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生没年:?~ 建安5年(200)

 

所属:他

 

生まれ:冀州鉅鹿郡(勃海郡?)

 

 

 

 

田豊(デンホウ)、字は元晧(ゲンコウ)。主に出所からしてイマイチ胡散臭い『先賢行状』なる偉人伝に彼の伝が設けられており、正史をはじめ三国志を取り扱った資料の多くでちょくちょく名前が出てくる人物ですね。

 

立ち位置としては袁紹(エンショウ)の謀臣のひとりにして、優柔不断で器の小さい彼に足を引っ張られて才能を発揮しきれなかった悲劇の人……といったところでしょうか。

 

 

まあ、実際はそんな単純なものでもないようにも思えますが……とりあえず記述をザックリ追っていくことにしましょう。

 

 

 

 

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中央でも通じるレベルの優等生

 

 

上記の「生まれ」の項目からわかる通り、田豊は結局のところどこの出の人かはよくわかっていません。

 

両親は早くに高いし、田豊の心に影を落として数年後にも心から笑う事が無かった……という旨が先賢行状には記されていますね。

 

 

さてそんな田豊ですが、彼は若いうちから博学多識で評判も上々。ついには中央からお声がかかるレベルの名士にまで成り上がりましたが、この当時は党錮の禁と言われる宦官と名士によるガチバトルの延長線上にある時代であり、とても地方名士の田豊にとってプラスになる環境ではありませんでした。

 

田豊はそんな中でも侍御史(ジギョシ:官吏の弾劾を行う高官)にまで上り詰めたものの、結局は嫌気が差して辞職し地方に帰っていったのです。

 

 

後、田豊の地元である冀州では、袁紹の謀略によって州牧(長官)の韓馥(カンフク)が辞任。袁紹が新たな冀州牧に成り代わると、ついにその袁紹から田豊に声がかけられます。

 

この時の袁紹は腰を低くした謙虚な姿勢で、多額の引出物を用意するという、田豊を明らかに重宝するような様子を見せていたため、田豊も二つ返事でこれを承諾。「世直し」という大きな野心をかなえるため、別駕(ベツガ:州牧の属官)として袁紹に仕官することになったのでした。

 

 

 

 

主君との相性×

 

 

 

さて、こうして「真の主を得た」かの如く袁紹軍に身を投じた田豊ですが……知っている人は知るとおり、主君との関係性はあまり良いと言えるものではありませんでした。

 

初平3年(192)に北方の雄・公孫瓚(コウソンサン)との間で行われた界橋の戦いに田豊も参加しますが……この時からすでに袁紹との価値観の相違が明るみになりつつあったようです。

 

 

界橋での決戦は圧倒的不利を跳ね返し袁紹軍の勝利に終わりますが、勝ちに乗った袁紹軍がほぼ全軍で敵になだれ込んでいったときに、突如手薄な袁紹軍本陣に倍を超える公孫瓚の精鋭騎馬隊が攻撃開始。

 

田豊はさすがにまずいと思って袁紹を壁の内側に押し込もうとしますが……当の袁紹は田豊のそんな態度に対して逆に怒り心頭の様子を見せます。

 

「大の男が、みっともなく逃げてまで生き延びようとするものか! 前に突き進んで死ぬだけよ!」

 

 

結果として敵の側が袁紹本隊だと気づかず撤退していったことで何とかなりましたが、自分なりの忠節が君主の気分という意味で裏目に出たことは、田豊にとって愉快なものではなかったでしょう。

 

 

 

悲劇の謀臣

 

 

 

いよいよ来るべき曹操との決戦に向けて軍が戦場に集まりつつある建安5年(200)の正月には、曹操の留守を突いて劉備(リュウビ)が反乱。曹操はこれを討伐するために東の徐州(ジョシュウ)へと急遽軍を進める大きなチャンスに恵まれます。

 

田豊もこの情報を掴むと、「今こそ曹操の本拠を攻める時です」と袁紹に強く訴えかけます。が、袁紹は本気でそう思ったのか田豊を疎んでいたせいなのか、「三男の袁尚(エンショウ)が病だから無理」とこの提案を拒否。

 

千載一遇のチャンスを息子の病気で不意にされてしまった田豊は杖を地面にたたきつけて悔しがったとされていますが……ともあれ、背後の心配がなくなった曹操はすぐに劉備を片付けて帰還。容易に手が出せない状況になってしまいました。

 

 

が、袁紹の方はむしろやる気満々で、曹操軍を短期決戦で一気に呑み込む腹積もり。曹操の能力の高さや兵の精強さなどどこ吹く風で、圧倒的な戦力を武器に呑み込むつもりで進撃準備を進めていました。

 

田豊からすれば、何をしでかすかわからない曹操との正面決戦は下策。すぐに袁紹にお目通りして、持久戦の展開を進言します。

 

「曹操は兵法の達人で、正面から戦うと何をされるかわかりません。今は国力の増強と曹操軍の圧迫に専念し、奇襲や散発的な襲撃で敵の疲れを誘いましょう」

 

 

この提案はノリノリで曹操軍を攻め滅ぼそうと考えている袁紹にとっては非常に面白みのない言葉だったようで、当然のように却下。それどころかうるさく進言を繰り返す田豊に嫌気が差し、とうとう獄につないでしまったのです。

 

 

こうして謂れのない罪びととして獄中から袁紹軍を見守る形となった田豊ですが……官渡での決戦は袁紹軍の逆転負け。田豊を牢獄に放り込んでまで戦いを挑んだ袁紹は大いに恥をかいた形になり、「こいつが余計な事を言ったせいで私は笑い者だ」と大激怒。

 

田豊はついに、逆ギレした袁紹によって処刑されてしまったのでした。

 

 

 

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人物評

 

 

 

さて、こんな「悲劇の謀臣」とも言うべき出自からか、田豊の評価は似たような最期を迎えた沮授(ソジュ)と並んでかなり高いです。

 

例えば正史の袁紹評の最後には、以下のような言葉が書かれています。

 

 

楚の項羽が参謀の范増が言っていたことを無視したせいで天下を逃したが、袁紹のそれはこれよりもひどいものだ

 

 

三国志注釈家のひとりである晋の孫盛は「高祖・劉邦の軍師である張良、陳平にまさる」と絶賛し、同年代でも曹操軍に身を寄せていた孔融(コウユウ)が優れた策士の代表として名を挙げていたりと、悲劇性も相まって後世でも高い評価を受けている人物ですね。

 

 

一方で曹操の幕僚である荀彧(ジュンイク)には「強情で人に逆らう」という評価を下されており、少なからず人格面の問題も最期に影響していると言えなくはありません。

 

 

 

個人的には歴史の暗部というか、「愚劣な上司と悲哀の天才軍師」という構図を作り上げようという歴史家や国家の事情が見え隠れする所ではありますが……田豊に相性のいい君主と出会うだけの運がなかったのは間違いないでしょう。

続きを読む≫ 2019/02/11 17:31:11

 

 

 

生没年:?~建安2年(197)

 

所属:他

 

生まれ:涼州?

 

 

郭汜 猛将 董卓 李傕 ウンコ 女運×

 

 

 

郭汜(カクシ)。別称として阿多(アタ)という名も使われており、こちらは彼の字なのか幼名なのかはっきりしません。

 

さて、そんな郭汜は共に董卓(トウタク)軍として戦い後に独立群雄として李傕(リカク)らと連合体制を組んだ人物ですね。

 

 

如何せん李傕が強烈すぎてなかなか彼の横暴さは表に出ませんが……まあ、恐らくそれ相応にはヤバい人だったのでしょう。

 

しかし、謀略家でもあった李傕と違い、もっと武勇に特化させた猛将のような印象がありますね。この辺りも、イマイチ都の破壊者として影が薄い原因なのかも。

 

 

さて、今回はそんな郭汜の生涯を追ってみましょう。

 

 

 

 

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りかくさんといっしょ!

 

 

 

郭汜が歴史に名を見せたのは、董卓が都・洛陽を焼き払い西の長安に撤退した後のこと。この時董卓は東から攻め寄せる連合諸侯の抑えとして、娘婿の牛輔(ギュウホ)に軍を預けて陝(セン)の地に駐屯させていました。

 

郭汜は李傕らと共にこの迎撃軍の一翼を担い、董卓に敵意を向けた名将・朱儁(シュユン)を撃破。「男は殺して女は犯す」を文字通り行い、徹底的に暴れ回っていたのです。

 

 

しかし初平3年(192)、董卓は彼に反発する王允(オウイン)や内心董卓を恐れていた呂布(リョフ)らの謀略により死去。それを聞いた牛輔も逃走の末部下に殺され、董卓軍は壊滅してしまったのです。

 

 

朝廷からも赦免が出ず「涼州人は皆殺しにされる」という風聞すらも流れる絶望的な状況の中、李傕らは賈詡(カク)の進言により一か八かの長安強襲作戦を実行。

 

郭汜もこの作戦に参加し、呂布を追い払い王允ら反董卓の面々を殺害。見事に強襲作戦を成功させ、李傕らともども朝廷を手中に収めたのです。

 

郭汜は後将軍(コウショウグン)、美陽侯(ビヨウコウ)に格上げされ、実質的に李傕に次ぐナンバー2となったのでした。

 

 

 

ちなみに『英雄記』では、なんとあの呂布に一騎打ちを挑んだという郭汜の雄姿が描かれています。

 

もっとも、相手は三国志最強と言っても差し支えない武人。一方的にボコボコにされ、遠巻きに見ていた兵士たちが助けに乱入してくるまで耐えるのが手いっぱいだったようですが……

 

 

その後、郭汜は李傕と共に長安を統治し、無法地帯ともいえる地獄に叩き落して支配を強めていったのです。

 

 

 

 

 

李傕との仲違い

 

 

 

さて、こうして涼州人の天下を再び呼び込んだ立役者である郭汜は李傕と共に専横を強めていきましたが、2人の仲は非常によく、しばしば苦しむ民そっちのけで李傕に誘われて宴会を開くほどでした。

 

……が、そんな2人の仲にも、遠からぬ先で亀裂が生じることになります。

 

 

元々連合体制を敷いていた李傕陣営は、主導権争いが頻発。そのあおりを受け、同志であった樊稠(ハンチュウ)が李傕の手により殺害されてしまったのです。

 

 

これを機に、李傕と郭汜の仲は急激に険悪化。疑心暗鬼に駆られ、最終的には市街地で戦争を始めるほどになってしまったのです。

 

一応李傕は始めこそ郭汜とよりを戻そうと役人を使者にして郭汜の元に送っていましたが、郭汜はそれらをすべて拘留し李傕に敵対の意を表明。

 

 

ついに2人は完全に決裂し、長安では李傕、郭汜の2頭による内紛の時期を迎えました。戦闘は数ヶ月によって行われ、死者も数万に膨れ上がったと言われています。

 

 

結果、同郷の士である張済(チョウサイ)が仲裁に入り、この争いに嫌気がさした帝は洛陽に帰ることが決定してしまったのです。帝の護送の列の中には郭汜の姿もあり、これでようやく争いは決着かと思われましたが……最後にもう一波乱、この男は引き起こしてしまうのでした。

 

 

 

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郭汜最期の大勝負

 

 

 

郭汜は途中まで大人しく帝の東進に付き添っていましたが、やはり思い返して「帝は俺たちで戴くんだ!」と突如変節。反逆して帝を武力拘束しようと試みたのです。

 

しかし帝を守る護衛軍はその数を増しており、この強襲は失敗。郭汜は反逆者として山中へと逃亡し、あれほど殺し合った李傕の元へと逃走したのです。

 

 

そして李傕と、帝を護送しながらも周囲と仲違いした張済を巻き込んで再戦。そのまま帝を護衛する軍勢を討ち破ってしまったのです。

 

 

 

……が、ここまでやっておいて、そう上手く行くはずもありません。帝はすでにさらに東へ逃亡しており、結局追いきれずに帝の命令で官軍と和睦。

 

こうして大義名分を失い権威を喪失した李傕らは各勢力から付け狙われるようになり、郭汜もやはり各国の敵になってしまいました。

 

こうなってしまっては好き勝手など利くはずもなく、李傕は後に諸将に攻められ処刑。郭汜に至っては部下の裏切りによって殺され、その首は曹操の元に送られてしまったのです。

 

 

 

 

剛勇の郭汜

 

 

 

さて、これだけ見ると良いところはひとつもないように見える郭汜ですが、実は武勇においてはまさに剛勇の士といっても過言ではなかったようです。
というのも、先述の呂布との一騎打ちなんかもその証左の一つですね。ボコボコにされただけなので一見情けなくも思えますが、相手があの呂布ならば生き残っただけでも武勇を誇るに値すると言えるでしょう。

 

 

何より面白いのが、献帝の陪臣である董承(トウショウ)が郭汜を語った時の言葉。

 

「李傕と争っていた時には、数万の李傕軍をたった数百で撃退するような奴だった」

 

 

お前はどこの張遼だ

 

史書にあるわけではなくあくまでひとりの証言ではありますが……少なくとも超劣勢を武勇ひとつで押し返すだけの人物であるのは間違いないでしょう。

 

 

一方、性格はお察しの様子。

 

『漢書』では李傕を叩き潰すために役所の高官を招いてもてなし、意見を求めた際に楊彪(ヨウヒョウ)という人から「ひとりは帝を、ひとりは高官を人質にとって相争う!こんな臣下がありますか!」と一喝された際には楊彪を殺そうとするなど、やはり武人特有の荒々しさがあったようです。

 

もっとも、この時多くの同席者から諫められて怒りを収めたあたり、まだ邪神崇拝者の李傕よりは話が分かるかもしれませんが……

 

 

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郭汜の妻は味噌うんこ

 

 

 

郭汜が李傕と仲違いした理由として、郭汜の妻が原因であるとされている説もあります。

 

というのも、『典略』での話。

 

 

郭汜は李傕の宴会に頻繁に呼ばれて時には泊りがけになったこともあり、さらには李傕から美女を与えられることもある間柄でした。

 

さて、こうなると面白くないのが、郭汜の奥さん。

 

 

彼女は郭汜の寵愛を失うのが怖くなり、ある時ふと一計案じ、李傕から贈られてきた食べ物に細工をし、味噌を丸めて作った塊を一つ仕込んだのです。

 

そして、郭汜が李傕からの贈り物を食べようとすると制止をかけ、その味噌を取り出して「ほら、李傕はあなたを殺そうとしていますよ。私は前々から李傕が怪しかったのです」と訴えかけたのです。

 

 

そして次に招待を受けた時、郭汜は李傕の酒に毒が盛られているのではと勘違いし、なんと糞を絞った汁を解毒薬として持っていき、それを呑んで解毒しようとしたのです。

 

 

これを機に二人はお互いを信用できなくなり、最後には殺し合う仲になったとか。

続きを読む≫ 2019/02/09 20:27:09

 

 

 

生没年:?~ 建安17年(212)

 

所属:他

 

生まれ:益州蜀郡成都県

 

 

 

 

張松(チョウショウ)、字は子喬(シキョウ:演義では永年)。劉璋(リュウショウ)の臣下の人ですが、後々劉備(リュウビ)に内通し、そのためどことなく正義の人のような見方をされることもあります。

 

が、蓋を開けると……これまた結構なクセモノ。劉備を呼び込むことで益州に新たな火種をぶちまけたのは、間違いなくこの人です。

 

今回はそんな張松について。

 

 

 

 

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張松は曹操が嫌い

 

 

 

張松は劉璋の側近の一人として名前が上がりますが、荊州の動乱以前で特に目立った記述はありません。せいぜい法正(ホウセイ)伝において、「日頃から劉璋の惰弱さにウンザリしていた」くらいのものでしょう。

 

張松が表舞台に出てきたのは、曹操が荊州征伐に赴いている最中のこと。いつのことかは書かれていませんが、おおよそ建安13年(208)のことでしょう。

 

 

劉璋は曹操の圧倒的な勢いを見て彼に急速に近づき、曹操に帰順することで益州と自らの勢力の安全を守ろうと企てました。そこで、自らの側近を使者に立てて曹操の元へと3度も使者を送っています。張松は、その3度目の使者として曹操に出会い、折衝を行いました。

 

が、張松に対する曹操の対応は、あまりにも塩対応。張松を歯牙にもかけず冷たく突き放すように接したのです。

 

 

これまで2度放った使者に対しては暖かく応対して官位すら与えたのに、張松だけはこの扱い。これに対して怒りを覚えた張松は、以後は反曹操に身をひるがえすことになったのです。

 

 

この辺のいきさつは正史の劉璋伝には「曹操は荊州をとった後だったから(歓迎する必要がなかった)」、献帝春秋には「慢心して傲慢になっていた」と書かれていますが……実際はどうなのか。

 

劉璋が短期間のうちで事あるごとに使節を出しまくり、そのたびに応対や官位を与えることを迫られたのは、他ならぬ曹操です。

 

もしかすると、「これを機にどんどん位を高くしておこう」という劉璋の腹積もりをあさましく思ったのか、あるいは赤壁に勝った後に攻めるつもりでいたのか、はたまた張松の内側のヤバさに気付いて遠ざけたのか……

 

 

 

 

謀反の準備を進めるが……

 

 

 

さて、こうしてアンチ曹操に転じた張松は、帰ってきた途端にすぐ曹操軍の悪口をバラ撒いて周囲にマイナスイメージを植え付けます。

 

 

が、そんな張松も曹操軍の強さは百も承知。感情に任せて曹操軍とそのまま敵対しても、勝ち目がない事を理解していました。

 

実際、『先主伝』には「曹操軍は天下無敵。隣接地帯の漢中を制圧されれば我が軍はたちどころに呑み込まれるでしょう」と劉璋に対して冷静な進言(とうか焚き付け?)をしています。

 

 

そこで、張松が味方として引き込もうと考えたのが、この時曹操軍から逃げ延びて、孫権(ソンケン)軍と共に曹操を打ち破った劉備の軍勢。劉璋軍が曹操と手を切った時にはすでに荊州の南部に領土を広げており、お互い隣接地帯にあるという事で引っ張り込むにはもってこいの相手でした。

 

ましてや、劉備は才気と野心にあふれる大器。劉璋の凡庸な器では不満ばかりだった張松にとっては、良きパートナーにすら映った事でしょう。

 

 

劉備ならば、あるいは……そう思った張松は、劉璋に「劉備と結びましょう」と進言。自らの息がかかった法正を使者に推挙し、劉璋から劉備に対する使節団と援兵4千を引き出すことに成功します。

 

 

『呉書』によれば、張松も法正と共に劉備に会いに行き、その親切な対応を見て信じることを決意。すかさず益州の地理や配置を細かい所まで教えたと書かれていますね。

 

 

こうして劉備との同盟、ひいてはその先にある劉備による益州乗っ取りまでもを実現可能な形に持っていった張松でしたが……建安17年(212)、突如として運気が暗転してしまいます。

 

劉璋の元へ援軍に駆けつけて宴会を行い、いよいよ乗っ取りまで秒読みとなっていたにもかかわらず、劉備は信じられないことを口にしてしまったのです。

 

 

「東の孫権曹操に攻められ、しかも荊州に置いてきた関羽(カンウ)の軍が曹操軍相手に苦戦しています。東に戻り、彼らを助けたいと考えているのです」

 

 

結論から言えば、これは油断を誘うための大嘘だったわけですが……そうとは聞かされず何も知らない張松は劉備のこの言葉に唖然。慌てて劉備や折衝役をしていた法正に対し、「今から大業を為そうとしているというのに!」と引き留める旨の手紙を送ります。

 

が、これがどこからか兄の張粛(チョウシュク)に見つかってしまい、劉璋への密告を通じて反逆が明るみに出てしまいます。

 

これによって、張松は処刑。法正らが無事な中、ただひとりだけ志半ばで命を落としてしまったのでした。

 

 

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どうにも出来過ぎた死

 

 

 

と、このように主君を裏切って国を売り、野心に殉じる形になってしまった張松ですが……その最期はどうにも匂うというか、きれいに出来過ぎている気もしなくはありません。

 

というのも、劉備はこの後軍を反転。張魯との国境線を守る将軍を暗殺して精兵を接収し、そのまま益州乗っ取りに動き出します。つまり、張松の死をトリガーにして劉備軍が動き出した気がしないでもないわけですね(華陽国志にも張松の死に怒った劉備が宣戦している)。

 

 

特に引っかかるのが、劉備だけでなく自分の手先である法正にまで手紙を出した点。これは要するに、張松にだけ事の仔細が伝えられていなかった可能性すら導き出せます。

 

要するに、益州の乗っ取りにおいて劉備が嵌めたのは劉璋一派だけでなく、味方であるはずの張松でもある、と。

 

もっとも、ただ一人危険地帯に潜り続けていた張松がバレて殺されるのはある意味時間の問題でもあり、劉備との連携も非常に取りづらくもあるのですが……扱いづらさと良くも悪くも野心的で芯の強い部分をマイナスに見られ、消されてしまった可能性も考えられなくはありません。

 

 

まあ、所詮は単なる憶測。彼が我の強く扱いづらい人物なのはほぼ間違いないでしょうが、劉備ならばあるいはという気もしてはきます。

 

何にしても、劉備の蜀乗っ取りにおける一番のキーマンであり、かつ黒幕であるのは間違いありません。なんか能力的に一枚下で義理ではなく野心で動き、かつ失敗した賈詡(カク)のような、なんかそんなイメージすらしてきます(いや、ここまで違えば別人か)。

続きを読む≫ 2019/01/16 20:54:16

 

 

生没年:?~興平2年(195)

 

所属:他

 

生まれ:涼州

 

 

 

 

樊稠(ハンチュウ)は、董卓(トウタク)軍の武将にして、李傕(リカク)らと並ぶ中心人物と言える将軍ですね。

 

