袁紹 本初


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袁紹 本初

 

 

生没年:?~建安7年(202)

 

所属:他

 

生まれ:豫州汝南郡汝陽県

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 A+ 兵を率いての戦い、特に攻城や包囲といった曹操の苦手分野に限って得意だった人。独裁体制と完全実力主義で家臣を統制した。
武力 B 界橋の戦いをはじめ、武勇伝は意外に多い。名族とは名ばかりの成り上がり群雄であり、当人の並外れた気骨が一大勢力に上り詰めた秘訣と見ていいかもしれない。
知力 B 優柔不断とは後世の評。実際は果断で苛烈な人物だが、どうやら自分のキャパを超えると反応が遅れてしまうタイプだったようだ。
政治 S 臣下の讒言防止等の人材活用には難が残るが、それ以外は後漢末でも随一だろう。異民族や同盟者と結託して外敵に当たり、内政でも晋の代まで袁紹統治を懐かしむ声が上がっていた。
人望 S 最終的には天下随一の群雄となり、周辺勢力からも一目置かれていた。臣下はクセモノ揃いだったが、袁紹が生きているうちは重大な欠陥をもたらすことなくまとまっていた。

 

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袁紹(エンショウ)、字は本初(ホンショ)。優柔不断でどうにも弱いという印象ばかりがあり、曹操の敵としてもイマイチインパクトの薄い人物ではありますが……実際に正史を見てみると、そんな迷族な袁紹像が吹き飛んでしまうほどの辣腕っぷりが見て取れます。

 

出てくる逸話は優柔不断とはかけ離れたものも多く、最終的に部下の統率に失敗したとはいえ英雄として十分なカリスマや能力、そして野心を兼ね備えた危険な英雄です。
個人的には、曹操の最強のライバルのような位置づけだったのでは、と。

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

正史三国志を編纂した陳寿は、袁紹をこう評しています。

 

 

威厳に満ちて度量見識があり、非常に評判の高い人物。黄河の北にて勢力を振るった群雄である。

 

 

しかし、寛大なのは見てくれだけで猜疑心が強く、謀略を好んでも決断力がなかった。そのため良い家臣を抱えてもその能力を活かしきれず、礼節を顧みずに嫡子を冷遇し後継者争いを引き起こした。彼の死後の不幸は、決して運のなさだけに起因するものではない。

 

 

 

一応補足しておきますと、正史自体は魏の後継者という立場を持った晋の国によって検閲された書物なため、魏に敵対した面々にはどうしても評価にマイナス補正がかけられてしまいます。

 

こと呉や他勢力に関してはその傾向が強く、袁紹の評もそんな国際事情のあおりを受けたという見方もできます。

 

 

……が、あえて全部鵜呑みにして考えてみますと、やはり後継者争いで勢力を潰し、すべてを犠牲にしてしまったのが評価査定に大きく響いていると見てもいいでしょうね。

 

 

こと晩年に関して言えば、これまで厚遇し続けていた沮授の進言を急に無視するようになったり、官渡の敗戦後に能臣と言える田豊を殺害したりと、このような評価を受ける証拠は少なくないです。

 

 

特にアレなのが、臣下の中でも特に頭一つ抜けていた郭図(カクト)と逢紀(ホウキ)の存在。

 

この二人に関してもろくな記述がなく、郭図は言うことすべてが裏目に出る、通称「出ると負け軍師」、逢紀に関しても主な記述が讒言ばかりと、とてもではありませんがまともに評価を受ける土台が現在には残っていません。

 

 

こういった、「本当に寵愛した臣下にはマイナス評価が与えられる」といった属性も、袁紹が無能であるかのような評論を加速させているのかもしれませんね。

 

 

 

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本当に無能なのか

 

 

 

さて、ではこれら正史の記述や校正多くの人に言われている評価を元に、本当に袁紹が無能だったのかと言われますと……

 

 

焦げまんじゅう的には、かなり傑出した人物だったと定義したいところ。

 

