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この言葉、いかにも「古事!」って感じの響きがありますよね。

 

 

まあ、そんな前置きをしたところで結局古事は古事なんですが。

 

意味合いとしては、「人は三日もあれば成長する」、そこから転じて、「最初の先入観をいつまでも引きずっていると、正しい評価は下せない」「常に古い価値観や評価は捨てて、今この時の物事や人を見ろ」と。

 

過去の事績や周囲の評価を気にする凡人の我々には、ちっとばかし耳の痛くなる言葉ですね。

 

 

 

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三国有数のチートと化したアホ将軍・呂蒙

 

 

 

この言葉も、明確に三国志に記されています。

 

言葉の由来は、呂蒙(リョモウ)という人のエピソードから。

 

はい、言うまでもなく、関羽を殺したという事実から一説では有名になったり、なんか蜀ファンから蛇蝎通り越して悪魔や人間としても見られないゴミのような評価を下されたりするあの呂蒙です。

 

三国志の人形劇では見る影もない完全なダークサイドの別人として登場した彼ですが、実際のところは人知勇を兼ね備えた傑物。しかもその素質の大半は後天的な努力によって身につけたという、大変な傑物だったのです。

 

 

 

若かりし頃の呂蒙は大変ヤンチャな武闘派で、勝手に戦争に紛れ込んで参加したり、馬鹿にされてついカッとなった結果殺人を犯したりと、まあいろいろと荒くれな逸話が残っています。さらに家も裕福とは言えず、簡単に言えば貧乏人の無教養人だったのです。

 

 

それでも前半生は持ち前の才能だけで順調に出世を重ねてきましたが、そこはやはり無教養人。荒くれ者は名家のインテリ層から見ると、言ってしまえばただのアホ。特に教養を積んだ名士からは、内心軽蔑されることも少なくなかったようです。

 

 

さて、そんな呂蒙(とついでに蒋欽)は、主君である孫権に呼び出しを食らいます。

 

何事かと孫権に謁見してみると、呂蒙らを待っていたのは「この機会に勉強しなさい」という、なんとも唐突なお説教でした。

 

学問などなくてもかなりの出世を遂げた呂蒙(と蒋欽)は「忙しいから無理です」と拒否しますが、孫権は2人の言い分を聞くと、更に以下のように続けました。

 

「主君の俺や、あとお隣の曹操さんだって勉強してるんだ。まあいいから、最低限の知識と教養は身に着けてみなさい」

 

地頭の良さだけでゴリ押してきた呂蒙らにとっては、何とも釈然としない話。ですが他ならぬ主君の猛プッシュともあれば、無下にできません。そこで呂蒙(と蒋欽)は、騙されたつもりで勉学を開始します。

 

はじめは嫌々のスタートでしたが、凝り性の呂蒙はそれからしばらく勉強漬け。そしてしばらくのガリ勉時代を過ごした後、気付けば学者も真っ青のハイパー教養人になっていたのです。

 

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さて、アホからハイパー教養人へと変貌を遂げた呂蒙。当時孫権軍でも随一の知恵者であった魯粛(ロシュク)という人の後任として、彼の任地を訪れることになります。

 

この時、魯粛といろいろと談義を交わしたそうなのですが、この時の受け答えがスラスラと、アホには真似できないレベルのスムーズ&シャープな物だったようで……話を聞いた魯粛は破顔一笑。

 

呉下の阿蒙に非ず(もう昔のアホさがチャーミングな呂蒙ちゃんじゃないな)」と高く評価し、これまでのちょっと小馬鹿にした態度を完全に改めたのです。

 

 

その魯粛の評価に対する呂蒙のコメントが、題名の通り。「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」と。

 

 

 

このようにアホ将軍から国士へと成長した呂蒙は、後年見事に関羽を討ち取って孫権劉備間の荊州問題を呉に有利な形に引き戻し、正史三国志を手掛けた陳寿をして「国士である」と評されるに至ったのです。

 

 

 

対義語:呉下の阿蒙

 

 

上記の魯粛呂蒙評にあったものですね。
この呂蒙の豹変ぶりとは真逆の、

 

「いつまでも進歩しない人間」との意味。これまた耳が痛い……。

 

この言葉は遥か後世、毛沢東にも引用されたらしく、彼は「無教養のハンデをものともしなかった呂蒙にならうしかない」と部下に語ったそうです。

続きを読む≫ 2018/12/10 17:39:10

 

 

 

 

魚は水がなければ生きていけませんし、水は…………なんだろう?←

 

 

とにかく、水と魚は2つで1セット! 水、魚という二つの単語が出たら、その二つの単語が全くの無関係であると考える人はまずいないと思います。

 

 

その水と魚のように交わる。

 

こういう意味合いから、水魚の交わりとは、「お互いなくてはならない、欠けてはならない存在」という意味になります。

 

 

言ってしまえば、黄金コンビとかベストカップルとか、そんな感じですね。

 

 

そこからさらに拡大解釈して、「片時も離れることができない」とか、「とんでもないおしどり夫婦」みたいな意味合いにもなるそうな。

 

 

 

さて、そんな言い得て妙というか、なんかしっくりくるこの言葉。知ってる人は知っているでしょうが、これも三国志から登場した故事成語なのです。

 

 

劉備諸葛亮のラブラブっぷりを表現?