三国志における扱いは横暴な李傕らとまったく同じ非道なヒャッハーですが、さり気に董卓軍の良心的存在のような人物であることがほのめかされている記述もあります。

 

 

 

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董卓死後の大物

 

 

 

樊稠が史書に正式に登場したのは初平3年(192)、北西部を牛耳っていた軍閥の大黒柱である董卓が暗殺され、本拠地が陥落した後の事。

 

それまでも董卓の子飼いとして高い地位にいた樊稠でしたが……大ボス董卓の死という突然の訃報に、他の将軍たちと共に外部に遠征に出ており、本拠地に戻れなくなったことで浮足立っていました。

 

 

さらには折悪くも、「董卓の本拠地・長安(チョウアン)では、涼州出身の人物が片っ端から処刑されている」というとんでもないニュースすら届けられる有り様。すでに樊稠らの帰る道はどこにもなく、前も後ろも敵だらけという絶望的な状況に立たされたのです。

 

 

 

が、ここで樊稠と別の軍を率いる李傕に従軍していた賈詡(カク)が、「支配体制が変わって混乱している長安を攻撃しましょう」と献策。李傕の軍勢は董卓軍の残党と合流し、そのまままっすぐ長安へと向かっていきました。

 

樊稠もそんな李傕らの軍勢に合流し、共に首都・長安を攻撃。まだ董卓を殺したことによるゴタゴタから立て直せていない反乱軍を十日で撃破し、長安を陥落させることに成功しました。

 

 

 

こうして李傕らと共に長安に返り咲いた樊稠は、右将軍(ウショウグン)の位に上り詰め、李傕らと実質肩を並べる権力者のような立ち位置に就くことができたのでした。

 

……しかし、この躍進劇が、後に樊稠を地獄へと突き落とすことにつながっていきます。

 

 

 

 

 

多頭政治の落とし穴

 

 

 

 

さて、こうして李傕、そして同格の郭汜(カクシ)を合わせた3人によって朝廷は牛耳られることとなり、樊稠は朝廷の中枢部に入り込むことができたのですが……位の上では李傕がトップだったものの、実質的な上下関係ははっきりとしていないというのが正直なところでした。

 

実質的なリーダー不在、多頭体制の政治となったわけですね。

 

 

とはいえ、はじめの頃はそれでも勢いがあり、西方の辺境に縄張りを築いていた馬騰(バトウ)や韓遂(カンスイ)といった群雄が帰順を申し出る等味方する諸侯も多かったのですが、それでも董卓の残党にしてリーダーもはっきりしない田舎組織。

 

人々は樊稠らをよくは思わず、名士の中には彼らを始末してしまおうと考える者も多かったのです。

 

 

そして、李傕や樊稠らが実権を握ってから約2年が経過した興平元年(194)、ついに内部にて反乱が発生。長安にいた名士たちが、長安にほど近い郿(ビ)に引き留められていた馬騰の軍勢を抱きこんで攻撃を仕掛けてきました。

 

樊稠はこれに対し、自らの軍勢を動かして馬騰を迎撃。これを無事に撃退し、李傕らも内部の反逆者を発見することで事なきを得たのでした。

 

 

こうして当面の敵対者を追いやった樊稠ら涼州の軍閥でしたが……ここにきて気が緩んだのか、とうとう複数リーダーを抱える欠点である権力争いが勃発。樊稠はそんな主導権争いの最初の犠牲者として殺害されてしまい、李傕と郭汜による激しい権力抗争がその後幕を開けたのでした。

 

 

 

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異説

 

 

 

ちなみに、樊稠の最期には異説が唱えられています。そのひとつが、『九州春秋』に書かれていますね。

 

樊稠は馬騰ら西涼の精強な軍隊を攻撃して敗走に追いやりましたが、異説によればこの時に馬騰らを取り逃がしたことが暗殺の要因になっている、というものですね。

 

 

この時、馬騰だけでなく韓遂も反旗を翻していたのですが、九州春秋によればこの時韓遂は馬騰の軍と合流、共に戦って敗れた結果、樊稠の追撃によってとうとう追いつかれてしまったようなのです。

 

が、ここで韓遂が機転を利かせ、なんと樊稠の前に自ら姿を現します。

 

 

「我らは同郷の出身。今は国家のため立場は食い違っているが、もっと大きなところでは我らは一緒だろう。共に語らい、気分良く別れようではないか」

 

 

樊稠は韓遂のこの言葉を聞くと、なんと自らお供を遠ざけて前に躍り出、韓遂や馬騰と共に談笑することを選択。そして一通り語り合った後、2人を逃がして帰ってしまったのです。

 

 

これを聴いて面白くないのが、李傕。よりによって敵を逃がしてしまった樊稠に対して「裏切ったのでは?」と疑念を抱き、さらに樊稠に従軍していた甥から「なんだか親しそうにしてました」という報告を受けたことで、より疑念が増大します。

 

そしてそんな風船のように膨れ上がった猜疑心を破裂させたのが、折しも樊稠からの兵力増強の具申でした。

 

 

敵と仲良くした挙句に兵を増やそうとしたのであれば、もはや膨れ上がった疑念を止めることはできません。李傕はすぐに会議を開くと、その場で樊稠を斬殺。勘違いにより樊稠は殺され、李傕らの天下は手から転がり落ちてしまったのでした。

 

 

また、『後漢書』の献帝紀によれば、樊稠の勇猛さと兵からの慕われようから不安視した李傕によって資格を放たれ、酒に酔ったところを殺されたとする説もあります。

 

 

いずれにせよ、李傕らによる血みどろ内紛ショーのスタートを切った人物であることは、まず間違いないでしょう。

続きを読む≫ 2019/01/04 17:27:04

 

 

 

生没年:?~ 建安5年(200)

 

所属:他

 

生まれ:?

 

 

 

 

今回記述を追っていくのは、袁紹(エンショウ)軍最強格の猛将のひとりである文醜(ブンシュウ)について。顔良(ガンリョウ)と共に2枚看板として恐れられ、敵からも恐れられた人物ですね。

 

彼が顔良と並んで袁紹軍のエースだったのは間違いないのですが、前後の活躍が省かれているのと、よりによって一回の戦いで完全敗北、討死という結末を迎えるまで顔良と一緒。

 

もうここまでくると、何かの運命を感じますね。

 

 

 

 

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顔良と文醜はセットで名が出る?

 

 

 

細かいところはすでに顔良のページにも書き込んでいますが、文醜はとにかく顔良と2人でセットだったようで、だいたい官渡の戦い前後における評判は彼と一緒くたに語られているものが多いですね。

 

 

例えば曹操(ソウソウ)軍に身を置いている孔融(コウユウ)は武の体現者として「顔良、文醜は勇壮の士であり手強い」と述べていますし、それに対して荀彧(ジュンイク)が「1回戦えば捕縛できる匹夫の勇」と反論した時も一緒。

 

さらには袁紹軍の将帥にも顔良と2人で起用されており、やはり実力は顔良と互角、そして天下の軍のエースになれるだけの力を持っていたのはまず間違いないでしょう。

 

 

さて、そんな文醜の死に様ですが……相方の顔良が討ち取られた直後の戦い、よりによって顔良を殺した策の立案者である荀攸(ジュンユウ)によって、力を削ぎ落され丸裸になったところを討たれるという、相方とほぼ似たり寄ったりの討死を遂げるというものでした。

 

 

 

 

 

餌に飛びつく大魚

 

 

 

建安5年(200)、顔良が曹操軍の策に敗れ討死してから後の事。曹操軍は戦地となった白馬を放棄して住民を安全地帯に移住させるべく、軍を黄河伝いに西へと遡行。来るべき決戦に備えて官渡への撤退を始めました。

 

 

対する袁紹は大軍を連れた有利を最大限利用すべく、これを機会にすぐに前進。黄河を南に渡り、曹操軍を追って大軍を移動させ、曹操軍拠点のひとつである延津(エンシン)の南方すぐに砦を築いて、敵軍の圧迫を目論んでいたのです。

 

そして攻撃の準備が完了すると、ついに文醜は曹操軍との戦闘のために出陣。数千という騎兵を率い、副将としてついた劉備(リュウビ)と共に曹操の元へと進軍し、そのまま休息中だった曹操軍と対峙することになりました。

 

 

曹操軍はこの時、戦闘の予測が出来ていなかったのか、なんと休憩中であるばかりか、白馬から連れてきた輜重隊(シチョウタイ:輸送部隊)も付近をうろつくばかりという有り様。

 

もはや余裕の勝利を予感した文醜軍の騎馬隊は、手柄を求めて輸送隊に殺到。戦後の褒賞や出世を旨に、1人、また1人と輜重隊に突撃していったのです。

 

 

が、この時付近をうろついていた輜重隊は囮。そうとは知らない文醜の騎馬隊は次から次へと手柄を求めて駆け続け、次第に文醜の本隊は手薄に、そして陣容はどんどん乱れて満足に戦えない状態になりつつありました。

 

こうして動きを封じられた文醜の元に、待ってましたとばかりに曹操軍が文醜の本隊を狙って突撃を開始。成す術もなく文醜自慢の精鋭部隊は敗走し、文醜自身もこの戦いで討死し、袁紹軍の士気を大きく削ぎ落す結果になってしまったのでした。

 

 

 

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余談

 

 

 

ちなみに三国志演義ではなんとか生きて撤退をはじめ、張遼(チョウリョウ)や徐晃(ジョコウ)といった1流どころを負傷させ追い返すも、追いすがってきた関羽(カンウ)にあっさり討ち取られるという最期を迎えたことになっています。

 

ここでは顔良と違って最強クラスの武将としての尊厳台無しなのですが……これでいいのか?

 

 

ちなみに正史では関羽は顔良を討ち取った後に曹操の元を去っており、当然ながら文醜もなんとか罠を切り抜けたという記述もありません。

 

兵士たちに群がられてそのまま討ち取られたのでしょうが……この戦いに参加していた徐晃、あるいは策を編み出した荀攸の部隊にそのまま殺されたという可能性が高いでしょうね。

 

 

ぶっちゃけ、文醜が有名になったのは片割れの顔良が有名になったあおり……なのかもしれません。何にしても、当時1流の武勇の持ち主というのは間違いないでしょうが。

 

 

続きを読む≫ 2018/12/06 23:52:06

 

 

 

生没年:?~ 建安5年(200)

 

所属:他

 

生まれ:?

 

 

 

顔良(ガンリョウ)といえば、もはや言わずとも知れた猛将ですね。一時天下に大手をかけた袁紹(エンショウ)の軍にて武勇の代表格として名を上げ、曹操(ソウソウ)軍でも名指しで恐れられ、最大限マークされた人物。そしてもうひとりの猛将・文醜(ブンシュウ)の相方でもあります。

 

しかし、その事績はまったくもって謎。天下の軍と言ってもいい袁紹軍の武の中核を担っておきながら、正史には全くと言っていいほど武勇に関する逸話や功績が載っていないのです。

 

 

そんな顔良の唯一の出番は、よりによって自身が死ぬことになる官渡の戦い。今回は、そんな官渡の戦い前哨戦である白馬(ハクバ)の戦い、そしてそれに前後して書かれている顔良の記述を、史書から抽出したいと思います。

 

 

 

 

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迂闊で残念な勇壮の士

 

 

 

 

建安5年(200)に発生した官渡の戦いの時には、すでに顔良は文醜と共に袁紹軍の2枚看板として武の中核を担っていました。

 

その武勇は曹操軍にも知れ渡っていたようで、曹操に身を寄せていた孔融(コウユウ)などは、「顔良、文醜は大軍に勝るとも劣らぬ勇士」とすら述べ、袁紹の陣営を恐れていたほどでした。

 

 

が、一方でその性格を知る者にとっては名ほどの脅威はなかったようで、荀彧(ジュンイク)は怯えるような発言をする孔融に対し、「彼らは匹夫の勇というもの。一回戦えば捕らえることもできる」と強弁。

 

 

また味方の沮授(ソジュ)も、顔良の武勇頼みの性格を危険視し、出陣にあたって袁紹に対し、以下のように進言しています。

 

「顔良は武勇に優れていますが性格はせっかちであり、単独での出陣には不安が残ります」

 

 

とにかく、性格は非常にそわそわして猪突猛進なところがあったわけですね。

 

袁紹も沮授のこの提言に思い当たる節があったらしく、郭図(カクト)と淳于瓊(ジュンウケイ)の軍も顔良に随行させて3人を先鋒の大将に据えています。

 

 

かくして知略に乏しい顔良をうまく補佐する形でどうにか取り繕った袁紹軍は、ついに曹操軍の前線基地である白馬を攻撃。

 

兵力的に劣勢の曹操軍はこの攻撃を片手間で受ける余裕はなく、最初から曹操自身を中心とした主力部隊で白馬城の救援に向かう事になったのです。

 

 

この時、袁紹軍先鋒は曹操の救援部隊を計算に入れても兵力では優位。これが覆されるなど、この時袁紹軍の誰もが想像していませんでした。

 

 

 

 

 

顔良・白馬に散る

 

 

 

さて、白馬に置いた前線基地が攻撃によって窮地に陥る中、この救援に向かった曹操軍では大きな動きがありました。

 

なんと、白馬救援にまっすぐ向かったはずの曹操軍は、もう一つの前線基地である延津(エンシン)を経由して黄河を渡河。白馬を攻撃している袁紹軍の背後を攻撃するようなそぶりを見せます。

 

 

このまま曹操軍に背後を取られては、顔良らは本隊との連絡を遮断されたうえ、白馬と背後の曹操軍に挟み撃ちにされる構図になってしまいます。

 

そうなってしまえば、最悪逆転負けも大いにあり得る。そう考えた袁紹軍は、白馬を攻撃中の軍を分散させて背後の曹操軍を迎撃するために移動。最悪の事態に対応するために、白馬から離れていったのです。

 

一方で、顔良はそのまま白馬の攻撃を続行。グラスランナーな性格ゆえか彼なりの勝算があってのことか、ほぼ単独に近い形で軍をその場に留めたのでした。

 

 

しかし、この一連の流れは、曹操軍が仕組んだ罠。袁紹軍が分断されたことに気付いた曹操は、そのまま強行軍で孤立した顔良の元へ急行。張遼(チョウリョウ)と関羽(カンウ)を先陣に据えて、顔良軍に強行突撃を行います。

 

驚いた顔良はすぐに迎撃部隊を編成しましたが、急造の迎撃隊では話にならず敗北。単騎で遮二無二突っ込んできた関羽によって無残にも討ち取られ、袁紹軍の武の体現者はあっさりと歴史から消え去ってしまったのでした。

 

 

当然、この訃報を受けた袁紹軍は大きく動揺。次の戦いで相棒の文醜も戦死してしまったため、袁紹軍の混乱は並々ならないものになったと伝えられています。

 

 

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演義じゃ多少は箔がついてるんだけどね

 

 

 

あの関羽の手柄となった袁紹軍の将帥がこんな散り様では惜しい。そう思われたのか、三国志演義では袁紹軍随一の猛将として申し分ない働きをしています。

 

袁紹の忠実な部下として登場し、官渡の戦い以前にも敵武将を撃破。他にも一騎討ちや一触即発の場面など、袁紹軍の重要局面には文醜ともどもほぼ必ず姿を現していますね。

 

自身の死に場所となった白馬の戦いにおいても、もともと呂布(リョフ)軍の武将であった魏続(ギゾク)、宋憲(ソウケン)の2人を秒速で討ち取り、挙句の果てに徐晃(ジョコウ)すらも敗走させるというトンデモな立ち回りを見せています。

 

 

また、書籍によっては最期も脚色がかけられており、演義の初版では劉備(リュウビ)に頼まれて関羽を呼び止めようとしたところをバッサリ殺られる……なんて展開も。

 

 

なんとも哀れな最期ですが……「誰それ」な武将でありながらもこれで「袁紹軍最強クラスの勇将」という評価につながったのだから、世の中どうなるかわからないものです。

続きを読む≫ 2018/12/04 23:56:04

 

 

 

生没年:?~ 建安10年(205)

 

所属:他

 

生まれ:豫州潁川郡

 

 

 

 

郭図(カクト)、字は公則(コウソク)。袁紹(エンショウ)の代表的な家臣のひとりにして、どうしようもないガチ戦犯として未だに語り継がれている嫌われ者ですね。

 

袁紹(エンショウ)を優柔不断にしてしょーもない小物として描く史書や文献でもたびたび袁紹のついでとばかりにろくでもない書かれ方をする郭図は、現代にこれといった功績を語り継がれることがありませんでした。

 

その結果、ついた仇名は出ると負け軍師。間違ってはないけどさぁ!

 

 

さて、今回はそんな郭図の記述を三国志から極力拾い上げてみたいと思います。

 

 

 

 

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袁紹軍潁川名士組筆頭

 

 

 

郭図は独自の伝を持っておらず、その記述は完全に飛び飛びですが……『後漢書』入力よれば、最初は地元の潁川(エイセン)郡で経理の役人をしていたようです。

 

そこをある時、潁川の太守となった陰脩(インシュウ)なる人物に見出され、推挙を受けて朝廷に仕えるようになったとか。

 

 

こうして中央のエリート官僚となった郭図は、いつからか4世にわたって大臣級を輩出していった袁家の出身者である袁紹と繋がり、後に彼に仕えることになりました。

 

同郡の出身者である荀諶(ジュンシン)や辛評(シンピョウ)も同時期に袁紹に仕官しており、郭図個人がどうこうよりも、純粋に名士の宝庫である潁川からの採用に郭図も乗っかかっただけかもしれませんね。

 

 

 

何にせよ、こうして袁紹軍に加入した郭図は故郷を離れ、黄河を挟んで北側の大地でみるみる頭角を現します。

 

その細かな事績は不明ですが、興平2年(195)にはよりによって帝への使者に郭図が選ばれており、少なくとも袁紹の領土経営が本格化したころには、すでに中枢にいたことがわかりますね。

 

 

さて、ともあれこうして帝への使者として謁見を果たした郭図でしたが、「これは見所がある」と思ったのでしょう。袁紹が本音では帝を快く思っていないのをわかっていたはずなのに、あえて「帝をお招きし、こちらで奉戴しましょう」と献策します。

 

もっとも、我の強く今の帝が嫌いだった袁紹にはこの案は採決されることはなかったのですが。

 

 

『献帝伝』によれば、帝を奉戴するよう献策したのは沮授(ソジュ)。郭図は逆に、おなじく中央から来た官僚の淳于瓊(ジュンウケイ)と共に奉戴に反対しています。これを見るに、割と早い段階から郭図への悪評は広まっていたようですね。

 

対して事績はほとんど残っておらず、せいぜい『英雄記』にある「韓馥(カンフク)を他の群臣と共に説得して地位を袁紹に譲らせた」くらい。これもこれで大仕事ですが、後世にある田豊(デンポウ)や沮授の記述から見ると物足りません。

 

 

さて、まあ意図してかき消されたかもともとそんなに活躍しなかったのかは謎ですが……郭図はこのように、袁紹軍の中でも北の冀州(キシュウ)に赴任する前からの古参として確かな地位を手に入れました。

 

しかし野心からか袁紹の本音に沿うためか、はたまたもっと別の理由からか……郭図はこれ以降、次第に袁紹陣営の中の権力闘争に明け暮れるようになっていくのです。

 

 

 

 

出ると負け軍師の本領

 

 

 

 

『献帝伝』によれば曹操(ソウソウ)との決戦がいよいよ避けられなくなった建安4年(199)、郭図は冀州出身の謀臣である沮授が軍事内政共に絶大な権力を得ていることに注目。なんと讒言によりその力を削ぎ落しにかかります。

 

その手始めとなったのが、曹操との戦いの基本方針。この時、沮授と田豊の2人は「戦ってばかりで国も疲れてきているので、持久戦でじわじわ締め上げましょう」と袁紹に提案します。

 

しかし郭図は、冀州出身者ながら袁紹に忠実な審配(シンパイ)と共に、沮授や田豊の意見に真っ向から反論します。

 

「いやいや、圧倒的な差があるうちに踏みつぶさねば、後が大変です」

 

袁紹は、郭図らの意見に見所ありとしてその意見を採用しますが……郭図はこれ見よがしとばかりに、沮授に対して攻撃を行ったのです。

 

 

「沮授は軍事も内政も監督統括する身分にありますが、これではいざという時に止める役がおりませんな。君主と臣下の権力が同等であれば、亡国の兆しにもなり得ますぞ」

 

この言葉を受けた袁紹は疑心暗鬼に陥り、結局沮授の権力を削ぐことに決定。軍の監督権を3分割し、沮授の他に淳于瓊、そして郭図がそれぞれの軍を受け持つことになったのでした。

 

 

 

翌年の建安5年(200)袁紹軍はついに曹操と開戦。袁紹は手始めに軍を要衝・白馬(ハクバ)へと向けます。郭図はこの白馬攻撃軍の指揮官の1人として参戦しましたが……結果は惨敗。大将のひとりである顔良(ガンリョウ)が討死し、最悪の出だしとなってしまったのです。

 

続く延津(エンシン)での攻防戦も、大将の文醜(ブンシュウ)が討ち取られて惨敗。袁紹軍は初戦を2度も落としてしまったのでした。

 

再び『献帝伝』から抜粋。度重なる進言無視によって嫌気が差した沮授は、とうとう戦いをボイコット。沮授は結果として軍権を取り上げられ、その軍勢は郭図の指揮下になったそうな。

 

 

 

とはいえ、それでも袁紹軍の陣容はまだまだ圧倒的。袁紹は自ら黄河を渡って曹操の籠る官渡(カント)に取り付き、総攻撃を仕掛けます。

 

