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郭図 公則

 

 

 

生没年:?~ 建安10年(205)

 

所属:他

 

生まれ:豫州潁川郡

 

 

 

 

郭図(カクト)、字は公則(コウソク)。袁紹(エンショウ)の代表的な家臣のひとりにして、どうしようもないガチ戦犯として未だに語り継がれている嫌われ者ですね。

 

袁紹(エンショウ)を優柔不断にしてしょーもない小物として描く史書や文献でもたびたび袁紹のついでとばかりにろくでもない書かれ方をする郭図は、現代にこれといった功績を語り継がれることがありませんでした。

 

その結果、ついた仇名は出ると負け軍師。間違ってはないけどさぁ!

 

 

さて、今回はそんな郭図の記述を三国志から極力拾い上げてみたいと思います。

 

 

 

 

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袁紹軍潁川名士組筆頭

 

 

 

郭図は独自の伝を持っておらず、その記述は完全に飛び飛びですが……『後漢書』入力よれば、最初は地元の潁川(エイセン)郡で経理の役人をしていたようです。

 

そこをある時、潁川の太守となった陰脩(インシュウ)なる人物に見出され、推挙を受けて朝廷に仕えるようになったとか。

 

 

こうして中央のエリート官僚となった郭図は、いつからか4世にわたって大臣級を輩出していった袁家の出身者である袁紹と繋がり、後に彼に仕えることになりました。

 

同郡の出身者である荀諶(ジュンシン)や辛評(シンピョウ)も同時期に袁紹に仕官しており、郭図個人がどうこうよりも、純粋に名士の宝庫である潁川からの採用に郭図も乗っかかっただけかもしれませんね。

 

 

 

何にせよ、こうして袁紹軍に加入した郭図は故郷を離れ、黄河を挟んで北側の大地でみるみる頭角を現します。

 

その細かな事績は不明ですが、興平2年(195)にはよりによって帝への使者に郭図が選ばれており、少なくとも袁紹の領土経営が本格化したころには、すでに中枢にいたことがわかりますね。

 

 

さて、ともあれこうして帝への使者として謁見を果たした郭図でしたが、「これは見所がある」と思ったのでしょう。袁紹が本音では帝を快く思っていないのをわかっていたはずなのに、あえて「帝をお招きし、こちらで奉戴しましょう」と献策します。

 

もっとも、我の強く今の帝が嫌いだった袁紹にはこの案は採決されることはなかったのですが。

 

 

『献帝伝』によれば、帝を奉戴するよう献策したのは沮授(ソジュ)。郭図は逆に、おなじく中央から来た官僚の淳于瓊(ジュンウケイ)と共に奉戴に反対しています。これを見るに、割と早い段階から郭図への悪評は広まっていたようですね。

 

対して事績はほとんど残っておらず、せいぜい『英雄記』にある「韓馥(カンフク)を他の群臣と共に説得して地位を袁紹に譲らせた」くらい。これもこれで大仕事ですが、後世にある田豊(デンポウ)や沮授の記述から見ると物足りません。

 

 

さて、まあ意図してかき消されたかもともとそんなに活躍しなかったのかは謎ですが……郭図はこのように、袁紹軍の中でも北の冀州(キシュウ)に赴任する前からの古参として確かな地位を手に入れました。

 

しかし野心からか袁紹の本音に沿うためか、はたまたもっと別の理由からか……郭図はこれ以降、次第に袁紹陣営の中の権力闘争に明け暮れるようになっていくのです。

 

 

 

 

出ると負け軍師の本領

 

 

 

 

『献帝伝』によれば曹操(ソウソウ)との決戦がいよいよ避けられなくなった建安4年(199)、郭図は冀州出身の謀臣である沮授が軍事内政共に絶大な権力を得ていることに注目。なんと讒言によりその力を削ぎ落しにかかります。

 

その手始めとなったのが、曹操との戦いの基本方針。この時、沮授と田豊の2人は「戦ってばかりで国も疲れてきているので、持久戦でじわじわ締め上げましょう」と袁紹に提案します。

 

しかし郭図は、冀州出身者ながら袁紹に忠実な審配(シンパイ)と共に、沮授や田豊の意見に真っ向から反論します。

 

「いやいや、圧倒的な差があるうちに踏みつぶさねば、後が大変です」

 

袁紹は、郭図らの意見に見所ありとしてその意見を採用しますが……郭図はこれ見よがしとばかりに、沮授に対して攻撃を行ったのです。

 

 

「沮授は軍事も内政も監督統括する身分にありますが、これではいざという時に止める役がおりませんな。君主と臣下の権力が同等であれば、亡国の兆しにもなり得ますぞ」

 

この言葉を受けた袁紹は疑心暗鬼に陥り、結局沮授の権力を削ぐことに決定。軍の監督権を3分割し、沮授の他に淳于瓊、そして郭図がそれぞれの軍を受け持つことになったのでした。

 

 

 

翌年の建安5年(200)袁紹軍はついに曹操と開戦。袁紹は手始めに軍を要衝・白馬(ハクバ)へと向けます。郭図はこの白馬攻撃軍の指揮官の1人として参戦しましたが……結果は惨敗。大将のひとりである顔良(ガンリョウ)が討死し、最悪の出だしとなってしまったのです。

 