 

 

さて、ものすごく気持ち悪い表現を表現をしてしまいましたが……

 

 

実際に水魚の交わりとは、蜀の皇帝・劉備と天才軍師・諸葛亮の間柄を表す言葉。詳細は、蜀志・諸葛亮伝にあります。

 

諸葛亮を、後に三顧の礼と言われる厚い礼をもって迎え入れた劉備
彼は諸葛亮の才能に一目ぼれし、それからは何事も、毎日のように諸葛亮に相談し、そのたびに両者は親密になっていたのです。

 

 

そんな二人の仲を見て、恨めしそうに後をつける2つの大きな(比喩ではない)影がありました。

 

劉備の義弟として、挙兵して二十数年苦楽を共にしてきた、関羽張飛です。

 

 

関羽張飛は、劉備が若造の諸葛亮とイチャイチャしているのを見て、完全に嫉妬していたのです。史書にも「不機嫌になっていた」ともありますので、まあ明らかにわかるレベルでの嫉妬だったのでしょう。

 

当然我の強い二人ですから、「どういうことだ」と劉備に詰め寄ります。

 

で、その時に劉備が言った言葉が、以下の通り。

 

「わしにとって孔明(諸葛亮)は、魚から見た水みたいな奴だ。必要不可欠な存在なんだ! だからわかってくれ!」

 

 

…………と、こんな必死の懇願(?)を聞いた関羽張飛。納得したのかしぶしぶかは史書には載っていませんが、以後は劉備諸葛亮の間柄にケチをつけなくなったそうです。

 

 

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水魚の交わり、その真の意味は……?

 

恋人や配偶者!

 

魚は繁殖力が強く、そのため、まああれそれな隠喩に持ち出されることもあるとか。

 

そんなわけで、水魚の交わりという言葉も、昨今では主従関係などよりも、おしどり夫婦やベストカップルのような意味合いで使われることが圧倒的多数!

 

 

早い話、劉備が義弟に言い放った言葉は……

 

劉備諸葛亮は俺の嫁!」

 

と、こんな感じの意味合いになりますね。

 

なんだか一気に危ない香りがしてきましたが……まあ、軍師とプライベートな関係を区分けする意味合いとしては間違っていないのかもれません。

 

そして何より、ビジネスライクな劉備からすれば、初の自軍の参謀は公時の嫁同然と言っても、あながち間違いないのでしょうね。

 

 

続きを読む≫ 2017/06/25 21:05:25

 

 

 

 

南船北馬という言葉は、もう昨今では当たり前のように使われている言葉ですね。
しかし、その意味については、案外トンチンカンな答え(!?)が返ってきやすい言葉だったりします。

 

 

意味合いとしては、「あちこちをせわしなく動き回る事」。

 

実は、右往左往とか東奔西走とか……そういう意味合いが強い言葉なんです。

 

 

ただ、振り回されてあちこち動くというよりは、この言葉は「旅に出る」という意味合いが強いようで……。つまり、「旅行しまくっててせわしない」とか、そういう感じのニュアンスが強いのです。

 

 

 

 

その出典

 

 

この言葉の出典は、紀元前に書かれた「淮南子」という思想書です。読み方は本来「わいなんし」とするところですが、日本ではかなり古くから伝わったため、呉音で「えなんじ」と読むのが正しいのだとか。

 

前漢の最大版図を築いた武帝時代に、その血族である淮南王・劉安によって学者が招集されて作られたのが、この淮南子だとか。

 

 

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で、結局どうして南船北馬なわけよ?

 

で、この言葉の語源ですが……

 

中国という国は、北半分と南半分では土地柄や文化がまるで違います。で、その最たる例の一つが移動手段だといわれています。

 

中国北部は広大な大地が広がっており、主な移動手段は陸路を素早く駆けていける馬。対して南の土地の中心は、広大な長江による水運のネットワークで構築されていたのです。

 

 

この事から、北の大地では馬、南では船と移動手段をコロコロ変えて旅をする必要があり、こういった土地柄の事情から、「南船北馬」という言葉が生まれたのです。

 

 

実は三国志にも如実に……

 

さて、この「南船北馬」の語源にもなった土地柄……実は三国志におけるそれぞれの得意戦術や戦い方にも非常に大きな影響を与えています。

 

特に大きな差が出ているのが、中国北部に一大勢力を誇った魏と、南東の長江下流に割拠した呉。

 