これによって戦況は五分を通り越し、耐え切れなくなった曹操軍が仕掛けてきた決戦でも大勝を飾り、いよいよ打つ手なしというところまで追い詰めるのに成功しました。

 

 

しかし、袁紹の勝利がほぼ完全に確定したある時、軍中に衝撃の報告が飛び込んできます。

 

輸送してきた兵糧をすべて集めていた烏巣(ウソウ)の兵糧庫が、曹操軍の襲撃により苦戦。

 

 

袁紹はすぐに対策を練ろうと緊急の会議を行いましたが、ここでも郭図は将軍の張郃(チョウコウ)と意見が衝突します。

 

というのも、「烏巣を全軍で救援しましょう」と訴える張郃に対して、郭図は「曹操軍の本陣が手薄になった隙に攻撃を!」と主張したのです。

 

 

袁紹は両者の意見を折半してすぐに奇襲への対策を施しましたが、曹操軍の計算外の強さに烏巣は陥落。曹操軍の本陣も落とせず、軍備をすべて失った袁紹軍は不安と恐怖から総崩れになってしまったのです。

 

 

この敗戦責任を問われることを恐れた郭図は、なんとここで張郃を讒言。「奴は敗北で調子に乗って暴言を吐いています」と袁紹に虚偽を伝え、罪をかぶせるという暴挙に出、張郃は身の危険を感じて曹操軍に投降してしまったのでした。

 

ちなみにこれは張郃伝の記述。他の史書や伝では、張郃は郭図の讒言とは関係なしに降伏したと書かれており、讒言があったかどうかは結局不明です。

 

 

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権力抗争の果て

 

 

官渡の戦いから2年後の建安7年(202)、袁紹は病に侵されて無念にも死去。ついに名士たちの間で行われていた権力抗争のストッパーが無くなってしまいました。

 

袁紹の死後、すぐに袁紹軍は空中分解。審配や袁紹軍中枢の1人だった逢紀(ホウキ)が3男の袁尚(エンショウ)を後継者に推す中、郭図は長兄の袁譚(エンタン)を支持。両者とも譲らぬまま、ついに軍事衝突にまで発展したのです。

 

最後には曹操すらも対立の深刻化を期待して放置を決め込む中、袁譚と袁尚は決戦を行い、袁譚はそのまま敗北してしまったのでした。

 

 

郭図はこの期に及んでは致し方なしと、仇敵である曹操との同盟を進言。「後に対立しても、補給線が伸びすぎた曹操軍を撃退するのはたやすい」という目算の上での行動でしたが……この目論見は大きく外れてしまいます。

 

 

袁譚と同盟した曹操はすぐに袁尚の本拠である鄴(ギョウ)を包囲すると、これを陥落。すぐに袁譚との外交関係にひびが入り、袁譚は袁尚よりも数段強い曹操軍との戦いを強いられるようになってしまったのです。

 

郭図の目論見は大きく外れ、袁譚はすぐに撃破され、何とか北へと逃げ延びたものの最期には捕捉され完全敗北。袁譚と共に斬り殺され、あまりにも呆気なく最期を迎えたのでした。

 

 

ちなみに怨敵の審配はおろか、ほぼ無関係者の劉表(リュウヒョウ)ですら手紙にて郭図の危険性を説いたという記述もあります。『典略』によれば袁譚を逆に脅迫して傀儡にしていたような記載がされており、これまたなかなか興味をそそります。

 

 

 

 

忠臣?奸臣?

 

 

 

後世には「袁紹の勢力を滅ぼした戦犯にして全部こいつが悪い」というようなイメージが定着しており、郭図の正しい人物像を見出すのは、おそらくは至難の業と言ってもよいでしょう。

 

最期まで袁家に尽くした忠臣という見方もできる人物ですが、その割に行動が逐一黒いというのも恐ろしいところ。

 

 

さしあたって思いつく仮説としては、郭図もやはり、土地や人脈に縛られた名士のひとりだったのではと。袁紹の思惑もあったのか、とにかく沮授をはじめ冀州の土着名士を潰しにかかっている。郭図の事績からはそんなイメージすら浮かぶのです。

 

 

袁紹に対して忠実な謀臣……というのはあながち間違っていないのでしょうが、それにしても周囲から「コイツと辛評のせいで袁家が終わった」とすら見られ、袁紹に忠実だった審配の排斥すらやった記述があるのだから、やはり単に忠実なだけの人物ではないのでしょう。

 

 

もしかすると郭図は、冀州の地において地元の名士を排斥し、豫洲潁川の名士を中心とした新生ネットワークを作る野心を抱えていたのかもしれませんね。そう考えると、外敵の曹操の手すら借りようとした理由も、何となくわからないでもない気がします。

続きを読む≫ 2018/11/30 20:56:30

 

 

生没年:?~建安4年(199)

 

所属:なし

 

生まれ:?

 

 

 

 

眭固(スイコ/ケイコ)、字は白兎(ハクト)。元々は三国志のなかで一瞬だけ登場した弱小群雄のひとりですが、白兎という妙にファンシーな字と三國志シリーズにおける破壊力抜群の顔グラによって一定の人気を誇っている人物ですね。

 

 

記述はあっさり、出番はわずか2回。本当に語ることの少ない人物ですが……実際には曹操(ソウソウ)も全力で相手をせざるを得ない相手だったようで、豪華フルメンバーを相手取って戦っています。

 

 

 

 

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賊徒の白兎

 

 

 

というわけで、眭固は張楊(チョウヨウ)の配下として出てきますが……実はそれ以外に1度だけ史書に姿を現しています。

 

それが、反董卓連合が解散して間もなく、天下が動乱に満ち始めてきた時の事。

 

 

群雄割拠の様相を呈してきた中国全土は、数十年にもわたる荒廃と動乱の頻発により治安が悪化。周辺にも山賊が多く出るようになり、とりわけその中でも冀州(キシュウ)一帯を根城にする黒山賊(コクザンゾク)なる勢力は群雄といっても差し支えないほど勢力を誇っていました。

 

 

初平2年(191)、眭固はそんな黒山賊の部将の1人として史書に登場。他の将たちと共に勢力拡大のために魏郡(ギグン)に攻め入り、迎撃に出た太守の軍勢を数にものを言わせて周辺地域からの援軍もろとも撃破、陥落させます。

 

しかし、その後に援軍にやってきたのは、他でもない曹操。手始めに曹操は前線基地を攻撃し、これを陥落。

 

 

そしてその翌年からは本格的に攻勢を開始し、眭固の友軍が本陣にしていた箇所が不意打ちによってそのまま奪われてしまいます。

 

眭固はこれを聞くと他の部将らと共に自ら本陣奪還に向かいますが、曹操軍の伏兵に遭って敗北。以後眭固がどうなったのかは知りませんが、後々には張楊(チョウヨウ)の配下となって再登場するのです。

 

 

眭固がいつ黒山賊をやめて張楊配下に収まったのかは不明ですが、もしかしたらこの時に行き場所を失ったのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

主の仇を討ったはいいが……

 

 

 

さて、しばらく眭固の姿は史書から消えますが……建安4年(199)、以前完敗した曹操と黒山賊の宿敵・袁紹(エンショウ)がいよいよ対立の動きを深めてくると、その動乱の中で再登場します。

 

というのも、主君である張楊の領土はちょうど曹操と袁紹の境界線にある緩衝地帯だったのですが、この両雄が争うことになる過程で、どちらに付くか決定を迫られるようになったのです。

 

 

しかし、張楊は明確な答えを出す前に配下の楊醜(ヨウシュウ)に殺されてしまいます。そして楊醜が選んだのは、曹操の臣下として生きる道でした。

 

眭固にとって曹操は宿敵であり、何より当時の曹操と袁紹の戦力比は、袁紹が圧倒的。当然多くの群雄や曹操配下の豪族ですら袁紹にすり寄ることを選択している中、この行動は愚行にすら見えたのでしょう。

 

結局、眭固は楊醜を即座に殺害。主君の仇討ちを果たして張楊家臣団をまとめ上げ、そのまま袁紹の側に味方することを決定したのです。

 

 

しかし、すでに後のない曹操には、緩衝地帯がどちらに味方するかという問題を笑って見過ごすほどの余裕はありません。すぐに曹操の軍勢が眭固討伐のために贈られてきました。

 

 

その顔触れたるや、監督役の史渙(シカン)を中心に、曹仁(ソウジン)、楽進(ガクシン)、于禁(ウキン)、徐晃(ジョコウ)などなど……曹操軍の主力武将がこれでもかと並ぶ豪華な顔ぶれでした。

 

 

さすがにこんなのとまともにやり合っても勝ち目は無し。眭固は自分たちの武将に領地の堅守を命じると、自ら兵を率いて袁紹の元へと救援要請に向かいます。

 

しかし、何のいたずらか犬(ケン)城にてついに史渙、曹仁らと遭遇。一戦交えるも勝つことはかなわず、結局眭固はその場で討死。白兎は曹操という大きな犬に食われるという皮肉な最期を迎えました。

 

後に指導者を失った張楊軍の残党も、皆曹操に降ってこのドタバタ劇はひとつの終焉を迎え、翌年に曹操は袁紹相手に奇跡の大逆転劇を演じることになったのです。

 

 

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ちなみに……

 

 

 

眭固は楊醜を殺した後、軍をまとめて射犬(シャケン)という土地に駐屯していますが……『典略』ではこの時のちょっと面白いエピソードが書かれています。

 

というのも、地名による占い的な話。眭固軍にいた巫女は「射犬という土地は犬という文字が使われており、眭固様の字に使われている『兎』と相性が悪いです」と忠告したものの、それを聞き入れないばかりに眭固が死んでしまったという話。

 

 

どちらかというと、個人的には「犬を射る」から単なる「犬」の字に変わった途端即座に食われる辺りがもっとも皮肉な気がしますが……どうなんでしょう?

 

 

ともあれ、眭固を倒しに行った面子はまさに圧巻。もしかすると眭固は、昌豨(ショウキ)ならぶ実際の戦力以上に厄介な雑魚群雄だったのかもしれません。

 

『魏書』に載せられている曹操の上奏文においては、眭固は袁紹の長男である袁譚(エンタン)と並んで倒した群雄として名が挙げられています。この辺りからも、もしかするとの可能性や推測は膨らんでいきそうですね。

 

 

続きを読む≫ 2018/11/04 21:47:04

 

 

 

生没年:?~ 建安18年(213)

 

所属:他

 

生まれ:益州蜀郡?

 

 

 

 

張任(チョウジン)といえば、劉璋(リュウショウ)の軍勢の中でも最強と名高い人物ですね。

 

 

演義においては魏延(ギエン)による主君暗殺阻止、そして張飛(チョウヒ)とも一騎打ちを行い、挙句に落鳳坡(ラクホウハ:架空の地名のはずが今はそう名付けられた地が実在する)にて軍師の龐統(ホウトウ)を射殺。

 

最後には援軍の諸葛亮(ショカツリョウ)によって捕らえられ、劉備(リュウビ)に惜しまれながら処刑されるという大活躍をしています。

 

 

 

一方の正史では殺風景な描写し化されていないモブ将なものの、注釈によってなかなか濃いキャンセルら付けをされている事物ですね。

 

 

 

 

 

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来歴

 

 

張任の正史本文での活躍は、劉璋の主立った将の一人として劉備を迎撃し、そのまま他の将と共に敗北してしまったという記述だけ。

 

しかし、三国志の編纂者である陳寿が手がけた『益部耆旧伝』……に後付けで細かく肉付けされた『益部耆旧雑記』なる書物に、多少なりとも他の将軍たちよりは詳細な記載が残っています。

 

 

まず、彼は益州の蜀郡出身。つまり、劉璋が根付いている益州においては地元採用の人物だったようですね。

 

 

しかし、その家柄は最悪そのもの。代々生活には困窮している貧民と書かれていることから、間違っても名士の出というわけではないでしょう。この辺りから考えるに、もしかしたら劉璋あるいはその父の劉焉(リュウエン)統治では、他の勢力よりも家柄が軽視される傾向があったのかもしれません。

 

 

そんな家柄に生まれた張任でしたが、その性格は意志が強く勇猛にして大胆。そんな人柄が買われ、なんと最後には益州の従事(ジュウジ:州の副官。秘書的な役割?)にまで出世。平民出身者にしては大往生を遂げていたのです。

 

貧乏人が家柄主義も珍しく役人採用されたケースとしては、有名どころでは張嶷(チョウギョク)あたりでしょうか。

 

劉璋は無能のイメージが飛び交っていますが、もしかしたら元来の血統主義に依存しない人物登用の制度を持っていた可能性も……?

 

 

 

そして建安16年(211)に客将の劉備が反乱を起こすと、張任は劉璝(リュウカイ:苗字からして一族っぽい)と共に精鋭を率いて劉備軍の迎撃に出立。

 

しかし歴戦の精鋭である劉備軍は強く、結局は敗北。駱(ラク)を守る劉璋の子・劉循(リュウジュン)と合流し、籠城して劉備軍とぶつかることになったのでした。

 

 

こうして戦線が膠着したある日のこと、何かの策かはたまた動かない戦線に嫌気がさしたのか、突如として張任は軍を率いて駱城を出、雁橋(ガンキョウ)にて劉備軍と激突。そのまま敗北し、囚われてしまったのでした。

 

 

劉備は張任が忠義と勇気を兼ね備えている人物と聞き及んでおり、その際を惜しんで降伏を勧告。しかし張任は「老将が二君に仕えるだと?馬鹿にするな!」と憤り、結局降伏することなく処刑されました。

 

 

その死を敵である劉備は大いに惜しみ、それが後のメディアでの活躍に繋がっていくのです。

 

 

 

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……老将?

 

 

さて、張任の活躍の記述はここまでですが……個人的にはなんとなく引っかかる部分があります。

 

それが、張任が死ぬ間際に言い放った「老将」という言葉。つまり、張任はこの時、かなり歳をとっていた……?

 

 

実際、張任がこの時50~60、あるいはそれ以上のおじいさんだった可能性は大いにあります。というのも、彼の家柄は大変貧しく、名士が跋扈する役人という地位で出世するにはあまりに厳しい環境。

 

やはり当時は貧乏人というだけで「小物」というフィルターがかかりますし、よほど飛びぬけてないと壮年期まででの出世は不可能。それが従事にまで上ったという事は、それ相応に出世には時間がかかったと考えられないことはありません。

 

 

人材大国の魏や名士同士のディストピア一歩手前の呉と比べれば平民が世に出る難易度は低いものの、やはり辺境の益州でも庶民の出という地位は足を引っ張るには十分すぎる要因です。

 

 

この辺を考えると、やはり張任は従事に上った段階で相当な年齢。劉備の反乱はそれから数年たってからのものという可能性は十分あります。

 

 

張任というと、なんだか働き盛りの壮年将軍のイメージがありますが、もしかしたらかなり高齢なおじいさん武将だったのかもしれませんね。

 

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/26 21:28:26

 

 

生没年:?~?

 

所属:他

 

生まれ:?

 

 

 

 

華雄(カユウ)と言えば、とうとう三國無双シリーズにもプレイアブルとして登場した、董卓軍きっての猛将。……まあ実際は関羽(カンウ)の噛ませですが、それでもその強さを遺憾なく発揮した人物と言って良いでしょう。

 

 

が、そんな華雄も正史ではとにかく残念極まる最期を遂げており……

 

 

 

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演義では剛勇の猛者

 

 

 

三国志、あるいは後漢末で華雄と聞けば、やはり圧倒的な強さで反董卓連合を圧倒した一流の猛将を思い浮かべるのではないでしょうか。

 

汜水関(シスイカン)を守る守将として堂々たる登場。兵糧不足に苦しんだとはいえ孫堅(ソンケン)の軍勢を追い詰めて後退させ、数多いる連合軍の猛将を次々と討ち取り、盟主の袁紹(エンショウ)すらも「うちのエースがいてくれたら」と悲嘆させるほどの強さを見せつけます。

 

しかしまだ名もなかった劉備(リュウビ)の弟である関羽(カンウ)によって一撃で討ち取られ、関羽の武勇を示すための噛ませ犬としてこの上ない存在感を発揮しました。

 

 

当然ながら、三国志を題材にしたメディアでもおおよそこの強さがしっかりと再現され、董卓軍でも呂布(リョフ)を除くと武勇随一の超大物武将として登場し、過小評価されがちの董卓陣営の中ではひときわ異彩を放っています。

 

 

 

……が、正史においては、なんとたったの一文で華雄の伝をしめられています。

 

孫堅は陽人(ヨウジン)で董卓と戦って大勝し、都尉(トイ:軍事担当者)の華雄を討ち取って首を獄門にかけた。

 

 

つまり、演義では打ち破ったはずの孫堅に対してあっさり敗北。しかもそのまま討ち取られて無事死亡という、何とも盛り上がらない結末を迎えているのですね。

 

ちなみにこの一文以外で、華雄の名前は史書にはありません。本当にこれだけの、どうしようもなく少ない出番でした。

 

 

 

戦いの経緯

 

 

『英雄記』には、華雄が死んだ陽人の戦いの細かな経緯が書かれています。

 

この戦いにおける董卓方の総大将は、武勇に優れた胡軫(コシン)という人物でした。しかし胡軫は武名に驕るばかりで非常にせっかち。この戦いにおいても、「所詮は太守一人討ち取れば決着がつく。楽勝じゃねえか」と驕り節全開だったのです。

 

 

それを見て面白くなかったのが、副将の呂布をはじめ多くの部将たち。彼らは元々胡軫が大嫌いだったので、なんと罠に嵌めて敗北に追い込み、武名に傷をつけてやろうと考えたのです。

 

そこで呂布たちは胡軫に対し、「孫堅軍が撤退した」という偽情報を流して、「早く追わないと!」と胡軫を急かします。

 

 

が、直前まで孫堅と戦い、その足で強行軍を率いていた胡軫軍は疲労困憊。とうとう体力が限界を迎え、鎧を脱いで休息を開始するものの、呂布たちはそこで再び「孫堅軍が攻めてきた!」と偽情報を伝播。

 

慌てて逃げた後で偽情報と悟った胡軫は再び追撃ルートに入って陽人の城を攻めますが、そこではなんと孫堅軍が万全の体制で待ち構えていたのです。

 

 

強行軍の末に休憩すらろくにとれなかった胡軫軍と準備万端の孫堅軍では勝負になるはずもなく、胡軫は敗北して退却。華雄はこの時に捕らえられて斬られたというわけですね。なんというか憐れ

 

 

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ちなみに……

 

 

 

なお、『三国志演義』での孫堅軍はこの時に袁術(エンジュツ)軍からの兵糧輸送ストップと董卓軍の襲撃で敗北という二重苦を味わっていますが……これの元ネタは、なんと正史の本文にあるのです。

 

まず陽人の戦いの前の事。孫堅軍は華雄……ではなく、董卓軍の勇将・徐栄(ジョエイ)の軍に大敗。後に孫堅四天王の一人とされる祖茂(ソモ)にトレードマークである赤頭巾をかぶせる事で何とか逃げのび、難を逃れています。

 

 

続けて兵糧輸送をサボタージュされた件は、陽人の戦いの直後に書かれていますね。

 

この時の孫堅は袁術軍の配下であり、孫堅の手柄はそのまま袁術のものと同じ。つまり、袁術に孫堅を妨害する理由はなかったのです。

 

 

では誰が兵糧輸送の止めたのかというと……孫堅の活躍を妬む、名も知れぬ袁術軍武将。

 

名も知れぬ彼は、袁術に対して孫堅を危険人物であるかのように吹聴して袁術に讒言。これを信じた袁術は、孫堅を怪しんで兵糧の輸送を一時期やめてしまったのです。

 

しかし、説得に来た孫堅に対してもはや言い返すこともなく論破され、結局兵糧輸送を再開。以後、孫堅は洛陽(ラクヨウ)近郊まで反董卓軍の戦線を押し上げることに成功したのです。

 

 

……まあ、実際孫堅は上司を殺して兵を奪った前科持ち。ある意味、疑われてしまうのも仕方ないかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/10/23 22:07:23

 

 

 

生没年:?~ 建安24年(219)

 

所属:蜀?

 

生まれ:荊州江夏郡竟陵県?

