙しくても、時苗を接待するのが常識でした。

 

しかし、蒋済は酒を浴びるように飲んで酔いつぶれており、とても面会できる様子でもなし。そのため、なんと時苗をそのまま門前払いするという世評を敵に回しかねないことをしでかしたのです。

 

 

当然、時苗はそんな蒋済に対してマジギレ。おぼっちゃま権力で処断するわけにもいかず、木彫りの人形に「酒徒(酒乱)蒋済」と書き記して、朝晩それを公然と矢で射抜くという嫌がらせで対抗。

 

品行方正な名士が見せた珍しい小物エピソードでしたが、その原因を作った蒋済は完全に放置。別段気に病むでも起こるでもなく、終始ケロッとしていました。

 

以後、蒋済の方が上の位に就いたときにまた2人は出会いますが……根に持ってネチネチ怒りをぶつける時苗とそれをスルーしてしまう蒋済の関係は以前のままだったとか。

 

 

……まあこんな感じの欠点や良くも悪くもブレない人物ではありますが、そういった一面も物事の本質や最良手を見抜く上で重要な資質になっていたのでしょう。

 

何にせよ、ややフリーダムで自重しないきらいはありますが……こういう聡明で自分なりの正義をキッパリと主張できる人物は、やはり優れた組織には必要なもの。蒋済の働きは、魏の隆盛に大いに貢献していたのです。

 

 

続きを読む≫ 2019/02/26 21:47:26

 

 

生没年:初平3年(192)~太和6年(232)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

 

 

曹植(ソウショク/ソウチ)、字は子建(シケン)。文才に優れた自由人で、はるか先で杜甫が出てくるまでは中国史上最大の詩人と称されたほどの人物ですね。

 

おおよそ後付けの部分も多いのでしょうが……その性格はフリーダム。いかにも文人らしさにあふれる人物でしたが、同時に功名心も高く、意外と武功を立てたがっていた可能性すらあります(配下に流されただけかもしれんけど)。

 

 

詩に関する部分は今回は置いとくとして……曹植の一生涯における主な動きを見ていきましょう。

 

 

 

 

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祭り上げられた天才貴公子

 

 

 

曹植は幼いころからいわゆる神童と言える人物だったようで、十数歳の時には文章に精通し、数万字ともいえる詩や論語などの文学をマスター。父・曹操(ソウソウ)すらも「部下にでも書かせたか?」と疑ってしまうほどの見事な文章を作成したとされています。

 

また、その時に他の兄弟たちと一緒に詩を作って疑いを晴らしたのですが……いの一番に完成させておきながら詩の内容は見事な物だったそうな。

 

そんな詩才もあって曹操からは気に入られ、建安16年(211)には平原(ヘイゲン)侯に取り立てられ、3年後には臨淄(リンシ)に移封されるなど、宗家の男子として相応の扱いを受けるに至ったのです。

 

 

しかし曹植は、同時に武将としての自覚があったようで、兄たちと同じように若くして烏丸征伐や潼関の戦いといった大規模な戦いにも従軍した記録があり、実際にはなかなかに武断派の人物だったようですね。

 

曹操もそれに気づいたのか、自身が孫権(ソンケン)征伐のため曹植に留守を任せる時、「お前は今23歳、わしが出世の道を開いたのも23歳だ。頑張らねばな」と激励の声をかけたのでした。

 

 

……が、こうして曹操からの寵愛が深くなり続ける中、とうとうひとつの問題が発生します。兄・曹丕(ソウヒ)との間に起きた、曹操の後継者問題です。

 

曹植本人はこの件に関してどこ吹く風といった様子だったのですが、曹植の部下として動いている取り巻きたちはこれを「自身の出世がかかった千載一遇の好機」と捉え、ついに曹丕の派閥に属する文官たちを讒言、ひどいものは免職や処刑にまで追い込みました。

 

 

曹操曹操で、曹植の類まれな才覚や自身ともどこか似た気風から「曹植を後継者にした方がよいか」とかなり迷ったようですが……この一連の案件は兄の曹丕がきっちりと自身を律して人に気に入られるよう飾り立てた行動を続けたこと、対して曹植は相変わらずフリーダムに生き続けたことから次第に曹丕側が逆転。

 

建安22年(217)には正式に曹丕が後継者となる事が決まり、曹植は祭り上げられた立場から下りていくことになったのでした。

 

 

 

 

元ライバルへの仕打ち

 

 

 

さて、こうして部下たちが奮起して大問題になった後継者問題を降りることになった曹植ですが……かつて後継者争いで主流派を散々苦しめた者に対する仕打ちは、当然ながら冷たいものだったようです。

 

まず曹植の派閥で側近を務めた楊脩(ヨウシュウ)が、曹操に難癖に近い理由で処刑され、一気に派閥の勢力が削減。さらに曹操の死後に曹丕が跡を継ぐと、さらに後継者争いの主力のひとりであった丁儀(テイギ)が、一族郎党と共に処刑されてしまいます。

 

 

さらに曹丕が皇帝に即位した翌年の黄初2年(221)には讒言により安郷(アンキョウ)侯、さらにはその年のうちに鄄城(ケンジョウ)侯に移封と、各国を転々と回されて派閥が作れないように牽制されるようになります。

 

黄初3年(223)には鄄城侯から鄄城王に格上げされるも、翌年にはさらに雍丘(ヨウキュウ)王に再び移封し、さらに浚儀(リョウギ)王、再び雍丘王、東阿王、陳王と、死ぬ時まであちこちを転々とするばかり。もはや派閥も政治権力も手にできないほどのものになってしまったのです。

 

 

それでも曹植は自身の力を振るいたいと考え、「男が世に生まれた以上は父と主に仕え、家と国家を繁栄させることを貴ぶものです」と自身の政治的な登用を訴えかけますが、ついにその願いは叶えられることはありませんでした。

 

一応曹丕からは暖かい言葉を送られたりはしたようですが……やはり帝の道を過去一度は阻みかけた身。漢王朝が滅んだ理由も身内への甘さから付け込まれた節があり、それも手伝って最期まで曹植は冷遇され続けることになったのです。

 

 

その仕打ちは曹丕の死後も変わらず、曹丕の子である曹叡(ソウエイ)に親族の交流再開の願書や政治的な意見を文面で上奏したりしたのですが、いずれも曹叡から親密な返答をされはしてもOKサインは出ることはありませんでした。

 

曹叡自身は最大限曹植の意見を受け入れようとした片鱗は感じさせますが……やはり過去と時代の問題か、いずれも曹植の期待したほどのものにはならなかったようですね。

 

 

当然、力を持ちすぎないよう厳しく属官や部下の数を規制され、力を持ちえないレベルの人物を200人も取り巻きに持てればいい方という有り様だったとか。

 

そんな曹植は史書に曰く「常にあたふたして楽しい事もなく」、41歳で死去。遺言により、葬式は簡素に執り行われました。当人が生前「東阿の街で死にたい」と嘆息して述べていたのを考慮して、墓陵は東阿に建造されたそうな。

 

 

 

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所詮は後継者争いの敗北者じゃけえ

 

 

 

とまあ、以上の超冷遇をもって、「曹丕は外道」という結論に位置づけられる論証として取りざたされる曹植ですが……まあ、過去にやったことがやった事なので、致し方なしといったところ。実際、そういう人物を嫌々だろうが御輿として祭り上げる野心家は結構いるのです。

 

ただ、当人が果たして本当に曹操の後継者という立場を望んだかというと、何だかんだYESとは考えづらいところがあります。

 

 

というのも、曲がりなりにも皇太子の立場としてあまりにフリーダム。

 

儀礼なんぞ知った事かとゴテゴテの馬車を嫌い、曹操生前にも帝専用の通路を通って確執が残るレベルで怒られたり、樊城の戦いでは将軍として出撃命令を受けそうになった時も酔いつぶれて動けなかったり……なんというか、形式にまったく当てはまらないタイプの人物といった印象が強いです。

 

 

一方で「男の生きざま」には強い憧れがあったようで、当人は文才を評価されたことをあまり喜ばなかった様子。例えば先述の「自分を官吏として登用してほしい」という手紙もそうですし、『典略』では楊脩に送った手紙の一環で「詩なんぞ大して役に立たないし、国や民のために力を振るいたい」という旨の事を書いたりもしています。

 

好きな事と得意分野が完全に別物で四苦八苦する人物は古今東西後を絶ちませんが、曹植もそんな類の人物だったのかもしれませんね。

 

 

ただし、先述の通りそんな願いは最後までかなわずじまい。功名心を知っている側近によって「後継者の弟」ではなく後継者候補そのもののように扱われ、そのまま後継者争いに敗北。

 

その後は「世の中を騒がせたはた迷惑な敗北者」として、最期までお飾りの皇族枠として各地を転々とする羽目になったのです。

 

 

もし曹植がその気になってキッチリと宮中の心をまとめたのなら、また違った結末が見れたでしょうが……いずれにしても曹植の望む形の未来は築けそうにないですね。

 

がんじがらめの権力者もやはり相応の苦しみがある。そんなことを思い出させる生き様でした。

 

 

続きを読む≫ 2019/01/19 19:10:19

 

 

生没年:?~嘉平4年(252)

 

所属:呉→魏

 

生まれ:?

 

 

 

 

呉の功臣である韓当(カントウ)には、韓綜(カンソウ)という息子がいます。

 

今回記述を追っていくのはこの人。正直ほとんどどうでもいいようなモブですが、彼も北端から呉に身を寄せた父親と同レベルに数奇な運命をたどった人物であり、何より名将の父とは似つかないガチなヒャッハー系で、なかなか考察の対象としても興味深いのです。

 

 

 

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不良息子のヤバい決意

 

 

 

韓綜は上記の通り、呉の古参の名将である韓当の息子。忠義、武名共に非常に優れている父を持つ韓綜は、やはり孫呉を代表する名将の後継ぎとして非常に目をかけられていたようです。

 

その証拠として、孫権(ソンケン)は彼の数々の不良行為を黙認。韓綜は物欲も色欲も隠そうとしないヒャッハーな不良として好き勝手に過ごしていましたが、孫権のとりなしで罪を問われることはありませんでした。

 

 

しかし黄武5年(226)、強力な後ろ盾である父の韓当が死去。これによって韓綜は「名将の息子」という肩書を半ば喪失した形になり、今まで通りの好き勝手な生活を送りづらくなってきました。

 

言ってしまえば、親の七光りで威張り散らしているダメな二世の典型的な例だったのでしょう。父親が健在なうちはコネで好き勝手出来てましたが、父の死と共にそれができなくなってしまったというわけですね。

 

 

こうしてダメ息子らしく窮状に置かれた韓綜でしたが……実のところ、彼は自分の置かれた状況を理解できないほどの無能ではありませんでした。そしてこの眼力が、翌年・黄武6年(227)には韓綜をとんでもない行動に駆り立てます。

 

なんと韓綜は、魏の将軍である曹休(ソウキュウ)の呉への侵攻に際して、魏軍に降伏。亡き父の棺を掲げて、一族郎党と私兵合わせて数千人を引き連れ、魏に寝返ってしまったのでした。

 

 

こうして父が功臣として名を上げた呉を去ることとなった韓綜は、以後魏の将軍として対呉戦線に置かれるようになります。

 

 

 

 

呉の仇敵

 

 

 

こうして綺麗さっぱり魏の部将へと転身した韓綜は、それ以降長きにわたって対呉戦線の最前線で父親譲りの武勇を発揮。事あるごとに領内に侵入し略奪や破壊活動を行い、旧主である孫権を歯噛みさせます。

 

この時の孫権の怒りたるや、韓綜という名前を聞くたびに顔をゆがませて憤怒と悔しさをあらわにしたとか。

 

 

また、韓綜自身にも才覚は十分にあったようで、魏による挑発行為の意味合いもあってかどんどん出世。嘉平4年(252)に行われた東興(トウコウ)への侵攻作戦では、先鋒部隊の指揮を任されるほどにもなりました。

 

……が、後に東興の役と呼ばれるこの戦いは魏軍の完全敗北に終わります。その敗北の様相たるや、城を攻撃するも落とせず、さらに油断したところを奇襲により大混乱。逃げようにも川にかけていた浮き橋が壊れての大損害といったひどい有様でした。

 

韓綜もそんな混乱の中で呉の兵たちに組み付かれて討死。その首は諸葛恪(ショカツカク)によって首都に送られ、怨敵として亡き孫権の廟に供えられたのでした。

 

 

 

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なぜ不良息子になったか

 

 

 

韓綜が魏に寝返るきっかけとなったのは、おそらく前述の通り、父の死により立場が狭くなったせいでしょう。

 

これは、潘璋(ハンショウ)の息子をはじめとしたガラの悪い二世武将がとことん流刑の憂き目に遭っていることから見て、やはり韓綜もどこかで干された可能性があったのはほぼ間違いありません。

 

問題は、そんな滅茶苦茶な行動を取る事になった理由。不良息子へと育ってしまったのはなぜかという点ですね。

 

 

そもそも韓当は、呉を代表する古参武将のひとり。折り紙付きの実力はもちろんのこと、わざわざ史書にて「将兵をよく励まし、彭も順守した」と書かれた人格者です(もっとも、韓綜の遺族に対する当てこすりの可能性も無いとは言い切れませんが)。

 

少なくとも正史三国志の文面を見るに、父の韓当がどうしようもない世紀末人間だった可能性はほぼないと言えます。

 

 

じゃあ、なぜそんな人間から韓綜のような不良が生まれたのか……おおよそ可能性として、ふと考えついたのは以下の理由でしょうか。

 

 

・韓当が特殊部隊の元締めだったことが理由

 

・元々の当人の資質

 

・呉の韓綜憎しの念が人物像を捻じ曲げた

 

 

 

一番可能性が高いのが2番目なのは言うまでもありませんが……個人的に面白そうなのは1の理由でしょうか。

 

 

韓当は晩年に敢死・解煩兵という名前からしてヤバそうな特殊部隊を率いて異民族と戦っており、もしかするとそういった暗部組織の元締め……そこまでいかなくてもそういった部隊とは深いかかわりがあった事でしょう。

 

また、呉の十八番は要所要所で出てくる決死隊。要するに死ぬこと前提で危険な仕事をする捨て駒ですね。もしかすると、この特殊部隊も決死隊の一部か、あるいは命が極端に軽い部隊だった可能性があります。

 

 

とすると、韓綜は子供の時からそれらを見ており、「あれだけの大身の息子でもどうせ使い捨てにされる」とやさぐれてしまったか、あるいは「他人の命なんぞ軽いんだからどう扱ってもいい」とヤバい思想に染まったか……なんにしても使い捨てにされる命を見てゆがんでしまった可能性がもしかしたらあるかもしれません。

 

 

まあ所詮は根拠のない妄想ですが、こういったゆがみきった人物が出た理由を考察してみるのも、またひとつのロマンなのではないでしょうか。

続きを読む≫ 2018/12/15 23:55:15

 

 

生没年:?~太和5年(231)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

勝手に私的能力評

 

曹真 名将 北伐 知将 メタボ チートスペックデブ 虎豹騎 魏

 

統率 S 兵の統率には余念がなかった。というか強い。不意を突いた第一次以外、諸葛亮が彼との戦いでそれらしい戦果を挙げた記述はないと言っていいい。第三次は曹真不在だったためノーカン。
武力 B 晩年は肥満体だったようだが、少なくとも個人武勇に優れた曹丕と一緒に狩りに行けるくらいには強い。
知力 第二次北伐において、諸葛亮の不意打ちを完封。第一次においても、振り回されたととれる反面、逆に曹真が諸葛亮をうまくあしらったともとれる。
政治 D+ 文官職でもかなり高位に上り詰めたが、じゃあ政治ができたのかと言われると不明。
人望 A+ ポケットマネーから兵士のボーナスを出したり死んだ親友の子に自分の領地の一部を譲ったり、いい人エピソードは多い。部下からの信望も当然ながら厚かった。

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曹真(ソウシン)、字は子丹(シタン)。この人もまた、「ハイパー曹氏」とも言うべき曹氏の名将ですね。

 

 

肥満体形だったことと諸葛亮(ショカツリョウ)の敵であること、そして後任が諸葛亮のライバルとして描かれる司馬懿(シバイ)であること等々……様々な面から、まるで弱っちい二流部将のように扱われる彼ですが、実はハイパーの名に違わぬ卓越した武将でした。

 

 

そんな曹真の伝を、今回は追ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

曹操お抱えの名将

 

 

 

曹真の父親は曹邵(ソウショウ)と言い、曹操の挙兵に従って兵を挙げようとしましたが、董卓(トウタク)配下であった豫洲刺史の黄琬(コウエン)という人物に未然に防がれて殺されてしまいました。

 

そんな曹邵の末路を聞いた曹操は「せめてその息子は大事にしよう」と考え、曹真の引き取りを決意。自らの息子らと同格に扱い、非常に大事に育てたのです。

 

曹真は特に武勇においては類稀な才能を持っていたようで、後ろから追いすがってくる虎を馬上から射殺すという地味に神業じみた記述もなされています。とにかく、武芸者としては小さい頃から卓越していたようですね。

 

 

当人のそんな資質もあってか、曹操は自身お抱えの最精鋭騎馬隊である虎豹騎(コヒョウキ)の指揮を曹真に委ねられることになりました。

 

曹真もそんな曹操からの期待に応えるべく各地を転戦。ある時に賊の根城を陥落させたことから、功績が認められて霊寿亭侯(レイジュテイコウ)に取り立てられました。

 

 

 

建安23年(218)、西方の征討に従軍し偏将軍(ヘンショウグン)に昇進した曹真は、今度は参軍の曹休(ソウキュウ)と共に、若手のホープとして漢中戦線に参加。劉備軍の攻撃を撃退するのに一役買い、一度曹操の元に帰還し、中堅将軍(チュウケンショグン)に昇進します。

 

 

が、翌年には対劉備戦線大将の夏侯淵(カコウエン)が戦死する異常事態が発生。曹真は征蜀護軍(セイショクゴグン:護軍は軍の監督役)として漢中に急行、陽平関にて敵将・高翔(コウショウ)の軍勢を破るものの、苦境を打破する一手には至りませんでした。

 

 

結局曹操は漢中の放棄を決定し、曹真は前線部隊の後方拠点である武都(ブト)に駐屯。夏侯淵の敗残兵を迎え入れ、そのまま長安近くの陳倉(チンソウ)まで引き返すことになったのです。

 

 

この辺りの記述を見ると、まるで曹休とは二人三脚のよう。後にどちらも呉蜀と対峙する総大将になってますし、一族の柱として期待されていたのでしょうね。

 

 

 

 

曹丕の片腕

 

 

曹操が亡くなって曹丕が跡を継ぐと、曹真は仮節(カセツ)を与えられ、鎮西将軍(チンセイショウグン)、都督雍涼州諸軍事(トトクヨウリョウシュウショグンジ:つまり西の総大将)に任命され、爵位も東郷侯(トウキョウコウ)に変更。

 

張進(チョウシン)なる人物の反乱にも迅速に対応し、討ち取ることに成功します。

 

 

2年後の黄初3年(222)には都に帰還。上軍大将軍(ジョウグンダイショウグン:ほとんど大将軍の直下の将軍と同じ扱い)に昇格し、魏の軍事全般をまとめる都督の地位に就き、大きな軍権を表す節と鉞を下賜されました。

 

こうして魏の軍事でもトップクラスの地位に就いた曹真は、孫権(ソンケン)征伐に従軍し、夏侯尚(カコウショウ)らと共に牛渚(ギュウショ)にある孫権の陣営を攻撃。これを撃破します。

 

その後中軍大将軍(チュウグンダイショウグン:そんなに上軍と位の高さは変わらないはず)に転身し、給事中(キュウジチュウ:宮中顧問対応職のひとつ)の立場もプラスされました。

 

 

黄初7年(226)になると、兄弟分同然であった文帝・曹丕が崩御。この時、曹真は信頼のおける人物として、司馬懿や陳羣(チングン)らと共に、息子の曹叡(ソウエイ)を支えてほしいと遺言されています。

 

 

そして曹丕の後を継いだ曹叡が帝位に就くと、曹真は邵陵侯(ショウリョウコウ)に爵位が上がり、武官職でも最大地位の大将軍にまで上り詰めたのです。

 

 

 

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対蜀総大将・曹真

 

 

太和2年(228)、いよいよ三国志でも有数の山場である諸葛亮の北伐作戦が始動。

 

はじめ対蜀戦線は夏侯楙(カコウボウ)が担っていましたが、諸葛亮が即座に幼少の祁山(キザン)を包囲し、さらに付近の3郡がまとめて蜀軍に降伏するなど後手に回っていました。

 

 

曹真はその報告を聞いた曹叡から対蜀戦線を一任され、西へと急行します。

 

そして敵軍の足止め部隊を率いる馬謖(バショク)を張郃(チョウコウ)に破らせ、自らは各方面ににらみの利く郿(ビ)に布陣。さらには別動隊の趙雲(チョウウン)らにも軍勢を差し向けて撃退し、蜀軍の攻撃の手を完全に打ちとめることに成功します。

 

もっとも、蜀の記述では「曹真は趙雲らに釘づけにされていたのに馬謖が失敗した」という旨が書かれており、どちらが事実かは不明。ただ、どっちにしろ蜀軍の撃退に成功したのは事実ですね。

 

 

さらには抵抗の意を示していた安定(アンテイ)郡の人々も、曹真が来たのを知って「相手が曹真なら仕方ない」とすんなり投降、抵抗をやめておとなしく従ったとか。

 

 

 

さらに続けての北伐に際しては、諸葛亮の進軍ルートを予測。

 

「今回の反省を踏まえて別ルートからの進軍になるだろう」と判断し、別ルート上の要衝である陳倉(チンソウ)に郝昭(カクショウ)、王生(オウセイ)らを派遣。城壁も修復して、まさに万全の状態で蜀軍を待ち構えました。

 

そして翌年には、曹真の予想通り、諸葛亮は陳倉に向けて進軍。城を包囲しましたが、曹真は「待ってました」とばかりに援軍を派遣。この戦いも完全に封殺することに成功しました。

 

この頃は孫権との決戦での敗北もあって対蜀軍は多勢とは言えませんでしたが、結局防備の固い陳倉を蜀軍は攻略できずに食料が尽き、味方の援軍到着前に郝昭らが諸葛亮を撃退したのです。

 

 

 

 

大規模攻勢を仕掛けるも……

 

 

 

太和4年(230)には、大司馬(だいしば:国防長官のような役割)に昇進し、なんと剣を履いたまま、悠然と歩いての参内を許されるようになっていました(普通は姿勢を低くして早歩きでなければならない)。すでに曹真は、連勝の記録によってそこまでの信頼を勝ち取っていたのです。

 

 

宮中に参内した曹真は、「今なら疲弊した蜀を討てます」と、度重なる北伐で弱った蜀への反攻を上奏。

 

この提案は認可され、曹真は大軍を率いて蜀征伐に乗り出すことになりました。この侵攻は、曹真本隊が長安から正道を通って進行するほか、司馬懿は荊州から河を遡上、さらには西の裏手の道からも攻撃軍を展開するという非常に大規模な戦線でした。

 

 

が、折悪くも長雨に打たれ、山道のいくつかが欠落。四川の山々は険しく、山道以外の道はとても通れたものではありませんでした。

 

結果、曹叡からは撤退命令が出され、この逆襲計画は失敗。

 

 

すでに余命幾何も残されていなかった曹真は、洛陽に帰参するとともに病を発し、翌年の春にそのまま亡くなったのでした。

 

 

 

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太っ腹将軍

 

 

曹真はこれほどの大身でありながらも驕った態度はとらず、謙虚で太っ腹な人格者だったと伝わっています。

 

部下を大事にして苦楽を共にし、恩賞が足りていないと判断した場合は家財を切り崩して上乗せしてやったともあり、「兵たちは皆、そんな曹真の役に立ちたいと思っていた」と述べられています。

 

 

また、義理人情に厚く、同族の曹遵(ソウジュン)、同郷の出である朱讃(シュサン)といった人物が早死にした時は「私の領地を切り崩して彼らの息子に与えたい」と願い出たという逸話もあります。

 

 

 

それとどうでもいい事ですが、物理的な意味でも太っ腹だったらしく、呉質(ゴシツ)という人物に宴会に呼ばれた際は、その体型を散々馬鹿にされて激怒したという話もありますね。

 

 

何にせよ、気風は穏やかで頼れる人物だったのでしょうね。

 

 

 

ちなみに父親に関しては地元ネガキャン資料『魏略』でこんな逸話があります。

 

 

曹真の元の苗字は秦(シン)であり、父親は字を伯南(ハクナン)といった。

 

曹操は昔、袁術(エンジュツ)配下の一派に襲われて秦伯南に匿ってもらったことがあった。

 

この時、袁術軍が曹操の居場所を尋ねると、伯南は自ら曹操を名乗り、身代わりに殺されてしまった。

 

 

これを恩義に感じた曹操は、彼の息子、真に曹姓を名乗らせたのだ。

 

 

ちなみにこれは、後年三国志に肉付けを行った裴松之にツッコミを入れられていますが……何にしても、曹操が曹真の父親に何かしらの恩義を感じていたのは史書からも読み取れます。

 

 

と、曹操ら三代に仕えては厚遇され、優秀な司令官として常に頼られ続けてきた曹真。

 

惜しむらくは、息子の育て方か……

 

 

 

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続きを読む≫ 2018/11/25 22:04:25

 

 

生没年:?~景元5年(264)

 

所属:魏

 

生まれ:?

 

 

 

 

鄧艾(トウガイ)の側近に師纂(シサン)なる人物がいますが、まあこの人も死に際を見るとアレなタイプだったようで……。

 

師纂は言ってしまえば取るに足らないしょーもないその他大勢のひとりですが、鄧艾の人物像や取り巻く環境を鑑みるための材料としてはなかなかに見どころのある人物なので、字数は少なくなりますが彼に関する記述を追ってみようと思います。

 

 

 

 

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鄧艾軍の性悪軍官

 

 

 

 

師纂の名が挙がったのは、蜀滅亡の際、鄧艾が無茶苦茶なルートでの蜀軍奇襲を成功させた時の事。

 

 

要害の剣閣(ケンカク)をスルーして蜀の内部に軍を進めることに成功した鄧艾でしたが、この時の鄧艾軍は無理な進軍による疲弊と輸送困難による軍備不足でボロボロの状態。

 

対して蜀軍は予備戦力として首都防衛の宿営隊を残しており、諸葛瞻(ショカツセン)がその部隊の指揮を執っていました。

 

 

姜維(キョウイ)らの主力部隊を無視できた鄧艾軍でしたが諸葛瞻の部隊はさすがにスルー出来ず、両軍はついに蜀の首都・成都にほど近い綿竹(メンチク)で激突。体力、気力、装備と何もかもが不足していた鄧艾軍は万全な状態の諸葛瞻との戦闘を余儀なくされ、一度攻略できずに撃退されてしまいます。

 

 

この時に鄧艾軍の指揮を執っていたのが、鄧艾の息子の鄧忠(トウチュウ)、そして鄧艾軍の司馬(シバ:指揮官)をやっていた師纂の2人でした。

 

鄧忠と師纂は敗走し、鄧艾にすぐに報告します。

 

 

「駄目だ……蜀軍は強い……!」

 

 

しかし、鄧艾軍も退路らしい退路も確保せず敵陣に出た身。勝てば大手柄、負ければ死という博打のような立ち位置におり、鄧艾の頭には諸葛瞻の撃破以外の選択肢はありませんでした。

 

鄧艾は2人の報告をスルーするどころか、大激怒。

 

「天下をかけた一戦に無理もクソもあるか!」と散々に怒鳴り散らし、挙句鄧忠と師纂の2人をまとめて処刑しようとすらしたのです。

 

 

結果として逃げる先が無くなった2人は、死ぬ思いで持ち場に戻って文字通り死ぬ気で諸葛瞻の軍勢と再戦。将兵の必死の戦いによって、諸葛瞻の軍勢は壊滅し、鄧艾軍は蜀の征討に成功という大手柄を挙げることに成功しました。

 

 

しかしこの師纂、これはこれでまた鄧艾とは違った意味(というか正統派)で嫌な奴だったようで……この一件は彼の心に大きな恨みを植え付けたのでした。

 

 

 

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周囲「あいつクソや」

 

 

 

さて、こうして蜀征討の大手柄を挙げた鄧艾でしたが、蜀を制圧して以降は手柄を誇るあまり完全に高慢ちきな性格になってしまった様子。

 

おまけに中央に対しても独断専行を行うと宣言するような報告・提言を行い、とうとう周囲からも睨まれるような存在になってしまいました。

 

 

そしてついに、鍾会(ショウカイ)ら鄧艾の政敵ともいえる人物らがこぞって鄧艾の叛意を示唆し、反逆罪にあたると讒言。これを好機と見た師纂も讒言に乗っかかり、自身の上官であり恨みの対象である鄧艾を反逆者として引きずりおろすことに成功しました。

 

 

その後師纂は三国志本文から姿を消しますが……『世語』及び晋の時代の歴史書である『晋書』では師纂の顛末が記載されています。

 

 

鄧艾が反逆罪で捕まった後、彼を讒言した主犯のひとりである鍾会は鄧艾と代わる形で益州入り。なんと魏に反旗を翻そうと画策し、兵士たちの叛逆を招いて横死。

 

 

鄧艾軍の兵士たちは鍾会の反乱未遂で起きた混乱を利用して鄧艾の身柄を奪い返しましたが、なんと衛瓘(エイカン)の手配により鄧艾討伐の軍が発足。鄧艾は討伐隊の追撃を受けて死んでしまいました。

 

 

さて、今回の主役である師纂ですが、どうやらこの鄧艾救出や討伐隊による追撃といったゴタゴタの中でそのまま戦死してしまったようです。

 

しかも世語には「強情で恩賞をケチる奴だったせいで、遺体の損傷はとんでもないことになっていた」とすら書かれる始末。世語は話半分程度の信憑性残念な書物ですが、それでもやはりこう書かれてしまうのは仕方のない事でしょう。

 

 

師纂を殺したのは鄧艾軍の兵か、あるいは鄧艾討伐隊か……どちらにしても、ある意味鄧艾の副官らしい人物……だったのかもしれません。

 

 

ちなみに鄧艾は後に晋の名臣として命を落とすことになる衛瓘すらもビビッてさっさと殺そうとしたという旨が書かれており、(史書には衛瓘が小悪党であるという記述があるものの)やはり鄧艾は報復をやりかねない人物として周囲の目に映っていた可能性すらあります。

 

師纂を副官にし、そして完全に恨まれることになった鄧艾。希代の名将のちょっと意外な欠点を象徴する人物として、彼の存在に注目してみるのも面白いかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/11/24 23:00:24

 

 

生没年:?~建安13年(208)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国相県

 

 

劉馥 魏 合肥 政治家 おかしい 都市開発のプロ 単身赴任(ガチ)

 

 

 

劉馥(リュウフク)、字は元穎(ゲンエイ)。おそらく「知らない」という人がほとんど、三国志演義においても、「なんか曹操に殺された人」位の印象しかないような人物です。。

 

しかし、後に名戦場となるとある土地の発展をほぼ1人でやってのけた、とんでもない人物でして……

 

 

今回は、そのあたりの経歴、功績に迫っていけたらなと思って彼を話題に取り上げました。

 

 

 

 

 

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豫洲の出でありながら揚州人

 

 

 

出は中原……つまり当時の中国の中央部にして、完全な首都圏内でした。しかし、当時は完全に戦乱で荒れ果てており多くの人は田舎に疎開。劉馥もそんな疎開組の1人で、中国南東部の揚州に引っ越していました。

 

 

さて、劉馥の名前が出たのは建安という年号が使われた初め頃。だいたい西暦で196年から数年の間くらいでしょうか。

 

劉馥は揚州で幅を利かせていた袁術(エンジュツ)の影響下にありましたが、その配下の将軍である戚寄(セキキ)、秦翊(シンヨク)という人たちを説得し、その軍勢とともに曹操に鞍替えしていきました。

 

その話を聞いた曹操は大喜びで劉馥を迎え入れ、掾(エン:要するに属官。具体的に何をやってたかは不明)としたとされています。

 

 

さて、こうして苦境の中で悪戦苦闘している曹操に着いた劉馥ですが、建安5年」(200)に、曹操は宿敵の袁紹(エンショウ)との決戦に臨み、ほぼ全力を北へと向けざるを得なくなってしまったのです。

 

そんな時、劉馥は曹操のお留守だった背後の守りのため、揚州刺史(ヨウシュウシシ)の任を受け、孫策(ソンサク)の台頭により混沌としていた揚州へと出立していきました。

 

 

さて、この時の揚州の情勢は、孫策の台頭により曹操の影響力は低下。大都市を擁する重要拠点の盧江(ロコウ)も曹操側の太守が殺され、すでに孫策に完全に奪われた状態でした。

 

さらにはその混乱に乗じて袁術の元部下であった梅乾(バイケン)、雷緒(ライショ)、陳蘭(チンラン)らが独立勢力として一斉蜂起し、揚州各地を荒らしまわり、徹底的に荒らしまわっており、残った曹操の領地も荒廃の一途をたどっていました。

 

 

が、そんな絶望的な状況下で、劉馥は荒れ地と化した揚州を立て直す驚異の手腕を発揮するのです。

 

 

 

 

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1人で始める合肥開発計画

 

 

 

赴任早々に合肥(ガッピ)を曹操側の揚州政庁に定めた劉馥は、なんと単独で政庁入り。暴れ回る雷緒らに調略を仕掛け、そのまま手なずけてしまいます。

 

さらに民衆の支持を得るのと合肥を成長させる2つの目標を同時達成するために、大々的に善政を施行し、多くの移民も獲得します。その数、実に5桁に上ったと史書には記載されています。

 

こうして一気に大きくなった合肥の街に対して、劉馥は次に農業と教育機関にメスを入れます。学生たちを招いて学校を開き、同時に屯田の大規模化のために各地の堤防を修復して水田を引き、然るべき孫家一門との対立に向けて食料の備蓄を進めます。

 

 

そして仕上げとして、防壁の強化。もともと合肥は打ち捨てられた城であり防備もおざなりでしたが、劉馥は土塁や摘み石、逆茂木を高く設置して防壁をより強固にします。そして兵のための草むしろや魚の油も大量に備蓄し、いよいよ合肥の防衛力をより強力なものにしていったのです。

 

 

しかしそんな合肥の防衛力を見ることもなく、建安13年(西暦208年)に劉馥は病で亡くなり、その死は多くの人に悼まれました。

 

 

さて、そんな劉馥が整えた防備は、何の皮肉か彼の死後すぐに使う時が来たのです。

 

ついに孫策の跡を継いだ孫権(ソンケン)軍が、10万ともいわれる大軍を率いて合肥に侵攻。折悪く曹操の本隊も赤壁の戦いで敗北し、数、士気ともに不利に陥ってしまいました。

 

この時、連日の大雨によって城壁が崩れそうになるなどのアクシデントも発生し、いよいよ合肥は窮地を迎えます。しかし劉馥が遺していた草むしろを城壁にかぶせて雨をガードし、夜は魚の油を焚くことで視界を通すことで敵の動きをしっかり確認しながら対応することが可能になったのです。

 

そしてそんな防衛が続くこと100日余り。孫権軍は味方の計略もあってとうとう撤退を決めました。

 

 

無事に危地を振り払う先見の明を見せた人々の劉馥への追慕はいよいよ高まり、後任に来た人物は「彼には及ばないな」と自覚するほどだったそうな。

 

 

ちなみに劉馥が立てたり直したりした堤防は、100年ほど経った晋の時代でも多大な利益をもたらしていたとか。

 

 

 

 

人物像

 

 

 

さて、合肥をたった1人で立派な前線都市にまで発展させた劉馥。陳寿からは特に何か個別評が贈られているわけではありませんが、少なくとも曹操軍の中堅時代から頭一つ抜けるまでの、最も苦しい時期のひとつを裏で支えた英傑の1人といっても過言ではありません。

 

 

結局のところ大した記述もなく、だいたい彼の伝もこれだけですが、間違いなく曹操への貢献度はかなり高い人物です。

 

 

後々、合肥は幾度となく孫権軍の攻撃に曝されますが、それらすべてを防ぎきる土台を作った劉馥。

 

演義では酔いのまわった曹操に勢いだけで斬り捨てられる役割しか負っていませんが、これほどの人物を小物として書くわけにもいかなかったようで、後に後悔した曹操によって過分な礼で葬られています。

 

 

その活躍は正史でも官渡、袁家滅亡、赤壁というビッグイベントによってかき消されてしまいがちですが、そういう大戦場の裏で劉馥のような人物が活躍していたのも、注目すると楽しいものです。

 

 

続きを読む≫ 2018/11/05 22:48:05

 

 

生没年:?~太和2年(228)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

勝手に私的能力評

 

曹休 魏 名将 千里の駒 残念な晩年 知将

 

統率 A 荊州戦線の御大将。曹洪の手柄である定軍山の戦いの初戦大勝は彼の手によるものであり、統制力、戦闘力共にかなり上位と見てよいだろう。
武力 B 曹操軍の最精鋭騎馬隊・虎豹騎を率いたこともある。かわいい血縁だからというのもあるだろうが、弱い奴にそんな兵を引きさせるほど曹操の目は節穴ではない。
知力 B+ 意外かもしれないが、猛将と知将の2種類に分けた場合、曹休は知将タイプと言っていい。それだけに、石亭での痛恨の大敗が足を引っ張る。
政治 D 政治家でない以上高く評価はできない。
人望 B 曹丕の腹心として後を任される等、総大将に相応しい名声を持っていたようだ。しかしまあ、賈逵との子供じみたやり取りのせいで台無しになった感はある。

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曹休(ソウキュウ)、字は文烈(ブンレツ)。

 

昔から「無能」として、ひとつの戦いの敗戦ばかりを取り上げられることに定評がある人物ですね。史書を見る限り、それまでは曹操(ソウソウ)一族のやたら優秀な将軍の一人といった感じの人物だったのですが……最期の最期で名誉を挽回できずに亡くなったのが惜しまれます。

 

 

とはいえ、有名ゲームである無双シリーズにも、曹洪ら有力な曹一族を抑えて出演が決まっており、これからメディアによって大きく取り上げられ始めるのかなという期待を感じさせる人物。

 

今回は、そんな曹休の伝を辿ってみることにします。

 

 

 

 

 

 

 

我が千里の駒

 

 

曹操の一族は元々大身の富豪で一族も多くの人が集まっていましたが、世の中が戦乱になると一族の多くは故郷を捨てて疎開。曹休の一家も、この時に故郷を後にした曹一族のうちの1つでした。

 

 

そんな曹休一族は父親を中心に分家として独立した生活をしていましたが、曹休が十数歳の時に病死。残ってくれた食客の1人と共に父を埋葬すると、今度は長江を渡って呉に出立。すでに母も年老いており、極力安全なところで最後まで無事に過ごそうという魂胆があったのかもしれません。

 

 

 

そうして疎開先の呉でしばらく暮らすことになろうかというある時、一族の曹操が兵を挙げて決起したとの知らせが曹休の元へと届きました。

 

曹休は曹操の元にはせ参じることを決め、安全地帯の呉を抜け出して荊州に遡上。偽名を使って感心の目を掻い潜り、に間道伝いに北上し、やっとのことで曹操の元へと駆けつけることができたのです。

 

 

 

曹休を見た曹操は彼を気に入り、「我が千里の駒である」と側近に紹介し、以後は曹操の息子である曹丕と共に生活させるなど、我が子同然の特別待遇を施しました。

 

さらには自身の最精鋭騎馬隊「虎豹騎(コヒョウキ)」の指揮すらも一時期任せていたらしく、平時の宿営として側仕えするほどに信頼されていたのです。

 

 

 

 

まさかの張飛撃退

 

 

建安22年(217)、それまで漢中(カンチュウ)を巡って曹操と争っていた益州の劉備(リュウビ)が、ついに攻撃の手を本格化させます。

 

この時に軍を率いてやってきたのは、張飛(チョウヒ)、馬超(バチョウ)、呉蘭(ゴラン)らの精鋭部隊。

 

 

 

この時、曹操軍の大将は曹洪(ソウコウ)でしたが、曹操はその援軍として曹休を派遣します。

 

「扱いは参軍(軍師)だが、今回の戦いの真の大将はお前だ。しっかりやれよ」

 

大将の曹洪も曹操からの言伝を聞くと、曹休に実質的な指揮を譲るようになりました。

 

 

さて、こうして事実上の大将となった曹休の指揮のもと、張飛馬超ら歴戦の名将を迎え撃つことになった曹操軍。

 

 

劉備軍は呉蘭を大将として下弁(カベン)という地に陣を張っていましたが、翌年の建安23年(218)、張飛が別動隊を率いて曹操軍後方の固山(コザン)を占拠。曹洪軍を曹操本隊と分断する動きを見せます。

 

張飛が後方寸断に動いたと知った曹洪軍の面々は混乱し、「手薄になった呉蘭の本隊を狙う」か、はたまた「張飛の別動隊を攻撃して安全を確保する」かの二択に作戦が分かれますが、どう動くかをためらって行動に移せませんでした。

 

そんな時、実質的な対象である曹休は、敵の動きを観察し、曹洪らにひとつの提案をしました。

 

 

張飛の別動隊が本当にこちらを孤立させるつもりなら、威嚇するようにあからさまに動くのはおかしい。これはきっと罠でしょう。ここは呉蘭本隊を一気に攻め、敵が大勢を固める前にカタをつけましょう」

 

 

曹休の提案に、歴戦の猛将である曹洪もニッコリ。すぐに曹休の言った通りに手はずを整え、準備が整う前の呉蘭を急襲します。

 

案の定手薄となっていた呉蘭隊は曹洪軍の来襲に大いに動揺し、呉蘭や副将の雷銅は戦死。曹休の読みは見事に当たり、記念すべき最初の大戦を華々しい成果で飾ることに成功しました。

 

 

このままでは孤立してしまうと見た張飛隊もそそくさと退却。こうして、劉備軍は漢中から一時撤退を余儀なくされます。

 

この後曹操軍は結局漢中を失陥してしまいますが、初戦は曹休の活躍もあって、かなり優勢に事が運んでいたのですね。

 

 

 

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対呉戦線の総司令官

 

 

 

曹操が亡くなって兄弟分の曹丕がその後を継ぐと、曹休も前後の功績をたたえられて領軍将軍(リョウグンショウグン)に任ぜられ、さらに爵位を与えられて東陽亭侯(トウヨウテイコウ)に封ぜられました。

 

その少し後に夏侯惇が亡くなると仮節(カセツ:軍法違反者の処罰権限)を与えられ、さらに鎮南将軍(チンナンショウグン:南方を統べる大将クラス)、都督諸軍事(トトクショグンジ:現場総指揮官)にまで昇進し、いよいよ対呉戦線の総司令という立場が固まりました。

 

この時、曹丕は自ら曹休の見送りをしていたとあり、どことなく二人の友情の度合いが伺えますね。

 

 

まず、小手調べとばかりに孫権(ソンケン)が曹休に軍勢を差し向けますが、流れるようにこれを撃退。同時に別動隊に長江を渡らせ、孫権軍の陣営を数千軒にかけ焼き討ちを敢行するなど、強烈なしっぺ返しも行っています。

 

 

 

さらに位を挙げて征東将軍(セイトウショウグン:東側の軍事総司令)に位を上げた曹休は、黄初3年(222)の曹丕自らによる親征にも参加し、権力の証明として金のまさかりを与えられ、一軍の総指揮官として名将・張遼(チョウリョウ)ら20余りの軍勢の総監督を務めることとなりました。

 

 

曹休の壮大な軍勢を見た孫権は当然迎撃部隊を差し向けますが、孫権軍の迎撃隊の船が強風で転覆する事故が発生したのを見て、曹休は孫権軍への強襲を敢行。敵兵数千人を死に追いやる大戦果を挙げたのです。

 

 

結局この親征は撤退という形で失敗に終わりましたが、それでも孫権軍相手に奮戦した曹休の功績は大きく、揚州牧(ヨウシュウボク:揚州の州長官)に任命。呉を倒した暁にはその本拠地一帯を治めることになったのです。

 

 

 

黄初7年(226)に曹丕が死去すると、後を継いだ曹叡(ソウエイ)から爵位を昇進され、引き続き対呉の戦線を任されます。

 

そして皇帝入れ替わりの混乱に乗じて孫権が攻めてきた際には、近辺に駐在していた孫権軍をもはや語ることなどないとばかりに粉砕。

 

大将を討ち取り、配下の将軍たちは前後して降伏してきました。どうでもいい話ですが、ここで降伏した将軍の中には、あの韓当(カントウ)の息子もいたとか……

 

 

この活躍で大司馬(ダイシバ:国防長官的なアレ。軍事を取り仕切る超大型官僚職)任命され、曹休の功績、実力は魏国でも指折りの存在になったのですが……ここから待っていたのは世にも恐ろしい急降下の人生でした。

 

 

 

 

 

石亭の戦い、そして……

 

 

 

太和2年(228)、曹叡は呉征伐の軍を起こし、司馬懿(シバイ)と共に軍を二分し、曹休は片方の軍勢を指揮するようになりました。

 

 

折しもこの時、呉の武将である周魴(シュウホウ)が七通の手紙を書いて、降伏の意を表明します。

 

最初は曹休も疑っていましたが、孫権が周魴を疑って詰問したり、周魴も当時切るのは御法度とされた髪を切って謝罪しようやく許される様などをスパイから聞いて、「周魴の裏切りは事実だった」と断定。

 

曹休は、周魴の案内を受けて敵軍の城にまで全軍を進め、一気に勝負をつけようと考えます。

 

 

 

……しかし、実はこの投降は。周魴の七通の手紙も、孫権の疑念も、果ては髪を切っての迫真の謝罪も、すべてが曹休を誘い込むための策だったのです。

 

気付いたころにはすでに時遅く、曹休が出立した皖城(カンジョウ)は呉の襲撃を受けて落城。

 

 

 

「……汚名を着たまま、引き下がれるものか」

 

 

ここまで常勝、失敗を知らない曹休は、ここで撤退することなく力押しに進軍。そこには呉蜀の軍勢を派手に打ち破った策士・曹休の面影はなく、まんまと敵大将・陸遜(リクソン)の伏兵により大敗。

 

事態を察した友軍の賈逵(カキ)により曹休はなんとか助け出されますが、軍は壊滅に近く、別方面を攻撃していた司馬懿もこの敗北に伴い撤退し、作戦が失敗してしまいます。

 

 

 

この戦いにより曹休は精魂尽き果てた曹休は病を得て、曹叡らの励ましも虚しく、汚名を返上することもできず世を去りました。死因は背中の悪性の出来物だったそうです。

 

 

 

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親孝行者

 

 

 

さて、曹休を代表する逸話の一つとして「肉親への情」という点があります。

 

儒教では必須の科目とも言ってもいい孝行なので、多少大げさに書かれている可能性もありますが……呉郡太守だった祖父の肖像画を見ると、長椅子から下りて、涙ながらに礼拝し、周囲の大人たちはこれを見て感嘆したとか。

 

 

 

当然、ここまでの情は育ててくれた母にも向けられており、母の死に際してこんな逸話も残っています。

 

母の死に際し、曹休は孝行の限りを尽くして哀悼した。

 

食事も満足に取れないほどの状態だったので、これを気遣った曹丕が喪を切り上げさせて肉を食べさせ酒を飲ませようとしたものの、曹休はその様子を見てますます衰弱するばかり。

 

曹休が故郷で母の葬式を上げたいと申し出ると、曹丕も「一晩で埋葬し、また帰ってくること」を条件にこれを許可した。

 

 

かくして葬式を上げて戻ってきた曹休を見ると、曹丕は慰めの言葉をかけてやった。

 

 

 

うーん、親が亡くなって悲しいのは間違いないですし、曹休の気持ちもわかりますが、喪主当人が衰弱するほどオーバーリアクションだと、親としてもかえって死にきれないというか……

 

何にせよ、それだけいい人だったのは間違いないでしょう。

 

 

 

賈逵とは仲が悪い?

 

 

また、賈逵伝には、曹休が賈逵を嫌っているような描写も数あります。

 

例えば、曹丕が賈逵を都督に任じようとすると、「剛直な性格で人を軽んじます」と讒言を入れて妨害を行っています。

 

 

また、石亭の戦いにおいても救援してくれた賈逵に対して「俺が捨ててきた武器を今すぐ拾いに行け」と無茶ぶりを命じて怒られたり、「来るのが遅かった」という理由で懲罰しようとしたり……

 

うーん、何ともギスギス……

 

 

 

対して賈逵の報は別段悪印象などなかったようですが……彼の剛直でどこまでも自重しない姿勢は、曹休からすると癪に障るところがあったようです。どっちかというと曹休が小さいだけなのは言うまでもない

 

 

 

続きを読む≫ 2018/11/03 17:08:03

 

 

生没年:?~太和6年(232)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

勝手に私的能力評

 

人物伝・魏書 曹洪 守銭奴 名将 不良将軍 破廉恥 スケベ大魔王

 

 

統率 A- 実は兗州奪還の時、独自に兵を動かしていた。そもそも見せ場は戦場にあり、実際に曹操の黎明期を良く支えた。
武力 A 圧倒的敗勢の中で血路を開き、徒歩で自力脱出する。こんな事する人間が弱いわけがない。
知力 C 戦争においては十二分に活躍している上、金稼ぎには天性の才を持つ。実際、曹操軍の財政は彼が少なからず支えていたようだ。
政治 D コネで結構な高官をやったりもしたが、評判は特に記載されておらず何とも言えない。
人望 D+ 多くの食客を抱えていたらしく、本当はもっと高いのだろうが……銭ゲバ、破廉恥、素行不良の三重苦でのマイナスエピソードが足を引っ張る。

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曹洪(ソウコウ)、字は子廉(シレン)。曹操の従兄弟であり、まだ漢の属国だった魏の最初期を支えた重鎮の一人にして、曹操の台頭から漢王朝が魏に代わり、曹丕(ソウヒ)、曹叡(ソウエイ)の二代にわたり魏帝国が隆盛していくのを見守った稀有な存在です。

 

とはいえ、晩年は性格が災いしてか、完全に不遇な生活を余儀なくされたのですがね……

 

 

なんにしても、曹操の天下平定事業を支え、王手に迫るまでに多大な功績を残した勇将なのは間違いないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天下に洪おらずとも……

 

 

 

曹洪の実家はかなり豊かな、言ってしまえば富豪の家系で、実は彼は曹操に仕えなくてもそれなり以上の地位を約束されていました。

 

『魏書』によれば父親が宰相職をやっていて、そのコネですでにひとつの県を治める身分になっていたようですが……従兄の曹操が挙兵したと聞くと、その地位をほっ放り投げて彼の元に参入したのです。

 

 

こうして安定を捨てて曹操配下として第二の人生を歩み始めた曹洪でしたが……初平元年(190)、あまりにやる気のない諸侯に苛立ちを覚えた曹操は、自分に賛同する数少ない諸侯の援助をだけ受け、精強な董卓(トウタク)軍に突撃を開始。

 

途中で遭遇した敵将・徐栄(ジョエイ)と戦いますが、完膚なきまでの敗北を喫してしまいました。

 

 

敵の追撃は激しく、曹操も愛馬を失い、命の危機にさらされます。

 

そんな中、曹洪は窮地に陥った曹操の元に颯爽と現れ、自らの馬を代わりに差し出そうとします。これにはさしもの曹操も「それでは曹洪が危険だ」として申し出を拒否。しかし、曹洪は以下のように強弁し、無理やり曹操を馬に乗せたのです。

 

 

「天下に私はいてもいなくても何ら変わりはありませんが、あなたは天に必要とされているのです!」

 

 

「天下に洪なかるべきも、公なかるべからず」と、原典の書き下しで有名な言葉ですね。かくして曹操は曹洪の馬に乗り、曹洪は徒歩で曹操を護衛。陸路は危険であるとして、岸辺で船を探して回り、たまたま見つけた船に乗って何とか窮地を脱したのでした。

 

 

 

しかし、この戦いで曹操軍は壊滅。軍の建て直しが必要と考えた曹操は、いったん精強と知られる丹陽(タンヨウ)の兵を集めるべく揚州(ヨウシュウ)へと向かいました。

 

ここで曹洪は、曹操と別行動をとって、私兵千人を率い独自のコネで兵を集めることを決めます。

 

 

この時、曹洪が集めた兵は数千。兵の反乱によって募兵を失敗した曹操にとっては、非常に心強い兵力でした。

 

 

と、そんな曹洪らの活用もあって、曹操は数年のうちに群雄として完全に独立。初平3年(192)には兗州刺史(エンシュウシシ)として一州を治める立場にまで上り詰めたのでした。

 

 

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重鎮曹洪

 

 

 

興平元年(194)、曹操とマブダチであった張邈(チョウバク)が呂布を迎え入れて曹操に反乱を起こすと、これに釣られて兗州のほとんどが呂布に寝返るという緊急事態が発生します。

 

さらにはこの時、運悪く大飢饉も同時に発生。ちょうど遠征中にこれらの事件が重なり地盤と糧食を大幅に失った曹操は、苦境に立たされることになりました。

 

 

そんな折、曹洪は遠征帰りの軍の先頭に立って突き進み、東平(トウヘイ)、范(ハン)の2郡を占拠。枯渇しきった食料をなんとか調達し、軍を食いつながせることに成功します。

 

 

後に曹操が呂布をなんとか敗走させると、曹洪は再び別動隊を率いて進軍。一貫して曹操陣営につくことを表明した東亜(トウア)を本拠地に兗州の再占拠に出立。行く先々で拠点を陥落させていき、破竹の勢いで10以上の県を曹操の手中に戻したのでした。

 

 

このように多くの功績を上げた曹洪は、後に揚武中郎将(ヨウブチュウロウショウ)にまで出世。さらには諫義大夫(カンギタイフ:帝への諫言を行う)の役職を与えられ、建安5年(200)の官渡の戦いでは、奇襲部隊を率いる曹操の代わりに総大将の代行として城を守り抜いたのです。

 

 

官渡での勝利から数年後には、今度は南の戦線に転進。敵対する劉表(リュウヒョウ)の軍と交戦し、領土の境目付近を転戦。連戦連勝して劉表の驚異を少なからず取り除くことに成功します。

 

この功績によって、曹洪は厲鋒将軍(レイホウショウグン)に昇進し、国明亭侯(コクメイテイコウ)の爵位を賜りました。さらに曹操の遠征に随行して都護将軍(トゴショウグン)に昇進。

 

 

曹操腹心の夏侯淵(カコウエン)が西方を平定している間には南の劉備(リュウビ)からの侵攻を抑える役回りを担い、参謀として随行していた曹休(ソウキュウ)の進言に従って武将の呉蘭(ゴラン)、雷銅(ライドウ)を討ち取る活躍を見せます。

 

 

 

そして曹丕(ソウヒ)が帝に即位すると衛将軍(エイショウグン)、後に驃騎将軍(ヒョウキショウグン)と最高級の将軍職を歴任。野王侯(ヤオウコウ)の爵位と特進(トクシン:最高級宰相職に次ぐ特殊名誉職)が与えられますが、晩年はパッとしなかったようで、曹洪が戦争や政治で活躍した話は聞きません。

 

むしろそれどころか、驃騎将軍や特進の位を受ける前に一度些細なことで干される事すらあったとか。

 

 

おそらく曹操の黎明期こそが、曹洪がもっとも輝いていた時なのでしょうね。

 

 

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ケチで強欲な一面が裏目に

 

 

ご覧の通り、曹洪の功績は褒められる物ではあっても、決して貶されるような恥ずべき点はないはずなのですが……この人物、儒教国家で禍を引き寄せるのにこの上ないレベルの欠点の持ち主だったのです。

 

それが、

 

 

1.ドケチ

 

2.欲望にどこまでも忠実

 

 

と、この2点。

 

 

ドケチに関しては明白に史書で書かれており、「裕福なくせに吝嗇家だった」とされています。

 

特に曹丕が借金しに曹洪の元に行ったときはこれを完全に断っており、曹丕が皇帝の位に就いたときにはこれをネタに死刑にされるかどうかの危地にまで陥っています。

 

この時は太后である卞氏が皇后に脅迫働きかけてどうにか降格で済んでいますが、当時の人々も目耳を疑うほどの突然の通達だったようですね。どんな断り方をしたんや……

 

 

2の欲望への忠実さは『楊阜伝』にその旨が書かれてますね。

 

というのも、儒教の盛んな当時の中国においては、旦那以外が貴婦人の顔を見たら死刑というレベルの清純な男女観がありましたが……曹洪は諸将を招いての大宴会で、露出度の高い衣装を着せた歌姫を躍らせるという大規模な催し物をしたのです。

 

 

政治家で儒学者でもあった楊阜(ヨウフ)は、この破廉恥なパーティーを見て大激怒。

 

「男女のケジメは国家の大事。大勢が集う席で女性の肌をあらわにするとは、古の暴君以上の醜行ですぞ!」

 

こう喚き散らした楊阜が出て行ってしまい、曹洪は慌てて歌姫によるセクシー歌劇ショーを中止。慌てて楊阜を呼び戻したのです。

 

 

曹洪からすると半分は良かれと思ってやった事なんでしょうが……道徳絶対主義者も多い中で、善意で道徳を踏みにじるとは、普段何を思っていたのか。

 