陸地の多い魏では騎馬隊を中心とした陸上戦力が充足しており、特に曹操司馬懿といった代表的指揮官たちの多くは、この騎馬戦力を最大限に使って敵を撹乱する高機動戦術を得意としていました。

 

それに対し、呉の得意な戦法は、長江という巨大な天然の堀を最大利用した水上・防衛戦こそが真骨頂。

 

そのため戦力に勝る魏も、長江を盾に戦う呉をなかなか攻めきれず、対する呉も、陸地を出れば魏軍の機動戦術に苦しめられ、結局領地を奪うことができなかったのです。

 

 

南船北馬という言葉の元来の使い道とはまるで違いますが……こういう地勢、情勢なんかで三国志を見ていくのも面白いですね。

続きを読む≫ 2017/06/19 14:51:19

 

 

 

 

 

最近でも割とよく見かけくる言葉ですよね。

 

 

竹は少しでも割れると、後はさほど力を入れなくても一気に割れるそうです。

 

この事から、

 

「一度ついた勢いが止まらなくなる様子」を表す意味合いとして使われています。

 

 

 

 

うーん、どうにも戦争に影響しそうな話ですよね。

 

 

 

さてこの言葉、これも三国志由来の故事成語なのですが……

 

この言葉の誕生は三国志の終盤も終盤。

 

超有名人である曹操、、劉備孫権諸葛亮といった面々はすでに亡くなり、

 

蜀の国も滅ぼされ、魏が司馬一族のものとなって晋と名を変えた後。三国志で最後に残った呉の国の滅亡に前後してのことです。

 

 

 

 

 

 

その起源とは……

 

 

この話の主人公は、杜預(ドヨ)という晋の将軍です。

 

呉の軍勢を打ち破り、ついに都の建業(ケンギョウ)付近にまで迫ったときのお話。

 

 

かねてから呉の土地は温暖な気候で、夏場は疫病により多くの死人が出ることもあったそうです。

 

実際に赤壁の戦いでも、曹操軍の大きな敗因の一つに疫病が取り上げられるほどで、過去に南を攻める際にさんざん手を焼いていたという過去があったのです。

 

この事から、軍議では「これから雨の季節になるので、今攻めるのは危険です。冬を待ってからまた攻めるようにしましょう」という意見がほとんどでした。

 

 

しかしここで、杜預だけは真反対ともいえる意見を提唱したのです。

 

 

「昔、楽毅(ガクキ)という人物は、勢力の圧倒的劣勢を一回の戦いで覆したといわれているな。今の俺らは勢いもあるから大丈夫。竹を割るには一節に切り口を入れれば、後は大した力もいらん。それと一緒で、最初の数十日を本気で戦えば後は流れで勝てるだろう」

 

 

 

その後の流れは、まさに杜預の予言通り。勢いのままに攻められた呉の君主、孫晧(ソンコウ)は領土の奥深くに逃げることもままならず、数年とせずに降伏。呉は滅亡し、晋の天下統一は果たされたのでした。

 

 

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ちなみにそんな杜預ですが……

 

 

戦争の常識すらも超越した思考により、長年自国を苦しめ続けてきた呉を見事に滅ぼした杜預将軍。

 

実は政治や学術が本領の人物ですが、それにもかかわらず、関羽や張遼らと並んで、唐代にまとめられた「武廟六十四将」という、簡単に言えば「すごい昔の将軍64人」のうちの一人に名を馳せています。

 

 

軍事、政治、学術となんでもござれの杜預ですが、実はとんでもない欠陥を抱えていたのです。

 

それが、

 

個 人 戦 闘 力

 

 

馬にも乗れない、弓も下手、戦争には馬車で出向いていたというありさまの、とんでもない運動音痴だったのです。

 

そのくせ政争には積極的に絡んでいき、必要もない事に自分から突っ込んでいくという悪癖の持ち主。

 

 

とんでもなく有能でなんでもござれのハイパー武将ですが、潔癖症で運動音痴という欠点があることによって、「やっぱり偉大な人間も人間なんだな」と実感できますよね。

続きを読む≫ 2017/05/28 20:38:28

 

 

月旦(ゲッタン)というと、元の意味は「月初め」という意味を指します。

 

 

そこから派生した言葉ではありますが、最近では

 

「人物評、品定め」という意味がありますね。

 

 

お堅い人とか、見るからに偉そうな人とかが、この言葉を使っていたりはしていませんか? 私もこれまでに数度、この言葉を聞いたことがあります。

 

 

では、なんで「月初め」の意味なのに「品定め」になってしまうのか?