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 D- 戦争に出たこともなかったし、そもそもお御輿君主に家臣の統制とかどう考えても無理。
武力 E なよっとして優柔不断だったという旨の言葉が史書には続く。個人武勇も剛毅さも持ち合わせていなかった。
知力 D 家臣に振り回され、外敵を見抜けず、気付いたときには時間切れ。おお、無念……
政治 D 東州兵の応対を見る限り、袁紹と同じゆるゆるな政治を敷くタイプっぽい。が、彼とは元の素質が違いすぎるとしか言いようがない。
人望 C 最期まで脆弱で優柔不断といわれ続けたが、根は善良っぽい。成都陥落時の言葉に涙する者がいなかったあたり、慕う者は少なくなかったのだろう。

 

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劉璋(リュウショウ)、字は季玉(キギョク)。世間の評価はぶっちゃけ無能。いいところなしの暗君で、劉備(リュウビ)にしてやられたのも「ああ……やっぱり……」みたいな印象を与える人ですね。

 

まあ実際有能ではない人物ではありますが……降伏時の言葉からも察しが付く善人といった感じの人で、益州を攻め取った劉備を責めるまでは行かないものの、都合よく立てられた二代目の哀愁を感じる人物です。

 

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お人好しゆえ茨の道を……

 

 

 

劉璋は益州で独立群雄としてスタートを遂げた父・劉焉(リュウエン)の跡継ぎに選ばれましたが……その理由はあまりにひどいものでした。

 

というのも、劉焉伝には以下のように書かれています。

 

 

劉璋は温厚な性格のため、自らの利益となると見た家臣らによって跡継ぎに据えられた。

 

 

ぶっちゃけ、ただの御輿状態ですね。しかもこれ、『典略』では「病気にかこつけて劉焉に呼び出され、あの手この手で帰らせてもらえなかった」ともあります。所詮は与太話ですが、これが本当ならば……

 

 

さて、そんなこんなで都合のいい存在として益州の長に君臨させられた劉璋ですが、その道は困難を極めます。

 

 

まず、密かに劉焉と密接につながっていた漢中の張魯(チョウロ)が独立。いつしか、完全に劉璋の言う事を無視するようになったのです。

 

劉璋はこれに怒り、人質として手元に置いていた張魯の家族を殺害。兄と関係の深かった龐羲(ホウギ)に張魯討伐を任せますが、これが上手く行かないまま、やがて龐羲とも関係が悪くなっていきました。

 

 

さらには失敗にこそ終わったものの、自分を都合がいいから擁立した人物の代表格である趙韙(チョウイ)が反乱を起こして攻め寄せるなど、益州内では困難が続いていたのです。

 

『英雄記』には、趙韙の反乱の詳しい内容が書かれています。

 

 

当時益州ではお隣の荊州から住民が流れていており、彼らの中から徴兵した兵士は「東州兵」と言われていました。

 

しかし、東州兵は益州の地元民らに対して差別感情を抱いており、勝手に彼らの家を略奪する等やりたい放題。劉璋も劉璋で優柔不断でゆるい性格であり、彼らの横暴を止めきれずに好き勝手を許してしまっていたのです。

 

 

そんな折に劉璋が頼ったのが、趙韙。劉璋は彼に東州兵の討伐を頼みましたが……趙韙はひそかに反逆の野心を持っており、なんと賄賂で東州兵の本貫地と和睦。さらに東州兵を恨む地元豪族と密かに手を結び、大挙して劉璋を攻撃。

 

これによって劉璋政権は転覆した……かに思われましたが、なんとこの時劉璋を助けたのが、「次は自分たちだ」と危機感を覚えていた東州兵。彼らは劉璋のために一致団結して死に物狂いで戦い、趙韙を討ち取って反乱を鎮めることができたのでした。

 

略奪軍の勝利というのも胸糞な話ですが……乱世ならこういうのも普通にあり得る事なんでしょうね。

 

 

 

張松の権謀

 

 

 

さて、こうして波乱の中で州内のゴタゴタをどうにか収めていった劉璋でしたが……建安13年(208)、お隣の荊州で劉琮(リュウソウ)が曹操(ソウソウ)に降伏。これまで無視してきた中央の情勢に、否が応でも対応せざるを得なくなってきました。

 

 

劉璋は、最大勢力を誇る曹操に急接近。曹操に賛辞を送って益州兵を派遣。曹操から振威将軍(シンイショウグン)の位を授かり、親密な間柄となったのです。

 

さらに使者として曹操の元に家臣の張松(チョウショウ)を送りましたが……これが後の悲劇につながります。

 

曹操はこの時最大勢力の長となっていたためか、張松に対して歯牙にもかけないような扱いをしてしまったのです。これによって曹操に憤りを覚えた張松は、完全にアンチ曹操派に転進。赤壁で曹操が敗北したのを機に、曹操の悪口を言うようになりました。

 

 

そして、そんな張松が目を付けたのが、曹操相手に長年戦い続けた劉備

 

「彼は殿の縁戚であり、結ぶ価値はあります」

 

 

かくして劉璋は劉備と結託。法正(ホウセイ)や孟達(モウタツ)らを使者として四千の兵をつけ、劉備に声をかけさせに行きました。

 

 

そして、張松の言うがままに劉備を歓迎。この時に劉備を危険視する声も上がっていましたが、劉璋にとってこの時の劉備は希望の星に見えたのでしょう。

 

劉璋の劉備を歓待する対応は度を越していたようで、劉備軍はまるで自領に帰るかのように劉璋領との国境を越え、悠々と劉璋の元へと進軍。劉璋も自ら歓待に出向き、代わる代わる劉備やその配下たちと歓迎の酒宴を開き、百日余りにもわたって歓迎の意を示し、大量の物資支援を約束します。

 

 

……が、これが最終的に自らの破滅をもたらし、劉璋の群雄としての活動に終止符を打つ直接の要因になってしまったのでした。

 

 

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降伏、そして……

 

 

 

建安17年(212)、これまで親劉備派の重臣である張松が、実は劉備を据えて造反する計画を立てていたことが判明。劉璋は即座に張松を殺して劉備とのかかわりを断つよう周囲に厳命しますが、もうすでに手遅れといえる有り様でした。

 

 

張魯らとの戦いで練度が極端に低いわけではなかった劉璋軍でしたが、精強な劉備軍の前に連戦連敗。ただのお御輿君主であったことから投降者も続出し、建安19年(214)、ついに本拠である成都(セイト)が劉備によって包囲されます。

 

劉璋軍はなおも強固な成都と三万の軍勢、そして一年は越せる食料などを活かして持久戦に移りましたが……包囲されること数十日、刻一刻と悪くなっていく状況に耐え兼ね、劉璋はついに降伏を決意しました。

 

その時の劉璋の言葉は、以下の通り。

 

 

「私たち親子二代は長い統治にもかかわらず民に恩恵を施さなかった。三年もの間劉備との抗争に明け暮れ、多くの兵が死に、民が苦しむのは私のせいだ。これ以上人々を苦しめ、平気でいることなどできようものか」

 

 

個人的には、この言葉に劉璋の人格が詰まっているような気がします。

 

ともあれ、家臣の多くが涙する中、こうして劉璋は降伏。彼の戦いは終わりを告げました。

 

 

その後劉璋は、劉備から没収された財産や振威将軍の証を返却してもらい、荊州南郡の公安に移住。その地で亡くなるまで暮らしました。

 

また、荊州が孫権(ソンケン)によって奪われたときも、劉璋はそのまま孫権によって益州牧に復職させてもらいましたが、間もなく病死。家臣に振り回され、劉備に裏切られ、孫権に体よく利用されそうになった劉璋は、死という形でようやく安息を得たのでした。

 

 

 

 

 

人物像

 

 

 

と、このようにお御輿、降伏、情けなしといった感じの劉璋は、どうあっても歴史家に良い評価を与えられる人物ではありません。無能という評は、彼を語る上ではどうしてもついて回ります。

 

三国志を編纂した陳寿は、彼を以下のように評しています。

 

 

英雄としての能力もないのに、領土を占めて混乱させた。柄にもない地位を手にして領地を狙われるに至ったのは、自然の摂理であって不幸とは言い切れない。

 

 

もうボロカスの酷評ですね。概ね、劉璋を誰かが評するときは、この陳寿評に近い感じのものになるのがいつもの流れです。

 

しかし、同時に「確かに能力不足ではあったが、善言を守ったため無道の君主とは言えない」という評価もあり、能力はさておいて、人物面で悪く言われることは意外にも少ないのではないでしょうか。

 

 

勝手に祭り上げられ勝手に捨てられ、気付けば降伏に追い込まれてとっさに出た「全部私のせいだ」という言葉。この発言の裏に、劉璋はどんな思いを込めたのでしょうか?

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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続きを読む≫ 2018/10/08 14:48:08

 

 

 

生没年:?~ 建安13年(208)

 

所属:なし

 

生まれ:不明

 

 

 

 

黄祖(コウソ)という人物は、孫家の仇敵としてたびたび呉書に姿を現します。

 

しかし、その人物は謎。たびたび名前が出てくるときも全戦全敗で、しかも人を重用しない狭量さから将としての器もなし。呉側の記述を信じるなら、「どうしようもない雑魚なのにやたら手こずらせてくれた相手」という解釈になります。

 

 

今回は、そんな雑魚キャラ扱いの黄祖が本当に雑魚だったのかも含め、呉の記述からいろいろ迫っていきます。

 

 

 

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堅パパ殺す大金星!

 

 

 

まず黄祖の名が挙がったのは、初平2年(191)に、孫堅(ソンケン)が劉表(リュウヒョウ)の元に攻め寄せてきた時の事。

 

黄祖はこの時、劉表側の総大将として孫堅にぶつかりました。

 

 

……が、結果は敗北。まさに脂がのって勢い全開の孫堅相手に勝つことは難しく、あえなく敗走しています。

 

しかし、その後に劉表軍本拠である襄陽(ジョウヨウ)が囲まれた時、孫堅は何を考えたのか単独で周囲の偵察を敢行。これを見つけた黄祖軍の兵卒は孫堅に矢を射かけ、なんと射殺することに成功してしまいます。

 

 

これによって孫堅軍は一気に瓦解し、窮地に陥った劉表軍は勝利を得たのでした。

 

 

ちなみに孫堅の死には諸説あります。まず『典略』の話によれば、黄祖はひそかに襄陽の外で募兵を行い、帰る途中で孫堅の待ち伏せに会って敗走。追ってきた孫堅に対して伏兵による一斉射撃を仕掛け、そのまま射殺したと言われています。

 

『英雄記』では、孫堅の死は初平4年(193)の出来事になっており、黄祖軍の呂公(リョコウ)なる人物を追う中で落石系に引っかかって即死しています。

 

 

ちなみに正史桓範伝では孫堅の遺体は劉表が所持していたとされており、何にせよ劉表によって遺体を回収可能な末路を迎えたようですね。

 

 

 

さて、こうして無双状態の敵大将である孫堅を討ち取る大金星を挙げた黄祖でしたが……これが引き金となって、孫堅の息子から仇として命を狙われるようになります。

 

息子の孫策(ソンサク)は相当深く恨んでいるような言葉を残しており、『呉歴』では「黄祖のせいで親父が死んだ」、挙句に帝への上奏文では「荊州で起きた凶事は全部黄祖のせい」とまで書かれています。

 

もっとも、親の仇という立ち位置が大義名分として都合が良かったから名前を出された可能性もありますが……なんにしても、これによって黄祖は孫家一門総出で殺すべき相手と認識されたわけです。

 

 

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父の仇と狙われて

 

 

 

建安4年(199)、周辺の群雄を平らげて勢力を増した孫策は、ついに西方に目を向けました。黄祖は息子の黄射(コウシャ)に、真っ先に狙われる劉勲(リュウクン)を救援しましたが失敗し、劉勲勢力は滅亡。

 

黄祖は余勢を駆って向かってきた孫策と自ら対峙しますが、一万人余りが溺死、援軍として劉表から派遣された将を討ち取られる等敗北。史料に大勝であると記述がありますが、孫策軍側も徐琨(ジョコン)が戦死する等、孫策側も一方的な圧勝とは言い切れなかった様子が伺えます。

 

 

 

後に孫策が急死して孫権(ソンケン)の代になっても、相変わらず黄祖は孫一門の仇敵としてしのぎを削っています。

 

 

建安8年(203)には孫権軍が江夏に侵攻。ここでは水軍戦こそ敗北しましたが、城に逃げ込んで固守。城をなんとか守り抜いたうえ、敵将である凌操(リョウソウ)を討ち取ってここでも一矢報いてみせました。

 

 

ちなみに甘寧伝が引く『呉書』では、凌操は甘寧に殺されたとか。しかし黄祖は荒くれの甘寧を重用せず、この功績も無視し続けたそうな。

 

要するに、敵さんここまで下劣な奴でしたよエピソードであり、実際にヤクザ上がりの流れ者を重用したくないのはわかりますが……狭量さというか、中途半端な対応なのは否めません。

 

 

当然、黄祖の側もむざむざ殺されてなるものかと逆に部下を柴桑(サイソウ)まで攻め入らせていますが、こちらも破られていますね。

 

建安11年(206)に部将をけしかけて攻めさせるも、周瑜(シュウユ)によって武将を捕縛され、また時期は不明ですが防備が手薄な時に攻めたものの、わずかな兵力しか率いていない敵の意外な奮戦に敗北。

 

呉書にはこれ以外何も記述がありませんが、もしかしたらこれ以外にも黄祖は孫権と戦い、勝利することもあったのかもしれませんね。

 

 

とまあ、これはあくまでただの妄想。何がともあれ孫権相手に一歩も引かない戦いを見せていた黄祖でしたが、建安12年(207)にとうとう敗北により住民が拉致され、住民に被害を出してしまいます。

 

これが暗転へのきっかけとなり、次の侵攻でついに黄祖は討ち取られてしまうことになるのです。

 

 

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/01 15:49:01

 

 

生没年:?~建安11年(206)

 

所属:なし

 

生まれ:兗州泰山郡

 

 

 

 

昌豨(ショウキ)、あるいは昌覇、その他書き間違い別名多数……。この人物は、三国志界隈のごく一部では超有名人ですね。

 

徐州の東海(トウカイ)郡を中心に暴れ回ったようなので、出身地はそちらという声もあります。が、今回はあくまで正史本文を信じて兗州出身者という事で。

 

 

さて、あくまでその他大勢の群雄の一人にすぎない彼がなぜこうも有名になったのか……その答えは、曹操(ソウソウ)への反逆と奮戦。

 

今回は、そんなちっぽけな群雄でありながら意外な健闘を見せた昌豨の記述を追ってみましょう。

 

 

 

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臧覇の仲間?

 

 

 

昌豨は三国志本文によれば、昌豨は泰山郡の出身であり、臧覇ら独立群雄の一派だったらしいことが伺えます。

 

臧覇は孫観(ソンカン)、呉惇(ゴトン)、尹礼(インレイ)といった人物を率いる無頼の徒であり、陶謙(トウケン)の元で名を上げて独立。その後は徐州の独立勢力のひとつとして動いたとされています。

 

 

しかし、昌豨自身が臧覇勢力の一員であると明確に示す資料は無く、結局はグレーです。

 

それどころか臧覇伝では一派から意図的に名前を省かれており、後漢書では初平年間(190年代前半)に皇族である劉和(リュウワ/リュウカ)を攻めたという記述もあるという有り様。

 

もしかしたら、臧覇とは同盟関係にあるか、あるいは同規模程度ながらほとんど無関係の独立群雄だったのかもしれませんね。

 

 

後に臧覇らは徐州にて乗っ取りを働いた呂布(リョフ)に味方するようになりますが、建安3年(198)に呂布が廃止すると、全員お尋ね者に。後に臧覇らは出頭して曹操軍に加わり、元の領地を与えられ、臧覇は青州および徐州の事を一任されました。

 

この時に配下に加わった人物の一人として昌豨は名を連ねており、これが主に臧覇一派に加えられる要因になっています。

 

臧覇伝では記述が省かれているせいで結局どの土地の太守を任されたか不明ながら、まあ昌豨にもどこかの土地は割り振られたことは間違いないでしょう。

 

 

しかし、こうして降ったものの、彼一人は曹操軍が肌に合わなかったのか……昌豨はあらぬ気持ちを抱き、やがてそれを爆発させるようになっていくのです。

 

 

 

 

アンチ曹操の旗印

 

 

 

建安5年(200)、曹操が北方の英雄である袁紹(エンショウ)との決戦に挑もうとしていた時の事。

 

この大事な局面で、左将軍の劉備(リュウビ)が徐州にて突如叛逆。曹操軍中は乱れに乱れ、袁紹軍を勢いづかせることになってしまいました。

 

 

勝機がないと考えたのか、曹操が単純に嫌いだったのか……反曹操の気持ちを高ぶらせていた昌豨は、これ見よがしに劉備軍に寝返り、反乱を支援します。この時、周辺の県や郡も寝返りまくった結果、劉備軍は数万という数に膨れ上がりました。

 

つまり、劉備や裏にいる袁紹と結べば、曹操を転覆させるのに十分すぎる戦力を味方につけられたわけですね。実際、これによって曹操軍は一気に苦境に立たされることになります。

 

 

が、この時の曹操は早かった。先遣隊が劉備軍に撃退されるのを知ると、すぐさま自分自身で軍を率いて劉備討伐に出陣。神速の勢いで向かってくる曹操軍を前に劉備は逃亡を決意し、昌豨軍も敗北。東方戦線の反曹操勢力の勢いは消沈してしまいました。

 

しかもこの時、曹操軍の東を守る臧覇も精兵を率いて袁紹側の領地を攻撃。とても曹操軍相手に真っ向勝負を挑める状況ではなく、昌豨は本拠地に押し込まれてしまいました。

 

 

そして官渡の戦いが曹操軍勝利に終わった時、ついに曹操は反逆勢力の掃討に力を割くようになります。

 

この時に昌豨討伐に向かってきたのは、夏侯淵(カコウエン)と張遼(チョウリョウ)の二名。絶望しかない

 

 

昌豨はこの時に籠城を決めて、砦を盾に包囲した曹操軍相手に奮戦。なんと数ヶ月もの間持ちこたえ、曹操軍を逆に兵糧切れ寸前まで追い込んだのです。

 

が、そこまで粘った昌豨軍もすでに限界であり、張遼伝には「攻撃が緩慢になり、昌豨は砦から知り合いの張遼をジロジロ見てくることがあった」という張遼の証言があるほど追い詰められたことが本文に書かれています。

 

 

昌豨は、無謀にも単身乗り込んできた張遼の説得を受けて降伏。これによって昌豨軍は一回滅亡を迎えています。

 

しかし、昌豨はまだ、何が彼をそうさせたのか反曹操の意思を捨てきれなかったようで……数年後、いよいよ最期の反乱に身を投じることになります。

 

 

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旧友を頼るも……

 

 

 

官渡で負けるも曹操と拮抗していた袁紹は、建安7年(202)に死去。その後継者は袁譚(エンタン)、袁尚(エンショウ)の二派に別れ、戦力は分断されました。

 

後に彼らが仲間割れを始めると、ついに曹操は河北に進軍。二人の争いに介入して次々と軍を打ち破り、どんどん勢力を北に押し上げていったのです。

 

 

さて、そんなこんなで曹操が北にかかりきりになった時、それまで大人しくしていた昌豨は、ついに曹操に反旗を翻し、再び敵対することになったのです。

 

 

この時、昌豨の討伐に駆けつけたのが、于禁(ウキン)と臧覇の二名。さらに余力として夏侯淵が背後に控えていました。相変わらず人選がえげつない

 

 

昌豨は于禁らの攻撃に対して奮戦し、彼らに対して一切引けを取らない防戦を展開。留守番役の曹操軍がそれほど多くの兵を割けるとも思えませんが……それでも相手が相手。なぜこんな連中と互角に戦えるのか……

 

 

ともあれ、こうして于禁・臧覇軍を相手に互角の戦いを繰り広げた昌豨でしたが、夏侯淵が援軍としてくるとついに形勢は逆転。怒涛の攻勢に陣形が崩れて十余りの屯所を打ち砕かれ、ここにきて昌豨はついに于禁を頼り降伏。

 

……が、ここで法に厳格な于禁に降伏したのが、彼の運命を決めました。

 

 

于禁は法令に「包囲した後に降伏した者は死刑」とあることを理由に、周囲の反対を押し切って「法を曲げて節義は失えぬ!」と昌豨の処断を決定。

 

昌豨は于禁から涙ながらに別れを告げられ、そのまま処断。こうして、昌豨のアンチ曹操の道は終わりを告げたのです。

 

 

 

 

最期まで曹操アンチ

 

 

 

さて、小規模な反逆者にしては昌豨の記述は残っている方ですが、それでもまだまだ記載に関しては謎が多く、とても充足しているとは言えないのが現状です。

 

結局、彼は臧覇とはどういう関係だったのか、曹操になぜ何度も反逆したのか、処刑されるときに何を思ったのか……これらは、史書からはまったく見えてきません。

 

 

ただまあ、彼自身には不思議な魅力があったのか、はたまたどこかいいところの名士だったのか……これだけ背かれた曹操も、昌豨が于禁を頼って処刑されたと聞いたときは「運命という奴か」とぼやいてその死を惜しんだとあり、並大抵の人物ではなかったと言えるでしょう。

 

というか張遼や于禁とも仲が良かったと思わせる記述もありますし、本当何者……?

 

 

ちなみに諸葛亮(ショカツリョウ)伝によれば、昌豨が曹操を撃退した数は五回。ただしこれは諸葛亮自身が曹操を貶す上奏をした時の証言なので、事実かどうかはわかりません。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/28 15:45:28

 

 

生没年:?~建安3年(198)

 

所属:他

 

生まれ:兗州東郡武陽県

 

 

 

 

陳宮(チンキュウ)、字は公台(コウダイ)。呂布軍の軍師として有名な人物ですよね。

 

曹操(ソウソウ)を悪として徹頭徹尾書き上げるような作品では、まさに義戦士のような善良さを持った男ですが……正史においてはどーしよーもねークソ野郎。曹操アンチの史書では彼のいい人化を図って擁護しようとしている風もありますが、とても隠しきれるものではないでしょう。

 

 

個人的に、彼の興味深いところは知力よりもその野心。もうなんというか、暴走しすぎです。本当ヤバすぎでしょうこの人。傍から見てる分には好きです、こういういたずらに場を混乱させる人。

 

 

 

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君も今日から、英雄だ!