 

というのも、まず統治能力に関してですが、「百年後にも袁紹の統治を懐かしむ民がいた」という記述も残っており、人材運用はともかく領内の政治に関しては群を抜いた力量を示していたと見るべきでしょう。

 

 

また、汚点になりがちの官渡の戦いですが、元々の戦力差があるとはいえあの曹操を相手に決戦で勝利し城に閉じ込める等、決して無様な戦いっぷりではありませんでした。

 

他にも曹操によって応戦されてしまったものの攻城櫓や地下道によるモグラ戦法などあらゆる手段を使って曹操を追い詰めており、勝利まであと一歩まで追い込んでいたのは明らかと言えるでしょう。

 

まかり間違っても、あの一戦で破れたからと言って無能であるとは思えません。結局、敗北したのは許攸とかいうクソ強欲野郎のせい。

 

 

また、『英雄記』にある界橋の戦いでの不退転の決意を見ても、優柔不断で覇気がないとは少し思えない気がします。

 

 

 

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とんでもないタカ派

 

 

 

また、袁紹は実はとんでもないタカ派の人物だったのでは……とも思えてきますね。

 

というのも、宦官に何進が殺されたときの弔い合戦に関しても、あたかも一連の流れを予見していたかのごとき素早い動きで宮廷に殴り込み、宦官と思しき人物を片っ端から殺して回るというとんでもないことをやってのけました。どこが優柔不断か

 

 

そして、挙句の果てには劉虞という皇帝血族者を使い、過去董卓がしでかした皇帝の勝手な擁立をやってのけようと計画して実行間近にまで迫る等、その姿は優柔不断どころかタカ派のヤバいテロリストそのものです。

 

 

 

となると、官渡の戦いや後継者争いに関しても、なんとなーく袁紹なりの理由があるような気がしてならないとも……。

 

 

 

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すこーしだけ入り込んだ話をすると……ぶっちゃけ、冀州と潁川の名士層での派閥争いでもあったんじゃないかと私は予想しています。

 

行動の結果だけ見ると、袁紹は特に冀州の面々に対しては使い捨てのような人材活用法をしているような……?

 

 

最期まで重用した郭図や逢紀は外部出身者ですし(冀州出身なのに重用された審配は知らん)、後継者争いの時に袁譚について行った人の中には、意外と潁川はじめ冀州の外部の人物が多いのが気にかかります。

 

 

 

麹義を「調子に乗っているから」と処刑し、あれだけ重宝した沮授の意見を途中から無視し、張郃に無茶ぶりして降伏に追い込み、戦いに参加していない田豊を敗戦にかこつけて処刑……

 

これだけ、冀州の著名人らが追いやられているのを見ていると、私の陰謀論センサーがどうにもうずいてきます。

 

 

もしかしたら袁紹は袁譚を後継者に決めておきながら、躍進を図る冀州閥が邪魔をしてきた可能性もあったのではないだろうか……?

 

 

 

もっとも、その袁譚も何だかんだダメっぽい人のオーラが出てるし、冀州閥に助けてもらえないなら曹操に勝つとかムリゲーだったでしょうが(゚∀゚)←

 

 

 

ともあれ、無能なボンボンとされる袁紹にも、これだけいろいろと再評価の材料はあるってことですね。ふむ、いろいろ見てみるとなかなかに興味深い人物……

続きを読む≫ 2018/01/19 22:52:19

 

 

 

 

公孫瓚撃破

 

 

さて、界橋では見事な大勝利を飾った袁紹ですが、公孫瓚の勢力を削りきるまでには及びませんでした。以後、袁紹は2年という長い時を公孫瓚との一進一退の攻防を繰り広げることに費やすこととなります。

 

 

さらにそうこうしているうちにも情勢は刻一刻と変わっていき、これまで公孫瓚による代理戦争のような状況だった異母弟の袁術との対立はいよいよ表面化。

 