 

 

実はそこのところの事情は、三国志とも影響が深いのです。

 

 

結論から言いますと、許劭(キョショウ)という人がこの言葉の語源です。彼は政治とも太いバイパスを持った有名な人物評論家で、

 

月旦、つまり月初めに一回人物評をしたことから、月旦評という言葉が生まれたとされています。月旦というのは、つまり「月初めに行われる人物評=月旦評」の略なんですね。

 

この許劭という人の月旦評は
「賞賛されればどんどん出世し、批判されれば没落する」とまで言われており、乱世の中で成り上がるためには非常に大きな意味合いを持っていました。

 

 

そのため日々多くの人が彼の人物評を気にしたり楽しみにしたりと大きな反応を示しており、あの曹操袁紹さえも彼の人物評を意識した動きをしたと史書に残るほど。
彼に評価されるというのは、政治世界でも一目置かれるという意味があったんですね。だからこそ、「褒められたら出世、貶されたら凋落」という構図が出来上がったと考えれば、なんか納得。

 

 

 

 

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さて、気になる彼の人物評のやり方ですが……

 

 

1.人の身分や気持ちは考慮しない。誰であっても憚らない

 

2.自分の主観で見ていいと思った人は評価。悪いと思えば徹底的にこき下ろす

 

 

こんだけ。

 

あ、あれ? なんか好き嫌いだけで判断してませんか、許劭さん?(;´∀`)

 

 

まあ実際に重視とかそんなんではなく、まさしく主観だけで人物評論をしていた模様。

 

つまり政治にうまく入り込むためには、許劭に気に入られてべた褒めされなければならないという一種のルールが、当時のうちから存在していたのです。
なんとも恐ろしい……

 

 

しかし彼の人物評で世の中に出た偉人もこの時代にはたくさんいるので、その辺は賛否の分かれどころ。一応ただの好き嫌いだけでなく、儒教観念からの善悪の枠決めではあったとは言われていますが……うーん……

 

 

蛇足ではありますが……この人、自分に関してはかなりズブズブで、いとこの許靖(キョセイ)という人が嫌いでしょうがなく、一切評価せず無視を決め込んでいた模様。それどころか嫌がらせすら働いて、一時期許靖は貧乏人としての苦難の生活を余儀なくされたとか。それでいいのか、人物評論家←

続きを読む≫ 2017/05/21 00:05:21

 

 

 

 

鶏肋、といえば、その言葉通り。鶏のあばらの事を指しますね。

 

 

この部分、最近では鶏ガラという名称で普通に売られている部分です。
見たことがある方はその形からピンとくるかと思いますが……

 

 

身が少ない!

 

 

基本的には鶏ガラで出汁を取るための部分として使われており、この部分を食用とする人はめったにいないのではないでしょうか。

 

 

というのも、身が少ない!

 

それはもう、極端に少ないです。あばらの周りに、薄ーくわずかに肉がついているだけ。他は全部骨というありさま。

 

一応しゃぶるようにして食べればうまいんです、一応! でもそうやって食べたところでむなしさが残るだけなんです!

 

 

この事から、鶏肋という言葉は

 

捨ててしまうのももったいないけど、かといって使ったり持ってたりしてもどうしようもない物という意味を指します。

 

 

 

 

この言葉も意外なことに三国志出身。

 

魏書武帝記(曹操の伝)で目の当たりにできるほか、後漢書にもその記述があります。

 

 

曹操劉備が漢中という土地を取り合って戦争した、俗にいう定軍山の戦いと呼ばれる戦いの最中。

 

曹操軍は重臣・夏侯淵の戦死などもあり、劉備軍に勢いで押されていました。しかも劉備は有利な土地を奪い取り、持久戦の構えを見せています。

 

 

このままでは勝つどころか被害が広がる一方の曹操軍。そんな様子を見て、大将の曹操は、ぼそりと「鶏肋」という言葉を発しました。

 

 

この言葉を隣で聞いていた楊脩(ヨウシュウ)という参謀は、曹操のこの嘆きの言葉を聞き、

 

「鶏肋=手放したくないけど、かといって食べるほどの物でもない肉。つまりこれは漢中の事であり、撤退するという意味だろう」と解釈。

 

指示も待たずに撤退を始めたのです。

 

 

この行動は軍記違反であり、「兵を混乱させる」という理由で、曹操は後に楊脩を処刑。これを兵士に見せつけ、規律を守ったとか。

 

 

ちなみに三国志演義でも似たような形で楊脩は処刑されますが、その後の展開が少し異なります。
というのも、この時点で曹操に撤退の意思はなく、楊脩を殺した後に劉備と一戦交え、ここでもさらに負けたことから曹操は初めて撤退を決意、楊脩の遺体を丁重に弔ったとか。物語の都合上、曹操は冷血な悪役でなければなりません。そういった事情から、こんな展開に脚色されたのかもしれませんね。

 

 

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見え隠れする後継者争いの影……

 

 

さて、ここからは個人的な解釈を少々……

 

 

実は当時の中国では後継者争いの危険が常に付きまとい、晩年を迎えた英雄たちはその対処に苦心しているように見られます。
例えば孫権袁紹は家中での分裂を引き起こして滅亡の原因になっていますし、劉備も養子にイチャモンをつけて処刑することで、後継争いを回避しています。

