陳宮 公台


このエントリーをはてなブックマークに追加

陳宮 公台

 

 

生没年:?~建安3年(198)

 

所属:他

 

生まれ:兗州東郡武陽県

 

 

 

 

陳宮(チンキュウ)、字は公台(コウダイ)。呂布軍の軍師として有名な人物ですよね。

 

曹操(ソウソウ)を悪として徹頭徹尾書き上げるような作品では、まさに義戦士のような善良さを持った男ですが……正史においてはどーしよーもねークソ野郎。曹操アンチの史書では彼のいい人化を図って擁護しようとしている風もありますが、とても隠しきれるものではないでしょう。

 

 

個人的に、彼の興味深いところは知力よりもその野心。もうなんというか、暴走しすぎです。本当ヤバすぎでしょうこの人。傍から見てる分には好きです、こういういたずらに場を混乱させる人。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

君も今日から、英雄だ!

 

 

 

話半分の史書である『典略』によると若い頃から多くの有力者とよしみを結び、非常に精力的に活動。己の野心に向けて順調に下準備を整えていました。

 

そんな陳宮は、やがて動乱の世になると曹操に仕官。いつの時期かは知りませんが、彼の参謀の一人として働くようになりました。

 

 

『世語』によると、曹操の群雄としてスタートを切る事になる始まりの地・兗州(エンシュウ)を得ることになったのは、陳宮のおかげだとか。

 

兗州の長官が戦死して不在になった時、彼が曹操に「兗州の上に立ちましょう」と提案。周辺の土豪たちにも曹操を主とするよう駆け回ったようです。

 

とはいえ、当時の兗州は、百万とも言われる黄巾党の残党から攻撃を受けて、非常に危険な状態でした。曹操は彼らに苦戦し大事な仲間も失いますが、なんとか黄巾党を下してこれを併呑。群雄としてのスタートを切ったのです。

 

 

こうして群雄としての黎明期を迎えた曹操ですが……この時、陳宮は彼に対して「何か違う」と、自分の理想との齟齬を感じ取っていました。

 

 

 

そして兗州平定から2年後の興平元年(194)、陳宮が感じていた疑問はついに爆発。なんと曹操が遠征中で不在の間に、無類の強さを誇る豪傑・呂布(リョフ)を迎え入れて謀反を計画。

 

曹操の親友である張邈(チョウバク)をそそのかし、自身の人脈をフル活用して兗州の九割以上をまたたく間に反曹操の勢力で固めてしまったのです。

 

 

この時、無能感と疑心暗鬼に震えて迷える張邈に送った悪魔の言葉がこちら。

 

 

「あなたは良い土地を治めて英雄としての条件をお持ちなのに、なぜくすぶっておられるのか。さあ、呂布と共に手を取り合い、覇業を始めましょう!」

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

謀反の失敗

 

 

 

さて、曹操の親友すらも引っ張り出しての大反逆は、すでに陳宮らの勝利がほぼ確定する所まで持っていけましたが……この時、鄄城(ケンジョウ)、范(ハン)、東阿(トウア)の3県だけは反乱に乗らず、曹操軍に味方。

 

陳宮はこの小さな芽が危険につながると読んで、さっそく不穏分子を潰しに進軍を開始。范と東阿を落とすために自ら軍を進めます。

 

 

……が、曹操軍参謀である程昱(テイイク)の策略より東阿への道が封鎖され、范に向かっていた別動隊も大将が暗殺されて霧散。さらに漁夫の利を狙って兗州進軍を狙っていた群雄も、荀彧(ジュンイク)の弁舌に追い返されてしまいました。

 

さらに、手間取っている間に曹操軍の本隊が帰還。陳宮らは応戦し互角の戦いを演じますが、たまたまイナゴによる飢饉に見舞われ、両軍は停戦。上手く行かなかったことから、次第に反乱軍に陰りが見え始めます。

 

 

そして不穏な空気のまま、翌年の興平2年(195)には曹操軍と再戦。曹操に攻められた救援に向かうも迎撃部隊に敗れ、さらに別の戦場でも連戦連敗。

 

薛蘭(セツラン)ら李封(リホウ)といった呂布に味方してくれた人物を戦死させてしまい、呂布自身も兵力優勢でありながら伏兵によって大敗北を喫してしまいました。

 

 

こうして敗北を重ねた結果、陳宮の反乱計画はとうとう失敗し、兗州の呂布軍は拠り所を失って壊滅。結局、呂布らは徐州の劉備(リュウビ)の元に向かう事になったのでした。

 