続く延津(エンシン)での攻防戦も、大将の文醜(ブンシュウ)が討ち取られて惨敗。袁紹軍は初戦を2度も落としてしまったのでした。

 

再び『献帝伝』から抜粋。度重なる進言無視によって嫌気が差した沮授は、とうとう戦いをボイコット。沮授は結果として軍権を取り上げられ、その軍勢は郭図の指揮下になったそうな。

 

 

 

とはいえ、それでも袁紹軍の陣容はまだまだ圧倒的。袁紹は自ら黄河を渡って曹操の籠る官渡(カント)に取り付き、総攻撃を仕掛けます。

 

これによって戦況は五分を通り越し、耐え切れなくなった曹操軍が仕掛けてきた決戦でも大勝を飾り、いよいよ打つ手なしというところまで追い詰めるのに成功しました。

 

 

しかし、袁紹の勝利がほぼ完全に確定したある時、軍中に衝撃の報告が飛び込んできます。

 

輸送してきた兵糧をすべて集めていた烏巣(ウソウ)の兵糧庫が、曹操軍の襲撃により苦戦。

 

 

袁紹はすぐに対策を練ろうと緊急の会議を行いましたが、ここでも郭図は将軍の張郃(チョウコウ)と意見が衝突します。

 

というのも、「烏巣を全軍で救援しましょう」と訴える張郃に対して、郭図は「曹操軍の本陣が手薄になった隙に攻撃を!」と主張したのです。

 

 

袁紹は両者の意見を折半してすぐに奇襲への対策を施しましたが、曹操軍の計算外の強さに烏巣は陥落。曹操軍の本陣も落とせず、軍備をすべて失った袁紹軍は不安と恐怖から総崩れになってしまったのです。

 

 

この敗戦責任を問われることを恐れた郭図は、なんとここで張郃を讒言。「奴は敗北で調子に乗って暴言を吐いています」と袁紹に虚偽を伝え、罪をかぶせるという暴挙に出、張郃は身の危険を感じて曹操軍に投降してしまったのでした。

 

ちなみにこれは張郃伝の記述。他の史書や伝では、張郃は郭図の讒言とは関係なしに降伏したと書かれており、讒言があったかどうかは結局不明です。

 

 

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権力抗争の果て

 

 

官渡の戦いから2年後の建安7年(202)、袁紹は病に侵されて無念にも死去。ついに名士たちの間で行われていた権力抗争のストッパーが無くなってしまいました。

 

袁紹の死後、すぐに袁紹軍は空中分解。審配や袁紹軍中枢の1人だった逢紀(ホウキ)が3男の袁尚(エンショウ)を後継者に推す中、郭図は長兄の袁譚(エンタン)を支持。両者とも譲らぬまま、ついに軍事衝突にまで発展したのです。

 

最後には曹操すらも対立の深刻化を期待して放置を決め込む中、袁譚と袁尚は決戦を行い、袁譚はそのまま敗北してしまったのでした。

 

 

郭図はこの期に及んでは致し方なしと、仇敵である曹操との同盟を進言。「後に対立しても、補給線が伸びすぎた曹操軍を撃退するのはたやすい」という目算の上での行動でしたが……この目論見は大きく外れてしまいます。

 

 

袁譚と同盟した曹操はすぐに袁尚の本拠である鄴(ギョウ)を包囲すると、これを陥落。すぐに袁譚との外交関係にひびが入り、袁譚は袁尚よりも数段強い曹操軍との戦いを強いられるようになってしまったのです。

 

郭図の目論見は大きく外れ、袁譚はすぐに撃破され、何とか北へと逃げ延びたものの最期には捕捉され完全敗北。袁譚と共に斬り殺され、あまりにも呆気なく最期を迎えたのでした。

 

 

ちなみに怨敵の審配はおろか、ほぼ無関係者の劉表(リュウヒョウ)ですら手紙にて郭図の危険性を説いたという記述もあります。『典略』によれば袁譚を逆に脅迫して傀儡にしていたような記載がされており、これまたなかなか興味をそそります。

 

 

 

 

忠臣?奸臣?

 

 

 

後世には「袁紹の勢力を滅ぼした戦犯にして全部こいつが悪い」というようなイメージが定着しており、郭図の正しい人物像を見出すのは、おそらくは至難の業と言ってもよいでしょう。

 

最期まで袁家に尽くした忠臣という見方もできる人物ですが、その割に行動が逐一黒いというのも恐ろしいところ。

 

 

さしあたって思いつく仮説としては、郭図もやはり、土地や人脈に縛られた名士のひとりだったのではと。袁紹の思惑もあったのか、とにかく沮授をはじめ冀州の土着名士を潰しにかかっている。郭図の事績からはそんなイメージすら浮かぶのです。

 

 

袁紹に対して忠実な謀臣……というのはあながち間違っていないのでしょうが、それにしても周囲から「コイツと辛評のせいで袁家が終わった」とすら見られ、袁紹に忠実だった審配の排斥すらやった記述があるのだから、やはり単に忠実なだけの人物ではないのでしょう。

 

 

もしかすると郭図は、冀州の地において地元の名士を排斥し、豫洲潁川の名士を中心とした新生ネットワークを作る野心を抱えていたのかもしれませんね。そう考えると、外敵の曹操の手すら借りようとした理由も、何となくわからないでもない気がします。

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