まあ当時の儒教観念もあまりに行き過ぎたところがあるとはいえ、この一件は曹洪の「俺が楽しいんだからみんな楽しいはず」という発想から生まれた逸話な気がしてしまいます。

 

 

一応三国の重臣には身分不相応な贅沢を好む名将もいるのですが、曹洪もそんな型破りタイプの名将だったのかもしれませんね。

 

 

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続きを読む≫ 2018/11/03 10:00:03

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:兗州山陽郡

 

 

勝手に私的能力評

 

李典 魏 知将 五大将代役候補 バランサー

統率 B+ 正史での主な兵士統率は超地味な兵糧輸送の一件くらいだが、よく考えると味方や山賊に物資を奪われないようスムーズな輸送が行えるかが勝負の大仕事。というか輸送部隊で敵軍を蹴散らすなんて無茶もした。強い。
武力 C 地味に書かれているだけだが、合肥の戦いでは張遼と共に城外での迎撃担当。生き延びて少なからぬ貢献をした辺り、武力はあったのだろう。もっとも、当人は軍事より学問派だったようだが。
知力 A- 劉備の計略を見破り、冷静に「勝てる」と踏んで輸送部隊で敵軍に突撃し……。さすが勘の冴える男。
政治 B 意外かもしれないが、実は李典は学者志望だったという話がある。曹操も試しに人民統治を任せたら、思いのほかうまくやった。
人望 B 謙虚な姿勢と優れた人物への尊敬を忘れず、周囲から「若いのに」と妙に年寄りくさい褒められ方をした。諸将と功を争うのも嫌い、敵を作らなかったらしい。

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李典(リテン)、字を曼成(マンセイ)。最近有名ゲームにも顔を出している武将で、三國志をかじっているなら、知っているって人も多いでしょうね。

 

実際に、学者志望でありながらも戦争、さらには人格とあらゆる面に秀でたハイバランスな武将で、親族の活躍でそのまま取り立てられた人物ながら、それに見合った、いや、それ以上の功績を立てた人物と言えるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

李氏一門の旗印

 

 

 

李典の叔父は李乾(リケン)という人で、李典の属する李一門は、はじめこの人に率いられる形で存続していました。

 

李乾は雄々しい性格で知られる猛将で、曹操軍でも主力武将の1人として戦いましたが、興平元年(194)に呂布(リョフ)を中心とした反乱が起こると、李乾もその中で死亡。その最期は、呂布の反乱に誘われるものの一切を拒否した結果、呂布側についた味方に殺されるというものでした。

 

 

その後しばらくは李乾の子がその軍を率いていたのですが、彼もまた天命に恵まれずに早世。こうして李一門の兵を率いる直系がいなくなってしまったために、ついに李典にそのお鉢が回ってきたのです。

 

 

はじめは従兄弟よりも立場の低い穎陰県令(エイインケンレイ:県令は大きい県のトップ。低いと言っても普通にVIP待遇)からのスタートでしたが、最終的に太守の位にまで昇進。中郎将(チュウロウショウ:校尉以上将軍未満)に昇進し、李一門の兵を率いることを許されたのでした。

 

 

建安5年(200)に官渡の戦いが勃発すると、李典は一族郎党を指揮して軍需物資を曹操に提供。曹操領内のほとんどの豪族が袁紹に靡いていく中で数少ない味方として曹操を支援した事実は、少なからず曹操を喜ばせました。

 

この声明の見返りとして、曹操は李典を裨将軍(ヒショウグン)に昇進させ、重臣の1人として扱う事を決定。

 

 

後に袁紹が亡くなると曹操はその旧領を攻めますが、この時、李典は程昱(テイイク)らと共に水路を使っての兵糧輸送の任務にあたっていました。

 

しかしこの動きを読んでか偶然か、李典船団の行く先には敵の一軍が港の前で待ち構え、補給線を遮断していたのです。

 

 

すぐに輸送隊の主だった将たちは対策を話し合うことになりますが、その中で李典は敵軍の攻撃を主張。

 

「敵は重装兵が少なく、さらに敵がいないとタカをくくって油断している。これならば攻撃すれば十分に勝てるだろう。要するに全体の役に立てばいいのだから、ここは独断専行に抵触しても敵軍を攻撃すべきだ」

 

李典の強気の発言に程昱も大いに賛同し、結局李典ら輸送船団は敵軍に攻撃を開始します。すると敵軍は李典の読み通りに算を乱し、あっさりと敗走。かくして李典は兵糧の輸送ルートを再び開放することに成功したのでした。

 

 

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人知勇のきらめく星

 

 

 

その後、李典は袁紹旧領を攻める間の留守役として南の戦線に転属。建安8年(203)には夏侯惇(カコウトン)らに随行し、領域を侵犯してきた劉備(リュウビ)の一派を迎え撃つことになりました。

 

 

この時、劉備軍はどういうわけか、突如として陣を焼き払って退却。夏侯惇らは追撃を加えようとしますが、李典はこれを怪しんで「罠の可能性もあります。追撃は控えましょう」と慎重策を唱えます。

 

が、そこは何かとポカに定評のある夏侯惇。李典のそんな進言を笑い飛ばし、そのまま共に従軍していた于禁(ウキン)らと共に追撃を開始してしまったのです。

 

こうしてまんまと罠にはまった夏侯惇は、劉備の用意していた伏兵部隊に奇襲を受けて窮地に陥ってしまいました。この時は戦力を温存していた利点が救援に駆けつけて事なきを得ましたが……その場に李典が不在だったら、曹操の華北統一はもっと遅延していたかもしれません。

 

 

ともあれ、こうして夏侯惇の窮地を救った李典は留守を他の将と交代し、再び北方の袁紹領切り崩しに参加。袁紹軍残党の本拠である鄴(ギョウ)を攻め落とすと、今度は楽進(ガクシン)と共に各地を転戦し、勝利を重ねていったのでした。

 

 

それらの功績が認められて捕虜将軍(ホリョショウグン)、都亭侯(トテイコウ)に取り立てられた李典でしたが、彼の胸中には一つの考えがありました。

 

それは、李氏一門の魏郡(ギグン)への移住。魏郡は切り取ったばかりの袁紹旧領のひとつであり、まだ曹操の影響力が完全とは言えませんでした。なので、李典は一族を上げて曹操たちの影響力を北方に根付かせようと考えたのですね。

 

それを聞いた曹操は最初冗談かと思って李典をからかいましたが、「才もないのに取り立てていただいた以上、相応の活躍をせねば」と一族を本気で移住させてしまった李典に感激。そのまま彼を破虜将軍(ハリョショウグン)に昇進させました。

 

 

その後はしばらく、李典は後方安定のために主戦場からは姿を消しますが……建安20年(215)に孫権(ソンケン)の大軍が合肥を攻めると、主立った将の1人としてその防衛に参加。

 

友軍の張遼(チョウリョウ)と協力して城の外で孫権軍を迎撃し、七千対数万という絶望的な戦力差を跳ね返すのに少なからず貢献したのでした。

 

 

と、このように知勇兼備の活躍を見せた李典は、後世には「五大将に次ぐ」とまで言われるほどの人物と言われましたが、残念なことに36歳という若さで病を得て死去。

 

 

『魏書』には「軍事より学問が好きだった」と書かれており、もしかしたら体のどこかに重大な欠陥を抱えていたのかもしれません。

 

曹操はそんな李典を尊重して最初は住民統治を任せて、李典もそこで大きな成果を上げていましたが……どういうわけか途中から普通に戦争のための武官やってますね。体は虚弱でも、そっちの才はやはり大きすぎたのかもしれません。

 

 

 

 

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謙虚で冷静な性格イケメン

 

 

と、このように知勇を併せ持って人格面も言う事無しのハイスペックな李典という人物。三国志ライト層に知られるようになったのはつい近年のことですが、それ以前からも根強い人気を誇っていた武将のひとりです。

 

三国志の編纂者・陳寿には、彼はこのように評されています。

 

 

儒教の教養を尊重し、同義によって個人の仲違いを忘れた。

 

 

仲違いとは、つまり元々呂布の軍勢に所属していた張遼とのことですね。

 

滅多なことでは敵を作ることが滅多にない李典でしたが、やはり呂布がいらん事をして一族郎党が悲惨な目に遭ったという過去からか、張遼とだけは日頃からどうしても関係が最悪に近かったのです。

 

 

合肥の戦いの折、主将の張遼はそんな李典(あと楽進も)がきちんと指示を聞いてくれないことを危惧し、2人に対して疑念に近い態度をぶつけてしまったようです。これに対してイラっと来た李典は、とうとう我慢ができず張遼に詰め寄ってしまいます。その時に言い放った言葉は、以下の通り。

 

「こんな国家の危機に、つまらん私情を持ち出すような馬鹿がいますか!私も楽進殿も、個人的ないさかいをこの後に及んで持ち出したりは致しません!」

 

憤然として言い放った李典に対して、やはり張遼と馬が合わなかった楽進も全力で同意を示します。

 

 

結局、3人は嫌いな者同士の即席とは思えない連携によって、圧倒的多数の孫権軍を逆に圧倒、そのまま敗走させてしまったのでした。

 

 

 

また、正史本文には「儒教を重んじ、諸将と功績を争わず、優れた名士を尊敬して謙虚に接した」とあり、割と性格がフリーダムな魏軍上層部においてはなかなか珍しい、優等生タイプの扱いやすい人物だったのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/11/01 02:04:01

 

 

生没年:?~黄初7年(226)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

夏侯尚 魏 地味に名将 夏侯淵 荊州 ヤンデレ 愛の難しさ

 

 

 

夏侯尚(カコウショウ)、字は伯仁(ハクジン)。夏侯淵(カコウエン)の甥にしてして優秀な知将。同時にヤンデレでもあるというなかなか規格外の人。

 

かなりマイナーな部類に入る人物ですが、知ってしまうとなかなかのインパクトの濃さを発揮してくれる人物です。

 

 

っても、どうにも息子の夏侯玄(カコウゲン)のついでに伝が立てられた気はしてなりませんが……そこは呉の陳武(チンブ)あたりも同じこと。

 

 

早速、彼の記述を追ってみましょう。

 

 

 

 

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夏侯一族の良将

 

 

夏侯尚は曹操一門の夏侯一族の一人という事もあり、曹操(ソウソウ)からは一門衆として大事に扱われていたようです。

 

その過程で、曹操の息子である後の魏の文帝・曹丕(ソウヒ)とも知り合い、彼とはよき友人として死の際まで深く交流を重ねることになります。

 

 

 

袁紹(エンショウ)亡き後、彼の本拠地であった冀州(キシュウ)を平定した曹操は夏侯尚を軍司馬(グンシバ:部隊指揮官の位の一つ)として騎兵を率いさせます。こうして指揮官となった夏侯尚は、その後の征伐のお供をするようになりました。

 

 

こうして騎兵指揮官としてしばらく戦いに明け暮れていた夏侯尚ですが、後々には五官中郎将(ゴカンチュウロウショウ)として中央の衛兵を率いていた曹丕の属官に配属。

 

 

そして魏が国として成立すると、夏侯尚は魏国の黄門侍郎(コウモンジロウ:宮中の属官)に就任し、国属の官吏としての地位も得ました。

 

 

 

後に異民族である烏丸が北で反乱を起こすと、曹操の息子の曹彰(ソウショウ)がこれを討伐。この時、夏侯尚も曹彰の軍に参加し、功績を残したとされています。

 

 

 

建安25年(220)には、曹操が死去。この時、夏侯尚は曹操の棺を運び、洛陽(ラクヨウ)から、魏国の本拠地である鄴(ギョウ)まで曹操の遺体を運んで帰還しました。

 

その後前後の功績をたたえられ、散騎常侍(サンキジョウジ:中常侍とだいたい仕事は一緒。勅令の伝言役)に任ぜられ、平陵亭侯(ヘイリョウテイコウ)の爵位も与えられました。同時に、軍でも中領軍(チュウリョウグン:近衛隊指揮官。諸将の監督役)に昇進。魏の中でもかなりの大物に上り詰めたのです。

 

 

 

魏帝国の重鎮

 

 

 

曹丕が漢王朝を廃して魏帝国を建立すると、夏侯尚も平陵郷侯(ヘイリョウゴウコウ)、征南将軍(セイナンショウグン)へと栄転。荊州刺史(ケイシュウシシ)として一州を任せられ、南方諸軍事の都督(トトク)にまでなりました。

 

 

そしてこの年、夏侯尚は曹丕にある作戦を上奏します。

 

「荊州北西部を領有し、そこにに駐屯する劉備軍を駆逐しましょう」

 

 

曰く、「元々荊州西部は険しい道が続く上、劉備孫権軍を見ているばかりでこちらを警戒していません」とのこと。

 

 

曹丕はこれを快諾すると、夏侯尚はさっそく奇襲部隊を編制。曹操の死などもあって油断していた蜀軍は夏侯尚の奇襲部隊を受けて一気に壊滅し、荊州での足掛かりを失うことになったのです。

 

こうして無事に荊州北部の地盤を固めた夏侯尚は、征南大将軍(セイナンダイショウグン)に昇進。事実上の荊州戦線総大将として君臨することになったのでした。

 

 

 

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対呉戦線

 

 

この時期孫権は、魏の臣下として忠誠を示し、彼が呉も魏の属国としての立場を明らかにしていました。

 

しかし夏侯尚は、そんな孫権の様子を警戒し、対呉の防備を固めて有事に備えていたのです。

 

 

 

黄初3年(222)には、ついに魏呉の主従関係は決壊。

 

曹丕孫権討伐のため総力を挙げての親征を開始し、三方向から一斉に呉への総攻撃を開始したのです。

 

夏侯尚はこの時、西方の荊州戦線の大将として孫権領であり荊州の主要都市の江陵(コウリョウ)を包囲しました。

 

江陵では疫病が流行しており、守兵はわずかという状態。孫権はすかさず諸葛瑾(ショカツキン)を総大将とした救援部隊を編成し、夏侯尚らの元まで送り込んできたのです。

 

 

諸葛瑾は、長江の中州を中心に水軍と陸軍を双方を展開。水を盾に、容易には打ち破れない陣容を保っていました。

 

 

正面突破は困難。そう判断した夏侯尚は、夜襲による攻撃を計画。

 

一万の軍勢を率いてひそかに長江を渡河し、中州の陸戦部隊を攻撃。さらには水軍に対しても川を挟んだ反対側から火攻めをかけ、挟み撃ちにして諸葛瑾の軍勢を撃退。さらに中州を占拠したことで、江陵の包囲網はさらに盤石な物となりました。

 

 

 

しかし、奇襲はスピードが命。中州に軍を渡すのには浮き橋を一本立てているだけという有り様で、これが無くなれば敵中で孤立する形になってしまいます。

 

敵も歴戦の名将揃い。敵将・潘璋(ハンショウ)はすぐに魏軍の準備不足を看破し、夏侯尚らの渡ってきた浮き橋を燃やして破壊しようとさっそく準備にとりかかりました。

 

 

夏侯尚はそんな敵の動きを察知すると、中州の陣営を放棄して急ぎ撤退。何とか事なきを得ましたが、これによって江陵の包囲は完ぺきとは言えなくなってしまいました。

 

 

その後も疫病や内通のゴタゴタで守兵がわずかとなっていた江陵城攻撃は続けられますが、守将である朱然(シュゼン)の守りは固く、いまひとつ成果を得られず。

 

さらには流行り病が魏軍にまで伝染したことから、曹丕からの勅令を受けてやむなく撤退。この攻撃は失敗に終わりました。

 

 

が、援軍撃破の功績を挙げたのもまた事実。夏侯尚は功績が認められて荊州牧となり、事実上荊州全般の最高責任者へと格上げされたのです。

 

 

 

こうして孫権との国境を任された夏侯尚でしたが、当時の荊州は騒乱により大荒れ。異民族も複数入り込んできては荒らし回り、住民も孫権領側へと逃げ込んでいるという有り様でした。

 

 

夏侯尚はこれを憂慮し、前年蜀から奪った上庸から道を開通し、アピール活動も兼ねて軍隊を西へと行進させました。

 

結果、軍の威容に圧倒された山岳地の住民や異民族は次々と魏軍に従属。数年後には数千世帯も戸籍数を増加させることに成功したのです。

 

 

黄初5年(224)には、昌陵郷侯(ショウリョウキョウコウ)に移封され、領土も変更となりました。

 

 

 

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ヤンデレ気質の夏侯尚

 

 

さて、そんな夏侯尚には、お気に入りの愛妾がいました。夏侯尚は正妻よりもこの妾の方をはるかに愛しており、その態度は明白であったそうです。

 

ちなみに夏侯尚の正妻は、曹丕の同族の娘。それを大事にしないということは、つまりは皇族の威信にかかわる事だったのです。

 

 

というわけで、「これはいかん」と思った曹丕は、夏侯尚の妾を殺害。

 

 

これを見た夏侯尚は、いよいよ心を改めた……と思いきや、愛妻が殺された悲しみのあまり発狂

 

突然妻以上に愛する者が失われた悲しみから精神を病んで頭もおかしくなる有様で、とても直前までの知将の様子がないほどに弱ってしまったのです。

 

狂った夏侯尚は愛妾の姿が忘れられず、埋葬を終えた後にも悲しみのあまり再び会いたくなり、あろうことか妾の墓を再び掘り出して彼女の顔を見ようとし、しかも実行するなどの奇行に走り、周囲を唖然とさせたとか。

 

 

これを聞いた曹丕は、「夏侯尚をよく言わなかった杜襲(トシュウ)が彼を軽蔑したのはこういう事だったか」と腹を立てましたが、結局は夏侯尚の重用をやめなかったのです。

 

 

しかし、妾の愛をなくしておかしくなった夏侯尚は長く生きられるはずもなく、黄初6年には心から来た病はさらに悪化。いよいよ仕事などできなくなった夏侯尚は、そのまま洛陽に帰還。

 

その後も曹丕自らが見舞いに訪れて彼の様態に涙しましたが、その甲斐空しく、そのまま亡くなってしまったのです。

 

 

彼の後は嫡子の夏侯玄(カコウゲン)が継ぎ、甥も爵位を与えられるほどの厚遇でしたが……その息子も立派な人物でありながら晩年に運気が急降下し、最期には一族郎党処刑という末路を迎えることとなってしまったのです。

 

何ともやりきれない……

 

 

 

 

智謀の士なれど大物には……

 

 

魏書には、「計略、智謀に優れていた」とあり、そのため曹丕から認められて身分以上の付き合いをしていたようです。この辺りは、史書からも何となくうかがい知れますね。

 

しかし、杜襲は夏侯尚を「人のためにならない人物。厚遇するには値しません」と述べられ、事実として妾の事件の顛末を物語っている気がしなくはありません。

 

 

とはいえ、当時の主流は政略結婚。結ばれる人と運命の人が別というのはよくあることです。

 

 

そう考えると、運命の人と結婚後に出会い、面子のために殺されるという有り様はある意味同情に値しますが……

 

 

愛然り友情然り、やはりそのあたりの割り切りができないと、大物というのは伝わらない。……のかもしれませんね。

 

 

 

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続きを読む≫ 2018/10/31 13:28:31

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:兗州東郡

 

 

 

 

薛悌(セツテイ)、字は孝威(コウイ)。三國無双シリーズで何となくモブとして見かけて以降「誰やこの人」と思って気になっていたので、今回は彼のためにページを割きます。

 

身分の低い者の出というのは、特に九品官人法が貴族主義の権化として形骸化して以降は差別される立場にあります。

 

 

薛悌もそんな身分ゆえに「取るに足らない」とばかりに立伝がされていませんが……見てみると曹操の「求賢令」の申し子というか、その雛型の一人というか。とにかく、人当たりと処理能力に長けた名臣の一人であったようですね。

 

 

今回は、そんな取るに足らない超大物官吏・薛悌の記述を拾い上げていこうと思います。

 

 

 

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生まれの賤しい名太守

 

 

『魏略』によると、薛悌はかなり低い身分でありながら曹操(ソウソウ)に取り立てられ、彼が兗州牧(エンシュウボク:兗州の長官)となった時にはそのまま副官職の従事(ジュウジ)に大抜擢されました。

 

興平元年(194)、曹操が遠征に出ている最中のこと。この時、兗州の諸軍は呂布(リョフ)を引き入れて曹操に反乱。またたく間にほとんどすべての地域がこれに呼応し、留守番していた薛悌らはことごとく孤立してしまったのです。

 

 

留守番役の一人であった薛悌はこれによって一気に窮地に陥りますが、あくまで呂布軍には徹底抗戦を決定。同じく曹操側に残った程昱(テイイク)らに軍事行動を相談し、曹操が帰還するまでなんとか残った領土を保持。

 

曹操軍も呂布には苦戦しましたが、ここで薛悌らが領土を呂布に渡さなかったことで後々逆転。曹操軍は完全に呂布を追い払い、兗州を奪い返すことに成功したのです。

 

 

薛悌はこの時の功績によってか、22歳という若さで曹操の管理下を離れて泰山(タイザン)の太守に昇進。名士であってもなかなかできない出生を、庶民の身でありながらやり遂げたのでした。

 

 

 

 

合肥の戦いの監督役?

 

 

 

後に曹操が一大勇躍して冀州(キシュウ)を領土に加えた時、薛悌は王国(オウコク)なる人物と共に長史(チョウシ:大臣の副官?)に昇進し、後々には中領軍(チュウリョウグン)として近衛兵の監督まで任されるほどになります。

 

 

そして建安20年(215)の、後にいう合肥の戦いにも、護軍(ゴグン:軍の監督役)として参加。この時は曹操からの命令状を握っての参加であり、以下の言葉が書かれた書状を、守将である張遼(チョウリョウ)らに見せています。

 

「張遼と李典(リテン)は城外で敵の迎撃。楽進(ガクシン)は直接戦闘には参加せず、合肥城と薛悌を守る事」

 

まあこれは薛悌の策というより曹操の策の伝言役のような立ち回りですが……何にせよ、張遼らはこの師事の通りに孫権(ソンケン)の軍迎撃。圧倒的劣勢にもかかわらず見事に打ち破って勝利を収めています。

 

 

その後、薛悌は何をしたのかはわかりませんが……景初2年(237)に親友である陳矯(チンキョウ)が亡くなると、その後を継いで魏郡太守、そして尚書令(ショウショレイ:宮中文書を取り扱う部署の長官。宰相職)にまで上り詰めています。

 

 

没年は不明。これほどの大身の割に空白期間が多く、やはり庶民出身ゆえに後世の扱いはよくなかったことが伺えます。

 

 

 

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おおらかな人?

 

 

 

さて、このようにほとんど記述らしい記述の残っていない薛悌ですが……節々にある話を紐解いていくと、厳格なイメージの強い官僚には珍しく、温和でいい人な感じの逸話が残っています。

 

そのうちのひとつが、親友である陳矯との話。

 

 

陳矯は薛悌よりも世に出るのが遅く、薛悌が泰山太守をしていた時にはまだしがない小役人でした。

 

しかし、薛悌は陳矯の並々ならない才覚を看破。身分不相応なまでに親しく親交を結び、ある時陳矯に対してジョークをぶちまけたのです。

 

「しがない郡の役人でありながら、高給取りの官僚とこうして親しくなる。隣国の君が、陪臣に無理やり付き合わされるのも、まあ面白いじゃないか」

 

 

また、伝が立てられている高堂隆(コウドウリュウ)なる人物を自分の側近に加えたりもしたのですが……この時に郡の軍事担当者が薛悌と口論になり、平民出身の薛悌を名前で呼んで舐めた態度を取ったことがありました。

 

この当時、上司に対して役職でなく名前で呼ぶのはそれこそ死刑レベルの不敬であり、薛悌の後ろに控えていた高堂隆は激怒。ついにはその人物を斬り殺そうと剣の柄に手をかけるほどの事になったのです。

 

 

この時に薛悌は、一緒になって怒るどころか逆に高堂隆を慌てて制止。軍事担当者は顔色を真っ青にしながらも命だけは助けられました。

 

もっとも、この後に高堂隆は下野してしまうのですが……

 

 

これらの逸話から見るに、もしかしたら薛悌は低い身分の出であるがゆえに、身分や儀礼にいい意味で固執しなかったのかもしれませんね。

 

 

 

ちなみに『世語』では、薛悌の事を以下のように評しています。

 

忠誠心があって事務仕事に練達しており、世の官吏の手本だった。

続きを読む≫ 2018/10/18 21:12:18

 

 

生没年:?~正元2年(255)

 

所属:魏

 

生まれ:司州河東郡聞喜県

 

 

 

 

毌丘倹(カンキュウケン)、字を仲恭(チュウキョウ)。魏に反乱を起こした人物の一人として出ており、近年では無双シリーズでも固有モブとして出ていますね。

 

その印象は、司馬一族にただ反旗を翻した人。晋の時代に書かれた三国志でもおおよそそんな扱いですが……実際の将としての実力は確かな物であったようです。

 

 

さて、今回はそんな反乱地獄に消えた一人、毌丘倹の伝を追ってみましょう。

 

 

 

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父の代からの寵臣

 

 

 

毌丘倹は父親の代から魏の家臣で、父も反乱討伐などで列侯に加わるなど大きな活躍をしていました。

 

そんな偉大な父親の爵位を受け継ぐ形で毌丘倹は都に出仕。曹叡(ソウエイ)の代になると、尚書郎(ショウショロウ:宮中文書を司る部署の務め)、後に羽林監(ウリンカン:近衛隊の指揮官)、しばらくすると都から出て、洛陽の典農(テンノウ:典農校尉?)となりました。

 

 

また、曹叡が皇太子の時からお付きの一人として非常に仲良くしており、その事もあってとにかく優遇されていたと言われています。

 

毌丘倹もまた魏への忠誠は厚かったようで、曹叡が宮殿を濫造するようになると命を惜しまず「呉や蜀もまだ健在な中、衣食にも優先してこんなものを作ってどうするのです」と諫言。

 

皇帝のやる事に文句を言うのは、本来ならば首をはねられても仕方のない事だったのですが……曹叡は元々こういった諫言に思うところがあったようで、毌丘倹をはじめ多くの臣下の苦言を受け止め、毌丘倹に至ってはその後に荊州刺史(ケイシュウシシ:荊州の監査官)にまで出世させられました。

 

 

 

 

 

北方平定のスペシャリスト

 

 

 

こうして首都近郊から外に飛び出した毌丘倹ですが、年号が青龍となってしばらくすると、北方の軍事司令官に適任として幽州刺史(ユウシュウシシ)に転任。度遼将軍(ドリョウショウグン)、護烏丸校尉(ゴウガンコウイ:異民族侵攻からの防衛司令官)として北方の防衛にあたります。

 

 

こうして対異民族本部を任された毌丘倹は、幽州の兵を率いて異民族の領地に侵攻。数十年に渡って魏と敵対してきた異民族を降伏、帰順させることに成功します。

 

 

しかし、北方にはもう一つ、大きな問題がありました。遼東(リョウトウ)一帯を支配していた公孫淵(コウソンエン)です。

 

公孫淵は毌丘倹の幽州赴任より前からも怪しい動きを見せていましたが、毌丘倹の北方進出と前後して魏に反逆。敵対してきたのです。

 

 

毌丘倹はすぐに軍勢をまとめて公孫淵の軍と戦いましたが、形勢不利となり敗北。公孫淵は燕王を名乗り、魏の周辺領土を荒らしまわるようになってしまったのでした。

 

 

が、翌年には毌丘倹だけでは荷が重いとして、魏の軍事の重鎮・司馬懿(シバイ)が数万の兵と共に公孫淵討伐に出向。毌丘倹も、副将として軍に組み込まれることとなりました。

 

公孫淵は魏に反発的な異民族と自軍を混成した大部隊でこれを迎え撃ちましたが、司馬懿の軍略の前には成す術もなく敗死。これによって公孫淵の反乱は収まり……毌丘倹も、この戦の中で何かを目覚めさせたのです。

 

また、この戦いで目覚ましい活躍を示したのか、毌丘倹は安邑侯(アンユウコウ)に昇進。領土が三千九百戸と、武官のそれにしては破格の領土を賜ったのでした。

 

 

ちなみに、公孫淵討伐に呼応して、反公孫淵派の烏丸部族、そして朝鮮半島に国を築いていた高句麗(コウクリ)も公孫淵の領地に攻め込んだとか。

 

なお、単独で公孫淵征討にあたった毌丘倹の用兵は稚拙な物だったようで、魏の重臣である衛臻(エイシン)からは「異民族も領民も従えて戦闘力も万全の公孫淵に対して無謀すぎる」と批難し、実際にその予測通りになっています。

 

とはいえ、毌丘倹は司馬一族からすると裏切り者の怨敵。後の活躍からしても、誰から見ても論外な戦い方をするかと言われるとグレーだったりしますが……

 

 

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高句麗征伐

 

 

 

さて、数年後に共通の敵である公孫淵がいなくなったことで高句麗との関係が急激に冷え込むと……毌丘倹は突如として覚醒します。

 

 

まず毌丘倹は、侵略行為を続ける高句麗に対して幽州の諸軍一万を指揮して迎撃、これを撃破。

 

その後、先遣隊壊滅を聞いた高句麗の王・位宮(イキュウ)が二万の兵を率いて進出してきましたが、毌丘倹はこれを大会戦で一気に撃滅してしまいます。

 

 

この大会戦で勢いに乗った毌丘倹軍は、位宮を追撃して連戦連勝。険しい山々を超えてどんどん高句麗の奥深くに入り込み、なんと都まで攻め寄せました。

 

しかし、毌丘倹が都に攻め寄せた時には、位宮はすでに都からも逃走。結局、この時の高句麗征伐は圧勝しつつも失敗という形に終わっています。

 

 

後に、毌丘倹は正始6年(245)にも高句麗征討を実行。この時も高句からすれば鬼神のような強さで各所を蹂躙。文字通り千里のかなたまで攻め入って、戦勝記念に現地の城壁や山に文字を掘って勲功を誇りましたが、この時も高句麗の王自身は取り逃がしてしまったようです。

 

とはいえ、これだけの活躍。朝廷が見逃すはずもなく、この時列侯に加えられ遠征参加者は百余りにも上り、撃破数は八千にも上ったとされています。

 

 

また、トンネルを掘っての感慨整備も実行して民にも恩恵を与えており、密かに統治能力の高さもここで披露しています。

 

 

 

 

 

栄転、そして反逆

 

 

 

その後、毌丘倹は豫洲刺史(ヨシュウシシ)、左将軍(サショウグン)に昇進。また、鎮南将軍(チンナンショウグン)となって周辺の軍事を統括する役割も担いましたが、やがて呉に負けた諸葛誕(ショカツタン)と後退で揚州(ヨウシュウ)の軍事都督、鎮東将軍(チントウショウグン)になります。

 

後、諸葛誕に勝利した勢いで呉の諸葛恪(ショカツカク)が攻め寄せてくると、毌丘倹は後の相方となるクソ野郎文欽(ブンキン)と共に完全防御。やがて援軍の司馬孚(シバフ)による包囲突破と呉軍の疫病流行によって完全にこの苦境を防ぎ切り、難局を打破する一因となったのです。

 

 

 

しかし、毌丘倹の運気はここで急下落。突如として密かにまかれた火種が爆発し、魏での居場所がなくなってしまいます。

 

その要因となったのは、仲が良かった夏侯玄(カコウゲン)、李豊(リホウ)らのクーデター未遂及び処断。数年前に曹爽(ソウソウ)が排除された政変が起こりましたが、彼らはその残党だったのです。

 

 

友人のクーデターにより、毌丘倹の立場は一気に危ういものになります。

 

そこで、彼が目を付けたのが曹爽派生き残りの文欽。彼は文欽と懇意にし、お互い友好的な間柄を結成。文欽も文欽で戦功の水増し報告が認められずに不満が溜まっており、毌丘倹から懇意にされたことで、彼を味方と考えるようになりました。

 

 

さて、こうなるともう後戻りはできません。毌丘倹は「司馬一族の長を司馬師(シバシ)から弟の司馬昭(シバショウ)に変えてください」と朝廷に懇願して拒絶されると、その翌年である正元2年(256)、ついに挙兵。

 

吉兆が上がったと知った毌丘倹は、すぐさま周囲の役所を脅迫して民兵込みの軍勢を結成。五、六万にもなる軍勢を率い、対呉本拠地である寿春(ジュシュン)で司馬師に反乱を引き起こしたのです。

 

 

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毌丘倹の乱

 

 

 

さて、こうして突発的に始まった毌丘倹による反乱ですが、やはり事が事です。当然ながら、司馬師本人が自ら軍を率いて征伐にやってきました。

 

毌丘倹軍は、あくまで急造。あまり長期戦をとれる猶予は無かったため、文欽に遊撃を任せて前線の項城(コウジョウ)で迎撃する構えを見せます。魏と敵対する呉軍は、間違いなく毌丘倹軍の味方に付く。そのため、まずそれまで耐えようとしていたのかもしれませんね。

 

 

しかし、司馬師は安易に正攻法に応じない鬼才。毌丘倹が正面での戦線に備えている間にも、すでに裏で刻々と準備を進めていたのです。

 

司馬師は先鋒の王基(オウキ)を派遣すると、毌丘倹軍の前線基地である南頓(ナントン)を占拠し固守。さらに胡遵(コジュン)の軍が東の東側から毌丘倹の軍勢を挟撃し、形勢不利となってしまったのです。

 

さらには文欽も司馬師の本体によって撃破されて呉に逃亡したことで、大勢は決してしまいました。

 

 

毌丘倹は強迫によって味方につけた兵たちが次々と投降する中、夜闇に紛れて逃亡。何とか寿春の近くににたどり着きましたが、そこで待っていたのは、司馬師の配下である諸葛誕の軍勢。

 

 

もはやどうしようもないと毌丘倹は呉への亡命を図りましたが、草むらに隠れていたところを見つかり射殺。急造の毌丘倹軍は雪崩をうったように降伏していき、結局反乱はすぐに収まってしまったのです。

 

ちなみに彼に同行していた弟と孫は、なんとか呉に逃げ延びたとか。

 

 

 

 

人物評

 

 

 

どれほど切羽詰まっていたとはいえ、裏切り者の毌丘倹。後世の評価は、お世辞にも高いものとは言えません。

 

三国志を編纂した陳寿は、彼のことを以下のように評しています。

 

 

ずば抜けた才腕と見識を有していたが、野心を抱いて後先考えずに反乱を起こしたため、一族とともに殺された。

 

 

マイナス評価に至っては他の司馬一族に反旗を翻した将と同じですね。

 

 

実際、毌丘倹の反乱は突発的な物。公孫淵に負けた事と合わせて考えると、やはり彼に大局眼は備わっていなかったと考えるのが正解かもしれませんね。

 

とはいえ、兵を率いる将軍としては非常に優秀な人物だったのもまた明らか。高句麗への出兵に関しては、まさに将軍として文句なしの活躍でしょう。

 

 

戦争には非常に強かったものの、時勢や物事の流れが見える知将の側面は持ち合わせていなかった。おおよそ、毌丘倹の人物像はこんな感じかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/10/14 16:54:14

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:?

 

 

 

 

高祚(コウソ)、および解𢢼(カイヒョウ)は、いったいどこの出身で何をしたか、どんな地位にいたかもわからない、言ってしまえばただのモブ。本来ならば史書に埋もれて語ることもできないその他大勢のうち一人であり、史書においても一度しか出てこないその他大勢です。

 

しかし、個人的にはたった一つの出番における、それも与太話程度の真偽不明の話がギャグ満載の逸話だったのが強く印象に残っています。

 

 

というわけで、今回は高祚、解𢢼の、たった一つの見せ場について記載してみようと思います。

 

 

 

 

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奇襲部隊の指揮監督者?

 

 

 

さて、まずは正史本文の記述から。

 

曹操(ソウソウ)は建安20年(215)、ついに天下統一に大手をかけるため、劉備(リュウビ)らが得ていた益州(エキシュウ)の玄関口・関中(カンチュウ)を領する張魯(チョウロ)を攻め下そうと進撃を開始しました。

 

しかし漢中に続く道は、現代における秦嶺山脈と言われる天然の要害。兵を率いて超えるのもやっとであり、しかも山脈を超えて漢中に迫ったところで、今度は陽平関(ヨウヘイカン)という関所に籠った敵軍の迎撃が待っていました。

 

 

当然これらを乗り越えないことには漢中の制覇は不可能であり、曹操軍は行軍、疲労、兵糧輸送の困難とあらゆるハンデを背負ってなお戦わなければならなかったのです。

 

迎え撃つのは、張魯の弟・張衛(チョウエイ)や楊昂(ヨウコウ)、楊任(ヨウジン)といった将たち。いずれも益州の盆地帯からの攻撃を耐え抜いてきた猛者であり、曹操軍は強大なハンデと彼らの前に打つ手がなくなり、一時後退を余儀なくされてしまいました。

 

 

そんな時、名前が出てきたのは高祚、解𢢼の二名。彼らは味方の後退で気を緩めた敵陣を奇襲すべく、それぞれ軍勢を率いて険しい山の中を迂回。行軍も困難ならば偵察するのも難しい山伝いを進んでいき、完全に緩み切った張衛らに夜襲を仕掛けたのです。

 

 

高祚らの突然の攻撃に、張衛軍は成す術なく敗走。敵将・楊任は混乱の中で討死し、敵軍は総崩れとなりました。

 

 

これを知った張魯は、もはやこれまでと見て曹操に降伏し、彼ら二人の奇襲のおかげで曹操は漢中を制覇するに至ったのでした。

 

 

 

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異説・二将ただの迷子説

 

 

 

……と、これだけならば、ただの格好いい武勇伝であり、彼らはまあ渋い名将として、三國志や三国志大戦シリーズにも凡将としてくらいならば役割を与えられたことでしょう。

 

しかし、その程度で終わる人物を、わざわざ丁寧に紹介することもありません。なんとこの二人、張魯伝が引く『世語』にはとんでもない異説が書かれていたのです。

 

 

ズバリ、タイトルにある通り、ただの迷子説

 

 

世語によれば、この抵抗は張衛の独断。降る気満々の張魯を邪魔して、張衛が勝手に曹操と戦っていたのです。

 

曹操軍は抵抗する張衛を攻撃しますが、結果は本文にある通り。結局攻めきれず、攻撃を取りやめることになります。そして本文では一時撤退に過ぎないのですが、『世語』の話では、曹操軍は本当に漢中から引き上げようと考えてました。

 

 

それもそのはず。実はこの漢中の山々は、先述した通り非常に険しい山々。海抜2000メートル級の山々がごろごろある中を、曹操は泣き言を言いながら行軍してきた(劉曄伝より)のです。そしてようやく山を越えた先がこの通りの抵抗なので、心がぽっきり折れてしまったわけですね。

 

結局曹操は撤退を決意したらしく、この旨を高祚らにも伝えます。

 

かくして、高祚らは撤退を始めたのですが……如何せん方向感覚の利かない山の中。なんと高祚軍は、撤退と誤って敵陣に向けて進んでいってしまったのです。

 

 

そして夜、防戦の構えを続ける張衛軍の前に現れたのは、数千頭もの野生の鹿。鹿たちは何かに怯えるように逃げてきて、せっかく作った張衛軍の防衛陣地を破壊しながら迫ってきたのです。

 

呆然とする張衛たちでしたが、そこになんと、迷子になった高祚軍が誤って突撃。双方予期せぬ展開に、大混乱に陥ります。

 

オマケに高祚が部下に命じて鳴らした軍太鼓が夜半の陣内に響き渡った事により、張衛軍は「大軍が攻めてきたぞー!」と誤情報が出回り大混乱。結局慌てふためいた張衛らはそのまま自壊し、高祚軍は予期せぬ勝利を得ることができたのでした。

 

 

 

 

ちなみに……

 

 

ちなみに、魏臣の上奏をまとめた『魏名臣奏』に残っている謀臣・董昭(トウショウ)の言によれば、この時に迷子になったのは夏侯惇(カコウトン)と許褚(キョチョ)が率いる軍だとか。

 

また、劉曄(リュウヨウ)伝では曹操軍は引き上げようとしたところ劉曄が「勝てます」と断言したからやっぱり攻撃したとか、いろいろと情報が錯綜していますね。

 

 

結局は陽平関の戦いにおいて名前だけは上がっているので、まあ張衛の軍に突入したのは高祚、解𢢼の二名でほぼ間違いないでしょうが……董昭の証言を事実とすれば、彼らは夏侯惇や許褚の部将か何かだったのでしょうか?

 

 

 

まあ、世語は所詮は与太話程度に捕らえたほうが間違いない資料ではありますが……董昭も言っていますし、迷子説はちょっと推していきたい話ではあります。

続きを読む≫ 2018/10/04 20:38:04

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:司隷京兆尹杜陵県

 

 

 

 

杜畿(トキ)、字は伯侯(ハクコウ)。魏を裏から支える名太守にして、激流に身を任せ同化しきれなかった人。そして注釈では「大雑把」だの「うっかり死亡フラグを立てる」だの、飛び抜けた有能さの割に抜けたところが多そうな人物でもあります。

 

政治と知性ばかりが目立つ人物ですが、『傅子』では荀彧(ジュンイク)に知勇兼備の逸材と言われているため、おそらく政治も戦争も両方行けたクチでしょう。

 

 

戦場以外で溺死というむなしい最期を迎えたことからそこばかりネタにされる人物ですが……それだけでないところもたどりつつ、彼の伝を追っていこうと思います。

 

 

 

 

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DV家庭出身の名政治家

 

 

 

杜畿の家は早くに父を亡くし、唯一残った母親も実母でなく継母だったそうです。しかも継母は、杜畿の事が大嫌い。事あるごとに杜畿に突っかかっていじめるという、言わばDV家庭に育ったとされています。

 

しかし、杜畿はそんな逆境においても儒教の精神を大事にし、そんな継母に対してもきちんと母として応対。継母が杜畿を認めることはついにありませんでしたが、世間からは「素晴らしい孝行話」として取り上げられ、これが杜畿の出世に繋がっていきます。

 

 

彼は20歳の時に郡から召し出されて功曹(コウソウ:人事を担当する役人)として召し出され、同時に鄭(テイ)県の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)を代行。数百人の未判決者が集まっている未判決の裁判沙汰に自ら出席して、すべての刑罰を判決しました。

 

この時の刑罰は全部妥当というほどでなかったものの要点はきっちりまとめきっており、周囲は「まだ若いのに」と太鼓判を押したとか。

 

 

後に孝廉(コウレン:地元推挙)に推されて漢中(カンチュウ)の丞(ジョウ:県令などと同じような意味合い)になったものの、世の乱れ(たぶん張魯劉焉あたりのせい)で杜畿は官を捨てて荊州に遁走。地元に帰ったのは建安の年号の間(196年以降)でした。

 

杜畿は帰郷後に荀彧(ジュンイク)からのスカウトを受け、曹操(ソウソウ)の直臣として陣営に迎えられ、後に護羌校尉(ゴキョウコウイ:西の異民族・羌からの侵攻を防ぐ武官)として、仮節(カセツ:処罰権のひとつ。軍令違反者を処罰する)を手渡されて西平(セイヘイ)郡へと向かったのです。

 

 

 

『魏略』では若くから大志を持ち、亡くなった継母の遺体を運ぶときに賊に襲われても、一歩も引かず遺体の安全を懇願し許されるほどだったとか。

 

ちなみに功曹への抜擢は、旧友の張時(チョウジ)によるもの。杜畿はこの時、「大雑把で仕事に向いていない」と酷評されたことがありましたが、逆に「功曹より太守の方が俺向き」と言ったとのことですが……これが負け惜しみでなく事実であると知っていた人物は、当時いったい何人いたでしょうか?

 

実際、張時は後に河東太守になった杜畿にあった時、「まさかあいつがなあ」と嘆息したとか。

 

 

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反逆の萌芽

 

 

 

曹操は宿敵・袁紹(エンショウ)の死後、その旧領を次々と占拠。一時期隆盛を極めていた袁氏の勢いは、急速に衰えつつありました。しかしそんな折、袁紹の甥である高幹(コウカン)が野心を胸に、幷州(ヘイシュウ)で挙兵。曹操軍中からも内通者が出ていました。

 

杜畿が太守として転任した河東(カトウ)の地でも、まさに衛固(エイコ)、范先(ハンセン)の二人が高幹に内通。杜畿が河東に転任したのも、こういった危険人物によって要衝が奪われるのを曹操らが危惧したためでした。

 

当然、衛固らからすると、杜畿の赴任は面白くありません。彼らは数千の兵を率いて渡しを切り、道を寸断。杜畿の赴任を不可能な状態にしようと目論んだのです。

 

 

これを聞いた曹操は彼らを討伐しようと腹心の夏侯惇(カコウトン)を派遣しますが、杜畿はその到着を待たずに移動を再開します。

 

 

「反乱は郡中の全員が望んだことではなく、一枚岩ではない。彼らは一応とはいえ朝廷の命令に背いているわけではなく、排除を目論むだろうが思い切った行動はできまい。ならばいっそ、正式な太守である私はこのまま郡の役所に赴き、奴らを牽制してやろう。このまま援軍と共に攻め入って河東が一丸となって背いたのならば、それがもっとも始末が悪い」

 

 

かくして杜畿は一台の車だけを引き連れて間道を通って河東郡内に入り、衛固、范先らの元に顔を出しました。

 

范先は下役人数十名を殺して杜畿を威嚇、そのまま驚いた杜畿を殺すことで人々を無理矢理従わせようとしましたが、当の杜畿はそんな脅しに一切応じず、平然とした顔でやり過ごします。

 

杜畿の動揺しないさまを見た衛固は「殺すと悪評が立つから、いっそ手中に置いて人質にしてしまおう」と范先に提案し、結局二人は杜畿を殺すのを取りやめました。

 

こうしてうまく河東に入り込んだ杜畿は衛固らを表向き重用しつつも、あの手この手を使って妨害。兵力の大動員を「民衆が動揺する」としてゆっくりとした募兵に変更させ、集まった兵たちも「時折休暇を与えてやろう」と言ってまとまりと戦力を削ぎ、その裏で密かに話の通じる豪族たちと結託していきました。

 

 

その後、高幹は周辺の諸勢力と共に、ついに河東周辺の各地に侵攻。高官たちが軒並み殺されるという事件が起こり、ついに高幹の魔手は河東にも至る事になったのです。

 

しかし、杜畿の顔に患いは無し。すでに味方する豪族も多く、杜畿が数十騎だけを率いて防衛に向かったときにも、最終的に数千の軍勢に膨れ上がるほどの味方を得たのです。

 

 

結果、杜畿は高幹らの攻撃を援軍到着まで十分に耐え抜くことができ、最終的に衛固や高幹らは処刑。残党も平民に戻り、領内の混乱は無事に収束したのでした。

 

 

『魏略』によれば衛固は杜畿とは知り合いと言える間柄だったものの、衛固は杜畿を馬鹿だと思い込んで散々コケにしていたそうな。

続きを読む≫ 2018/10/04 15:25:04

 

 

生没年:建寧元年(168)~ 黄初4年(223)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

勝手に私的能力評

 

曹仁 守護神 樊城 江陵 無双 鉄壁 勇将 バケモノ

 

統率 S 実は曹操軍において完全独立部隊を率いて戦った人物の一人。当代屈指の戦闘力と統制能力を変われた結果だろう。ただし朱桓には異様に弱い。
武力 S 間違いなく最強候補。目の当たりにした陳矯からは「この世のものではない」と天界人認定される始末。
知力 B 知勇兼備の勇将。だがこれといったエピソードもなく、演義で負けるイメージばかりのせいでイマイチ頭がよく見えないのがネック。
政治 D これほどの大身になると政界にも顔が利きそうだが、政治エピソードを訊かれると返答に困る。
人望 一流の将とは戦闘力だけでなく人望も持つ物。曹丕の代には魏の軍人代表にまでなった。演義にて禰衡に曹洪と間違えられるのは何とも言えない哀愁を誘う。

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曹仁(ソウジン)、字は子孝(シコウ)。ゲームなんかの印象で、鉄壁のディフェンス能力を誇るいぶし銀のような印象を受ける人が多い武将ですね。

 

が、実際は派手な武勇伝や実績も多い花形といったところ。私もはじめのころは地味な印象を持っていたので、史書を読んでみてビックリです。

 

 

今回はそんな曹操一族のエース(ガチ)、曹仁の伝を紐解いていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やんちゃで豪胆な別動隊長

 

 

曹仁と言えば地味目で正統派な武将のイメージがありますが……見たところ、若い頃はかなりのヤンチャだったそうです。

 

弓術、馬術、狩猟が大好き。各地の豪族が一斉に決起独立した時に、曹仁もまた行動開始。若い衆を集めて地元近くの淮水(ワイスイ)や泗水(シスイ)といった、故郷からちょっと離れた地域を根城にブイブイ言わせていたそうな。

 

 

そんな感じでしばらく好き勝手に暴れ回っていた曹仁でしたが、従兄の曹操(ソウソウ)が挙兵したと聞くと、その配下に参入。すぐに別部司馬(ベツブシバ:非主力隊指揮官)と、高級武官である校尉(コウイ)の位を授かり、即戦力として働くこととなりました。

 

 

 

初平4年(193)。曹操袁紹(エンショウ)連合下の一群雄として敵連合盟主の袁術(エンジュツ)とぶつかった際には、最前線で部隊を指揮し、多くの手柄を挙げます。

 

部隊指揮だけでなく個人武勇にも物を言わせており、曹仁自身が討ち取ったり生け捕りにした兵士の数はとんでもない数にのぼったとか。

 

 

さらには群雄の陶謙(トウケン)を攻めた時には騎兵を率い、常に先鋒として暴れまわりました。また別動隊として敵の部隊と当たったときには、敵別動隊大将の呂由(リョユウ)を撃破し、本隊に合流。さらにそこでも陶謙本隊撃破に貢献。もう大暴れです。

 

勝ちに乗った曹操が兵を分担して複数の県を攻めた際には、曹仁が率いる騎兵が陶謙から送られた救援部隊をことごとく撃破。遊撃隊として大いに活躍する様が史書には書かれています。もうこの時点でいろいろおかしい

 

 

 

その後呂布(リョフ)と戦うことになった際にも、またしても別動隊を率いていた曹仁は句陽(コウヨウ)という土地を攻撃。そのまま陥落させ、劉何(リュウカ)という武将を生け捕りにしています。

 

 

その後も史書では端折られていますが、曹操が漢帝を擁立するときや黄巾の反乱軍を討伐する際にも手柄を立てたので、曹操はその知勇を賞賛。あえて任地を与えず、手持ちの主力武将として彼を暴れ回らせる事にしたとか。

 

 

その後の 建安2年(197)、曹操が張繍(チョウシュウ)を攻めた際にも別動隊として騎兵を率い近隣を攻撃。住民らを含めた三千人の捕虜を獲得。

 

しかしその戦いの帰り道、曹操は突如張繍による反逆を受け、結局負け戦になってしまいました。この時兵士たちはやる気を失い消沈し、張繍に一方的に押されていましたが、曹仁は兵士たちを叱咤激励。周囲がまともに動けない中でほぼ唯一、獅子奮迅の働きを見せたとか。

 

 

 

 

 

いつの間にか知勇兼備に

 

 

 

そして時が変わり、建安5年(200)。この時、曹操袁紹の配下という立場を脱し、彼と決着をつけるべく官渡(カント)の地で対峙していました。

 

 

が、曹操軍は劣勢。さらには曹操派の豪族たちは苦戦する曹操を見て袁紹への鞍替えすら考え、その上背後では劉備(リュウビ)が得意のゲリラ戦術を展開して背後を荒らしまわり、実際に大半の豪族は袁紹方に寝返るという最悪に近い状況だったのです。

 

 

この状況を打破すべく、曹仁は曹操に提案します。

 

「後方の豪族の迷いは、我が軍が官渡から動けないので、万一の時に助けてくれないのではという考えからきています。そこに精鋭部隊を従える劉備が攻めてきているので、裏切りも多発するのは当然。

 

しかし、劉備袁紹軍に入ってからそう長くはありません。連携もうまく取れない今ならば打ち破れるでしょう」

 

 

曹操はこの案を採用し、すぐに曹仁に自慢の騎兵を任せて劉備討伐を任命。

 

劉備軍に当たった曹仁はすぐさま攻撃を仕掛け、慣れない袁紹軍の指揮に戸惑う劉備を即座に撃破、敗走させ、その後劉備に降っていた各県もすべて奪還して帰還しました。

 

その後史渙(シカン)と共に袁紹軍の輸送部隊を襲撃、撃破していますが……この辺はイマイチ影が薄いのはなぜか。

 

 

 

 

最終的に曹操袁紹を撃退し、さらに袁紹も病死した後、曹操袁紹が支配していた河北の領土に攻勢を開始します。

 

 

そして旧袁紹軍の本拠地を陥落させた後、曹仁は曹操の指揮下として壺関(コカン)を攻めることになりました。

 

曹操はこの時、パフォーマンスも兼ねてか、「敵は全滅させるように」と布告。これを聞いた敵兵は死にたくない思いで必死に抵抗し、関所の包囲は数ヶ月という期間に上りました。

 

この時も曹仁は曹操に対し、現状を見た上で一つの案を進言します。

 

「死ぬとわかれば、敵は必死に抵抗するものです。元々堅固な城壁と豊富な食料を有する敵を攻める際は、敵を本気にさせるより、退路を作って敵を無駄に怖がらせないようにしましょう」

 

曹操はそんな曹仁の訴えを聞くと、すぐさま包囲軍にあえて抜け穴を作り、敵軍に安心感を与えて気力を削ぐことに。結果、曹操軍があれだけ苦戦したにもかかわらず、防衛部隊は精魂尽き果てて投降し、あっさりと決着がついたのでした。

 

 

曹操はいつのまにか知勇兼備になっていた曹仁の姿を喜び、領土を封じることにしたのです。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/04 14:29:04

 

 

生没年:喜平6年(177)~建安22年(217)

 

 

所属:魏

 

生まれ:兗州山陽郡高平県

 

 

 

 

王粲(オウサン)、字は仲宣(チュウセン)。三国志における文学の代表者で、「建安七子」などという異名を持つ人物の一人なのですが……なんだろう、容姿で損をしているというか、なんというか。

 

この時代、見たくれと家柄は才覚以上に評価ポイントが高かった時代なのですが、王粲は史書で堂々と「ヒョロヒョロのブサメンだった」と書かれており、名家の出であるにもかかわらず妙な哀愁を漂わせています。

 

 

しかし、その文才は本物だったようで、ひとたび筆を執れば、推敲の時間を一切設けることができないほど速筆だったと言われています。

 

今回は、そんな王粲の伝を見てみましょう。

 

 

 

 

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見る人は見てる

 

 

 

 

王粲は元々、曾祖父、祖父と二代で宰相に就いていた名門中の名門の出です。しかし、いわゆる党錮の禁という政治戦争によって祖父は干され、王粲が生まれた頃には一族の栄達に陰りが見えつつあったようです。

 

 

王粲の父は何進の属官となりましたが……家柄コンプレックスを抱え周囲からも庶民上がりと馬鹿にされる何進は名門と結ばれたいと考え、王粲の父と婚姻関係を持とうと双方の子の見合いを画策しました。

 

 

しかし、王粲の父は「肉屋ごときと婚姻などまっぴらごめんだ!」とばかりにこれを拒否し、その後病を得て免職され、そのまま家で亡くなってしまったのです。

 

 

王粲の祖父が干されたのは『漢紀』からの引用で明かされています。

 

何でも、水害の責任を取らされ懲戒免職。そのまま名士層で構成された清流派の主要人物として祭り上げられ、宦官政治に対する批判では「彼をトップと交換すべき」等と言われて宦官に恨まれたようですね。

 

後に宦官VS外戚という構図に戦いは変わりましたが……いかに家柄主義の社会では家格を大いに汚すものであれ、外戚側のトップである何進を敵に回すとはなかなかに絶望的。まあ、そこまでしてでも家格が大事になる時代だったとも言えますがね。

 

 

さて、では伝の主役である王粲ですが……董卓(トウタク)の政変の後、都が長安(チョウアン)に移ると彼もまた長安に向かい、後に蔡邕(サイヨウ)という超大型名士の元を訪れました。

 

蔡邕という人物は董卓派名士の中でも筆頭格といってもよいくらいの人物で、家柄、才覚、学術とあらゆる点で超一流でした。そのため、多くの人から慕われて朝廷でも信用されていました。

 

 

さて、そんな蔡邕邸に到着した王粲でしたが、彼はこの時まだ年若く容姿も貧弱で、蔡邕の元に居ついている面々からは「何しに来たお前!?」と思われてしまうほどだったそうな。

 

が、蔡邕自身は履物の左右も確認しないまま慌てて王粲を出迎え、彼の才を以下のように称したのです。

 

 

「この人はあの三公を輩出した王一族のお孫さんじゃ。わしでは遠く及ばんほどの特別な才覚を持っておられる」

 

 

そう言い切った蔡邕は、自分の家の書物をすべて王粲に寄贈。家柄と才覚の関連性は個人的によくわからないところではありますが……ともあれ、この蔡邕の書物寄贈が、後に王粲の才覚を目覚めさせることになったのです。

 

 

 

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王粲、南へ

 

 

 

王粲は後に17歳で司徒(シト:民政大臣)に招聘されて、さらに勅命で黄門侍郎(コウモンジロウ:中内外の連絡役で、朝廷の側近)に任命される事になりました。

 

しかし、この当時は董卓は死亡し、その後大きく都周辺が荒れているという動乱の時期。王粲はそんな血生臭い環境を好かなかったようで、結局はどちらも辞退。そのまま荊州(ケイシュウ)へと南下し、劉表(リュウヒョウ)の元でお世話になる道を選びました。

 

 

が、この劉表もやはり、当時の価値観を大事にする群雄。王粲の見た目の貧相さと細かいところを気にかけない性格を嫌い、重宝することはしなかったようです。

 

こうして劉表の元でしばらく埋没していた王粲ですが、建安13年(208)に劉表が亡くなると、再び歴史の表舞台に姿を現します。

 

 

劉表の子である劉琮(リュウソウ)がその後を継いだ直後、最大勢力にまで膨れ上がった曹操(ソウソウ)が荊州に南下をはじめ、家中では降伏か抗戦かで意見が分かれました。

 

王粲は、この時劉琮に降伏を進言。この意見は容れられ、劉琮は降伏。王粲はそのまま曹操の属官に取り立てられ、関内侯(カンダイコウ)として列侯に加えられることになったのです。

 

 

また、漢水のほとりで曹操が宴会を催したときにも、王粲は盃をささげて祝辞を述べています。

 

 

「河北の英雄・袁紹(エンショウ)はその物資と戦力をたのみとして天下を併呑しようとしましたが、優れた人物を上手く扱うことができず、賢人は彼の元を去りました。

 

劉表はこの豊かな荊州で悠然としていれば偉大な賢人と同格になれると思い込んでいました。実際に優れた人物が次々と疎開して身を寄せてきましたが、任用すべき人物の見分けがつかずに補佐がおりませんでした。

 

しかし殿は、賢人をよく招き、袁紹劉表どちらの遺臣も重く任用なさいました。そして登用された英才は、みな力を尽くしております。これよりは、さらに遠方の見知らぬ英才をも任用され、統治していただきたいと祈願いたしました。これこそ、まさに歴史上国を作り上げた始祖の有り様です」

 

 

 

 

 

魏の賢才

 

 

 

後に王粲は軍謀祭酒(グンボウサイシュ:軍師格?似たような役職が多く、正式には不明)に上り、後に魏が建国されると侍中(ジチュウ:国主の側仕えで、顧問応対を担当する)に昇進。

 

その博学多識ぶりはまさに圧巻だったようで、受けた質問には必ず何らかの答えを用意し、回答ができないという事はなかったほどだそうな。

 

また、新しく何かの儀式や形式を制定するときは、王粲はその知識を買われて常に主導するほどだったとか。

 

 

その他にも、記憶力、算術、執筆と多くの場所で才覚を発揮しています。

 

そのうちの記憶力のほどはというと……道端の石碑を一度読んでは即座に一字一句間違えず暗誦し、碁の対局で盤面がしっちゃかめっちゃかになるとそれ以前の通りに直し、「納得いかん!」と並べ直しを要求されると先ほどとまったく同じ並びを再現すると、このような様子だったと本文に書かれています。

 

 

 

王粲は建安21年(216)に曹操が呉の征伐を行うとこれに従軍しましたが、その翌年には41歳で病没。息子は2人いましたが、魏諷(ギフウ)による大規模反乱未遂に加担した結果処刑され、その本筋は絶たれてしまったと言われています。

 

 

『世説新語』によれば、王粲は驢馬の鳴き声が好きという謎の嗜好を持っていたと言われています。

 

葬儀の時にそれを思い出した魏の皇太子・曹丕(ソウヒ)は、王粲へのはなむけに驢馬の鳴きまねをみんなですることを提案。一人ずつ棺に向かって驢馬の鳴きまねをし、それを見送ったとか。

 

王子、半分面白がってませんかね?