 

 

 

話半分の史書である『典略』によると若い頃から多くの有力者とよしみを結び、非常に精力的に活動。己の野心に向けて順調に下準備を整えていました。

 

そんな陳宮は、やがて動乱の世になると曹操に仕官。いつの時期かは知りませんが、彼の参謀の一人として働くようになりました。

 

 

『世語』によると、曹操の群雄としてスタートを切る事になる始まりの地・兗州(エンシュウ)を得ることになったのは、陳宮のおかげだとか。

 

兗州の長官が戦死して不在になった時、彼が曹操に「兗州の上に立ちましょう」と提案。周辺の土豪たちにも曹操を主とするよう駆け回ったようです。

 

とはいえ、当時の兗州は、百万とも言われる黄巾党の残党から攻撃を受けて、非常に危険な状態でした。曹操は彼らに苦戦し大事な仲間も失いますが、なんとか黄巾党を下してこれを併呑。群雄としてのスタートを切ったのです。

 

 

こうして群雄としての黎明期を迎えた曹操ですが……この時、陳宮は彼に対して「何か違う」と、自分の理想との齟齬を感じ取っていました。

 

 

 

そして兗州平定から2年後の興平元年(194)、陳宮が感じていた疑問はついに爆発。なんと曹操が遠征中で不在の間に、無類の強さを誇る豪傑・呂布(リョフ)を迎え入れて謀反を計画。

 

曹操の親友である張邈(チョウバク)をそそのかし、自身の人脈をフル活用して兗州の九割以上をまたたく間に反曹操の勢力で固めてしまったのです。

 

 

この時、無能感と疑心暗鬼に震えて迷える張邈に送った悪魔の言葉がこちら。

 

 

「あなたは良い土地を治めて英雄としての条件をお持ちなのに、なぜくすぶっておられるのか。さあ、呂布と共に手を取り合い、覇業を始めましょう!」

 

 

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謀反の失敗

 

 

 

さて、曹操の親友すらも引っ張り出しての大反逆は、すでに陳宮らの勝利がほぼ確定する所まで持っていけましたが……この時、鄄城(ケンジョウ)、范(ハン)、東阿(トウア)の3県だけは反乱に乗らず、曹操軍に味方。

 

陳宮はこの小さな芽が危険につながると読んで、さっそく不穏分子を潰しに進軍を開始。范と東阿を落とすために自ら軍を進めます。

 

 

……が、曹操軍参謀である程昱(テイイク)の策略より東阿への道が封鎖され、范に向かっていた別動隊も大将が暗殺されて霧散。さらに漁夫の利を狙って兗州進軍を狙っていた群雄も、荀彧(ジュンイク)の弁舌に追い返されてしまいました。

 

さらに、手間取っている間に曹操軍の本隊が帰還。陳宮らは応戦し互角の戦いを演じますが、たまたまイナゴによる飢饉に見舞われ、両軍は停戦。上手く行かなかったことから、次第に反乱軍に陰りが見え始めます。

 

 

そして不穏な空気のまま、翌年の興平2年(195)には曹操軍と再戦。曹操に攻められた救援に向かうも迎撃部隊に敗れ、さらに別の戦場でも連戦連敗。

 

薛蘭(セツラン)ら李封(リホウ)といった呂布に味方してくれた人物を戦死させてしまい、呂布自身も兵力優勢でありながら伏兵によって大敗北を喫してしまいました。

 

 

こうして敗北を重ねた結果、陳宮の反乱計画はとうとう失敗し、兗州の呂布軍は拠り所を失って壊滅。結局、呂布らは徐州の劉備(リュウビ)の元に向かう事になったのでした。

 

 

 

 

裏切り野郎、最期に見せた粋な気骨

 

 

 

建安元年(196)、呂布劉備の留守を突いて徐州を強奪。再び勢力を得ましたが……陳宮はこの時、すでに呂布が自分の手に負える人物ではないという結論を導き出していました。

 

同年、なんと自ら手引きして、部将である郝萌(カクホウ)の反乱を誘発。しかしこの反乱は郝萌の部将で呂布軍に戻ってきた曹性によって鎮圧され、なんと「黒幕は陳宮」と暴かれてしまったのです。

 

この時陳宮は焦りのあまり、顔を赤らめて自分が手引きしたと周囲にバレてしまったのですが……呂布は「こいつは大将だから」という謎の理論を持ち出して不問にされます。

 

 

その後、曹操軍は完全に呂布を攻略するために大軍を動員。呂布軍は曹操側に味方する劉備を援軍ともども追い散らしますが、曹操本人が来たことで圧倒されていきます。

 

そして最後は本営である下邳(カヒ)を残してすべて曹操に降る事になり、呂布軍は完全に追い詰められてしまったのです。

 

『献帝春秋』によれば、陳宮は曹操が来襲した際に迎撃策を提示。呂布から拒否されています。

 

しかも曹操軍に囲まれて攻め立てられたとき、呂布は「殿、私はあなたに降ります!」と曹操に懇願。陳宮が慌てて「何が殿か!曹操に降るのは、石に卵を投げつけるようなものですぞ!」と慌てて止めたとか。

 

 

ちなみに迎撃策については『魏氏春秋』にも同じ記述があります。こちらでは呂布は乗り気だったのですが……よりによって寂しさを覚えた呂布の妻が「置いて行かないで」とゴネたため、結局中止となったとか。

 

 

呂布軍は一度呂布自ら迎撃に出るも、部将を捕縛されてしまう敗北を喫したことで、いよいよ籠城以外に道が無くなってしまいます。またこの時、呂布曹操から降伏勧告を受け取ると降伏しようとしたものの、さすがに陳宮が「許されるはずもない」と考えて阻止したとか。

 

その後も呂布袁術(エンジュツ)の元に救援要請を送るなど、なんとか生き延びようとしますが……包囲開始から3ヶ月が経過した年末、ついに呂布軍中で亀裂が生じます。

 

 

なんと、部将である魏続(ギゾク)、宋憲(ソウケン)、侯成(コウセイ)らがこぞって造反。陳宮を縛り上げて曹操に降ってしまったのです。

 

これによってすでに心折れていた呂布を止めるものがいなくなり、ついに呂布が降伏したことで陳宮らは敗北。

 

 

陳宮は呂布や勇将・高順(コウジュン)らと共に処刑され、晒し首にされてしまったのでした。

 

 

処刑に際し、曹操は陳宮に対して「お前の家族を預かっているが……」と暗に自分への降伏を迫りましたが、陳宮はこれを拒否。曰く、

 

「仁徳と孝行によって天下に覇を唱える英雄は、人の親を殺したり知を途絶えさせたりはしないとか。家族の命は、私でなくあなたの手中にあります」

 

かくして陳宮は、最期の最期で曹操に対して意地を見せたのです。

 

 

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裏切りと野心に殉じた一生

 

 

 

最期に漢気を見せたことで幾分か緩和され、むしろ綺麗な善人とされる陳宮ですが……やったことといえば以下の通り。

 

 

・主君を裏切って未曽有の危機に叩き込む

 

・その時、主君の親友まで道連れにする

 

・またしても主君を裏切ろうとする

 

 

はい、完全にヤバい人です。野心メラメラです。ついでに言うと節操無しです。

 

これらの行動を鑑みると、どうにも陳宮には、「君主を神輿として担ぎ上げることで天下に臨む」という野望があったのではないかと思えてきてしまいます。

 

 

 

最初は弱小の雑魚群雄である曹操に仕えたものの、思った以上の大器であったためこの機に亡き者にしようと叛逆。

 

武力だけはあるが操りやすい強欲野郎をそそのかしてトップに立て、なんか気の弱そうだけど名声だけはある奴を保険として囲い込む。が、失敗して曹操に反撃の足掛かりを与えてしまう。

 

名声だけ野郎の張邈が死んで、残った呂布も操りきれそうにないので叛逆。そして最期は一緒に殺し損ねた曹操に、呂布ともども殺される。

 

 

ぶっちゃけ、こんな感じにも見えてきてしまいます。

 

 

『典略』での話なので信憑性は微妙ですが……曹操に「お前ほどの智謀の士がなんてザマだ」と言われたときに、呂布を指して「コイツが言う事聞かなかったから!」と言い放ったのが、陳宮の性格のすべてを表しているような気がしますね。

 

 

ちなみに『英雄記』での呂布の妻による進言によれば、呂布軍において珍しく清廉潔白であった高順とは仲が悪かったとか。しかもそれと同時に、妻は呂布に対して「陳宮の言う事に惑わされないで」とも述べており、思いっきり警戒されています。

 

 

さて、最後に『典略』からの陳宮の性質、そして正史本文にて荀攸(ジュンユウ)、郭嘉(カクカ)が述べた陳宮評を述べて、このページを締めたいと思います。

 

 

剛直にして、気迫に満ちた人柄であった。

―魚氏『典略』―

 

並外れた知恵はあるが、ノロマで決断は遅い。

―『荀攸伝』より―

続きを読む≫ 2018/09/21 22:14:21

 

 

生没年:?~初平3年(192)

 

所属:他

 

生まれ:幽州玄菟郡

 

 

 

 

 

徐栄(ジョエイ)という名を聞いたことがある方は、おそらく三国志好きの中には少なくないと思われます。

 

というのも、なんと曹操(ソウソウ)、孫堅(ソンケン)という二大スターを粉砕するという化け物ぶりを見せた人物。これでは、人気とまでは行かなくてもその界隈ではそこそこ有名にもなるというもの。

 

 

しかし、その最期はなんともあっけないものでした。

 

さて、今回はそんな徐栄の事績を、主に後漢書の董卓(トウタク)伝から拾っていきましょう。

 

 

 

 

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董卓軍のヤバい人

 

 

 

徐栄は董卓軍に中郎将(チュウロウショウ:将軍より一つ下位の高級軍人。董卓軍中ではかなり高い位)として仕えたとされています。

 

また意外なことに、後々遼東(リョウトウ)で独立勢力を誇る公孫度(コウソンド)を同じ州のよしみからか董卓に推挙。彼が後々一大勢力として勇躍する足掛かりを作っています。

 

 

さて、そんな徐栄が大活躍するのが、董卓に反発した諸侯がいわゆる反董卓連合を結成し、一斉に攻め寄せてきた時。

 

 

この時、徐栄の最初の相手になったのは、当時はまだ雑魚群雄の一人にすぎなかった曹操です。

 

曹操はやる気がなくお互い飲み会で牽制し合ってばかりの連合軍に失望し、自身を応援してくれる人物から借り受けた兵を糾合した即席戦力で董卓のいる洛陽(ラクヨウ)に向かう最中、たまたま徐栄の軍と遭遇、交戦したとされています。

 

 

この時徐栄は、自身の兵の方が多数だったこともあり、曹操軍に圧勝。協力者の衛茲(エイジ)や鮑韜(ホウトウ)を討ち取り、さらに曹操自身の肩にもけがを負わせます。

 

結局、腹心である曹洪(ソウコウ)の手によって曹操は戦線を離脱してしまいますが、曹操は戦力にならないくらいの大打撃を受けたとされています。

 

 

しかし、徐栄は曹操軍が死ぬ気で奮戦していたのを見て、ここで進軍停止。

 

「無名の曹操程度でもあれほどならば、きっと本陣を攻めるのは厳しいだろう」

 

当然と言えば当然ですが、当時ただのモブ武将であった曹操が後に天下に大手をかけるなどと知る由もなし。そんな曹操の奮戦を見たことで、徐栄はひとまず連合軍本陣攻撃を切り上げたのです。

 

 

また、その後も梁(リョウ)にて孫堅軍を捕捉し、これも遭遇戦で大いに撃破。孫堅はこの時、祖茂(ソモ)に自分のトレードマークである頭巾をかぶせて囮としその間に数十騎で戦線離脱。間道沿いに逃げていくしかなかったほどの大打撃を与えたとされています。

 

 

 

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その死に際は呆気無し……

 

 

 

このように、徐栄はよりにもよって後の魏呉の始祖となるような英傑たちを破るという驚異的な戦果を見せつけた徐栄。おそらく、彼が対連合軍のMVPといっても過言ではありません。

 

事実、やる気がイマイチな反董卓連合軍は曹操孫堅の沈黙によって無力化。孫堅軍がその後すぐに盛り返したからよかったものの、董卓軍の大勝で終わった可能性は大いにあったと思われます。胡軫、呂布、お前ら見習え

 

 

 

しかし、そんな徐栄を待っていたのは、非業の運命ともいえるものでした。

 

初平3年(192)、なんと主である董卓が養子である呂布(リョフ)の手にかかり死亡。暗殺を手引きした王允(オウイン)が政権のトップに立ち、董卓派の巣窟であった涼州人の駆逐を押し広めたのです。

 

この時反董卓の強硬姿勢を貫く王允のやり方は、「涼州の出身者を皆殺しにして回っている」という風聞として董卓軍残党に広まったとされています。

 

 

徐栄は董卓に思うところがあったのか保身のためか、董卓死後は王允側に編入。彼に従う事にしました。

 

 

 

が、そんな折、自らの命の危険を感じた董卓子飼いの武将である李傕(リカク)らが、大挙して王允のいる長安(チョウアン)を襲撃。

 

この時に徐栄は胡軫(コシン)や楊定(ヨウテイ)らと共に出撃。そのまま董卓軍残党を迎撃しますが、圧倒的な軍勢の前に敗北。胡軫らが董卓軍側に寝返ったこともあり、徐栄はそのまま討死。

 

 

二大スターを蹴散らす大功を立てた徐栄ですが、その最期はあまりにパッとしませんでした。呂布のような厚顔無恥さと行動力が足りなかったのか……?

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/20 00:23:20

 

 

生没年:喜平2年(173)~ 建安3年(198)

 

所属:なし

 

生まれ:青州平原郡

 

 

 

 

禰衡(デイコウ/ ネイコウ)、字は正平(セイヘイ)。世の中には様々な人が住んでおり、その中には到底推し量れない狂人や変人がいるものです。三国志の世界でも、この禰衡という人はまさにそんな感じの人物でした。

 

彼を一言で表すなら、誹謗中傷をするためにこの世に生を受けた男。どこでも悪口、誰に対しても傲慢を貫き通し、自分が認めた人間以外のすべてを徹底的に見下して死んでいった、ある意味最強の人物です。

 

 

今回は荀彧伝に注釈として設けられた禰衡の一生、『平原禰衡伝』を追っていきましょう。

 

 

 

 

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カスに用事はありません!

 

 

 

禰衡の悪口伝説は、実はそこまで長年にわたって築かれていったわけではありません。言ってしまえば、急速に膨らんで破裂してしまう風船のような、1年から長くて3年の間の、ほんのわずかな期間でのものに過ぎませんでした。

 

 

建安の始めに、戦禍を逃れて荊州にいた禰衡が許都(キョト)へと引っ越したとき。これが、伝説の始まりでした。

 

彼は許都について腰を落ち着かせるや否や、自分の才覚に物を言わせて威張り散らし、自分のお眼鏡にかなわない者は話しかけられても完全無視。明らかに行き過ぎた悪口を散々にばら撒いて、周囲の恨みをほしいままに(?)手にしたと言われています。

 

 

ただし、そんな禰衡を見て希代の変人マニア・孔融(コウユウ)は禰衡の弁舌を高く評価し、「本性は宇宙の原理と合わさり、思考は神が宿っているかの如く霊妙です」と上奏文にてべた褒めしています。
こんな奴にコスモが宿っていてたまるか

 

この時、禰衡24歳。

 

 

また、当時の許都は遷都して間もないとはいえ、やはりいっぱしの大人物は割とその辺りにいたとされるほどの栄えっぷりでした。

 

が、禰衡からしてみればそんな大物たちも所詮は雑魚。優れた人物のためにしたためた自分の名士がボロボロになってもだれとも会おうとせず、周囲は不思議がったとか。

 

 

ある人が陳羣(チングン)や司馬朗(シバロウ)といった魏でも立伝されるだけの人物を差して会いに行くよう促しても、「豚肉業者や酒売りみたいなやつらと会いたくない」と完全拒否。

 

当人はただ2人、自身を推挙した孔融ともう一人、楊脩(ヨウシュウ)のみを優れた人物と認め、それ以外をゴミ同然と見ていたのです。

 

 

そんな禰衡が、当時許都にいた名士を揶揄して述べた言葉が以下の通り。

 

荀彧(ジュンイク)は顔だけはいいから弔問の仕事をさせるといい感じだね! 趙融(チョウユウ)?あいつは大食いだから台所を取り締まらせたら満足してくれるんじゃないかな!」

 

 

もう滅茶苦茶やなこいつ

 

とまあ、こんな様子で誰に対しても暴言を吐くか無視するかといった有様だったので、禰衡はいつしか恨まれて許都に住みづらくなり、最終的には疎開先の荊州に舞い戻っていったのでした。

 

 

 

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芸人ってのは芸の中で死ぬんだよ!

 

 

 

とはいえ、まあ彼も一応名士。旅立ちの直前、別れの宴と称して大宴会が開かれることとなりました。

 

しかし、そこに集まったのは恥をかかされた名士たちご一向。ただ気持ちよく送り返すのも癪なので、打ち合わせの末に「禰衡が来ても誰も席を立たず無視する」という嫌がらせを実行したのです。

 

 

……が、禰衡はこの手の嫌がらせにおいてはある意味無敵。到着しても誰も立ち上がらないのを見て、「死体と棺桶がいっぱいでかわいそうだよぉ!!」と泣きはらし、嫌がらせに嫌がらせで対抗してから故郷を後にしたのです。

 

 

 

こうして荊州に舞い戻ってそこのトップである劉表(リュウヒョウ)にお世話になる事になった禰衡は、劉表の案内の元、江夏の黄祖(コウソ)の息子と仲が良かったことから彼の元で養われることになったのでした。

 

 

この時も劉表の配下に対して傲慢に接したことで嫌われたようで、その結果黄祖にタライ回しにされたという説が『傅子』にあります。

 

実際、『典略』では著者本人が劉表から聞いた話として、孫策(ソンサク)にしたためた手紙を見て一笑し、こう言い放ったのです。

 

「これは孫策配下にお見せになるのです? 張昭(チョウショウ)なんぞに見せちゃう系ですか?」

 

この時「張昭を高く買っていた感じではなかった」と言われている辺り、主君と敵方の重臣を同時に敵に回す器用な人間であったのが伺えますね。

 

 

さて、ともあれこうして友人の親父である黄祖の元に落ち着くことができた禰衡。彼は黄祖から高く評価されて賓客との会合などで呼ばれるようにもなりましたが……こういった高い評価を為されていくうちにいつもの傲慢病が再発。

 

他人を見下して自分以外を認めず自分すら罵倒する有様を見かねた黄祖はついにマジギレし、ついに側近に命じて頭をひっつかんで館の外へ引きずり出し、そのまま絞め殺されてしまったのでした。

 

 

まさに芸人とも言うべき人生。しかしながら名声だけは無駄にあったため、黄祖の名声がダダ下がりになったとかならなかったとか。

 

 

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『文士伝』より

 

 

 

さて、ここからはちょっと別の史書より。

 

文学者について述べられた『文士伝』にも禰衡のことが述べられており、こちらではなんと、自分の友人のはずの孔融や当時漢帝国の立役者とされている曹操からも絶縁状を叩きつけられたという話があります。

 

 

孔融は禰衡に関する上奏文を提出して彼を曹操に知らせましたが、禰衡にとってはいい迷惑だったようで、「気が狂ったでござる」と曹操との引見を拒否し、その裏で散々暴言陰口をたたきまくっていました。

 

これに怒りを感じたのか面白いと思ったのか……曹操はついに禰衡に対して大々的な嫌がらせを画策。人を集めて大宴会を催し、禰衡をその中で太鼓打ちの係に任命したのです。

 

当時、楽器演奏は卑しい身分の仕事であり、もし譜面を間違えたら服を脱いで新しい衣服に着替えるというルールがありました。つまり、曹操は名士の禰衡にあえて卑しい仕事をさせ、その時のミスを見世物にしようと企んだわけですね。

 

 

しかし、そんな曹操の思惑とは裏腹に、禰衡は見事なまでに太鼓を演奏。大喝采の荒らしを巻き起こしたのです。

 

しかも、間違えても着替えるつもりは一切無し。役人から怒られるとようやく着替えを行ったのですが……禰衡が着替え先に選んだのは、よりにもよって曹操の目の前。彼はあえて曹操に見えるように裸になってみせたのです。

 

 

やりたい放題な禰衡を見て、曹操は「逆に恥をかかされたぞ!」と大笑い。この時の禰衡の打法は、後に「魚陽参撾(ギョヨウサンカ)」なる名前で広まったとか。

 

 

 

しかし、これで一番大恥をかいたのは、彼を紹介した孔融自身。彼はこの事を知ると禰衡に対して怒りの形相で素行を責め詰ると、曹操へ謝罪に行かせることにし、あらかじめ曹操にその事を伝えて根回しをしておくことに。

 

 

しかし、禰衡はこの時も訪れたのは夕方、しかもみすぼらしい恰好のままという有り様でした。

 

さらに、門の前に座り込んで、地面を杖でバシバシ叩きながら散々に罵声を浴びせまくり、とうとう曹操を本気で怒らせてしまったのです。

 

 

とはいえ、禰衡の実体はともかく、名声だけはピカ1。殺せば今後に響きます。

 

結果として曹操は、禰衡を体よく追い出して、敵である劉表に押し付けることに。後は先述の通り、劉表にも追い出された挙句、最後は悪口がたたって殺されてしまうという顛末を迎えてしまうのでした。

 

 

 

三国志演義ではこの後も曹操配下をとことんまで貶すという脚色がなされており、そのせいか「曹操に喧嘩を売った人物」という謎の人気がある禰衡。彼こそ、ネット社会の住民を超えるレベルの”自重しない”煽りの達人と言ってもよいのかもしれませんね。

 

ちなみに彼の詭弁の才能は、被害がないはずの呉の国の、約30年後の未来でも有名だったようです。

 

その証拠に、敵スパイによる偽の告発書を非難する際に「禰衡並みに巧みな屁理屈」という単語が用いられているのだから、ある意味正攻法よりもはるかに効率よく名声を集めた人物なのかもしれません。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/12 21:19:12

 

 

生没年:?~?