袁術本人はもとより正式に袁術の依頼を受けた公孫瓚や、徐州に割拠する陶謙(トウケン)らによる多方面攻撃が開始され、危機に陥りますが、袁紹は旧友の曹操の助けを得てこれらをなんとか撃退することが出来ました。

 

 

そんな中、公孫瓚が全国でも信望の厚い劉虞を殺害するなどして孤立を深めたことから、袁術らによる袁紹包囲網は瓦解し、逆に劉虞を殺害した公孫瓚に対して反発勢力が連合する結果となったのです。

 

袁紹もそんな連合に合流し、幽州に進出。飽丘(ホウキュウ)という場所で公孫瓚の軍を撃退し、完全に攻めの手を絶つことに成功したのです。

 

 

 

敵連合の陶謙や盟主の袁術曹操によって力を削がれ、袁紹にとっての修羅場は完全に終わりを迎えたのでした。

 

 

 

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袁紹軍の禍根

 

 

 

さて、こうして公孫瓚を撃破、目下最大の危機をしのぎ切った袁紹ですが……この頃から曹操軍との仲が急速に冷めていき、一触即発といった関係になりつつあったのです。

 

 

そんな中、漢の帝が首都・長安を脱出し、東の河東(カトウ)まで逃れてきたという報告を得ました。袁紹はこれを聞き、幕僚の郭図(カクト)を帝への使者として派遣。戻った郭図は「帝を我らで保護いたしましょう」と献策しますが、元々現代の帝が原因で董卓から逃げ、別の帝を擁立しようとすらしていた袁紹は首を縦には振らなかったのです。

 

その後、曹操が一番に帝を保護し、擁立。自らの本貫地となりつつあった許(キョ)を新しい都とし、周辺を影響下に加えてしまったのです。

 

これでは面白くないと考えた袁紹は、曹操領内でも自らの領地に近い鄄城(ケンジョウ)を都にしないかと曹操に打診しましたが断られ、曹操との外交関係にヒビが入ったとか。

 

 

その後、曹操が将軍中でも最上位の大将軍に任命されたときも袁紹は異を唱え、渋々曹操から大将軍の地位を譲られる等、水面下で争いごとの火種になりつつあるのが伺えます。

 

 

 

また、これは公孫瓚が滅ぼされて後の話なのですが……沮授の進言通り河北の四州を制圧した袁紹は、嫡子の袁譚(エンタン)を青州に送り込み、その統治を任せることにしました。

 

この時、沮授は「後継者争いの火種をバラまくのですか!」と諫言したものの、袁紹は「我が子らの実力を見てみたい」と言ってきかず、そのまま次男の袁煕(エンキ)を幽州、そして甥の高幹(コウカン)を幷州に遣ったと言われています。

 

 

献帝を擁立しなかったことと息子らに分割統治をさせたこと。これらは袁紹死後にその軍を瓦解させ、後々曹操に付け入る隙を与えてしまう事となるのです。

 

 

 

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易京の戦い

 

 

 

さて、ともあれ、公孫瓚を再起不能までに破った袁紹ですが、実は公孫瓚には最後の切り札と言いますか、まだまだ挽回の手段は残っていたのです。

 

それが、十年籠れると評判の堅城である易京(エキキョウ)と、公孫瓚との戦いで常に背後を脅かしていた黒山賊(コクザンゾク)という黄巾軍の一党。

 

 

袁紹は飽丘での勝利の後も公孫瓚討伐の兵を何度も差し向けましたが、難攻不落の易京を攻略できず撃退されてしまう始末。袁紹は易京の包囲をなんとか完成させたものの、決定打を打てずに戦いは膠着しつつあったのです。

 

 

そんなある時、公孫瓚が盟友の黒山賊へと送った密書を入手。内容は、「到着したらのろしを上げてくれ。それに呼応して我々も出撃する」というものでした。

 

 