 

 

ちなみに驢馬の鳴きまねは、うん。なんというか……ヴォオォォォルロロロォォみたいなユニークな物でして……

 

 

 

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驚異的速筆マン

 

 

 

と、このように博学多識の知恵袋として知られる王粲。曹操も文学には力を入れており、また王粲は詩を手掛けることもできたのも、もしかしたら重く用いられる要因になったのかもしれませんね。

 

実際、曹操の侍中の中でも敬意のほどはともかく側に呼ばれる回数はトップだったという王粲。彼に対して陳寿は以下のように評しています。

 

 

曹丕や曹植は文学を広く愛好したため、同好の士が集まって文学者も多数出現した。

 

王粲に至っては名声だけでなく側近の地位まで手にし、一大制度を作り上げた。が、同じ建安七子の徐幹(ジョカン)の徳性と純粋さには及ばない。

 

 

実際に宴会時に送った曹操への祝賀も、どこか媚びてる風に見えなくありません。何より旧主である劉表を悪く言っている点は、当時の名士としてはかなり減点対象なのかもしれませんね。

 

 

とはいえ、まあ人格面はともかく、才覚は本物。筆を執れば即時に文章を書き上げる超速筆の人で、人々は「どうせ前々から用意してたぶんじゃないの?」と疑いの目で見るほどの速さで、詩や論文等、生涯で遺したものは60篇近いとされています。

 

建安七子の中では唯一詩の才覚を持ち合わせていたようで(『魏略』より、曹丕談)、当時の文人としてはトップクラスの人物だったというのも納得です。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/27 13:07:27

 

 

 

生没年:?~黄初3年(222)

 

 

所属:魏

 

生まれ:司州河内郡獲嘉県

 

 

 

 

楊俊(ヨウシュン)、字は季才(キサイ)。隋の煬帝の弟にも同じ名前の人物がいますが、そちらではありません。

 

 

ニート時代の司馬懿(シバイ)の才覚を見抜く等、この人は人の才覚や本領を見抜く才覚を持っていたように思われます。

 

が、やはり時勢や本心を見抜く力がなかったか、はたまた何かしら思うところがあったか……曹操(ソウソウ)の後継者争いの時には曹植(ソウショク)に加担。後に災厄を引き寄せてしまっています。

 

 

さて、今回はそんな楊俊の伝を追ってみましょう。

 

 

 

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金も名声も関係なし

 

 

 

この時代の名士は師匠の元で学問を習うのが通例でしたが、楊俊はそれに則って陳留(チンリュウ)の辺譲(ヘンジョウ)なる人物の元を訪問。彼から学問の教えを受け、高く評価されました。

 

しかし楊俊が学問を修了して帰郷した後、やがて兵乱が発生。全土で乱世の予兆が生じ、楊俊の故郷である河内(カダイ)周辺の空気は不穏なものとなりつつありました。

 

 

楊俊は、河内が交通の要衝となっていることから戦乱に巻き込まれることを予見し、楊俊は同行者を連れて山間部の集落付近に避難。この時に同道した人たちは百世帯余りに達し、彼らと助け合いながら険しい道を超えていったのです。

 

 

こうして疎開先に着いた楊俊でしたが、彼にとって財貨の有無はどうでもいい話だったらしく、身分や家柄問わず多くの人たちと交際。果ては貧困層の救済や、奴隷にされていた親族や旧友を買い戻すようなことも行ったとされています。

 

 

 

また、こういった生活の中で、ひょんなことから名門一族の長男である司馬朗(シバロウ)とも知り合いにあり、その弟の司馬懿や従弟の司馬芝(シバシ)とも顔を合わせることになりました。

 

この時も楊俊は彼らの才覚を感じ取り、高く評価。

 

 

まだ年若い司馬懿に対しては「普通の人間ではない」、名声皆無の司馬芝には「早熟という意味では司馬朗に劣るが実質は上」と評価し、後々この評価が的中することになります。

 

 

さらには孤児からそのまま奴隷になった王象(オウショウ)なる人物を高く評価。勝手に本を読んでは鞭でしばき回されていたのを見て見どころを感じ、なんと赤の他人であるはずの彼を自分のポケットマネーで買い戻し、さらに嫁と家まで与えて去っていったのでした。

 

 

 

 

暗雲、そして……

 

 

 

後に楊俊は、梁習(リョウシュウ)の推挙によって曲梁(キョクリョウ)の県長に就任。

 

その後曹操の属官などを経て、南陽(ナンヨウ)太守に転任します。学校を立てて学問を奨励し道徳の教化に腐心したため、非常に高く評価され、後に魏が建国すると、中尉(チュウイ:首都近辺の警護)にまで昇進しました。

 

 

しかしここまできて、楊俊の運勢に陰りが見え始めます。

 

 

この時曹操の勢力下では、曹丕と曹植の間で後継者争いが勃発。楊俊は公共の場で意見が求められたとき、双方の美徳を説きながらも「曹植様の方が優れておいでです」と、まるで曹植を推すかのような発言をしていました。

 

が、この後継者争いは、結局曹丕が皇太子に任命されたことで終了。

 

さらに折が悪いことに、建安24年(219)、魏諷(ギフウ)が魏王国の都となっていた鄴(ギョウ)で反乱を計画していたことが明らかになり、関係者ともども誅殺。これを阻止できなかった楊俊は責任問題を問われ、そのまま左遷されることとなったのです。

 

 

しかもこの左遷に先んじて曹丕に手紙で別れを告げると、彼からは「随分気高い事だな」と嫌味を言われる始末。

 

 

楊俊は曹丕により魏帝国が建立されると、かつて助けた王象の推挙で朝廷に戻るチャンスを手に入れるのですが……魏帝の曹丕は楊俊の復職を快く思っていなかったようです。

 

王象推挙に前後して楊俊は南陽太守となっていたのですが……南陽の一都市である宛(エン)に曹丕が立ち寄った時、なんと曹丕が大激怒。

 

 

「市場がまるで繁盛していないではないか!」

 

 

曹丕は、はじめから曹植派であった楊俊を赦すつもりはなかったのです。

 

結局、楊俊はそのまま逮捕。司馬懿や王象らかつての友人たちは、こぞって楊俊の赦免を曹丕に願い出ましたが……結局楊俊は「己の罪はわきまえております」と述べると、そのまま自害。

 

世の人々は「冤罪だ!」とその死を悲しんだとされています。

 

 

 

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人物像

 

 

 

さて、人を見る目を持ちながら、最期に外道王子曹丕の事を見誤った楊俊。魏諷の件と含めて、才覚を見る目はあっても本心や本質を見る事は出来なかったのかもしれませんね。

 

そんな楊俊をして、陳寿は以下のように評しています。

 

 

人間関係を大事にして道義を行った。

 

 

豪族とのつながりなどを重視する後漢末の人事に対し、楊俊は貧富をまるで気にせず、才ある者をただ世に出すことを重要視していたようですね。これは曹丕の次代から始まる人事的な考課ともつながる所があるはずですが……やはり曹植派というのが大きかったという事でしょうか。

 

 

楊俊は深く曹植に肩入れしたわけではありませんが、それでも曹植派として数えられる発言をしてしまったことに変わりはありません。

 

こういった後継者争いは基本的に名士同士の派閥争いの側面も兼ねており、敵対派閥が少しでも残っていると、そういった人物が祭り上げられてまた派閥対立が起きてしまうケースも歴史上にはあります。

 

そういった意味でも、楊俊の存在は曹丕派の名士たちには邪魔だったのかもしれませんね。

 

 

司馬懿や王象といった曹丕派の面々が助命歎願している辺り、必ずしも曹植派を危険人物として見たというだけではないようで、やはり彼の死も曹丕の外道エピソードのひとつとして彩られるのは間違いとは言い切れません。

 

彼もまた、優れた人物でありながら後継者争いの闇に呑まれて消えた、そんな人物の一人なのでしょう。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/24 15:14:24

 

 

生没年:?~?

 

 

所属:魏

 

生まれ:荊州長沙郡臨湘県

 

 

 

 

桓階(カンカイ)、字は伯緒(ハクショ)。この人は反乱をそそのかした事があり、おまけに与太話ではみんなの漢帝国を終わらせようとした奸臣のようにも書かれています。

 

が、実際に伝を読んでみると、なんというか、うん。正義の人? 見かけの安っぽい大義を主張する安っぽい人ではなく、典型的な教師タイプとして人にアドバイスを送り、しかも自分を曲げない人物なのかなと思えてきます。

 

 

実際に反逆の経験があるにもかかわらず気持ち悪いくらい信頼を勝ち取っていますし、何より讒言を受けて小物と半ば決定された人物を弁護、場合によって推挙すら行う人物は、やはり歴史上にもそういるものではないでしょうか。

 

 

 

 

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最初の仕え先は……?

 

 

 

何とも意外なことに、桓階を最初に見出したのは、彼が役人として働いていた時に長沙太守をしていた孫堅(ソンケン)でした。桓階は、孫堅が推挙してくれたおかげで中央に召し出され、尚書台(ショウショダイ:宮中文書を取り扱う部署)の役人に取り立てられました。

 

しかし、折悪くも桓階の父親が死去。知らせを受けた桓階は、喪に服すために仕事を辞め、故郷に帰還することに。

 

 

その上さらに訃報は続き、今度は自分を推挙された孫堅が、劉表(リュウヒョウ)らとの戦いで戦死。遺体は劉表軍の手に渡ってしまったのです。

 

恩人の死に泥を塗られてはならないと考えた桓階は、ここで危険を顧みず、ほとんど敵といっても過言ではない劉表の元に単身で出頭、孫堅の遺体を預けてもらうように交渉し、その義侠心に免じて孫堅の遺体を与えられたのでした。

 

 

その後、長沙太守として劉表配下の張羨(チョウセン)が派遣され、やがて建安3年(198)、これまで同盟者であった曹操(ソウソウ)と袁紹(エンショウ)が決裂。決戦まで秒読みの状態となり、周辺勢力もどちらに付くか選択を迫られました。

 

 

この時、戦力は袁紹が圧倒しており、また元々同盟者という関係もあって、劉表は袁紹に味方します。

 

が、この時、桓階はまったく別の事を考えていました。

 

 

「袁紹のやり方は道義に反するし、それに味方する劉表も同様だ。彼らに靡けば、やがて災禍に巻き込まれる」

 

 

桓階は、太守の張羨にこのように説き、「曹操に味方なさいませ」とそそのかして反乱を示唆したのです。

 

一方の張羨も実は劉表と壊滅的に仲が悪かったため、これに全力で同意。長沙、零陵(レイリョウ)、桂陽(ケイヨウ)の三郡を率い、長江を防護壁に見立てて劉表を迎え撃つ算段を立てます。

 

 

さらに曹操にも使者を送り、味方であることをアピールしたのですが……曹操軍と袁紹軍がぶつかると、桓階の想定外の事態が起こります。

 

袁紹軍はもともと精強で、一枚岩ではないとはいえ団結さえできれば圧倒的に協力。その圧倒的戦力に追いつめられ、曹操軍が逆に窮地に陥ったのです。

 

 

こうなっては、曹操の南進は期待できません。結局劉表の物量に押されはじめ、その途上で張羨が病没したことで反乱軍は瓦解。城は陥落し、桓階は潜伏し、姿を消します。

 

この潜伏生活の途中で劉表に見つかり、殺すどころか逆に軍師格の人物としてスカウトされますが、桓階にその気はなかったようで「所帯を持ってますので」と拒否したとか。

 

 

 

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太祖様にゾッコン?

 

 

 

そんなこんなで劉表の招聘は断ってしまった桓階でしたが、後にようやく荊州侵攻を開始できた曹操が属官としてスカウトすると、桓階はこれに応じて曹操配下に。後に趙郡太守に就任しています。

 

魏が国として成立すると、桓階は虎賁中郎将(コホンチュウロウショウ:近衛郡の指揮官)と侍中(ジチュウ:国主の顧問役)を兼任することに。

 

 

また、曹操の後継者争いがおこると、桓階は年長である曹丕(ソウヒ)に味方。また、曹丕の弟である曹植(ソウショク)擁立派の丁儀(テイギ)が曹丕派の人物を讒言していくと、桓階はその擁護に専念。

 

失脚してしまった毛玠(モウカイ)が投獄されるとこれを擁護して免職に減刑させることに成功します。その後、魏諷(ギフウ)という人物の反乱によって責任を問われた楊俊(ヨウシュン)が左遷されると、桓階はその後任として徐奕(ジョエキ)という人物を推挙。

 

このように、曹植派の讒言で危機に陥った人物らを擁護することに専念し、その功績が認められて後に尚書(ショウショ:尚書台所属の他部署への助っ人)として官吏の考課を行うことになりました。

 

 

 

建安24年(219)に曹操の信頼する将軍・曹仁(ソウジン)が関羽(カンウ)に攻められて危機に陥った時も、周囲が「御自ら出陣を!」と主張する群臣の中、桓階は反対意見を述べたとされています。

 

その時の問いがあたかも教師っぽくて面白かったので、ちょっと抜粋。

 

 

桓階「殿は、曹仁殿らがこの問題に対処できるとお考えですか?」

 

曹操「できるだろうな」

 

桓階「では、防衛に当たっている将兵が実力を発揮できないでのしょうか?」

 

曹操「いや、違う」

 

桓階「すでに援軍として徐晃(ジョコウ)殿らも戦線へ参加していらっしゃいます。ならばなぜ、ご自身で行こうなどと思われるのでしょう?」

 

曹操「敵が多すぎて対応しきれないのを懸念しているのだ」

 

桓階「曹仁殿らは今、決死の覚悟で戦っておられます。現在我らには余力があることを天下に示しておられるというのに、敗戦の心配をなさるべきではないでしょう」

 

 

要するに、曹操の不安そのものを、必死に戦う曹仁らの奮戦を無にしてしまいかねないという意味合いでしょうか。実際に魏では異例の緊急事態として対処されていましたが、それがバレてしまっては外交情勢が崩れてしまう、難しい状態でした。

 

ともあれ、桓階の言葉もあって曹操は曹仁への直接救援を取りやめ、魏は余力を残したまま関羽らを撃退することに成功しました。

 

 

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魏帝国誕生

 

 

 

さて、桓階といえば、魏帝国の誕生を待ち望んでいた人物の一人という記載がされている文献も数多くあり、実際に『魏書』をはじめ多くの資料で「漢王朝に次ぐ新たな王朝をお立てください」と曹操に告げています。

 

また、自分が推した皇太子の曹丕曹操の後を継いだ時にも、何度か同じような内容を上奏。これらに至っては、陳寿の書き記した三国志本文にも記載があります。

 

 

この辺は桓階の名だけを知っている層に「桓階=不道徳不義理」の印象を与える要因であり、実際に義理の値が存在する三国志作品では桓階の義理は低く設定されています。

 

また、『世語』や『曹瞞伝』には、夏侯惇(カコウトン)による「蜀を滅ぼすのが先だ」という声と対立したという逸話もありますが……孫盛はそんな桓階不道徳説に「彼は節義を守る人だ!」と強く反発。当時にも、桓階の人格をめぐる意見は割れていたのかもしれませんね。

 

 

さて、そんな桓階が待ち望んでいた魏帝国ですが……曹丕が王位に就いてから数か月後、ついにその夢は実現することになります。

 

それを機に、桓階は尚書令(ショウショレイ:尚書台のトップ)となり、侍中も兼任。さらには高郷亭侯(コウキョウテイコウ)の爵位も与えられ、これまで以上の期待が寄せられます。

 

しかし、念願適って気が抜けたのか、桓階は病に侵されてしまったのです。

 

 

曹丕はそれを聞くと桓階の館を訪問。「俺の子の代には国の中心人物になってもらう予定なんだ。病なんかで死ぬなよ」と、そんな言葉をかけて桓階の爵位を安楽郷侯(アンラクキョウコウ)に引き上げます。

 

 

が、桓階に残された時はもう幾何もなく、病も重篤化。エールも込めて太常(タイジョウ:祭祀儀式の担当大臣)に就任するも、間もなく病死してしまいました。

 

諡は貞侯。息子の桓嘉(カンカ)がその後を継ぎました。

 

 

 

 

気骨ある正義漢

 

 

 

さて、他人に反乱をそそのかし、挙句失敗。そんな人物がこれほど高く評価される例は珍しいのではないでしょうか。

 

実際問題、桓階は私利私欲のために他人をいたぶるような人物ではなく、むしろ正しいと思った事や国益になると思った事は割と平気で提言するような人物のように思えます。

 

 

そんな桓階を陳寿が評するには、以下の通り。

 

成功失敗の事例をわきまえ、才能は当代に広く行き渡った。

 

 

名士というのは基本的に家柄や血統によって決まる部分がはるかに多く、それに加えて儒教的な道徳をどこまでしっかり実行できているかがランク付けのキモです。

 

 

しかしこの桓階という人物は、まあ名士といえば名士で間違いないのですが、どうにも血統よりも個人的才覚で多くの人物の評価を得てきた人物のようですね。

 

それに加えてその性格は剛毅でありながら一本筋、節義に厚いとなれば……曹操曹丕がとことん気に入ったのも納得です。

 

 

『魏書』にも「曹操は後継者争いの件で諫言を受け、正義を貫くのに熱心な人柄を知っていたのでより信頼するようになった」とありますが、そんな桓階だからこそ、本文には裏切り者でなく正義の人のように書かれることになったのでしょう。

 

 

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/23 20:48:23

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:豫洲潁川郡

 

 

 

 

棗祗(ソウシ)という人物をご存知の方は、おそらくそんなにいらっしゃらないのではないでしょうか。

 

というのも、彼はマイナーの中のドマイナー。立伝なんてされる事もなく、同じくマイナーな人物である任峻(ジンシュン)の伝をはじめたまーに名前に上がるだけ。曹操(ソウソウ)の名が上がる前にさっさと亡くなってしまったため、活躍期間がほんのわずかな間に留まってしまったという不幸の人です。

 

 

しかし、棗祗は屯田政策を強固に主張し、数多の反対に対してもとことんまで食い下がった結果曹操軍の懐事情を一気に改善するきっかけを作ったという、偉大な先達なのです。

 

今回は、そんな棗祗の記述を追っていきましょう。

 

 

 

 

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忠烈なる県令閣下

 

 

 

棗祗という人物が何者なのかは史書からは読み取れませんが、やはりひとかどの……いや、それ以上の人物だった可能性も大いにあると言ってよいかもしれません。

 

 

棗祗の死後数年が経って発行された曹操の命令書を見るに、おそらく彼は曹操が挙兵した際のスタートメンバーの一人。曹操の苦境を共に戦い抜いた仲間の一人であり、後に大勢力となった袁紹(エンショウ)のヘッドハンティングを断るほど曹操に入れ込んでいたようです。

 

 

そんな棗祗は、やがて曹操が兗州(エンシュウ)に拠って立つ群雄に成長すると、東阿(トウア)県の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)に就任。地方を治める臣下の一人として曹操を支えるようになりました。

 

 

 

が、興平元年(194)曹操が遠征に出ていた隙をついて、張邈(チョウバク)、陳宮(チンキュウ)らが謀反。猛将・呂布(リョフ)を主に迎え、兗州総出で曹操の元を離反したのです。

 

この時曹操の味方として残留したのは、鄄(ケン)、范(ハン)、そして棗祗の治める東阿の3城のみ。兗州は九割方呂布の手に落ち、3城のうち鄄は攻め込まれて危険な状態。曹操軍は未曽有ともいえる危機を迎えたのでした。

 

 

棗祗はそんな中、至急集まれる兵を集めて厳戒態勢を敷き、守りを固めていつでも呂布軍に応戦できるようにしたのです。

 

東阿はそんな棗祗の素早い対応と、そして慌てて駆けつけた程昱(テイイク)の策謀によって無傷の状態を保全。曹操が後に巻き返しを行うのに少なからず貢献したのでした。

 

 

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屯田やりましょう、屯田!

 

 

 

 

さて、そんな未曽有の危機を乗り切ってしばらく快進撃を続けた曹操軍でしたが、ある重大な問題を抱えていました。

 

それが、急速な勢力拡張による食糧難。

 

 

当時は地球寒冷化の影響で不作ともいわれており、実際問題としてどの群雄も食糧問題には大きな懸念を抱いていたのです。

 

その重大さたるや、兵糧の予算は一年分ともたず、群雄の多くの収入源は略奪によるものばかり。挙句、糧秣不足によって自滅する群雄すら多く出るレベルだったとか。

 

 

棗祗は建安元年(196)、満を持して韓浩(カンコウ)らと共に屯田性を草案。

 

そして屯田が設置されることになるにあたって、その輸送方法について棗祗が意見を具申します。

 

 

というのも、当初の案では学者たちの意見に従って「一ヶ所に屯田を設置し、牛を輸送用に飼育する」というものでした。

 

しかし棗祗は「牛ではその数相当の量しか穀物を運べず豊作に対応できませんし、また水害や旱魃においても面倒事が生じます」と断固反対。屯田を分けて各地に展開させることを強く訴えかけました。

 

 

曹操は最初は棗祗の案を却下したものの強く主張し、ついには彼の意見に反応して反対意見まで上奏する始末で、曹操はたまらず荀彧(ジュンイク)にも相談。二人して頭を悩ませたと言われています。

 

 

しかしそれでも棗祗はうるさいくらいに屯田の分割を訴え続け、ついに曹操の心をへし折って「YES」の言葉を引き出すことに成功したのでした。

 

かくして屯田は任峻の手によって次々とその数を増やしていき、数年かけて曹操軍の兵糧備蓄は他の軍を圧倒。曹操軍躍進の起爆剤となったのです。

 

 

その後、時期は不明ですが棗祗は不幸にも早世。彼の子孫らもまた有能で、後世にも名を残したとか。

 

 

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屯田ゴリ押しマン

 

 

 

立伝されていないという事は当然陳寿からも評を受けることはありませんでしたが、この通り棗祗のしつこいくらいのゴリ押しは大いに曹操軍に役に立つことになったのです。

 

曹操がいうには、その天分は忠義有能。能力と忠誠心を併せ持つ、けっこうな傑物でした。おそらく、もし長生きできたのならば、それこそ立伝も不可能ではなかったことでしょう。

 

 

また、彼の功績に対して、曹操はこのようにも述べています。

 

 

「郡太守の官位を寄贈したが、こんなもので功績に報いたとは思えない。棗祗は本来、列侯として領地を与えるくらいが当然の報いと言えるが、結局は私のせいでここまで死後数年にわたりその期間を引き延ばしてしまった」

 

 

曹操はこの文書の中で棗祗の息子を列侯に取り立てており、「その不朽の事業を評し、棗祗を祀る」という言葉で命令文を〆ています。

 

 

そんな棗祗の最期の役職は、陳留(チンリュウ)太守。これは裏切ったとはいえ曹操のマブダチである張邈の元領地であり、なにか特別な意図があったと取れなくもありません。

 

 

どうにも早世したのが惜しまれる、そんな人物です。

 

 

ちなみに『文士伝』によると、棗祗の元の名は棘(キョク)。しかし曹操が兗州動乱を乗り切った時に、苗字を棗と改めたとか。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/19 22:01:19

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:冀州安平郡観津県

 

 

 

 

牽招(ケンショウ)、字は子経(シケイ)。田豫(デンヨ)と同じく、北方にて対異民族のエキスパートとして活躍した人物ですね。

 

曹操(ソウソウ)に仕えたのは仕方なくの成り行きのような気もしますが……その後彼は立派なモーヲタに。曹家三代にわたって仕え続け、その背後を守ってきました。

 

 

今回は、そんな牽招の伝を追っていきましょう。

 

 

 

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袁家混乱に巻き込まれ

 

 

 

牽招は10歳余りの時、同じ県に住む楽隠(ガクイン)なる学者に師事。楽隠が中央に召喚されると、牽招もこれについていきました。

 

しかし、当時の国内は大変な大荒れ。楽隠は主君ともども、動乱の中で殺されてしまったのです。

 

 

牽招は死の最期を聞くと、他の門下生と共に危険を顧みず混乱の中に突入。師の遺体を収容して帰途に就きました。

 

 

が、その帰り道も安全な物ではなく、山賊とバッタリ鉢合わせ。山賊たちは楽隠の棺を壊して釘を盗み取ろうとしたのです。牽招は山賊に対して「師の棺なのです。見逃してください」と涙を流して懇願。

 

この姿勢に心を打たれた山賊たちは結局牽招らを見逃すことにして、この事が知られて牽招は有名人となったのでした。

 

また、この頃に牽招は劉備(リュウビ)とも知り合い、そのまま親友になったという言い伝えもあります。

 

 

 

後にその名声を聞きつけた袁紹(エンショウ)によって招聘され、これまで何の脈絡もなかったはずの武官職をあてがわれ、烏丸の異民族で構成された兵を率いるようになります。

 

ある時、袁紹の舎人が規定に違反しました。本来ならば先に袁紹への報告を入れてから処罰するのが普通なのですが……牽招はなんと先に舎人を処断。事後報告という形に済ませてしまったのです。

 

しかし袁紹は牽招の罪を免除。その気持ちを高く評価したのでした。

 

後に袁紹が亡くなると、今度は三男の袁尚(エンショウ)に仕官。曹操が袁尚軍を包囲すると、牽招は兵糧国保の任務を帯びて戦線を離脱。しかし任務を終える前に袁尚軍が壊滅し、そのまま牽招は孤立してしまいました。

 

 

次善の策として袁尚の従兄に当たる高幹(コウカン)に救援を求めにいったのですが、高幹はこの機に完全独立を果たそうとしており、その邪魔になってしまうと考えて牽招を殺そうとしたのです。

 

袁尚の元に逃げようにも高幹に退路を断たれ、進退窮まった牽招は仕方なく曹操に降伏。彼の属官になったのでした。

 

 

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グッバイ袁家

 

 

 

後に曹操は、牽招の旧主・袁尚の兄であり敵対関係にあった袁譚(エンタン)を攻撃しようとします。この時北方の烏丸族が袁譚の援軍に向かい、遼東の公孫康(コウソンコウ)が烏丸族を支援しているという報告が入りました。

 

牽招は以前に烏丸隊を率いていた経験が買われ、公孫康からの使者を受け入れた烏丸の大王である峭王・蘇僕(ソボク)の元へと急行したのです。

 

 

「俺は昔、袁紹殿から勅命で王にしてもらった。しかし今は曹操殿からも真の王にすると言われ、公孫康殿からは王の印綬をもらっている。誰を信用すればいいのだ?」

 

 

部族の重役と公孫康の使者・韓忠(カンチュウ)を集めて会合の場を開くなり、蘇僕はそう口にしました。それに対して、牽招は以下のように答えます。

 

 

「昔は袁紹が勅命を受けてあなたを王にした。しかし、今は曹操がその後継ぎとして任命をしているのです。遼東からの印綬は、命令違反のものに過ぎません」

 

 

つまり、牽招は袁紹曹操も正当な勅命によって蘇僕を王にしており、どちらも間違っていないと断言したわけですね。

 

しかし、これで面白くないのは公孫康の使者である韓忠。彼は「我ら遼東こそが異民族とのつながりが強い!曹操は不当だ!」と批難の言葉をぶつけたのです。

 

 

曹操様は道理に明るく、天命の元、各地の乱を治めておられる!貴様らの王命に逆らい大器を悪とのたまう姿、まさに殺戮にも値する大罪であるぞ!」

 

 

牽招はそう言い放つと、韓忠の頭を掴んで地面にたたきつけ、剣を抜いてそのまま斬り捨てようとします。

 

牽招の突然の態度に驚いた蘇僕は、慌てて彼を羽交い絞めにして許しを乞うた事でどうにかその場は収まり、結局その後は牽招の意見が尊重される形となって、蘇僕は軍を引くことにしたのです。

 

 

 

後に袁譚は曹操によって打ち滅ぼされ、曹操は烏丸の別の大王と敵対。牽招はその戦いにも護烏丸校尉(ゴウガンコウイ:異民族の抑えの指揮官)として随行。曹操軍によって烏丸の大王は攻め潰され、北方は平穏を取り戻したのです。

 

が、その後牽招らが帰還すると、その元に悲報が届けられます。

 

旧主・袁尚が公孫康の手にかかり死亡。公孫康は曹操に敵わぬと見て、袁尚の首を鄴(ギョウ)まで送り届けてきたのです。

 

 

この時、敵である袁尚の死を悼むのは禁止されていましたが、牽招は旧主の死に居ても立ってもいられず、祭祀を設けて追悼。

 

堂々と軍令違反をされた曹操は、これに怒るどころか逆に牽招の忠義を賞賛。彼を茂才(モサイ:秀才とも。官吏への地方推挙枠)に推したのでした。

 

 

 

その後、建安20年(215)に曹操が漢中の張魯(チョウロ)討伐を行った際にもこれに同行。これを平定後、曹操は牽招を中護軍(チュウゴグン:禁軍の指揮監督官。実践現場の監督も行う)として漢中に留め起きました。

 

 

後、牽招は都督青徐州諸軍事(トトクセイジョシュウショグンジ:青州、徐州の軍事総司令官)となり、荒れていた青州東莱(トウライ)郡の反発組織と交戦。見事に頭目を討って鎮圧し、後方の安全を確保したのです。

 

 

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北方の名都督

 

 

 

曹操の子・曹丕(ソウヒ)が魏の皇帝になると、牽招は再び騒がしくなった北方の備えに転属。

 

使持節(シジセツ:無官の者を独断で処罰できる権限持ち)・護鮮卑校尉(ゴセンピコウイ:こちらも北方異民族の抑え。北西の鮮卑族を意識している)となって昌平(ショウヘイ)に駐屯。以後、田豫らと並んで北方の睨みを利かせる役割となったのです。

 

 

この時の辺境は捨てられた地のような感じだったようで、脱走者や異民族とつるんで反乱を起こす者が4桁にも上る数出ていました。

 

牽招はこの時に政治にも注力したようで、「広く恩愛と信義を施し、降伏者も迎え入れた」とあります。実際、牽招の働きによって鮮卑の族長や異民族の地に逃げた者が大勢帰ってきて、実際に帰順した鮮卑の部落は10万を超えたとか。

 

 

後、牽招は遠征に備え中央に召喚されましたが結局沙汰止みとなり、雁門太守(ガンモンタイシュ)として再び国境付近の辺境守備に回されたのです。

 

やはり雁門も略奪が多く治安が最悪で、しばしば敵軍の侵攻や略奪に悩まされていました。

 

牽招は烏丸族への懐柔として臣従する者の五百家余りを免税し、代わりに周辺情勢の偵察の仕事を与えます。さらに地域住民に対して戦い方を教え込み、辺境で強く生きる方法を伝授。

 

これらのおかげで、雁門は敵の攻撃を屈することなく跳ね返し、住民たちも町を離れて行動するときに恐怖することがなくなったのです。

 

また、敵対部族に対しても離間策を実行して団結の懸念を取り除き、その上で鮮卑族でも強力な有力者である軻比能(カヒノウ)の軍勢を撃破。

 

 

その後も用水路の確保や農地開発、学術の推奨などを行い、明帝・曹叡(ソウエイ)が魏帝に即位すると関内侯(カンダイコウ)の爵位を与えられるようになりました。

 

 

 

 

激闘!VS軻比能

 

 

 

軻比能との戦いは緒戦こそ離間策で勝利しましたが、彼の力はまだまだ健在。晩年の牽招は、彼との戦いに力を注ぐことになっていきます。

 

 

太和2年(228)、部族の離間を成功させて進撃した田豫が、軻比能の軍勢によって包囲されて絶体絶命の窮地に陥りました。

 

この時牽招は、幷州(ヘイシュウ)の政庁から「規則なのだから救援するな」と厳命されましたが、「有力な将軍が包囲されてる状況下で規則など知った事か」と強行出陣。

 

窮地に陥った田豫軍に「至急救援に向かう」との速達文を送り付け、同じ文書をもう一通、今度は敵の要衝に送ったのです。

 

この文書が届くと、田豫軍は士気高揚、援軍が近いという報を受けた敵軍は恐慌状態に陥り潰走していきました。その後、牽招は奇襲部隊を再び攻めてきた軻比能の本隊に送り、これを撃退しています。

 

 

が、これで諦める軻比能ではありません。彼は西で北伐を行う蜀軍と内通し、諸葛亮(ショカツリョウ)の進軍を支援しようと目論んだのです。

 

牽招はこれを予見して防備を固めるよう朝廷に上奏しましたが、誰も信じてくれずに彼の北伐介入を阻止できず、軻比能と蜀は同盟。

 

 

後に魏軍が巻き返すと、軻比能は領地の砂漠の中へと逃走していき行方不明に。魏軍は軻比能討伐のため彼の領地に攻め入る計画をしますが、この時作戦に関わった中心人物に、牽招がいます。曰く、

 

「彼らは定住をしない遊牧民族で、地形も険しく、敵軍の補足も物資輸送も困難を極める。ならば、国境の守備を行う者らを将軍位に引き上げ、国境外に駐屯させて、内部では兵糧の備蓄に専念して秋冬まで待ち、そこから一斉攻撃をすべきだ」

 

とのこと。

 

牽招らはこの作戦で十分勝てると踏んでいましたが、作戦実行前に牽招が死去。結局作戦は実行されなかったのです。

 

 

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人物像

 

 

さて、北方の難しい土地を見事に守り切り、田豫に次ぐと称される名声を手にした牽招。陳寿は、彼のことをこう評しています。

 

 

道義を守ること壮烈で、威光と功績は顕著だった。しかし、郡の太守程度で終わるのは、働きに対して不十分な地位だった。

 

 

牽招もまた、田豫と同じく北方の小さい場所に押しとどめられるにとどまった惜しい人物ですね。当然、異民族との戦いはほとんどオミットされている演義では、出番なんて一つもありません。

 

 

個人的に気になるのは、田豫が包囲されたときに州庁から「助けるな」と言われたこと。これはつまり、田豫も牽招も何かしらの理由で干されていた……という事でしょうか?

 

 

もしやここにも形骸化した九品中正法が……などと疑ってみたい気もしますが、実情が一切不明である以上どうとも言いようがありませんね。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/17 13:07:17

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:幽州漁陽郡雍奴県

 

 

 

 

田豫(デンヨ)、字は国譲(コクジョウ)。三国志の世界では、魏呉蜀の三国による激闘の記録ばかりが取り佐多されており、その裏側というのはほとんど知られていません。

 

しかし、三国それぞれが当時の中国国土外の異民族と激しく抗争しており、そのため三国の戦いの裏側にも多くの傑物が潜んでいるのです。

 

 

田豫なんかは、まさにその筆頭格。中央での戦禍でも一級線の活躍ができる人物ですが、彼は北方にて烏丸や鮮卑といった異民族らとの戦いに身を投じ続けたのです。

 

今回は、そんな田豫の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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多くの英雄と交わる者

 

 

 

田豫は意外にも乱世の英雄たちと縁があったようで、曹操(ソウソウ)の他にも劉備(リュウビ)、公孫瓚(コウソンサン)ともつながりがあります。

 

田豫が最初に史書に姿を見せたのは、劉備が公孫瓚の客将として出向いた時。この時の田豫はまだ少年だったのですが、劉備には大いに信頼されていました。

 

が、劉備が中央の豫洲(ヨシュウ)に転勤になると、田豫は老年の母の身を慮って同行を辞退。劉備は「お前と大業を果たせなくなったのが残念だと別れを惜しんだとされています。

 

 

 

その後、田豫は公孫瓚の元に仕えることになります。

 

公孫瓚と袁紹(エンショウ)の間で繰り広げられた戦いが激化したある時、公孫瓚の配下の将軍である王門(オウモン)なる人物が袁紹に寝返り。田豫の元に1万以上の大軍を率いて押し寄せてきたのです。

 

周囲は絶望ムードに包まれましたが、そんな中で田豫は突然城門の上に立ち、王門に対してこう言い放ったのです。

 

「あなたが袁紹に降ったのは相応の理由があったからだと思ったが、ここで我らに乱暴を働くなら、所詮あなたは戦乱を好む山賊と同じだな。それでもいいならさっさと攻めてもいよ!」

 

田豫の弁舌を聞いた王門は、なんだか自分の行いが急に恥ずかしくなって撤退。田豫は口先ひとつで人々を守ったのです。

 

 

公孫瓚は田豫に才能があると考えたものの、「才ある者は感謝しない」という持論に固執し田豫を隔離。結局公孫瓚は袁紹に滅ぼされ、田豫は自分と友人であった鮮于輔(センウホ)の元に向かったのです。

 

しかし、時は乱世。数多の群雄が立っては消滅していき、もはや誰に味方すればよいのかわからない状態。

 

鮮于輔もこの時相当味方づくりに迷ったようで、田豫はそんな鮮于輔に以下のように訴えかけています。

 

 

曹操(ソウソウ)こそが今後伸びていくでしょう。さあ、早く帰順を。モタモタしてはいられません」

 

 

かくして、鮮于輔は曹操に帰順。田豫も彼を説得したことから曹操に評価され、彼の属官を経て県令(ケンレイ:大きな県の長官)として地方に出て、高い治績を上げたため弋陽(ヨクヨウ)の郡太守にまで上り詰めたのです。

 

また、袁紹の旧領を併呑した後の烏丸征伐にも参加したようで、この時は北方で独立勢力を保っていた田疇(デンチュウ)を味方に引き入れるための使者を派遣しています。

 

 

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策士田豫

 

 

 

 

さて、こうして曹操の軍中に収まった田豫ですが……赤壁の戦いで曹操が敗北してしばらく、北方民族の動きが再び活発化。これを重く見た曹操は建安23年(218)、自身の息子である曹彰(ソウショウ)を烏丸討伐に赴かせ、田豫をその副将につけたのです。

 

討伐隊は一旦の休息として易水(エキスイ)の北に駐屯していましたが……なんとこの時、伏兵として数千の騎兵が討伐軍に奇襲。部隊は混乱に落ちりました。

 

 

しかし、そこで取り乱さず的確な指揮を行ったのが田豫でした。彼は地形を利用して即座に策を編み出し、車で円陣を敷いて内部に弓兵を配置。

 

さらに兵に見せかけた人形を置くことで敵軍を誘導し、敵が偽兵に邪魔されて進めなくなったところを一斉掃射。散り散りに逃げる敵軍を追撃して大勝利を収めたのです。
その後、曹彰の暴走活躍と田豫の策によって、烏丸の敵対勢力はあっという間に併呑されたのです。

 

 

翌年には南陽(ナンヨウ)太守に就任しましたが、この時の南陽は前太守の圧政に対する反乱の名残で逃亡者が多数山賊に身をやつし、死刑囚500が収容されているという有り様でした。

 

田豫はこの時、死刑囚全員と面会して全員に恩赦を与え、更生の道を示してやったのです。この噂はすぐに周辺に広がり、噂を聞いた山賊たちもすぐに山賊団を解散。一帯は一夜にして静けさを取り戻したと言われています。

 

 

 

 

北方の守り神

 

 

 

黄初元年(220)、曹丕(ソウヒ)が帝に即位すると、今度は再び北方にある鮮卑族の動きが活発化。田豫は護烏丸校尉(ゴウガンコウイ:対北方異民族のエキスパート)として再び北方に着任します。

 

こうして再び異民族との戦いに身を投じた田豫がもっとも恐れていた事態は、部族間の団結。異民族は基本的に部族同士で独立していましたが、外敵によって一致団結するのがもっとも危険だと判断したわけですね。

 

そこで田豫が編み出したのは、離間策。互いの部族が反目し、敵対し合うように仕組んだわけですね。

 

 

これによってお互いに疑心暗鬼になり始めた異民族でしたが、ついに1部族が異民族間の約定をたがえ、部族間の団結が決裂。強豪であった3部族のうち1部族が周囲から攻撃を受け、田豫に救援要請を求めてきたのです。

 

土地勘のない田豫は退路を断たれたり包囲されたり常に不利な状態での戦いを強いられましたが、いずれも策略を用いて逆転。

 

 

また、あくまで服従を拒否していた烏丸族の骨進(コツシン)という大王に対しても田豫は強硬手段を取り、なんとたったの100騎ほどで骨進の治める部落に侵入。慌てて服従しようとした骨進を斬り、周囲に威名を轟かせたのでした。

 

 

その後も周囲を荒らしまわった山賊の討伐や危険な相手の力を削ぎ落すといった働きに注力すること9年。田豫をはじめとしたエキスパートによって北方の治安は守られ、その活躍が認められて長楽亭侯(チョウラクテイコウ)の爵位が与えられることに。

 

しかし北方の権力者の座を狙う王雄(オウユウ)によって讒言を受けたため、田豫は再び北方を離れ汝南(ジョナン)太守に転任。殄夷将軍(テンイショウグン)となりました。

 

 

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晩年も知は衰えず

 

 

 

さて、こうして汝南太守となった田豫でしたが、太和6年(232)には攻め寄せてきた呉軍を撃退。この時、敵の大将を討ち取ることに成功しています。

 

 

そして、これに前後して、田豫は再び、今度は汝南太守のまま青州の軍を率い、北方に軍を向けることになったのです。というのも、遼東(リョウトウ)を有する公孫淵(コウソンエン)が反逆。対処の適任者として、田豫が推挙されたのが理由ですね。

 

この時に進軍をつづけた田豫でしたが、ここで公孫淵は呉と同盟。危険と見た中央からは風が強く船が出せないのもあって、帰還するようにと命令が出ました。

 

 

田豫はこの時、敵が逆に攻撃を仕掛けるのを予測。風の強さから敵軍が漂流すると踏んで、一見すると何の意味もないような海岸沿いに伏兵を配置しました。

 

諸将はそんな田豫の策を「滅茶苦茶すぎる」と嘲笑しましたが……やがて、田豫の計算通り敵軍が風に流され海岸沿いに漂流。全員を捕虜とする大戦果を挙げたのでした。

 

 

これほどの大戦果を挙げた田豫でしたが……今度は田豫に軍勢を使われて不満を覚えた青州刺史(セイシュウシシ)・程喜(テイキ)の讒言によってこの功績はすべて無かったことにされてしまったのです。

 

 

 

後に呉軍が大軍を率いて合肥に攻め寄せた際にも、総大将の満寵(マンチョウ)に対して「城をあえて攻めさせ、疲れを待ちましょう」と進言。攻城戦によって疲れたところを攻撃されるのを恐れた呉軍は結局引き上げていき、合肥を守り抜くことに成功したのです。

 

その後も敵軍がたびたび攻撃を仕掛けてくるも、田豫はこれを撃退。夜襲のデマが飛び交って軍が混乱する事件が起きた時も、一人だけ落ち着いたまま「動けば斬る」とだけ伝えて指揮系統の麻痺を防いだのです。

 

 

その後、田豫は再び護匈奴中郎将(ゴキョウドチュウロウショウ:北方異民族から領土を守る人物)、振威将軍(シンイショウグン)となり、幷州牧(ヘイシュウボク)として北方に復帰。

 

後に中央へと再び戻り、衛尉(エイイ:宮中の巡察官)、そして司馬懿(シバイ)に願い出てようやく太中大夫(タイチュウタイフ:帝の応対役だが、非常勤)として実質的に隠居。82歳で天命を全うしたのでした。

 

 

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清廉潔白ながら敵もまた多し

 

 

 

北方の対異民族のエキスパートとして、常に国を支え続けてきた田豫。敵も多くてしばしば別の場所にも飛ばされたりはしましたが、おおよそ官位に見合わないレベルの大活躍をしたすさまじい人物ですね。

 

そんな田豫を、陳寿は以下のように評しています。

 

 

清廉潔白で、策略はよく練られていた。しかし、あんな小さな州の刺史で終わったのは、働きとは見合っていない。

 

 

史書によればその生活は清貧そのもの。恩賞はすべて部下にくれてやり、異民族からの贈り物も帳簿につけて公共に寄贈。おかげで家族の生活は苦しかったとされていますね。

 

その態度は人種を超えて評価され、異民族からも節義を立派であると評されたとか。

 

 

『魏略』によれば、かつて救援した鮮卑の族長と仲良くなって「こいつを生活の足しにしてくれ」とこっそり大金を田豫に渡したことがあるそうな。

 

この時に田豫は喜んでお金を受け取ったものの、後で朝廷に事情を説明して全部国庫に放り込んでしまったのです。

 

さらにそれを褒められて褒賞に絹を大量に受け取った時も、半分は受け取ったもののもう半分は今後の兵士への褒賞にとっておいたとされています。

 

 

とまあこんな人物でありながら、敵が非常に多いのも彼の特徴。最後に、清廉潔白な田豫に敵が多かった理由を私なりに推察して紹介を締めたいと思います。

 

 

 

 

田豫はなんで嫌われる?

 

 

本文を見るだけでも、王雄と程喜に讒言を受けた田豫ですが、後ろ暗そうな逸話は他にもあります。

 

例えば、護烏丸校尉として勤務中には、ちょっとした規則違反から冷狐愚(レイコグ)という人物に弾劾を受けています。また、『孫資別伝』では孫資(ソンシ)なる人物に嫉妬して嘘八百の讒言を並べ立てたという記述まで。

 

 

特に後者はどこまで本当かわかりませんが……田豫というのはこういう噂の立つ人物だった可能性は否めません。

 

 

さて、大方の理由として考えられるのは、

 

 

1.卑しい家柄

 

2.割と空気を読めない人物

 

 

と、こういったところでしょうか。

 

 

まず家柄についてですが……田豫は幽州の辺境出身。しかも家族がどういう役職だったとか、そういう話を聞きません。つまり、下手をすれば庶民の出だった可能性が高いと言えるわけですね。

 

当時は九品中正法なる官吏登用制度が採用されていて、田豫が北方で活躍したのはこの制度が採用されて間もない頃。

 

つまり、純粋な能力主義が進められていたのですが、何年としないうちに、この制度はいつしか豪族による血統主義の政策に模様替わりしていった可能性があるのです。

 

 

もし九品中正法が早期から貴族主義の制度として利用されるようになっていたら……家柄も卑しく後ろ盾を持たない田豫は、こういった弾劾によって簡単に潰されてしまうのは仕方ないと言えるかもしれません。

 

 

続けて2の空気の読めない性格ですが……晩年衛尉をやっていた時の話です。

 

この時、田豫はたびたび老齢を理由に隠居したがったのですが、司馬懿はそれに対して「まだ元気なんだから頑張ってくれよ」と一切許可しませんでした。

 

 

そんな司馬懿に対して田豫が送った熱烈な手紙の内容がこちら。

 

 

「70を過ぎたジジイがいつまでも官位にすがっているのは、言ってしまえば金が鳴ってとっくに夜になっているのに休もうともしないような、もう罪人みたいなものです」

 

 

田豫はこんな文章を送ってまで隠居しようとしたわけですが……よくよく考えれば、この時の司馬懿もすでに70が近い高齢。司馬懿本人からしてみれば、自分へのディスりともとれる文章なのです。

 

 

まあ田豫にそんなつもりはなかったのでしょうが……並外れた功績や手柄があっさり握りつぶされた理由の一つに、こういう悪意の全くない爆弾発言もあったのかもしれませんね。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/16 15:30:16

 

 

生没年:?~青龍4年(235)

 

 

所属:魏

 

生まれ:豫州潁川郡許昌県

 

 

 

 

陳羣(チングン)、字は長文(チョウブン)。三国志の時代は歴史の教科書からすっ飛ばされることが多いですが……その中でも君主以外で名前が挙がることもしばしばある、ちょっとレアな人物です。

 

というのもこの人、中国の貴族主義社会を開花させた九品中正法の提案者。これによって中国の官僚制度が一新され、血統主義的な様相がさらに強化されました。……権力者への忖度って、受け入れられやすいんですね。

 

その辺を差し置いても優秀な官僚で、あの曹丕(ソウヒ)とも仲良くできるような人物。三国志メディアでは目立ちませんが、かなりの重要人物なのです。

 

 

今回は、そんな陳羣の伝を追っていきましょう。

 

 

 

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波乱の前半生

 

 

 

陳羣は曹操(ソウソウ)に仕えた文官ですが、それまでの道のりは結構遠かったことが伺えます。

 

まず、彼が最初に仕えたのは劉備(リュウビ)。祖父から大いに評価され、父を介して高名な人物である孔融(コウユウ)からも高く買われたことで、陳羣は名士として名が知られるようになりました。

 

そんないきさつがあったため、劉備に名を知られて、豫洲(ヨシュウ)の別駕(ベツガ:副長官クラス)として登用されました。

 

 

こうして歴史に名を残す人物としてスタートした陳羣でしたが、その直後に、徐州(ジョシュウ)の陶謙(トウケン)が死去。徐州を統括する席が空白となり、劉備はその後釜として迎えられるようになったのですが……陳羣はこれに大いに反対。

 

 

「巨大勢力を率いる袁術(エンジュツ)が南方にあり、きっと戦争になります。また、呂布(リョフ)も徐州を狙っている様子。袁術との戦いの際中に呂布に背後を襲われては、きっと勝つことができません」

 

 

劉備はこの意見を取り下げて地元志向だった陳羣と別れ、徐州へと向かう事に。結果、陳羣の予見通り袁術との戦争中に呂布によって徐州を奪われ、ひどく公開することになったのでした。

 

 

さて、劉備と別れた後、陳羣は父と共に徐州に避難し、その後呂布が敗死すると曹操に仕えることになったのです。

 

この時の事は袁渙伝に詳しく載っており、陳羣は降伏者として曹操の元に向かったようです。

 

 

 

 

魏政権での働き・前編

 

 

 

さて、かくして曹操の配下という形に収まった陳羣は、曹操に気に入られ彼の属官になりました。

 

 

またこの時、曹操は王模(オウボ)、周逵(シュウキ)という人物も周囲の推挙に従って招聘したのですが、陳羣はこれに対して難色気味。

 

「彼らはきっと、後に害をもたらします」

 

そう言うと、2人の任命状を握りつぶしてしまったのです。

 

曹操はその後も納得せずに2人を任用することにしましたが、結局は2人とも罪を犯して処刑されるという結末に終わったとされ、曹操は慌てて陳羣に謝罪したとされています。

 

 

また人物眼にも非常に恵まれていたようで、陳羣はその後、陳矯(チンキョウ)や戴乾(タイケン)といった人物を次々と任用。

 

彼らはどちらも有能で、戴乾は名こそ残せなかったものの、国難に際して職務を放り出さずに殉職。陳矯に至っては、魏書に独自に伝を設けられるほどの人物になったのです。

 

 

その後各地の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)として各地を転属しますが、やがて父が亡くなったことで喪に服すため辞任。

 

喪が明ければ再び司徒(シト:民政の大臣職)の属官から始まり、好成績を上げて治書侍御史(ジショジギョシ:検察官的な役割)となり、そこから再び曹操の軍事参謀として仕え、魏が建国されると御史中丞(ギョシチュウジョウ:官吏を弾劾、告発する役割)として国内の官人の動きに目を光らせるようになりました。

 

さらにその後は侍中(ジチュウ:国のトップの顧問役)となり、いよいよ陳羣の存在は欠かさぬものになりつつあったようです。

 

 

 

ある時曹操は肉刑(体に傷害を加える刑罰)を復活させるかどうかで文官たちに議論を行わせましたが、陳羣もこの場に呼ばれて意見を求められました。この時の陳羣の答えは以下のとおり。

 

 

「我が父は『肉刑を廃止して鞭打ちとなったが死ぬ者が多く、実質名称ばかりの軽い刑罰となった。命を取らずとも、盗みを働く者は足が無くなれば盗みを働けない』と申しておりました。現在は元来死刑に問うべきでない罪もまとめて死刑となっており、鞭で撃ち殺すことが肉刑の代わりとなっています。すぐに推し進めるべきでしょう」

 

 

これには曹操、そしてその場に居合わせていた鍾繇(ショウヨウ)も賛成しましたが、王朗(オウロウ)を始め反対意見は多数派を占め、結局この件は沙汰止みとなってしまったのでした。

 

 

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魏政権での働き・後編

 

 

 

さて、陳羣は曹操の息子・曹丕(ソウヒ)とは非常に仲が良く、司馬懿(シバイ)らと共に『太子四友』として彼と共に歩んできた事績があります。

 

それも手伝ってか、曹操が亡くなり曹丕の時代になると、陳羣は尚書(ショウショ:宮中文書を司る部署の役職。他部署の助っ人)となり、その後昇進を重ねて、最終的に録尚書事(ロクショウショジ:尚書台の大ボス。宰相職)に昇進し、穎郷侯(エイキョウコウ)の爵位も与えられました。

 

また、軍事でも中領軍(チュウリョウグン:近衛隊統括、各軍の監督)として遠征に参加したり水軍指揮を任されたり、果ては鎮軍大将軍(チングンダイショウグン:筆頭幕僚が就く軍事監督役)に任命されたりと、軍事方面でも出世した事が記されています。

 

また、曹丕が帝位に即位するまでの間に建議をまとめて九品中正法を提出。血統主義を強めて貴族主義社会を開花させる足掛かりを築きます。

 

 

その後曹丕が危篤になると、曹真(ソウシン)、司馬懿と共に臨終の場に居合わせ、彼の皇太子である曹叡(ソウエイ)の補佐を任されるようになりました。

 

曹叡が帝に即位すると、さらに爵位を上げて潁陰侯(エイインコウ)となり、曹真、曹休(ソウキュウ)、司馬懿ともども自らの手で役所を開けるようになり、さらに司徒へと昇進。その後もちょくちょく尚書に戻って事務仕事をこなすなど、重鎮としてハードワークにいそしむようになりました。

 

 

蜀の北伐を防いでいた曹真が「逆に蜀に攻撃を仕掛けます」と上奏した際には、険阻な地形ゆえの補給断絶を懸念。曹真軍が長雨で進めなくなると、曹叡に対して曹真を帰還させるよう主張し、危険を回避したのです。

 

 

その後、曹叡の公主が亡くなった際に大規模葬儀を行うことが決定しましたが、この時も「大々的で予算が多すぎます。それよりも公共施設の建て直しに使うべきです」と述べたものの受け入れられず。

 

また、曹叡の土木建築癖を諫めた上奏も他の群臣と共にしており、そのおかげで曹叡の浪費癖が少し収まったとか何とか。

 

 

このように主に政治での活躍が多い陳羣でしたが、青龍4年(235)に死去。靖侯と諡されました。

 

そして彼の後は息子の陳泰(チンタイ)が継ぎましたが……これがまた、大変な傑物だったのです。この話は、また別のページにて……

 

 

 

 

清廉?腹黒?

