袁術 公路


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袁術 公路

 

 

生没年:?~建安4年(199)

 

所属:他

 

生まれ:豫州汝南郡汝陽県

 

 

勝手に私的能力

 

袁術,三国志,仲,皇帝,愛すべきバカ,蜂蜜,意外な大物

統率 D 部下をまとめるカリスマ性は間違いなくあったが、如何せん自身の威光頼りだったようで最後は離脱者も多い。戦争に関しては、相手が曹操というのを考慮しても下手。
武力 C 袁紹と同じく、彼もまた名族でなく個人の威光頼りの側面が強い。若い頃は任侠気取りのヤンチャ者だった。
知力 B 本気で雑魚のイメージしかない人物だが、己の力で袁紹に並ぶ最大勢力まで上り詰め、大局を見る力は確実にあった。人の目線と物の価値が測れないだけで……
政治 D 内政能力はEかF。しかし大局を見据えての外交能力は本物で、常に味方を作って敵に対する包囲網を形成していた。最期は内政土台という足元が見えずに撃沈。
人望 C 後世の評価はボロクソの一言に尽きるが、当時はその名声を考慮して仲間になった者も多く、意外にも味方は多かった。

 

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袁術(エンジュツ/エンスイ)、字は公路(コウロ)。無駄なしぶとさと名ばかりの配下の名将たち、そして壊滅的政治能力に突然の建国……何ともネタにまみれた人物像で、今なお高い人気を誇る群雄の一人ですね。

 

 

一見するとしぶとさ以外では何のとりえもない単なる雑魚武将のようにも見えますが、そんな彼にも、意外なところで非凡な才能が有ったりなかったり……

 

 

 

 

 

 

 

大勢力に上るまで

 

 

 

袁紹(エンショウ)とは兄弟の間柄の袁術ですが、その中でも袁術は父親である袁逢(エンホウ)の正妻の子であり、正式な嫡男として見られていました。

 

 

代々大臣クラスの大役を輩出していた名門の御曹司というだけあって、袁術は若くから政界に名乗りを上げ、各地を歴任。その後、近衛兵指揮官の一つである虎賁中郎将(コホンチュウロウショウ)に任命され、中央でも幅を利かせる存在となりつつありました。

 

 

 

……が、そんな折に袁術らが属する派閥のトップである何進(カシン)が暗殺され、直後に都に駆けつけてきた董卓(トウタク)が政治の実権を握ってしまいました。

 

 

袁術は董卓によって高位の軍事職である後将軍(コウショウグン)に任命されますが、董卓が帝を挿げ替えようという動きを見せると、危険と見て南の荊州(ケイシュウ)に逃亡。

 

たまたま孫堅(ソンケン)が太守を殺害したという荊州の重要拠点・南陽(ナンヨウ)の新しい主として君臨しました。さらに袁術は孫堅を荊州刺史に取り立て、諸侯が董卓に反発して結束した反董卓連合の前衛部隊として任用。

 

孫堅董卓軍相手にほぼ唯一善戦し、董卓が逃亡した後の都・洛陽を占拠するほどの活躍を示したのです。

 

 

 

しかし、袁術は謀略は良くても政治は壊滅的。元々董卓に敵対する兵、そして軍需品や装備を集めるというだけでも民衆に多大な負担を強いるものなのですが、袁術はさらに自らの贅沢のための費用まで民衆から調達

 

栄えていた南陽の住民は苦しみ、次第に国力が衰えていったそうです。

 

 

 

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袁紹との骨肉の争い

 

 

 

さて、董卓が西に逃亡したことで、反董卓連合軍はお互いへのひそかな反感や「出し抜いてやろう」という各々の思惑から、あっという間に瓦解してしまいました。

 

その折に、新たに荊州刺史として赴任してきた劉表(リュウヒョウ)とは上手く行かず、後に敵対。さらには袁術の兄・袁紹との仲も次第に悪化するなど、時代は群雄割拠に移りつつありました。

 

 

そんな中、袁術は北端の幽州(ユウシュウ)に割拠する公孫瓚(コウソンサン)と同盟。公孫瓚は袁紹と不仲な上に領土を隣接しており、遠く離れた冀州(キシュウ)に陣取る袁紹との代理戦争を期待したものでした。