 

 

曹操のところも、兄の曹丕(ソウヒ)と弟の曹植(ソウショク)が水面下で争っており、楊脩は弟である曹植を支持する勢力の重役だったとされています。
さらには曹植のほうも楊脩を特別視し、「数日も君に会えないと不安になる」という旨の手紙も残したらしく、曹植とはただならぬ深い絆で結ばれていた様子。

 

曹操が最終的に後継者に選んだのは兄である曹丕であり、そういった観点から、能力のある上に曹丕をあえてぞんざいに扱っていた楊脩を危険視し、反乱を未然に防ぐために処刑したのではと考えられます。

 

曹操は昔、宿敵である袁紹を、死後の後継者争いに付け込んでようやく滅ぼした経験があるので、そういった部分も起因して、早めに芽を摘み取っておきたかったのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2017/05/17 21:47:17

 

 

 

 

苦肉の策。なんだか難しそうな、いかにもことわざといった感じの言葉ですね。

 

意味合いとしては、
「計略を成功させるために、自分や味方をあえて苦しめる」といったもの。

 

似たような慣用句に、「敵を欺くには、まず味方から」というものがありますね(意味合いはちょっと違うけど)。

 

 

さて、そんな苦肉の策ですが、元ネタは三国志……。
それも、正史三国志ではなく、大衆小説である「三国志演義」だと言われています。

 

 

 

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由来となった話はこれ!

 

 

この話の元になったのは、単独トップの勢力に躍り出た曹操が、孫権の領土に侵攻し戦った「赤壁の戦い」だとされています。

 

この戦いにおける曹操軍と孫権軍の兵力差は5倍とも10倍ともいわれており、孫権陣営では絶望的な空気が流れていました。

 

 

この戦いにおいて、孫権軍の司令官である周瑜(シュウユ)と、その軍に参加していた黄蓋(コウガイ)は、
お互い相談し合って、ある策を思いつきます。

 

この時の策こそが、後に「苦肉の策」と呼ばれる大計略だったのです。

 

 

まずお互いの不仲を内外にアピールするため、黄蓋は周瑜を「無能である」としてこっぴどく罵倒します。

 

これに対して怒った周瑜は、黄蓋を鞭打ちの刑に処し、これを公衆の面前で執り行ったのです。

 

 

重傷を負って、周囲からはすっかり「周瑜に嫌われている」と思いこまれた黄蓋は、共謀者を通じて曹操軍への投降、寝返りを申し出ました。

 

これを信じた曹操軍は、黄蓋の投降を許可。黄蓋を迎え入れます。

 

 

しかし、その投降こそが罠だったのです。

 

黄蓋が乗っていた船は突如炎上。そのまま曹操軍の船に延焼し、一気に大火災に陥ったのです。

 

かくして、この決死の火計により曹操軍は壊滅。孫権の領土は守られたのでした。

 

 

後にこの話は、「兵法三十六計」と言われる中国の兵法書に「苦肉計」として取り上げられ、現代でも多くの人に知られるに至ったのです。

 

 

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でも、演義での話ということは……

 

 

当然、この話も演義での話。つまりフィクションです。
さらには諸葛孔明が風を起こしたり、周瑜をこの後翻弄したり、はたまた関羽(カンウ)が曹操をわざと見逃したりと、演義ではいろいろな見せ場があるのですが……

 

これらもすべてフィクション。正史三国志における赤壁の戦いは、実にあっさりした内容となっています。

 

 

簡単にまとめると……

 

1.周瑜らが数で圧倒する曹操軍をきっちり抑え込む

 

2.曹操軍はこの時疫病が流行っていて、兵たちも本調子が出ずに苦戦

 

3.黄蓋の立案により、火攻めを行って曹操軍を見事に撃退

 

 

これだけです。

 

とはいえ、周瑜らが数倍の曹操軍相手に勝利を収めたのは真実ですし、演義での主人公・劉備(リュウビ)が国を得るためのきっかけとなった戦いであるのは事実です。

 

三国志演義が小説である以上、やはりドラマチックに書きたくなるのは、わかる気がしますね……

続きを読む≫ 2017/04/16 22:33:16

 

 

十人十色。

 

意味合いとしては、

 

「考え方も好みも性格も、人によって全然違う」というものです。

 

っても、歴史なんかに興味を持つような方の中で、知らない人のが明らかに少ないような言葉ではありますが……

 

 

実はこの言葉、語源に関しては完全に不明です。

 

どこを見回しても、「わからん!」とさっぱりした回答が来るか、

 

はたまた語源を語るにしても、引っ張ってくる古事は人によって全然違うものばかり。

 

 

よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会にはいってみるとなかなか複雑なもので十人十色という人間界のことばはそのままここにも応用ができるのである。

 

とまあ、夏目漱石の「吾輩は猫である」にもこんな一文が載っており、少なくともこれより以前の話であるというのは見当がつきますが……。

 