 

 

 

さて、このように優秀な官僚といった生涯を歩んだ陳羣ですが、三国志を編纂した陳寿は、彼を以下のように評しています。

 

 

名誉と徳義により行動し、高潔な人柄と高い声望を持っていた。

 

 

謹厳実直で清廉な人となりの官僚といった感じで、実際に官吏の弾劾や裁判沙汰を任されている辺りから、その公平な人柄が伺えます。

 

また、侍中時代の生活態度は陳羣伝本文にも書かれており、「好き嫌いでなく公平な目で見て、名誉と同義に依拠し、道義から外れたことを人に押し付けなかった」という記述がなされています。

 

 

その一例が、魏諷(ギフウ)という人物の大規模反乱未遂のとき。

 

劉廙(リュウヨク)という優れた人物が魏に仕えていましたが、この魏諷の反乱の際、彼の弟がこれに関与。劉廙も反逆者の血縁として死刑相当の罪に問われてしまいました。

 

が、陳羣は曹操に対して劉廙の減刑を訴えかけ、劉廙は功臣でもあったため許されることになったのです。

 

 

後に劉廙は陳羣に感謝の言葉を継げたのですが、「あなたでなく国家のために、功臣の助命を願い出たに過ぎない。そもそもあなたの減刑ははご主君がお決めになったことで、私が預かり知る話でもあるまい」と取り合う事をしなかったのでした。

 

 

また、けっこう有名どころですが……不良軍師である郭嘉(カクカ)とは壊滅的に仲が悪く、陳羣は素行不良を毎回弾劾しては郭嘉がそれに知らん顔をし、曹操は双方の才能を惜しんで郭嘉の素行不良を不問にしつつも陳羣にも感謝を告げたとか。

 

 

ただし『魏略』では曹操に対して帝位に就くことをほのめかしたり、名将の張郃(チョウコウ)が戦死した時にはオーバーに悲しんで批判されたり、また呉質(ゴシツ)の讒言で譴責されたりしています。

 

この辺の噂が立ったのを見るに、必ずしもきれいなだけの人間ではなかったのでしょう。

 

 

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九品中正法って?

 

 

 

最後に、彼の力によって魏で始まった九品中正法について、ザックリ説明して終わりにしましょう。

 

九品中正法とは新しい官吏登用の制度のことで、上から一品、下は九品までランクを制定し、地方ごとに置かれた中正官という役職の人物が、その土地の人間をランク付けするという制度のことを指します。

 

これによって推挙された人物は、初めに定められたランクを出世の上限として、4品下のランクとして登用。功績によって出世しますが、当初定められたランク以上には登れないという仕組みになっています。

 

 

 

漢王朝ではこれまで、郷挙里選と言って、儒教的な善行や名声によって、地元豪族の合議によって地方推挙が行われてきました。

 

その結果、豪族たちは賄賂や大げさな偽善や演技による名声を基準に官吏を推挙して腐敗が進んだため、改めて監査官を置くことで能力主義にリセットしようという目論見があったと言われていますね。

 

 

しかし、この制度も次第に形骸化。有力豪族ばかりが官吏に選ばれるようになり、西晋の時代には「上品に寒門(家柄の低い者)無く、下品に勢族(有力豪族の出)なし」と言われるほどに腐敗してしまいました。

 

つまり、家柄の良いお坊ちゃまばかりが政治の実権を握るようになり当初の目的から外れ、能力ではなく血統家格の貴族主義社会が形成されてしまう結果になってしまったのです。

 

 

別名、九品官人法、あるいは九品中正制。

 

一説には、これは漢から魏へと国号が変わるのを意識して、豪族の息がかかった官吏をそうでない有能な人材と選別する狙いがあったとされています。

続きを読む≫ 2018/09/15 12:54:15

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:冀州清河国鄃県

 

 

 

 

朱霊(シュレイ)、字は文博(ブンハク)。近年では三国志界隈で魏が取り沙汰されることも多くなり、その影響で五大将も注目されることが多くなっています。

 

魏の五大将と言えば、張遼(チョウリョウ)、楽進(ガクシン)、于禁(ウキン)、張郃(チョウコウ)、徐晃(ジョコウ)の5人。しかし、その陰に隠れ、密かに6人目と称されることもある人物がいます。

 

それこそが、今回伝を追っていく朱霊。

 

 

伝は徐晃伝の付伝、しかも具体的な事績のほとんどはオミットという地味に嫌がらせのような扱いを受けている朱霊ですが、今回は彼の伝を他の伝の事績と合わせて追っていきましょう。

 

 

 

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最初は袁紹配下

 

 

本文では、朱霊は始めは袁紹(エンショウ)配下。曹操(ソウソウ)が陶謙(トウケン)を討伐する際に袁紹からの援軍として軍勢を率いて合流し、そのまま曹操の大器に一目惚れしてそのまま曹操軍に鞍替えしたとあります。

 

この時の朱霊の言葉は、「これほどの名君は初めて見た!もうどこにも行く気はない」とのこと。実際にこの後曹操から干されるような仕打ちまで受けたのに恨み言ひとつ言った記述がない辺り、相当な入れ込みようなのがわかります。

 

 

この時、朱霊は自分の手勢以外にも兵を率いていたのですが、その兵たちもみな朱霊を慕って曹操軍に残留。まだまだ群雄として力不足だった曹操にとっては小さくない助けになった事でしょう。

 

 

さて、では袁紹軍で朱霊は何をしていたのかという話になりますが……その答えは『九州春秋』にあります。

 

 

袁紹が北方の群雄・公孫瓚(コウソンサン)としのぎを削っていた時、朱霊の故郷である鄃県(ユケン)は、季雍(キヨウ)という人物によって公孫瓚に鞍替え。朱霊は袁紹の命令で家族が人質として残る故郷を責めることになってしまったのです。

 

当然、公孫瓚は朱霊の家族を城壁に立たせて朱霊を寝返らせようとしますが……朱霊は「ひとたび君主を得て、家族惜しさに裏切れるか」と涙を呑んで鄃県の公孫瓚軍と対峙。家族の命を引き換えにして季雍を捕縛し、鄃県を袁紹支配下に取り戻したのでした。

 

 

 

 

 

憧れの曹操配下

 

 

 

かくして憧れの曹操軍に移籍した朱霊は、その後もちょくちょく史書に顔を出すようになります。

 

建安4年(199)には、曹操の配下に一時的に収まっていた劉備(リュウビ)と行動を共にし、袁術(エンジュツ)討伐に進発。しかしこの時の劉備曹操を裏切る気満々であり、朱霊らが帰還した後にも徐州にとどまって反旗を翻してしまいます。

 

 

その後曹操が官渡の戦いに勝利、袁紹の死後に冀州(キシュウ)まで勢力を広めると、朱霊は袁紹軍の旧兵を率いて、曹操留守中の許都(キョト)の近郊である許南(キョナン)の守備に出向。曹操背後の劉表(リュウヒョウ)やその客将になった劉備に備えます。

 

この時に朱霊は曹操から「連中は勝手気ままを赦されてきた身であり、下手に締め付けすぎると反乱を引き起こすぞ」と注意を受けていたのですが……許都の西にある陽翟(ヨウテキ)という地に到着した時、曹操の忠告が現実のものとなってしまったのです。

 

 

朱霊はすぐに曹操に謝罪文を送りましたが、曹操は故事を引き合いに「内部分裂には相応の理由があり、必ずしも威厳を損なう事とも責任を追及すべき事とも言い切れないだろう」と朱霊の失態を不問にしたのです。

 

その後も、建安13年(208)の赤壁の戦いにも、趙儼(チョウゲン)率いる別動隊として張遼、楽進、于禁ら錚々たる面子と共に登場しました。

 

 

建安16年(211)に涼州の馬超(バチョウ)を中心に西方で反乱がおこると、朱霊もい軍を率いる武将として出撃し、徐晃と共に別動隊を率いて敵軍を圧迫。勝利に大きく貢献し、それからしばらくは夏侯淵(カコウエン)の主力部将のひとりとして西涼の征伐に参加しています。

 

また、そのまま建安20年(215)の漢中討伐にも参加し、後方を脅かす異民族を張郃と共に打ち破る活躍を見せています。

 

 

と、このように史書で散見されるだけでも各地を転戦している朱霊ですが、于禁伝ではなぜか曹操から憎まれており、時期は不明ながら朱霊軍は于禁軍に吸収されてしまったことがあるのです。

 

この時に朱霊や彼の兵たちは一切抵抗しなかったとあるのですが……いつの時期、何のせいで恨まれたのかは諸説あり不明のままです。

 

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五大将幻の6番目

 

 

 

曹操死後、曹丕(ソウヒ)が帝に即位して魏を打ち立てると、朱霊は故郷である鄃県を領土として鄃侯に取り立てられ、曹丕からは「いにしえの名将を超える働きを見せた」と大絶賛されます。

 

そして、曹丕からは「さあ、願いがあれば何でも言ってくれ」と言われると、朱霊は即座に「鄃よりも高唐(コウトウ)を領土に賜るのが、私の望みです」と返答。時を待たずして高唐に移封となりました。

 

鄃県と言えば、朱霊の故郷以前に、仕方ないとはいえ自身が家族を見殺しにした土地でもあります。やはり何か思うところがあったのでしょう。また、後将軍(コウショウグン)にまで上り詰め、ついには五大将の徐晃らに次ぐほどの名声を得る名将と名が知られるようになったのです。

 

 

そんな朱霊の最後の記述が、太和3年(229)の、石亭の戦いと呼ばれる大敗北を喫した戦い。

 

この時、総大将である曹休(ソウキュウ)は敵軍の罠にかかって全滅の危機を迎えていましたが、朱霊はこの時に駆けつけた救援部隊のひとつとして参戦。敵軍の追撃ルートを封鎖して敵に当たり、退路をこじ開けるのに貢献しています。

 

 

その後正始4年(243)には他の魏建国に貢献した功臣らと共に祀られたとあり、それ以前に亡くなっているのは間違いありません。

 

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間違いなく功臣なんだが……

 

 

 

さて、このようにあちこちを転戦して曹操軍や魏軍を支えた人物なのですが……活躍時期が飛び飛びで、曹操に干された時期やいつどの地位にいたのかなど、魏では非常に大身な人物でありながら不明点が多すぎるのが現状です。

 

そのため、五大将、あるいはその次くらいに位置する人物とされてもおかしくないのに、一切目立たず注目すらもされることが少ないという有り様。

 

 

楽進辺りと並んで、思わず誤植や別名記載で別人扱いされている同一人物を疑いたくなるものです。

 

その筆頭格が、呉の孫権(ソンケン)が魏へ腹芸謝罪文送った時に名が挙がっている朱横海(シュオウカイ)という人物ですね。

 

こちらは実際にほぼ朱霊ではないかと言われており、張遼が将軍位で「張征東」と言われているのを考慮して、朱霊が横海将軍という将軍位に就いていたとする説が濃厚です。

 

他にもいろいろと言われていたり否定されたりもしていますが……朱霊を別の人物と同一に括るのはあくまで仮説に過ぎません。何にしても、朱霊の立場と記載の多さがマッチしていない将軍の一人であり、まだまだ謎が多い人物です。

続きを読む≫ 2018/09/09 14:25:09

 

 

生没年:元嘉2年(152)~初平3年(192)

 

所属:魏?

 

生まれ:兗州泰山郡平陽県

 

 

 

 

鮑信(ホウシン)、字は明らかになっていません。乱世の奸雄・曹操(ソウソウ)の前半生は、お世辞にも人から評価されているとは言えませんでした。

 

しかし、それでも見ている人は曹操を見ており、実際に助力して彼のために命を落とすような人物も中にはいたのです。その中の一人が、今回事績を追っていく鮑信。

 

 

彼の話は魏の重臣となった息子・飽勛(ホウクン)のオマケ程度にしか記載されていませんが、ほとんど部外者でありながら弱小であった曹操と共に戦い、そして文字通り彼のために死んだ人物である事は間違いありません。

 

 

 

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人を見抜く力

 

 

 

鮑信の実家は代々儒学者をやっており、儒教が時代を動かしていたという背景もあって、彼の父親は漢の重臣にまで上り詰めていました。

 

 

鮑信も当然ながら漢王朝に招かれ、騎都尉(キトイ:近衛隊長)の役職に就くことに。そして、大将軍であった何進(カシン)の指示を受けて一度帰郷。自身のホームにて募兵を行い、千人ほどの兵士を軍に組み入れて都・洛陽(ラクヨウ)へ戻ることにしました。

 

……が、この帰り道、鮑信は何進死亡の報告を受けることに。何進は政敵との抗争の末、最後には暗殺されてしまったのです。

 

 

そして、その後に朝廷の実権を握ったのは、後に天下を騒がせることになる董卓(トウタク)。鮑信は致し方なしとそのまま都に戻ってくると、ちょうど洛陽に到着して間もない董卓とバッタリ出くわしました。

 

董卓を見て危険な印象を受けた鮑信は、すぐに家臣の重臣であった袁紹(エンショウ)に自身の感じたままを吐露。「奴は危険です。すぐに暗殺すべきでしょう」と進言しましたが、それを聞いた袁紹董卓に逆らうのを危険と判断して行動を起こせず、結局逃亡してしまったのです。

 

鮑信は仕方なく自らも故郷へ逃げ帰り、そこで兵を2万余り集めて反董卓の兵を結成。弟の鮑韜(ホウトウ)と共に将軍の職に就き、ほぼ同時期に挙兵した曹操に呼応して軍を進めることにしました。

 

 

また、この時は袁紹軍が反董卓軍の中で規模が最大であることから、人々は袁紹を称えていました。が、鮑信だけは曹操を評価して彼と友好を結び、このように評価したのです。

 

「類稀な知略を持っており、英傑を統率して乱世を治めるに値するのは曹操だけだ。その器に当てはまらぬ者を仰いでも滅亡は必至であり、まさにこれは天の導きとも言うべきだろう」

 

ここまで評価されては、曹操の側もホクホクでしょう。曹操も方針を信頼し、鮑信に親密感を抱いたとか。

 

 

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曹操の天下を見ること叶わず

 

 

 

鮑信は本質を見抜いた評価をしたとはいえ、時代がそれを評価するとは限りません。反董卓連合軍は袁紹を盟主にたてることになったものの、毎日酒宴ばかりを開いて誰に董卓の相手を押し付けるか牽制し合うばかり。

 

鮑信はこれに怒った曹操と共に董卓軍を攻撃するものの玉砕。弟の鮑韜をはじめ多くの兵を失う惨敗を喫してしまいます。

 

さらにその後、董卓は都の洛陽を捨てて西へと逃走。「董卓を倒して漢の都を取り戻す」という目標がうやむやのまま失われた連合軍は自然消滅し、袁紹が冀州(キシュウ)の韓馥(カンフク)を追い出して勢力を拡大して乱世に向けた戦力増強を始めたのです。

 

鮑信は「あれは第二の董卓になる」と予見。この予想は後年的中し、曹操袁紹を打ち倒すまで彼の脅威を受け続けることになるのです。

 

 

 

後に曹操が東郡(トウグン)の太守になると、鮑信も済北(サイホク)国の相(ソウ:当時は郡の他に国と呼ばれた区域もあり、そこの大臣を指す)に昇進。こうしてそれぞれの任地で力を蓄えることになったのですが……2人が根を張る兗州(エンシュウ)に、今度はとんでもない問題が飛び込んできたのです。

 

青州(セイシュウ)に根を張る黄巾賊(コウキンゾク)が無数、大挙して兗州に侵攻。

 

老若男女問わず編成された民兵隊のその数は百万とも号されており、まさに雲霞の如く兗州を火の海に包み込んで、すでに任地で戦死を遂げた行政官も出る等の緊急事態が発生したのです。

 

 

兗州の長官である劉岱(リュウタイ)は青州賊の討伐を決意。鮑信は慌てて制止し、「彼らは統率が取れておらず、守りを固めればそのうち解散します。闇雲に戦っては危険です」という制止も聞かずに出撃。そのまま賊軍に呑み込まれて殺されてしまったのでした。

 

「こうなっては、曹操以外に頼れる人物はいない」

 

そう考えた鮑信は、賛同してくれた役人の万潜(バンセン)と共に手続きを進め、曹操を兗州牧(エンシュウボク:州牧は長官職でも上位を意味する)に昇進させて、そのまま彼を政庁に迎え入れることにしました。

 

 

かくして政庁に到着した曹操は、伏兵による奇襲で敵陣の力を削ぐことにしましたが……なんと、偵察のさなかに賊軍に感知されて白兵戦に発展してしまったのです。

 

鮑信は曹操をなんとしても死なせまいと奮戦。おかげで曹操は無事に逃げきれましたが、鮑信はこの時敵軍に呑み込まれて行方不明に。史書では明確に「戦死」と書かれており、後に彼が史書に出ることはありませんでした。享年41。

 

 

曹操は賊軍を無事に追い払うと鮑信の遺体に賞金を懸けて探しましたが、結局見つからず仕舞い。しかたなく木彫りの人形で代用し、大々的に彼の葬儀を執り行ったと言われています。

 

 

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後々には曹操配下に?

 

 

「もし鮑信が生き延びていたら」などと考えても仕方のない事ですが、恐らく、近い将来には曹操の配下に入っていた事でしょう。事実、この頃の曹操配下には曹洪(ソウコウ)や史渙(シカン)など、実際はともかく形式上は部下かどうかグレーな人物は少なくなかったのです。

 

さて、そんな鮑信は、彼の事績を追う上でメインの文書になる『魏書』において性格を言及された文章がいくつかあります。

 

若くして踏むべき節義をわきまえ、寛大で人を愛し、沈着剛毅にして智謀があった。

 

我が身は倹約そのものな生活をしたが、配下の将兵は手厚く待遇し、住居に財貨を残さなかった。

 

 

おおよそ、さすがは儒学者の家系といったところ。いつの時代にも偉そうに徳を語りながら自分は蓄財に励むなんちゃって道徳家は多くいますが、鮑信のそれは真正だったと見てよいでしょう。

 

しかし、もしかしたらですが……袁紹董卓の専横を全力で否定するような言い分を残している辺り、もしかしたら堅物で理想主義な、良くも悪くも儒家の人といった人柄だったのかもしれませんね。

 

 

 

鮑信が遺した物

 

 

 

さて最後に、鮑信を通じて曹操が手に入れたものを挙げて終わりにしましょう。鮑信が大いに関連して曹操が手に入れたものは、おもに3つ。

 

 

1.兗州牧の地位

 

2.青州兵

 

3.于禁

 

 

兗州牧という地位は、もはや言わずもがな。乱世において大事なのは力であり、領土が広く豊かであるほど、その力は増していきます。1郡の太守に過ぎなかった曹操は、どさくさ紛れとはいえ鮑信らの口添えによって郡を包括する州のトップに上り詰め、事実上群雄としてのスタートを切る事が出来ました。

 

この兗州は曹操が覇業の序章を制する本拠地となっており、一時期は失陥の危機を迎えたものの曹操の力の源になっています。

 

 

そして、鮑信が戦死した要因となった青州黄巾賊。これは無理矢理感がありますが……曹操が彼らを打ち倒すことができたのは、鮑信の決死の奮闘のおかげともいえ、まさに命の恩人と言えるでしょう。

 

青州黄巾賊を討伐した曹操は、その多数の民の中から兵士になれる屈強な兵士を多数徴用し、軍事力を大幅強化。後に彼らは「青州兵」と呼ばれ、曹操の覇業はここから始まったとも言われています。

 

 

そして最後は……もともとは鮑信の兵士だった于禁(ウキン)。彼は元々はペーペーの平隊員だったようですが、曹操軍の元で小隊長を経由してどんどん出世。最後には曹操軍でも5指に入る名将としてその名が知られるようになります。

 

晩節こそあれでしたが……曹操が広大な領地を得た後も活躍をつづけたことを考えると、于禁は他の2つに匹敵するだけの、鮑信が遺した「力」のひとつと見て良いかもしれません。

続きを読む≫ 2018/09/03 16:29:03

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:揚州九江郡寿春県

 

 

 

 

倉慈(ソウジ)、字は孝仁(コウジン)。基準は正直よくわかりませんが……三国志のライト層向け偉人伝にもひょっこり顔を出すことが多く、マイナーな人物でありながら時に魏の代表格にまで数えられる人物。

 

実際のこの人はどうかというと……ぶっ飛んだ偉業を成し遂げたひとり。完全野蛮な未開の地に単身で赴任し、周辺一帯をほとんど完璧にまとめ上げたという隠れた超人です。

 

 

今回は敦煌の守り神・倉慈の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

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ハイパー政治家、敦煌へ

 

 

 

倉慈ははじめ、郡の役人でした。言ってしまえば、そこそこの身分ではあるものの、単なるその他大勢に過ぎなかったわけですね。

 

しかし、曹操(ソウソウ)が軍の食糧供給を安定させるために屯田制を開始すると、領内では屯田管理を行う新たな役職が必要とされるようになってきます。倉慈はそんな折に、次の仕事として自ら屯田関連の役職に応募。

 

ここで実績を上げていき、ついに息子の曹丕(ソウヒ)の政権下では大都市・長安(チョウアン)の県令(ケンレイ:大きな県の県長)に出世しました。そして、長安にて無駄な出費をケチって経費の無駄遣いを抑え、官吏たちには怖がられると同時に恐れられたとか。

 

 

そんな小役人出身とも思えないほどの見事な業績を上げた倉慈は、今度ははるか北西の果ての果て、困窮民や犯罪者が押し込まれる辺境の敦煌(トンコウ)太守に抜擢されたのです。

 

この敦煌の地は過去に二十年ほど太守が不在だったこともあり、異民族と漢民族の混在する無法地帯。すでに中央との連絡は絶え絶えといったところで、豪族たちが好き勝手にふるまって異民族や弱者を思うままにいたぶるようなディストピアに成り果てていました。

 

 

この状況に手出しができなかった前太守から仕事を引き継いだ倉慈は、この現状を改革するために、さっそく自らに行える手段を行使していくことにしたのです。

 

 

 

 

敦煌の守り神

 

 

 

 

倉慈は豪族の力を削ぐとともに貧民の生活安定に向けた施策を実施しました。

 

 

倉慈が行った政策として記されているのは、主に3つ。

 

 

1.土地や租税の整理

 

2.法律の再整備と定着

 

3.交易詐欺の取り締まり

 

倉慈がまず目をつけたのは、有力豪族と庶民の圧倒的な格差問題。敦煌は豊かな土地を持った交易地帯でしたが、その土地のほぼすべてが豪族の私有地。庶民の生活基盤はほとんど存在しなかったのです。

 

そのため、一家の頭数に応じて租税や土地をしっかりと取り決め、時間をかけて少しずつ土地の配分を領民の感覚に浸透させていきました。

 

 

 

そして、法律の再確認。無法地帯に中立の政府がドンと立っているだけならば、それを都合よく利用しようとするのは当然。敦煌では裁判沙汰や訴訟が非常に多く、影響力の弱い政府は下手な判決を行えずに訴訟が溜まっていました。

 

倉慈はそれらの訴訟を公平に片付けるため、自ら視察を行って裁決。さらに死刑に値しないようなものに関しては鞭打ち程度で済ませる等、非常に刑罰を軽いものにしていったのです。

 

 

敦煌の問題はそれだけではありません。元々交易都市であったために、西方から入る特産品が敦煌経由で山ほど贈られていました。が、法律など単なる飾り。豪族たちによる詐欺や押し買いによって漢王朝には届けられず、住民だけでなく近隣の異民族も迷惑していたのです。

 

これに関しても、自らが通行手形を発行して護衛をつけることで、豪族の好き勝手を牽制。役所での取引に場所を限定して公平なやり取りを行ったため、異民族にも彼を慕う者が続出したとか。

 

 

このように、倉慈は無法地帯の敦煌をきちんと統制するべく奔走。就任からわずか数年で亡くなりましたが、その数年での実績は計り知れず、亡くなった際には多くの人民がまるで親戚を亡くしたように悲しみ、倉慈の姿絵や遺像を作って死後もなお慕い続けたのでした。

 

異民族の民たちも倉慈の死を聞くと役所に大勢集まって、彼への絶対の忠節と感謝を表すため自分の顔に傷をつけた者までいたとか。

 

 

その後、倉慈は祠を建てられ、長らく土地の守り神として祀られています。

 

 

 

 

人物評

 

 

 

倉慈はお世辞にも名門の出という感じではありませんが(中にはあえて低級の仕事に入るひねくれ名門も中にはいるものの)、持ち前の政治能力と公正さで辺境を守る名太守の一人として知る人ぞ知る人物といった地位を獲得しています。

 

三国志を編纂した陳寿は、彼を評して以下のように記しています。

 

 

筋道の立った思いやりある政治をした名太守である。

 

 

後に敦煌には実力ある人物が赴任してことごとくが名太守として事績を残していますが、どれも倉慈ほど慕われることはなかったと史書には記されていますね。

 

決して目立たぬ辺境にてひっそりと、それでいて多大な功績を残した倉慈。史書の記述は決して多くはありませんが、名太守としてたたえるには十分すぎるほどの事績です。

 

 

中国史では、三国志に限らずどの時代にも偏狭でひっそり頑張る名太守は現れますが……倉慈もそんな人物の一人であり、その中でも特に優れた開拓者の一人と言えるでしょう。

 

 

続きを読む≫ 2018/08/29 14:30:29

 

 

生没年:延熹3年(160)~太和4年(230)

 

所属:魏

 

生まれ:徐州琅邪郡開陽県

 

 

 

 

卞氏(ベンシ)。曹操(ソウソウ)の奥さんです。曹操と言えば片っ端から才女美女にコナをかけて回るスケベ親父の一面を持っていましたが……基本的に見るのは顔と人となりだったようで、身分とか血統とかお構いなし。

 

この人も卑しい職業に付いている辺り家柄は庶民か、下手をするとそれ以下。にもかかわらず、曹操の第一夫人にまでなり、孫の代まで魏を見届けた女性です。

 

 

貧困層は一転金持ちになると、性格が変わる事もしばしばですが……うん、この人ホントに才人やな……。

 

 

 

 

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曹操の良き側室

 

 

 

卞氏は元々、歌妓の身分でした。今でいうと歌なんかは場合によっては不動の地位にも繋がりますが、当時はそんなこと無し。歌や楽毅だけでなくお酌や場合によっては水商売も何でもありの、「品がない」と忌避される職種。正直、お金に困った貧乏人の職業だったと言っても良いわけですね。

 

そんな身分に甘んじている=とても金持ちに大事にされるなんてことと縁の無い身分でしたが……そんな卞氏20歳の時、いきなり転機が訪れます。

 

 

なんと、曹操に気に入られてそのまま家に招かれ、側室に迎え入れられたのです。

 

とはいえ、金持ちに気に入られた貧乏人が側室のひとりになるというのは良くある話。大概、こういう場合は性欲処理機の一つといった役割で終わってしまい、この時はまだ正妻はおろか、第二、第三夫人を狙うのも厳しい状態と言わざるを得ません。

 

 

しかし、曹操について都・洛陽(ラクヨウ)へと向かった折……曹操に大いに気に入られる事件が発生したのです。

 

洛陽を董卓(トウタク)が掌握した際、曹操董卓と反目して逃走。行方不明となりました。

 

 

この時、反董卓派の袁術(エンジュツ)から「曹操が死んだ」という報告があり、曹操の付き人たちは皆勝手に返ろうとし始めたのです。この時、卞氏は以下のように言い放ち、周囲を諫めています。

 

 

「まだ亡くなったと決まったわけではありません。もし生きておられたのならば、その時に逃げ帰ったとあっては合わせる顔がありません。もし災禍に見舞われたのであれば、その時にはともに死にましょう」

 

 

この言葉で周囲は逃亡を取りやめ、後になんとか生きて合流した曹操には大いに気に入られ、側室としての地位を大きく高めることになるのです。

 

 

 

 

 

夫人の大器

 

 

 

建安2年(197)、曹操にとって不幸とも呼べる出来事が起こります。なんと、一度曹操に降伏したはずの群雄・張繍(チョウシュウ)が反旗を翻し、その過程で長子・曹昂(ソウコウ)が戦死。

 

これに怒った曹操の正妻・丁夫人(テイフジン)がそのまま実家へ帰って離婚を余儀なくされたのです。

 

 

さすがにどうしようもないと思った曹操は、側室の中から新たに正妻を選ぶことになりますが……この時に選ばれたのが、貧民出身の卞氏だったのです。

 

 

こうして曹操の正式な夫人として取り上げられた卞氏は、その後驕ったような様子もなく、質素に生活。かつての身分との間にコンプレックスをこじらせて豪華な生活に溺れることは、一度もなかったのです。

 

また、教育上手なお母さん役としても期待され、曹操からは母親のいない子を全員卞氏に預けて教育を任せたとか。

 

 

当然、そんな良妻賢母に贅沢攻めなど通用はせず。曹丕(ソウヒ)が皇太子に任命された際に彼の側近が祝いと称して倉の宝物を卞氏にプレゼントしようとすると、卞氏はあっさりと拒否します。曰く、

 

曹丕は年長であるから太子に任命されただけ。それに私は、教育責任を問われないかが心配なだけです。そのような贈り物を受けるだけの謂れはありません」

 

とのこと。普通ならば喜んで飛びつき、いや、最悪自分から要求する人も少なくないでしょうに……とんでもない人物です。

 

 

 

『魏書』にも華美な生活や派手な装飾に興味を示さない人物としての記述がなされてあり、倹約家とされています。

 

 

また、曹操が立派な耳飾りをいくつか仕入れて持ってきた時は必ず卞氏に一番に選ばせましたが、決まって彼女は中等品の微妙な価格の物を受け取ったとか。曰く、

 

「一番高いものを選ぶと強欲、安いものを選ぶと倹約がわざとらしいと批難を受けます。だから中等品をいただくのです」

 

さすがといったところですが……この言葉には卞氏の器以上に、「貧民の分際で天下人の妻になった女」の気苦労を感じられるのは私だけでしょうか?

 

 

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ま さ に 太 后

 

 

 

建安24年(219)には王后として正式に認められ、翌年に夫の曹操が亡くなると、そのまま王太后、そして曹丕が亡くなり曹叡(ソウエイ)が跡を継ぐと、今度は「皇后太后」の尊号を得ました。ややこしい!

 

そしてそのまま、太和4年(230)に崩御。曹操が崩御した際に埋葬されたのと同じ墓陵に合葬されたのでした。

 

 

ちなみに曹丕が魏帝についていた年間に、なんと彼女は当時軽視される女性の身でありながら領地と爵位を与えるかどうかという話が上がったのです。

 

さすがにこの時は、重臣の陳羣(チングン)が反対。

 

 

「古来のしきたりで女性は男性に付き従う者となり、すなわち男性の爵位に付き従うという事と同義。秦はこの教えに背いて漢王朝はそれを踏襲しましたが、これはいにしえの君主の在り方ではありません」

 

 

いかにも古風な男尊女卑思想ですが……漢王朝は皇后が力を持ったことでその一族が台頭し、さらには周りを世話する宦官が力を持ってお互い争ったという形跡もあり、それを警戒した言葉とも思われます。

 

結局、これによって卞氏が爵位を得るという話は取りやめになったのです。

 

 

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人物像

 

 

貧民から破格の立場に上り詰めるというトンデモな人生を歩んだにも関わらず、華美を好まぬ質素倹約な生活を送った人物なのは先述の通り。

 

『魏書』によれば、故郷の親戚一同を家に招待した時も、豪華なディナーを提供できる立場に居ながら、実際に出したのは野菜と粟の飯くらい。自分が里帰りした時も質素倹約を心掛けるように伝えています。

 

かと思えば、遠征中に老兵を見かけると声をかけて贈り物をするなど……とにかく、自身の難しい立場を保守、謂れの無い誹謗を受けないような行動に腐心している様子がうかがえます。

 

 

曹操もそんな卞氏の気苦労を良く知っていたようで、「腹を立てても顔色を変えず、うれしくても節度を守る。これが一番むずかしいのだ」と賛辞の言葉を口にした記述が残っています。

 

 

『魏略』では、離婚した曹操の前妻・丁夫人にもよく接していた様子が描かれています。

 

卞氏は側室という立場の手前、丁夫人からぞんざいな扱いを受けていましたが……その恨みが世の中に出ることは一度たりともありませんでした。

 

それどころか、夫の前妻としてしばしば贈り物を届け、曹操が遠征などで留守にした隙にこっそり丁夫人を屋敷に招待。上座に座らせて、自身は下座で側室時代と変わらない歓待を行ったりもしたのです。

 

 

また、丁夫人が亡くなったと聞くと、曹操に許可を得て彼女を埋葬。生前、丁夫人は感謝のあまり「なぜここまでしてくれるの?」と漏らしたとか何とか。

 

 

 

 

息子たちとの関係

 

 

 

さて、そんな卞氏でしたが……どうにも「実子の曹丕とは仲が良くなかった」といううわさが、まことしやかにささやかれています。

 

例えば、先述の「曹丕の皇太子任命は当然。それより教育不足で責任を問われないかが心配です」という発言。これは暗に、曹丕の性格を危険視しての発言という意味合いにも受け取れます。

 

また、曹丕の夢に出てきて曹丕の意向に反対するという眉唾な話や銭ゲバで知られる曹洪(ソウコウ)の待遇による口出し、曹丕が跡を継いだことを曹操の墓陵で愚痴ったり等(さすがにこれは嘘でしょう)、とにかく曹丕との仲の悪さを示す逸話は事欠きません。

 

 

一方で曹丕の弟にして末子の曹植(ソウショク)を溺愛してい多様ですが……さすがに情だけで国を傾ける悪女が、ここまで賞賛されるようなことはありません。

 

『魏書』によれば、曹植が法律に抵触する行いをした時、卞氏は「そんなことをするとは……」と驚きを隠さなかったものの、曹丕に対して「私のために国法を破ることは許しません」と曹植の処罰を認可。以後曹丕と会う時も、この話は一切持ち出しませんでした。

 

 

まあ曹丕との不仲がどこまで本当かはわかりませんが……好き嫌いで国の運営に口出しする小市民的性格でなかったのは間違いないでしょう。

続きを読む≫ 2018/08/24 12:44:24

 

 

生没年:建寧4年(171)~嘉平元年(249)

 

所属:魏

 

生まれ:幽州燕国薊県

 

 

 

 

徐邈(ジョバク)、字は景山(ケイザン)。酒というのは昔から人を誘惑してやまず、ついついやらかす人が跡を絶ちませんが……その中の一人がこの人。酒に関するちょっとした面白エピソードを持っており、事績よりもそちらが有名……というかマイナーなためそれしか知られていない、なんてこともしばしばの人物です。

 

 

しかし実際は、さすがに立伝されるだけの実力者。異民族との折衝のプロであり、街や公共機関の貯蓄を増やすのもお手の物と、万能な政治家、外交官として終始動いています。

 

 

今回は、そんな徐邈の伝を追ってみましょう。

 

 

 

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早速酒でやらかしました

 

 

 

徐邈は、曹操(ソウソウ)が亡き袁紹(エンショウ)の旧領を平定する北伐の中で見いだされ、そのまま曹操属官の一因へと加わりました。その後、試しに奉高(ホウコウ)県を試しに治めさせたところ、随分と有能な様子を見せたため、出世して中央での政務に逆戻り。

 

後に魏王国が建立されると、今度は尚書郎(ショウショロウ:宮中の文書管理する部門の役人)として取り立てられることになったのです。

 

 

と、ここまでは割と普通のエリート役人といった感じの軌跡ですが……曹操領内で禁酒令が発令されると、ついに徐邈はやらかしてしまいます。

 

 

どうしても酒が恋しくなったのか、はたまた禁酒なぞクソくらえと内心思うところがあったのか……ある時密かに酒を浴びるほどかっ食らい、そのまま酔いつぶれた状態で発見されてしまったのです。

 

当然、その場で官吏の尋問を受けますが……その時の徐邈の返答がこちら。

 

 

「いやはや、聖人にたまたま出くわしてね。それでちょっと酔っていたのさ」

 

 

当然、そんな言い訳で「はいそうですか」となるケースなどあり得ません。報告を受けた曹操は、それはもうおかんむり。徐邈をどう処罰したものかと、非常に立腹した様子だったと言われています。

 

結局は同郷で活躍していた北方の勇士・鮮于輔(センウホ)が「酔っぱらいは清酒を聖人、濁り酒を賢人と言うそうな。徐邈の普段の様子からは考えられません。きっと酔っぱらって妄言を吐いたのでしょう」と取りなしたおかげで罪を免れましたが……こんな失態を犯した人物がこれから裏方として大活躍するなど、いったい誰が想像できるでしょうか。

 

 

ちなみにこの後、地方に飛ばされた徐邈は転勤を繰り返し、そのたびに非凡な成果を上げたとかなんとか。曹丕(ソウヒ)の代になってしばらくすると、関内侯(カンダイコウ)の爵位に取り立てられ、列侯の一員に仲間入りを果たすことになるのです。

 

 

……ちなみに曹丕はこの時の徐邈の返答を覚えており、「相変わらず聖人に当たってるんだろう?」とドS王子たる所以を存分に発揮しましたが、徐邈は以下のように返答。逆に感心されています。

 

「楚の公子の中には酒のせいで戦に負けた者がおり、魯の大臣は使者に赴こうとする者に酒の勢いで暴言を吐き、増税の罰を受けたとか。どちらも偉人ですが、私も彼らと同じ趣味を持ち、懲りずに時々当たっておりますとも。斉の閔王の妃は『醜』と評判でしたが、私は『酔』と評判になっております」

 

 

……瞬時にこの返答が出るんだからすごいものです。ちなみに徐邈、この返答によって撫軍大将軍軍師(ブグンダイショウグングンシ:留守番部隊総大将のお付き役?)の地位を得ています。

 

 

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辺境の名政治家

 

 

 

恐らくその後、徐邈はデキる人として評価を高めたのでしょう。曹叡(ソウエイ)に魏の国主が移って蜀が不穏な動きを見せ始めると、涼州刺史(リョウシュウシシ)に転任。軍事的権限も同時に与えられ、蜀や異民族と隣接した辺境の危険地帯へと転属になりました。

 

そして着任と同時に、ついに蜀の宰相・諸葛亮(ショカツリョウ)が北伐を開始。事前工作によって、北伐に呼応して蜀に寝返る地域も少なからず出るという憂き目に立たされたのです。

 

徐邈はさっそく周辺の太守らに呼びかけ、反乱地域の鎮圧。魏軍本隊の活躍もあって諸葛亮は撤退し、徐邈らによる反乱討伐も成功に終わったのです。

 

 

……とはいえ、西涼の土地は元はと言えば打ち捨てられた緩衝地帯。おまけにゴビ砂漠とも隣接する乾燥気候でなかなか雨が降らず、作物の不作に苦しめられていました。

 

そこで徐邈は、農業の振興に着手。ため池を修復して水田を作り、貧民層を農耕作業員として雇用。さらに軍用米の余りを使って資材を買い集め、それらも涼州の各郡に運用させていったのです。

 

 

こうした甲斐あって穀倉の備蓄は見る間に貯まっていきましたが……このほかにも問題は山積みです。

 

次の徐邈の課題は、弱肉強食主義の民衆への道徳の教化。まず、徐邈は刀狩り令を発令し、民間で所持している武器を随時押収して公用倉庫へ補完。その後善に報いて悪を否定する道徳政治を敢行して民衆を手なずけ、封鎖されていた交易路を回復させたのでした。

 

 

また、異民族に対しても小さな罪は見逃すものの、大罪を犯した者は部族の長に連絡して断固許さない姿勢を見せ、厳格に処罰しました。歯向かう部族があれば討伐する等、寛大に接しながらも締める所はきっちり締める政治を行って、その心をがっちりと掴んでみせたのです。

 

 

 

 

その後……

 

 

 

このように辺境の発展に力を注いだ徐邈でしたが、正始元年(240)には大司農(ダイシノウ:財務大臣。ただし実験のほとんどは他部署に移されている)として再び中央に帰還。さらには司隷校尉(シレイコウイ:中央警察署長)に昇進しましたが、公的事件に巻き込まれて辞任。

 

しかしすぐに光禄大夫(コウロクタイフ:帝の顧問役だが、いわゆる名誉職)として復帰。後にとうとう司空(シクウ:法務大臣。こちらも名誉職化が続いていたが、まだまだ大権あり)に任命されるまでになりました。

 

しかし、徐邈はさすがに司空へのの任官を拒否。「然るべき人間が就くべき大任であり、老いぼれが務めるような職ではありません」と言い、結局78歳で死去するまで光禄大夫の任にとどまり続けたのでした。

 

 

諡は穆侯。後は子の徐武(ジョブ)が継ぎました。

 

その後嘉平6年(254)には田豫(デンヨ)、胡質(コシツ)と共に「清廉潔白で私事を忘れ、公のために力を尽くした名臣である」とたたえられ、3人の遺族には大量の物品を下賜されたとか何とか。

 

 

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人物像

 

 

徐邈の名声は、いずれも大物とされて名を上げた孫礼(ソンレイ)、盧毓(ロイク)といった面々よりも一段上で、非常に慕われた人物であると言われています。

 

そんな徐邈を、三国志を編纂した陳寿は以下のように評しています。

 

 

清廉にして徳を押し広める名士であった

 

 

これは徐邈が余財を一切持たなかったこと、そして統治の難しい涼州で見事に道徳の教化を成功させたことを指していますね。

 

また、盧欽(ロキン)という人は徐邈を自らの書物で最大限称えています。

 

志操高邁にして公正明大。品行清潔、才気や知恵を併せ持ち、また気力に満ちていた。

 

実際の行動は高邁でありながら辺境ではなく、清潔ながら柔軟性があり、博大なのに簡約を守り、気力勇猛ながら寛容だった。

 

 

この盧欽なる人物は徐邈に相当思い入れが強いようで、ある人が「徐邈は曹操の代には酒脱と言われ、晩年は狷介と言われていたが?」という問いに対しても、以下のように返答しています。

 

 

「彼の着任以前は清廉簡素な人間が重用されており、人々はその価値観に沿って見たくれを改めた。しかし後年は豪奢な生活を良しとし、これまた人々はその価値観に合わせて生活様式を変えていった。だが、どちらにおいても徐邈は普段通りの生活態度を崩さなかったのだ。それゆえ最初は清廉に縛られた者に酒脱を責められ、後年は贅沢者に器が小さいと言われたにすぎない」

 

 

盧欽の言葉を見るに、どうやら徐邈は世評や世の中の価値観を良くも悪くも気にしない人物だったようですね。

続きを読む≫ 2018/08/23 11:06:23

 

 

生没年:?~嘉平2年(250)

 

所属:魏

 

生まれ:幽州涿県容城県

 

 

 

 

孫礼(ソンレイ)。字は徳達(トクタツ)。後期の武将文官はどうにも影が薄く、ショボい印象を受けるのが、三国志の少し残念なところ。

 

しかし、知名度のショボさと実際のショボさは話が別。やはり万能な人物や戦争が異様にうまい人物、トンデモな政治家もいるわけで……。

 

 

孫礼も、そんな後期の隠れたトンデモ人物の1人。剛毅な武人でありながら政治家としても大臣格に上り詰める、超万能人物でした。今回は、そんな孫礼の伝を追っていきましょう。

 

 

 

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母の恩人のために

 

 

 

孫礼は曹操(ソウソウ)による河北平定の折に召し出されて彼の属官になっており、おそらく血筋はそこそこ以上のものだったと考えられるでしょう。

 

……が、時は乱世。名士といえども決して平穏な暮らしはできず、家族との突然の別れが避けられないケースも少なくありません。孫礼の母親も乱世の波に飲まれ、行方不明になったという事があったのです。

 

そんな折、孫礼の母を一緒に探して見つけ出してくれたのが、馬台(バダイ/バイ)という人物。孫礼は母を見つけてくれた馬台に感謝してもしきれず、なんと全財産を彼に譲渡してしまったのでした。

 

 

また、曹操に仕えるようになったある時、馬台は死刑相当の罪に問われて投獄されてしまったことがありました。この時にも、孫礼は恩人を見捨てずとんでもない行動に出たのです。

 

なんと孫礼は曹操の属官であるにもかかわらず、牢獄に忍び込んで馬台を救出。そのまま脱獄させたのです。

 

その後、孫礼はすぐに自らの罪状を白状し出頭。同じく馬台も、「臣下に逃亡の道義無し」と温恢(オンカイ)の元に自首することとなりました。

 

 

この一連の流れに感動した温恢、そしてそれを聞いた曹操は彼らの罪状を軽減。二人して一級軽い罰を言い渡され、死刑を免れることができたのでした。

 

 

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文武両道の万能選手

 

 

 

その後、孫礼は河間(カカン)郡の丞(ジョウ:補佐官?)、滎陽(エイヨウ)の都尉(トイ:警察署長)を担当した後、魯(ロ)国一帯の統治を任されるようになりました。

 

魯国にそびえたつ魯山ではこの頃数百人の盗賊が周辺地域を荒らしまわって問題になっていましたが……孫礼は盗賊の首に県賞金を懸け、同時に降伏者を使って盗賊のアジトを撹乱することで盗賊団の鎮圧を成功させました。

 

この功績により軍の太守を任されるようになった孫礼は、その後あちこちの太守を歴任。やがては呉への外征にも参加するようになります。

 

 

太和2年(228)、曹休(ソウキュウ)を中心として大規模な攻勢を開始。いわゆる石亭の戦いと言われる大戦になりますが、聞き入れられなかったとはいえ敵陣に深追いする曹休を諫めています。

 

 

その後、尚書(ショウショ:尚書令。宮中の文書管理)として中央に赴き、財政に不安を抱える中で労役を普請する明帝・曹叡(ソウエイ)を諫め、さらに「労役を1ヶ月継続したい」と訴える現場監督の上奏を握りつぶし、勅使であるとして労働者を即座に解散させました。このように、政治的にもしっかりとした意見を言える人物であることがわかります。

 

 

その後、曹叡の死後に後事を任された曹爽(ソウソウ)の補佐官として付けられましたが……孫礼が元来剛直な性格だったのこともあってか、どうにも馬が合わずといったところ。

 

結局、孫礼は伏破将軍(フクハショウグン)、揚州刺史(ヨウシュウシシ:刺史は州の監査官、長官。州牧よりは格下)として対呉戦線の渦中へと放り投げられてしまったのです。

 

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対呉戦線、孤軍奮闘

 

 

 

ここまでに孫礼が軍を率いた記録と言えば、たかだか数百人の盗賊団を相手にしてにしての官民指揮と、あとは石亭での大敗北くらい。正直なところ、孫礼の軍事的才覚はこの時未知数だったのではと思われます。

 

そんな孫礼が最前線の一軍の大将に抜擢されたのは、果たして史書に書かれていない活躍があったか有能さを嫌いなりに曹爽に買われたか、あるいはどさくさ紛れに死んでほしかったのか……。

 

 

ともあれ、そんな孫礼が前線に立ってしばらくした後の正始2年(241)、ついに呉軍が大規模な侵攻を開始。孫礼らの元へと軍を差し向けたのは、名将・全琮(ゼンソウ)が率いる主力部隊でした。

 

しかもこの時、折悪くも兵は休暇中。守りは最低限しかおらず、そんなタイミングで奇襲攻撃を仕掛けてきた全琮軍に孫礼らはあっという間に押し込まれ、絶体絶命の危機に立たされたのです。

 

 

孫礼はそんな危機に瀕しても、決して退かずに力戦奮闘。休暇中の兵が救援に集結するまでの丸一日、圧倒的少数の兵を率い、自らも陣頭に立って全琮軍の猛攻撃を耐えしのいだのです。

 

人数がそろえば、もともと奇襲が目的であった敵軍に勝つ見込みは無し。あとはそのまま押し返し、対呉の防衛線を見事に守り切ったのでした。

 

 

この時の死者は防衛兵の半数以上。孫礼自身も馬が傷だらけになる等危険にさらされながらの戦いでした。

 

孫礼はこの活躍で受け取った褒美をすべて将兵の遺族に分配。戦死した兵士の祭祀場を建設し、自らも祭祀に出席し号泣したのです。

 

 

 

 

曹爽との確執再び

 

 

 

その後、再び中央に戻ったものの、またしても荊州刺史(ケイシュウシシ)、今度は冀州牧(キシュウボク)と地方の要職を転任。

 

冀州牧に任命された際、孫礼は司馬懿から「冀州では郡の境界線で揉め事が起きているが、上手く捌いてくれよ」という声を受け、着任前から以下のように返答をしています。

 

「亡き明帝が、すでに領土の境界をきっちりと区分けしておられます。それ以上に遡って問題を蒸し返す必要はありますまい」

 

孫礼はこの言葉通りに地図を持参し、領内の問題を取りまとめようとしましたが……ここで曹爽から思わぬ横槍が入ります。

 

 

「地図を持っていくな。両者の言い分を参考にしろ」

 

 

いかに国を操るお偉方といえども、自分なりの解決法を邪魔されて愉快な気分になる孫礼ではありません。彼はすぐに曹爽に向けて上奏文を書き上げ徹底抗議。これによって曹爽を怒らせて5年の禁固刑を言い渡されることになったのです。

 

結局、多くの人からとりなしがあって1年で城門校尉(ジョウモンコウイ)に復職。冀州に隣接する幷州(ヘイシュウ)で異民族の動きが活発化していた為にすぐ幷州刺史、そして振威将軍(シンイショウグン)、護匈奴中郎将(ゴキョウドチュウロウショウ)として異民族討伐を期待されましたが……孫礼はあくまで不満を隠さない様子でした。

 

そして挨拶に来て「一回り小さい幷州に回されたのが不満かな?」と尋ねる司馬懿に対して、孫礼は胸の内を明かしたのです。

 

「明帝のご遺志の元、国が正常な形でまとまるものと思っていました。それが、今はいかがですか。国家は危機に瀕し、民衆は不安を覚えています」

 

つまり好き勝手に専横する曹爽、そしてそれに対して行動を起こさない司馬懿に対して、孫礼は内心怒りを溜めこんでいたのですね。司馬懿はこの時は「まあ落ち着いて。今は耐えるのだ」とだけ述べて帰っていきましたが……この数年後、ついに曹爽排除の兵を挙げ、見事に曹爽一派を取り除いたのでした。

 

 

曹爽の死後、孫礼は中央に入り司隷校尉(シレイコウイ:中央の警察署長)として広大な土地を管轄。さらに最後には司空(シクウ:法務大臣)になり、国家の要職にまで上り詰めたのです。

 

しかし孫礼の余命はもはや長くなく、嘉平2年(250)に逝去。景侯と諡されました。

 

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人物評

 

 

 

三国志を編纂した陳寿は、孫礼についてこのように評しています。

 

 

剛毅果断で気性が激しかった。

 

 

賞賛というよりも性格を感じの表現が近い評ではありますが……まさに孫礼は、激しい性格で肝の据わった人物だったことが伺えます。

 

曹叡に付き添って狩りに出た時には、遭遇した虎に徒歩で応戦。曹叡から「さすがに馬に乗って戦えよ」と厳命された記述もあり……本当に豪胆というか、凄まじい人物だったようですね。

 

 

また、同郷の同年代に盧毓(ロイク)というこれまた同レベルに優れた人物がいましたが……孫礼は彼とはどうにも馬が合わず、関係はギクシャクしていたとか。やはり、激しい性格から忌避されていた部分もあったのかもしれません。

 

そのせいでとんだ災難を呼び寄せたりもしましたが……やはりそれらの欠点を余裕で押し返してしまうくらい、彼は優れた人物だったのでしょう。

続きを読む≫ 2018/08/21 15:18:21

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:青州北海郡営陵県

 

 

 

王脩(オウシュウ)、字は叔治(シュクジ)。魏書の列伝には、袁紹(エンショウ)始め北方の群雄への忠誠を誓い、それを美談として取り上げられている名士も少なくありません。

 

言ってしまえば、王脩もその中の一人。曹操へと降伏した後も優れた事績を残していますが、彼のハイライトはやはり袁紹の長子・袁譚(エンタン)への忠義でしょう。

 

 

今回は、そんな王脩の伝を追っていきましょう。

 

 

 

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北海の忠義者

 

 

 

王脩は北海郡の名士としてそこそこ以上に裕福な家庭で育ったようですが、わずか7歳の時に母親を亡くすなど、その前半生は恵まれたものではなかったようです。

 

母を亡くした王脩の悲しみは相当だったようで、翌年に隣村で祭りが行われたときには、母を思い出して泣いた王脩のために、わざわあ祭りが取りやめになったほどだったとか。

 

 

とはいえ、いつまでも悲しんでばかりもいられません。後に20歳になった王脩は、勉学のため張奉(チョウホウ)という人を訪ねに、わざわざ荊州の南陽(ナンヨウ)まで足を運びました。

 

こうして師を得て下宿していたある時、張奉は重い病気にかかってしまいました。この時看取れる人が射なかったのですが……この時に彼をみとったのが王脩。せめてものお礼かもともとそういう気質だったのか、王脩は張奉を親身に看病し、その病が完治するまでずっと滞在し続けたと言われています。

 

 

 

道徳と忠義が何より大事な三国志の時代において、王脩のこの態度は高く評価されたことでしょう。初平年間(190~193)には北海太守の孔融(コウユウ)が、王脩を主簿(シュボ:秘書)として雇い入れ、高密(コウミツ)県の県令(ケンレイ:県知事)に任命されます。

 

この時、高密では豪族の1人が立場を盾に好き勝手やっていると有名だったのですが……なんと王脩は官吏や民衆を引き連れて豪族の家を包囲。豪族が臨戦態勢を整えてもひるまず住民らを叱咤し、とうとう根負けした豪族は好き勝手を働いた張本人を突き出して、以後好き勝手をする人物はいなくなったのです。

 

 

その後王脩は孝廉に推挙されたりもしたのですが、この時、なんと王脩は固辞して次席の邴原(ヘイゲン)に推薦を受ける権利を譲ってしまったと言われています。

 

 

その後も王脩は引き続き孔融に仕えますが……ここでも剛直清廉な態度は一切変わらず。反乱が起きれば孔融の元に危険を顧みずいの一番に救援に駆けつけ、彼に大いに喜ばれます。

 

またこの時、公沙盧(コウサロ)なる豪族が自分たちの強大な戦力を盾に防備を固め、租税を一切支払う事を拒否していましたが、王脩はこれを許さずたった数騎で屋敷に突撃。公沙盧一族の有力者を討ち取って問題を解決してしまったのです。

 

 

王脩はその後も孔融に尽くし、休みの日でも危機と聞けばすぐに駆け付けてその勢力維持に力を尽くしたのでした。

 

 

 

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変わらぬ鉄の忠義

 

 

 

いかに王脩の懸命な献身があっても、時代の流れには逆らえません。袁紹が勢力を拡大していくにつれて、青州にも影響力が及んできます。

 

やがて袁紹の長子である袁譚によって攻め込まれ、孔融は西の許(キョ)まで逃走していきます。

 

 

取り残された王脩らは、青州の勝者としてその地を治めることになった袁譚に仕官しますが……やはり王脩は敵国から降伏してきた身。あまりよく思わない人物も少なくなかったようです。

 

特にその中でもひどかったのが、劉献(リュウケン)の態度。彼は王脩の欠点をあげつらい、徹底的に非難しました。……が、王脩はそんな劉献の態度を意に介さず。逆に劉献が死刑判決を受けた時には庇い立てをしてやったのです。

 

 

 

そんなこんなで袁譚の元でも忠義の臣として力を尽くした王脩でしたが……やがて袁紹が死亡すると、領内に不穏な空気が立ち込めてきました。

 

なんと、袁譚と弟である袁尚(エンショウ)のあいだで後継者争いが勃発。袁譚は袁尚の攻撃を受けてしまったのです。

 

 

王脩はすぐに救援に向かい、袁譚に「王脩だけは頼りなる!」とご満悦。結局戦いに負けて袁譚軍は苦境に立たされますが……王脩はそれでも袁譚を見捨てず、逆に頼りになる人材を推挙する等全力でサポートしました。

 

ただ、兄弟間で争っているだけでは、やがて曹操を始め外敵に滅ぼされるのは自明の理。王脩は袁譚に策を尋ねられると、兄弟間の和睦を強く訴えかけました。

 

 

「外敵がいる中で兄弟間で争うのは危険すぎます。今は対立をあおっている臣下の郭図(カクト)、辛評(シンピョウ)らを叩き斬って、兄弟間で団結すべきです」

 

 

しかし派閥争いの様相も兼ねていた跡目争いをやめることはできず、結局袁譚は拒絶。「敵は曹操でなく袁尚だ」とばかりに標的を絞り、なんと北方への領土拡大を狙う曹操と和睦してしまったのです。

 

当然、お互い戦うべき敵を無視して相争ったのでは生き延びることなど到底不可能。袁譚はやがて曹操と敵対し、そのまま敗北。殺されてしまったのでした。

 

 

王脩は袁譚の死を聞きつけると、任務を放り出して急行。袁譚を討ち取った曹操軍の目の前にもかかわらず号泣し、さらには曹操に遺体の埋葬を願い出たのでした。

 