 

対する袁紹も劉表と同盟を結び、袁紹と袁術は当時の群雄の二代巨頭として天下を争うようになりました。

 

 

そんな折、袁術は北に兵を動かし、さらには配下の孫堅に劉表攻撃を指示。しかし孫堅は不意を討たれて敗死し、孫堅勢力は瓦解。さらには公孫瓚も袁紹に敗れたうえ、袁術側の陶謙(トウケン)も袁紹側の曹操(ソウソウ)に破れる等袁術陣営の戦いは難航します。

 

 

そんな中、袁術は曹操勢力下の兗州(エンシュウ)にある陳留(チンリュウ)に軍を進め、一発逆転を狙って自ら一大決戦に臨みました。

 

この当時曹操は兗州を得たばかり。まだまだ弱小であり、さらには曹操の背後にいる黒山賊にも協力支援を要請。普通でしたら袁術に負ける要素はありませんでした。普通は

 

 

が、袁術はこの戦いに大敗北。さらには本拠地である南陽への帰り道も(密かに州牧に進化していた)劉表によって糧道ごと遮断されており、変えるに帰れないという有り様。

 

袁術は仕方なく残った兵を集めて揚州(ヨウシュウ)に逃亡。そのまま再起を図り、揚州刺史を殺害してその支配地を丸々支配下におさめてしまったのです。

 

 

その動きを見て、長安の李傕(リカク)は「只者ではない」と思ったのか、袁術を左将軍に任命。漢帝国直属の臣下である馬日磾(バジツテイ)を派遣。

 

 

袁術は馬日磾を迎えると、使者である証の節を強奪し拘留。自軍の臣下らに官位を与えるように迫ってこれを憤死に追い込みました。

 

 

袁術の時代は、まだまだ終わってはいなかったのです。

 

 

 

曹操との戦いは、曹操伝に当たる『武帝紀』に詳しいです。

 

まず劉表が袁術の糧道を断って牽制しますが、袁術は構わず曹操領に進軍。そのまま黒山賊らの支援を受けて、袁紹の支援を受けた曹操軍と封丘(ホウキュウ)に駐屯しました。

 

この時、匡亭(オウテイ)に布陣していた先遣隊の劉詳(リュウショウ)が攻撃を受けたため、袁術はすぐに救援に出動。しかし、曹操はこれを待ち受けており、あっさりと撃退。

 

続けて曹操は袁術の本陣である封丘を包囲しますが、袁術は夜陰に隠れて退却。さらには逃げた先の襄邑(ジョウユウ)でもあっさり袁術は撃退され、逃げ込んだ太寿(タイジュ)の城も水攻めで陥落。その後も曹操領外であるはずの寧陵(ネイリョウ)でまたしても曹操に捕捉され、袁術は南の九江(キュウコウ)まで逃げることになってしまったのでした。

 

 

 

 

揚州でもハッスル大魔王

 

 

 

さて、勢力を盛り返した袁術でしたが、多方面での敗北は大きく名声を落とすことになったのは事実です。

 

 

袁術がアテにならないと感じた陶謙は、この頃から独立を目指した動きを取るようになります。そこで、袁術は陶謙配下の引き抜きを画策。名士層でも実力者の陳珪(チンケイ)を味方に引き入れようと、彼の息子を人質に立てて脅しをかけますが、あっさりと断られてしまいます。
この時の陳珪の文章には、「もし判断力をお持ちでしたら、暴虐から足を洗う事が出来るでしょう」などと述べており、袁術の当時の評価がなんとなーくわかるような……?

 

また、戦死した配下の孫堅、その嫡子である孫策(ソンサク)を気にかけていましたが、これもまた袁術の兵を借りて江東平定に行ったっきり独立色を示し始めるという有り様で、まだまだ隆盛を誇っているとはいえ、人の信望にぐらつきが見え始めていました。

 

 

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仲国一代興亡紀

 

 

 

興平2年(195)に、帝が長安を脱して逃げてきましたが、これを見て袁術は「帝の力が弱まった証拠だ!」と述べ、漢王朝の終わりをアピールしますが、周辺の反応は無言。それどころか幕僚の閻象(エンショウ)から諫められて機嫌を損ねるといった有様だったとか。この辺りの発言、なんだか魯粛の影が見える気がしないでもないような……?