 

さて、前置きが長くなりました。

 

では、この話が三国志とどう関係しているのか。

 

 

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蒋琬と楊戯の話

 

 

ほい、味気ないタイトルで申し訳ない。

 

この十人十色の語源とされる話の一つ(信憑性は微妙)に、蜀の蒋琬(ショウエン)と楊戯(ヨウギ)という人の話に、それっぽいのがありますね。

 

 

蒋エンが部下の楊戯が議論した時の事。

 

いつもは快活で舌の回る楊戯でしたが、時折蒋琬に対し、完全に黙り込んで何も言わなくなる時がありました。

 

それを見たひとりの部下は、楊戯を失脚させるため、

 

「返事をしないのか? なんと無礼な奴め」と指摘してきました。

 

 

この時に蒋琬が放った言葉が、こちら。

 

「人は顔の作りが違うのと同じく、考え方が人によって異なる。楊戯は自分に嘘をついてまで私に迎合しないが、かといって面と向かって反論すれば、上司である私の顔に泥を塗ってしまうことになる。だからあえて黙っていたのだ」

 

 

結局、蒋琬はこれ以上楊戯に対してあえて意見を求めることが無かったのです。

 

 

 

とまあ、こんな感じの話になりますね。

 

蒋琬、楊戯ともに、人によって態度や意見を変えることが無い、至って公正な人物であったとされています。

 

そんな二人だからこそ、こういった美談が生まれるのでしょうね。

 

 

 

 

ちなみに、三国志にある程度詳しい方に対して補足を入れておきますが……

 

楊戯という漢字、書き間違いではありません

 

 

というか、楊儀のような小物に、そんな人を思いやるような芸当できません

 

もっとも、楊戯のほうも姜維を嫌っていた辺り、必ずしも人を気遣うわけではないんですがね……

続きを読む≫ 2017/04/10 21:15:10

 

 

 

普通に使いますよね。たぶん、「三国志は知らないけど三顧の礼は知ってる」という人は結構多いはず。

 

というか、そもそもこれ自体三国志ネタだということを知ってる人も、けっこう多そうなものですが……。

 

 

ただ、まあ当時は色々と情報が錯綜するものでして。実は知らない発見がある……かもしれない。

 

 

 

さて、この言葉の意味は、もう語るに及ばず。

 

言ってしまえば、「格下相手にもかかわらず、非常に例を尽くしてお願いすること」です。

 

 

出典は?

 

 

三国志に描かれる三顧の礼の流れは、以下の通りです。

 

 

 

劉備(リュウビ)は、自身には未だに軍師と言える人物がいなかったことを嘆いていたところ、ある時、賢才と名高い諸葛亮(ショカツリョウ)の存在を知った。

 

そして、聞けば、その天才は近くにいるそうな。そこですかさず使いの者を送って誘致を試みたが、結果はダメ。

 

 

そのため、今度は自ら諸葛亮に会いに出向くことにした。

 

しかし、一度目、二度目は留守にしていて、結果会うことができなかった。

 

 

そして三度目にして、ようやく諸葛亮に会う機会に恵まれた。しかし、この時の諸葛亮は昼寝の途中。そのため、仕方なく目が覚めるのをそのまま待つことにした。その時に付き添いが叩き起こそうとしたとか家を燃やそうとしたとか何とか

 

そのまま待っていると、ついに諸葛亮が目覚め、両者はそのまま対面。自分を訪ねて三回も来てくれたことに諸葛亮は感激し、そのまま劉備に仕えることになった。

 

 

と、こんな感じ。

 

実際に正史にもこういった話があり、それを拾った演義でも(話のスケールは大きくなったとはいえ)似たような経緯です。

 

 

当時の価値観では、「偉い人はとことん偉い」という風説があり、そんな偉い人がへりくだった態度をとることはほとんどありませんでした。

 

そのあたりの情勢から見ると、若造でしかも実績のない諸葛亮を自分から訪ねて行った劉備の行動は異常であり、やはり彼も超一流の英雄であったことがうかがえます。

 

 

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しかし、こんな異説も

 

実は、正史三国志には異説があり、「逆に諸葛亮のほうが劉備を訪ねて行った」という話もあります。

 

もっとも、これに関して諸葛亮本人の書いた文を証拠に否定されていますが、諸葛亮も、この頃は野心あるような発言をしたような記述があります。案外、諸葛亮側から出向く可能性もどこかにあったのかもしれませんね。

 

 

そしてもう一つ。「劉備諸葛亮は、会うたびに仲良くなった」という説もあります。これに関しては未だ信憑性も強く、実は一回目から何度も会ってて、そのまま仲良くなってから登用に応じた可能性も否定できません。

 

ただ何にせよ、劉備のこの行動は当時の価値観からは大きく違っていたこと、そしてこの登用は後々素晴らしい成果を生んだことに関しては、まず間違いありません。
この「当たり前」にとらわれずに行動する価値観、そして目下でも優れた人物を素直に敬う器の大きさ。我々もあやかりたいものです……