本来ならば、袁譚は敵。その死を悼むのは敵方の人間の証として処断することが通例でした。当然曹操もその通例に従ってあえて無言で王脩の申し出を握りつぶしましたが、「死罪になろうとも、恩を受けた主君を弔わねばなりません」との強い訴えに押されて許可を出したのです。

 

 

 

 

その後

 

 

さて、想像がつきづらいかもしれませんが……曹操という人物は、王脩のような忠義の男が大好き。袁紹の配下が大量の財貨を家に蓄えていた中で王脩だけは食料がわずかにあるだけという話を聞き、曹操は袁譚埋葬の件を思い出して「タダモノではない」と確信。

 

これで王脩を気に入った曹操は、礼儀を尽くして王脩を招聘。そのまま自分の属官にしたうえで、後に魏(ギ)郡太守に任命しました。

 

 

こうして任地を得た王脩が徹底した政治思想は、強きを挫いて弱きを助ける。法規と賞罰をはっきり明確化させて、民衆の絶大な支持を受けたとか。

 

見事な功績を上げた王脩は、後に大司農(ダイシノウ:財務大臣)と郎中令(ロウチュウレイ:近衛兵回りを司る部署のトップ)を兼任。

 

後に行われた新たな刑罰の導入についての議論の場にも呼ばれ、「今はすべきでない」と反対派の意見を述べます。

 

 

また、その忠義を示す逸話も健在。反乱が起きたと聞いたときも、真っ先に馬車をチャーターしながら、到着が遅いので徒歩で救援に駆けつけるという無茶をやってのけたほど。

 

この行動は「大臣は有事に役所で待機すること」というしきたりを無視した動きで、それを諫めた者もいましたが……「君主の危機には駆けつけるのが道義。しきたりなど知ったとか」と言い放ったとかなんとか。

 

 

そんな硬骨忠烈な義士であった王脩ですが、在職中に病没。子の王忠(オウチュウ)がその後を継ぎました。

 

 

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人物評

 

 

三国志を編纂した陳寿は、王脩のことをこう評しています。

 

彼の忠節は、世の中を矯正するのに十分な物だった。

 

政治力や能力も当然非凡だったのでしょうが……もっとも称えるべきは忠義、というわけですね。

 

「1日でも給料をもらったのなら、その主君に命を懸けて尽くすべき」と、まるで江戸時代に云われていた武士道のお手本のような人物だったと言えるでしょう。

 

また、そんな忠臣だったからこそしきたりや立場を無視し、ある意味怖いくらいの忠義を曹操に気に入られて後世に名を残すことになったのです。というか、仕えた主君3人全員に「こいつならすぐ駆けつけてくる」と言われてるのは本当スゴイ……

 

 

また、似たような人物を嗅ぎ分ける人物眼も持ち合わせていた模様。後々高官に上る高柔(コウジュウ)や王基(オウキ)の器を、かたや冴えない青年時代、かたやなんと子供時代に見極めたと言われています。

続きを読む≫ 2018/08/15 12:36:15

 

 

生没年:?~建安9年(204)

 

所属:魏

 

生まれ:司隷河南尹中牟県

 

 

 

任峻 屯田 曹操 輸送部隊

 

 

 

任峻(ジンシュン)、字は伯達(ハクタツ)。そのマイナーぶりは、独自の伝が載っている人たちの中でも結構上位に来るような人物ですね。

 

この人も曹操旗揚げ以来の部下で、後方支援のエキスパートのような人物ですね。

 

 

もしかしたら、屯田制でその名前を知っている人もいるかも……

 

 

というわけで、今回は任峻の伝の記述を追っていきましょう。

 

 

 

 

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董卓

 

 

任峻の名前は、董卓(トウタク)が都で専横を極めていた時に初めて出てきます。

 

この時任峻は地元の役人である楊原(ヨウゲン)とk行動を共にしていましたが、楊原は董卓を恐れてさっさと逃げようとしていました。

 

 

これを見ていろいろと思うところがあった任峻は、楊原を呼び止め、彼を説得。

 

 

「今は董卓の気勢が強く誰も彼に逆らえませんが、彼らは二の足を踏んで躊躇しているにすぎません。誰かが決起すれば、諸侯は雪崩を打って反董卓の意思を示すでしょう。

 

幸い、我らの県と近隣の諸県を合わせて動員さえすれば一万以上の兵士がそろうはずです。ここは不在の上級役人の仕事を代行する形で兵を招集し、行動に移すべきです」

 

 

かくして任峻は楊原らとともに反董卓の兵を結成。地方でも多くの雄姿が集まっていた反董卓連合軍の波が、任峻らの動きにより首都近郊にまで及ぶこととなったのです。

 

 

 

 

 

曹操軍の補給担当に

 

 

さて、この時同じくして東で兵を挙げた曹操(ソウソウ)が、任峻らが寄って立っていた県に軍勢を駐屯させました。

 

待ちに待ったようやくの友軍到着。普通ならばここで曹操に味方するのが普通ですが……この時、曹操軍はまだまだどこぞの馬の骨が率いる雑魚集団。兵たちは曹操の指揮下に入るのを不安がり、誰に味方するか決めかねていました。

 

 

しかしその中で、任峻と、同郷の張奮(チョウフン)という人物だけは旗色を明確にし、曹操に付き従う事を決意。一族郎党始め従う者だけを引き連れて曹操軍に加入し、戦力不足に悩まされていた曹操を大いに喜ばせました。

 

 

任峻らの加入に際し、曹操は「数少ない戦力が増えた」と大喜び。任峻を即座に気に入り、自身の従妹とのお見合いまでセッティングし、朝廷にも「任峻を騎都尉(近衛隊長)に任命してください」とお願いしに行くなど、絶大の信頼を彼への待遇で表しています。

 

 

 

以後任峻は、曹操の補給部隊を指揮し、戦場の裏方として影ながら曹操を支えることとなったのです。

 

表向きの活躍がない以上はどうしても影が薄くなりがちですが、物資の枯渇は軍の死活問題。補給任務は下手をすれば前線で先鋒部隊を率いるより重い仕事だったのです。

 

 

曹操の遠征の際には常に留守番係として任峻がおり、彼の軍需物資の輸送に曹操軍も大いに助けられたことでしょう。実際に兵糧切れによる敗北の記述は、曹操軍にはほとんど見当たりません。

 

 

 

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屯田しましょう、屯田

 

 

 

さて、任峻の裏方としての暗躍などもあって、曹操軍はどんどん大きくなり、領土も大きく増えていきました。

 

しかし、急激な領土拡大には弊害も付きまといます。その弊害の一つこそが、軍の食糧難。任峻らによる補給もあって何とか切り盛りしてきましたが、それでもとうとう、領土拡大に物資の生産が追い付かなくなってきたのです。

 

 

しかもそんな中で、折悪くも災害が発生して飢饉にまで陥り、曹操軍の兵糧不足はさらに深刻化。事態の収拾は一刻を争う事態になりました。

 

 

そこで曹操は政治の在り方や打開策についての緊急会議を行う事になり、その場では韓浩(カンコウ)、棗祗(ソウシ)といった人物らが屯田政策の開始を提案。手始めに棗祗がこの政策を施策運用し大成功。

 

これを見た曹操は、すかさず裏方部隊の任峻を典農中郎将(テンノウチュウロウショウ:屯田責任者)として実地での屯田運用を開始し、帝のおひざ元である許(キョ)の近郊で運用、ついには不足していた食料の自給自足に成功しました。

 

 

こうして曹操軍営の農場を手に入れた曹操軍は、任峻の経営する屯田が成功したのを皮切りにあちこちに屯田を設置。軍の補給機関、ひいては軍事力を飛躍的に伸ばしていくことに成功したのです。

 

 

 

その後、官渡の戦いでも留守番役兼兵糧輸送の監督として姿を現し、輸送部隊の戦力を大幅に強化して袁紹軍の収奪から物資を守り切り、ギリギリの中で曹操軍が勝機をつかむまでの持久戦にも大いに貢献。

 

 

こうした状況に合わせた適切な輸送指揮、そして屯田による兵糧の大量確保などの功績により、任峻は都亭侯(トテイコウ)の爵位と領土を与えられ、長水校尉(チョウスイコウイ:近衛兵指揮官。名誉職でもある)に就任。

 

 

しかし、任峻の命数はこれ以上は長くはなく、建安9年(204)に逝去。任峻の死を聞いた曹操は、しばらく泣きはらしたとか。やはり彼も、曹操軍の決起当時から従った人物。さらには軍を裏で力強く支えていた柱なわけですから、曹操の彼への思い入れも相当なものだったのでしょう。

 

任峻の後は息子の任先(ジンセン)が継ぎましたが、彼には子がおらず、任先の死後には家が断絶してしまったそうです。

 

 

 

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黎明期を支える縁の下の力持ち

 

 

彼の人物評には、「寛大で人情深く包容力があった。また、物の道理をよく掴む人物だった」とあります。

 

とく人情面では、飢饉の際には友人のみなしごを引き取って育てたという話があり、日頃から父母両方の家系の一族を援助していた等、いい人としての逸話も多い人物です。

 

 

また、彼の意見には曹操も一目置いており、意見を聞くたびに曹操が感嘆したという記述も残っている等、人格と物事を見抜く洞察力に関しては人並み外れていた事が伺えますね。

 

 

そんな任峻だからこそ、上手く農民の心をつかみ、多大な成功を収めて屯田政策を世に送り出すことができたのかもしれません。

 

 

 

屯田によって大軍運用してもバテない物資の余裕を身に着けた曹操軍ですが、その土台作りに関しては、提案した棗祗や韓浩、そして効果を証明した任峻こそがまさに功労者であったと言っても過言ではありません。

続きを読む≫ 2018/08/07 22:41:07

 

 

生没年:建寧5年(172)~嘉平3年(251)

 

所属:魏

 

生まれ:幷州太原郡祁県

 

 

 

 

王凌(オウリョウ)、字は彦雲(ゲンウン)。揚州戦線の隠れたエキスパートで、政治も戦争も人並み以上にこなせるという非常に優れた人物でした。

 

しかし、後に三国志の勝者という立ち位置に収まる司馬懿(シバイ)に喧嘩を吹っ掛けて敗北したという事実から、それ以上に「司馬一族に逆らった愚かな反逆者」という立ち位置に置かれている人でもあります。

 

 

都合上史書には「悪人」のような立ち位置で出ていますが……司馬懿に対する世評は、まさに王凌が反逆に踏み切った理由そのもの。

 

今回は、そんな司馬一族に対する数々の叛逆のトップバッターである王凌の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

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長安動乱

 

 

 

王凌の叔父は王允(オウイン)といって、董卓(トウタク)を暗殺した首謀者の一人でした。

 

王允が司徒(シト:民政大臣)に昇進し、董卓派に属する官僚やその兵士らを軒並み粛清、あるいは追放。完全に近い形でクーデターを成功させ、政権の中枢を掌握することに成功。

 

 

しかし、董卓とて当時の英雄の一人です。遠征軍を率いて東に出ていた董卓子飼いの将軍らが、これを良しとするはずもありませんでした。

 

なんと、董卓配下の将軍らは王允らの拠る都・長安(チョウアン)を急襲。主の仇討ちとして王允の一派を皆殺しにし、その一族の命もすべて刈り取ろうと目論んだのです。

 

王凌らも董卓軍の残党に命を命を狙われていましたが……なんと、兄と共に城壁を乗り越えて脱出。この大胆な逃避行は無事に成功し、王凌らはなんとか故郷に生きて帰ることが出来ました。

 

 

 

その後、成長した王凌は孝廉(コウレン:地方推挙)に推されて小さな県を治めるよう言われます。しかし、その才覚で徐々に頭角を現し、最後には中山(チュウザン)太守にまで昇進。

 

どこに行っても立派な業績を上げていた王凌の噂は当時丞相(ジョウショウ:総理大臣)であった曹操(ソウソウ)の耳にまで届き、彼に召し出されてその属官に任命。以後、王凌は曹操軍の一因として動くことになったのです。

 

 

ちなみに『魏略』では、曹操に召し出される瞬間のエピソードが書かれています。

 

王凌は事件に巻き込まれて罪を問われ髠刑(コンケイ:髪を剃る罪。当時髪は親からの授かりものとして、切るのは御法度とされていた)に処され、5年間道路の清掃を言い渡されていました。

 

 

そんなある日、曹操はたまたま王凌と鉢合わせし、「誰だあいつ?」と興味津々で属官に訊いたのです。

 

そこで王凌の話を聞いた曹操は「王允の甥が罪とな。まあ、おおよそ公事に巻き込まれたといったところだろう」と解釈し、そのまま王凌を召し抱えたのでした。

 

 

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文武両道の士

 

 

 

王凌が本格的にその力を発揮し始めたのは、奇しくも曹操が亡くなり、曹丕(ソウヒ)がその後を継いだ時でした。

 

魏帝国が建立されると、王凌は散騎常侍(サンキジョウジ:皇帝の側近)となり、同時に兗州(エンシュウ)の牧……つまり長官として朝廷の外を任地にしたのです。そして同時に、孫権(ソンケン)の攻撃に対する備えの一角としてもその活躍を期待され……軍事的な才覚もこの時から派手に開花していきます。

 

 

黄初3年(222)、王凌は張遼(チョウリョウ)らと共に孫権討伐に参加。

 

奇しくもこの時、夜中に大嵐が発生し、敵将呂範(リョハン)能力船が魏軍の陣地近くまで流れ着いてしまいました。王凌はこれをチャンスと、諸将と連携して総攻撃。呂範軍を壊滅に追いやる大手柄を挙げたのです。

 

結局はこの遠征は失敗に終わりましたが……王凌はこの時の手柄が認められて建武将軍(ケンブショウグン)に昇格し、宜城亭侯(ギジョウテイコウ)の爵位も拝領して魏の軍中枢にも入り込むほどの大権を得たのでした。

 

 

また、次には動乱の影響で荒れ果てた土地も多い青州(セイシュウ)に転任。王凌はまだ魏の政治が行き届いていない海岸沿いの辺境にまで手を出し、法令やインフラの整備を開始。

 

信賞必罰の姿勢で未開の土地の規律を正し、多くの民衆の人気を得たのです。

 

 

その後、今度は曹休(ソウキュウ)に従って対呉戦線に復帰。いわゆる石亭の戦いと呼ばれる負け戦によって曹休軍は大損害を被りましたが、王陵はこの時も敗勢の中奮戦する諸将の一人として活躍します。

 

王凌はじめ多くの将兵の奮戦の結果、死地に入って窮地に陥った曹休はなんとか戦線を脱出し、事なきを得たのです。

 

 

この戦いが終わって守勢に入ると、今度は王凌も揚州(ヨウシュウ)、豫洲(ヨシュウ)、そして兗州と州の内政に着手しましたが、やはりそこでも見事な統治と民心掌握を行ったとされています。

 

 

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揚州の大ボス

 

 

正始元年(240)、王凌は満寵(マンチョウ)の後を継ぐ形で揚州方面の諸郡を取りまとめる都督となり、位も征東将軍(セイトウショウグン)へと格上げされました。

 

 

その翌年には呉軍が魏に総攻撃を開始し。揚州方面にも敵軍の名将・全琮(ゼンソウ)が数万の軍勢を率い、魏の防衛拠点であった合肥(ガッピ)を無視し、後方の芍陂(シャクヒ)に攻撃を仕掛けてきたのです。

 

しかもこの時、合肥以外への攻撃を予期せず高をくくっていた魏軍は折悪く兵士に休養を与えている最中という、狙ったかのような最悪のタイミングでの後方奇襲。全琮はこの時、堤防を決壊させたり圧倒的少数の守備部隊をもみくちゃにしたりとやりたい放題の有様でした。

 

 

王凌はすぐに休暇中の兵を呼び戻して軍を編成し、圧倒的寡兵で芍陂を死守している孫礼(ソンレイ)という将軍を救援。堤防をめぐって何日も奮戦し、無理を通して押し進んできた呉軍を圧倒。結果的に全琮の軍を撃退し、この窮地を凌ぎきりました。

 

 

その後王凌は大きく位を上げ、元帥レベルの将軍である車騎将軍(シャキショウグン)に昇格し、そして南郷侯(ナンキョウコウ)の爵位と膨大な領地、さらには政治において大臣クラスのポストを用意されるという大変な待遇を受けることになったのです。

 

 

この時、甥の令狐愚(レイコグ)なる人物も兗州刺史としてその一帯を治めており、呉との境界線である魏南東部の権力はほぼ王凌らが掌握するという大変な権力を誇る1大勢力、そして魏呉戦争の主戦力の一角として王凌は期待されていたのです。

 

 

その期待もあってか、王凌はその後も司空(シクウ:法務大臣)、さらには曹爽(ソウソウ)の失脚に合わせて太尉(タイイ:防衛大臣)に昇進。非常に思い軍権を意味する節鉞(セツエツ)を授かるまでに至っていました。

 

しかし、曹爽の死によって魏の内部は司馬一族が掌握。これを危惧していた王凌は……80という高齢にもかかわらず、最後の大勝負にでることにしたのです。

 

 

 

 

反乱、そして死

 

 

王凌は司馬一族の権力の大きさを得て、あるとんでもない考えを胸中で抱いていました。

 

「今の帝はまだ若すぎる。これでは司馬一族に乗っ取られてしまうのも時間の問題だろう」

 

 

そのため、実のところ、令狐愚と共に魏へのクーデターを計画。年長で才気ある曹彪(ソウヒョウ)を新たに帝に据えようと、令狐愚と共に曹彪に接触。令狐愚はその途上で病に倒れてしまいますが……呉軍が怪しげな動きを見せた瞬間、ついにその牙を司馬懿に剥いたのです。

 

王凌は非常事態宣言を諸将にすると、敵軍討伐を朝廷に上奏。しかし司馬一門の牛耳る朝廷は王凌を警戒し動きを見せず……王凌は仕方なく、次善の策として共謀者を得ようと、味方になってくれそうな人物に声をかけることに。

 

 

しかし、その行動はすでに司馬懿には筒抜けだったのです。司馬懿はこの時王凌から声をかけられた黄華(コウカ)という人物の密告を聞くと、すぐに王凌討伐の軍を進発。さらには司馬懿の側についた息子・王広(オウコウ)からの勧告を受け、結局反乱は失敗。何もできないまま降伏するという屈辱の結果に終わりました。

 

 

王凌は司馬懿に「反逆の罪を赦す」と言われ、一応は洛陽に送還されることになりましたが……その途上で無念を抱えて服毒自殺。

 

司馬懿の側もやはり許すつもりはなかったのか、王凌亡き後、反逆に加担した者やその一族を処刑。皇族である曹彪までも殺されてしまい、より司馬一族の隆盛は強まることになったのです。

 

 

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人物評

 

 

三国志を編纂した陳寿からは、王凌は以下のように評されています。

 

 

高い風格と志節を有していたが、向こう見ずな事変によって一族の名を汚してしまった。

 

やはり司馬一族の血を引く晋に仕えるからこそ彼を悪人として書いたという側面もあるのか、「判断力が狂っていたのではないだろうか」とまで扱き下ろされています。

 

しかし当時の司馬一族は、司馬懿本人がどう思おうがすでに専横と乗っ取りの路線を行っており、おおよそ当時の周辺の意見にも反司馬懿の見識は少なくなかったのかもしれません。

 

 

注釈で載せられた『通語』という呉の資料では、蜀の費禕(ヒイ)が司馬懿のクーデターに関して以下のように述べています。

 

「曹爽がひどいのはわかるしその通りだが、司馬懿のやり口も度が過ぎている」

 

すでに司馬懿が暴挙とも言える手段に出て簒奪者としての道を進んでいるのを、見抜いているともとれますね。

 

 

とはいえ、王凌自身に野心がなかったとも言い切れません。実際に皇帝のすげ替えという叔父が殺した董卓と同じようなことをやろうとしていますし、まあ甘く見積もっても完全に無私の心で反逆したとは言い切れないでしょう。

 

 

司馬懿の兄である司馬朗(シバロウ)やその一族に尽くした賈充(カジュウ)の父である賈逵(カキ)とは大変仲が良かったと史書に描かれていますが……彼の運命の歯車はいったいどこで狂ったのでしょうか?

続きを読む≫ 2018/08/04 12:14:04

 

 

生没年:?~建安2年(197)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

 

 

曹昂(ソウコウ)、字は子脩(シシュウ)。魏の武帝・曹操(ソウソウ)の長子で、彼のポカに巻き込まれて亡くなった悲劇の人。と同時に、死の間際に曹操の身代わりにも近い形で戦死を遂げた逸話から、彼を孝行息子と賞賛する声も……

 

 

当人の伝にはたった数行の記述しかなく、後は死後の諡号や追悼目的で割り振られた領地の話がほとんどですが……曹操伝に載せられた逸話から一躍有名になり、今でも三国志をかじった程度の知識の人にも名前を覚えられる程度の知名度を誇っています。

 

 

 

 

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曹昂伝の記述

 

 

 

まず初めに、曹昂伝に描かれた、彼の生前の記述を見てみましょう。

 

 

20歳で孝廉に推挙された。

 

その後曹操の南方征伐に従軍したが、張繍(チョウシュウ)に殺された。子はなかった。

 

 

正真正銘、誇張も削りも無くこれだけです。

 

基本的に皇族の人物らはその活躍に関わらず、ただ生まれて生きて死んだだけという記述でも伝に記載されるため、別段おかしなことではないのです。むしろ、曹昂の場合はその死に様のために、非常に知名度の高いほうと言えるでしょう。

 

 

ちなみにその後、弟の曹丕(ソウヒ)が魏帝国を建国した翌年の黄初2年(221)には、悼公の諡号と領地が与えられ、「豊の悼公」と呼ばれるようになります。

 

しかし、仮にも曹操の宗室に連なり、曹丕の兄である人物。その家を継ぐ子がいないのではあまりにむなしすぎます。そこで、曹操の実子の一人である曹均(ソウキン)の息子である曹琬(ソウエン/ソウワン)なる人物が曹昂の跡継ぎとなり、その年のうちに国替え。

 

黄初5年(224)には諡号が悼王に格上げされ、さらに太和3年(229)には今度は愍王と諡号が変更。その後は曹琬の血族が、曹昂の正式な後継ぎとして君臨するようになったのです。

 

 

 

 

 

結局何が偉いのか

 

 

 

さて、そんなわけでただ不幸にも張繍の反乱で戦死しただけの曹昂ですが、いったいなぜ、三国志好きは彼を評価するのか……。

 

その答えは、『世語』にあります。

 

 

その前置きとして……『魏書』によれば、曹操は張繍の反乱を受けた際には絶影(ゼツエイ)という馬に乗っていました。しかし、敵はあちこちを動き回り、戦場は矢の雨あられ。乗っていた曹操だけでなく絶影も怪我をしてしまい、そのまま走れなくなってしまったのです。

 

この時、颯爽と現れたのが曹昂。世語にあるのは、以下の文です。

 

 

曹昂はこの時、馬に乗る事すらできない体になっていた。そのため自身の代わりに曹操を自分の馬にのせ、このおかげで曹操は助かったのである。

 

 

儒教では、何よりも自身の親は大事にすべき存在です。それを身代わりになる形で助けたとあっては……中国の代表者も同然である儒学者たちは、それはもう手放しに賞賛します。

 

この行動のおかげで現代にまでその名声は伝わり、「曹昂は性格の悪い曹丕と違い、復古的な名君になれたかもしれない」なんて言われるわけですから……死後の名声だけでいえば、弟たちよりも勝ち組という言葉が似合うかもしれません。

 

 

もっとも、曹昂は才を発揮することなく倒れた身。あくまでその力量は未知数ですが……。

 

 

 

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ちなみに……

 

 

 

これは『魏略』での話です。

 

曹昂は劉(リュウ)夫人という女性から生まれた男児でしたが、まだ幼少期に劉夫人は死去。その後は、曹操の最初の正妻である丁(テイ)夫人が彼を引き取り、実質的に曹昂の母親として立派に育て上げたといわれています。

 

また、張繍の反乱の一因として「曹操が彼の亡き叔父の元妻を側室にしてイチャコラした」という部分もあり……そのせいで実子同然であった曹昂が死んだのが、丁夫人には耐えられなかったようです。

 

 

結果、丁夫人は曹操と顔を合わせるたびに「愛しの子が死んだのに、随分平気な顔をなさるのですね」と嫌味を言うほど、その仲は冷え切ってしまったと言います。

 

それでも曹操は丁夫人をあきらめきれず、郷里に帰ってしまった彼女に会いに行き、その背中をさすって「一緒に車で帰ろう」と優しく声をかけるものの、丁夫人は完全無視。

 

これでもダメかと渾身の謝罪を行う曹操に対しても心開くことはなく、結果として曹操は丁夫人をあきらめる事しかできなかった……とされています。

 

 

 

曹操はこの事がかなり大きなトラウマになったようで、亡くなる少し前には病床にて、こんなことを口にしています。

 

「俺は自分の好きに生きてきた。悔いはない。ただ、曹昂が化けて出てきて『母上はお元気ですか?』とか訊いてきたら、俺はどう答えればいいんだ……」

 

妻も子も替えが十分利くほどに大勢いた曹操ですが、どちらも大事にしていたのでしょうね。

 

 

 

ちなみに曹丕は同書にて、「彼は生きてても限界があった。それよりも弟の曹沖(ソウチュウ)が早死にしなかったら、俺の今の地位は無かったかもしれん」と語っています。

 

実際のところ、彼が曹操の後を継いだらどうなったのか……。証拠が少なすぎてどうとも言えませんが、少し気になる所ではあります。

続きを読む≫ 2018/07/25 21:51:25

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:?

 

 

 

 

殷署(インショ)。正直、マイオナ専用武将というかなんというか……知ってる人はかなりのマニアと言える超マイナー人物です。

 

Twitterで話題に出てるので気になって調べてみた結果を、備忘録として記してみましょう。間違いなく曹操軍の大物……のはず。

 

 

 

 

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曹操軍主力武将(のはず)

 

 

 

殷署の記述は少ないのでサクサク行きます。

 

彼が正史において顔を見せたのは、曹操(ソウソウ)軍が西方の平定を終えた時。つまり、馬超(バチョウ)や韓遂(カンスイ)ら西方の諸侯があらかた平定された後のことですね。

 

彼は、平定後の西方慰撫と残党狩り、および馬超らと手を組んだ異民族の討伐を行う際に、その総大将であった趙儼(チョウゲン)指揮下の将軍としてこの戦いに挑んでいます。

 

 

この時の殷署の位は、平難将軍(ヘイナンショウグン)。いわゆる雑号将軍という、将軍の中でも位が低く命名もいろいろの役職ですが……それでも現在の軍隊で表すと大佐~少将に値するくらいの位ではあり、すでに軍事のエキスパートとして人を率いる立場にあったことがわかります。

 

当然、将軍というからには趙儼軍の主力武将の一人であり、それなり以上の期待をされていたのは間違いないでしょう。

 

 

 

さて、そんな殷署ですが、彼は馬超や韓遂の元にいた降兵5千を引き連れて異民族である羌(キョウ)族との戦いに参加。これを打ち破り、趙儼の西方平定に貢献しました。

 

その後、呂並(リョヘイ)なる人物が将軍を称して叛逆、徒党を引き連れて陳倉(チンソウ)に籠りましたが、これも趙儼の指揮下で粉砕。滅亡させることに成功しています。

 

 

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あの戦いでも……?

 

 

 

 

こうして西方平定に大きく貢献した殷署でしたが……建安24年(219)に発生した樊城の戦いにも参加した記述があります。

 

この時殷署は、窮地に陥った味方を救う援軍……として参戦した徐晃(ジョコウ)の更なる増援として、朱蓋(シュガイ:朱霊と同一人物説あり)なる人物と共に逐次投入されています。

 

 

徐晃はこの時、多くの新兵を追加した混合戦力で勢いに乗る関羽(カンウ)と対峙しましたが、徐晃軍だけではいささか戦力不足。そこで、しばらく牽制に専念して援軍を待つことに。

 

この時に派遣された大量の増援部隊、その指揮官の一人が殷署でした。

 

 

殷署らの援軍が到着すると、徐晃は偽情報を使って関羽軍を撹乱、そして敵軍が本気で戦えない状況を作り出して関羽を撃破、その勢いを完全にへし折ることに成功したのです。

 

その後関羽は、徐晃に敗北したことで激減した味方の士気を回復させることができずに撤退。そのまま孫権(ソンケン)軍に背後を突かれて討ち取られ、殷署らはなんとか領土を守り抜くことができたのです。

 

 

この時、曹操軍は不測の事態によって戦力の逐次投入を余儀なくされていましたが……殷署の先発軍である徐晃の軍がすでに新兵を交えた軍勢。という事は、殷署の軍も練度の低い部隊だったのかもしれません。

 

 

以後、殷署は歴史の表舞台から姿を消しますが……もしかしたら軍規に厳しく、精兵を率いるのではなく戦を通じて兵を育てるタイプの将軍だったのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/07/16 23:09:16

 

 

生没年:?~建安17年(212)

 

所属:魏

 

生まれ:司州河内郡修武県

 

 

 

 

張範(チョウハン)、字は公儀(コウギ)。元々がお坊ちゃんのスーパーニートという立ち位置で、祖父も父も大臣級のお偉いさん、自分も働き始めると曹操(ソウソウ)に厚遇されて畏敬のまなざしで見られる……というちょっと不思議な人。

 

記述の少なさからどんな人かはわかりにくいですが、アリとキリギリスでいう所の、完全キリギリスタイプという張範。

 

今回は、彼の記述を追ってみましょう。

 

 

 

 

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ハイパーニート江南へ行く

 

 

 

張範の祖父、父は、ともに漢王朝における大臣といった役職の持ち主で、まさにやんごとなき家系でした。

 

そんな状況だったからか、はたまた本人の気質がそうだったのか……非常に栄利や名声に無関心。同格のお偉いさんである袁家(袁紹(エンショウ)の一族の本流)からの婚姻も断る始末。

 

いわゆるニートとして、莫大の親の財に飽かしてダラダラと毎日を過ごしていました。

 

 

そんな張範の趣味が、老子や荘子といった道教の教え。老荘思想に徹底的にのめり込み、暇があればその勉学に励んでいたと言われています。

 

 

 

このように道教信奉者らしい悠々自適の生活を送っていた張範でしたが……董卓(トウタク)が都の支配を固め始めると、暗雲が立ち込め始めたのです。

 

なんと、董卓の政治が長続きしないと悟った弟たちが、董卓に反発する諸侯と連合しようと画策、自身らの就いていた官位を辞めて出奔したのです。

 

 

張範もこれに伴う形で南東の揚州に向けて故郷を旅立つことになりました。

 

 

 

 

 

弟はスケープゴート?

 

 

 

さて、張範の弟の一人に張承(チョウショウ)なる人物がおり、主にニートな張範に変わって嫡男のような立ち位置を受け持っていました。

 

張承は兄が道教三昧の生活をしている際にも名家の子として官職を得て働いており、実質的に家の主導権は彼が握っていたのかもしれません。

 

 

張範も、実質的に彼に全部任せるつもりだったようで……

 

 

 

揚州になんとか逃れることができた張範らは、その周辺で幅を利かせる袁術(エンジュツ)から丁重な挨拶を受けます。そして、「我が軍で共に働いてくれませんか?」というお誘いを受けますが……

 

張範はここでも自身は出向かず、病気と称しこの話を辞退。代わりに張承があいさつに出向き、そのまま袁術軍に力添えすることになったのです。

 

 

……が、袁術の器量といえば、もう言ってしまえばアレ。自分の意見をヨイショしてもらうのが大好きで、正論で反論されると機嫌を損ねる人物でした。

 

そのため、「皇帝になりたい」という旨を打診して張承に「強さよりも名声。名声の無いうちから不相応な物をするものではありません」と反論されるとブスー。

 

その後曹操の軍事行動を「あいつ馬鹿だろ」と笑えば張承が「彼なら大丈夫でしょう」と答えてツーン。

 

 

まあ張承はお坊ちゃんだから遠慮なく物を言った可能性も否めませんが……主君が忠言を聞いてこの態度と来たので、さすがに袁術を見限って移動。張範もこれについて行きました。

 

 

また、続けて曹操からお誘いの使者が来た時も、赴いたのは張承。張範はここでも病気と称し、滞在先に引きこもっていたのです。

 

本当に病気の可能性もありますが……ここまでくればニートを貫く鋼の精神を褒め称えたくもなってきます。

 

 

 

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ようやく出仕・遅咲きのニート名族

 

 

 

建安13年(208)、中華北部をあらかた手中に収め、赤壁の戦いで大敗を喫して戻ってきた時……ついにニート張範は重い腰を上げます。

 

なんと、誰に言われるでもなく自分から曹操にお目通りを願い、仕官することを決定。

 

 

とんでもない名声の持ち主であった張範の出仕は、曹操からしても非常に喜ばしい申し出です。張範はすぐに議郎(ギロウ:顧問応対役。結構な高官で、他の官位との兼任も多い)の地位と自身の属官としてのポストを用意。

 

家柄のおかげか元々の性格か、曹操からは大いに尊敬されていた様子。そして曹操が遠征軍を走らせるとき、必ず張範は曹丕(ソウヒ)らと共に留守番を担当。

 

曹操の言葉もあって、曹丕からもしばしば行動について相談される等信頼されていたのです。

 

 

 

政治にしても、私財を一切持たず質素な生活を贈るとともに、貧困者の補助に尽力。たまに贈られてくる貢物を拒むことはしなかったものの、かと言ってそれを使う事も無く、持ち場を離れる時になって全部送り主に返送したのです。

 

 

そんなこんなで最後の最後で咲き誇ったやればできる張範でしたが、建安17年(212)に死去。

 

遺された張承は、彼とは違い儒教的な教化政策で、やはり善政を敷いていたようです。

 

 

 

 

 

人物像と子と甥と

 

 

 

こんな感じで、ニートしながらも最後に留守居役&政治家として働いた張範でしたが、その名声は計り知れずといったところ。家柄も当然大いに助長したのでしょうが、やはり本人に非常に光る部分があったという事でしょうか。

 

陳寿は彼のことを「清潔な生き方と同義に基づいた政治を行った」とし、傑出した名士のひとりとしてその名を上げています。

 

 

また、若い頃のニート時代から落ち着いて冷静な性格をしていたらしく……やはりその本性は謎が多い人物でもありますね。

 

 

 

できるのにやらない、働けるのにニート。こういえば聞こえが悪いですが……もしかしたら張範は、「モラルや常識に縛られない、ただあるがまま俗世から離れたところを生きる」という道教の教えを自ら実行したかったのかもしれませんね。

 

 

 

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さて、最後にちょっと面白いエピソードがあるので、それを紹介したいと思います。

 

 

ある時張範は、我が子と弟である張承の子が賊軍につかまったという報告を受けた。

 

張範は慌てて賊軍の元に向かうと、2人を返してもらうように交渉。結果、張範の子だけが解放されたのです。

 

 

しかし張範は、それで安心せず再交渉を開始しました。

 

「我が子が返ってきたところで人情的にはうれしく思う。が、子よりも甥の方が随分と幼いのだ。子でなく甥を返してはもらえないだろうか」

 

張範の言葉に人情味と義の心を感じ取った賊軍は、大いに感激。すぐに甥も解放し、2人とも無事に戻ってきたのであった。

 

 

 

 

うーん、美談。美談……?

 

なんというか、当時の中国の儒教では、ここで幼い甥の命を取ることが大いに賞賛される……ところもあるみたいですね。

 

 

しかし、張範は自然と一体化する道教思想の持主。はたしてそんな儒教的観念で考えたかといわれると、なんとも微妙。

 

もしかしたら、苦労を掛けた弟にどこかで負い目を感じていたのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/06/26 21:44:26

 

 

生没年:?~延康元年(220)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

勝手に私的能力評

 

夏侯惇 ナンバー2 人格者 ドジっ子 メインヒロイン ズッ友 曹操 いい人 猛将? 隻眼

 

統率 A 部下統制なんかは間違いなくトップクラス。だが戦争でのいろいろは……ちょっとなんとも言えないです。
武力 B+ 一応は軍人かつ武人なので、人並み以上なのは確定と見ていいだろう。逸話を素直に読み込むと、銅鏡を叩き割るとんでもない怪力だったりする。
知力 B- 頭は悪くないのだろうが、人質にされたり李典の忠告を無視して負けたりポカが目立つ。。
政治 土木建築に自ら出向く系隻眼男児。政界での行動に必要な人心掌握能力を政治力に組み込むと、なんか文官っぽい数値になるのも致し方ない。
人望 S 部下をいたわり、国には尽くし……こんな人間が慕われるはずもなく、主君の曹操をはじめ多くの人からの信望を得た。

 

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夏侯惇(カコウトン)、字は元譲(ゲンジョウ)。みんな大好き、三国志メディアでも引っ張りだこの、隻眼の猛将ですね。

 

三国志演義をはじめ、多くの三国志作品では武骨で武人肌の荒くれ将軍として書かれる夏侯惇。実はその実態は…………

 

 

 

 

曹操軍のメインヒロイン。

 

当然、実績は無類、曹操のマブダチとしてとことん魅力的な人物ですが……どうしてもヒロイン力が並の女性より遥かに高いのが気になってしまう。そんな夏侯惇の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

曹操の友として

 

 

夏侯一族は前漢黎明期の名臣の子孫とも言われており、その家格は相当に高いと言えます。

 

同時に、曹操の本筋の家系という学説もあり、曹操や同姓の夏侯淵らとは従兄弟同士の間柄。その縁もあってか、曹操が兵を挙げた際には、いの一番に参入。部隊長として各地を転戦しています。

 

 

初平元年(190)、董卓軍相手に果敢に挑むも手痛い敗北を喫しました。

 

この時失った戦力の揚州で主君・曹操らと共に募兵を敢行するも、兵士たちの大規模な反乱により集めた兵の大半を喪失という不運に見舞われています。

 

 

その後しばらくは弱小の放浪軍にも近い小規模群雄として動いていた曹操軍でしたが……大規模な黄巾の反乱軍が兗州に大挙して押し寄せると、その救援に出向しました。

 

曹操軍は大いに苦戦を強いられましたが、この反乱軍をなんとか撃退し、一団を支配下に加えることに成功。さらには曹操の救援前に死んだ兗州(エンシュウ)太守の任も授かり、曹操はついによって立つ地を得たのです。

 

 

曹操軍の黎明を見届けた夏侯惇は、その後曹操とは別行動をとり、兗州西部の白馬(ハクバ)の地に移動。一軍を駐屯させ、別動隊として行動することになったのです。

 

この時、夏侯惇は典韋(テンイ)や韓浩(カンコウ)ら、後に曹操軍に少なからぬ影響を与える人物らを推挙、曹操軍に加入させています。この頃から、夏侯惇のヒロイン力……もとい、支援能力の高さが伺えますね。

 

 

 

 

 

濮陽動乱

 

 

 

そんなこんなでしばらく曹操とは別行動をとっていた夏侯惇ですが、曹操が徐州の陶謙(トウケン)を討伐に出かけると、曹操軍本拠の濮陽に移動。一帯の留守を任されます。

 

 

しかしそんな折、信じられないことに曹操のマブダチ・張邈(チョウバク)が曹操軍軍師の陳宮(チンキュウ)らと結託し、呂布を迎え入れて曹操に反逆。兗州全土はまたたく間に混乱に陥りました。

 

城を守っていた諸侯は、呂布の来襲を聞くと堰を切ったかのように次々と降伏。夏侯惇、荀彧(ジュンイク)、程昱(テイイク)らわずかな重臣を除いた多くの将が領土を明け渡し、曹操軍は一気にピンチに陥ったのです。

 

 

この時、夏侯惇はとあることを思い出します。曹操の家族が、濮陽から少し離れた鄄(ケン)城に取り残されているではありませんか。

 

 

曹操軍が誇るヒロイン夏侯惇がこれを放っておけるはずもなく、すぐさま軽騎兵を編成し、曹操の家族を救出に向かいます。

 

が、その途上、悪の呂布軍による卑劣な策に嵌められ、輜重(食料)と共に、曹操軍の重臣ともあろう夏侯惇が捕縛されてしまったのです。惇兄ェ……。

 

 

こうして捕虜として縛り上げられ矢面に立たされた夏侯惇でしたが、少し前に雇い入れた韓浩の決死の行動により、結果的に夏侯惇は救出されましたが……うん、まあ、ある意味ヒロインとして申し分ない働きと言えるかもしれませんね

 

 

その後、ようやく帰還した曹操軍本隊と合流し、夏侯惇は呂布軍相手に勇戦。しかし戦いの中で左目を負傷し、失明してしまったのです。

 

なおこの時、「親からもらった体を粗末にできるか!」と左目をそのまま食べたという逸話が残っていますが……正史には書かれていないので、まあさすがにやってはいないでしょう。

 

呂布軍は正面からの戦いにはめっぽう強く苦戦を強いられましたが、曹操軍はなんとか呂布を撃退。

 

夏侯惇は目を失いながらも戦った功績から建威将軍(ケンイショウグン)に上り詰め、さらには高安郷侯(コウアンキョウコウ)の爵位も授与。陳留や済陰の太守を務める等、曹操軍になくてはならない存在としてその名を馳せるようになっていったのです。

 

 

 

 

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曹操軍のアイドル・夏侯将軍

 

 

 

さて、こうして曹操配下のトップとしてその名を馳せた夏侯惇でしたが……きっと演義などのイメージと違い、戦は苦手だったのでしょう。太守を務めた陳留や済陰は、いずれも後方都市。言ってしまえば、夏侯惇の仕事は後方の安全維持と支援行動だったのです。

 

しかし、その働き方は、他の偉い将軍たちとはまた違ったものでした。

 

 

元来ある程度偉い人たちは、役所で命令を下すだけ。当時の価値観では実務など誰でもできる安い仕事といった認識。間違っても、作業現場に来ることはほとんどないのが普通でした。

 

が、夏侯惇は自らインフラ整備の土木作業に参加。さらに将兵を率いて稲作の指導なども精力的に行い、民の心をがっしりとつかんだのです。

 

 

 

……が、やはり戦争では今一つ見せ場がなく、198年に呂布に攻められた劉備を救出に出向くも仲良く敗北。官渡で勝利した後の河北平定では後詰めに徹していたようです。

 

さらには裏切った劉備が荊州の劉表(リュウヒョウ)による差し金で攻めてきた時には、副将としてついていた李典(リテン)の忠告を無視し、突出したあまり火攻めに遭い敗北と、なかなかひどい目に合っています。

 

この辺りは、あるいは片目を失ったハンデなのかもしれませんね。元々気の抜けたような人物だったのかもだけど

 

 

 

 

 

あくまで曹操の臣下として

 

 

 

まあ戦争ではまるでいいところなしのようにも見受けられますが……それでも戦うたびに武勲を立てていたようで、本人の圧倒的ヒロイン力もあって、建安9年(204)には伏波将軍の称号と共に、法外の自由権が与えられます。

 

さらに後々には広大な領土と万単位の軍の動員権が与えられ、さらに曹操が唯一寝室に招き入れてまで話をしたりと、その信頼は他の将軍とは比べ物にならないものでした。

 

 

さらに曹操自ら、『不臣の礼』というものを取り、あくまで配下ではなく大事な友人として夏侯惇を任用しようと考えてもおり、あえて夏侯惇には魏王国の官位を与えていなかったのです。

 

 

しかし、この破格の扱いを逆に「過ぎたるもの」として嫌うのが夏侯惇という人物。彼は曹操に対して魏での官位を何度も強く要求し、最終的に折れた曹操によってようやく前将軍に任命されたとあります。やはりヒロインか

 

 

曹丕(ソウヒ)が曹操の跡を継いでからは大将軍の地位を授かりますが、そんな夏侯惇も曹操病死の数か月後に死去。もはや運命共同体と言っても差し支えないほどの、後を追うかのような死でした。

 

 

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献身と激情のはざま

 

 

 

 

さて、ここからは少し夏侯惇の人格面についての話をしていきましょう。

 

夏侯惇の性格はつつましやかで清廉潔白とあり、自身の金銀財宝が余ったときは常に部下を分け与えるという人物だったとあります。そして、あまりに人に財産を分け与え過ぎた結果、役所から生活保護の給付を受けることもあったとかなかったとか……

 

その墓も質素そのもので、副葬品は剣一振りという、下級の武官のそれと大差ない状態だったそうです。

 

 

さらには勉学に熱心なのも人物像として残っており、軍中にも学者を連れ込んで真摯に講義を聞いていたとも。

 

 

 

反面、激情家としての姿も世に伝わっており。14歳の時には自身の師匠を侮辱した人間を殺害。

 

さらに片目を失ってからは『盲夏侯』と呼ばれることを嫌い、鏡を見るたびに地面にたたきつけて割るなど、隻眼がコンプレックスになっている姿も見受けられます。

 

 

普段は温厚でおっとりしているものの、逆鱗となっている部分を刺激すると手が付けられなくなる……。夏侯惇は、そんな怒ると怖い系ヒロインの人物だったのかもしれませんね。

 

 

 

ちなみにどうでもいい話ですが……当時の鑑は銅鏡。つまり、金属製の鑑だったわけですね。ガラスより写りは悪いですが、遥かに頑丈です。傷がついたり凹んだりはするでしょうが、そんなものを叩き割る夏侯惇の膂力っていったい……

 

 

 

 

型破り惇兄

 

 

 

さて、高いヒロイン力とナイスミドルなダンディズムを併せ持った夏侯惇ですが……やはりそこは曹操のマブダチ。ちょっと破天荒で常識破りなところもあったようです。

 

 

当時、奥さんというのは決して顔を見てはいけない存在で、ましてや宴会の場などに連れ出すのはもってのほかで、それが高い身分の妻にもなると見た者の死刑判決は当たり前。

 

中には悪ふざけの被害者として偶然顔を見てしまい、そのまま石工(当時の技術職は奴隷と同義)に落とされた人物までいるという有り様でした。

 

 

 

そんな中で、夏侯惇は衛臻(エイシン)という人物の奥さんを酒宴に呼び、あいさつをさせようと目論んだのです。

 

しかも、案の定衛臻が死ぬ気で猛反発すると、マジギレして衛臻を逮捕いや本当何やってんの

 

 

何かしら当時の常識に思うところがあったのか伝統を壊そうとしたのか、はたまた酔いが回っておかしなテンションになったのかは不明ですが……やはり変わり者の曹操と親友以上に仲良くなれるのには、相応の理由があったんでしょうね。

 

 

 

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続きを読む≫ 2018/06/20 22:13:20

 

 

生没年:建寧元年(168)~建安14年(209)

 

所属:魏

 

生まれ:荊州江夏郡

 

李通 忠烈 勇将

 

李通(リツウ)、字を文達(ブンタツ)。大半の人が知らない武将ですね。魏って、なんかこういう個人武勇系の人は典韋と許チョしか知られてない気がするの……。

 

この人は曹操にほれ込んで死力を尽くした人物の一人で、逸話の節々からも任侠の人というイメージが伝わってくる人です。

 

 

 

 

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暴れ義侠、曹操と出会う

 

李通は史書の第一文から「男気のある人物として長江流域、汝水の地で知られていた」とあり、まあ、かなり広い範囲で有名人だったようです。

 

そんな李通はある時、陳恭(チンキョウ)という同郷の友人と義勇兵を結成しました。この時、有名人の李通を慕って大勢の人が集まっています。

 

 

さて、そんなこんなで一勢力の頭目となった李通。陳恭とともに、周直(シュウチョク)と言われる豪族と仲良くし、表向きはにこやかに接していましたが、裏では相当に嫌っていた様子。

 

ある日、とうとう限界が来た李通は、陳恭に「あいつ殺そうぜ」と物騒な提案をしました。が、まあ、豪族殺しは大罪ですからね。陳恭はビビッて李通を妨害。

 

一方の李通は「まあそうだろうな」と予測通りの様子。結局、一人で周直殺害計画を立て、宴会という罠を使って、誘い出された周直を公衆の面前でバッサリ。
当然辺りは大騒動。友人の陳恭もさすがにこうなっては、遮二無二動かざるを得なくなり、二人で主立った指揮官を血祭りにあげて回り、またたく間に周直の勢力を完全に支配下に置いたのです。

 

 

その後陳恭が弟に殺されその勢力を奪われるなどのアクシデントはありましたが、反逆した弟を攻め滅ぼし、さらには当時暴れまわっていた黄巾の一党も壊滅させるなど、汝南(じょなん)一帯で縦横無尽に暴れまわります。

 

 

一方で、偶然発生した大飢饉のときは、自分の財産を極限まで切り売りして民衆を助け、自分たちも粗末な食事しかしなかったそうです。

 

とまあこんないかにも中国風の好漢としてある種テンプレな道を突っ走っていた李通。

 

ここにきて、何を思ったのか突然、とある人物の元に身を寄せることにしました。

 

曹操です。随分突発的ともいえるこの行動が、まさに今後の李通の人生を定め、そしてその才能と漢気をさらに爆発させることとなったのでした。

 

 

 

 

続きを読む≫ 2018/06/16 11:36:16

 

 

生没年:?~正始10年(249)

 

所属:魏

 

生まれ:荊州南陽郡

 

 

李勝

 

 

李勝(リショウ)、字を公昭(コウショウ)。曹爽(ソウソウ)と愉快な仲間たちの一員ですね。当然ながらこの人もその他大勢の一人ともいえる人物ではありますが、事績を追う限り他の面々よりは遥かにマシな人物のように描かれていますね。

 

下手すると曹爽派閥随一の人格者まであり得る李勝。彼の事績をさっくり追ってみましょう。

 

 

 

 

 

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風雅なる名士(餅)

 

 

 

李勝の父親は張魯(チョウロ)の配下だった人物で、彼に曹操(ソウソウ)への降伏を提唱したことから曹操に格別の配慮を受けた人物でした。

 

 

そんな家に生まれた李勝は、風雅で才知にあふれる若者。洛陽まで勉学に訪れており、そこで曹爽や夏侯玄(カコウゲン)とも知り合ったのです。

 

後に官吏にのし上がった李勝は当時「四聡八達」なる名士グループに属し、お互いを評価し合って名声を独占するような動きを見せていたのですが……これを明帝・曹叡(ソウエイ)に「絵に描いた餅」と嫌われ、軽薄浮華な行いとして逮捕されてしました。

 

拘束されたのは一時期のものでしたが、官位を剥奪されてしまい、一時期は政治への道を断たれてしまっていたのです。

 

 

この事件で逮捕された名士は数多く、李勝もその一人として数年は官吏としての仕事につけず、仲間たちも皆閑職や辞職に追いやられてしまったとか。

 

 

 

 

 

突如復活からの……

 

 

 

政界への道を断たれてしまった李勝が次に姿を現したのは、曹叡が崩御した後。仲の良かった曹爽が政治の中枢を握ると、李勝もそれに引っ張られる形で洛陽の県令(ケンレイ:件のトップ)となりました。

 

 

同じく友人で会った夏侯玄が征西将軍(セイセイショウグン)に上り詰めると、李勝も地位こそ不明ですが高官に昇進。実績を欲しがる曹爽に賛同して蜀に侵攻しました。

 

 

……が、その結果は大敗北。いいように振り回された挙句戦果もほとんどないままに撤退し、曹爽一派の威名に傷が付いてしまったのです。

 

 

とはいえ、まだまだ曹爽らの権力は健在。李勝もその一派として昇進していき、ついには河南尹(カナンイン:洛陽を含む行政区:河南県のトップ)にまで昇進。

 

その仕事ぶりは地位に決して負けるものではなく、当時厳格に取り決められていた法律を緩和して多くの支持者を得たとされています。

 

 

そしていよいよ荊州刺史(ケイシュウシシ)にまで昇進。都にとどまって官吏への支持通達を行っていたのですが……病を得て再起不能と思っていた司馬懿(シバイ)の反逆を受けて、またたく間に曹爽ともども失脚。

 

その後数日と経たないうちに反乱の疑惑を着せられ、他の側近衆ともども一族郎党処刑の重罰が下されたのでした。

 

 

 

 

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……お人好し?

 

 

 

さて、曹爽一派の面々は何かしら悪く言われているものなのですが……驚くことに、李勝には絵に描いた餅事件と蜀攻め以外に悪く言われている形跡がありません。

 

なかなかどうして人格者だったのか、はたまた名士層への人気取りを行ったのかはわかりませんが……好き勝手に専横して滅ぼされたとされる悪逆の一派には、なかなか珍しい人物であるように思えます。

 

 

無能だったり悪党だったりしないどころか、逆に政治家としての業績もしっかり上げて、一時的とはいえ名声を得ているのだから、まあそれなりの人物ではあったのでしょう。

 

 

一方、騙されやすいお人好し疑惑を向けたくなる人物でもありますね。

 

『魏末伝』での話ですが……結果的に演技だったとはいえ、すっかり耄碌して聞き間違いをするわ粥をこぼすわの要介護老人になった司馬懿を見て、いたたまれなさから涙ながらに曹爽に報告するなど、善人よりであると裏付けするような逸話も残っています。

 

もっとも、これは「李勝=バカ」という意味合いの強い話なのでしょうが……それでも、良い人……だったのかも。

 

 

 

 

転落の兆候

 

 

 

河南を治めるようになってから1年ちょっと経った時のこと。李勝が務める政庁の屋根が、突如として壊れてしまったという話があります。

 

これだけではただの老朽化の可能性も高いのですが……問題はこの後です。

 

 

さすがに壊れたままではアレなので、人を呼んで屋根を修理させていた李勝でしたが、この時、突然小さな材木が落下。占い師が良く使う虎の石像にぶつかり、虎の頭が取れてしまったというではありませんか。

 

史書によくある、大きな事件やイベントの予兆というやつですね。

 

 

李勝はこの10日後に荊州刺史となり、あとは上記の通りなのですが……やはり、こういう兆候というのは昔からあるものなのかもしれませんね。

 

 

ちなみに蜀攻め失敗の折に司馬懿からも不快がられており、これも滅亡フラグに見えなくもありません。

続きを読む≫ 2018/06/13 20:15:13

 

 

生没年:?~正始10年(249)

 

所属:魏

 

生まれ:???

 

 

 

畢軌

 

 

 

畢軌(ヒツキ)、字を昭先(ショウセン)。曹爽(ソウソウ)軍団の側近随一の武闘派(?)で、曹爽の台頭前に唯一戦争に参加したことが伝えられる人物です。

 

……と言っても手ひどい大敗北だったようですが。

 

 

この人も曹爽一派らしく、歴史においてはその他大勢といったところ。さくっとやっていきましょう。

 

 

 

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武闘……派……?

 

 

 

畢軌の父親は名前こそ知られていませんが、字を子礼(シレイ)といって、曹操軍でも典農校尉(テンノウコウイ)として屯田の一部を任されるというそこそこの人物だったようです。

 

さて、そんな十二分に裕福ながら名士としては何とも言えない家系に生まれた畢軌でしたが、何やら才能には恵まれたようで、若い頃から自身の才覚をもって名声を得ていたのです。

 

 

畢軌は始め中央所属の文官でしたが、やがて長吏(チョウリ:そこそこ以上の身分の官位)となり、やがて曹叡(ソウエイ)が帝に即位すると、畢軌も中央に呼び戻されて彼のお付きとなり、やがて幷州(ヘイシュウ)に州刺史(シュウシシ:州の長官のひとつ)として赴任していきました。

 

 

 

さて、畢軌が幷州に赴任した時には、実は州内は大きな問題を抱えていました。というのも、軻比能(カヒノウ)率いる異民族の軍団が勢いを増してたびたび領内を荒らしまわり、官民に無視できない被害を与えていたのです。

 

畢軌はこれを看過できないとして配下の将軍を派遣し、軻比能らと対峙。しかし軍は大敗北を喫し、送り込んだ大将は戦死してしまうという結果に終わったのです。

 

 

当然、敗北の罰として畢軌は幷州担当を外されましたが、蒋済(ショウサイ/ショウセイ)の弁護もあって中央に戻され、致命的な失脚は免れたとか。

 

 

 

その後、正始年間になると、畢軌は曹爽に引っ張られる形で台頭。

 

自身を擁護してくれた蒋済の引継ぎという形で中護軍(チュウゴグン)に昇進。その後もどんどん昇進を笠ね、最後には司隷校尉(シレイコウイ:首都警護。というか長官)にまで昇進し、曹爽一派に欠かせない人物となったのです。

 

平素から曹爽とは仲が良く、進言も頻繁に聞き入れられるほどだったとされています。

 

 

 

……が、そんな状態が続いた正始10年(249)、曹爽らが名誉職に追いやったはずの司馬懿(シバイ)が突如としてクーデターを発足。またたく間に曹爽一派は罪人として捕縛され、その数日後には処刑。

 

曹爽と愉快な仲間たちの栄華の、突然の幕切れでした。

 

 

 

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人物像

 

 

 

さて、畢軌の人物像ですが……正直、その性格を端的に表す文は、わずか1文だけ。幷州刺史として赴任した際には「驕慢」と評判だったというものだけ。

 

これもどこか取ってつけた感がある評で、正史本伝のものといえども、どこまで信用できるかどうか……

 

とはいえ、やはり曹爽一派として幅を利かせ、政治を好き勝手に掌握していたのは事実。驕慢と言われても仕方のない人物なのかもしれません。

 

 

一方の才覚ですが、蒋済は幷州で大失敗した畢軌を「文学的才能と意志力は評価すべき」として中央の要職に呼び戻すべしと擁護しており、その実力はそこそこか、それ以上のものを備えていたと見るべきでしょう。

 

 

ちなみに、要職に就いていた王思(オウシ)という人をめぐって、ちょっとした逸話もあります。

 

というのも、畢軌は要職に就くのは王思よりも辛毗(シンピ)という人の方が間違いないとし、「辛毗は王思よりも忠誠、策謀に優れています」として交換を曹叡に提言。

 

 

しかし、その事で相談を受けた劉放(リュウホウ)と孫資(ソンシ)の2人は、辛毗の剛直さに着目し、「まさしくその通りですが、それと何の問題も無く職務を遂行できるかは別問題でしょう」と返答。

 

かくして、2人のアドバイスを容れた曹叡は結局そのままの運用を続けたのです。

 

 

もしかしたら、畢軌は個人個人を見る目が鋭い反面、周囲との適合性や連動して動いたときにどうなるかの予測が苦手だったのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/06/12 20:26:12

 

 

生没年:?~正始10年(249)

 

所属:魏

 

生まれ:???