 

所属:他

 

生まれ:荊州襄陽郡

 

 

 

蔡瑁(サイボウ)、字は徳珪(トクケイ)。三国志では完全にチョイ役で、劉表(リュウヒョウ)伝にすこーしだけ名前が出る程度。とても列伝を後付けで立てることもできないくらいで、演義を始め三国志メディアでは何とも小物っぽい悪役という、嫌われ者の王道を行くような人物です。

 

しかし、その地筋は荊州でも大物と言える名士であり、劉表にとっては欠かすことのできないパートナー。さらにはどうにも自家のついでくさいとはいえ劉家存続にも一肌脱いでおり、まさに後漢末の荊州における重要人物の一人と言っても過言ではありません。

 

 

まあ、あくまで一地方のキーパーソンに収まるだけという人物がそんな丹精込めて語られる大物であるはずもないのですが……とにかく今回は、そんな蔡瑁の数少ない記述を、信憑性のあるとこないとこからできる限り追っていきましょう。

 

 

 

 

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荊州豪族、劉表に癒着

 

 

 

蔡瑁の一族は荊州に根付く非常に強力な名士だったようで、蔡瑁も若くして剛毅で気位の高い、まさに名士じみた人物となったようです。

 

 

そんな蔡瑁が住まう荊州に駆け込んできて政権を握ることになったのは、折しも党錮の禁によって完全に干されていた劉表でした。

 

劉表は自身に反対する勢力が多いことを気にかけ、付近から名士を募集。蔡瑁はこの時に蒯良(カイリョウ)、蒯越(カイエツ)兄弟らと共に招かれ、以後その隆盛に力を尽くすことになったのでした。

 

 

さて、そんな劉表の一番の家臣として頭角を現し、姉が妻を失っていた劉表の後妻になった事から筆頭家老のような立ち位置について、勢力拡大に少なからず貢献することになったのでした。

 

その癒着ぶりたるや、劉表がもっともかわいがっていた次子・劉琮(リュウソウ)に自身の姪が嫁ぐことになり、劉氏との血縁関係はさらに濃いものとなるほどだった様子。

 

 

このせいか元々その傾向があったのか、三国志にも後漢書にも、劉表伝には「劉表には長子に劉琦(リュウキ)という人物がいたが、それを差し置いて次子の劉琮をかわいがった」という記述があるほど。

 

劉表が臨終のときを迎えるころには、蔡瑁の存在はその勢力になくてはならないほどになっていたのです。

 

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従属か敵対か

 

 

 

建安13年(208)、劉表が亡くなると、荊州に激震が走ります。

 

――天下人曹操(ソウソウ)、大軍を率いて荊州に南下。

 

 

この時の荊州は客将にアンチ曹操筆頭格の劉備(リュウビ)を抱えており、彼の影響力もあって抗戦派と降伏派に二分。奇しくも兄・劉琦を押しのけて後継者となった劉琮は、配下の説得もあって曹操に降伏することになったのです。

 

蔡瑁は劉琮の後継者就任こそ全力で支援したらしいですが(たぶん)、この時に降伏と抗戦どちらを主張したのかは定かではありません。とはいえまあ、たぶん降伏派でしょう

 

 

結局抗戦派は劉琮の兄・劉琦やその後ろ盾である劉備を慕って離れていき、残った降伏派名士ともども蔡瑁も曹操に降伏。青州刺史(セイシュウシシ)として曹操領内の後方に相応の地位で配置され、その後も順調に出世を重ねたとか。

 

一方の蔡瑁も魏の高官を歴任し、長水校尉(チョウスイコウイ:宿営の騎兵隊を率いるエリート職。ただし基本留守番役)となって曹操の留守居を守る高級軍人の仕事を全うし、漢陽亭侯(カンヨウテイコウ)として列侯入りを果たしたのでした。

 

あれ、長水校尉ってただの名誉職……

 

 

 

『典略』より。もともと蔡瑁の記述は信憑性グレーのところからも引っ張って来てますが、この話はグレーどころか黒寄りなので、与太話として記載。

 

 

蔡瑁は蒯越と共に劉備暗殺を画策。罠の宴会へ招待したことがあったようです。

 

しかし、劉備は第六感によりこの罠を感じ取り、トイレと偽って逃走。的盧(テキロ)という馬に乗って川を泳いで渡るという無茶をやらかされ、そのまま逃がしてしまったのです。

 

蔡瑁らはその後劉備に人をやり「主である劉表の差し金です」と言い訳だかネタバラしだかを行い謝罪。

 

 

もっとも、この話は「こんなん企んだら劉備はもっと早くに逃げるだろ」との言葉によって話を否定されていますが……こういう逸話から見て、やはり蔡瑁の受けがよろしいものでなかったのはなんとなく察することができます。

 

 

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結局誰なんこいつ?

 

 

 

さて、こうして色々と記述を拾ってきたわけですが、後漢書や三国志の本文にある内容は、実際には

 

・劉表の重臣で、その勢力拡大に大きく貢献した

 

・劉表が自分の姪の夫である劉琮をかわいがっており、蔡瑁はこれを後押しした

 

・劉琮と共に曹操に降伏。劉表旧臣から曹操に列侯へと上げられた人物は15人もいた(蔡瑁が入るかどうかは不明)

 

 

とまあこんなところ。それ以外の記述はだいたいグレーゾーンといったところです。蔡瑁の主な記述は襄陽近隣の地方史である『襄陽記』という書物。彼の字ですら、この史伝でしか明らかになっていません。

 

 

ちなみにこの襄陽記では、蔡瑁についての更なる驚愕の事実が明らかになっているのです。

 

それはなんと、彼は曹操の旧友であり、諸葛亮(ショカツリョウ)の叔父でもあるという話。

 

 

まず、諸葛亮の妻は黄月英(コウゲツエイ)という人で、その父親である黄承彦(コウショウゲン)が蔡瑁の長姉を妻にしていたという話。ただそれだけで他は何かあったという記述も無いのですが……これだけでも衝撃です。

 

さらには曹操とは旧友の間柄であるからこそ降伏した時に口添えが利き、それを期待して降伏に踏み切ったとも言われていますね。仮にその通りならばまさし蔡瑁の目論見はく大成功。曹操の寝室に入れるくらい信頼されたという胡散臭い説も転がっています。

 

 

まあこの辺は確定でそうだったと言えるものではありませんが……時代を代表する2人の英傑とつながりがあったというのは、それだけですごい事なのではないでしょうか?

 

ただの小物キャラとしてメディアに出ている蔡瑁に、こんなつながりがあるのですから驚きです。

 

 

続きを読む≫ 2018/09/10 21:43:10

 

 

 

生没年:?~ 中平元年(184)

 

所属:なし

 

生まれ:冀州鉅鹿郡

 

 

 

 

張角(チョウカク)と言えば、やはり思い浮かぶのは黄巾の乱と妖術ではないでしょうか。というか無双シリーズでの破天荒なキャラが強すぎて、そちらを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

 

が、実際は怪しい宗教団体の教祖として流民を多く匿い、その宗教団体を反政府の革命軍に昇華。バレたとはいえ政界中枢への工作によって本気で国を壊してしまおうとする梟雄と言ってもよいかもしれません。

 

 

記述こそほとんどありませんが、背景から想像できることが多い、そんな人物です。

 

 

 

 

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救世主? 大賢良師張角

 

 

 

張角の出自については、まったくよくわかっていません。一説にはもともと官僚をしていたとも貧乏な家の出とも、あるいは役人への採用試験に落ちたともいろいろ言われていますが……どれも決定打と言える証拠は残っていません。

 

 

『典略』によれば、張角が人心を掴む要因となったのは、「太平道」の教義に基づいた、いわゆるおまじないの類い。

 

巫女が杖を持っておまじないをかけ、病人はその後に自身の過失やなにかしら過去の罪科を白状。その後に神聖とされる水を飲んで、病気が治れば信心深く、直らなければ不信心者……という、どこかのカルト教団でやってそうな内容だったとか。

 

ともあれ、当時は漢王朝の重鎮同士が清濁2派に分かれて熾烈に潰し合い、その負債を民が肩代わりする羽目になる暗黒時代。すがるものが何もない状況下で、それでも心の拠り所が欲しいという人も非常に大勢いました。

 

さらにこの時は地球の寒冷化による飢饉や天災が相次いだという話もあり……民衆その多くが上のや病気で死亡。人々は何かにすがっていなければ心落ち着かせることもできない時代だったのです。

 

 

そんなこともあり、張角の怪しげな宗教はいつしか名が知れ渡り、災害によって故郷を追われた流民が大勢張角のもとへと訪問。太平道は、彼を教祖とした一大宗教にまで発展したのでした。

 

 

そしていつからか、張角は自らを『大賢良師』と呼称。そして政府から半ば見捨てられたような流民が太平道信者になった事から、この一大宗教組織は次第に国家転覆を願う革命軍としての、危険な裏の顔を持つようになっていったのです。

 

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蒼 天 已 死! 黃 天 當 立! 

 

 

 

こうして政府を怨むような民衆を多数抱え込んだ張角は、やがて国家転覆のために信者を組織ごとに分けて地方に配属。来るべき時に備え、各地で散らばって一斉に蜂起する手筈を整えました。

 

また、自分の信徒の中から信用できる者を都・洛陽(ラクヨウ)に派遣し、政府の中から内応を呼び掛ける裏工作を行って派閥の中枢からも内応者を作ることに成功。

 

「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし。歳は甲子に在り。天下大吉たらん」

 

60年に1度訪れる甲子(カッシ)という年に当たる光和7年(184)3月に一斉蜂起を行うことに決めたのでした。

 

 

 

 

……が、ここで驚愕の事件が発生。怖気づいたか元々スパイだったのか、唐周(トウシュウ)なる男がこの大規模反乱を密告。政府に送り込んだ工作員も内応者も根こそぎ処刑されてしまい、周到に練っていたはずの反乱計画が頓挫してしまったのです。

 

 

しかし、張角らはすでに犯罪者。諦めて投降したところで、信者ともども殺されるオチが見えています。張角は自身を「天公将軍」と名乗ると、各自に檄文を飛ばして挙兵を告知。予定よりも1ヶ月早い蜂起を行い、中国全土を動乱に巻き込んだのです。

 

「漢王朝を示す蒼天を終わらせ、次に位置する黄天をもたらす」

 

そんな政治的なアピールから、信徒たちは皆、黄色い布を頭に巻いていたと言われています。

 

 

暴徒と化した黄巾党は、各地の政庁や役所を襲撃。役人を斬り捨てて回り、各地を戦乱の海に沈めます。

 

数にものを言わせた民兵の集まりはやがて討伐隊として各地に散った官軍すらも劣勢に追いやり、張角の直属の軍勢も優れた軍略家である盧植(ロショク)や董卓(トウタク)を圧倒し、漢帝国の転覆も目前かに思われました。

 

 

……が、所詮は裏工作が頓挫した結果のやぶれかぶれな反乱です。皇甫嵩(コウホスウ)、朱儁(シュシュン)といった化け物級の将軍、そして曹操(ソウソウ)や袁紹(エンショウ)、孫堅(ソンケン)を始め次代の群雄など官軍側の豊富な人材によって敗北は避けられ、逆に張角らの勢いは彼らに推されていくことになります。。

 

結果、運悪く張角が病死したことで勢いは消沈。主導者を失った張角の本隊は皇甫嵩の軍勢に敗北し、張角の遺体は棺から出されて曝され、さらには弟の地公将軍・張宝(チョウホウ)、人公将軍・張梁(チョウリョウ)も軒並み討ち取られ、黄巾の乱は収束していったのです。

 

 

しかし張角がこじ空けた風穴は大きく、その後も民衆の反乱や黄巾の残党、果ては異民族の活発な介入などによって国は乱れ、群雄らも黄巾の乱を踏み台に自分の天下を夢見るようになっていったのでした。

 

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そもそもなぜ黄色なの?

 

 

 

張角の人間性や性格はまったくもって見えてきません。しいて言えば、危険なカルト教団が次代の需要と見事にマッチした結果、大規模反乱、果ては乱世の火付け役になったといったところでしょうか。

 

そもそもこの当時は政治も腐敗しきっており、党錮の禁(トウコノキン)と呼ばれる政戦、弾圧、果ては災害や飢饉によって漢王朝は虫の息。黄巾の乱は民衆反発や世の混迷が深まるのを早めたという意味で歴史に名が刻まれていますが、放っておいても別の組織によって体制はひっくり返ったかもしれませんね。

 

 

 

さて、ではここで素朴な疑問。「そもそも、黄巾の乱のイメージカラーはどうして黄色なのか?」。

 

 

これは陰陽師とかで有名な五行説というものに関係があり、それに則って黄色をイメージカラーに定めたと言われています。

 

五行説には火(カ)、水(スイ)、土(ド)、金(ゴン)、木(モク)の5つの属性があり、これに当てはめると漢王朝は「火」の属性に分類される国でした。

 

 

そして火属性の立ち位置はというと、「金に勝ち、水に負ける。木より生まれて土を生み出す」。水属性が弱点であり、火属性の次には土属性が生まれる、という思想になります。

 

そして、土のイメージカラーは黄色。つまり、火属性から生じてそれになり替わる土属性を思い切り意識したものになるわけですね。

 

実際おもしろいことに、三国時代にもこの属性相生は利用されており、魏では黄初、呉では王国建立時に黄武、帝国となった際には黄龍という年号が使われています。

 

また、なぜ3月に決起を予定したかというのもまた面白い話がありまして……四季折々を表すものとして、木を春、火を夏、金を秋、水を冬、そしてそれぞれの四季の終わりの月を土と属性が付けられているという定義もあるのです。

 

現代日本でも、土用の丑の日というのは、モロに土属性を意識したものだと言われていますね。

 

 

3月は、当時の暦では春の終わりの土の月。火の夏が来ることなく漢が傾く……みたいな意味合いがあるのではと想像すると、なかなかに面白いものがあります。

 

なお、張角が亡くなったとされるのは11月。冬の土の月を迎えることができずに亡くなったともいえ、こう考えると結構皮肉が効いているような気がしますね。

 

 

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その後の黄巾賊

 

 

張燕(チョウエン)が率いた黒山賊も黄巾の一派という説があり、その後も曹操に帰順するまでは独立勢力として猛威を振るっています。

 

また、おもしろいことになっているのが、黄巾党が特に多かったと言われている青州(セイシュウ)、そして徐州(ジョシュウ)の情勢。

 

 

青州では黄巾賊がその後もちょくちょく暴れまわり、治安は悪化。深刻な被害をもたらしています。

 

また、曹操の率いる精鋭部隊・青州兵も、元は食べ物欲しさに兗州まで掠奪に来た黄巾賊。彼らは兗州を動乱の渦に叩き込み、間接的に曹操の台頭を手助けする形に。その後は曹操と戦うも敗北し、彼の雄飛の原動力として名が挙がっています。

 

 

一方の徐州も、官軍としてその地の黄巾討伐を行った陶謙(トウケン)を始め、太平道に代わり仏教を敷いた仏教カスの笮融(サクユウ)や皇帝を名乗って好き放題した闕宣(ケツセン)など、その後なかなかカオスで面白な人物の台頭の舞台になっています。

 

 

まあこれらが張角に関係するかどうかはともかく、実際に張角が遺した爪痕は非常に大きく、黄巾の乱を皮切りに漢という国が崩壊していったのは間違いありません。

続きを読む≫ 2018/09/04 14:53:04

 

 

 

 

張燕

 

 

生没年:?~?

 

所属:他→魏

 

生まれ:冀州常山軍真定県

 

 

 

 

張燕(チョウエン)、字は不明。三国志にはちょいちょい黒山賊(コクザンゾク)という謎の集団が出てきては、袁紹(エンショウ)を苦しめていましたが……この張燕こそが謎集団・黒山賊の長。

 

盗賊団上がりで、その数は100万とも称される、立派な群雄のひとり。何気にこの人、ドラマティックな立ち上がりをしてるんですね……

 

 

今回は盗賊上がりの大山賊集団・黒山賊の長、張燕の伝を見ていきましょう。

 

 

 

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黒山賊、発足

 

 

張燕の元々の苗字は、褚(チョ)といいました。それがいつしか張燕と名を変えたのですが……これは黒山賊の発足と大きく関係しているようです。というのも、最初に張燕らの山賊集団を率いていたのは、張牛角(チョウギュウカク)という人物。

 

 

黄巾の乱によって民衆が一斉蜂起した時、張燕は盗賊団を立ち上げ、あちこちを荒らしまわり、勢力を強めながら故郷である真定(シンテイ)県に帰っていきました。帰京した時には、盗賊団の規模は1万以上。

 

その名が知れたことで、別の盗賊団を率いていた張牛角らもこれに合流。頭目を張牛角とし、その勢力はさらに強くなったのです。

 

 

……が、強くなったといえども所詮は盗賊団。その頭目の安全性は高いとは言えなかったらしく、ある時、張牛角は流れ矢を浴びて死亡してしまいます。その死の間際、駆けつけてきた張燕らを前にして、死を察した張牛角は次の頭目を指名。そこで名が挙がったのが、当時褚燕と名乗っていた張燕でした。

 

 

こうして、褚燕は張燕に改名。頭目としてどんどん勢力を増強していき、周辺の盗賊団とも次々と結託。やがて100万とも号される大盗賊団のトップに立ち、黒山賊と名乗って乱世に名を上げたのでした。

 

 

 

 

 

戦いの末に

 

 

 

意外かもしれませんが、張燕は董卓(トウタク)が朝廷を牛耳っていた際に発足した反董卓連合軍に参加。後の宿敵となる袁紹指揮下の群雄になっています。

 

が、反董卓連合は一部を除いて動く気配を見せずにそのまま解散。張燕はその後、北方の公孫瓚(コウソンサン)と結んで袁紹とは敵対の道を選びました。

 

 

しかし袁紹軍は非常に強く、やがて公孫瓚は逆転という形で袁紹に敗北し滅亡。張燕の黒山賊も、公孫瓚の勢いが衰え始めたあたりで袁紹軍の攻撃を受け、客将であった呂布(リョフ)に敗北してしまいます。

 

そこから袁紹との戦いは常に劣勢に立たされ、盗賊団は次々と乖離。隆盛を極めた黒山賊も、その大半は「ただ勢いがあったから」というだけでたむろしていた、勝ち馬志向の輩の集まりに過ぎなかったのです。

 

 

その後、袁紹から相手にされなかったのか攻勢にさらされながらも辛うじて耐え抜いたのかはわかりませんが……張燕は辛うじて生き延び、落ちぶれた黒山賊を滅亡寸前のところで保持。数年後に袁紹が死亡し、南で勢力を強めていた曹操軍の河北台頭まで耐え抜くことに成功します。

 

敵の敵は味方という判断か精魂尽き果てたのかはわかりませんが、曹操袁紹旧領を攻撃し始めると張燕は降伏。官軍である曹操軍に助力を申し出て、平北将軍(ヘイホクショウグン)の官位を贈与されます。

 

 

やがて軍勢を率いて鄴(ギョウ)へと出頭。曹郡に正式に加わると、安国亭侯(アンゴクテイコウ)の爵位と領土500戸を渡され、張燕の群雄としての戦いは終わったのです。

 

曹操軍としての張燕の記述は特にありませんが、盗賊上がりの群雄として時代を駆け抜けた張燕は曹操軍の将の一人として死去。子は引き続き曹操軍に仕えたのでした。

 

 

 

『九州春秋』では、黄巾の乱の際に挙兵した人物の中に「飛燕」を名乗る人物がおり、挙兵時に名の上がった者の率いる兵は数千から数万だったとされています。

 

『典略』においては、この飛燕という人物は張燕の字で、高官でもないのに勝手にみんなで付け合ったものの一つだったようです。

 

 

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人物評

 

 

 

三国志において、張燕はあくまで曹操が倒した敵の一人。彼自身についてどうこうと述べられている評価は無く、あくまで他の群雄と一緒にこう評されているのみです。

 

賊軍の頭という生活を捨てて、功臣の一人に名を連ねた。滅亡した輩よりは幾分マシだろう。

 

公正公平で謳われた陳寿の三国志ですら、魏呉蜀以外の勢力の長は必ずどこかで貶さざるを得ず、ましてや張燕のような「どこぞの馬の骨」ともいえる人物に対して、それっぽい人物評を残されなかったわけですね。

 

 

とはいえ、頭目であった張牛角から後を託され、その盗賊団を「黒山賊」と号するトンデモ規模の大勢力にのし上げた手腕は並大抵ではありません。

 

また当人の身体能力も一流で、その素早い身のこなしから実際に「飛燕」とあだ名されていたのは三国志本文にある通り。

 

 

史書には微妙な書かれ方しかしていない張燕ですが、この経歴はある程度以上優れた人物にしか歩めないのは間違いないでしょう。

続きを読む≫ 2018/08/15 16:07:15

 

 

 

張邈 孟卓

 

 

生没年:?~興平2年(195)

 

所属:他

 

生まれ:兗州東平郡寿張県

 

 

張邈(チョウバク)、字は孟卓(モウタク)。曹操(ソウソウ)の親友にして、黎明期の曹操軍中ではなくてはならない超重要人物……でした。

 

が、突然の裏切り。

 

呂布(リョフ)を迎え入れて反逆したことによって親友・曹操の敵に回り、そのまま哀れな最期を迎え、今なお裏切り者として界隈では嫌われています。

 

今回は、呂布伝に付伝された、彼の記述を見ていきましょう。

 

 

 

 

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曹操のマブダチ

 

 

彼の若い頃の姿は、男伊達で鳴らす弱者の味方。家財を傾けてまで困窮者を保護しようとし、借金の取り立ても派手に行わなかったため、その姿勢が周囲の評判になって大勢の人が彼の元を訪れるほどでした。

 

 

さて、そんな張邈、実は曹操袁紹(エンショウ)といった、結構なボンボンの不良おぼっちゃまたちと大の仲良し。危地においてはお互い守り合う親友としての契りを結び、強固な絆で結ばれていました。

