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蔡瑁 徳珪

 

 

生没年:?~?

 

所属:他

 

生まれ:荊州襄陽郡

 

 

 

蔡瑁(サイボウ)、字は徳珪(トクケイ)。三国志では完全にチョイ役で、劉表(リュウヒョウ)伝にすこーしだけ名前が出る程度。とても列伝を後付けで立てることもできないくらいで、演義を始め三国志メディアでは何とも小物っぽい悪役という、嫌われ者の王道を行くような人物です。

 

しかし、その地筋は荊州でも大物と言える名士であり、劉表にとっては欠かすことのできないパートナー。さらにはどうにも自家のついでくさいとはいえ劉家存続にも一肌脱いでおり、まさに後漢末の荊州における重要人物の一人と言っても過言ではありません。

 

 

まあ、あくまで一地方のキーパーソンに収まるだけという人物がそんな丹精込めて語られる大物であるはずもないのですが……とにかく今回は、そんな蔡瑁の数少ない記述を、信憑性のあるとこないとこからできる限り追っていきましょう。

 

 

 

 

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荊州豪族、劉表に癒着

 

 

 

蔡瑁の一族は荊州に根付く非常に強力な名士だったようで、蔡瑁も若くして剛毅で気位の高い、まさに名士じみた人物となったようです。

 

 

そんな蔡瑁が住まう荊州に駆け込んできて政権を握ることになったのは、折しも党錮の禁によって完全に干されていた劉表でした。

 

劉表は自身に反対する勢力が多いことを気にかけ、付近から名士を募集。蔡瑁はこの時に蒯良(カイリョウ)、蒯越(カイエツ)兄弟らと共に招かれ、以後その隆盛に力を尽くすことになったのでした。

 

 

さて、そんな劉表の一番の家臣として頭角を現し、姉が妻を失っていた劉表の後妻になった事から筆頭家老のような立ち位置について、勢力拡大に少なからず貢献することになったのでした。

 

その癒着ぶりたるや、劉表がもっともかわいがっていた次子・劉琮(リュウソウ)に自身の姪が嫁ぐことになり、劉氏との血縁関係はさらに濃いものとなるほどだった様子。

 

 

このせいか元々その傾向があったのか、三国志にも後漢書にも、劉表伝には「劉表には長子に劉琦(リュウキ)という人物がいたが、それを差し置いて次子の劉琮をかわいがった」という記述があるほど。

 

劉表が臨終のときを迎えるころには、蔡瑁の存在はその勢力になくてはならないほどになっていたのです。

 

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従属か敵対か

 

 

 

建安13年(208)、劉表が亡くなると、荊州に激震が走ります。

 

――天下人曹操(ソウソウ)、大軍を率いて荊州に南下。

 

 

この時の荊州は客将にアンチ曹操筆頭格の劉備(リュウビ)を抱えており、彼の影響力もあって抗戦派と降伏派に二分。奇しくも兄・劉琦を押しのけて後継者となった劉琮は、配下の説得もあって曹操に降伏することになったのです。

 

蔡瑁は劉琮の後継者就任こそ全力で支援したらしいですが(たぶん)、この時に降伏と抗戦どちらを主張したのかは定かではありません。とはいえまあ、たぶん降伏派でしょう

 

 

結局抗戦派は劉琮の兄・劉琦やその後ろ盾である劉備を慕って離れていき、残った降伏派名士ともども蔡瑁も曹操に降伏。青州刺史(セイシュウシシ)として曹操領内の後方に相応の地位で配置され、その後も順調に出世を重ねたとか。

 

一方の蔡瑁も魏の高官を歴任し、長水校尉(チョウスイコウイ:宿営の騎兵隊を率いるエリート職。ただし基本留守番役)となって曹操の留守居を守る高級軍人の仕事を全うし、漢陽亭侯(カンヨウテイコウ)として列侯入りを果たしたのでした。

 

あれ、長水校尉ってただの名誉職……

 

 

 

『典略』より。もともと蔡瑁の記述は信憑性グレーのところからも引っ張って来てますが、この話はグレーどころか黒寄りなので、与太話として記載。

 

 

蔡瑁は蒯越と共に劉備暗殺を画策。罠の宴会へ招待したことがあったようです。

 

しかし、劉備は第六感によりこの罠を感じ取り、トイレと偽って逃走。的盧(テキロ)という馬に乗って川を泳いで渡るという無茶をやらかされ、そのまま逃がしてしまったのです。

 

蔡瑁らはその後劉備に人をやり「主である劉表の差し金です」と言い訳だかネタバラしだかを行い謝罪。

 

 

もっとも、この話は「こんなん企んだら劉備はもっと早くに逃げるだろ」との言葉によって話を否定されていますが……こういう逸話から見て、やはり蔡瑁の受けがよろしいものでなかったのはなんとなく察することができます。

 

 

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結局誰なんこいつ?

 

 

 

さて、こうして色々と記述を拾ってきたわけですが、後漢書や三国志の本文にある内容は、実際には

 

・劉表の重臣で、その勢力拡大に大きく貢献した

 

・劉表が自分の姪の夫である劉琮をかわいがっており、蔡瑁はこれを後押しした

 

・劉琮と共に曹操に降伏。劉表旧臣から曹操に列侯へと上げられた人物は15人もいた(蔡瑁が入るかどうかは不明)

 

 

とまあこんなところ。それ以外の記述はだいたいグレーゾーンといったところです。蔡瑁の主な記述は襄陽近隣の地方史である『襄陽記』という書物。彼の字ですら、この史伝でしか明らかになっていません。

 

 

ちなみにこの襄陽記では、蔡瑁についての更なる驚愕の事実が明らかになっているのです。

 

それはなんと、彼は曹操の旧友であり、諸葛亮(ショカツリョウ)の叔父でもあるという話。

 

 

まず、諸葛亮の妻は黄月英(コウゲツエイ)という人で、その父親である黄承彦(コウショウゲン)が蔡瑁の長姉を妻にしていたという話。ただそれだけで他は何かあったという記述も無いのですが……これだけでも衝撃です。

 

さらには曹操とは旧友の間柄であるからこそ降伏した時に口添えが利き、それを期待して降伏に踏み切ったとも言われていますね。仮にその通りならばまさし蔡瑁の目論見はく大成功。曹操の寝室に入れるくらい信頼されたという胡散臭い説も転がっています。

 

 

まあこの辺は確定でそうだったと言えるものではありませんが……時代を代表する2人の英傑とつながりがあったというのは、それだけですごい事なのではないでしょうか?

 

ただの小物キャラとしてメディアに出ている蔡瑁に、こんなつながりがあるのですから驚きです。

 

 

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