 

 

 

裏切り野郎、最期に見せた粋な気骨

 

 

 

建安元年(196)、呂布劉備の留守を突いて徐州を強奪。再び勢力を得ましたが……陳宮はこの時、すでに呂布が自分の手に負える人物ではないという結論を導き出していました。

 

同年、なんと自ら手引きして、部将である郝萌(カクホウ)の反乱を誘発。しかしこの反乱は郝萌の部将で呂布軍に戻ってきた曹性によって鎮圧され、なんと「黒幕は陳宮」と暴かれてしまったのです。

 

この時陳宮は焦りのあまり、顔を赤らめて自分が手引きしたと周囲にバレてしまったのですが……呂布は「こいつは大将だから」という謎の理論を持ち出して不問にされます。

 

 

その後、曹操軍は完全に呂布を攻略するために大軍を動員。呂布軍は曹操側に味方する劉備を援軍ともども追い散らしますが、曹操本人が来たことで圧倒されていきます。

 

そして最後は本営である下邳(カヒ)を残してすべて曹操に降る事になり、呂布軍は完全に追い詰められてしまったのです。

 

『献帝春秋』によれば、陳宮は曹操が来襲した際に迎撃策を提示。呂布から拒否されています。

 

しかも曹操軍に囲まれて攻め立てられたとき、呂布は「殿、私はあなたに降ります!」と曹操に懇願。陳宮が慌てて「何が殿か!曹操に降るのは、石に卵を投げつけるようなものですぞ!」と慌てて止めたとか。

 

 

ちなみに迎撃策については『魏氏春秋』にも同じ記述があります。こちらでは呂布は乗り気だったのですが……よりによって寂しさを覚えた呂布の妻が「置いて行かないで」とゴネたため、結局中止となったとか。

 

 

呂布軍は一度呂布自ら迎撃に出るも、部将を捕縛されてしまう敗北を喫したことで、いよいよ籠城以外に道が無くなってしまいます。またこの時、呂布曹操から降伏勧告を受け取ると降伏しようとしたものの、さすがに陳宮が「許されるはずもない」と考えて阻止したとか。

 

その後も呂布袁術(エンジュツ)の元に救援要請を送るなど、なんとか生き延びようとしますが……包囲開始から3ヶ月が経過した年末、ついに呂布軍中で亀裂が生じます。

 

 

なんと、部将である魏続(ギゾク)、宋憲(ソウケン)、侯成(コウセイ)らがこぞって造反。陳宮を縛り上げて曹操に降ってしまったのです。

 

これによってすでに心折れていた呂布を止めるものがいなくなり、ついに呂布が降伏したことで陳宮らは敗北。

 

 

陳宮は呂布や勇将・高順(コウジュン)らと共に処刑され、晒し首にされてしまったのでした。

 

 

処刑に際し、曹操は陳宮に対して「お前の家族を預かっているが……」と暗に自分への降伏を迫りましたが、陳宮はこれを拒否。曰く、

 

「仁徳と孝行によって天下に覇を唱える英雄は、人の親を殺したり知を途絶えさせたりはしないとか。家族の命は、私でなくあなたの手中にあります」

 

かくして陳宮は、最期の最期で曹操に対して意地を見せたのです。

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

裏切りと野心に殉じた一生

 

 

 

最期に漢気を見せたことで幾分か緩和され、むしろ綺麗な善人とされる陳宮ですが……やったことといえば以下の通り。

 

 

・主君を裏切って未曽有の危機に叩き込む

 

・その時、主君の親友まで道連れにする

 

・またしても主君を裏切ろうとする

 

 

はい、完全にヤバい人です。野心メラメラです。ついでに言うと節操無しです。

 

これらの行動を鑑みると、どうにも陳宮には、「君主を神輿として担ぎ上げることで天下に臨む」という野望があったのではないかと思えてきてしまいます。

 

 

 

最初は弱小の雑魚群雄である曹操に仕えたものの、思った以上の大器であったためこの機に亡き者にしようと叛逆。

 

武力だけはあるが操りやすい強欲野郎をそそのかしてトップに立て、なんか気の弱そうだけど名声だけはある奴を保険として囲い込む。が、失敗して曹操に反撃の足掛かりを与えてしまう。

 