 

 

やがて張邈は、成績優秀者として朝廷に取り立てられて騎都尉(キトイ:コノエヘイチョウ)に就任。その後、董卓(トウタク)によって陳留(チンリュウ)太守に任命されましたが、やがて反董卓の連合を結成し挙兵。

 

名ばかりでやる気にイマイチ欠ける連合軍の中では珍しく戦意旺盛な群雄の一人として曹操を支援。敗北を喫しはしたものの、攻撃案を出す曹操に鮑信(ホウシン)と共に賛同し、部下の衛茲(エイジ)に兵を預けて攻撃軍に参加させる等、軍の作戦目標に貢献する姿勢を見せます。

 

 

また、袁紹が盟主として選ばれてから高慢な態度が目立つようになるを見て、「盟主らしい態度を」とド正論で諫言などもしたのですが……これが張邈の運命が狂っていく予兆となったのです。

 

 

 

 

 

袁紹曹操の板挟み

 

 

 

張邈の説教を聞いて、袁紹は大変不快がっておかんむり。後で曹操に対して「張邈を殺せ!」と怒りの形相で指図します。

 

が、曹操は逆に「張邈は俺の友人だ。今仲間割れをしている場合か」と張邈を庇い立て。これで張邈は命を救われ、曹操に感謝の念を抱くようになりますが……ここから、張邈は少しずつ運命に呑み込まれていくのです。

 

 

その因果を狂わせた大きな要因が、袁紹陣営から落ち延びてきた韓馥(カンフク)、および呂布の保護。張邈は袁紹本人から「さっさとぶっ殺したい」と思われるほど恨みを買っていた上、よりにもよってその袁紹と決裂した者を客人として扱ってしまったのです。

 

結局ある程度親密にしたのちに呂布は別の群雄の元へ移動、韓馥は勘違いから自滅して事なきを得ましたが……袁紹から張邈に向けられた目は、まさに敵対者に向けたそれでした。

 

 

この時、親友である曹操の立場は兗州刺史(エンシュウシシ)。つまり兗州を実質的に統治する立場です。対する張邈は、兗州の一部である陳留を守る身。すでに張邈は曹操の庇護下にあり、曹操も張邈を配下でなく親友として扱うなど特別な関係を築いていましたが、不安の種は尽きません。

 

 

その後もたびたび張邈を殺すよう曹操に訴えかける袁紹。強大な袁紹軍の風下という立ち位置を未だに抜け出しきれずにいる曹操。そして都合が悪いことに、弟の張超(チョウチョウ)は曹操が嫌いで仕方がないという有り様。

 

曹操は変わらず親友として接し、遠征帰りにはいい歳こいて抱き合って無事を喜びもしましたし、翌年の遠征に行く際も、万一の時には家族を頼まれました。

 

が、そこまで来てもなお、袁紹という強大な群雄に取り入るために、曹操が自分を売るという可能性は付きまとっていたのです。

 

 

そして曹操に代わらぬ友情をささげる一方でどこかに疑念が生じ始めたある時……ついに、張邈に運命の瞬間が訪れたのです。

 

 

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裏切り、そして……

 

 

 

興平元年(194)、領内が反乱により慌ただしくなった中、訪れたのは曹操の元参謀である陳宮(チンキュウ)と弟の張超。いずれも、早々に反旗を翻した反逆者たちでした。

 

つまり、張邈も反乱に加担させようと声をかけに来たのです。

 

 

張邈はこの誘いを一度は断りますが……陳宮の発したある言葉に、ついに迷いが生じ始めます。

 

 

「あなたは英雄の器をお持ちなのに、1配下に収まっておられる。これでよいのか。今、兗州は曹操が遠出してガラ空きの状態。呂布を迎え入れて曹操めを追い出したならば、あなたも英雄の一人として返り咲くこともできるのですぞ」

 

 

この言葉は、おそらく張邈の心に深く突き刺さったのでしょう。

 

張邈の両隣にいるのは、曹操袁紹という、いずれも名家に生まれながら己の才覚ひとつで時代に覇を唱える英雄。対して自分はそんな2人に挟まれながらも、その他大勢として2人の英雄の影におびえてる身。

 

 

結局張邈は、この反乱に加担。陳宮に兵を与え、曹操と敵対する道を選んだのです。曹操は張邈反乱の報告を一時期は信用しようとしませんでしたが……それだけに裏切られた絶望は大きかったのでしょう。

 

兗州の九割以上が味方に付き、戦いは張邈ら反乱軍の圧倒的優位に進みましたが……やがてイナゴの襲来によって食糧難に陥り休戦。勢いを失った反乱軍は一転してれ世に陥り、張邈は反袁紹派の巨頭である袁術に救援要請に向かいます。

 

しかし結局張邈は、袁術の元にたどり着くことができず反乱軍は敗走。張邈本人も、袁術の元に向かう途上に、財宝に目がくらんだ部下の裏切りで命を落としてしまったのです。

 

 

また城を守っていた張超も敗北し、張邈の一族も皆殺し。曹操に絶対の信頼を受けた男は、それを裏切ったことですべてを失ったのでした。

 

 

 

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人物評

 

 

こんな情けないというかなんというか……何とも憐れな結末に終わった張邈の人生。当然と言えば当然かもしれませんが、後世の歴史家で彼を高く評価する人物は皆無と言ってもよいでしょう。

 

 

三国志を編纂した陳寿は彼を論外な人物として、総評でこのように述べています。

 

 

光武帝も裏切るような奴を重宝したことがあったが、曹操は張邈の本質を見抜くことができなかった。「人を正しく見て真価を見定めるのは真の知恵と言えるが、これは皇帝や英雄であっても困難な物だ」といわれているが、真理である。

 

 

また、鄭泰(テイタイ)という人物から「勉強漬けで書斎から出ることも稀だった」と言われており、どこか内向的で内々に不満や怒りを貯めこむタイプだったこともうかがえます。

 

こういう内向的で自己主張の少ない性格を陳宮に上手い事利用され、最後には暴走してしまったのではないでしょうか。

 

 

何にせよ、曹操の黎明期を支えた大事な親友という後世評価されるであろうポジションを捨てて、不安に押しつぶされ隠れた英雄願望を暴かれて、やぶれかぶれに反乱を起こした張邈。

 

曹操が勝つとわかっているのは、我々が見ているのは過去の歴史だからこそ。張邈からすると曹操袁紹にすら打ち勝ってしまう未来は信じられない物だったかもしれませんし、だからこそ仕方なしに裏切られて殺される未来を見てしまったのかもしれません。

 

 

一寸先は闇と言いますが……最後に一度判断を誤った結果、その辺の石ころ同然の歴史的価値しか与えられなかった張邈の運命は、ある意味選択の難しさを物語っているのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/08/13 21:02:13

 

 

 

生没年:陽嘉元年(132)~興平元年(194)

 

所属:他

 

生まれ:揚州丹陽郡

 

 

 

 

陶謙(トウケン)、字は恭祖(キョウソ)。この人ほど、魏と呉で評価が乖離する人物も多くはいないでしょう。

 

演義ではただのいい人、正史ではどうしようもないクズや危険人物と結託して悪事を働き、にもかかわらず呉書では名君。どちらにしてもドス黒い事をやっていたと言うのはほぼ確定の人物ですね。

 

 

本来ならば呉書の記述は補足程度に留めますが……あまりに別人すぎるので、今回は例外的にそれぞれ記述を分けて書き記していこうと思います。

 

 

では、超絶不思議人間・陶謙の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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三国志本文:ゲスで外道な徐州牧

 

 

 

まずは三国志本文の陶謙から、その記述を見ていきましょう。

 

陶謙は学問にかじりつくエリートで、郡や県に出仕。最終的に幽州刺史(ユウシュウシシ:幽州の監査官)を経由して中央で議郎(ギロウ:顧問対応。その中でも結構位が高いとされる)となり、西で反乱を起こした韓遂(カンスイ)の討伐にも従軍したと言われています。

 

 

後に黄巾の乱が勃発した時に徐州(ジョシュウ)刺史となり、黄巾討伐にも少なからず貢献。後に董卓(トウタク)一派の動乱で中央との連絡が途絶えた時は、使者を送って貢物を献上。

 

この忠義を買われて安東将軍(アントウショウグン)と共に徐州牧(ジョシュウボク:牧は刺史よりも格上で、大きな州の長官)の位を与えられましたが……ここから、陶謙の様子は激変します。

 

 

当時の徐州は多くの人が引っ越してくるほどの豊かな土地でしたが……陶謙は忠節を重んじる趙昱(チョウイク)なる人物を始めまともな人材を疎んじて、曹宏(ソウコウ)や笮融(サクユウ)といった民を苦しめたり腹に一物を抱えるような連中を重用。

 

さらには皇帝気取りで略奪を働く闕宣(ケツセン)なる人物と同盟を結んだかと思うと、後々には闕宣を裏切って殺した挙句に軍を吸収して自身の戦力を底上げするなど、割と外道な行為に手を染めるようになりました。

 

 

こうして跋扈する俗物と小悪党らによって法の均衡は破られ、次第におかしくなっていたのでした。

 

 

 

しかし、初平4年(193)、好き勝手行う陶謙の野望も、ついに終わりを迎えます。なんと、曹操(ソウソウ)が陶謙の部下に父を殺された恨みから大部隊を編制。徐州に総攻撃を仕掛けたのです。

 

一説には曹操の父を殺すよう指示したのは陶謙とも言われており、これが曹操の心に火をつけたのですね。

 

 

曹操軍の快進撃の前に陶謙軍は成す術なく、領土を次々と失陥。苦し紛れに挑んだ大会戦でも大敗を喫し、万にも届く死者数を記録。川の流れがせき止められるほどの大損害を出したとされています。

 

 

しかし結局曹操軍は、兵糧切れによって撤退。陶謙は難を逃れ、翌年に行われた攻勢でも内部の反乱でどうにか領土を守り抜きましたが……陶謙はその年のうちに病没。難しい情勢の徐州は息子でなく客将の劉備(リュウビ)に任せ……そこから徐州は、戦乱の災禍に巻き込まれていくことになるのです。

 

 

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呉書:普通に名君

 

 

 

一方の呉書では、陶謙は普通に名君であり善人であるかのような扱いを受けています。

 

まず、目を引くのがここまで出世した要因でもある「剛直で節義のある人柄」という文章。本文ではむしろ節義を捻じ曲げる外道であるだけあって、この段階であまりの違いに目を疑いたくなります。

 

とはいえ強烈な性格であったのは事実なようで、韓遂討伐の際、自身が作戦指揮能力を疑っていた張温(チョウオン)という上司を酒の席で痛罵して左遷を食らったという話も。

 

 

当然、曹操の父親を殺したというとんでもない罪も配下の一存。あずかり知らないところで勝手に悪人に祭り上げられ、曹操の小賢しい陰謀で攻め込む大義名分を捏造され、無辜の民もろとも領地を破壊された被害者という立場で記述を徹底しています。

 

 

また、死去した際には、一時期彼の配下にいた張昭(チョウショウ)が彼の死を悼むような詩を作り、「剛直で情け深い人物で民に慕われた」というような本文とは真逆の内容を述べられ、同時に曹操の徐州侵攻を声高に否定するようなフレーズが最後に載せられています。

 

ちなみにこの張昭、正史本文では陶謙に仕えたものの、気に入らないからと牢屋に繋がれて恨みの方が大きいはずですが……いよいよもって謎です。

 

 

また、正史三国志を編纂した陳寿の評では、その評価は以下の通り。

 

意味不明なままに憂慮の中で死んでいった。凡人以下で、論外である。

 

 

しかし呉での評価は一変して名君の気風が強く、陳寿の評価とは全く真逆と言えるでしょう。

 

 

 

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ターニングポイントは徐州侵攻?

 

 

 

 

とまあ陶謙の本文と呉書の記述の違いは以上の通りですが……正直なところ、どちらも政治的作為が見え隠れしています。

 

 

本文における陶謙は、あくまで晋の前身・魏からすると敵。陳寿がどのように考えようと魏を絶対正義として書かなければならないのは大原則で、陶謙はその倒すべき敵の一人。

 

しかも曹操による歴史的大虐殺が、両国の評価の違いに影響するでしょう。

 

 

曹操側の記述としては、あくまで徐州侵攻は亡き父の恨みを果たすのと地盤強化、そして曹操自身が属する袁紹(エンショウ)を中心とした連合軍の敵対組織だからどのみち潰さなければならなかったという側面が強いと考えられます。

 

対して、呉は曹操の起こした戦乱のおかげで、棚ぼた的に有能な徐州から逃げてきた人事を確保することができた身。曹操に恨みを持つ人物も少なくはなく、事実として『曹瞞伝』では「鶏や犬まで絶え果てて、村里には通りかかる人もいなかった」とまで凄惨に描写されています。

 

 

徐州侵攻を是とする曹操側にとって陶謙は原因のすべてを背負った加害者でなければ都合が悪く、逆に彼の侵攻で逃げてきたアンチ曹操を多く抱える呉としては、曹操側が悪逆非道でなければおもしろくない。

 

この辺のスタンスや政治的都合の違いが、やはり陶謙という人物を善悪キッパリ分かれる人物に仕立て上げたのではないでしょうか。

 

 

個人的には善悪どっちだとキッパリ言ってしまいたいところはありますが……如何せん、両国の政治的な思惑や史書によって作られるバイアスがかかり過ぎてよくわからないというのが正直なところ。

 

私としては、善人面してえげつないことに手をかける、ヤクザ辺りとバイアスを持った政治家みたいな人物だったら面白いのにといった感じの考えですが……如何せん「こうなら面白い」という願望の域を出ないので、はっきり言って考察的には論外といったところ。

 

 

何にせよ、当時の徐州や曹操軍の情勢、果ては魏呉の政治的な思惑まで色々と考察できる、興味深い人物だと思います。

続きを読む≫ 2018/08/13 11:50:13

 

 

 

生没年:?~初平3年(192)

 

所属:他

 

生まれ:???

 

 

三国志ヲタの暴走

 

 

 

 

牛輔(ギュウホ)。あの圧倒的強さと粗暴さを併せ持った暴れん坊・董卓(トウタク)の娘婿。

 

董卓が自分の娘を遣る位の人物なので、この牛輔という人物、さぞや勇ましい人物なんだろうなと想像してしまいますが……なんというか残念と言っても良い人物かもしれません。

 

 

まあ、董卓からすれば裏切らない無難な人間だったのかもしれませんね。

 

 

 

 

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そんな娘婿で大丈夫か?

 

 

 

大丈夫じゃない。大問題だ

 

 

牛輔は董卓の娘婿という立場である以上、董卓軍ではある程度以上の地位が約束されている人物でした。

 

そんな牛輔は、董卓が都にて実権を握ると、彼の寵愛を得てどんどん出世。ついには中郎将(チュウロウショウ:将軍の次ぐ高級武官)となり、董卓軍の一翼を担う人物として将帥の道を着々と歩んでいったのです。

 

 

董卓が都を長安(チョウアン)に移した際にも、李傕(リカク)、郭汜(カクシ)ら董卓の重臣を率いて東方の敵対勢力への抑えとして各地の攻略に精を出していました。

 

 

 

しかしそんな折、牛輔にとんでもない情報がもたらされます。

 

 

――董卓、都にて謀略により暗殺。

 

 

さらには都に住んでいた董卓の血縁者も軒並み殺されたという話を聞き、牛輔は気が気ではなくなったのです。

 

このままでは、自分も殺される――。

 

もはや牛輔には、安寧の地など残されていなかったのです。

 

 

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やっぱり駄目だったよ

 

 

 

そしてそうこうしているうちに、ついに牛輔の元まで刺客が軍を率いて訪れます。

 

董卓暗殺に関与した人物の一人である李粛(リシュク)が、牛輔らの陣営に攻めかけてきたのです。

 

牛輔軍はこれを撃退しひとまずの収集をつけますが、ここで更なる問題が襲い掛かります。

 

 

朝廷の許しにより差し向けられた追手に、兵たちはみな動揺。ついには一部の兵士らが反乱を起こすほどの事態になり、牛輔軍は大混乱に陥ってしまったのです。

 

 

この光景を見た牛輔は、「兵士は皆敵か」と、混乱を見て早とちり。すぐに金銀財宝をかき集めると、信用できる部下数名と共に逃げてしまったのです。

 

 

 

……が、ここで財宝を抱えて逃げてしまった事が、すぐに裏目に出てしまいます。

 

 

なんと牛輔が抱える財宝に目がくらんだ側近の攴胡赤児(ホクコセキジ)は、自身の欲望に打ち勝つことができず牛輔に反逆。

 

軍を捨ててほぼ単独で逃げていた牛輔は、この突然の反乱に対応しきれず、皮肉にも自身の懸念通り部下の刃によってその命を落としたのでした。

 

 

その後牛輔の首は長安に送られ、それからは裏切った攴胡赤児ともども、この首のありかは史書に描かれていません。

 

 

 

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悲しいくらいに臆病な人物

 

 

 

董卓存命中はどうかは知りませんが、少なくとも董卓死後の牛輔は驚くほどに臆病で、おおよそ軍の統括者にふさわしくないほどのヘタレっぷりを見せています。

 

 

『魏書』ではそんな牛輔の精神的に衰弱しきった様子を以下のように記載しています。

 

 

 

怯えて職務が手につかないほどだった。兵を招集するための割符をいつも握りしめるだけでは落ち着かず、処刑用の斧と首切り台を自分の近くに置くことで何とか精神の均衡を保とうとしていた。

 

 

……なんというか、いたたまれない……。

 

 

 

それだけでなく、不安のあまり壊れた心は更なる拠り所を求めており、ついには占いを完全に妄信してしまうまでになったと言われており、客に会う時は人相占いを占い師にやらせて筮竹で吉凶を占い、その上で反逆の意思がないとされて始めて人に会うほどだったそうです。

 

当然、占いの結果「反逆の意志あり」と凶が出たならその人と会わないどころか即刻処刑。董越(トウエツ)なる人物が、現に反逆者として処刑されたとか。

 

 

 

自分たちがどう思われているのか知っているからこそか別の理由か、何とも可哀想なくらいに弱り切っていますが……正直、一軍を統括する総大将としてはこの有り様はどうなのでしょう?

 

 

董卓という存在の重さが彼の動揺からはうかがえますが、正直なところ武官としてはあまり向いている人物ではなかったのかもしれません。

続きを読む≫ 2018/05/25 22:42:25

 

 

生没年:漢安元年(142)~建安13年(208)

 

所属:他

 

生まれ:兗州山陽郡高平県

 

 

劉表

 

 

劉表(リュウヒョウ)、字は景升(ケイショウ)。メディアを通じて劉表の活躍を見ると、ただの雑魚群雄。というか正史を見ても雑魚同然といった感じで、正直、何をどう見てもパッとしません。

 

 

しかし、それはあくまで魏や蜀を正当化するときの見方。彼は曹操とは長年敵対していたうえ、劉備の危機の原因も作った人物。そんなどのメディアでも悪人ポジションの人が、どこかでよく書かれるはずもありません。

 

 

実際は、荊州に割拠して暗躍した、なかなかにしたたかな人物でした。その一端は、雑魚キャラのように書かれる正史にも、垣間伺えます。

 

 

 

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荊州に割拠

 

 

 

劉表は群雄として知られていますが、実は若い頃は儒学者として名を挙げていた人物です。彼は当時有名な儒学者であった「八俊」などと呼ばれて他の儒学者と並び称される程の名声を得ていたようです。

 

 

八俊の呼び名は、史書によっていろいろ。例えば後漢書では「八及」となっていますし、他にも「八顧」「八交」などという呼び方も。

 

また、後漢書には若かりし日のエピソードとして、若干17歳にして師匠の極端な倹約ぶりを諫めたものの聞き入れられなかったという逸話があります。

 

 

彼は何進(カシン)の属官として彼に仕えていましたが、やがて董卓(トウタク)らにより中央のゴタゴタが引き起こされるといつの間にか中央からドロップアウト。

 

太守が孫堅(ソンケン)によって謀殺され、無政府状態となった荊州に州刺史として入り込み、反董卓連合軍が結成されると、荊州北部の大都市である襄陽(ジョウヨウ)に陣を敷きました。が、ここからどう動いたか明記されていない……。それどころか、反董卓連合に加わったかどうかも不明という有り様で、なんだか不気味さを感じさせます……

 

おそらく、まとまりがなく無政府状態で混乱していた荊州北部の慰撫に専念していたのでしょう。

 

 

司馬彪の『戦略』には、この辺りの劉表の動きが詳しく書かれています。

 

劉表は荊州刺史になったはいいものの、重要都市の南陽は不仲な関係である袁術(エンジュツ)が抑えており、さらに賊徒も暴れ回って、周辺の豪族も命令に従わないといった有様でした。

 

 

そこで、劉表は単身で宜城(ギジョウ)に入り、周辺名士を招集。ここで応じたのは、蔡瑁(サイボウ)、蒯越(カイエツ)、蒯良(カイリョウ)といった、後に劉表軍の主力となる面々だったとされています。

 

 

劉表はさっそく、周辺豪族への対処と軍事力拡張の方策を名士らに問い質しました。

 

 

すると、まず蒯良が口を開き、「民衆らの反発や統率のなされない有様は、先達の仁愛と信義が足りなかったせいでしょう。領内を手なずけ慰撫すれば、やがて従うようになるでしょう」と提言。

 

それに対し蒯越は、「混乱の時代は策謀によって適宜妙案を採用するのが肝。戦争は兵をどう配下に加えるかにかかっています。まず私の意気がかかった者を利益で寝返らせ、その後道義に外れた者は処刑してしまうのが吉でしょう。その上で、他の者をいたわってやるのが一番です」と発言。

