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顔良

 

 

 

生没年:?~ 建安5年(200)

 

所属:他

 

生まれ:?

 

 

 

顔良(ガンリョウ)といえば、もはや言わずとも知れた猛将ですね。一時天下に大手をかけた袁紹(エンショウ)の軍にて武勇の代表格として名を上げ、曹操(ソウソウ)軍でも名指しで恐れられ、最大限マークされた人物。そしてもうひとりの猛将・文醜(ブンシュウ)の相方でもあります。

 

しかし、その事績はまったくもって謎。天下の軍と言ってもいい袁紹軍の武の中核を担っておきながら、正史には全くと言っていいほど武勇に関する逸話や功績が載っていないのです。

 

 

そんな顔良の唯一の出番は、よりによって自身が死ぬことになる官渡の戦い。今回は、そんな官渡の戦い前哨戦である白馬(ハクバ)の戦い、そしてそれに前後して書かれている顔良の記述を、史書から抽出したいと思います。

 

 

 

 

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迂闊で残念な勇壮の士

 

 

 

 

建安5年(200)に発生した官渡の戦いの時には、すでに顔良は文醜と共に袁紹軍の2枚看板として武の中核を担っていました。

 

その武勇は曹操軍にも知れ渡っていたようで、曹操に身を寄せていた孔融(コウユウ)などは、「顔良、文醜は大軍に勝るとも劣らぬ勇士」とすら述べ、袁紹の陣営を恐れていたほどでした。

 

 

が、一方でその性格を知る者にとっては名ほどの脅威はなかったようで、荀彧(ジュンイク)は怯えるような発言をする孔融に対し、「彼らは匹夫の勇というもの。一回戦えば捕らえることもできる」と強弁。

 

 

また味方の沮授(ソジュ)も、顔良の武勇頼みの性格を危険視し、出陣にあたって袁紹に対し、以下のように進言しています。

 

「顔良は武勇に優れていますが性格はせっかちであり、単独での出陣には不安が残ります」

 

 

とにかく、性格は非常にそわそわして猪突猛進なところがあったわけですね。

 

袁紹も沮授のこの提言に思い当たる節があったらしく、郭図(カクト)と淳于瓊(ジュンウケイ)の軍も顔良に随行させて3人を先鋒の大将に据えています。

 

 

かくして知略に乏しい顔良をうまく補佐する形でどうにか取り繕った袁紹軍は、ついに曹操軍の前線基地である白馬を攻撃。

 

兵力的に劣勢の曹操軍はこの攻撃を片手間で受ける余裕はなく、最初から曹操自身を中心とした主力部隊で白馬城の救援に向かう事になったのです。

 

 

この時、袁紹軍先鋒は曹操の救援部隊を計算に入れても兵力では優位。これが覆されるなど、この時袁紹軍の誰もが想像していませんでした。

 

 

 

 

 

顔良・白馬に散る

 

 

 

さて、白馬に置いた前線基地が攻撃によって窮地に陥る中、この救援に向かった曹操軍では大きな動きがありました。

 

なんと、白馬救援にまっすぐ向かったはずの曹操軍は、もう一つの前線基地である延津(エンシン)を経由して黄河を渡河。白馬を攻撃している袁紹軍の背後を攻撃するようなそぶりを見せます。

 

 

このまま曹操軍に背後を取られては、顔良らは本隊との連絡を遮断されたうえ、白馬と背後の曹操軍に挟み撃ちにされる構図になってしまいます。

 

そうなってしまえば、最悪逆転負けも大いにあり得る。そう考えた袁紹軍は、白馬を攻撃中の軍を分散させて背後の曹操軍を迎撃するために移動。最悪の事態に対応するために、白馬から離れていったのです。

 

一方で、顔良はそのまま白馬の攻撃を続行。グラスランナーな性格ゆえか彼なりの勝算があってのことか、ほぼ単独に近い形で軍をその場に留めたのでした。

 

 

しかし、この一連の流れは、曹操軍が仕組んだ罠。袁紹軍が分断されたことに気付いた曹操は、そのまま強行軍で孤立した顔良の元へ急行。張遼(チョウリョウ)と関羽(カンウ)を先陣に据えて、顔良軍に強行突撃を行います。

 

驚いた顔良はすぐに迎撃部隊を編成しましたが、急造の迎撃隊では話にならず敗北。単騎で遮二無二突っ込んできた関羽によって無残にも討ち取られ、袁紹軍の武の体現者はあっさりと歴史から消え去ってしまったのでした。

 

 

当然、この訃報を受けた袁紹軍は大きく動揺。次の戦いで相棒の文醜も戦死してしまったため、袁紹軍の混乱は並々ならないものになったと伝えられています。

 

 

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演義じゃ多少は箔がついてるんだけどね

 

 

 

あの関羽の手柄となった袁紹軍の将帥がこんな散り様では惜しい。そう思われたのか、三国志演義では袁紹軍随一の猛将として申し分ない働きをしています。

 

袁紹の忠実な部下として登場し、官渡の戦い以前にも敵武将を撃破。他にも一騎討ちや一触即発の場面など、袁紹軍の重要局面には文醜ともどもほぼ必ず姿を現していますね。

 

自身の死に場所となった白馬の戦いにおいても、もともと呂布(リョフ)軍の武将であった魏続(ギゾク)、宋憲(ソウケン)の2人を秒速で討ち取り、挙句の果てに徐晃(ジョコウ)すらも敗走させるというトンデモな立ち回りを見せています。

 

 

また、書籍によっては最期も脚色がかけられており、演義の初版では劉備(リュウビ)に頼まれて関羽を呼び止めようとしたところをバッサリ殺られる……なんて展開も。

 

 

なんとも哀れな最期ですが……「誰それ」な武将でありながらもこれで「袁紹軍最強クラスの勇将」という評価につながったのだから、世の中どうなるかわからないものです。

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