これによって一計を思いついた袁紹は、数日後にのろしを上げて公孫瓚を釣り出し、伏兵を用いて大打撃を与えて打ち破り、さらには地下道を掘り進めて城郭を崩しながら公孫瓚へ迫っていったのです。

 

これを知った公孫瓚は、さすがに観念して自害。これにより袁紹軍は宿敵の公孫瓚を打ち破り、見事に河北統一を成し遂げたのです。

 

 

これで、主なは勢力を拡大しながらも敵を相手に右往左往する曹操軍のみ。袁紹軍は満を持して、関係が悪化しつつあった曹操軍と手を切り、開戦に踏み切ったのです。

 

 

 

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官渡の戦い

 

 

 

 

観戦に臨んだ袁紹は、少し前に曹操に反旗を翻した劉備(リュウビ)らを配下に加え、曹操軍を撃破すべく南下を開始。手始めに、将帥の顔良(ガンリョウ)を曹操軍の拠点に送り込みます。

 

この袁紹の動きに対して沮授は「顔良は勇猛ですが思慮が足りません。危険です」と諫めますが聞き入れられず、顔良は曹操との戦いで虚を突かれて戦死。続けて同じく将帥であった文醜(ブンシュウ)を送り込みますが、彼もまた曹操にしてやられて討ち取られてしまいました。

 

事ここに至って、袁紹は自ら本隊を率いての総攻撃を開始。沮授の「曹操軍は精強で危険。持久戦を展開しましょう」という意見を却下し、自ら曹操軍と正面からぶつかる選択をしたのです。

 

この時、曹操袁紹との決戦に踏み切り、両者は激しくぶつかり合いますが、結果は袁紹軍の勝利に終わり、曹操軍は戦力の二割ほどを消耗する大打撃を負ったとされています。

 

 

こうして城に籠ってしまった曹操に対し、袁紹は高台ややぐらをいくつも設けて高所からの射撃で曹操軍を追い詰め、その戦意を多い逃げずります。が、曹操軍も負けじと投石車を出して応戦。

 

さらに得意の地下道戦術で曹操軍を追い詰めようとするものの、曹操も負けじと塹壕を深く掘ってこれを牽制します。

 

 

さらには曹操袁紹軍の軍需物資を強奪して焼き払うなど、攻めても攻め切れない状況が続きます。

 

 

しかしそんな対陣が何日も続く中、曹操軍から袁紹軍に寝返る者が多くなり、疲弊の色が見え始めたのです。さらには兵糧も欠乏し、曹操軍は壊滅寸前。これで袁紹は、旧友である曹操を撃ち果たすことに成功……したかに思われましたが、天は袁紹の勝利を許しませんでした。

 

 

袁紹軍は大軍であり、その軍需品をまかなうのも一苦労だったのですが……ある時、袁紹軍の主将である淳于瓊(ジュンウケイ)が、軍中でも欠乏しつつあった軍需品の輸送を輜重隊から引き継ぐため、北へと向かったのです。

 

この時も沮授は「淳于瓊を援護すると同時に、曹操軍の略奪を防ぐべきです」と進言したものの、聞き入れず。これが、命取りになってしまったのです。

 

 

大量の軍需品を受け取った淳于瓊は、戻る途中に烏巣(ウソウ)で休息をとりますが……この折に曹操軍が淳于瓊を襲撃。実は参謀の許攸(キョユウ)という人物が、この情報をネタに曹操軍に寝返っており、本来流れるはずのない情報が完全に漏らされてしまっていたのです。

 

 

袁紹は足の速い騎馬隊を急いで派遣しますが間に合わず、淳于瓊は敗死し救援部隊も撃退されてしまい、軍需品はすべて焼き払われてしまったのです。

 

さらに、手薄になっていた曹操軍本隊への攻撃も並行して行っていましたが、攻めきれずに主将の張郃(チョウコウ)らが曹操に降伏。

 