 

 

 

そして来るべき建安2年(197)、張炯(チョウケイ)という人の「天意を示す兆候がありました!」という報告を受け、袁術は自ら皇帝に即位。支配下の土地を丸ごと「仲(チュウ)」とし、首都を寿春(ジュシュン)に制定。大臣や役人も自ら配置し、祭祀を執り行うことになったのです。

 

 

しかし、いくら偉くなっても袁術の政治は変わらず。自らは後宮の女性数百人にハレンチな服装をさせて侍らせ、高級な肉や米を余るほどに並べていたそうな。一方で臣民は飢え凍えて食料不足に陥り、周辺は何もない焦土となった上、さらに人が人を食らう有り様だったとされています。

 

この暴政は多くの者の反発を招き、曹操はもとより一応は配下であった孫策始め多くの家臣の離反を呼び、周囲からの評判はガタ落ちしたと伝えられています。

 

 

また、呂布曹操と一戦を交えては敗北を繰り返し、特に曹操軍との戦いでは自身が敵前逃亡したばかりに主要な将軍をほぼすべて討ち取られるという有り様で、急速に勢力を衰えさせていっています。

 

 

また、呂布とは和睦して同盟関係になったものの、その呂布からの救援要請を過去の遺恨から断って間接的に滅ぼしてしまうなど、悪政や暴虐な態度から味方はどんどん離れていくばかり。

 

 

最期には天災に付け込んだ曹操軍に攻められ、国の放棄を決定。仲の配下だと思っていた陳蘭(チンラン)や雷薄(ライハク)らを頼る者の断られ、かつて争った兄の袁紹を頼って落ち延びるもその途中に発病し死亡しました。

 

 

『呉書』には、その最期が鮮明に書かれています。

 

袁術は雷薄らを頼ったものの拒絶され、その場に3日ほどとどまったものの食糧不足に陥りました。

 

そこで首都近くまで引き返したものの、炊事係に食料の備蓄を例えるも、残っているのはわずかな麦クズばかり。夏盛りで蜂蜜入りの飲み物が無いかを尋ねても、落ちぶれた袁術軍にはそれも無し。

 

落胆した袁術は木の寝台に寝そべって欝々としていましたが、やがて落ちぶれた自分に腹が立ったか「天下の袁術がこのザマか!!」と叫び、1斗(約2リットル)余りの血を吐いて死亡したとか。

 

 

 

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その評価と人となり

 

 

 

当然と言えば当然でしょうが、周囲の袁術に対する評価はすこぶる低いです。三国志を編纂した陳寿も、

 

 

自らの行いを顧みなかったのだから、この最期は自業自得である。

 

 

としており、現代では蜂蜜ネタと合わせて、この悪政は変な方向に愛されているといってよいでしょう。

 

また、裴松之の方も彼への評価は至って辛口。

 

 

毛ほどの功績も糸くずほどの善行も無いのに勢力を持ち、あろうことかいい加減な考えで皇帝に就いた。

 

こんな奴がたとえ慎みを覚えたところで、どーせ日を置かずにコケるのは明らか。陳寿の評程度では、こいつの悪辣さを示すには不十分だ。

 

 

と、これまたえげつない嫌いよう。

 

 

私はこれらの評価には納得しますし、袁術の悪性暴政のひどさには賛同します。

 

 

……が、一方で「若い頃は侠気で知られる人物だった」ともあり、それを象徴する逸話が『陸績(リクセキ)伝』にあります。

 

 

 

陸績は幼い頃、袁術からミカンを一つ盗み、それが見つかったことがあります。

 

袁術はそれを咎めたが、陸績は「母のために持って帰りたいと考えておりました」と答え、袁術はそれを聞いて大きな感銘を受けたのです。

 

と、こんな感じで、一応人並みの感性は備えていたのかもしれませんね。

 

多分、おぼっちゃま過ぎて庶民の暮らしがわからなかったんだ。これが免罪符になんぞなるわきゃありませんが。

 

 

 

ちなみに袁術の遺族ですが、後に孫策に攻め滅ぼされて捕虜となり、その娘は孫策の弟の孫権によって妾に迎えられたそうな。

 

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