続きを読む≫ 2017/03/30 23:41:30

 

 

こいつも実用的というかなんというか、よく使われる言葉ですよね。

 

意味合いは以下の通り。

 

 

「滅多にない機会!」

 

 

三国志なんて割と面倒な分野に興味を持つ方の事ですから、「そんなもん意味は分かっとるわい!」ってな感じでしょうね。

 

 

実際、もう完全に日常会話の中に溶け込んでます。私ももう何回使ったかなんて覚えていませんし、このブログを訪れたあなたも、まあ似たような感じでしょう。

 

とはいえ、まあここに記載してしまった以上は、少しばかり詳しく解説しましょう。

 

 

 

 

言葉を拾って意味を解説してみる

 

 

 

まず「千載」の部分から。

 

これ、「千回」とかそういう意味合いで捉えたくなりますよね。

 

しかし、調べてみるとどうも違う。実は、「千年」という意味なんだとか。

 

 

そして「遇」。これは「出会う」とか、「機会」とか、「もてなす」とか。そういった意味合いが込められているそうな。

 

 

さて、これらを組み合わせるとどうなるか。

 

「千年に一回の機会」と。つまるところ、こうなります。ここから、千載一遇=めったにない奇跡的なチャンス、と。こういう意味につながっていったんですね。

 

 

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わかったから三国志との関係はよ

 

 

はい。これが三国志とどう関係しているのか、ですが……

 

 

袁宏(エンコウ)という後世(っても三国時代が終わって数十年後)の人がまとめた、「三国名臣序賛」なる本に記されています。

 

この本は、なんでも三国志の名臣をベスト20でまとめた本とのことですが(名臣と言いつつ家柄重視なのは突っ込んではいけない部分なのだろう)……

 

 

この本の一説にこうあります。

 

 

千載の一隅は賢智の嘉会なり

 

 

 

今風に言うと、「千年に一度の巡り合いって、頭いい奴らの不思議な出会いのことだよね」と。こんな感じになるわけで。

 

ここから千載一遇という言葉が出てきて、世に広まったとされています。

 

 

 

異説というか、なんか違うというか……

 

 

曹操の南下に際してのお話。曹操がまず手始めとして荊州(ケイシュウ)を奪取しようと動きを見せた時の事。

 

奇しくもこの時、荊州を治めていた劉表(リュウヒョウ)が病死し、その息子である劉琮(リュウソウ)が跡を継いだ直後の事でした。

 

 

実はこの後継ぎの際に、ちょっとしたいざこざもあって、まだ足場が固まっていなかった劉琮勢力。

 

さすがに天下の大半を手に入れた曹操軍には敵わないと見て、多くの家臣は降伏を主張。劉琮本人も、曹操に降る表明をしていました。

 

 

しかしこの時に、とある側近がこう言ったのです。

 

「今なら曹操も油断しています。私が数千の軍勢を率いれば、必ず曹操を捕虜にすることもできるでしょう。そうすれば天下も取れます!さあ、お任せください!」と。

 

この時に千載一遇という言葉を使っただとか使っていないだとか……。まあ何にせよ、その側近にとっては、当時の状況はまたとないビッグチャンスだったのでしょう。

 

 

ちなみにその言葉を受けた劉琮はというと

 

 

 

降伏しました。

 

 

 

曹操に降伏しました

 

 

 

その後、劉琮はめでたくそれなりの地位を手に入れ、辺境で穏やかに暮らしましたとさ。この威勢のいい側近に関しては以降の記述はありませんが、きっと主君である劉琮についていったのでしょう。

 

続きを読む≫ 2017/03/30 16:06:30

 

 

 

ひとつの集団や集まりの中で特に群を抜いているものを、「白眉」と呼ぶことがあります。

 

この言葉、たまーにテレビや本なんかでも使われますよね。どこか知的な表現なのに、普通に我々の生活になじんでいます。

 

 

実はこれも、三国志に由来する言葉の一つです。

 

 

 

言葉の意味は?

 

 

この言葉の意味合いは、「群を抜いて優れたもの」という物です。

 

それも、「つまらないものの集まり」ではなく、えりすぐりの集団や集まりの中で、より一層素晴らしい物を指す言葉だとされています。

 

つまりただのエリートという意味合いではなく、エリートの中でもよりすごい物とか、1流作品が並んでいる中でも明らかにレベルがおかしい域に達しているものとか。そんな感じですね。

 

 

エリートの中でもさらに優秀な存在……うらやましい限りです。というか嫉妬心が爆発しそう

 

 

 

気になる出典は?