 

 

丁謐

 

 

丁謐(テイヒツ)、字は彦靖(ゲンセイ)。みんな大好き曹爽(ソウソウ)と愉快な仲間たちの一人ですね。

 

父親は結構すごい人なのに(ただしがめつい)、この人は処刑された負け組というのもあって逸話は総じて微妙。

 

 

そもそも記述自体も短いので、さくっと始めていきましょう。

 

 

 

 

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司馬懿に!喧嘩を!吹っ掛けるッ!!

 

 

 

丁謐の父親はがめつい人間でしたが有能な知将と言った感じで、同郷出身者というのも手伝って曹操(ソウソウ)からは可愛がられていました。

 

そして丁謐自身も知略は親譲りで、性格は沈着剛毅。人嫌いでもあったのか、引きこもって書物を読み漁り、多くの知識を身につけたのです。

 

 

しかし、そんな性格が災いしてか格上相手の態度を咎められて逮捕されるという事件も起こしましたが、父に免じて釈放され、そのまま明帝・曹叡(ソウエイ)に取り立てられて度支郎中(タクシロウチュウ:財務省的な役所勤務の役人?)に抜擢されました。

 

 

以後、丁謐は政界で父譲りの才略を生かして活躍しました。

 

 

そんな折、後に時の大将軍となる曹爽と知り合って友誼を深め、その友情もあって曹爽は丁謐を重用するよう朝廷に呼び掛けたそうな。

 

 

 

さて、そんなこんながあって明帝・曹叡が崩御し年号が正始に変わった時、ついに丁謐は政界の重鎮となる瞬間が訪れるのです。

 

 

曹叡の頼みで政治の一角を担うことになった曹爽は、丁謐を自らの側近として迎え入れて散騎侍郎(サンキジロウ:宮中の文書を管理する役職の1つ)に抜擢し、後に尚書(ショウショ:各部署に派遣されて要職を担う役職)に栄転させました。

 

こうして丁謐は曹爽一派の欠かせぬ側近という立ち位置を手に入れ、ついに魏の政治の中枢近くまで食い込むことができたのです。

 

 

そして丁謐は曹爽一派の陰謀担当として、司馬懿(シバイ)の失脚を始め、皇后の中央から別の宮殿に追いやったり人事を思いのままに移動させたりと、その知略をドス黒い方面に発揮。曹爽の政敵や危険分子を次々と排除していきます。

 

 

……が、正始10年(249)、曹爽派閥のやりすぎともいえる謀略や専横に反発が高まり、ついに失脚に追い込んだはずの司馬懿が立ち上がったのです。

 

司馬懿は曹爽の留守を狙ってクーデターを引き起こし、またたく間に洛陽(ラクヨウ)を占拠。電撃の勢いで曹爽らの帰る場所を奪ってしまったのです。

 

 

これにより恐れをなした曹爽は司馬懿に降伏して罷免され、その数日後に処刑。丁謐も重臣一同の一人として連座で処刑されましたが、失脚の一件によって特に司馬懿から怨嗟を向けられたとかなんとか。

 

 

 

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疑り深い?偏屈?

 

 

 

丁謐の性格は、やはりどこかで個人主義というか、人を信用できず苛烈な部分があったようです。

 

史書では鷹揚そうに見えて実は猜疑心が強い性格とされ、実際に多くの人物を弾劾し、内心では貴人を軽蔑して自分がナンバーワンだと思い込んでいたとも言われていますね。

 

 

曹爽は丁謐を智嚢として全服の信頼を寄せており、当時の落書きではこの事を揶揄して「三匹の犬(丁謐を含めた曹爽の重臣)が人に烏具にかみつくが、その中で一番丁謐が悪質だ」とまで言われています。

 

 

 

また、先に少し書いた格上との揉め事も、儒教的観点からはちょっと受け入れられないものとなっています。

 

 

というのも、丁謐はその当時、鄴(ギョウ)の借家に住んでいたのです。

 

しかし、そんな折、王の身分に封じられた人物が、丁謐と同じ借家を借りたいと希望。何かの手違いか丁謐がそこを借りているとは知らず、勝手に門を開けてずかずかと中に入ってきたのです。

 

 

こうして丁謐と王はバッタリと顔を見合わせましたが、身分の低いはずの丁謐は意にも介さず、横になったまま一瞥。そのまま起き上がらずに無視してしまったのです。

 

 

王はこの対応に怒り、「この無礼者をさっさと叩き出せ!」と召使に命令。それでも怒りが収まらない王は都に出向いて事の次第を報告し丁謐を告訴。これによって丁謐は逮捕されたというわけですね。

 

 

ぶっちゃけ、この話は王の側が傲慢というのもありますが……当時としては、身分の高い者はこれが普通。本来ならば王が間違っていても、身分の低いほうがすごすごと出て行くのが当たり前の時代なのです。

 

にもかかわらず、そんな高貴な身分をあえて無視するのですから、肝が太いやら恐ろしい事をするのやら……

 

 

個人的にこういう人物は嫌いではありませんが、そんな調子でいろんな人間を貶めてきたのなら、恨まれながらの滅亡は必然と言わざるを得ません。

 

 

あえて最後に言いますが……好きですよ、こういうどうしようもないひねくれ者。

続きを読む≫ 2018/06/11 23:04:11

 

 

生没年:?~正始10年(249)

 

所属:魏

 

生まれ:荊州南陽郡

 

 

 

 

鄧颺(トウヨウ)、字は玄茂(ゲンボウ)。曹爽と愉快な仲間たちの一人ですね。

 

正直記述もそんなに残っていませんし本来はどうでもいい人物くらいの扱いの人なので、前置きもほどほどに手短にやっていきます。

 

 

 

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意外と頑張った?

 

 

 

どうでもいいと一蹴してすぐに手の平を返すのもアレですが……この人、実は明帝・曹叡(ソウエイ)の時代に結構出世してます。

 

というのも、彼は後漢黎明期を支えた功臣を先祖に持つ家系。家柄に関して言えば、かなりよかったと言えるでしょう。

 

 

そんな鄧颺は若かりし日から都でも名声を得ていた名士の一人であり、曹叡の代には朝廷に出仕。尚書郎(ショウショロウ:朝廷内の文史書を取り扱う部署の新米文官)として任用。さらに洛陽県令(ラクヨウケンレイ:県令は大きな県のトップ)も兼任という待遇を与えられました。

 

 

しかし、鄧颺は何らかの事件に関与したようで、そのまま免職。後に中書侍郎(チュウショジロウ:勅使の管理)に復帰し李勝(リショウ)らと仲良くなりますが、日頃の軽薄な振る舞いが気に入られず再び解雇、以後曹叡の代で政界に出ることはありませんでした。

 

 

免職の可能性として、パッと思いつくのは「絵に描いた餅」事件か……。

 

曹叡は「四聡八達」などとお互いを格付けし合う名士グループを「名声だけの中身の無い奴ら」としてことごとく失脚させていますが、鄧颺ももしかしたらこの四聡八達のひとりだったのかもしれません。

 

 

 

ところが正始年間になると、鄧颺はついに政界に復帰し、潁川太守(エイセンタイシュ)として活動を再開。徐々に位を上げ、ついには侍中尚書(ジチュウショウショ:侍中と尚書の事かと思われる。侍中は帝の側近、尚書は複数部署への派遣官吏)にまで昇進。

 

こうして大身に上り詰めた鄧颺は、曹爽一派の顔役の一人として好き勝手に権勢をふるい、栄光をほしいままにしたのです。

 

 

……が、正始10年(249)、曹爽一派の専横に耐えかねた司馬懿(シバイ)が曹爽に対しクーデターを実行。またたく間に追い詰められた曹爽は降伏し、鄧颺らも司馬懿によって捕らえられてしまったのです。

 

そして、それまでの栄光もむなしく鄧颺らは曹爽ともども処刑。彼の栄光の道も、永久に閉ざされてしまったのです。

 

 

 

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人物像

 

 

 

さて、鄧颺の人物像ですが……とにかく強調されているのが、軽薄さと賄賂文化への関与。

 

軽薄さについては上記の通り、曹叡に嫌われ出世の道を閉ざしてしまうほどの何かがあった様子。こればかりは想像をはたらかせるしかありませんが……まあ名声命の当時であるなら、おおよそ「絵に描いた餅」が物語る通りのものでしょう。

 

 

 

さて、一方の賄賂文化の関与については……史書にてダイレクトに金銭を好んでいたと書かれています。

 

金、名誉、女が大好きの俗物だったようで、臧覇(ゾウハ)の息子である臧艾(ゾウガイ)に対し、昇格をネタに父の元妾を差し出させた等、完全に賄賂文化に染まっていた可能性が高いです。

 

このため都では、「官位をネタに女を取引した鄧玄茂」などと嫌な人気を博したとかなんとか。

 

 

 

まあ所詮は内政の敗北者にまつわる逸話なので、どこまで本当かはわかりませんが……それでも名声だけの俗物と評価した曹叡の目は、なんだかんだ正しかったのかもしれません。

続きを読む≫ 2018/06/11 18:49:11

 

 

生没年:建安14年(209)~嘉平6年(254)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

夏侯玄

 

 

夏侯玄(カコウゲン)、字は太初(タイショ:泰初とも)。魏の重鎮ながら立場よりも愛を選んだために不幸を呼んだ夏侯尚(カコウショウ)の息子にして、彼もまた大罪人として処刑された人物ですね。

 

こう聞くとどうにもダメ人間の匂いしかしませんが……実はそうでもない。というより、正直優れた人物と言って差し支えないです。

 

 

さて、そんな立ち位置と中身が矛盾した夏侯玄の伝を、今回はおっていきましょう。

 

 

 

 

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絵に描いた餅?

 

 

 

夏侯玄は若い頃から有能であると周囲から高く評価され、わずか20歳で散騎黄門侍郎(サンキコウモンジロウ:散騎侍郎と黄門侍郎の兼任。どっちも尚書や奏事の処理担当)に就任し、周囲を嘱望されていました。

 

 

しかし、明帝・曹叡(ソウエイ)は彼のことをイマイチ信用せず、羽林監(ウリンカン:近衛兵の部隊指揮官)に左遷。ほとんど日の目を見せなかったのです。

 

というのも、その理由は2つ。まず、夏侯玄は皇后の弟と席を共にした時、これを恥辱として不快感をあらわにしたのです。義弟を恥とされれば、嫌な顔をするのが人というもの。これを根に持って失脚させたというのが、史書に描かれている理由ですね。

 

そしてもう一つは、夏侯玄ら名士層はお互いを評価し合い名声を総なめするような動きを見せていたのが原因。曹叡は「名声だけで中身の無い奴は嫌いだ」とし、この動きに同調していた名士層を徹底弾圧。

 

夏侯玄もそのあおりを受けて失脚した、というのも理由の一つとされています。

 

 

 

とにかく、こうして明帝時代には名ばかりの仕事に就けられていた夏侯玄でしたが……正始年間、母方の甥に当たる曹爽(ソウソウ)が実権を握ると、夏侯玄もようやく日の目を見る瞬間が訪れたのです。

 

 

 

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絶頂と暗雲

 

 

 

曹爽の影響力で権勢を取り戻した夏侯玄は最終的に散騎常侍(サンキジョウジ:皇帝の命令伝達役)と中護軍(チュウゴグン:護軍は諸軍団の折衝監督役)にまで昇進。

 

後に司馬懿(シバイ)から現在の政治問題に対して解決案を求めると、それに対して自分なりの答えを提示しています。

 

「九品中正制によって上下権限がごちゃ混ぜになって、政治に混乱が見られます。おおよその標準を立てて官人権力を制定し、地方も官爵を減らして支配を簡潔化しするのがよろしいでしょう。権威の象徴にもなる服装に関しても、今一度ご検討を」

 

 

誇張無しで9割9分くらい削って簡略化しましたが……おおよそ訴えかけた内容はこんな感じ。

 

しかし、司馬懿は「すべて結構な意見である」としたうえで、「恐らく、飛び抜けて有能な者でなければそれは成し得ないだろう」と夏侯玄の案を棄却したのです。

 

 

司馬懿のこの対応に対して、夏侯玄は「心中納得できません」と返信。これは大きな亀裂にこそなりませんでしたが、後々引き起こされる悲劇の予兆にも見られます。

 

 

 

そんなことがあって正始5年(244)、実績の乏しさを危惧した曹爽は、自身の功績を打ち立てるために蜀討伐の軍を発足。夏侯玄も征西将軍(セイセイショウグン)、そして雍涼2州の軍事都督となり、この戦いに参加。

 

しかし蜀軍の抵抗は激しく、補給もままならないままに戦果が上がらず、そのまま敗北して曹爽派閥の名声を失墜させてしまったのです。

 

 

こうして反曹爽の動きが高まる中、正始10年(249)、ついに司馬懿がクーデターを起こし、曹爽一派を失脚、まとめて処刑してしまったのです。

 

 

夏侯玄はその後も大鴻臚(ダイコウロ:諸侯や味方する異民族の官吏統制)、その数年後には太常(タイジョウ:儀礼や祭祀、帝の行事予定を管理する)に昇進していくなど、扱いは悪い物ではありませんでした。

 

しかし、それはどうにも表面上のものらしく、やはり曹爽一派と友好的という事実がある以上、大いに警戒抑制されており、内心では不満がくすぶっていたのです。

 

 

 

 

その名声が仇に

 

 

 

……と、こんな感じで最終的に微妙な立ち位置に置かれた夏侯玄でしたが、そんな彼の名声は天下にとどろいており、それが最期には、逆に彼にとどめを刺す結果に終わることになります。

 

 

なんと、夏侯玄のことを慕っていた人物が彼にトップに立ってほしいと願い、水面下で司馬一族に対するクーデターを企んでいたのです。

 

この一連の事件は水面下で様々な人物を巻き込んで侵攻していましたが、やがて司馬懿の後を継いでいた司馬師(シバシ)に発覚。やがて主犯者らと共に、神輿に据えられていた夏侯玄までもが逮捕されてしまいました。

 

 

こうして、取り調べの末に死刑が確定。取り調べ担当であった鍾毓(ショウイク)に涙ながらに供述書を突き出されたときも黙ってうなずくだけで、処刑当日も顔色一つ変えず自然にふるまって見せたと史書には書かれています。

 

自身の高すぎる名声が我が身を滅ぼすのを、心の奥底でわかっていたのかもしれませんね。

 

 

『魏氏春秋』では、司馬師の弟である司馬昭(シバショウ)が彼の助命嘆願を行ったところ、「夏侯玄の名声のすごさを見ただろう! 生かしておけば、また似たようなことが起こる!」と叱責を受けたとあります。

 

重臣である趙儼(チョウゲン)の葬式では数百人が夏侯玄に挨拶に行っており、司馬一族からしても生きているだけで似たようなことが何度も起こる脅威だったのかもしれませんね。

 

 

 

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人物評

 

 

夏侯尚伝の付録という形での伝記ですが、この伝はどちらかというと夏侯玄がメインなのかもしれませんね。それだけに、陳寿からの評はしっかりと残されています。

 

 

厳格で度量が大きく、その名は世間で大きくたたえられていた。

 

しかし、曹爽とつるんでいながら、彼の悪事を諫めたり優れた人物を招いたりといった話はまるで聞かない。

 

この点を顧みるに、悲劇の最期をどうして避けられただろうか。

 

 

 

つまり、その人物や事績は問題なし。しかし曹爽一派と深く関わり、彼らの好き勝手を止めようとした形跡も賢者を登用した形跡も無しと。この点を上げて、最後に処刑されたのは必然である、と締めくくっています。

 

 

また、面白いところでは同じく後期の魏を代表する能臣・傅嘏(フカ)からは他の曹爽派ともども嫌われて原則深入りされなかったと言われています。

 

傅嘏の交友関係は正直な人が多かったなどとも言われており、もしかしたら外面や体裁を気にしすぎる風があった……のかも?

 

 

ちなみに『世語』では陳寿に否定された人を見る目を存分に発揮して数多の俊英豪傑を自身の部下に付け政治も後世の手本になったと言われています。

 

また、『魏略』では友人の司馬懿の死に際して許允(キョイン)が安心する横で恩義から自分を生かしてくれた司馬懿の死により拠り所がなくなったことを心配したりと、周辺史書ではなかなかいい扱いを受けていますね。

 

面白いものでは、危険を感じて蜀への寝返りを決めた夏侯覇(カコウハ)から声をかけられたものの断ったり、というものも。(これは先を見る目の無さともとれるか……)

 

 

演義においても司馬一族を苦しめる正義の人といった書かれ方がなされており、特に魏や晋のアンチ的立ち位置の人からははかなく散った救世主に見える……のかもしれません。

続きを読む≫ 2018/06/10 12:32:10

 

 

生没年:?~正始10年(249)

 

所属:魏

 

生まれ:???

 

 

何晏 ナルシスト 保身 魏 ヤク中 五石散

 

 

何晏(カアン)、字は平叔(ヘイシュク)。後漢末の大将軍・何進(カシン)の孫であり、論語を始め古代中国の名著を語る上では避けて通れない当時でもトップクラスの文才の持ち主です。

 

しかし同時にナルシストでヤク中、挙句味方を見殺しにして自分だけが助かろうとするなど、なかなかに見てて面白いクズ要素を取り揃えた人物となっています。

 

 

それもそのはず。彼は曹爽(ソウソウ)一派の要人の一人であり、歴史的に言ってしまえば、立場からして悪党そのもの。したがってよく書かれることはよほどでなければまずありえず、ましてや本人がどうしようもない人物ならば、それこそ悪く書かれる格好の的でしょう。

 

 

今回は、そんな傍から見てる分には面白な人物、何晏についての記述を追っていきましょう。

 

 

 

 

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曹操の養子は鳴かず飛ばず

 

 

さて、そうは言ったものの、何晏の具体的な活躍は主に裴松之によって追加された伝書や他人の伝にあるものばかり。

 

当人の本伝の記述を追ってみてわかる内容は、何進の孫であることと、後に曹操の側室となった尹(イン)氏という人が母親で、曹操の養子同然に育って嫁までもらった事。

 

そして才気あふれる秀才としてたたえられ、道教思想を好んだこと。後は、文、賦を数十篇と編纂した大物文学者である事。

 

 

おおよそ、読み取れる情報はこんなものしかありません。したがって、以下書いていくことは信憑性はじめ諸事情の関係で正史から除外された史書からの情報がメインになってきますね。

 

と、前置きはこれくらいにして……

 

 

 

何晏の若い頃の話は、主に『魏略』に描かれています。

 

 

何晏の母である尹氏が曹操の妾として後宮に赴いたとき、息子である何晏も一緒に引き取られて養育していました。

 

曹操の養子としては他に秦朗(シンロウ)なる人物もいましたが、おとなしい性格の秦朗とは逆に何晏は才気溌溂としていましたが自重をしない性格で、曹操と同じような格好をしていたのでした。

 

 

そのため、曹操の後を継いだ曹丕(ソウヒ)からは徹底的に嫌われており、名前ではなく養子やあいつ呼ばわりしかされず、さらに何晏自身が道楽者の享楽主義者だったこともあって任用されることはありませんでした。

 

 

曹丕の息子の曹叡(ソウエイ)が帝位に上るとようやく閑職程度にこぎつけられるようになりましたが、「名声だけで中身の無い奴が嫌い」という曹叡の意向もあって、ここでも出世街道から除外。

 

しかし、この不遇の日々はもしかしたら何晏が一番活きていた時代かもしれません。彼はこの時期、暇にあかして多くの著作物を世に送り出しています。

 

 

時機こそ不明ですが、彼の著作物の中には現存する最古の論語注釈書『論語集解』や、自らが感銘を受けた道教思想の本『老子道徳論』などが含まれています。

 

 

 

 

 

 

政権トップの一派へ、そして……

 

 

 

こうして小役人兼文学者として行動していた何晏でしたが、ある時、急浮上の機会がやってきました。

 

かつてより友諠を結んでいた時の権力者・曹爽により抜擢され、散騎常侍(サンキジョウジ:皇帝の命令伝達役)と共に宮中に仕える侍中府の尚書(ショウショ:要職を担当する。書面を取り扱う尚書台から派遣される文官)に突如就任。

 

同時に公主を娶っていたこともあり、爵位まで与えられて諸侯に封じられ、まさに破格の代出世。

 

 

これにより、何晏は蚊帳の外から一気に政治の中心に躍り出ることになったのです。

 

 

こうして一気にのし上がった曹爽一派は、古株として障害になりかねない司馬懿(シバイ)を失脚させ排除。いよいよ権勢も大いに高まり、大国・魏を一派の手に収めることに成功したのでした。

 

 

 

……しかし、失脚したといえども才覚実績共に飛び抜けている司馬懿が相手。一度名誉職に追いやる程度では、難癖付けて処刑されるまで待ってくれる人物ではなかったのです。

 

正始10年(249)、司馬懿はついに曹爽に対してクーデターを敢行。恐れをなした曹爽は大した抵抗もできず司馬懿に降伏。一派丸々が一連のクーデターにより全員罷免され、逆に失脚してしまったのでした。

 

 

何晏も当然そのあおりを受け、曹爽らと共に処刑。妻のおかげで息子は殺されずにすみましたが、何とも寂しい終わりを迎えたのでした。

 

 

『魏氏春秋』では、何晏は曹爽一派の裁判を司馬懿の命令で主導。

 

自分が助かるために仲間を厳しく裁き、自分だけは助かろうとしました。

 

 

そこで司馬懿に云われるがままに、曹爽一派の仲間の名前を次々と書面し告発。

 

しかし司馬懿は、「まだ一人足りないぞ」とあくまで厳しい顔を隠さず追求。いよいよ追いつめられた何晏が「私のことですか?」と訊くと、司馬懿も「まさしく」と頷き、そのまま何晏は罪人として逮捕されたのでした。

 

 

 

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人物像

 

 

何晏は政治家としてはご覧の有様ですが、学者としては非常に大きな功績を打ち立てています。

 

まず、儒教のバイブルともいえる論語を注釈し、この世に残すことに成功。これだけでも功績は計り知れないと断言してよいでしょう。

 

 

それだけでなく、自分は王弼(オウヒツ)という人物と共に道教に傾倒。ついには玄学(ゲンガク)という道教系の新たな哲学思想を創立。大いに隆盛し、後に迎えた南北朝時代の時はを儒学・文学・史学と並んで「四科」と言われ、後に仏教が隆盛するまで大きく親しまれてきたのです。

 

 

 

さて、ではそんな何晏の性格はというと……ナルシストでヤク中。

 

 

白粉と手鏡を常に手放さずに持ち歩き、鏡で自分の顔を見ては恍惚に浸るほどの強烈な自己愛の持ち主で、歩く時の影をしばしば振り返って眺めるほどにアレな人だったことが記されています。

 

『魏氏春秋』によれば交友関係も意外と広く、当時厚い人望を得ていた夏侯玄(カコウゲン)やあの司馬懿の息子である司馬師(シバシ)とも交友があったとされ、何晏が2人を評する言葉もあります。

 

「『易』にある、『表面に現れない道理を決めるのは難しく、それゆえ天下の人々の意思に通暁する』という一文。これは夏侯玄にピッタリな言葉だ。

 

また、『機微を絶妙に察すれば天下の仕事を完成する』という文は司馬師にこそふさわしい。

 

『神秘であれば、速く動かなくても速く、わざわざ行くまでもなく至る』という言葉に関しては、俺は聞いただけでそんな人を見たことがないね」

 

 

ちなみにこの人物評は、「神にでも自分をなぞらえたのだろう」というツッコミがなされており、なんかもうこれだけで彼の性格がわかるような……

 

 

 

 

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あの言葉の語源がこの人?

 

 

 

さて、ヤク中に関しては、『世説新語』に書かれた話ですね。

 

何晏はいつも『五石散(ゴセキサン)』なる、鉱物を粉にした麻薬を愛用していました。そして、彼が五石散を高く評価したことから一時ブームになったとのこと。

 

ちなみにこの話は散歩という単語の語源になったという説があり、なんかもういろんな意味で世の中に関わってるんです、この人。

 

 

なんかもう何でもありですね……すげえなこの人。

 

 

 

性格は身勝手で自分大好きで薬物中毒、おまけにピンチになったら仲間を見殺しにしようとするとんでもない人物ですが、そんな人間が昨今の文学や、あろうことか日常用語の元になっていると考えると、なかなか面白いですね。

 

 

すごい英雄の事績だとか、武人のトンデモな武勇伝、ハイパー軍師の会心の策など、歴史には見どころも多いですが……たまにはこういった残念な、そのくせ妙に有能で別方面で歴史に名を残した人物を調べてみるのも面白いかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/06/09 15:35:09

 

 

生没年:?~正始10年(249)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

桓範

 

 

桓範(カンハン)、字は元則(ゲンソク)。曹爽(ソウソウ)の取り巻き一派は腐った連中として史書に上げられているわけですが、この桓範だけは扱いは別格。

 

名家の出身でありながら、小役人から実力で出世した人物。そして、正始の政変でも司馬懿(シバイ)はじめ知将らから唯一才覚を認められた人物です。

 

 

今回は、そんな桓範の事績を追ってみましょう。

 

 

 

 

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魏の小役人、出世する

 

 

桓範は明確な時期こそ謎ですが、建安年間の末期(だいたい210年代後半と思われる)に曹操(ソウソウ)に仕官。

 

丞相府(ジョウショウフ:内閣みたいなもの)に小役人として仕えましたが、その息子の曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、延康元年(220)には羽林左監(ウリンサカン:近衛兵の内の一部隊を管轄)に出世。

 

元々文学にも造詣があったことで曹丕に気に入られ、『皇覧(コウラン:中国最古の書物と言われる)』の編纂という大仕事を任されるようになりました。

 

 

そして曹丕の息子の曹叡(ソウエイ)の代で、ついに中領軍(チュウリョウグン:首都防衛指揮官。魏では実質名誉職)と尚書(ショウショ:軍事や政務それぞれの要職を分担する官吏5人の総称)に出世。

 

 

さらに地方に出て征虜将軍(セイリョショウグン)・東中郎将(トウチュウロウショウ)となり、都督青徐諸軍事(トトクセイジョショグンジ:青州と徐州の軍事総司令)として強力な軍事処罰権である持節(ジセツ)も持たされるほどになりました。

 

 

しかし、この時は徐州刺史(ジョシュウシシ:徐州の長官)と揉め事になってしまい、非を責められて免職。故郷に帰ることになってしまったのでした。
その後も兗州刺史(エンシュウシシ)に復帰、冀州牧(キシュウボク:冀州長官。刺史より偉い)に昇進の噂も立ちましたが、家庭内でトラブルを引き起こしてしまったため赴任はしなかったとされています。

 

 

 

 

再び出世するものの……

 

 

 

さて、こんな感じで色々と折り合いのつきにくい人物でもあったため日の目が長続きしなかった桓範でしたが……年号が正始に代わってしばらく、なんと中央の高官である大司農(ダイシノウ:財務大臣)に大抜擢。ついに尚書以来の中央要職にこぎつけたのです。

 

桓範は尚書時代に「職務に精通している」と太鼓判を押された辣腕を振るい、清潔簡明な仕事ぶりを披露。司馬懿にすら認められる智謀の士は、ようやくその本領を発揮したのです。

 

 

……しかし、この頃から大権を握っていた曹爽が桓範に急接近。彼の父である曹真(ソウシン)以来の、沛国2番目の仕官者であるとして、大変な敬意を払い桓範を派閥に取り込もうと動いたのです。

 

これに対して桓範は必要以上に接近することを避けていましたが……正始10年(249)、ついに恐れていたことが現実となったのです。

 

 

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正始政変

 

 

 

皇帝である曹芳(ソウホウ)が先祖の墓参りに行こうと都を発った時、曹爽もまたこれに同行。桓範は今洛陽を離れるのは危険と反対していましたが、結局曹爽には聞き入れられませんでした。

 

こうして洛陽で危険分子がいなくなった隙を見計らうと、曹爽の政治に限界を覚えていた司馬懿がついにクーデターを起こし、桓範を名指しで自陣に呼び込もうと声を掛けたのです。

 

 

曹爽と司馬懿。相対する2人の板挟みとなった桓範でしたが、彼はやがて、息子らの急きたてるような勧めもあって洛陽を脱出。曹爽の陣営に付くことにしました。

 

……しかし、これが桓範の命運を決める事になってしまったのです。

 

 

もはや曹爽の派閥に合流するしかなくなった桓範は、関所を封鎖していた元の部下を怒鳴りつけて無理矢理開門させると、曹爽らに合流。

 

すぐに曹爽に対して南の許昌で再起を図るよう進言しましたが、曹爽は失敗リスクを恐れて黙ったまま何も言わず。さらに彼の弟の曹羲(ソウギ)に対しても決定を促しましたが、2人とも黙って何も言おうとしなかったのです。

 

 

それもそのはず。2人とも司馬懿が本気で自分たちを殺そうとしているとは露ほども思わず、曹爽に至っては「自分が富豪でいられるなら軍権くらいは別に……」といったスタンスだったのです。

 

結果、曹爽は緊迫状態に心が折れ、司馬懿の勧めによって降伏。完全に罷免、軟禁されてしまったのでした。

 

 

桓範は司馬懿の手によって一度は赦免、元の官位に復帰しましたが、後に司馬懿を誣告した罪を着せられ逮捕。他の不穏分子と共に処刑され、一生を終えることとなってしまったのです。

 

 

 

 

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その人間性は狂暴?

 

 

 

桓範は曹爽伝の中で取り巻きの一人として挙げられるだけにとどまっており、その人物評に関しては事績の合間に描かれた逸話から見えてくる気がします。

 

桓範は非常に優れた才覚を持た頭のいい人物だったのは間違いないのですが、同時に頭に血が上りやすく手が付けられないプライドの高さと凶暴さも合間合間で語られています。

 

 

まず、徐州刺史と揉め事を起こした際には、家の奪い合いからキレて処罰権限を使って殺そうとしたところを上奏されて罷免、といった流れだったと語られています。

 

 

さらには冀州牧に昇進するかどうかのタイミングで妊娠していた妻に対して、「今の冀州を管轄するのは、昔俺より下だった奴だ。安南に頭下げるとか絶対ヤダ」と愚痴をこぼしていますね。

 

しかもこの後、「徐州刺史を斬ろうとしたあなたの下にいるのを、当時の部下は恥ずかしがっていましたよ。そのくせ昔の部下に頭を下げたくないとあっては、出世は無理そうですね」と嫌味を言った妻にマジギレし、お腹の赤ちゃんごと殺す暴挙に出ています。

 

 

 

極めつけは、同じく自重しないタイプの蒋済(ショウサイ/ショウセイ)との喧嘩沙汰。

 

彼は蒋済に自身の渾身の著書をレビューしてもらおうと彼に差し出したものの、軽くペラペラ読みされたことで大激怒。

 

よりによって別の会議にその怒りを持ち出し、蒋済を面罵。「うちは名家だぞ!テメーみたいな貧乏人の出とは違うのだ!」と散々に怒鳴り散らし、荒れるのを避けて睨み返すだけにとどめた蒋済に対して延々と罵声を浴びせ続けたというのです。

 

 

この性格は曹爽に対しても健在で、彼が軟禁状態にされたときにも「富豪でいられるなら何でもいいんだ」とのたまった際にも「あの曹真の息子がこれとは……この豚野郎!」と大いに罵ったとか罵っていないとか。

 

 

 

とかく才能と家柄を併せ持っていたばかりにプライドが高く怒りが先行しやすいタイプの桓範。彼は周囲が認める優れた知者であるのは間違いありませんが、誣告罪の濡れ衣を着せられたのはある意味必然なのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/06/07 21:48:07

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:豫州陳郡扶楽県

 

 

袁渙

 

 

袁渙(エンカン)、字は曜卿(ヨウケイ)。三国志メディアでの扱いはモブofモブ、三國無双シリーズにも割と最近モブとして顔を出し始めたという、どうにも目立たない人物ですね。

 

しかし、血筋はボンボン、しかも冷静さと胆力を併せ持った人格と、至れり尽くせりな素質の持ち主で、魏の人物伝においても血縁者やハイパークラスの功臣を評した直後に彼の伝があてがわれるという破格の評価を得ています。

 

 

今回は、そんな地味な超人・袁渙の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

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転々としつつも真芯は失わず

 

 

 

袁渙の父親は三公と呼ばれる政治界の超大物の一つである司徒(シト:民政の大臣職)であり、かなり裕福な貴族の出でした。

 

当然ながら我が儘を言えば簡単に押しとおる身分なので、袁渙と同格の家に生まれたボンボンたちは、身分に飽かして好き勝手し放題で風紀をいとも簡単に乱していました。

 

しかし、袁渙はというと、飾らず礼節を重んじ、清潔感と落ち着きを併せ持った態度を一貫。他の連中とすでに差をつけていたのです。

 

 

その真面目さは郡に人事役員のポストを与えられたときに汚職役人が一斉に辞職した辺りを見るに、折り紙付きでしょう。

 

 

 

そんな袁渙でしたが、最初は劉備(リュウビ)の推薦があって袁術(エンジュツ)の元に身を寄せることになります。

 

その後袁術の勢力圏の移動に伴って袁渙も住居を移す必要が出てきたりと苦労したようですが……袁術は正論ばかりを言う袁渙に対して頭が上がらなかったと、史書では語られています。

 

しかしながら袁術に対して臣下の礼をしっかりと取って敬意を表することを忘れない辺り、袁渙の性格がどんなものであったかが伺えます。

 

 

そんな袁渙は、ある時袁術に従って呂布(リョフ)を攻撃。敗北の末に囚われてしまい、そのままなし崩し的に呂布の配下へと鞍替えすることになってしまったのでした。

 

 

 

 

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何者にも道理無くして屈さず

 

 

 

さて、呂布劉備と友好関係にありましたが、後に決裂。これによって劉備に怒りを覚えた呂布は、袁渙を呼び出し、「劉備の悪口を手紙にかけ」と命令。しかし、袁渙は道理に反するとして拒否。

 

二度三度としつこく強要された挙句、最後には「書かなきゃ殺すぞ」とまで言われても、袁渙は顔色一つ変えず首を横に振ってみせ、笑顔のまま呂布にこう言い返したのです。

 

 

「悪口を書いたところで、劉備がそれを笑って許す徳高い人物ならば、書いた側が恥をかきます。書くだけ無駄でしょう。それに、私は昔劉備に仕えていた時期がありました。もし私がここを離れたとして、その先で将軍の悪口を書き並べてもよろしいのでしょうか?」

 

 

呂布はこの返しに何も言い返せなくなり、恥じ入って前言を撤回。劉備の罵倒をとりやめたのです。

 

 

 

そして建安3年(198)に呂布が敗北して死ぬと、再びなし崩し的に曹操に仕官。平和と道義の大切さを説いたことが曹操に気に入られ、そのまま重宝されるようになったのです。

 

 

『袁氏世紀』では、曹操に降った時の逸話が細かく記されています。

 

 

多くの人物が曹操にひれ伏す中、袁渙だけは曹操に対して対等な態度であいさつし、逆に曹操が袁渙に気を遣うという有り様でした。

 

そして一通り挨拶が終わると、曹操は今度は呂布軍の集めていた荷物を持ってきて、降伏者全員で分けるように伝えたのです。

 

この時多くの人が目いっぱい荷物を持っていこうと車いっぱいに詰め込む者ばかりでしたが、袁渙だけは書物百巻と申し訳程度の食糧を持っていっただけ。曹操はこの話を聞くと、袁渙のことを大いに気に入ったのです。

 

 

 

 

曹操自慢の幕僚

 

 

 

曹操の元では、袁渙は主に内政面での活躍を残しています。

 

 

当時曹操軍は屯田を開くことで荒れた土地を有効活用することを目指していましたが、土着意識の強い民衆の中には逃亡者も多かったのです。
それを見た袁渙は、すかさず曹操に進言。

 

「人は安住を好み、移住を嫌う者が多いのです。民意に従うのは簡単ですが、逆らうのは難しい。希望しない者は大目に見てやりましょう」

 

 

曹操はこの言を聞き、屯田の労働者は希望した者のみを招集する方針に転換。おかげで民衆の不満が爆発することはありませんでした。

 

 

 

 

続けて自身が相(大臣)を務めた梁(リョウ)の国では諸県の長に対して「政治は強化訓戒を第一とし、思いやりを以って行うように」と徹底し、任地を栄えさせたのです。

 

後に病気になって仕事を辞めることになりましたが、そののちも袁渙を慕う者は多かったとありますし、やはり名政治家と言っても過言ではない人物だったのでしょう。

 

 

 

しばらく養生と隠棲に務めていた袁渙でしたが、今度は朝廷に召し出され、諫義大夫(カンギタイフ)と曹操の軍師を兼任するように。

 

その後魏が建国されると、今度は郎中令(ロウチュウレイ:宿衛管轄者)となり、後に御史大夫(ギョシタイフ:副総理)の事務取り締まり役となりました。

 

この時にも袁渙は曹操に進言を残しています。

 

「天下は大方定まりましたが、この時こそ文武に優れた者の教育が必要になります。書物を集め、先人の教えを集めて教化を推し進めましょう」

 

 

そして在官数年にして、袁渙はひっそりと死去。その死は曹操をも涙させ、公の活躍への報いと個人的な親愛という意味を込めて、その家に穀物2千石が贈られることになりました。

 

 

 

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質素ながらも芯の強い人物像

 

 

 

袁渙という人物は、高潔にして冷静沈着。節義を通す反面芯が非常に強く、理想の名士像そのままと言ってもよい人物だったようです。

 

その人物像の一端が見える一文が正史三国志に載せられているので、ここで抜粋。

 

袁渙への下賜品は多かったが、彼自身は財産や土地というものに興味を示さず、全部消費して蓄えを残さなかった。

 

疑われる行動を意図して避けたわけではなかったのに、人々は彼の高潔さにただただ感服したのである。

 

 

 

また、一度仕えたことがある劉備が亡くなったといううわさが流れた時も、魏ではお祭り騒ぎになって慶賀を行ったのに袁渙一人は祝賀を出さなかったという話も。

 

つまり、徹底的に名士然として、名声のためでも媚びるためでもなく、ただただ人として正しくあろうと心掛けていた人なのかもしれませんね。

 

 

また、その勤勉さも曹操に認められており、曹丕(ソウヒ)が書いた『典略』の自叙の章でも、「親父はいつも『真面目に勉強してるのは俺と袁渙くらいだ』とか言ってた」などと書かれています。

続きを読む≫ 2018/05/29 21:19:29

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:兗州泰山郡

 

 

孫観 臧覇 泰山

 

 

孫観(ソンカン)、字を仲台(チュウタイ)。臧覇(ゾウハ)の配下で名前が出ている人物は複数いますが、その中の代表格の人物ですね。昌豨(ショウキ)? 奴は臧覇というよりもう独立群雄でいいよ←

 

 

さて、今回はそんな孫観について、臧覇伝の注釈で『魏書』から抜粋されている彼の伝を見ていきましょう。

 

 

 

 

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臧覇配下、吠える

 

 

 

孫観は臧覇の副官の一人として、徹頭徹尾彼について行っています。

 

事の始めが、黄巾の乱の時。彼は同郷の臧覇と共に兵を起こし、彼に付き従って黄巾軍を討伐。その活躍により、騎都尉(キトイ:近衛兵長)に抜擢されました。

 

 

その後、臧覇と共に陶謙(トウケン)に仕えますが、独立。呉惇(ゴトン)、尹礼(インレイ)、昌豨といった面々と共に、臧覇を頭領とした独立勢力を率い、群雄として臧覇と共に戦いました。

 

 

しかし、同盟勢力である呂布(リョフ)が曹操に敗れると、臧覇らの勢力も波打って潰走。い地域山の中に隠れることになりましたが、臧覇の招きに応じて下山。そのまま他の側近らと共に臧覇の元に再び集まり、曹操に召し抱えられることになりました。

 

この時、臧覇を琅邪国(ロウヤコク)の相に任命。事実上曹操所属の独自勢力とするとともに、臧覇の側近たちにも太守の役職を用意。孫観も青州の北海太守として、前線都市の守護する仕事に就いたのです。

 

 

そこからの孫観は、臧覇の尖兵として常に先陣切って戦争に参加。臧覇軍の精鋭部隊として暴れまわりました。

 

その功績は臧覇に次ぎ、ついに孫観は呂都亭侯(リョトテイコウ)の爵位を拝領。兄の孫康(ソンコウ)ともども、曹操軍の列侯に加えられたのです。

 

 

こうして臧覇軍は東側の戦線を押し上げていき曹操が南皮(ナンピ)を攻略した際にそこで曹操軍本隊と合流。

 

子弟を曹操軍の新たな本拠となった鄴(ギョウ)に移住させ、信任を勝ち取りついに偏将軍(ヘンショウグン)、青州刺史(セイシュウシシ:青州の長官)に任命されることになったのです。

 

 

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死をも恐れず

 

 

 

こうして臧覇ともども曹操軍になくてはならない存在になった孫観は、その後も各地を転戦しました。

 

しかし、南東に勢力を伸ばす孫権(ソンケン)を攻撃に向かった際、敵軍から矢を受けて左足を負傷。どうやらかなりの重傷だったようですが、それでも孫観は引かずに勇戦し、最後まで力いっぱいに戦い続けたのです。

 

 

 

これを見た曹操は孫観を絶賛し労いつつも、さすがに心配になってその戦いぶりに少し苦言を呈しました。

 

 

「君は深手を負いながらもよりいっそう勇猛に敵と戦っている。非常に心強いのだが、我が身をもう少しかわいがってやるのもまた国家のためではないのかね?」

 

 

その決死の戦いぶりが認められて振威将軍(シンイショウグン)に任命された孫観でしたが、この時の無理がたたってすぐに危篤状態に。

 

その後結局快復することなく、そのまま亡くなってしまったのです。

 

 

 

 

ちなみに……

 

 

 

ちなみに反逆しまくりで目立っている昌豨以外の臧覇の側近……呉惇と尹礼、そして兄の孫康ですが……

 

 

臧覇の曹操基準に際して呉惇は利城(リジョウ)、尹礼は東莞(トウカン)の太守に任命されています。が、どちらもその後史書に顔を出しておらず、動向は知れません。おそらく、最後まで臧覇配下として付き添ったのでしょう。

 

孫康に関しては、城陽(ジョウヨウ)太守に取り立てられたものの、その後の一文は「列侯に取り立てられた」のみ。列侯という立場の時点で曹操軍でも大身なので、もう少し何かその後があれば良かったのですが……

続きを読む≫ 2018/05/09 22:24:09

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:兗州泰山郡華県

 

臧覇 隠れた名将 魏 司令官 青州兵 強い 群雄

 

 

臧覇(ゾウハ)。字は宣高(センコウ)。結構前にどこかのサイトで「めっぱ」とか言われてて、傍目に「かわいそうに(´・ω・`)」とか思った人物。

 

さて、そんな臧覇なのですが……正直、地味すぎて話題にすら上がらない面子の中ではトップクラスの大物だと思ってます。

 

 

陶謙(トウケン)、呂布(リョフ)と盟友を転々として渡り歩き、最終的には曹操(ソウソウ)軍の東方軍事指令官として主要な戦場の裏側を支えてきました。

 

 

今回は、そんな臧覇の伝を追っていきましょう。

 

 

 

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群雄臧覇

 

 

臧覇の父親は役人でしたが、上司が横暴な真似をしたので止めようとした結果、逆ギレした太守に犯罪者として逮捕されてしまいました。

 

 

この時、臧覇は18歳。血気に逸る若者であった臧覇は、横暴太守の冤罪で捕まった父を助けようと画策し、すぐに行動に移しました。

 

作戦はいたってシンプル。「数十人の人を雇い、父を連行している兵100人余りをしばき倒し、父を連れて亡命」。これだけです。

 

 

正直なところ、戦力差は圧倒的。とても成功の可能性は高いとは言えなかったのですが……臧覇はこれといったトラブルもなしに作戦を遂行。父を連れて里を離れ、太守の影響が及ばない地に逃げることに成功したのです。

 

後にお尋ね者となった臧覇ですが、この行動は武勇伝として周囲に知られるようになり、彼の勇敢さは周囲に知れ渡りました。

 

 

 

さて、その後は陶謙の下で戦うも、後に部下を率いて群雄として独り立ち。後に呂布が徐州を奪って曹操と争うと、呂布の同盟勢力として曹操と敵対するようになりました。

 

その後呂布が敗死すると臧覇たちも逃走しましたが、すでに一流の群雄に仲間入りしていた曹操からは逃げきれず、あえなくお縄についてしまったのです。

 

 

こうして群雄から一気に転落、捕虜になった臧覇。しかし曹操は気まぐれに「かつて戦った臧覇とは何者なのだろう」と気になって、少し会って話をしてみることに。

 

臧覇を一目会っていくつか言葉を交わしてみた曹操でしたが、その人材発掘レーダーは臧覇を見事に捉え、曹操は臧覇の才覚に一目惚れ。すぐに臧覇に元部下の面々を出頭させ、そのまま全員に大きな役職を与えて丸々召し抱えることにしたのです。

 

 

 

こうして曹操の配下に落ち着いた臧覇は、官渡の戦いにおいて裏戦場にもなった青州での攻防に大将として参加。袁紹を牽制して予備兵力を封じ込め、勝利に少なからず貢献しました。

 

 

また、黄巾の乱の残党の征伐や反乱を起こした武将の討伐などでも名前が挙がっており、多方面で活躍していたことがうかがえます。

 

 

さらには孫権が反乱のどさくさに紛れて攻撃してきた時も、反乱勢力の援軍に来た韓当を撃退、さらにその後も多数の敵を討ち取って追い返したりと、意外にもその名前はいたるところで登場します。

 

 

袁紹孫権ら大敵の抑えである、東方の軍勢の重鎮として、臧覇は曹操の軍勢をよく盛り立てていったのです。

 

 

 

曹操死後の落ち目

 

 

 

しかし、曹操が亡くなってからは、その運気も急降下。

 

曹操の死後、その直属精鋭部隊であった青州兵が勝手に軍を辞めて帰郷してしまったのです。これには、臧覇の部隊の兵士も加わったといわれています。

 

 

曹操の跡を継いだ曹丕からは、東方の軍勢を指揮する権限を表向き与えられますが、曹一族で信任も厚い曹休の下につかされるなど、完全に警戒されている様子。

 

その立場を焦ったか、臧覇は上官である曹休に、意見を言います。

 

 

「朝廷は私の言うことを聞いてくれません。仮に1万の軍勢を貸していただけたら、必ず手柄を立ててみせます」

 

上官である曹休は、これを曹丕に報告。このことが、臧覇に対する疑念をさらに強くしてしまったようです。臧覇が中央に来た時に、曹丕は彼から軍勢を取り上げてしまいました。

 

その後は中央で出世を重ねたようですが、ついに独自の軍勢を与えられることもなく、そのまま史書からフェードアウト。

 

中央では栄転し重用されたそうですが、彼の本領が用兵にあるところを見ると、なんとも悲しい結末ですね。

 

 

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張遼の相棒?

 

 

さて、意外なことに、この人は張遼とセットで出てくることがよくあります。

 

まず、張遼は元は呂布の配下で、臧覇は呂布の盟友。

 

そして、先述した「孫権を撃退した」という話。このときの孫権、実は反乱軍に便乗しての侵攻なのです。この時に反乱を鎮圧した武将の中に、張遼の名前があります。つまり、お互いが背中を守り合っていたとも取れますね。

 

 

さらには、曹操孫権に攻撃を仕掛けた「濡須口の戦い」。

 

ここでも、張遼とセットで先鋒を務めたという記述があり、危険を感じた張遼が独断で撤退しようとしたのを、「曹操様が我々を見捨てるがはずがない」と諫め、翌日に曹操から撤退命令が来た……とまあこんな話も。

 

案外、張遼と馬が合った……のかも。

 

 

 

 

群雄の矜持

 

 

 

臧覇がまだ独立した群雄で、曹操も兗州ひとつの中規模群雄に甘んじていた時の事です。

 

興平元年(194)、兗州では流浪の将であった呂布を担ぎ上げて大規模な反乱が発生。兗州のほとんどが呂布につき、曹操はあわや本拠である兗州を追われる寸前という状況に陥りました。

 

しかしその後曹操は徐々に勢力を盛り返し、やがて兗州全土を奪還。呂布についた将らは慌てて逃げだし、その一部が臧覇の勢力圏にまで亡命したのです。

 

 

後々臧覇が配下に加わった時、曹操はこの事を知って劉備にこの事を連絡。曹操との仲介役として、劉備が匿っている将軍たちを殺して首を渡すように言い渡しました。

 

しかし、臧覇はこの命令を拒否。

 

「私が一人の群雄としていられた理由は、一重に信頼を裏切る真似をしなかったからです。殿にご恩を受けた身である以上、命令に背くのははなはだ不本意。ですが、そもそも王者や覇者といった類の方に道義を述べるのは許されるとされております。劉備殿、どうか弁明のほど、お願いいたします」

 

劉備はこの話を聞いて曹操にそのまま報告しました。すると曹操は嘆息し、臧覇と顔を合わせてこう述べたのです。

 

「庇護を求めてきた者をかくまうのは、古人の良き行いとして伝記に残っておる。君がその通りの事を行たのは、わしにとっても望むべきことだな」

 

 

かくして曹操は、臧覇が匿っていた将を赦免。いずれも他の臧覇の重臣と同じく郡の太守にしたのでした。

続きを読む≫ 2018/05/09 21:49:09

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:兗州任城郡

 

呂虔 魏 泰山 騙し討ち 守り神

 

 

呂虔(リョケン)、字は子恪(シカク)。この人も、ゲームでもめったに出てこないマイナーな武将ですね。一応、独自の伝は立てられてはいますが……。

 

泰山を守る名太守にして、人望も戦争も言う事無し。魏には、こういう地味なマイナーどころにも妙にハイスペックな人が紛れているのです。

 

 

 

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騙し討ちにも知力がいるんです

 

 

呂虔は威厳を持っており、大胆な策を立てることができる人だと人々から言われており、そんなうわさを聞き付けた曹操のヘッドハンティングを受けて、どのまま曹操軍に加入しました。

 

そんな呂虔の初舞台は、曹操の領内で反乱が発生した時。部下に便乗で反乱された杜松(トショウ)という人との交代で持ち場についた際の事。

 

つまり、氾濫した部下たちの後始末を任されたわけですね。

 

 

そしてこの時こそが、呂虔の「大胆な策略家」という意味での、一番の見せ場となっている……かもしれません。

 

 

さっそく着任した呂虔は、その場で反乱の首謀者と同調した数十人を自らの元に招待。そして自分の元に来た首謀者たちを手厚くもてなし、酒と料理をふるまって接待を始めました。

 

 

突然の宴会に当時は驚く声もあったでしょうが……これは罠。油断させたところを首謀者のみに狙いを絞り、流す血を最小限に留めようという呂虔の策だったのです。

 

近くに忍ばせていた伏兵により、首謀者らを強襲。またたく間に全員を殴り殺し、一気に反乱勢力の首脳陣を殲滅してしまいました。

 

 

当然、これだけで勝った気でいるような人が功臣として認められるはずもありません。呂虔は取り残された反乱勢力を、今度は慈愛を以って接することで敵愾心を削いでいったのです。

 

こうして牙を抜かれていった反乱軍は、いつしか空中分解。最終的にはみな呂虔に服従の意を示したのでした。

 

 

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グレート領主・呂虔

 

 

この功績により、今度は曹操から「避難民が多く隠れ住んでいる」と言われる地域も任されます。

 

そこでは山賊が山に立てこもって暴れていましたが、呂虔はこれに対し、慈愛と信義という、戦闘以外の手段で対抗。

 

山賊たちはこれを見て改心し、そのまま真っ当な仕事に落ち着いたとれています。さらにはその山賊たちの中から兵士を選抜したことで、軍隊も近隣では最強と言われるほどになったと言われています。

 

 

さらにその土地を数十年統治し続け、その統治は威厳と恩恵にあふれていたと言されています。

 

 

また戦争においても決して弱いわけではありませんでした。黄巾の乱の残党が領内を荒らし始めると、曹操軍重鎮である夏侯淵(カコウエン)とともにこれを討伐し、数千人を斬ったり捕虜にしたりと大活躍。その後も一軍を率いて反乱を鎮圧したりと、部将としてもすぐれた功績を残しています。

 

 

後に曹操が亡くなって曹丕が跡を継ぐと、今度は州ひとつを任されたうえ、将軍の位にも就任しました。この時からは王祥(オウショウ)という優れた民政家を招き入れ、民政は彼に一任したとされています。この姿勢もまた、「素晴らしい人物に仕事を一任できる人物」として世間から褒め称えられました。

 

 

その後、曹丕の子である曹叡が主君になると、またしても昇進。その死後は子、孫と順調に後が継がれていったのでした。

続きを読む≫ 2018/05/08 22:01:08

 

 

生没年:?~建安24年(219)

 

 

所属:魏

 

生まれ:涼州南安郡狟道県

 

 

龐徳 魏 馬超 降将 棺桶 ホーレーメー 白馬

 

 

 

龐徳(ホウトク:正史では「龐悳」名義)、字は令明(レイメイ)。その散り様から、メディアでヘッポコ扱いされる于禁(ウキン)の対比(というか当てつけ?)として、しばしば格好いい役割をもらっている人物ですね。

 

実際に正史においても西涼の勇将として活躍し、人の下ではイマイチ力を発揮しきれない馬超(バチョウ)に代わって活躍。散りざまも彼の伝の約半分を占めるという書かれ方をしています。

 

 

 

今回は、そんな龐徳の伝を追って行こうと思います。

 

 

 

 

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西涼の猛者・ホーレーメー

 

 

 

龐徳は若い頃から涼州の役人となり、そのまま馬超の父である馬騰(バトウ)に仕官。

 

異民族の反乱に際してはたびたびその討伐で戦功を挙げ、順調に修正を重ねて高級軍官職である校尉(コウイ)に任命され、部隊を率いる将としてその活躍を期待されました。

 

 

建安7年(202)、馬騰が曹操と同盟を結ぶと、馬超を大将とした1万の軍が曹操の援軍に出陣。この時龐徳も将として戦いに臨み、曹操軍を苦しめていた高幹(コウカン)、郭援(カクエン)らと対峙しました。

 

戦いは大将の馬超が負傷するなど苛烈さを極めましたが、龐徳は先鋒隊を率いて奮戦。大将の一角である郭援を自ら討ち取り、位を中郎将(チュウロウショウ)に昇進させて都亭侯(トテイコウ)の爵位も賜ったのです。

 

 

 

その後再び高幹が曹操軍に敵対すると、馬騰軍は再び曹操の援軍に出向。高幹に呼応して後方で反乱を起こした勢力の討伐に向かいました。

 

龐徳はこの戦いでも次々と敵陣を打ち破り、軍功第一を飾ったと言われています。

 

 

 

 

 

馬超軍の将として

 

 

 

後に馬騰が曹操に乞われて朝廷に出向すると、馬超がその軍勢を引き継ぐことになり、龐徳は今度は馬超の下で将として働くことになりました。

 

そうこうして建安16年(211)。西涼ではこの時、激動の時代を迎えたのです。

 

曹操が西に目を向けたことにより、「自分たちが併呑されるのではないか」と恐れた西涼の諸侯が曹操軍と敵対。馬超を盟主として、曹操軍との決戦に臨んだのです。

 

 

結果は、曹操を討ち取ろうかという瞬間こそあったものの、敵軍の策に敗れて総崩れ。龐徳は馬超らと共に西へと逃げ延びましたが、連合軍は瓦解してしまったのです。

 

尚もあきらめない馬超は曹操軍に反抗。龐徳もこれに続きましたが、もはや連合軍としての体を為していない西涼の軍勢では到底曹操に勝てず、結局馬超らは涼州を追われて漢中(カンチュウ)の張魯(チョウロ)の元へ逃げ延びることになってしまいました。

 

 

馬超はその後も諦めずに曹操軍に挑もうとしますが失敗し、結局は益州の劉備の元へと逃走。対して龐徳は張魯軍の武将としてしばらく漢中に身を置きましたが、やがて曹操軍が攻めてくると降伏し、彼の軍門に降ることになったのです。

 

 

かねてより龐徳の武勇を知っていた曹操は彼を歓迎し、すぐに将軍としての職と関門亭侯(カンモンテイコウ)の爵位を以って龐徳を優遇することにしました。

 

 

 

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忠義の死

 

 

 

建安24年(219)、関羽(カンウ)らの扇動もあって侯音(コウオン)らが反乱を起こすと、龐徳は荊州方面の総大将である曹仁(ソウジン)と共にこれを討伐。その後南下して、関羽と戦うことになりました。

 

しかし、この時関羽の兵は意気高揚しており、さらに曹仁らよりも多勢とあって、非常に切迫した状況でした。

 

 

そのため将兵も疑心暗鬼に駆られており、その結果、龐徳の兄が劉備軍にいることもあって寝返りを警戒する声が多く寄せられていたのです。

 

しかし龐徳は、そんな猜疑の声を否定。

 

「国から恩義を受けた以上、命をとして戦わねばならん。わしは関羽を討つ。今年討たねば、逆にわしが関羽に討たれるであろう」

 

そう言い放ち、いざ出陣となった際は前線に出て奮戦。なんと関羽の額に矢を命中させ、あと一歩で殺せる所まで迫ったのです。

 

龐徳はこの時白馬に乗っていた事から、「白馬将軍」と敵から恐れられたそうな。

 

 

しかし関羽の勢いはこの程度では止まらず、城の包囲をより強めてきました。

 

そして対する龐徳も、曹仁の指示により城の外に陣を構えていましたが……

 

 

折しもこの時強い雨が辺りに降り注いでおり、運悪く黄河が氾濫。あたり一帯は水没し、龐徳ら諸将は高台に避難せざるを得ない事態となってしまい、郡としての機能を完全に失ってしまったのです。

 

 

そしてそれを機と見た関羽は、用意していた船に乗って龐徳らに総攻撃を開始し、軍勢は一気に瓦解してしまったのです。

 

龐徳は自慢の騎射で敵軍を迎え撃ちますが、すでに焼け石に水。

 

 

それでもあきらめじと、降伏しようとした将軍らを叩き斬ってでも頑強に抵抗しますが押し切られ、水嵩もどんどん増していき、それにつられて周囲の味方は次々と降伏していったのです。

 

 

龐徳は将軍一人、部隊長2人を引き連れて曹仁の元へと逃亡を図りましたが、運悪く小舟が濁流に呑み込まれて転覆。川で溺れていた龐徳はついに関羽によって囚われてしまいました。

 

 

対面した関羽は、

 

「お前の兄は我らの軍中。にもかかわらず降伏しないのはどういうことか」

 

と龐徳をなじります。が、すでに覚悟を決めていた龐徳は、逆に関羽に対して強気に言い返したのです。

 

 

「わしは国家の鬼となろうと、劉備ごとき賊の将になどならぬ!」

 

 

この龐徳の言葉に関羽は感銘を受けたか怒りを覚えたかは知りませんが……魏に後ろ盾など無かった龐徳は、関羽によって処刑されてしまいました。

 

曹操はそんな龐徳の最期に涙を流し、彼の息子2人を列侯に加えたのです。

 

 

諡は壮侯。曹丕(ソウヒ)が王位を継いで少し後に贈られたものでした。

 

 

 

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評価

 

 

 

龐徳と同じ状況に立たされた結果、数多くの兵を抱えていたこともあって降伏した于禁。彼との対比もあって、龐徳の評価は昨今問わず高いと言えるでしょう。

 

陳寿は、彼をこう評しています。

 

 

命を投げ出して敵軍を威圧した。かつて項羽に捕われた際に鞍替えを断って殺された周苛(シュウカ)なる人物がいたが、龐徳の節義は彼にも似たものだった。

 

 

曹操も(主に于禁に対する失望がメインながら)「30年以上務めてきた于禁以上」とも述べており、この最期は誉れ高い武人のものとして、今でも多くの人に評価されています。

 

 

 

しかし、これまで「ヘタレでゴミのような雑魚キャラ」としての悪評ばかりだった于禁がその事績から再評価を受け始めたこともあって、その評価にも少々暗雲が立ち込め始めてきているような……?