袁紹軍は大混乱の総崩れになり、袁紹らは単騎で戦場を脱出を余儀なくされるほどの手痛い敗北となってしまい、さらにはこれまで頼れる参謀であった沮授も生け捕りにされ、そのまま殺されてしまったのです。

 

 

 

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さよなら名族

 

 

 

官渡で未曽有の大敗北を喫した袁紹はその名声を傷つけられてしまい、各所で反乱が頻発するなど求心力を大きく削がれてしまった様子が伺えます。

 

また、官渡の敗戦の後、戦前に曹操との決戦に反対した田豊を「恥をかかされた」として殺害してしまったともありますが……もはや余裕がなくなったのか、他の何かしらの理由があるのか……。

 

 

 

ともあれ、名声がボロボロになっても袁紹軍はまだまだ健在。曹操軍は反乱頻発の隙を突いて倉亭(ソウテイ)で袁紹軍を破るなど局地的には勝利を得られますが、本格的な侵攻には移れなかったようです。

 

反乱軍に関しても、袁紹自らの手腕もあってすべて平定され、袁紹がこのまま力を蓄えれば、第二の官渡の戦いが発生する可能性もあったように見受けられます。

 

 

……が、官渡での敗戦から2年近く経った建安7年(202)、態勢が整うのを待たずして、袁紹は憂悶の内に死去。

 

 

袁紹という大黒柱で強引に統率されていた袁紹軍は、その後名士層での派閥争いから子供らによる後継者争いに発展し、数年後には曹操に食われることになってしまったのです。

続きを読む≫ 2018/01/17 17:03:17

 

 

 

 

 

血濡れの名族

 

 

袁紹の生まれた家は、父からさかのぼる事4代にわたるまで三公(軍事、民事、法務における大臣職の総称)を輩出したエリート中のエリートで、まさに政治の顔とも言うべき血筋の持ち主でした。

 

……が、袁紹の身分は庶子。つまり、正妻でなく妾の子であり、血統はよくてもその家柄を万全に使えるものでは無かったのです。

 

 

そのため、袁紹がとった行動は、とにかく控えめで礼儀正しい好青年を演じること。儒教的に好感を持たれる人物として周囲にアピールすることで、袁紹は若い頃から多くの人の信望を勝ち取ることに成功しました。

 

なお、後の宿敵である曹操(ソウソウ)ともこの時親交があり、信憑性はともかく一緒にヤンチャしていた逸話も残っています。

 

 

そんな袁紹もいつしか立派に育ち、当時大将軍の位にいた何進(カシン)の属官から推薦を受けて侍御史(ジギョシ:監査官)隣、その後西園八校尉(セイエンハチコウイ)なる官職が設立されると、袁紹は八校尉の内ひとつの中軍校尉(チュウグンコウイ)に昇進。その後さらに位を上げ、司隷校尉(シレイコウイ:首都圏の警察署長)にまで上り詰めました。

 

 

 

『英雄記』によると、幼くして父が死んだため同族の別の家に預けられた後、幼少のころから役人に取り立てられたとか。

 

その後濮陽(ボクヨウ)の長官に任命されて高い評判を得たものの、母が亡くなると喪に服し、以後しばらくは世間との交友を絶ち、有名な名士でなければ彼に会えないという状況が続きます。

 

 

その後、政治の実権を握っていた宦官から引きこもりの不良とのうわさを聞いた叔父に「出てこないと家が滅ぼされる」と泣きつかれるまで、世間に出る日は無かったとか。

 

 

中平6年(189)に現皇帝の霊帝が崩御すると、宦官と何進らの間で、次代皇帝をの跡目を巡って政争が勃発。

 

何進らは宦官の粛清を計画しますが、皇后となった妹は首を縦に振らず、計画は難航していました。

 

 

そんな状況を打破するために、何進らは西域で幅を利かせている董卓(トウタク)の召し寄せと、宦官誅殺に向けた圧力強化を計画。

 

