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樊稠

 

 

生没年:?~興平2年(195)

 

所属:他

 

生まれ:涼州

 

 

 

 

樊稠(ハンチュウ)は、董卓(トウタク)軍の武将にして、李傕(リカク)らと並ぶ中心人物と言える将軍ですね。

 

三国志における扱いは横暴な李傕らとまったく同じ非道なヒャッハーですが、さり気に董卓軍の良心的存在のような人物であることがほのめかされている記述もあります。

 

 

 

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董卓死後の大物

 

 

 

樊稠が史書に正式に登場したのは初平3年(192)、北西部を牛耳っていた軍閥の大黒柱である董卓が暗殺され、本拠地が陥落した後の事。

 

それまでも董卓の子飼いとして高い地位にいた樊稠でしたが……大ボス董卓の死という突然の訃報に、他の将軍たちと共に外部に遠征に出ており、本拠地に戻れなくなったことで浮足立っていました。

 

 

さらには折悪くも、「董卓の本拠地・長安(チョウアン)では、涼州出身の人物が片っ端から処刑されている」というとんでもないニュースすら届けられる有り様。すでに樊稠らの帰る道はどこにもなく、前も後ろも敵だらけという絶望的な状況に立たされたのです。

 

 

 

が、ここで樊稠と別の軍を率いる李傕に従軍していた賈詡(カク)が、「支配体制が変わって混乱している長安を攻撃しましょう」と献策。李傕の軍勢は董卓軍の残党と合流し、そのまままっすぐ長安へと向かっていきました。

 

樊稠もそんな李傕らの軍勢に合流し、共に首都・長安を攻撃。まだ董卓を殺したことによるゴタゴタから立て直せていない反乱軍を十日で撃破し、長安を陥落させることに成功しました。

 

 

 

こうして李傕らと共に長安に返り咲いた樊稠は、右将軍(ウショウグン)の位に上り詰め、李傕らと実質肩を並べる権力者のような立ち位置に就くことができたのでした。

 

……しかし、この躍進劇が、後に樊稠を地獄へと突き落とすことにつながっていきます。

 

 

 

 

 

多頭政治の落とし穴

 

 

 

 

さて、こうして李傕、そして同格の郭汜(カクシ)を合わせた3人によって朝廷は牛耳られることとなり、樊稠は朝廷の中枢部に入り込むことができたのですが……位の上では李傕がトップだったものの、実質的な上下関係ははっきりとしていないというのが正直なところでした。

 

実質的なリーダー不在、多頭体制の政治となったわけですね。

 

 

とはいえ、はじめの頃はそれでも勢いがあり、西方の辺境に縄張りを築いていた馬騰(バトウ)や韓遂(カンスイ)といった群雄が帰順を申し出る等味方する諸侯も多かったのですが、それでも董卓の残党にしてリーダーもはっきりしない田舎組織。

 

人々は樊稠らをよくは思わず、名士の中には彼らを始末してしまおうと考える者も多かったのです。

 

 

そして、李傕や樊稠らが実権を握ってから約2年が経過した興平元年(194)、ついに内部にて反乱が発生。長安にいた名士たちが、長安にほど近い郿(ビ)に引き留められていた馬騰の軍勢を抱きこんで攻撃を仕掛けてきました。

 

樊稠はこれに対し、自らの軍勢を動かして馬騰を迎撃。これを無事に撃退し、李傕らも内部の反逆者を発見することで事なきを得たのでした。

 

 

こうして当面の敵対者を追いやった樊稠ら涼州の軍閥でしたが……ここにきて気が緩んだのか、とうとう複数リーダーを抱える欠点である権力争いが勃発。樊稠はそんな主導権争いの最初の犠牲者として殺害されてしまい、李傕と郭汜による激しい権力抗争がその後幕を開けたのでした。

 

 

 

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異説

 

 

 

ちなみに、樊稠の最期には異説が唱えられています。そのひとつが、『九州春秋』に書かれていますね。

 

樊稠は馬騰ら西涼の精強な軍隊を攻撃して敗走に追いやりましたが、異説によればこの時に馬騰らを取り逃がしたことが暗殺の要因になっている、というものですね。

 

 

この時、馬騰だけでなく韓遂も反旗を翻していたのですが、九州春秋によればこの時韓遂は馬騰の軍と合流、共に戦って敗れた結果、樊稠の追撃によってとうとう追いつかれてしまったようなのです。

 

が、ここで韓遂が機転を利かせ、なんと樊稠の前に自ら姿を現します。

 

 

「我らは同郷の出身。今は国家のため立場は食い違っているが、もっと大きなところでは我らは一緒だろう。共に語らい、気分良く別れようではないか」

 

 

樊稠は韓遂のこの言葉を聞くと、なんと自らお供を遠ざけて前に躍り出、韓遂や馬騰と共に談笑することを選択。そして一通り語り合った後、2人を逃がして帰ってしまったのです。

 

 

これを聴いて面白くないのが、李傕。よりによって敵を逃がしてしまった樊稠に対して「裏切ったのでは?」と疑念を抱き、さらに樊稠に従軍していた甥から「なんだか親しそうにしてました」という報告を受けたことで、より疑念が増大します。

 

そしてそんな風船のように膨れ上がった猜疑心を破裂させたのが、折しも樊稠からの兵力増強の具申でした。

 

 

敵と仲良くした挙句に兵を増やそうとしたのであれば、もはや膨れ上がった疑念を止めることはできません。李傕はすぐに会議を開くと、その場で樊稠を斬殺。勘違いにより樊稠は殺され、李傕らの天下は手から転がり落ちてしまったのでした。

 

 

また、『後漢書』の献帝紀によれば、樊稠の勇猛さと兵からの慕われようから不安視した李傕によって資格を放たれ、酒に酔ったところを殺されたとする説もあります。

 

 

いずれにせよ、李傕らによる血みどろ内紛ショーのスタートを切った人物であることは、まず間違いないでしょう。

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