 

 

特に降伏しようとした将軍を独自判断で斬り殺した点。当然降伏は士気にも関わる戦犯行為なので、それを阻止するのはむしろ正しい判断なのですが……

 

当時の樊城周りは、完全に水没しきって戦うにも戦えるはずもない絶望的状況下。そんな中で降伏を許さなかったことが、判断が是か非かの論点になっている様子ですね。

 

 

忠義の勇将・龐徳の明日はどっちだ?

続きを読む≫ 2018/04/25 20:47:25

 

 

生没年:建寧4年(171)~正始6年(245)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州潁川郡陽翟県

 

 

趙儼 魏 曹操 李通 万能選手 護軍 驚異の調整能力

 

 

趙儼(チョウゲン)、字は伯然(ハクゼン)。メディアでは全くと言っていいほど目立たない人物ですが……それもそのはず。この人の本領は、まさに名将を引き立てる調整役にあると言っても過言ではありません。

 

当人の実力もかなりのものではありますが、それ以上に協調性のなくアクの強い名将、猛将をまとめる影の番人としての活躍に定評がある趙儼。

 

 

今回は、彼の伝を追ってみたいと思います。

 

 

 

 

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曹操にこそ希望が……

 

 

 

趙儼は若い頃、戦乱を避けて荊州の地に疎開して、杜襲(トシュウ)や繁欽(ハンキン)といった人たちと共にひとつ屋根の下で暮らし、三人で財産、生計を共にする仲でした。

 

が、そんな中、曹操が漢の帝を保護したことを知ると、趙儼は繁欽にむけて「俺は誰に仕えるべきか今わかった。曹操とかいう男こそ、乱世を治める人物に違いない!」と語り、一族を引き連れて疎開先から出立。

 

老人や年少者を助けながら長い旅路を進み、その翌年の建安2年(197)、ついに曹操の元まで到着。そのまま朗陵(ロウリョウ)の県長を任されることとなりました。

 

 

 

さて、この時の朗陵の治安は最悪で、多くの人がその権力や武力を笠に好き放題しているという有り様でした。

 

そんな任地を任された趙儼は、好き勝手暴れている連中の中でも特に行いのひどい面々を即時逮捕。罪状を調べ上げたところ死刑となったので、そのまま死刑囚として投獄してしまいました。

 

……が、このまま素行不良の面々を処刑して終了すれば、追い詰められたゴロツキが徒党を組んで逆襲に向かいかねません。そこで趙儼は郡の役所に上申して、特別恩赦という形で死刑囚を釈放してしまったのです。

 

 

これ以降趙儼の権威と恩愛が明らかになり、追い詰めすぎず放任しすぎずの塩梅がプラスに働いて統治も上手く行くようになったとか。

 

 

 

さて、趙儼と言えば、李通(リツウ)の記事にも少し名前を出した通り、彼とは友人の関係にありました。

 

曹操袁紹(エンショウ)との決戦に臨むと、曹操の影響下である多くの郡が袁紹を恐れ、そのまま寝返る姿勢を見せていました。

 

 

そんな中、友人の李通が「俺は曹操につくぞ!」という意思表示のため、領内での徴税を執り行おうと動きました。

 

 

が、趙儼は逆に、「曹操様に旗印を明確に伝えるのは大事な事でしょう。しかし、そのために重税を敷いて周囲に恨まれては、逆に厄介事を巻き込むことになります」と説き、徴税の手を緩めるように主張。

 

さらには曹操軍のブレーンに当たる荀彧(ジュンイク)にも、李通ともども曹操軍に味方する旨と、民衆が苦しんでいるから租税を返してやってほしい旨を主張。これを聞き入れた荀彧により租税として集めた錦や絹は民衆に還元され、領内の動乱は落ち着いたとか。

 

 

 

 

 

 

ハイパー調整役

 

 

 

その後司空(シクウ:三公の一つで司法関連の大臣。この時点では曹操が赴任)の主簿(シュボ:秘書官、事務所長)の役割に就いた趙儼は、張遼(チョウリョウ)、楽進(ガクシン)、于禁(ウキン)それぞれの作戦行動の支援役として戦地に赴くことになりました。

 

が、この三人、戦争に関しては最強クラスの大物なのですが、如何せん協調するという事をほとんどせず、それぞれが思い思いに動いている有り様でした。

 

趙儼はこれはいかんと思い立ち、三人の参謀役として事あるごとに諭して回り、苦心した結果、なんとか三人を打ち解けさせてお互いの連携を可能な段階まで持っていくことに成功。

 

 

こうして隠れた調整役としての鬼才を発揮した趙儼は、建安13年(208)に行われていた荊州征伐において章陵(ショウリョウ)太守、都督護軍(トトクゴグン:都督は軍事統括、護軍は近衛兵指揮官にして戦場の監督調整役。名前だけで監督役とわかる)に就任し、七軍という大軍の管理を任されることになったのです。

 

この七軍のそれぞれの大将というのが、于禁・張遼・張郃(チョウコウ)・朱霊(シュレイ)・李典(リテン)・路招(ロショウ)・馮楷(フウカイ)。路招と馮楷以外は曹操軍でも屈指と言える名将であり、独自の伝も立つほどの人物(朱霊は徐晃伝の付録)です。これほどの人々を監督することになる辺り、趙儼が調整役としてのトンデモな才能を期待されていたのがわかる気がします。

 

 

さて、そんな華やかな部隊の監督を務めた後、趙儼は一転して曹操の主簿に戻り、続けて扶風(フフウ)太守に任命されました。

 

 

 

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建安16年(211)に反乱を起こした馬超(バチョウ)、韓遂(カンスイ)らを曹操が打ち破ると、趙儼は再び護軍として、反乱軍の元領土の護軍として起用され、馬超らから降伏してきた殷署(インショ)という人物を始め関中の軍勢のまとめ役を任されるようになります。

 

 

その後曹操が漢中(カンチュウ)を奪取すると、その守りのために殷署の軍も進発。この時、兵の様子から趙儼は殷署の兵が反乱を起こす危険を察知して、殷署に念を押していましたが……殷署はこれを聞き入れず平気な顔で進軍し、道中に予見通り兵の反乱を受けて行方不明になってしまったのです。

 

しかもこの時、趙儼が率いていた兵の中にも反乱軍の血縁者らが混じっており、反乱の一件を知ると動揺し完全に浮足立ってしまいます。

 

 

しかし趙儼は、制止する同僚らを振り切って、兵を連れて騒動の鎮圧に出立。途上で休息中に何度も兵たちをなだめて慰撫し、心をがっちりと掴んで忠誠を誓わせることに成功。

 

その後反乱した兵800人ほどを見つけると事情を聴取し、首謀者のみを処断して兵たちは許して解散させたり、偶発したトラブルを利用して完全に味方に靡く兵士を選別したりと、まさに手練手管を駆使してこの反乱を。乗り切り、最終的には二万余りの軍隊を当初の輸送目的であった漢中に送り届けることに成功したのです。

 

 

 

 

 

 

調整力は策謀にも……

 

 

 

 

建安24年(219)に関羽が樊城の曹仁を攻撃すると、関羽軍の精強さや洪水による救援隊の壊滅などもあり、魏領内は未曽有の混乱状態に陥ってしまいます。

 

 

そんな中、趙儼は議郎(ギロウ:宮中衛士を取り仕切る光禄勲の顧問対応)の資格を持ってこの関羽撃退の作戦に参加。徐晃と共に樊城に進軍しましたが、到着したころには関羽はすでに曹仁軍の包囲を終えた後。さらには他の援軍の到着も無く、まだまだ戦況は不利と言える状況でした。

 

 

戦況不利な中で無理やり攻撃しても負けが見えていますが、既に危険な状況の曹仁を見て、徐晃軍の諸将は関羽攻撃を催促しますが、趙儼は即時攻撃に反対。

 

・今の戦力では無駄に負けて兵が疲れるだけ

 

・間者を使って曹仁との連絡を密にすれば、援軍到着までは十分耐え抜いてくれる

 

 

という二点を主張し、地下道と矢文を使った曹仁軍との連絡を試行するにとどめ、徐晃軍は援軍到着まで状況を静観。

 

案の定援軍到着まで曹仁が耐え抜いてくれると、徐晃は援軍部隊も含めた軍勢を束ねて関羽との決戦に臨み、見事打ち果たして敗走させることに成功しました。

 

 

この時、逃げる関羽に止めを刺そうとする諸将に対しても、趙儼は「むしろ関羽を活かすことで、同盟国でありながら潜在敵国である孫権を脅かすことができる」と主張し、曹仁はその言葉を聞き入れて戦闘状態を解除、後に曹操からの趙儼と同様の内容で撤退中止を呼び掛ける文書が届いたそうな。

 

 

 

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曹操の死後曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、趙儼は侍中(ジチュウ:皇帝の側近、秘書役)に任命され、その後しばらくして駙馬都尉(フバトイ:皇帝の馬車と並走する影武者のような役回り。基本、後続が担当する)となり、さらには河東(カトウ)太守、典農中郎将(テンノウチュウロウショウ:屯田管理責任者)の代役を兼任。

 

 

黄初3年(222)には関内侯(カンダイコウ)の爵位を与えられ、また孫権が国境付近にまで軍を進めると、それを防ぎに出た曹休(ソウキュウ)の軍師として参陣しました。

 

孫権が逃げ帰ると、さらに爵位が上がって宜土亭侯(ギドテイコウ)に。さらに仕事も度支中郎将(タクシチュウロウショウ:軍需品の調達、輸送責任者)になり、その後尚書(ショウショ:民衆の意見を帝に上申する役割)に就任。

 

 

その後曹丕に従って広陵(コウリョウ)侵攻に従軍。遠征失敗により曹丕が撤退すると、趙儼はその場にとどまって征東軍師(セイトウグンシ)として東のにらみを担当することとなりました。

 

 

 

曹丕の息子・曹叡(ソウエイ)が跡を継ぐと、今度は都郷侯(トキョウコウ)に爵位を進め、違法者処罰権限の仮節を渡されて監州諸軍事(カンケイシュウショグンジ:荊州の軍事監督?)を任されましたが、この時は病によって赴任せず、再び尚書に。

 

 

が、今度は荊州だけでなく豫洲の軍事監督も兼任という形で再び外に送り出され、大司馬軍師(ダイシバグンシ)に転任し、後年再び大司農(ダイシノウ:農業関連の大臣)として中央に赴任しました。

 

 

 

その後曹芳(ソウホウ)に代替わりすると、今度は征蜀将軍(セイショクショウグン)となり、監雍涼州諸軍事(カンヨウリョウシュウショグンジ)となり、その後さらに征西将軍(セイセイショウグン)と共に、軍事権がさらに高い総指揮官の雍涼州の都督に任命されました。

 

 

が、正始4年(243)にはすでに年老いたのを理由に前線を退き、再び中央に帰還。驃騎将軍(ヒョウキショウグン:将軍でも大将軍のすぐ下の最高級職)、司空に任命されましたが、その2年後に死去。

 

諡は穆公とされ、後は息子の趙亭が継ぎました。

 

 

 

 

 

まさに影の番人にして最高の緩衝材

 

 

 

趙儼はまず目立つような人物ではなく、政戦共になかなか表舞台に立つことのなかったわけですが、それでも、多くの猛将名将を見事にまとめ上げた、まさしく調整の鬼才とも言うべき人物ですね。

 

 

自身の才幹も決して凡庸ではありませんでしたが、それ以上に引き立て役としての活躍は傑出していました。みんな前に出たがる上、こういう役回りはなかなか稀有な才能に依るところも多いですが……趙儼は見事に損な役回りを果たした、まさに影の名将というにふさわしいでしょう。

 

 

ちなみに本伝によると、辛毗(シンピ)、陳羣(チングン)、杜襲と共にひとまとめにして「辛陳杜趙」と称されており、その名声も諸将を結び付けるツールになったのかもしれませんね。繁欽? 知らない人ですね

 

 

 

ちなみに『魏略』では、雍州に行った際、たまたま忘れてきた常服薬について質問してみたところ、大量の薬を届けられて苦笑いを浮かべたという、なかなかコミカルホックリするような話題も持っています。

 

 

こんな感じの親しみやすい性格も、また調整役たる地位を確固たるものにした要因かもしれませんね。

 

 

 

続きを読む≫ 2017/12/28 21:14:28

 

 

生没年:?~黄初4年(223)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

人物伝・魏書

 

 

 

曹彰(ソウショウ)、字は子文(シブン)。曹操の息子の中でもかなり目立つ位置にいて、特に武勇に優れているため、良くも悪くもちょっと浮いた人物ですね。

 

曹操自身から虎髭の雄姿という意味で黄髭(コウシュ)などと呼ばれ(『魏略』によると文字通り髭が黄色かったらしい)、その武勇を愛されました。

 

 

 

そんなわかりやすい脳筋猛将タイプという事もあって、「創作でもいいから魏を滅ぼしてやる」などと考えている過激な魏アンチのような人からも不思議と許されたり、逆に好かれたりという不思議な人物です。

 

 

 

しかし反面知性に関しては……

 

 

まあ、その辺は後述するとして、まずは本伝に記載されている記述から追っていきましょう。

 

 

 

 

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圧倒的武勇!

 

 

 

曹操の息子と言えば知的なイメージがありますが……曹彰は知的とは真逆。弓馬に優れ、腕力も人並み以上で、急斜面も平気で踏破。さらには猛獣と格闘できてしまうなど、非常な武力の持ち主であることが史書に記されています。

 

 

若い頃から曹操の遠征に付き添い、曹操が魏王に就任すると、曹彰は鄢陵侯(エンリョウコウ)に任命されました。

 

 

 

さて、曹彰の武勇が明るみに出るのは、魏が王国を建ててから2年後の建安23年(218)のこと。

 

この年、北方の異民族である烏丸が大規模な反乱を起こしており、北の国境線付近の情勢は大荒れといった状況でした。

 

 

 

曹彰は北中郎将(ホクチュウロウショウ:中郎将は禁軍指揮官)、そして驍騎将軍(ギョキショウグン:)の代行役として反乱鎮圧の総大将に就任。

 

この時、父親の曹操からは「今までは親子だったが、一度宮廷を離れる以上は主君と子供の関係。法に従って勝手をせぬように心得よ」と言い渡されたのです。そんなに不安だったのか……

 

 

 

さて、こうして北伐軍を率いて幽州(ユウシュウ)の涿郡(タクグン)というところに入ると、待ってましたとばかりに烏丸兵数千騎が曹彰の軍を襲撃。

 

兵がまだ集結しきれていないタイミングでの不意打ちで、この時の曹彰軍は歩兵ほどに、騎兵もわずか数百のみ。

 

 

いきなり危機に直面した曹彰でしたが、ここは軍師として随行していた田豫(デンヨ)の策により、陣を堅守している間に敵軍は散り散りになって逃げていきました。

 

 

 

……さて、曹彰の活躍はこの後。逃げ去っていく烏丸兵たちの尻を見て、どうにも武人としての血が騒ぐ曹彰は、即座に軍に命令。

 

 

「追撃じゃあ!!」

 

 

 

なんと、総大将ともあろう曹彰は、自ら前線に立って逃げ去っていく烏丸兵を追撃し、自ら弓を持って敵兵を射撃。自身の鎧に数本の矢が刺さっても手を緩めることなく、半日以上ものあいだ逃げる敵兵を追いかけ続け、いつしか敵の本拠地もそう遠くない桑乾(ソウカン)の地にまで迫って子あったのです。

 

 

 

しかし、ここまでずっと戦いながらの行軍になった兵士はすでにクタクタ。それもそのはず。集結中に戦いに巻き込まれた挙句、ここまで休まず十時間以上も戦い続けたのです。疲れないはずもありません。

 

曹彰に付き従う官吏たちは兵の疲れ、そして独断での突出しすぎは命令違反に当たるとして曹彰を諫めました。

 

 

が、曹彰は逆に官吏たちに対して強気で言い返します。

 

 

「うるせぇ! 戦う以上勝利のために専心するのは義務だってのに、何が命令だ! 
まだ敵はそう遠くに逃げちゃいねえ。今攻めこみゃ勝てる! 形式ばっか気にして勝機を逃す奴に、良将もクソもあるか!」

 

 

こうして疲れ切っている兵たちに対し「遅れる者は斬る」と伝達し、馬に乗って敵軍の追撃を続行。一昼夜駆けまわってついに敵軍を捕捉し、討ち取った兵数はなんと四桁にも上る大勝利を飾ったのです。

 

 

……もはや滅茶苦茶……

 

 

 

とはいえ、さすがに曹操の息子。無理強いした将兵らを無視してそのままとはせず、褒賞を規定の倍の数出したため、この戦いを乗り切った将兵らは大喜びしたとか何とか。

 

 

ともあれこうして各地で連戦連勝していった曹彰軍。その勢いを見た異民族らは畏怖すら覚え、ついには鮮卑の大物である軻比能(カヒノウ)ら中立を保っていた面々は曹操軍に帰順の意を示し、最終的にはこの北方の反乱をすべて平定して帰ることに成功したのです。

 

 

 

ちなみにその後長安にいた曹操に指揮下で戦った諸将の活躍を褒め称えて上奏し「立派になったな……」と感動され、見事美談で一連を締めくくった曹彰ですが、その裏には帰り際に出迎えてくれた兄・曹丕(ソウヒ)の「下手に自慢せず、配下を立てて控えめに応答しろ」というアドバイスがあったとか何とか……

 

 

 

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曹彰の野望……?

 

 

 

曹操はしばらく長安にとどまっていましたが、やがて曹彰に長安を任せて中央に帰還。しかし、帰還後から体調を崩し始め、そのまま亡くなってしまいました。この時曹彰にも早馬で事の次第を伝えましたが、どうにも間に合わなかった様子。

 

 

そしてようやく洛陽に到着した時、曹彰はとんでもない事を周囲に問いただしたとされています。というのも、

 

 

「父上が生前お就きになっていた魏王の証となる印綬と紐はどこにある?」

 

 

……つまり、曹操の跡継ぎに自分がなる、あるいは自分が決めた誰かに継がせるという意思の表れにもなる発言ですが、いったい何があったやら……。ともあれ、ここでは賈逵(カキ)が「後継ぎが決定した今、あなたがお気になさることではありません」と告げられたことで曹彰もあっさり諦めたそうな。

 

 

 

 

ともあれ仕方なく領国に戻った曹彰は、その後も爵位が進み、黄初3年(223)には任城(ニンジョウ)王に立てられました。

 

 

しかし翌年、洛陽に参内した時に体調を崩し、突如として死去。その死後、威王の諡号を与えられました。

 

 

 

 

 

そのマッシブな人物像

 

 

 

曹彰は若くして激しい気性の持ち主だったらしく、曹操も割と手を焼いていたようです。

 

 

ある時曹操

 

「書物を読まず剣馬ばかり鍛えているが、それは士卒のすること。すでに貴人の身分であるお前が、なぜそれを尊んでいる」

 

 

 

と言って曹彰をたしなめたことがありました。しかし、剛直な性格の曹彰はこれを聞かず。

 

 

「男たる者、前漢を代表する名将である衛青(エイセイ)や霍去病(カクキョヘイ)のようにあるべきだ。俺は十万の騎兵と駆けて勲功を立てたい。博士になんてなれるかよ!」

 

 

と言い放ち、また曹操が我が子らに希望を聞いた際も、「将軍になりたいです!」と答えたとか何とか。

 

 

 

また、曹操の死後に印綬を求めたあたりを見ると、案外行動が野心的だったり……割とよくわからない人ですね。

 

 

ちなみに『魏略』では、弟であり曹丕との後継者対立の候補となった曹植(ソウショク)と仲が良く、曹操が亡くなった際に「父上はお前を後継ぎに望んでおられたはずだ」などと言って曹植を慌てさせたり、『魏氏春秋』では今にも襲い掛かりそうな勢いで印綬を求めており、後に急死した際もそれが原因のもつれによる憤死だったとか色々と言われています。

 

おそらくは本気で曹植を後継ぎにするつもりだったのか、はたまた曹丕を認めない群臣から何かをそそのかされたのか……

 

 

何にせよ、なかなかIFを考えるのが楽しい人物ではありますね。彼が曹丕の崩御まで長生きしたら、いったいどんな波乱を魏に持ち込んでくれたのか……

 

 

 

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続きを読む≫ 2017/12/26 19:41:26

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:并州太原郡祁県

 

 

 

温恢

 

 

温恢(オンカイ)、字は曼基(マンキ)。有能な政治家はだいたいがその人気から極端に事績の解説が多いか、はたまた波風も立たず極端に記述が少ないかの2択なのですが……温恢は紛れもなく後者の人。

 

 

歴史に伝わる記述は少ないですが、やはりその中にも、体面や見せかけに騙されない洞察力のようなものを持っており、政治家・ブレーンとして非常に優秀な人物だったことが伝わります。

 

 

特に難しい地方を治めるというのは、ものすごい地味な仕事の割に、当時の情勢を見ると大変な作業だったのです。

 

 

それを、持ち前の洞察力を活かしてか知識を活かしてかは知りませんが、しれっと簡単にこなしていった温恢。今回はそんな彼の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

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曹操「本当は中央にお持ち帰りしたい!」

 

 

 

温恢は裕福な豪族の家に生まれましたが、15歳のころに涿郡(タクグン)の太守をしていた父親が死去。

 

取り残された温恢ら遺族は、それでも父の遺した莫大な財産を有していましたが、温恢はなんと、「乱世で金なんて持ってても邪魔なだけ」と言い捨て、親族郎党にばらまいてしまったのです。

 

 

この行動を見た郷里の人たちは温恢をベタ褒め。郇越(シュンエツ)という過去の偉人になぞらえてこの行動を称えたとされています。

 

 

 

こういった行動は物欲を嫌う儒教にとってはまさに誇るべきもの。こういった徳業もあってか孝廉(コウレン:家柄や素行、学問などの儒教精神に則っての地元推挙)によって官吏の道に召し出され、各地の官吏を歴任。

 

廩丘(リンキュウ)県長、鄢陵(エンリョウ)県令、広川(コウセン)県令、彭城(ボウジョウ)国相、魯(ロ)国相と、史書にあるだけでも短期間でこれだけの土地を渡り歩き、そして挙げたものはすべて規模こそ違えど、とある一帯の長官職ですが、温恢はこのいずれの官職にあっても評判は良かったと記載されています。

 

 

 

これらの任地を転々とした後、曹操(ソウソウ)らが中心となって取り仕切る朝廷に参内し、丞相主簿(ジョウショウシュボ:内閣総理大臣クラスの官職の秘書)を務めた後、今度は南東の揚州(ヨウシュウ)に州刺史(シュウシシ:州の長官)として赴くこととなりました。

 

 

曹操は温恢を揚州刺史に任命する際、「温恢のような頼れる奴は手元に置いておきたいが、戦乱状態の揚州を治める重大性には代えられん」と言い、揚州出身者の蒋済(ショウサイ/ショウセイ)を補佐につけました。

 

また、最前線の合肥(ガッピ)に駐屯していた張遼(チョウリョウ)や楽進(ガクシン)らに温恢を紹介し、「こいつは軍事にも明るい。何かあればよく相談するように」と伝えたそうです。

 

 

 

 

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言葉の真意を読む力

 

 

 

建安24年(219)に、これまでもしばしば攻めてきていた孫権(ソンケン)がまたしても合肥を攻撃してきました。

 

 

この時孫権は、偽りと言えども曹操に臣従していたはず。

 

偽装か、はたまたいつもの手の平ハリケーンか……

 

 

ともあれ、孫権によるこの攻撃に備え、揚州にいる曹操軍の諸将は守備兵を動員し、守りを固めます。

 

 

そんな折に、温恢は近所の兗州(エンシュウ)の州刺史である裴潜(ハイセン)と出会い、彼にこう語っていました。

 

 

「こちらの戦線は問題ないだろう。しかし、気がかりなのは荊州の戦線だ。最近近辺の川の水かさが増している。しかも曹仁(ソウジン)将軍は敵中深くに孤立しており、有事に備えきれておらず率いている兵数は少ない。対して劉備軍の関羽(カンウ)は猛将。何かのきっかけで攻めてくることがあれば、恐ろしいことになるだろう」

 

 

そして温恢の予見通り関羽は攻めてきて、曹仁は樊城で大苦戦。さらには水嵩が増したことにより大洪水が起こり、援軍に赴いた于禁(ウキン)の軍勢も身動きが取れなくなって捕縛されてしまうという大事件が起きてしまったのです。

 

 

その報を受けて、曹操はすぐに付近の州刺史らに召集をかけることにしました。しかし、「ゆっくり来てくれて構わない」というお達しも同時に来ており、呼び出しを受けた裴潜らは言われた通りゆっくりと余裕をもって軍備を勧めていました。

 

 

しかし温恢はこの曹操の意図を読み切っており、すぐさま裴潜に助言を送ったのです。

 

 

「『ゆっくり来い』という命令は、おそらく付近の民衆や兵士を不安にさせないための建前だろう。おそらく数日もすれば、急ぐように密書が届く。
おそらくその後に張遼らも呼び出しを受けるだろうが……彼らは曹操様の意図を理解し、準備を手早くこなしてすぐに向かうはず。

 

 

もし先に来るように指示された君たちが張遼らより後に到着すれば、お咎めを受けることにもなりかねないぞ」

 

 

 

これを聞いた裴潜らは予定を変更し、兵の装備も最低限に、補給物資を送るための輜重隊を置いていく形で即座に曹操の元に急行。その後は温恢の予言通りに曹操から改めて催促の密書が届き、次いで張遼らも命令を受けて急行。温恢の予見通りとなったのです。

 

 

 

 

 

翌年に曹操が亡くなって跡を継いだ曹丕(ソウヒ)が皇帝になると、温恢は中央に召し出されて侍中(ジチュウ:皇帝の側近:顧問役)を務めた後、今度は魏郡(ギグン)太守として再び外部の統治に励むようになりました。

 

さらにその数年後には統治の難しい辺境の涼州(リョウシュウ)刺史、領護羌校尉(リョウゴキョウコウイ)として持節(ジセツ:非常時にはかなり大きな官職官吏の処罰権)を受けて任地へ向かいますが、その途上で病死。享年は45だったと伝えられています。

 

 

曹丕も彼の死を悼み、「多大な功労者であり誠実であった。だからこそ一地方を預けたのに残念だ」とし、温恢の息子である温生(オンセイ)に爵位を与えました。

 

が、その温生も長生きできず早死に。結局温恢の家系は絶たれてしまいました。

 

 

 

ちなみに温恢死去により不在となった涼州刺史には諸葛亮のマブダチである孟建(モウケン)が選ばれ、立派な統治を行ったとされています。

続きを読む≫ 2017/12/19 22:53:19

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:兗州山陽郡昌邑県

 

涼茂

 

涼茂(リョウモ/リョウボウ)、字は伯方(ハクホウ)。間違ってもハカタではない

 

この人物は略歴も簡単に流れるだけ、素性も人物像も不明と謎の多い人物です。しかし、暴君タイプにもしっかり直言し、しかも気に入られるところを見る辺り、間違いなく優れた人物……のはず。

 

 

というわけで今回は涼茂伝。見ていきましょう。

 

 

 

 

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暴君すらも認めさせる知識人

 

 

涼茂は若い頃から学問が好きで、議論の際には古書を持ち出し、それを元に価値判断をするなど、儒教らしい古風な人物だったようです。

 

 

そんな評判を聞いた曹操(ソウソウ)は、ある時涼茂を招聘。司空掾(シクウノエン:土木治水などの民事を司る官僚部署の役人)となり、非常に優秀な成績を上げたため侍御史(ジギョシ:官僚内部の監察官)として取り立てられることになりました。

 

 

その後、涼茂は泰山(タイザン)郡の太守としてその地に赴任。当時泰山は大勢の盗賊や山賊でひしめく無法地帯でしたが、涼茂が赴任すると、その様子は激変。一年足らずの間に、幼子を連れた母親が千以上も泰山を目指してやってくるほどの安全地帯へと早変わりしていたのです。

 

 

 

その後、現在の朝鮮半島北部にある楽浪(ラクロウ)の土地の太守として北に渡ることになりましたが、その途上、遼東半島に一大勢力を築いて一応は曹操に従属していた公孫度(コウソンド)という人物に呼び止められてしまいます。

 

公孫度は遼東の名家を次々潰して自分に権力を集め「遼東王」を自称する集権国家の長で、実は裏で曹操に反攻しようと考えていたのです。

 

 

涼茂も公孫度により無理矢理配下に加えられる形になりましたが……涼茂はそんな公孫度に媚びる姿勢は見せなかったのです。

 

 

 

ある時、そんな公孫度が「曹操は遠征に出て、その遠征軍本拠地である鄴(ギョウ)は兵数が少ない。これこそ攻め込む好機だ」と述べ、曹操への叛逆を明確に示唆する発言をしました。

 

そんな公孫度に、重臣たちは「おっしゃる通りです!」とゴマをすり、野心家である公孫度に逆らおうとしませんでした。

 

 

しかし、公孫度は涼茂に対し意見を聞くと……涼茂はこの実質的に独立国家の王である公孫度に、真っ向から反論したのです。

 

曰く、

 

曹操様は天下の動乱を憂い、兵を挙げて戦っておられます。それが実り、今ようやく情勢は落ち着いてきたところなのです。世を乱さぬため、曹操様は公孫度将軍の行動に目をつむっておられますが、その上でもし直接刃を向けたとあれば……結果は夜が明ける前にでも出ることでしょう」

 

 

 

涼茂の真っ向からの反論に、震えおののく家臣団。しかし公孫度はしばらく押し黙ると、「その言はごもっともだ」と納得し、結局曹操との戦いは取りやめたのです。

 

 

 

その後涼茂は朝廷からの招きで曹操の影響下に帰還し、魏郡太守、甘陵国相(甘陵国の大臣)などを歴任。

 

曹操の息子の曹丕(ソウヒ)が五官中郎将(ゴカンチュウロウショウ:近衛隊指揮官)に任命されると長史(チョウシ)、その後左軍師(サグンシ)となって曹丕を支えます。

 

 

さらには魏国が建立されると尚書僕射(ショウショボクヤ:勅使を司る省の次官)に昇進し、その後は中尉(チュウイ:国防省の次官のような立場)と奉常(ホウジョウ:儀礼、儀式を司る高級官僚。太常とも)を兼任することになりました。

 

 

その後何かの功績を残した記述はありませんが、在官中にそのまま亡くなったそうです。

 

 

 

 

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本当に公孫度との話はあったの?

 

 

 

さて、涼茂の記述の中で目玉となる部分は、やはり公孫度を諫めた点に限るでしょう。

 

 

しかし、この逸話……どうにも嘘くさい

 

 

 

骨組みだけだった正史三国志に様々な逸話を継ぎ足した裴松之も、「曹操が鄴を落とした年に公孫度は亡くなっている。遠征はそこから年をまたぐことにないるため整合性がない」と指摘しています。

 

 

こういう事もあり、彼の息子の公孫康(コウソンコウ)との逸話というのが正解なのではないかとも指摘する説はありますが……結局のところ、現存する史書ではどうとも言えないのが現状。

 

 

結局、この逸話の出所はどこなんでしょうか?

 

 

 

ともあれ、その政治手腕は微妙としか言いようがない史書からでもきちんと伝わる辺り、やはり文官としての力量は本物と見るべきでしょう。

 

さらには気難しいとされる曹丕とも仲良くやっており、曹丕が帝位に就く前には政治の補助指導の役目も負っていましたし、『英雄記』では曹丕の八人の友人の一人に数えられています。

 

こういうタイプの人物と仲良くできる辺り、人格面も相当優れていたのではないでしょうか。

 

 

 

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続きを読む≫ 2017/11/27 17:06:27

 

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:青州安楽郡蓋県

 

 

国淵

 

 

国淵(コクエン)、字は子尼(シジ)。政治手腕も実に見事なものですが、何より手柄の水増しについてきっちり言及しているこの人の正論ぶりが見てて楽しいです。

 

まさに中国式の誇張術を張っ倒す正論と清廉の権化です。

 

 

というわけで、国淵の人物伝、追ってみましょう。

 

 

 

 

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学術家にして屯田布教者

 

 

国淵はもともと青州の出で、有名な学者である鄭玄(テイゲン)から学問を教わっており、一説には鄭玄から「国家に関わる政治家になる逸材」と称されていたとか……。

 

 

さて、そんな国淵ですが、黄巾の乱が勃発して地元の青州が黄巾軍の根城になってしまうと、地元を離れ、はるか北方の遼東の地へと疎開。

 

戻ってきたのは、曹操(ソウソウ)によって地元の混乱が治まった後でした。

 

 

帰郷した国淵は、曹操に乞われてさっそく彼に仕官。漢室の司法関連の仕事に携わることとなったのです。

 

 

 

こうして朝廷の臣であり曹操配下という立ち位置で仕事に励んでいた国淵ですが、ある時曹操から一つお願い事をされます。

 

 

「我が軍で大成功した屯田政策を、もっと広範囲に広めていきたい」

 

 

曹操から直接頼まれた国淵は、さっそく土地の地質調査を開始。

 

屯田に向いており利益が望めると確信した土地には実際に民衆を住まわせ、人口ごとに区分けして官吏を設置し、成績評価制度も導入……と、こうして国淵は次々と政策を推し進めていったのです。

 

 

 

そして五年の月日が流れると……

 

 

 

 

 

 

 

国淵の屯田政策は大きな成果を上げて、倉は農作物であふれかえり、人々は公正な成績制度のもと競うように作物を育てるという……まさに笑顔の絶えない、理想の職場を築き上げたのです。

 

 

 

 

誇張は計画的に

 

 

 

建安16年(211)、曹操は反乱を起こした馬超(バチョウ)、韓遂(カンスイ)らの討伐に乗り出し、自ら軍を率いて西方に旅立っていきました。

 

 

この時、国淵は居府長史(キョフチョウシ)という政務代行職を臨時で授かり、曹操の留守の間官吏の統括をするようになりました。

 

 

さて、そんなある日のこと、曹操留守中の中央では反乱が勃発。しかし曹操軍の居残り勢によって、この反乱はすぐに片付けられたのです。

 

国淵はこの反乱の報告を曹操に行いましたが、この時曹操には、「首謀者以外は殺さないようにお願いします」と嘆願。曹操はこれを聞き届け、千人以上に上っていた処刑予定者のうち、死刑が遂行されたのは首謀者の二人だけという結果に終わったのです。

 

 

 

さて、この話はこれだけではありません。曹操は国淵の報告の中で一つ、気になる部分がありました。

 

 

「報告にある敵の数と撃破数が少ないな……」

 

 

そう、当時は手柄や主家の業績の水増しのため、兵数はなんと十倍ともいわれるほどの数を誇張して記すのが普通だったのです。が、国淵の報告書には、まるでその痕跡がない。

 

気になった曹操は、国淵に何故か訪ねてみます。すると、国淵から返ってきた答えはこちら。

 

 

そもそも誇張して撃破数を記す理由は、「外敵を打ち破った」ことを民衆に誇示するために他なりません。

 

今回は完全に領内で起きた反乱ですし、これを誇張して書くのはそれだけ主家に逆らう者が多いことにつながります。叛逆者が多いことは、それだけ恥というのが私の考えです。

 

 

つまり、なんでも水増し誇張すればいいというわけではないというのが国淵の持論ですね。

 

どうにも誇張癖があるのがこの手の史書だったり戦時の国家だったりしますが……国淵は誇張する意味を明白に捉え、効果的な場所でしっかり誇張して書いてやるべきだというわけです。

 

 

ともあれ、この答えを聞いて大いに気に入った曹操は、国淵を魏のお膝元ともいえる魏郡太守に任命したのです。

 

 

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名探偵国淵?

 

 

さて、これまたある時のこと。曹操の政治のやり方が気に食わず、匿名の投書で政治批判を行う者がいました。

 

 

表現の自由が認められた昨今はともかく、当時はお上の意見は絶対。政治批判も、立派な犯罪だったのです。

 

さらにその批判文書には、「二京の賦(ニキョウノフ)」という、昔の文学者が遺した作品の引用が多く使われていました。

 

 

 

これを知った曹操は激怒。「どうしても犯人を特定したい」と考えるようになったとか。

 

 

そこで調査に乗り出したのが国淵。

 

 

彼は昔の文学が引用されていたのに目をつけ、「犯人は教養ある身分」と断定。「学問を浸透させるため」というお題目で部下に命じ、学術に優れた若者を連れてこさせます。

 

 

こうして郡内をくまなく探した結果、集まった若者は三人だけ。当時学問ができる人々は限られており、この時点で犯人はかなり絞られていたのです。

 

 

その後、国淵は三人の若者に向かって二京の賦を取り出し、若者たちにこう言い聞かせました。

 

「今まで勉強したものの中にはなかっただろうが、この二京の賦は素晴らしい文学である。にも関わらず、みんな粗末に扱っていてな。そこで今回、この二京の賦をテーマに勉強を開きたい。そこで、これが読める先生を探しているのだが……誰かいい人がいないか探してみてくれないか?」

 

 

つまり、見どころある若者の先生役というお題目で、犯人を絞り込もうというわけですね。

 

 

こうして先生役を探して出かけて行った若者たち。彼らが容疑者を特定するのは、それから十日後のことでした。

 

 

早速、若者たちはその容疑者を師として勉学に向かっていきましたが、国淵はこれを引き留めず、逆に役人を容疑者に派遣し、頼み込んで文書を書いてもらうようお願いしました。そう、これは筆跡鑑定のための証拠入手が目的だったのです。

 

 

保存していた批判文書と容疑者の文の鑑定結果は、黒。完全に犯人のものと一致していました。

 

 

これにより十分な証拠を提示したうえで、容疑者の男を無事に逮捕。後に男は犯行を認め、無事に事件解決に至ったのです。

 

 

 

 

とまあこのように文官としての知恵と探偵力に非常に優れた国淵でしたが、太僕(タイボク:高級官僚。牧畜業や軍馬生産を統括)にまで上り詰めましたが、在職中に死去。子の国泰(コクタイ)も曹操によって任用されたそうです。

 

 

 

 

十倍ってすごくね?

 

 

中国ではこの後もたびたび史書や国による誇張がなされてきますが……十倍とかマジかよ……。

 

 

いや、兵を多く見せるとか示威行為での水増しというのは良くある話ですが、よもや史書だけでなく当時の事後報告までそれが普通というのは素直に驚きです。

 

 

さて、そんな国淵の人となりですが……ズバリ、清貧で謹厳実直。

 

 

法務官として仕えていた時も議論では厳正な態度で臨み、しばしば本音を語ったそうですが、それでも議論が終わってまで恨みつらみを持ち出すことはなかったそうです。

 

晩年には大臣クラスの官位にまで上り詰めていますが、やはり贅沢は一切せずに、粗末な衣服に身を包んで、食べ物も贅沢とはかけ離れていました。金にもまったくの無頓着で、得た給料も余ったものは親族や友人のために使ったとありますね。

 

 

事績だけを追うと「おべっか使いの太鼓持ち」と見えてしまう部分もありますが、こういった私生活の記述を見るに、明らかにそういった輩とは真逆。私利私欲をそもそも持たない功利主義者とでもいうべき姿が想像できそうです。

 

 

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続きを読む≫ 2017/11/19 18:02:19

 

 

生没年:?~建安14年(209)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国

 

 

史渙 曹操 魏 まとめ役

 

 

 

史渙(シカン)、字は公劉(コウリュウ)。この人は韓浩(カンコウ)と1セットで、夏侯惇(カコウトン)伝のついでに語られている人物ですね。

 

 

曹操(ソウソウ)の黎明期は意外にも振るわず、宦官の孫だと周囲に馬鹿にされるわ、現に集めた兵士は反乱を起こすわ……そんな散々な状況にあったためか、群雄としてある程度力をつける前に配下となった人はそれほど多くはありません。

 

 

史渙は、正式な部下とは違えど、そんな曹操の貴重な協力者の一人でした。

 

 

 

 

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曹操の旗揚げにふらっと参上

 

 

史渙は若い頃、遊侠の徒としてその男気を周囲に知られていました。要するに、任侠系のヤクザのような人物だったわけですね。

 

 

 

さて、そんな地元の親分だった史渙でしたが、ある時、曹操が自らの軍を立ち上げた時にどこからかふらっと参加。

 

 

元々交友があったのかドラマティックな出会いがあったのか、はたまた面白半分かは史書の文面では伺い知れませんが……とにかく、史渙は曹操がまだまだ群雄として無力だったころからひょっこりついてきた人物の一人だったのです。

 

 

しかし、この時の史渙の立場はあくまで客分。あくまで一時的な協力者といった感じのゲスト参戦でした。

 

 

ともあれ、こうして曹操軍にひょっこりついて行った史渙は、中軍校尉(チュウグンコウイ)、本隊の指揮官の一人を代行する形で彼に協力するようになったのです。

 

 

 

何故ゲスト参戦という方法を選んだのかは定かではありませんが……おそらくは曹操軍の成長を見守ると同時に、使えるに値するかどうかを見極める意図があったのでしょう。

 

 

かくして史渙は、曹操軍に加入。そして後年には正式な配下として曹操に仕え、その覇業を手伝うことになりました。

 

 

 

 

 

曹操配下の監督役として

 

 

 

さて、接点のほとんどない史渙と韓浩がセットで語られるのには、当然理由があります。

 

実は双方とも、方や中領軍、方や中護軍と肩書や階位は違えど、どちらも近衛兵の司令官にして諸将の監督、緩衝役という役割を担っていたのです。

 

 

というわけで、史渙は曹操配下となった後も監督役として各地を転戦。本人の伝には記述はありませんが、他の武将らの様々な伝で彼の活躍が記されています。

 

 

 

主な活躍としては、建安4年(199)。袁紹(エンショウ)領との緩衝地帯で起きたゴタゴタを発端とした、彼との決戦の前哨戦に史渙の名前が出てきます。

 

この時、眭固(スイコ)という人物が袁紹の陣営に付こうとし、これを阻止すべく曹操は討伐軍を派遣。曹仁(ソウジン)、楽進(ガクシン)といったそうそうたる面子がこの戦いに参加していますが、史渙も彼らと共に軍に参加、曹仁らと連携して眭固を討ち取っています。

 

 

 

その後、官渡の戦いでも、荀攸(ジュンユウ)の策により徐晃(ジョコウ)と共に袁紹軍の輜重隊を攻撃。兵糧を収奪し、軍需品を焼き払うのに一役買っています。

 

 

 

その後も建安12年(207)の烏丸討伐にも参加。この時はあまりに危険な行軍に難色を示していましたが、取りやめを打診しようとした際に韓浩の説得を受けて渋々承諾し、結果的に大勝利を収める形になりました。

 

 

 

しかし、その後は史書からも姿を消し、二年後の建安14年年に病によって世を去りました。

 

 

後に息子の史静(シセイ)が彼の跡を継ぎましたが……さすがに中央勤務の近衛隊が華々しい活躍を上げることもそうそうなく、史静の活躍はイマイチ伝わっていません。

 

 

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続きを読む≫ 2017/11/19 16:43:19

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:司隷河内郡

 

 

韓浩 屯田 魏 護軍 夏侯惇 万能選手

 

 

韓浩(カンコウ)、字は元嗣(ゲンシ)。正史では、夏侯惇と一緒に軽く記述が述べられています。

 

正史三国志では、本当、史渙(シカン)という人とまとめて、「忠義と武勇で有名で、列侯に封じられた」と数行でさらっと流されている人物ですが……彼の活躍の詳細は、三国志が編纂された遥か後に、魏国の人々をとにかく正義の集団としてまとめられた『魏書』に、その仔細が描かれています。

 

 

 

 

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地元の名将

 

 

世の中が荒れ狂って治安が乱れる中、韓浩の故郷周辺では山賊が闊歩。というのも、身を隠すのにちょうどいい山林地帯が近所にあって、その近辺を根城に暴虐を尽くしていたのです。

 

「これはいかん」と思った韓浩は、人々に呼び掛けて自警団を結成。村々を荒らしまわる山賊から、自分たちの故郷を守ろうと動いていました。

 

 

その後初平元年(190)、都で董卓(トウタク)の専横が起こると、諸侯はこれをゆるさじと連合を組んで董卓に敵対。地元の太守に任命されていた王匡(オウキョウ)も、この反董卓連合軍に加わり、董卓と抗戦する構えを見せたのです。

 

そこで戦力を必要とした王匡は韓浩の噂を聞き、彼を起用。孟津(モウシン)の地へ向かい、董卓と激しく交戦するようになりました。

 

 

 

この時、韓浩を恐れた……かどうかは不明ですが、彼を牽制しようと、董卓は韓浩の叔父を捕縛。人質に取り、韓浩を味方へ引き込もうと考えます。

 

 

しかし、韓浩は脅しに屈さず、董卓の「味方になれ」との要求を拒否。董卓との戦いを継続します。

 

この韓浩の行動は「正義の行動」として知られるようになり、後にこの話を耳に入れた味方諸侯の袁術(エンジュツ)によって騎都尉(近衛兵長)の官職を与えられました。

 

 

 

 

夏侯惇の腹心として

 

 

その後、反董卓連合軍は諸侯の不仲によって空中分解し、王匡もその後のゴタゴタに巻き込まれて命を落としてしまいます。

 

これによって主君を失った韓浩でしたが、次の士官先はあっけないほどすぐに見つかりました。

 

 

曹操軍の腹心・夏侯惇(カコウトン)が韓浩の噂を耳にして、「お前と少し話がしてみたい」と面会を要望。韓浩もこれを承諾し、二人は少しばかり話し込んでみることになりました。

 

韓浩と会って直接議論を交わしてみた夏侯惇は、その才能を絶賛。すぐさま韓浩を取り立て、側近として兵の統率を任せるようになりました。

 

 

 

その後、夏侯惇の主君である曹操が外征のため留守にしている隙を突いて、兗州の諸侯が呂布(リョフ)を迎え入れて反旗を翻し、戦火は曹操の領土全体に拡大。

 

さらには、「これはいかん」と別所にいる曹操の妻子を救出に向かった夏侯惇が、ヒロイン力を発揮ドジを踏んで敵につかまるという大惨事に陥ってしまったのです。

 

 

呂布の兵たちは、夏侯惇を人質にとって「オラ、飯と財宝出せやコラ!」と曹操軍を脅迫し、曹操軍は「夏侯惇将軍が捕らえられた!」と大混乱に陥りました。

 

が、ここで顔を出したのは韓浩でした。彼は兵士たちに「動くな」と命じ、呂布軍兵士の前に姿を現すと、「一勢力の大将軍をとらえて脅迫するとは極悪人め、生かして返さんぞ! 将軍を捕らえたとて見逃されると思うな!」と大音声を張り上げ、夏侯惇に「国法です。申し訳ございません」と涙目で詫びながら呂布軍を威嚇射撃。

 

 

略奪成功を確信していた呂布軍兵士は、まさかの対応に大慌て。人質の夏侯惇の事も忘れ、見事な土下座で命乞いをします。

 

韓浩は、そんな呂布軍兵士をみて怒りの言葉をぶちまけ、バッサリと一刀両断。この活躍により夏侯惇は救い出され、曹操もこれを聞いてご満悦。韓浩の一連の厳しい態度は、おふれによって人質を取られたケースの模範解答として取り扱われました。

 

 

 

 

曹操の直属配下として

 

 

法令順守の態度が気に入られてか、この後韓浩は、曹操の直属へ配属を変更。

 

 

そしてある時、曹操は「政治の利害」というお題目で部下たちの政治意見を聞くことにしたのです。

 

この時韓浩は、棗祗(ソウシ)といった人物らと共に屯田(軍用の農地)政策の実施を急ぐよう提案。始め曹操は乗り気ではありませんでしたが、この屯田政策が後々とんでもない利益を生み出すことにつながったので大喜び。すぐに韓浩を護軍(ゴグン:各軍の監督、緩衝役)に任命し、以後韓浩は曹操軍の護軍の地位が定着するようになったのです。

 

 

 

建安12年(207)年には、精鋭の騎馬を率いる異民族・烏丸(ウガン)の征伐に従軍。正直なところ乗り気でなかった史渙は韓浩に相談し、曹操の烏丸討伐を考え直してもらおうとします。

 

が、韓浩はむしろこの征伐に賛成意見で、逆に史観を説得。

 

「今、我々は強敵を打倒し勢いに乗っている。烏丸は強敵だからこそ、この勢いに乗ったままに倒さなければ、いつかは害悪になるだろう。そんな中で、我々がその勢いを挫くのはよろしくはなかろう」

 

結局史渙は韓浩に押されて何も言わず、烏丸討伐は予定通り結構。まさかの大勝利を上げて、曹操軍は北方の憂いを断つことに成功したのです。

 

 

 

その後の韓浩は、建安20年(215)に名前のみ出てくるだけで、他の事績は一切不明です。

 

ただ、曹操が彼の死を惜しんで、子がいなかったのに家を取り潰さず養子に継がせたとあります。この事から、韓浩の死は少なくとも曹操より前であることが推察されますね。

 

 

 

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曹操の護軍

 

 

さて、では最後に、建安20年、韓浩の名前がさらりと上がったときの逸話をご紹介しましょう。

 

 

この年、曹操は張魯(チョウロ)を降伏させて、益州の玄関口・漢中を手に入れた。

 

この時誰が漢中に残って守りを固めるかで議論になったが、人々は「知略に優れており、周囲を安んじるための役割に不足はない」として韓浩を推挙。

 

 

しかし曹操は「韓浩以外にわしの護軍は務まらん」と主張した。

 

結局、断固として韓浩を漢中に残そうとせず、鄴(ギョウ)に帰還する際に彼を伴って帰っていった。

 

 

つまるところ韓浩は、独立部隊を引きさせるのではなく、手元に置いて直属軍を統率させたいと言わしめるほどの逸材だったようですね。

 

そのくせ知名度が妙に低いですが……やはり護軍は後世から見た華々しさに欠ける役職だったのか……

 

 

 

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続きを読む≫ 2017/11/17 20:06:17

 

 

生没年:?~建安15年(210)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

曹純 騎兵 騎将 虎豹騎 名将 騎馬隊

 

 

 

曹純(ソウジュン)、字は子和(シカ/シワ)。曹操(ソウソウ)の従兄弟、同時に曹仁(ソウジン)の弟であり、曹一族おなじみの「やたらハイスペックな名将」の一人で、曹仁伝の付録として彼の伝も残っています。

 

北方の遊牧民族ともガチンコ勝負で競り勝てるだけの精鋭騎馬隊を率いており、曹操からも「無類の騎馬指揮官」として評価されていた人物なのですが……どうにも活躍時期が短いのがネック。

 

 

純粋な能力、功績だけならばメディアでもある程度以上の人気を博すこともできたのでしょうが……彼の場合、人気以前に認知度を上げるための活躍期間が短かった!