宦官たちの重責者はこれを知って慌てて何進に謝罪をし、何進もこれを受け入れました。事態の悪化を心配した袁紹は宦官の誅殺を再三にわたって進言しましたが、宦官とひとまず休戦するために何進はこれを聞き入れず。

 

こうして、この騒動には一応の決着がついた……ように見えました。

 

 

が、その後日、宦官らは謀略により何進を暗殺。宮中は混乱状態に陥りました。

 

こうなることを予見していた袁紹は、弟の袁術(エンジュツ)やひそかに募っていた武官らと共に宮廷に乱入。この時、宦官の一味と思しき者は皆処刑されるほどの騒動となったとか。

 

 

この急進の極みともいえる乱入によって、死傷者は間違って殺されたものも含めて2千人にも及び、宦官のほとんどを誅殺。

 

 

袁紹による武力鎮圧によって宮廷内の混乱はそのまま沈静化し、一度は脱出した帝も宮廷に帰ることができたのですが……その帝を護衛していたのは、西涼から到着した董卓の軍。

 

何進暗殺に端を発した一連の騒動により、董卓は「帝を守った功臣」という立場を得てしまい、以後、彼によってしばらく漢室の実権が握られるようになってしまうのです。

 

 

 

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董卓連合

 

 

 

さて、こうして実権を握った董卓ですが、彼は実はとんでもない男でした。ある時袁紹も呼ばれ合議が行われたのですが、この時の董卓の提案は、なんと「帝の廃位」についてだったのです。

 

 

帝と言えば、王朝の象徴ともいえる存在。当時は神にも等しい存在とされており、ホイホイと挿げ替えてよいものではなかったのです。

 

内心面喰った袁紹は心の中で反対意見を決めますが、その場には叔父も出世息しており、下手な発言はできなかったとされています。

 

 

そのため、袁紹は表向きは賛成意見を述べ、「重大事であり、重臣の方々と相談してまいります」とその場を即座に離脱。そのまま冀州まで逃亡してしまったのです。

 

董卓はそんな袁紹の態度に怒りをあらわにし、賞金首に仕立て上げることにしましたが……後に名士らに諭され、逆に袁紹には渤海(ボッカイ)太守の地位を与えることとなり、董卓の直接の支配下から抜け出すことに成功。

 

 

すぐに渤海で兵を集め、諸侯と共に反董卓の兵を挙げて董卓に反発。諸侯らの頼みによって盟主となり、車騎将軍(シャキショウグン)を自称し董卓軍を追い詰めるべく行動を開始。

 

 

こうして反董卓の旗の下に多くの将兵らが集まったのですが、その諸侯らは決して一枚岩ではなく、「董卓をどうにかしたら後は自分が……」という思いを秘めており、さらに董卓軍が盛況だったのもあって積極的に戦おうとしませんでした。

 

かくいう袁紹も、動きを見せずに酒盛りするばかり。この戦いにおいて、まじめに戦ったのは孫堅軍と、曹操を中心とした面々だけだったとされています。

 

 

そうこうしているうちに、董卓は都の洛陽を焼き西へと逃亡。都奪還の目標を失った反董卓連合は瓦解し、袁紹含める諸侯は互いに天下をかけて奪い合う群雄割拠の様相を見せ始めたのです。

 

 

ちなみに袁紹はこの時、皇族の血筋である劉虞(リュウグ)を新しい皇帝に据えて董卓政権を全否定してやろうともくろみますが、当の劉虞から固辞されて計画を断念しています。

 

 

 

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地盤を固める

 

 

 

董卓連合が改案してからというもの、天下の名声を席捲するのは袁紹の弟にして正当な袁一門の後継者である袁術でした。

 

袁紹はこの時反袁術の気勢を明らかにし、弟と骨肉の争いを展開。

 

 

しかし、袁紹には地盤と領土が足りておらず、そのままでは勝つこともままならないといった様子。そのため、袁紹は領土の拡大を計画。そこで目を付けたのが、盟友である韓馥(カンフク)が治めている、冀州の肥沃な土地でした。