名声だけ野郎の張邈が死んで、残った呂布も操りきれそうにないので叛逆。そして最期は一緒に殺し損ねた曹操に、呂布ともども殺される。

 

 

ぶっちゃけ、こんな感じにも見えてきてしまいます。

 

 

『典略』での話なので信憑性は微妙ですが……曹操に「お前ほどの智謀の士がなんてザマだ」と言われたときに、呂布を指して「コイツが言う事聞かなかったから!」と言い放ったのが、陳宮の性格のすべてを表しているような気がしますね。

 

 

ちなみに『英雄記』での呂布の妻による進言によれば、呂布軍において珍しく清廉潔白であった高順とは仲が悪かったとか。しかもそれと同時に、妻は呂布に対して「陳宮の言う事に惑わされないで」とも述べており、思いっきり警戒されています。

 

 

さて、最後に『典略』からの陳宮の性質、そして正史本文にて荀攸(ジュンユウ)、郭嘉(カクカ)が述べた陳宮評を述べて、このページを締めたいと思います。

 

 

剛直にして、気迫に満ちた人柄であった。

―魚氏『典略』―

 

並外れた知恵はあるが、ノロマで決断は遅い。

―『荀攸伝』より―

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

董卓
みんな大嫌い(?)、三国志随一のヤベー奴。思想、能力、方向性。すべてにおいて、儒教国家からすると猛毒ともいえる人物です。
李傕
性格破綻者とはまさにこの事。ヤバさでいえば董卓以上です。
郭汜
ウンコマン。
牛輔
董卓軍の時代のホープ……なんだよね? ねえ?
袁紹
迷族とかいろいろ言われていますが、正史の彼はむしろ果断の人……
袁術
今なお愛されている蜂蜜キング。
劉表
荊州の群雄として活躍していた清流派の皇族ですね。雑魚群雄のイメージはありますが、見てる限りなかなかにしたたか……
呂布
三国志でも最強の武人。しかし中国史には項羽とか言う化け物が上に居るんや・・・
張邈
曹操のマブダチだったのですが、曹操、袁紹の板挟みの末、突然の裏切り。曹操軍の黎明期を支えた最良の支援者は、憎むべき裏切り者として名を残すのでした。
公孫瓚
イケメン白馬のアルティメットイナゴ。
陶謙
魏と呉で評価が随分違う人。というかこの人ブラック過ぎへん!?
張燕
黄巾の乱に便乗した盗賊が、いつしか黒山賊という大盗賊団を結成。そこのドンとして君臨し続けたトンデモ人物こそが、この張燕でした。
張繍
曹操にトラウマを植え付けた人物は複数いますが……彼もそんな人物の一人ですね。
劉璋
偉大な野心家である親父の残り香に振り回された、ちょっとかわいそうな人。
張角
三国志を作る遠因を作った張本人。彼によって引き起こされた大反乱こそが腐りきった漢という国にトドメを刺し、戦乱の幕開けになったのは間違いありません。
顔良
袁紹軍両翼のイケメンの方
文醜
袁紹軍両翼のブサメンの方
郭図
三国志でも嫌われ度数はトップクラス。出ると負け軍師と言われるものの、微妙に政治的な都合が見え隠れするのであった。
田豊
クソ雑魚袁紹に仕えたばかりに残念な最期を遂げた悲劇の謀臣……と世間で言われてる人。
樊稠
董卓軍の良心?
華雄
ボルケーノ惨劇
蔡瑁
劉表のガチ参謀。本文での活躍が少なく、引用書籍からの記述が多いですが……
黄祖
孫家一門としのぎを削った宿敵枠。負けの記述しかないのが哀愁を誘う。
張任
演義では一流の部将。正史でも劉備に評価されますが……結局処刑されたからどんな人かわかりません。
張松
ネズミ―マウスな顔つきがなぜかしっくりくる人。
笮融
仏教を悪用したぐう畜生。正史の記述が事実なら、彼ほどのロクデナシは乱世と言えどもそうはいないでしょう。
禰衡
三国志の世界にも、頭のおかしい狂人はいるものです。禰衡は高名な名士でしたが、その名声に驕って他人を中傷しまくる毒舌芸人でもありました。
徐栄
アンジェリーナ・ジョエー
昌豨
お前曹操のこと死ぬほど嫌いだろ
眭固
派手な顔芸として知られる人物ですが……実際は地味な群雄。というかひとつのドタバタ劇の最終ランナー。

ホーム サイトマップ
お問い合わせ