 

 

今回はそんな悲しみを背負った、曹純の記述を辿っていきましょう。

 

 

 

 

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曹仁を差し置いて……

 

 

 

曹純は十四歳のころに父親を亡くし、曹仁を差し置いてその家業を継ぎました。

 

というのも、曹仁はこの頃、超ヤンチャな不良少年。すでに家を出て行って好き勝手暴れ回っており……おそらく親族も彼では不安なため、曹純を後継ぎに据えたのでしょう。

 

 

というわけで裕福な家庭を築いた父の跡を継いで、そのまま家を切り盛りすることになった曹純ですが……後漢末の武将をまとめた『英雄記』によると、その手腕は実に見事な物だったと言われています。

 

数百人という数の召使や食客を規律正しく監督し、筋を通して管理していた為、彼の有能さは周囲の認めるところだったとか。

 

また、学問も好きで学者を家に招いて講座などもしてもらい、学者を敬愛したため、曹純は学問の道でも人気者になったようです。

 

 

 

さて、こうして若いながらにしっかり家を切り盛りしていた曹純は、十八歳になると黄門侍郎(コウモンジロウ:勅命の伝達係。立派な官職)に任命され、役所勤めをスタート。

 

しかし二年後、二十歳になる頃には曹操の配下として彼の募兵に同行。以後は曹操の一族兼配下として、彼の戦いに参加するようになったのです。

 

 

 

 

虎豹騎無二の指揮官

 

 

虎豹騎(コヒョウキ)と言えば、ごくたまーにメディアでも登場する、曹操軍の最精鋭騎馬部隊です。

 

その指揮官も選りすぐりの人物でなければならず、「百人の将校の中から一人を選抜することもあった」とも記載されており、曹純以前では、曹操の息子同然の曹休(ソウキュウ)、曹真(ソウシン)が率いていました。

 

が、領土が広がり戦火が増えるにつれ、彼らとは別の指揮官をつけようと曹操は考えました。

 

 

当然、凡庸な将軍では務まらない大役で、なおかつすでに大身となっている曹操配下の将を指揮官に回し、布陣に穴を作るわけにもいきません。

 

 

散々頭を抱えて悩んでいた曹操ですが、悩みぬいた果てに白羽の矢が立ったのが、曹純でした。

 

 

 

そして曹純が虎豹騎を率いるようになると、大変部下をかわいがり、しっかりと能力を活かすように指導。兵たちもそんな曹純を信頼し、いつしか虎豹騎はしっかりと統率のとれた最強軍団となっていたのです。

 

 

 

 

 

虎豹騎無双

 

 

さて、そんな曹純の虎豹騎隊が最初に史書に名を挙げたのは、官渡で敗れた袁紹(エンショウ)の病没後、跡目争いを起こした袁紹の息子たちを攻撃した時のことです。

 

曹操は一度和睦したものの裏切った袁紹の長子・袁譚(エンタン)を攻め上げ、本拠地・南皮(ナンピ)に追いつめました。

 

 

が、腐っても袁紹の息子。袁譚らの激しい抵抗に曹操軍の被害は甚大。あと一手というところがなかなか決まらない状況でした。

 

 

「一度出直そうか……」

 

 

そう考えていた曹操ですが、曹純はこれに反対し、以下のように意見します。

 

 

 

「今、我が軍は遠征軍としてここに居ます。遠征の失敗は威信にかかわり、ここで失敗を認めれば威光は失墜し災いを招くでしょう。
幸い、勝ちに乗った敵は浮かれており、我が軍は敗北で慎重になっています。今浮かれている敵を叩けば、必ず勝てるでしょう」

 

 

この曹純の意見を聞いた曹操は、南皮の城を猛攻。曹純も虎豹騎を率いて城内に突入し、敵大将である袁譚を討ち取ることに成功したのです。

 

 

 

その後、後継者争いを起こしていた三男の袁尚(エンショウ)が、曹操に追いつめられて北方の騎馬民族・烏丸(ウガン)と同盟。

 

精強で知られる烏丸族の騎馬隊は曹操と敵対し、根城に軍を構えます。

 

 

対する曹操は、参謀・荀彧(カクカ)の「兵は神速を貴ぶ」の助言を受け、騎馬隊などの少数精鋭を率いて五百里にもなる悪路を走破。

 

 

補給も無し、疲労困憊という状況で烏丸の精鋭部隊と対峙してなお、曹純は名将・張遼(チョウリョウ)と共に討伐軍の中核として敵陣を散々に打ち破ります。

 

曹操が敵を騙して油断させていたというのも大きいですが……相手は騎馬戦のエキスパート。それを打ち破るなんて何者……。

 

 

 

ともあれ、こうして烏丸の陣営を突き崩していき、ついに曹純率いる虎豹騎は烏丸の単于(王)である蹋頓(トウトン)を捕縛。名のある将も多数打ち破り、曹操軍の大勝に華を飾ったのです。

 

 

こういった活躍もあって、曹純は高陵亭侯(コウリョウテイコウ)の爵位と領土を与えられ、諸侯のうち一人に封ぜられました。

 

 

 

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その死はあまりに早すぎた……

 

 

その後南に兵を向けた曹操ですが、曹純の虎豹騎はここでも顔を出します。

 

 

荊州の相・劉琮(リュウソウ)が降伏したことにより、その客分で曹操と敵対していた劉備(リュウビ)が逃亡。曹純の虎豹騎は、逃げる劉備を猛追し、劉備軍を壊滅。さらには大量の輜重、捕虜兵、劉備の二人の娘までもを確保し、悠々と南へ向かって大都市・江陵(コウリョウ)を手中に収めたのです。

 

 

しかし、後の赤壁の戦いでは曹操軍は惨敗。逃げる曹操の護衛をしつつ本国まで無事に逃げ帰りますが……その二年後、曹純は若くして死去。

 

虎豹騎の最適な指揮官を失った曹操はこの死を嘆き、「奴ほどの適任は二度と現れまい」と判断し、以後は自分自身が虎豹騎を率い、後任を充てなかったそうです。

 

 

後は息子の曹演(ソウエン)が継ぎ、後に将軍職に就いて爵位も上がったそうですが、この息子についてはどんな人物だったかは不明です。父の風格があったか、はたまた単なる七光りか……

 

 

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続きを読む≫ 2017/11/16 13:01:16

 

 

生没年:?~?

 

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

勝手に私的能力評

 

許褚 魏 曹操 癒し系 虎痴 驚異の予知能力 怪力 化け物 個人武勇最強候補

統率 C 部隊指揮のイメージはないが、実は曹操親衛隊を率いて結構活躍している。
武力 S 睨むだけで馬超がビビッて警戒した。
知力 D+ 頭のいい逸話は見つからないが、直観力だけでいえば間違いなく特上クラス。
政治 E 護衛に政治力など不要!
人望 C 主君からの寵愛が厚く、名声もあった。ただし馬超の言葉からも、本名より虎痴のあだ名のほうが独り歩きした可能性が……

 

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許褚(キョチョ)、字は仲康(チュウコウ)。典韋(テンイ)に続く、曹操の大事なボディガードですね。

 

「戦場では虎のように猛々しいが、何もないときはボーっとしている」という意味合いから虎痴(コチ)というあだ名が付けられており、おおよそ小説やゲームなどの媒介でもそれに準じたような性格で登場していますね。

 

 

そんな許褚ですが、主には曹操のボディガードという限定的な立ち位置にありながら、独自の伝をあてがわれています。

 

 

今回は、そんな彼の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

怪力無双

 

 

許褚は、実は曹操に仕える前からすでに戦いの経験があります。

 

というのも、許褚が初めに名を挙げたのは、自衛軍として独自の軍勢の一長としてのこと。

 

 

許褚の率いていた軍勢は、一族や付近の若者を集めた千世帯余りと言われています。それぞれが手を取り合い、防壁などを作って山賊たちから自分たちの土地を守って暮らしており、軍勢というよりは自衛のための武装農民といったところでしょうか。

 

 

これまで襲撃を統べて撃退し、ある程度平穏に暮らしていた許褚たちですが、ある時、汝南(ジョナン)の葛陂(カッピ)という土地を荒らしまわっていた大規模な賊軍1万余りに攻め込まれ、村落は危機を迎えていました。

 

 

許褚らは自分たちをはるかに上回るこの大軍相手に奮戦しますが、所詮は多勢に無勢。民兵たちは疲労困憊し、武器の備えも枯渇。さらには蓄えた食料も底を尽き、いよいよ対抗できないでいたのです。

 

 

そんな折、許褚はいよいよ動きます。まず、村落の男女に命じて、升や湯飲みサイズの大きな石を砦の四隅に配置させます。

 

許褚は医師の準備を見届けると、自ら敵軍に向けて投石を開始。石の大きさと許褚自身の並外れた膂力によって生み出された破壊力は、当たった者を文字通り粉砕し、敵軍を恐慌させて攻めの手をパッタリ止めさせるほどだったと言われています。

 

 

その後、食料が尽きかけているため持久戦は不可能と判断した村落は、山賊勢力との和睦を決意。敵との取引のため牛を一頭用意し、使者として許褚が赴きます。

 

しかし山賊の持っていた食料と牛を交換し、さあ帰ろうかという途中、山賊に渡した牛が突然暴れ始め、許褚たちの元へ帰ってきてしまったのです。

 

 

とうとう逃げ帰ってきた牛を見て、許褚は山賊の元に再び送り届けようとしますが……この時の方法がとんでもないものでした。

 

 

なんと許褚は、片手で牛の尾を握りしめ、そのまま引きずって山賊たちに牛をデリバリー。実に100歩ほど、あの牛を生きたまま引きずり回したというのだから驚きです。

 

 

そんな許褚を見た山賊たちは、それはもう目玉が飛び出るくらい驚愕したことでしょう。事実、牛の受け取りを丁重にお断りし、そのまますごすごと逃げ帰ったそうです。

 

ちなみに許褚の馬鹿力は周辺にも噂になり、周辺では許褚はたいそう怖がられたとか何とか。

 

 

 

 

 

曹操軍の衛士として

 

 

 

曹操(ソウソウ)が許褚の住んでいる付近を手中に収めると、許褚は曹操に帰順し、そのまま仕えることになります。

 

この時曹操は、「我が樊噲(ハンカイ:漢の高祖・劉邦の衛士)」と称し、即座に自身の宿直警護に任命。さらには許褚が率いていた面々を虎士(コシ)と呼び、彼らも近衛兵として取り立てられました。

 

 

その後の張繍(チョウシュウ)征伐の折には、先陣を率いて五桁というおぞましい敵を討ち取るという意味不明獅子奮迅の働きを披露し、曹操の言う樊噲の名は飾りではないことを証明。校尉(コウイ)として指揮官にも抜擢されています。

 

 

その後、袁紹(エンショウ)との間で起きた官渡(カント)の戦いにも従軍。

 

 

 

袁紹が亡くなると、その本拠であった鄴(ギョウ)を攻め立てる際にも力戦奮闘し、許褚は曹操に気に入られたまま関内侯(カンダイコウ)という爵位を与えられ、諸侯に封ぜられました。

 

曹操からの信頼が厚く、しかもそれに全力で応える許褚の姿がよくわかります。

 

 

 

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衛士の第六感?

 

 

さて、許褚が諸侯に封ぜられる前……だいたい記述からして官渡の戦いの戦いの前後でしょうか。

 

曹操に随行する兵士に徐他(ジョタ)という者がいて、彼は誰かの意思か自分の考えか、曹操を暗殺しようと計画を練っていました。

 

 

しかし、曹操の近くに侍っているのは許褚。やたら腕っぷしの強い怪力の勇士がいる以上、暗殺の成功率は低く、徐他は行動に二の足を踏んでいました。

 

 

 

そこで、許褚が休暇の間にひそかに曹操を討ち取ろうと徐他は思いつきます。

 

 

許褚の動きをしっかりと観察し、休暇中に許褚が外に出るのを見計らって、徐他はついに暗殺を決行。短剣を懐に隠し、曹操のいる幕舎へと突入。そこで徐他は信じられないものを見て愕然とします。

 

 

なんと、休日で外に出かけていたはずの許褚が、どういうことか曹操の護衛についていたのです。

 

 

実は許褚、この日は休暇のため外出しようとしていたのですが、何やら妙な胸騒ぎがしたのですぐに戻り、休暇を返上して曹操を護衛していたのです。

 

 

いないはずの許褚を見てうろたえる徐他。その様子を見て、許褚は暗殺計画を勘で察知。

 

 

結局徐他はその場で討ち取られ、曹操はより一層許褚に信頼を置いたのです。

 

 

 

 

 

錦馬超すら脅かす武

 

 

 

それまで同盟関係にあった馬超(バチョウ)らが曹操と敵対すると、許褚もその戦いに名前を出します。

 

 

曹操は川を渡り、背後から馬超軍を攻撃する策を実行に移しますが、その途上、曹操を守るのが虎士隊100人余りと、かなり手薄になっているタイミングがありました。

 

さて、そんな機を見計らってか、突如として馬超が自ら曹操を奇襲。1万の軍勢で手薄な曹操軍を攻め立てます。

 

 

これを見て守り切れないと見た許褚は、曹操に強行渡河を提案。すぐに曹操を船に乗せ、敵の矢を掻い潜りながらの渡河を開始したのです。

 

 

 

この時、死の恐怖を感じた兵士が船に殺到して沈没しそうになりましたが、許褚は船によじ登って来る兵士を斬り捨て、馬の鞍を盾に矢をしのぎながらの逃避行になったと伝えられています。

 

 

さらには敵の矢により船頭が戦死した時には、馬鞍で敵の矢をガードしつつ、空いていた右手で船をこぎ、この活躍で曹操はようやく向こう岸までたどり着けたのです。

 

 

 

後日、策の一環として、曹操は自らほぼ単騎で馬超と会談。この時に曹操は、ボディガードとして許褚のみを随伴させています。

 

 

実は面会に応じた馬超は、この時どさくさに紛れて曹操を討ち取ろうと決意。しかし馬超も許褚の話を聞いており、その武勇を警戒していました。

 

 

そこで馬超は、無暗に動かず、まず曹操に「虎侯っという者がいるらしいが、どこかな?」と質問。

 

 

馬超の質問に、曹操が許褚を指差すと、許褚は馬超をにらみつけて威嚇します。

 

「さすがにこんな奴を掻い潜って曹操を討ち取るのは無理か」

 

許褚の威圧感にそう考えた馬超は、暗殺を断念。結局軽く話し込むだけで、何もせずにその場は解散することになったのです。

 

 

ちなみに「虎侯」という呼び名は、許褚の「虎痴」のあだ名が有名だったためで、馬超がこのあだ名を本名と勘違いしたためとか何とか。

 

 

 

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その後の許褚

 

 

 

馬超と面会した数日後には馬超と本格的に戦い、ここでも許褚自ら首級を挙げて、武衛中郎将(ブエイチュウロウジョウ)に任命されます。

 

この「武衛」という文字は、まさしく許褚のための特別な称号で、彼こそが起源だと伝えられています。武を以って衛る。まさに許褚にふさわしい称号ですね。

 

 

 

法に準ずる誠実な護衛

 

 

陳寿の評によると、

 

許褚は慎み深い事柄で、法を順守し、口数は少なかった

 

とあります。

 

虎痴というあだ名を元から察するに、茫洋としてつかみどころがなく、それでいて節義のある誠実な人物だったのでしょう。

 

 

その性格の一端を表す逸話として、曹操の一族にして重臣である曹仁(ソウジン)とのやり取りがあります。

 

 

曹仁が荊州の任地からはるばる謁見に来た時のこと。

 

曹仁曹操が仕事に来る前に到着してしまったのだが、そのまま政庁の中に入り、宮殿の外で許褚とバッタリ出くわした。

 

 

せっかくだからと「中でちょっと話をしようぜ」と持ち掛ける曹仁だったが、許褚は「王(曹操)はもうじきお出ましになるでしょう。もう少しお待ちください」と言い残し、宮殿内へ。曹仁はこれを快く思えず、内心恨んだとか何とか。

 

 

許褚の融通の利かなさを咎める人もおり、「曹仁様はご一族の重臣でいらっしゃる。そんな人物がへりくだっておられるのに断るとは何事か」と口にした。

 

 

そんな質問に対する許褚の返答は、

 

「ご親族であられる以前に、あの方は外部を守る将軍。方や私は朝廷のたかだか臣下の一人。大勢いる中で談合できれば十分ではないか。個人的な付き合いをする必要がどこにあるのか」

 

 

これを聞いた曹操は許褚をさらに重用し、中堅将軍(チュウケンショウグン)に昇進させた。

 

 

「頭が固い」と言えばそれまでですが、「節義のある男」という見方もできますね。どちらと受け取るかはその人次第……

 

 

ちなみに許褚は曹操が亡くなった後も息子の曹丕(ソウヒ)の護衛として引き続き仕え、曹操が育て上げた魏が漢王朝にとって代わるのを見届け、以後は歴史の表舞台に立つことなくひっそりと史書からフェードアウトしていきます。

 

 

曹操が亡くなったときは吐血するほどに号泣したとありますし……もしかしたら、曹操の死と共に許褚も燃え尽きてしまったのかもしれませんね。

 

 

 

許褚の取り巻き:虎士

 

 

さて、許褚が率いていた近衛隊:虎士についても少々。

 

 

この虎士隊、実はかなりの武芸者揃いだったようで、曹操からは「みんな壮氏」と評され、すでに指揮官クラスの地位にいたようです。

 

 

虎士隊から排出された大物は数多く、高級指揮官である校尉(コウイ)や都尉(トイ)に選ばれたものは100人余り、さらに上の地位である爵位持ちの将軍には数十人が選ばれたと言われています。

 

当然、これらは虎士隊員一人一人が自ら立てた軍功を考慮しての選抜なのだから驚きです。

 

 

曹操軍の「虎」の字がつく部隊は、どうしてこう意味不明な強さを誇るのか……

続きを読む≫ 2017/11/11 18:55:11

 

 

生没年:?~ ?

 

所属:魏?

 

生まれ:冀州鉅鹿郡

 

 

李孚

 

 

李孚(リフ)、字は子憲(シケン)。正直、独立した伝もない(というか賈逵伝の追加資料でついでに記載されている)ような人物で、ゲームでも二流文官、そもそも出てくること自体稀な人物です。

 

そんな人、まだまだ主要人物が書きあがっていない段階で……というかそもそもサイトが完成しても書く人が稀なんですが……まあ、単なる趣味ですね。

 

 

たかだか文官の、それも全体で見ればモブでしかない身でありながら、あの曹操(ソウソウ)を見事出し抜くという逸話を持っていて、それがまた格好いいんです……

 

 

まあ閻行の解説もすでにしてるし、いっか(゜▽゜;)

 

 

 

 

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いい意味で剛情?

 

 

李孚は曹操を出し抜いた逸話ほぼ一本で(他人の伝のついでとはいえ)自身の伝を打ち立てたわけですが……その前にもう一つだけ逸話があります。

 

 

興平年間(194~195年くらい)、李孚がまだ学生の時のこと。

 

この頃、李孚の出身である鉅鹿(キョロク)では飢饉が発生し人々は飢えに苦しんでいました。

 

 

折よくも李孚は当時ニラを育てており、成熟するまで手は付けずにおこうと心に決めていたのですが……周囲は飢饉という有り様。

 

 

当然、ニラの存在を知った人々が李孚の元におねだりに着たりもしたのですが、李孚はあろうことかこれを拒否。

 

「是が非でも成熟するまで手は出さん!」といった姿勢で、自分も食べず人にも配らずという意思を貫いたのです。

 

 

この李孚の姿勢を知った人々は、口々に李孚の態度をうわさ。曰く、「初志をしっかり貫徹する意志の強い人だ」と。

 

 

 

うーん……ん?(;´・ω・)

 

 

 

確かに、「意志を貫く信念の強い人」というプラスの評価を成されるのは納得なんですが……むしろ飢えに苦しんでいる人々からすれば、感じの悪い頑固者。感情的になるあまり、普通はむしろ悪いうわさが広まる可能性のが高いような気もします。

 

 

まあ、学生ってことはそこそこ以上に裕福なのは確定でしょうし、神様的存在の名士だからこそもてはやされたのかなとか思ってしまいます。当時の名士事情は闇が深い……

 

 

 

わたしは ととく リフ

 

 

その後晴れて学を大成させて役人になった李孚でしたが、冀州(キシュウ)を治めていた袁紹(エンショウ)が亡くなり三男の袁尚(エンショウ)が冀州を支配するようになると、彼から主簿(シュボ:秘書官)として仕えます。

 

 

さて、この時袁家では大変なことになっていて、李孚が仕える袁尚と、その兄の袁譚(エンタン)が後継者の座を巡って争っていたのです。

 

 

この時袁尚は、参謀の審配(シンパイ)を本拠地・鄴(ギョウ)に置き、袁譚との抗争に自ら参加。袁譚を圧倒していました。

 

 

が、建安9年(204)、いよいよ押し込まれて後が無くなった袁譚と曹操(ソウソウ)が和睦すると、曹操軍が審配の守る鄴の城を攻撃。

 

本拠地と大事な参謀が敵の攻勢にさらされた以上、袁尚も急いで援軍を編制。自ら鄴城の救援に赴きました。

 

 

が、鄴の守兵はごく少数。曹操軍の包囲も早く、袁尚らが到着した頃には曹操軍は完全に鄴を包囲。審配に援軍の到着を知らせようにも、すでに援軍到着の知らせを届けるだけの隙間は残されていなかったのです。

 

 

このままでは援軍の到着を伝えられず、絶望的な状況に陥った鄴の守備隊の士気は下がるばかり。袁尚は李孚に対して「どうやって援軍到着を知らせる使者を送り込むべきか」と相談しました。

 

 

すると、李孚は「詰まらん奴に行かせても無駄でしょう」と、自ら決死の使者に立候補。自分で信頼できそうなお供を3人選抜し、彼らと共に審配の守る鄴へと馬を走らせたのです。

 

 

とはいえ、馬鹿正直に突き進んでも敵に見つかるのは間違いありません。

 

 

そこで李孚は、敵が牧畜のために草を刈っていることに着目。馬の腹に草木を括りつけて積載し、敵に成りすまし、さらに視界の悪い夜中を選んで曹操軍の陣営に潜入したのです。

 

 

その後、曹操軍の陣営では今度は敵の都督に成りすまして鄴の北門まで向かい、標識や包囲部隊の動きに合わせて徐々に近づき、ついに鄴の門まで密着。

 

城壁の上にいる兵士に縄で引っ張り上げてもらい、ついに鄴城内に入り込むことに成功しました。

 

 

この李孚の行動と援軍到着の報は守備部隊の士気を大きく上げ、太鼓を打ち鳴らして万歳を唱えて彼の行動をたたえたそうです。

 

 

また、まんまとしてやられたことを知った敵大将・曹操は大笑い。「あいつめ、今度はまた何かをやらかして城から脱出するぞ」と語ったそうな。

 

 

 

 

奇策を用いて脱出!

 

 

さて、用事は済んだものの、袁尚の元へ戻るにはまた包囲網を抜けなければなりません。そこで李孚は、城を守っている審配にある策を提案。

 

その内容は、「住民を鄴から脱出させ、敵に降伏させて面倒を見てもらう」というもの。これには、李孚もどさくさ紛れに袁尚の元まで戻ろうという意図もあったと言われています。

 

 

ともあれ、城の食糧も少なくなっていたのもあって、審配は李孚の策を実行。

 

またもや夜中に城を開け放ち、選ばれた数千人の住民の一人一人に白旗と松明を持たせ、3方向の門から一斉に城から飛び出させました。

 

 

敵の包囲軍は、「鄴の城が降伏する」という知らせと松明の火で混乱し、しっちゃかめっちゃかといった様子。

 

 

李孚たちも降伏した住民らと同じ格好をして、またもやまんまと脱出。これには敵大将、曹操も大爆笑で、「やっぱりやりやがった」と手を叩いて大笑いしたそうな。

 

 

 

 

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でも曹操には勝てなかったよ

 

 

こうして無事に袁尚の元まで戻ってきた李孚でしたが、曹操軍は強く、結局袁尚の軍勢は敗走。鄴の城を救う事が出来ず、しかも李孚は袁尚とは離れ離れに。

 

こうなっては仕方がないと、袁尚の兄であり彼の怨敵でもある袁譚に出頭し、今度は平原(ヘイゲン)の都市を任地として彼の主簿に。

 

 

しかしそれも長くは続かず、敵である袁尚を失って曹操と険悪になった袁譚は、曹操に攻め滅ぼされて戦死。大混乱の平原は結局曹操に降伏することになりますが、それでも治安は安定しない有様でした。

 

そこで李孚は、自ら曹操に面会。平原の町の仔細を話します。

 

 

すると、先ほどの奇策で李孚の知略を理解していた曹操は、「李孚の思うままに布告すればいい」と独自判断での指揮を許し、李孚はこれを聞いてすぐに平原に帰還。「各々自分の仕事に落ち着き、他人を侵害しないように」とのお触れを発表。

 

平原が次第に落ち着きを取り戻すと、曹操の元に引き返して復命。

 

この李孚の話を聞いた曹操は「使える……!」とピンときたものの、どうにも悪い評判も目立っていたため、結局李孚は閑職にとどまるだけになったのです。

 

 

しかしその後は順調に出世。ついには地方の事務官から司隷校尉(シレイコウイ:上級役人の統括の役割を担う)まで上り詰めたのです。

 

 

また、70歳という高齢になってでも決断力は衰えず、さらには策略の巧みさも昔そのままだったとか。

 

 

 

 

やっぱりニラの件って悪く言われてたんじゃ……

 

 

正直、彼はほとんど曹操をうまく出し抜いたからこそ仔細の逸話が残っているといっても過言ではありません。

 

実際に私が初めて逸話を見た時は、「なんだこいつはー!!」と衝撃を覚えたものです。

 

 

あの手この手を使って上手く包囲網を潜り抜け、困難を極める往復路をしっかり踏破したのは鮮やかというほかありません。

 

 

 

が、あの曹操が重用をあきらめて閑職に置くほどの悪口が流れていたというのは少し考えてしまいますね……。

 

 

ニラを独り占めするのではなく自分も食べなかった辺り、強欲な小悪党というわけではないのでしょうが、やはり引っかかります。

 

 

李孚さん、頭が良くて機転と大きな肝っ玉を持ち合わせてはいますが、ひょっとして強情さで必要以上に敵を作っていたんじゃ?

 

それこそ……そう、田豊みたいに。田豊みたいに……!!

続きを読む≫ 2017/11/05 23:37:05

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:荊州南陽郡宛県

 

 

 

文聘 魏 驚異のディフェンス 忠烈 江夏

 

 

文聘(ブンペイ、またはブンヘイ)、字は仲業(チュウギョウ)。その名前から、ブンペイペーイという一種の一発ギャグ、後は三国志大戦では「○○ゾイ」という独特の語尾でそこそこ有名な以外、あまり知られていない人物。

 

三国志では同じ地域に居座る定住型と、あちこちで活躍するタイプの人物がいますが……文聘は定住型の人物。よって、ほとんど動かず、荊州、それも長江以北のの範囲内で行動し続けた人ですね。

 

結果として史書にある活躍も少なく、ほとんど目立たない人物となってしまっていますが、それでも少ない事績の中に、並外れた優秀さが隠れようもなく記されているのはさすがといったところ。

 

 

 

 

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忠誠心:∞

 

 

 

文聘は住んでいる地元の近くに割拠していた劉表(リュウヒョウ)に仕えて荊州北部の防衛を担っていましたが、その頃の事績は不明。

 

名前が本格的に上がるようになるのは、建安13年(208)に劉表が亡くなり、後を継いだ劉琮(リュウソウ)が曹操に降伏した時です。

 

 

劉琮は降伏の際、州を上げて一斉に曹操への帰順を示し、それには多くの名士が従いました。

 

そして曹操に引見に行く際、文聘を随伴させようと声をかけたのですが、文聘は「私は、州ひとつ守れなかった将。罰を受けるのは当然でしょう」と拒否。

 

 

結局、他の名士たちが曹操への挨拶を終え、曹操軍が河を渡り、そして曹操の側から呼び出しがあるまで、文聘は曹操の元に出頭しなかったのです。

 

 

 

ようやく姿を見せた文聘に、曹操は「なぜ来るのが遅かったのか」と問いただします。

 

それに対し、文聘は、

 

「主君を補佐し、荊州を死力を尽くして守ろうと考えておりましたが、ついにそれができませんでした。それが悔しく、そして自分をふがいなく思う一心で、お目通りはできなかったのです」

 

と涙を流して受け答えたのです。

 

 

これを見た曹操は感激して「真の忠臣である」と文聘を評価し、礼を尽くして文聘を出迎えました。

 

 

さて、こうして主君ともども曹操の臣下となった文聘は、すぐに曹操の従兄弟である曹純(ソウジュン)と共に兵を率いて出撃。劉琮降伏に際して荊州から逃亡を図る劉備を追撃します。

 

この時は劉備の逃げ足や張飛の機転によって劉備を取り逃がしますが、文聘をすっかり気に入った曹操は、孫権との領土の境目である江夏に文聘を派遣。この土地の太守として、孫権劉備らににらみを利かせる役割を与えたのです。

 

 

 

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江夏の守護神

 

 

さて、こうして江夏の守備を任された文聘は、まず楽進らと共に、荊州に居座る関羽らを撃破。将軍職に昇進します。

 

その後も関羽の輜重を攻撃し、兵糧輸送をしていた船を炎上。後々、関羽が敗死する遠因を作りました。

 

 

曹操が亡くなって、曹丕が文帝に就いた時にはさらに昇進し、一軍を束ねる都督の印である節を与えられます。

 

黄初3年(222)には、魏は呉の軍勢を討つため、江陵の城を攻撃。この時、文聘は別動隊を率いて付近に駐屯。この戦いは結論だけ見ると撃退されることになりますが、文聘の軍勢は来襲した敵部隊を撃退し、局地的な勝利をもぎ取っています。

 

 

 

 

その後、黄初7年(226)年に、文帝・曹丕が崩御。この混乱を聞きつけた孫権は、すかさず5万の兵を率いて文聘の守る江夏に迫ってきました。

 

この時、孫権は文聘の軍勢を取り囲んで猛攻撃を仕掛けましたが、文聘は冷静に対処し、守りを強固に固めます。

 

孫権軍の猛攻は20日余りに及びましたが、ついに音を上げて撤退を開始。その軍勢に対して追撃を仕掛けて損害を与え、孫権相手に完勝。撃退に成功したのです。

 

 

ちなみにこの戦いには異説もあり、こんな話もあるのです。

 

孫権軍が来襲した際は、偶然にも大雨によって、せっかく築いていた防柵が倒れて使い物にならなくなっており、農民も大勢が自身の田畑に散らばっており補修がなされていなかった。

 

そんなピンチの中、文聘は一人、必至に考え抜いて策を練った。

 

その時に浮かんだのが、敵の疑念と警戒心を煽る、俗に空城計と呼ばれる計略である。

 

 

文聘は兵たちに命じて外からの視界を遮り、自身は横になったまま部屋から出なかった。

 

 

この状況を知った孫権は、「こんな辺境を任される文聘は、きっと魏でも信頼されている人物のはず。秘策か援軍のどちらかを仕込んでいるに違いない」と深読み。

 

文聘の読み通り疑念を抱いた孫権は、損害を恐れてそのまま撤退した。

 

 

どちらが正しいのかは当時にタイムスリップでもしなければ難しいですが……方や敵の包囲を物ともしない鉄壁の守りを披露し、方や計略により戦わずに勝利。どちらにしても、名将にふさわしい活躍であるのは間違いないですね。

 

 

そんな圧倒的ディフェンス能力を見せた文聘も老いには勝てないようで、江夏の統治を始めてから数十年後に死亡。諡は壮侯とされ、先立った息子に代わって養子がその後を継いだのです。

 

 

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声望にも定評あり

 

 

さて、驚異的防衛力と忠誠心を誇る文聘ですが、彼のすごさはそれだけではなく、統治能力と人望についても言及されています。

 

 

元々江夏は孫権領と隣接しており、緊迫状態にあって民心が安定しない土地だったのです。具体的に何をしたかまでは記述に残ってはいませんが……そんな江夏を数十年にわたって統治し、「威光と寵愛があり、敵にも名声が広がって、誰も思い切った侵攻ができなかった」と言わしめるなど、立派に勤めを果たしています。

 

 

その威厳と情け深さのあふれる統治方法は江夏の民たちにも非常に尊敬され、後に江夏に入った桓禺(カングウ)という一流の統治者も彼の名声を超えることはできなかったそうです。

 

 

一ヶ所に定住し、しかも防衛専門ともなれば、それこそ張遼(チョウリョウ)や曹仁(ソウジン)のような飛び抜けた武勇伝がなければ有名どころにはなれませんが……それでも、彼のような地味ながらも一流の人材は魏国の覇業には不可欠であったことには変わりありません。

続きを読む≫ 2017/10/24 21:26:24

 

 

生没年:?~建安23年(218)

 

所属:魏

 

生まれ:兗州陽平郡衛国

 

 

個人的人物評

 

楽進 魏 一番乗り 一番槍 地味 名将 猛将 チビ

統率 A+ 一番槍のイメージがあるが、晩年は普通に兵を率いての戦いにも優れた力を見せている。合肥で城を守っていた辺り、もしかしたら兵の統率は駐留メンバーでトップだったのかもしれない。
武力 前半の活躍はまさに戻ってくる鉄砲玉。袁紹軍との戦いにおける活躍は鬼そのもので、最終的に関羽すら打ち破った。
知力 C+ どうにも切れ者のイメージがない。しかし曹操からは「計略も抜かりがない」と言われており、極めつけに最初の仕事は記録係。優れた知性も持っていたのだろう。。
政治 スタート地点こそ文官だが、後はずっと戦い続けている。政治力は測れない。
人望 C+ 初期三國志シリーズや演義媒体メディアでの雑魚さのせいで印象はイマイチだが、あれだけの地位に人望無くして上り詰めるのは不可能と言っていい。

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楽進(ガクシン)、字は文謙(ブンケン)。ちょっと昔までは通しかこの人を評価しなかったくらいの名前だけ武将でしたが、近年ではいろんなゲームに武力に秀でた勇士として出演し、知名度が上がった武将ですね。同じような武将に相方(ただし仲が悪い)ともいえる于禁なんかもいますが……まあ、あっちは色々闇が深いというか……。

 

この人に関しても記述の少なさがネックになっている感じが強いですが、とにかく先陣切って戦う、ゲームで見られるタイプのテンプレな猛将といった感じのイメージが強い人です。

 

そして、何気に曹操軍の武将の中でも屈指の実力者。先陣で槍を振るうだけが能ではなく、曹操をして「統率、計略も抜かりなし」と言わしめたハイパー武将だったり……

 

では、その伝を見ていくことにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小柄な猛将・楽文謙

 

 

 

 

楽進は背の低い人物ながら、勇敢で肝の据わった人物であるとされています。

 

その勇敢さを以って曹操について行き、はじめは記録係、そこから故郷で自前の兵を募集して1000人も集めてきたことがきっかけで軍の指揮官となり、それからはみんなの先頭に立って戦う猛将として大活躍します。

 

特に呂布袁術といった面々の勢力を攻める戦いでは、一番槍……つまり、一番最初に敵と戦い始めるという先鋒至上の戦闘スタイルを以って戦功を立て、さらには曹操を死の淵に追いやった宿敵・張繍との戦いや呂布に引導を渡すための戦いにも参加し、別将を撃破。

 

徐州に勢力を築いていた劉備を駆逐する戦いや、黒山賊という山賊の頭目の一人である眭固(スイコ)という人物の討伐にも参加。どちらも打ち破ることに成功しています。

 

官渡の戦いでも于禁とともに袁紹軍の拠点を攻撃し敵を脅かした他、敵の急所である烏巣の強襲部隊に組み入れられ、守将であった淳于瓊を撃破、討ち取ることに成功し、官渡における曹操軍奇跡の勝利の立役者となりました。

 

 

袁紹が亡くなると曹操は本格的に(旧)袁紹軍の領土に侵攻。ここでも迎撃隊の大将を討ち取ったり、袁紹の長男である袁譚(エンタン)討伐でも城に一番乗りで乗り込んだりと、八面六臂の大奮闘。これを地味とは誰も言えまい……

 

 

 

 

 

 

 

一番乗りから立派な将軍へ

 

 

 

 

 

ここまで一番乗りで大活躍を披露した楽進に、太祖・曹操もホクホク。まだ曹操の元で健在だった漢帝国の帝への上奏文に張遼、于禁とともに名前を挙げられ、三人まとめて「統率力、武力、そして計略のすべてにおいて圧倒的。兵士をかわいがり、上の命令も厳守しています」と最大限褒められ、さらに曹操自ら、帝に表彰と恩賞をおねだり。この曹操の働きかけにより、楽進ら三人は将軍の地位が与えられたのです。

 

さらには一度曹操に寝返った高幹(コウカン)という人物が不意打ちで反乱を起こしたときも、別動隊を率いてその背後を強襲。堅牢な関にこもって戦う高幹の軍を完全に討伐することはできませんでしたが、曹操の本隊が到着するまで戦いを有利に進めることができたのです。

 

 

その後も反乱勢力や不服従勢力の討伐にちょくちょく名前が出ては、それらを討伐。楽進の活躍を恐れた不服従民の中には、わざわざ楽進を頼って降伏しに来る者もいるほど異名は轟いていました。

 

 

曹操が赤壁で負けた時も、荊州の大都市・襄陽(ジョウヨウ)の守備隊を率い、なんと攻撃してきた関羽らを撃退。さらには逆に劉備領土を攻撃し、その一帯を支配下に置くなど相変わらず強気な活躍が目立ちます。

 

 

合肥の戦いではなぜか張遼といがみ合って大変不仲でしたが(実は前々からいがみ合ったりもしてましたが……性格の不一致か?)、同じく張遼を嫌悪する李典の説得を受けて、張遼との合力を宣誓。楽進はこの時守備隊として城の防御にあたっていましたが、張遼、李典の決死隊が孫権軍を撃退すると追撃軍に混じって孫権を追撃。相変わらず攻めの姿勢を忘れないこの戦いっぷり。見ていて気持ちよくなりますね。

 

 

と、このような数々の活躍(史書でもこんだけ端折って書かれている)を立てた楽進は、当時の曹操軍では最高級の右将軍の位に就任。しかし、ここで燃え尽きてしまったのかまもなく逝去。諡は彼にピッタリの威公。

 

息子の楽綝が跡を継ぎますが、彼の死に様は反乱した味方の不意打ちによって真っ先に狙われ殺されるというもの。父に似て剛毅な性格とありましたが、やはり実力があったので警戒されたのが原因でしょうか?

 

 

 

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曹操軍でもトップクラスの勇将なんだが……

 

 

 

 

自ら一番槍を振るうだけの武力、胆力と、関羽を打ち破るほどの指揮能力、さらには曹操軍の譜代・外様武将の中でもトップ3という評価を受けるほどの超有能な将なんですが……記述がこれだけって何ぞや(´・ω・`)

 

正史本伝の記述だけなら、こんなものでもまあ納得なのですが……楽進の場合、あるのは本伝の記述“だけ”。

 

普通は猛将タイプの武将であっても、裴松之の注釈により何かしらの逸話が入れられている物なのですが、楽進に関しては一切無し。

 

 

 

一応張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃の五人が曹操軍の筆頭格の将軍としてまとめられており、彼らが蜀の五虎将軍に匹敵、下手すれば上回る力量の持ち主なのは間違いないです。

 

 

が、下手なギリギリ一流武官程度の武将のほうが記述がしっかりしており、そういった影響のせいでしばらく楽進が注目されなかったのは悔やまれます。

 

 

結果として、三國志シリーズでも初期ではただの雑魚、無双シリーズに出たのは7から。うーん、この扱い……

 

 

 

まあ、それでも晩年ジェットコースターも真っ青な勢いで運気が急降下した于禁よりは、まだまだ評価はマシといったところ。

 

 

そもそも正史自体、ほとんどが名士の記述ばっかで生え抜きの武官はテキトーに流されてるんですが……それでも、ちょっと当時の闇の一端を邪推せざるを得ません。

 

子孫が何かやらかしたか、どこかで勢力争いに巻き込まれ、それに負けて資料を全部オシャカにされてしまったか。

 

 

なんにしても、これほどの大人物が小物よりあっさりした記述に済んでしまっているのは、ちょっと恐ろしいというか、本当何があったのか……

続きを読む≫ 2017/07/29 00:35:29

 

 

 

生没年:? ~建安2年(197)

 

所属:魏

 

生まれ:兗州陳留已吾

 

勝手に私的能力評

 

典韋 圧倒的威圧感 魏 猛将 個人武勇最強候補 化け物 忠義

統率 B 濮陽奪還戦では、普通に軍を率いて先陣を切っている。それなり以上に用兵もこなせたのだろう。
武力 S 一薙ぎで十人が死ぬ。本当なんなのこの人。
知力 D 知性派ではないだろう。呂布軍の矢の雨の中で行った指示も、知力というより蛮勇……
政治 E 護衛に政治力など不要!
人望 C 後世の歴史家はその死に様に感動する。普段は淡々と書き記す陳寿も、彼の死に様だけは妙に躍動感ある文章で書いている。

 

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典韋(テンイ)と言えば、だいたいどの三国志媒介でもイメージは似通っていますね。いかつくて怖い、でも実は義理堅くて憎めない性格の荒くれ者。その厚い忠義は最期の死にざまにもよく表れていて、そのことから昨今でも根強い人気のある武将です。

 

さて、今回はそんな典韋の紹介。実際の彼も、史書にはそんなイメージに違わない、荒くれの好感であるという描写があります。

 

 

 

 

 

史書における活躍

 

 

容貌は立派で男気にあふれ、さらには人並み外れた怪力の持ち主だったと、史書の最初には記されています。

 

 

そんな典韋の話が始まるのは、劉氏という人物によるかたき討ちを手伝うという、なんとも男気溢れるエピソードから。

 

この劉氏が仇と付け狙う李永という人物は結構な大身であり、この時は厳重な警備をつけていたのだそう。

 

そこで典韋は匕首を懐に隠し、李永への貢物を持って訪問者を装い潜入。そして警護の目を掻い潜り李永の家の中へ入ると、すかさず李永とその家族を殺害。悠然とその場を離れ、匕首を捨てて武器となる戟に持ち替え逃走したのです。
李永の館は市場とも面しており、当然すぐに大騒ぎ。数百人という追手が典韋に迫りましたが、誰も怖くて典韋には近づけませんでした。

 

そうこうしている間に仲間とも合流し、典韋は無事に逃走に成功。この事件により、以後は豪傑として名が知れるようになったそうな。

 

 

その後趙寵という人物の兵士を経て、曹操軍の夏侯惇の軍に所属。巨大な旗を持たせれば片手で軽々と操って見せ、武器を持たせればたびたび戦功を立てていたと典韋伝にはあり、彼が兵士として並外れた力量を持っていたことが伺えます。

 

そして呂布との戦いの際、曹操が敵陣を陥落させる危険な仕事をこなす兵を募ったところ、典韋は真っ先に志願。常人の二倍の重装備を纏った数十人の決死兵が結成されると、典韋はその指揮を任されました。

 

敵陣に突撃すると、当然ながら雨のような矢が放たれ、前を見るのも困難な状態でありながら、典韋は近くの兵からの報告だけで敵兵を殺害するという無謀をやってのけるなど力戦。

 

 

この功績から都尉(地方軍事官)に任命され、数百人の親衛隊とともに数々の戦いで先鋒として起用され敵陣を陥落させ、ついには校尉の位にまで上り詰めたのです。

 

 

 

その後は曹操のボディガードのような役割もするようになり、昼間は常に近くに立ち、夜も天幕のそばで寝るなど、忠誠心あふれる勤務態度だったとされています。当然自宅はありましたが、基本的に帰ることはしなかったそうです。

 

また、飲食の量は常人の倍で、特に酒に関しては給仕の人間を数人にしてやっと間に合ったといわれています。
武器も大きな物をよく振り回し、大きな戟を両手に持ったり、長刀を愛用したとされています。

続きを読む≫ 2017/06/09 23:53:09

 

 

生没年:永和6(141)年~黄初元年(220)

 

所属:魏

 

生まれ:兗州東郡東阿県

 

 

勝手に私的能力評

 

程昱 長身 剛毅 強情 魏 曹操 袁紹 カニバリズム

統率 B 参謀=文官のイメージがあるが、彼は実は武官。水から兵を率いることもあった。
武力 D+ 武力や武名の話は聞かないが、剛直で人と衝突したらしい。また、背が高くいかつい爺さんだったとか。
知力 S 謀略、看破、何なら味方を脅すまで何でもござれ。引退時期まで考えると、他人と喧嘩ばっかりする割に処世にも長けていたようだ。
政治 A- 曹丕が宰相につけようと思うくらいには政治力もあったようだ。兵糧不足を訴えた曹操に対して、充分助けになる量の兵糧を手早く提供できた。が、その中には人肉を混ぜ込んでいたという説も……?
人望 D 腹黒陰険ジジイは演義の創作だが、あんまりにもドギツイ性格のため、謀反を企んでいるという根も葉もない讒言をされたことも。上記の人肉エピからも、彼の人望が窺い知れる。

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程昱(テイイク)、字は仲徳(チュウトク)。

 

主要人物には独自に伝が立てられていますが、彼はそんな伝を立てられた人の一人です。

 

 

元の名前は程立と言いましたが、後に曹操によって立の字の上に日を乗せて、「程昱」と名乗るように言われたとされています。

 

 

さて、この程昱ですが、曹操の優秀すぎる軍師陣の中でも特に飛び抜けており、曹操は一晩一緒に話しただけで、「こいつは腹心となってくれるに違いない」とその才能を見抜いたと言われています。

 

演義では何やら「悪役の参謀」にふさわしいような悪逆なおじいさんとして登場する程昱ですが、今回は彼の優れた知力の一端でも、知っていただけると幸いです。

 

 

 

 

 

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敵に回しちゃヤバい人

 

 

 

時は黄巾の乱のころ。程昱の住む県の重役が反乱軍に加担し、城を武力占拠した時に、彼の名前が初めて出てきます。

 

この反乱により城は奪われ、県の役人や住民たちが、東の山へと逃げ延びました。しかし、武力占拠を行った反乱軍は、財宝を略奪するだけ略奪したのち、堅固な城を捨てて、そそくさと城の外へと逃げてしまったのです。

 

 

 

これを見た程昱は「敵の数は少なかった」という目撃情報を入手すると、その場にいた豪族の長に一言。

 

 

「堅固な城を捨てて逃げたのは、元々の目的が財宝だったからです。城も捨て、穀物もそのまま放置しているのなら、きっと城を占拠するだけの兵力を持ち合わせていないでしょう。今の戦力でも十分勝てます」

 

それを聞いた豪族は納得しましたが、役人や町民たちは「山賊が戻ってきたら大変だろ! 俺たちは東の山に避難する」と猛反発。

 

 

目先の身の安全のために生活を捨てる民衆に呆れかえった程昱。彼は「馬鹿には相談できん!」と考え、とんでもない暴挙に出ます。

 

 

なんと、人を数人よこして、東の山を占拠。そして自身に賛同した人たちにこう言わせたのです。

 

 

「賊が東の山を占拠したぞ! もう城に籠って迎撃するしかない!」

 

 

 

うん、この人は敵に回しちゃいけないタイプの人だ(´・ω・`)

 

 

かくして、非戦闘員ばかりの集団で城を奪い返し、さらに慌てて攻めてきた反乱軍も迎撃して敗走させ、無事に故郷の平和を守ったのでした。

 

 

 

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愚者に気持ちはわかるまい

 

 

 

程昱のスタンスは、その後も「自分の正義は自分で貫く」「アホの言う事は聞かないし気にしない」というものであり続けました。

 

 

すでに智謀の士としてそこそこ有名であった程昱は、初平年間(190~194)に、兗州を治めることになった劉岱(リュウタイ)からスカウトを求められましたが、これに応じず。

 

しかし、劉岱に自身の妻子を預けていた袁紹(エンショウ)と、そんな劉岱に自軍の武将である范方(ハンホウ)を援軍として貸し与えるなど親身にしてくれていた公孫瓚(コウソンサン)が争い始めると、状況は激変します。

 

 

両軍の激突により公孫瓚の軍が袁紹を圧倒し始めると、公孫瓚は劉岱に対して「自分に味方するように」と説得の使者を派遣。劉岱が預かっていた袁紹の妻子を差し出すように要求したのです。

 

一方で、与力として送り込んでいた范方にも「劉岱が味方しないなら帰ってこい。劉岱めは袁紹の後に料理してやる」と言いつけていました。

 

早い話が、最後通告ですね。

 

 

 

そんな公孫瓚の態度にいよいよ日和見が出来なくなった劉岱は、「程昱なら何かを考え付くかもしれません」という参謀の意見を聞き入れ、程昱を呼び寄せてどうすればいいかを相談します。

 

 

すると程昱は、

 

「公孫瓚は領土が遠すぎて、戦力としてアテになりません。そもそも公孫瓚と袁紹の力量は歴然。袁紹を敵に回して、今この場で有利に事が運んだとしても、いつか必ずしっぺ返しを食らいます」

 

と、劉岱には袁紹に付くよう献策。劉岱はこの意見を受け入れ、袁紹との同盟を決意。その少し後に、追いつめられた袁紹は公孫瓚と逆転をかけた決戦を挑み、見事勝利。程昱の予言通りになったのです。

 

 

程昱の予知能力に感服した劉岱は、彼を再び好待遇で召し寄せようとしますが、程昱は病気を理由に拒否。程昱の目には、すでに劉岱の姿は映ってはいませんでした。

 

 

 

 

その後、曹操がなし崩し的に亡くなった劉岱の後を継ぐと、程昱は曹操の召し出しに快く応じ、郷里を後にしました。

 

 

郷里の人々は程昱に対して「劉岱の召し寄せは無視したのに、この矛盾野郎め!」と揶揄しましたが、程昱は笑って取り合わなかったそうです。

 

 

 

 

 

曹操軍の剛直な謀士

 

 

さて、曹操に仕官したのち、今度は天下無双と名高い呂布が留守を突いて、曹操の本拠地となっていた兗州(エンシュウ)を占領してしまいます。

 

この時は曹操軍の中でも裏切りが発生しており、恐れた城の守将は次々に降伏。程昱の守城を含め、わずかに3城だけが曹操の元に残るといった有様でした。

 

程昱はこの時、曹操の手元に残ったわずか三つの城のうちの一つを任され、その土地を治めていた令(長官)を説得。

 

呂布軍に攻められた際も不意打ちや奇襲でうまく守り抜いたのでした。

 

 

 

なお、劣勢になった曹操が怖気づいて「袁紹の配下になってしまおうか」と弱音を吐いた時も、程昱は韓信や彭越といった、強すぎるせいで最後は主君に処刑された人物を例にとって、「袁紹に降れば、あなたもきっとこうなる」と叱咤激励。これで奮起した曹操はとうとう呂布を撃退し、数年後には呂布討伐に成功するに至ったのです。

 

 

さらには袁紹と戦う時に、、程昱が守る城の守兵が極端に少なかったので曹操が援軍を回そうとすると「少ないほうが油断して無視してくれます」と断り、実際にその通りになったりと、非常に優れた洞察眼をこれでもかと披露しています。

 

 

 

 

優れた嗅覚

 

 

てまた、程昱は英雄をかぎ分けるだけの鋭い嗅覚も持ち合わせており、劉備曹操の配下に加わった際には、「いつか裏切って大変なことになるから、今始末しましょう」と物騒な提案をしたり、また赤壁の戦いの前に劉備孫権と手を結ぶと、「劉備を仕留める機会はこれで失われた」と述懐しています。

 

また、後に孫権征伐に向かった際にも、他の群臣が「孫権なんてすぐに降伏するから楽勝」と楽観視している中、「戦争になるな」と予見しており、人の将器をしっかりとかぎ分ける嗅覚を遺憾なく発揮しています。

 

 

 

英雄を知る程昱は時代の移り変わりにも聡く……『魏書』にはこんな逸話も残っています。

 

 

曹操が反乱を起こした馬超討伐に向かった時、後の文帝・曹丕は軍事参謀として程昱らと共に後方の留守を担当した。

 

が、そんな折、後方でも反乱が発生。賈信(カシン)という将軍にこれを鎮圧させ、多くの者を捕虜にした。

 

 

さて、そんな反逆者たちの処遇を求め、留守の者たちの間で悶着が発生。

 

多くの者は、「連中は叛逆者だ。旧法では包囲されてから降伏した者は死刑とあるから殺すべきだろう」と主張。しかし程昱は、時代の移り変わりとともに旧法の無意味さを主張。

 

曰く、

 

「昔は英雄が乱立し、見せしめを用いて包囲前に降ることに得を感じさせ、威光を示すことが重要視された。しかし今は天下の大半が平定され、しかも領内での事件。いずれ降伏するのは目に見えているし、殺したところで何の見せしめにもなるまい」

 

とのこと。

 

 

しかし納得できない他の面々は、「軍事では独断専行が許される」とし、あくまで死刑を執行しようとし、それを見た程昱は黙りこくって何も答えなくなってしまったのです。

 

しかし、その場に出席していた曹丕が後に程昱を訪ね、「言いたいことがあるのではないか?」と質問すると、程昱は

 

「独断専行が許されるのは、いちいち報告していては機を損じる可能性が大いにあるからです。それに比べ、今回は特に急ぐような案件でもなし。独断に意味などありますまい」

 

と答え、曹丕はこの意見を「至極もっともである」と感じ入って、さっそく曹操に判断を仰ぎますが、曹操もやはり反逆者を処刑しませんでした。

 

 

後日、戻ってきた曹操は上機嫌で「程昱は軍事だけでなく、他人の親子関係もうまくさばくのだな」と賞賛した。

 

己の信じた正義や節義は曲げませんが、時代の移り変わりに対応して物の見方を変えるなど、強情ではあるものの決して頭の固い人物ではなかったことが伺える逸話です。

 

 

 

そんな程昱も自分の老いを感じると、曹操一門から感謝の宴を開いてもらったのを皮切りに、自らの意思で第一線を引退。

 

少しの淀みも残さない、潔い引き際でした。

 

 

 

 

 

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剛直なテカイじーさん

 

 

この人は身の丈八尺三寸(約191cm)の大男で、立派なあごひげを蓄えていました。

 

また、黄巾の乱での逸話からわかる通り、非常に気の強い人物で、曹操からは「胆力は昔の高名な勇者を超える」とお墨付きをもらうほどに
勇敢な人物でした。

 

 

三国志をまとめた陳寿には「強情でよく人と衝突する」と評されており、人から反逆者として密告されたこともあるほどだとか。もっとも、曹操はいっさい取り合わなかったそうですが。

 

 

また、意外と執念深かったのか、自身を馬鹿にした郷里に対しては、後年兵糧不足の際には略奪という形で仕返ししており、案外執念深かったのかもしれない逸話も残っていますね。

 

やっぱりこの人は敵に回すとヤバい……(´;ω;`)

 

 

 

とはいえ、人を見る目、その動きや先々をしっかりと見据えるだけの洞察力、観察眼は見事というほかありません。

 

 

人と争って失脚したり、「兵糧に人肉をまぜこんだ」というデマが流れたりもしていますが、やはりそんなマイナスイメージを考慮してもおつりがくるほどの逸材だったのは疑いようもありません。

 

 

 

続きを読む≫ 2017/04/04 00:49:04

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏(?)

 

生まれ:涼州金城

 

 

閻行 不憫 個人武勇最強候補 馬超 韓遂

 

 

閻行(エンコウ)、字は彦明(ゲンメイ)。

 

しょーじき、三国志好きの中でも知らない人のほうが多いような、そんな超マイナーな武将です。

 

 

涼州の反逆王・韓遂(カンスイ)の配下の人で、大変武勇に優れ、この三国志の中でも指折りの猛者と言ってもいいかもしれないような人です。

 

若いころから主君である韓遂に従い、武勇に優れた若手の将校としてそれなりに名を広めていたそうです。

 

 

 

 

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馬超すら粉砕する化け物

 

 

さて、この閻行の主君である韓遂、けっこう問題児な人物でして、馬騰(バトウ)とは義兄弟の契りを結んでいながら、ある時から激しく対立するようになっていました。

 

そしてある時、この閻行がとんでもない事件を引き起こしてしまうのです。

 

 

さて、その事件の内容は以下の通り。

 

 

ある時、馬騰の息子である馬超(バチョウ)と一騎打ちをした。

 

この馬超とは、おそらく三国志好きの人ならすぐに思い浮かぶであろう、有名高いあの錦馬超その人である。

 

さて、両者満を持しての決闘。

 

結果はどうなったかというと。

 

 

 

閻行は馬超をボコった。

 

 

馬 超 を ボ コ っ た

 

 

 

 

 

なんということでしょう。おお馬超よ、負けてしまうとは情けない

 

 

 

しかもこの戦い、閻行の圧勝だったそうな。

 

 

というのも、正史における記述では、以下のように書かれています。

 

 

 

勇名高い馬超との戦いにも臆さず戦い、馬超を矛で突き刺した。

 

その時に矛が折れてしまったので、今度はその折れた矛で頭をぶん殴って締め上げ、
馬超を半殺しにした

 

 

 

 

ボッコボコやないかい(´・ω・`)

 

 

なおこの時の馬超はまだ20歳前後で、完全に成熟していなかった可能性が高いです。

 

とはいえ、錦馬超相手に、武力比べでワンサイドゲームを繰り広げたのは事実。この人も、また当時指折りの武力を誇っていたことは間違いありません。

 

 

さて、その後は曹操からとりなしの使者が来た時に、韓遂と馬騰とは和解。その後はしばらく仲良くやっていたそうです。

 

後に馬騰は、漢の帝の直接の臣下(という建前の人質)として都へと赴き、息子の馬超がその勢力を引き継ぎました。

 

それに前後して、主君の韓遂も息子を曹操への人質に送り、閻行もまた、自らの父を曹操の元に預けることにしたのです。

 

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叛逆者の部下として……

 

 

さて、この少し後に、問題が発生します。

 

 

韓遂の元に、馬超自らがやってきて、こう言い放ったのです。

 

 

「おーい韓遂、反逆しようぜ(意訳)」

 

 

つまり、天下を股にかける曹操に、喧嘩を吹っ掛けようと持ち掛けたのです。

 

閻行は反対しましたが、当の韓遂は反逆魂に火が付いたのかこれを承諾。ついに曹操の元に人質を置いたまま、その曹操と戦うことになったのです。

 

この戦いの結果は、曹操を追いつめることはできたものの計略の前に敗北。馬超・韓遂連合軍は本拠地の涼州に逃げ延びます。

 

当然、人質にされていた馬超の親兄弟や、韓遂の息子らは皆殺しにされたのは言うまでもありません。

 

 

しかし、閻行の父親だけは何とか殺されずにいました。これは、閻行が自分から父親を人質に差し出したのが理由だといわれています。

 

とはいえ、やはり反逆者の一人であることには変わりがなく、「はやくこちらに味方しなければ殺す」と脅しをかけられていたようではありますが……

 

 

さて、そのことを後に知った韓遂。ひとつ、悪だくみが頭に浮かびます。「父親が殺されれば、さすがに閻行も曹操憎しの感情から従ってくれる打とろう」と。
さっそく韓遂は、娘を無理やり閻行の嫁に出します。これにより、曹操は閻行をさらに疑うようになったといわれています。

 

 

 

そんなこんなで、自分は曹操の元にいたかったのに、主君のむちゃくちゃに付き合わされた閻行。これまでは渋々ながらも主君に付き合っていましたが、とうとうここで堪忍袋の緒が切れたようです。

 

一軍の統治を韓遂から任された瞬間、主君に反逆。韓遂を殺して、曹操への手土産にしようともくろみます。
しかしこの時は失敗し、仕方なくそのまま曹操の元に向かい、歓迎されたといわれています。

 

その後は元・主君の韓遂から不意打ちで攻められそうになりますが、その直後に韓遂は病気で死亡。閻行も、韓遂の死を皮切りに史書から姿を消したのでした。

 

 

なまじ馬超を殺しかねないほどの力量を持ったからこそ、キーパーソンとして辺境のグダグダに巻き込まれた、ちょっとかわいそうな武将。

 

その後は曹操の下で幸せに暮らせたのでしょうか……?

 

続きを読む≫ 2017/04/02 22:08:02
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