 

 

この時、袁術連合に加入していた幽州の公孫瓚(コウソンサン)によって、韓馥の領土は侵攻の危機にさらされていました。当の韓馥はこれに対し、臆病風に吹かれて不安でたまらない様子であったと言われています。

 

そこで袁紹は、韓馥に対してある交渉を開始。部下を遣って、

 

 

「あなたでは公孫瓚に勝てません。ここは、袁紹めに冀州をお譲りください。そうすれば、韓馥さまは身の安全と、『賢者に国を譲った』という徳行の二つを手に入れることができますよ」

 

 

 

実のところ公孫瓚の軍は精強で知られており、勝ち目がないと考えていた韓馥は、この提案を快諾。袁紹はこれによって冀州という強固な地盤とそこの名士らを手に入れることができ、不安定だった地盤を固めることに成功。これからは、小勢力ではなくれっきとした群雄として、覇道の道を歩んでいくことになるのです。

 

 

 

 

 

界橋の戦い

 

 

 

さて、こうして基盤を得た袁紹は、さっそく召し抱えた沮授(ソジュ)の提案により黄河より北の、冀州、幷州、青州、幽州の四州平定を目標に行動を開始。

 

この時董卓から服従しろという使者が来ましたが拒否し、その結果袁一族が処刑されるという憂き目にも合っていますが、それを聞いた家臣らは袁紹のために復讐を誓ったとか何とか。

 

 

なお、冀州を譲った韓馥はというと、張邈(チョウバク)の元に逃れていた者の、袁紹からの使者が張邈の元を訪れた際、「殺される」と感じて自殺したとか何とか。あ、ダメだこの人

 

 

そんなこんながあって初平3年(192)に界橋でいよいよ公孫瓚の軍勢と激突。

 

この戦いは公孫瓚のほうが数は圧倒的優勢、しかも公孫瓚軍は超精鋭部隊として知られており、袁紹軍の敗北は濃厚とされていたそうな。

 

 

しかし、袁紹は麹義(キクギ)という武将を戦法に迎撃部隊を配置。圧倒的大軍を相手に勇戦し、見事に大勝を飾ったのです。

 

 

 

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この戦いのいきさつは『英雄記』に詳しいです。

 

 

公孫瓚軍は主力3万を中央、そして精鋭の騎馬隊を左右に展開し、小勢の袁紹を一気に包囲殲滅する構えを見せていました。

 

対し袁紹軍は先鋒部隊わずか八百を囮とし、千余りの弩兵での十字砲火戦法を展開。

 

 

戦法の麹義は特に対騎馬戦闘には慣れたもので、この作戦は彼が考案したものだとも。

 

敵軍は小勢と見た公孫瓚はまんまと騎馬隊を麹義隊に差し向けて突撃を敢行。対して麹義は、大盾を構えさせて味方の視界をあえて潰し、逃げることのない不動の陣形を敷いていました。

 

 

その結果、騎馬隊の突撃に対し麹義隊は一歩も退かず。逆に優位なはずの公孫瓚軍は十字砲火を前に自慢の騎馬隊に大打撃を受け、さらに麹義隊の反撃によって武将の厳綱(ゲンコウ)が討死。その後の再戦も麹義隊の圧勝に終わったのです。

 

 

 

また、反撃時に袁紹軍本隊はほとんど軍を置かない手薄な状態でしたが、そんな折にたまたま逃げ延びてきた公孫瓚の騎馬隊が突如来襲し、一気に劣勢に立たされることとなりました。

 

降り注ぐ矢の雨の中、参謀の田豊(デンホウ)が袁紹を大盾の中に押し込もうとしますが、袁紹はこれをはねのけ、「大の男が無様に逃げて生きるものか! 突き進み討死するのが本望よ!」と言い放ち、ついには弩兵隊の乱射もあって騎馬隊を撃退してしまったそうな。

続きを読む≫ 2018/01/16 22:04:16
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