 

 

この故事成語のもとになった人は、三国志をかじっただけの人の中ではちょっとマイナーかもしれませんね……。

 

 

出典は「蜀書・馬良伝」。馬良(バリョウ)と呼ばれる人が、まさにこの「白眉」に該当する人物でした。

 

 

馬良の兄弟たちは軒並み優秀であることで知られており、「馬家の五常」などと言われ、地元でも有名人でした。

 

そして、その傑出した5兄弟の中でも、特に馬良は別格として、周囲から特に高い評価を得ていました。

 

 

この馬良こそが、白眉という言葉の由来……というか白眉そのものです。

 

というのも、何でも眉毛が白かったとか何とかで、そのことから地元では「白眉」というあだ名が定着していたのです。

 

 

そして、ある人曰く、

 

「馬家の五常、白眉最も良し」

 

訳すと、「馬さんところの家の5兄弟の中で、特に白い眉の奴がすごい」と。

 

このようにほめたたえられたことから、やがて後世にその名前や言葉が広がり、いつしかすごいものを「白眉」と呼ぶようになったといわれています。

 

 

 

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ところで、「五常」の「常」って何?

 

さて、もう通の人たちはわかってるだろうからいいとして……普通の人からすれば、ここはちょっとよくわからないところだと思います。

 

まず、三国志(というか中国史そのもの)には、字(アザナ)と呼ばれる、言ってしまえば本名とは別の名前がありまして。この馬良たちの兄弟は、それぞれ字のうちの一文字に「常」という文字が入っていたのです。

 

 

ちなみにこの馬良、「優れているってことは、きっとよき長男だったんだろうな」と予想される方もいらっしゃるでしょうが、残念ながら、馬良の兄弟に関してはわからないことが多く、何番目かはよくわかっていません。
それどころか、先述した字の法則性から推察して、四男の可能性が高いなんて話も。

 

「兄より優れた弟は存在しねえ!」などという言葉がどこぞの世紀末アニメで言われていましたが、案外、そうとも言い切れないんですね……

 

 

続きを読む≫ 2017/03/28 20:32:28

 

 

 

 

響き、なんか格好いいですよねえ。

 

孫子兵法の言葉だとか、そもそも造語だとか、なんか色々なことを言われてますが、実際どうなの?

 

てな感じで、この言葉の意味とか出典をダラダラ書き連ねていきます。

 

 

 

 

言葉の意味は?

 

 

 

意味としては、「戦争は素早さこそ命」といったものになります。

 

兵=戦争、軍隊という意味。

 

つまり、戦争関連の話なのです。

 

要約すれば、「戦争とは神がかり的な速さにこそ価値がある」とか、そんな感じのもの。

 

即決即断!

 

なんか響きもそうですし、実際できてしまっている人も格好いいですよねえ。

 

 

 

現代にも言えることですが、やはり手数の多さは立派な武器と言えるでしょう。

 

 

まあ、実際に即時行動すると後悔を呼ぶことは多いですが(小早川隆景もそう言ってた←)、

 

それでも、参考にはしていきたい考え方ですよね。

 

 

 

で、出典は?

 

 

 

この言葉の出どころは、実は三国志だったりしす。

 

「魏書・荀彧伝」が初出で、軍師である荀彧が、主君・曹操に対して助言した内容となっています。

 

 

そのため、この言葉を使ったときに「勝手に言葉を作るな」と注意を受けた場合、それは結構なお門違いなんですよね。
喧嘩にならない程度なら言い返してOKです←

 

 

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実は孫子にも似たような言葉が……

 

 

孫子に曰く、「兵は拙速を聞くも、未だ巧久を賭ず」と。

 

前半部分は、なんか似たような語感ですよね。

 

これこそが、「兵は神速を貴ぶ」が孫子の言葉だと勘違いされる理由なんです。
というかそもそも、意味合いとしては両者に大して違いはありません。

 

こっちの「拙速」の意味合いは、以下の通り。

 

「短期決戦では大勝を挙げた例はちょくちょくあるが、長期戦で素晴らしい戦果を挙げた例は聞いたことが無い」

 

 

 

つまるところ、両方とも「さっさと終わらせるに限る」という意味合いを持つことに変わりはありません。

 

特に戦争は、いろいろと消費は激しいですからね。

 

あまり長引かせるべきではないというのが、結局のところ孫子の大きな教えの一つだったりします。

 

 

 

曹操は孫子兵法の大ファンで、今出回っている孫子は彼の独自解釈を加えたものがベースになっているほどです。

 

その軍師である荀彧の事ですから、案外「兵は拙速を聞くも……」という言葉を参考にして、

 

「兵は神速を貴ぶ!」と提言したのかもしれませんね。

 

歴史上の駆け引きでは、こういった兵法書を元にした言葉や思想が、ちょくちょく出てきます。

 

もし三国志とか日本の戦国時代、他にもいろいろな歴史がお好きなら、こういった古代の教えをベースにして、言葉の意味や出所を調べてみるのも、面白いかもしれませんね。

続きを読む≫ 2017/03/23 01:23:23
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