 

劉表は両者の策を折衷し、まず賊徒の主要人物を誘い出して殺害。その配下を襲撃して取り押さえた後、各地の慰撫を実施しました。これにより、荊州の平穏は成ったのです。

 

 

 

その後、孫堅袁術の指示を受けて劉表の治める土地に侵攻。これに対して劣勢を余儀なくされるも、なんと突出した孫堅を討ち取ることに成功。これによって孫堅軍は一気に瓦解し、寄る辺を失って荊州から立ち去って行ったのです。

 

この戦いの勝利により、袁術は劉表軍を攻めきれなくなり、ついに劉表はよって立つ土地を完全に得ることに成功しました。

 

 

 

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更なる軍拡へ

 

 

さて、ここからの劉表の動きが、したたかとも優柔不断ともとれる微妙な物になってきます。

 

まず、亡くなった董卓の遺志を継いだ李傕(リカク)らによって鎮南将軍(チンナンショウグン)の位と侯の爵位を与えられ、また一つ立場を大きくします。

 

 

その後、盟友の袁紹(エンショウ)が曹操との対立を深める中、曹操が献帝を擁護した時に漢王朝に対して貢物を送っています。

 

 

また、その少し後に董卓軍だった張済(チョウサイ)が荊州に略奪に来て、そのまま命を落とす事件が発生した時も、群臣が戦勝祝いをしたいと思う中、劉表は一人だけ「食料不足で張済はここに来た。なのに私が礼を尽くさなかったばかりに戦争になってしまったのだ」と反省の意を述べて祝賀を辞退。

 

この後張済の甥で軍勢を引き継いだ張繍(チョウシュウ)と同盟を結んでおり、彼を対曹操の盾として活用するなど、なかなか狡猾に立ち回っている様子が伺えます。

 

 

また、張繍が曹操に降った後も袁紹との同盟を維持しつつも曹操にあえて立ち向かおうとせず旗色を示さないまま江東を固め、反乱を起こした荊州南部をすべて平定し地盤を固める等、この頃から明白に群雄として独立した動きを見せるようになっていました。

 

 

 

こうした水面下での軍備拡張により、劉表軍の軍兵は最終的に10万を超すものへと膨れ上がっていったのです。

 

 

 

 

憂悶の内に……

 

 

 

さて、袁紹と同盟関係という間柄にあるものの、彼と曹操との間で起こった官渡の戦いでは、彼はあえて中立という姿勢を見せ、袁紹の救援要請も無視、曹操の応援もしないというどっちつかずの態度のまま、自身の領土をしっかり固めることに腐心していました。

 

 

この時幕僚に「曹操につきなさい」と進言され、「こいつは曹操の手先か!」と殺そうとしたなどという逸話も残っていますが……まあ、それはその幕僚の話をするときに回すことにしましょう。

 

 

 

こうして周辺を静観しているうちに、今度は曹操に敗れて逃げてきた劉備が劉表を頼ってきたので今度は彼を対曹操の蓋として使うことにし、前線都市である新野(シンヤ)を貸し出し、曹操の攻撃を防がせることにしました。

 

 

しかし、曹操の隙を突いて背後を攻める劉備の策を受け入れないなど、必ずしも任用したというより、単に利用するだけといった様子がうかがえる辺り、劉表の「人を信じない」スタイルは筋金入りと言えるのかも……

 

 

そうこうしているうちに建安13年(208)、ついに曹操は北方の敵を蹴散らし、劉表を次の標的に制定。南下のために軍を動かしてきました。

 

こうして曹操との決戦か降伏かを迫られたその重大なタイミングで、劉表は答えを出さぬまま病死。

 

 

跡を継いだ嫡子の劉琮(リュウソウ)はその後曹操に降伏し、劉家の血筋を保ったと言われていますが……何とも締まらない、まさに大事な局面での突然の病死でした。

 

 

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人物評

 

 

 

劉表は「長身で立派な見た目をしていた」と言われており、外面は非常に威厳のある人物だったとされています。

 

 

いっぽうで、そんな見た目とは裏腹に立てる戦略は地道な領土拡大の地方割拠志向。

 

戦乱の世において確かな答えを出さず、まさに「割拠」「領土保全」に特化したような動きを示している辺り、やはり地方の群雄止まりだったと言ってしまって過言ではないでしょう。

 

実際に陳寿の評もよいものとは言えず、以下の通りに言われています。

 

 

表向きは温和だが、裏では猜疑心が強く人を使いこなせなかった。

 

 

この評は袁紹と一緒くたにして語られており、確かに彼のしたたかな戦略は、優柔不断にも見えてきます。

 

実際、どっちつかずのまま目先の領土保全に腐心する姿は間違っても華々しいとは言えず、どちらかというと地味な上弱い人物のように見えるかもしれません。

 

 

しかし、乱世など素知らぬ顔で自己の領土拡大、保全だけを考えた独立志向は、決して雑魚群雄のそれではない……というのが、個人的観点です。

 

やはり袁紹などと同じく、人の下に付くような器ではなかったのでしょう。それを指し示すように、劉表は配下の兵や領地を増やすために飴と鞭を見事に使い分けている様子が伺えます。

 

 

所詮は地方群雄の一人にすぎなかったが、決して無能ではないしたたかな強者だった。劉表の実際の人物像は、そんなところに落ち着くのではないでしょうか?

続きを読む≫ 2018/01/24 00:33:24

 

 

生没年:?~建安4年(199)

 

所属:他

 

生まれ:豫州汝南郡汝陽県

 

 

勝手に私的能力

 

袁術,三国志,仲,皇帝,愛すべきバカ,蜂蜜,意外な大物

統率 D 部下をまとめるカリスマ性は間違いなくあったが、如何せん自身の威光頼りだったようで最後は離脱者も多い。戦争に関しては、相手が曹操というのを考慮しても下手。
武力 C 袁紹と同じく、彼もまた名族でなく個人の威光頼りの側面が強い。若い頃は任侠気取りのヤンチャ者だった。
知力 B 本気で雑魚のイメージしかない人物だが、己の力で袁紹に並ぶ最大勢力まで上り詰め、大局を見る力は確実にあった。人の目線と物の価値が測れないだけで……
政治 D 内政能力はEかF。しかし大局を見据えての外交能力は本物で、常に味方を作って敵に対する包囲網を形成していた。最期は内政土台という足元が見えずに撃沈。
人望 C 後世の評価はボロクソの一言に尽きるが、当時はその名声を考慮して仲間になった者も多く、意外にも味方は多かった。

 

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袁術(エンジュツ/エンスイ)、字は公路(コウロ)。無駄なしぶとさと名ばかりの配下の名将たち、そして壊滅的政治能力に突然の建国……何ともネタにまみれた人物像で、今なお高い人気を誇る群雄の一人ですね。

 

 

一見するとしぶとさ以外では何のとりえもない単なる雑魚武将のようにも見えますが、そんな彼にも、意外なところで非凡な才能が有ったりなかったり……

 

 

 

 

 

 

 

大勢力に上るまで

 

 

 

袁紹(エンショウ)とは兄弟の間柄の袁術ですが、その中でも袁術は父親である袁逢(エンホウ)の正妻の子であり、正式な嫡男として見られていました。

 

 

代々大臣クラスの大役を輩出していた名門の御曹司というだけあって、袁術は若くから政界に名乗りを上げ、各地を歴任。その後、近衛兵指揮官の一つである虎賁中郎将(コホンチュウロウショウ)に任命され、中央でも幅を利かせる存在となりつつありました。

 

 

 

……が、そんな折に袁術らが属する派閥のトップである何進(カシン)が暗殺され、直後に都に駆けつけてきた董卓(トウタク)が政治の実権を握ってしまいました。

 

 

袁術は董卓によって高位の軍事職である後将軍(コウショウグン)に任命されますが、董卓が帝を挿げ替えようという動きを見せると、危険と見て南の荊州(ケイシュウ)に逃亡。

 

たまたま孫堅(ソンケン)が太守を殺害したという荊州の重要拠点・南陽(ナンヨウ)の新しい主として君臨しました。さらに袁術は孫堅を荊州刺史に取り立て、諸侯が董卓に反発して結束した反董卓連合の前衛部隊として任用。

 

孫堅董卓軍相手にほぼ唯一善戦し、董卓が逃亡した後の都・洛陽を占拠するほどの活躍を示したのです。

 

 

 

しかし、袁術は謀略は良くても政治は壊滅的。元々董卓に敵対する兵、そして軍需品や装備を集めるというだけでも民衆に多大な負担を強いるものなのですが、袁術はさらに自らの贅沢のための費用まで民衆から調達

 

栄えていた南陽の住民は苦しみ、次第に国力が衰えていったそうです。

 

 

 

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袁紹との骨肉の争い

 

 

 

さて、董卓が西に逃亡したことで、反董卓連合軍はお互いへのひそかな反感や「出し抜いてやろう」という各々の思惑から、あっという間に瓦解してしまいました。

 

その折に、新たに荊州刺史として赴任してきた劉表(リュウヒョウ)とは上手く行かず、後に敵対。さらには袁術の兄・袁紹との仲も次第に悪化するなど、時代は群雄割拠に移りつつありました。

 

 

そんな中、袁術は北端の幽州(ユウシュウ)に割拠する公孫瓚(コウソンサン)と同盟。公孫瓚は袁紹と不仲な上に領土を隣接しており、遠く離れた冀州(キシュウ)に陣取る袁紹との代理戦争を期待したものでした。

 

対する袁紹も劉表と同盟を結び、袁紹と袁術は当時の群雄の二代巨頭として天下を争うようになりました。

 

 

そんな折、袁術は北に兵を動かし、さらには配下の孫堅に劉表攻撃を指示。しかし孫堅は不意を討たれて敗死し、孫堅勢力は瓦解。さらには公孫瓚も袁紹に敗れたうえ、袁術側の陶謙(トウケン)も袁紹側の曹操(ソウソウ)に破れる等袁術陣営の戦いは難航します。

 

 

そんな中、袁術は曹操勢力下の兗州(エンシュウ)にある陳留(チンリュウ)に軍を進め、一発逆転を狙って自ら一大決戦に臨みました。

 

この当時曹操は兗州を得たばかり。まだまだ弱小であり、さらには曹操の背後にいる黒山賊にも協力支援を要請。普通でしたら袁術に負ける要素はありませんでした。普通は

 

 

が、袁術はこの戦いに大敗北。さらには本拠地である南陽への帰り道も(密かに州牧に進化していた)劉表によって糧道ごと遮断されており、変えるに帰れないという有り様。

 

袁術は仕方なく残った兵を集めて揚州(ヨウシュウ)に逃亡。そのまま再起を図り、揚州刺史を殺害してその支配地を丸々支配下におさめてしまったのです。

 

 

その動きを見て、長安の李傕(リカク)は「只者ではない」と思ったのか、袁術を左将軍に任命。漢帝国直属の臣下である馬日磾(バジツテイ)を派遣。

 

 

袁術は馬日磾を迎えると、使者である証の節を強奪し拘留。自軍の臣下らに官位を与えるように迫ってこれを憤死に追い込みました。

 

 

袁術の時代は、まだまだ終わってはいなかったのです。

 

 

 

曹操との戦いは、曹操伝に当たる『武帝紀』に詳しいです。

 

まず劉表が袁術の糧道を断って牽制しますが、袁術は構わず曹操領に進軍。そのまま黒山賊らの支援を受けて、袁紹の支援を受けた曹操軍と封丘(ホウキュウ)に駐屯しました。

 

この時、匡亭(オウテイ)に布陣していた先遣隊の劉詳(リュウショウ)が攻撃を受けたため、袁術はすぐに救援に出動。しかし、曹操はこれを待ち受けており、あっさりと撃退。

 

続けて曹操は袁術の本陣である封丘を包囲しますが、袁術は夜陰に隠れて退却。さらには逃げた先の襄邑(ジョウユウ)でもあっさり袁術は撃退され、逃げ込んだ太寿(タイジュ)の城も水攻めで陥落。その後も曹操領外であるはずの寧陵(ネイリョウ)でまたしても曹操に捕捉され、袁術は南の九江(キュウコウ)まで逃げることになってしまったのでした。

 

 

 

 

揚州でもハッスル大魔王

 

 

 

さて、勢力を盛り返した袁術でしたが、多方面での敗北は大きく名声を落とすことになったのは事実です。

 

 

袁術がアテにならないと感じた陶謙は、この頃から独立を目指した動きを取るようになります。そこで、袁術は陶謙配下の引き抜きを画策。名士層でも実力者の陳珪(チンケイ)を味方に引き入れようと、彼の息子を人質に立てて脅しをかけますが、あっさりと断られてしまいます。
この時の陳珪の文章には、「もし判断力をお持ちでしたら、暴虐から足を洗う事が出来るでしょう」などと述べており、袁術の当時の評価がなんとなーくわかるような……?

 

また、戦死した配下の孫堅、その嫡子である孫策(ソンサク)を気にかけていましたが、これもまた袁術の兵を借りて江東平定に行ったっきり独立色を示し始めるという有り様で、まだまだ隆盛を誇っているとはいえ、人の信望にぐらつきが見え始めていました。

 

 

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仲国一代興亡紀

 

 

 

興平2年(195)に、帝が長安を脱して逃げてきましたが、これを見て袁術は「帝の力が弱まった証拠だ!」と述べ、漢王朝の終わりをアピールしますが、周辺の反応は無言。それどころか幕僚の閻象(エンショウ)から諫められて機嫌を損ねるといった有様だったとか。この辺りの発言、なんだか魯粛の影が見える気がしないでもないような……?

 

 

 

そして来るべき建安2年(197)、張炯(チョウケイ)という人の「天意を示す兆候がありました!」という報告を受け、袁術は自ら皇帝に即位。支配下の土地を丸ごと「仲(チュウ)」とし、首都を寿春(ジュシュン)に制定。大臣や役人も自ら配置し、祭祀を執り行うことになったのです。

 

 

しかし、いくら偉くなっても袁術の政治は変わらず。自らは後宮の女性数百人にハレンチな服装をさせて侍らせ、高級な肉や米を余るほどに並べていたそうな。一方で臣民は飢え凍えて食料不足に陥り、周辺は何もない焦土となった上、さらに人が人を食らう有り様だったとされています。

 

この暴政は多くの者の反発を招き、曹操はもとより一応は配下であった孫策始め多くの家臣の離反を呼び、周囲からの評判はガタ落ちしたと伝えられています。

 

 

また、呂布曹操と一戦を交えては敗北を繰り返し、特に曹操軍との戦いでは自身が敵前逃亡したばかりに主要な将軍をほぼすべて討ち取られるという有り様で、急速に勢力を衰えさせていっています。

 

 

また、呂布とは和睦して同盟関係になったものの、その呂布からの救援要請を過去の遺恨から断って間接的に滅ぼしてしまうなど、悪政や暴虐な態度から味方はどんどん離れていくばかり。

 

 

最期には天災に付け込んだ曹操軍に攻められ、国の放棄を決定。仲の配下だと思っていた陳蘭(チンラン)や雷薄(ライハク)らを頼る者の断られ、かつて争った兄の袁紹を頼って落ち延びるもその途中に発病し死亡しました。

 

 

『呉書』には、その最期が鮮明に書かれています。

 

袁術は雷薄らを頼ったものの拒絶され、その場に3日ほどとどまったものの食糧不足に陥りました。

 

そこで首都近くまで引き返したものの、炊事係に食料の備蓄を例えるも、残っているのはわずかな麦クズばかり。夏盛りで蜂蜜入りの飲み物が無いかを尋ねても、落ちぶれた袁術軍にはそれも無し。

 

落胆した袁術は木の寝台に寝そべって欝々としていましたが、やがて落ちぶれた自分に腹が立ったか「天下の袁術がこのザマか!!」と叫び、1斗(約2リットル)余りの血を吐いて死亡したとか。

 

 

 

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その評価と人となり

 

 

 

当然と言えば当然でしょうが、周囲の袁術に対する評価はすこぶる低いです。三国志を編纂した陳寿も、

 

 

自らの行いを顧みなかったのだから、この最期は自業自得である。

 

 

としており、現代では蜂蜜ネタと合わせて、この悪政は変な方向に愛されているといってよいでしょう。

 

また、裴松之の方も彼への評価は至って辛口。

 

 

毛ほどの功績も糸くずほどの善行も無いのに勢力を持ち、あろうことかいい加減な考えで皇帝に就いた。

 

こんな奴がたとえ慎みを覚えたところで、どーせ日を置かずにコケるのは明らか。陳寿の評程度では、こいつの悪辣さを示すには不十分だ。

 

 

と、これまたえげつない嫌いよう。

 

 

私はこれらの評価には納得しますし、袁術の悪性暴政のひどさには賛同します。

 

 

……が、一方で「若い頃は侠気で知られる人物だった」ともあり、それを象徴する逸話が『陸績(リクセキ)伝』にあります。

 

 

 

陸績は幼い頃、袁術からミカンを一つ盗み、それが見つかったことがあります。

 

袁術はそれを咎めたが、陸績は「母のために持って帰りたいと考えておりました」と答え、袁術はそれを聞いて大きな感銘を受けたのです。

 

と、こんな感じで、一応人並みの感性は備えていたのかもしれませんね。

 

多分、おぼっちゃま過ぎて庶民の暮らしがわからなかったんだ。これが免罪符になんぞなるわきゃありませんが。

 

 

 

ちなみに袁術の遺族ですが、後に孫策に攻め滅ぼされて捕虜となり、その娘は孫策の弟の孫権によって妾に迎えられたそうな。

続きを読む≫ 2018/01/22 17:58:22

 

 

 

生没年:?~ 建安2年(197)

 

所属:なし

 

生まれ:揚州丹陽郡

 

 

笮融 群雄 畜生 仏教 ヤバい人 中華仏教の祖

 

 

笮融(サクユウ)。彼は劉繇(リュウヨウ)伝におまけとして記述されている人物ですね。正直、三国志よりも仏教史の方が有名な人なのであれですが……

 

彼は言ってしまえば功績は多大で民衆の人望もなかなか、しかし魅力と器には大きく欠ける。そんな人物です。

 

 

 

というのも……正史の記述を見る限り、仏教を我欲のために悪用して民衆に付け込んだ、いわゆる悪徳宗教の教祖にしか見えない!

 

 

今回はそんな彼の事績を見てみましょう。

 

 

 

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そうだ、仏教広めよう

 

 

仏教の中国伝来は諸説ありますが、だいたい後漢の初めごろが始めだと言われており、それくらいの時期から仏像が持ち込まれた形跡が遺されています。

 

しかし、当時の宗教と言えば、孔子の残したとされる儒教がメイン。仏教などの他宗教は、当時はあくまでマイナーにすぎない三流宗教に過ぎませんでした。

 

 

 

しかし、これまで儒教を中心に行われていた国家体制が揺らぎ、政治腐敗により民政にも多大な悪影響をもたらすようになりました。

 

 

生活も行き詰まり餓死者も多発するようになった民衆は、救いを求めて右往左往するようになり、多くの民は黄巾の乱の元凶となった太平道を始めとする宗教にすがるようになります。

 

 

そんな民衆を見て、太平道のような道教とは別に、仏教という宗教に目を付けた男がいました。

 

笮融です。

 

 

彼ははじめ、数百人を率いて徐州の陶謙(トウケン)に庇護を求めます。

 

すると陶謙は笮融を任用し、徐州内のいくつかの郡での物流を監視する仕事につけました。

 

 

こうして後ろ盾を得た笮融は、まじめに仕事を……しませんでした。

 

 

彼は人を殺して輸送物資を奪い、貢物をすべて陶謙に送らず自分のものとして着服するようになったのです。

 

 

 

 

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寺を立てて大繁盛!

 

 

こうして仏教で禁止されているような殺人、窃盗を繰り返して得たお金を使い、笮融は大規模な寺院を設立。

 

その寺院は豪勢な物だったようで、銅で作った仏像に金箔を塗って錦の着物を着せ、さらに九層に重ねた銅の盤(承露盤?)を掲げると、その下には何層もの楼閣と渡り廊下を設置。最終的に収容人数は三千人にも上る、超巨大寺院となったのです。

 

さらには周辺の人々に仏経を読むことを義務化、近隣で仏道に目覚めた者は出家させ、賦役などを免除。

 

こういった特典もあり、笮融の仏教組織は巨大化し、笮融の寺院を求めてきた世帯は五千にも上ったとされています。

 

 

さらに灌仏会(カンブツエ:お釈迦様の誕生日)には盛大な浴仏の儀式を行うとともに、寺にござを敷いて大量の酒と食事を民衆に振舞ったため、その日に来る人は1万人近くにも及び、費用も多額に上ったそうです。

 

 

こうして見ると、あくまで汚い謀略を使ったのは仏経のためといった感じですね。

 

略奪や殺人こそ犯しましたが、この笮融の大々的な仏教の教化は大成功。まさに中国仏教史を本格的に回す基盤を作った、大功労者と言っても過言ではありません。そう、この瞬間までは……

 

 

 

 

 

何故かとんでもない狼藉者に……

 

 

 

 

ここまでは裏こそあれど仏教の立役者として非常に大きな存在となった笮融ですが、曹操が陶謙を攻撃して付近が不穏になると、笮融はなんと逃走

 

まあこれは仏教徒1万と馬3千頭を連れての逃亡となったので、「争いを嫌って新天地に向かったのだ―」などなどと、まだ擁護の余地があります。が、ここからがいかんかった……!

 

 

 

南端にある広陵(コウリョウ)に逃げ込んだ笮融は、当時太守であった趙昱(チョウイク)という人物を頼ります。

 

趙昱は仏教勢力の長である笮融を賓客としてもてなし、彼を歓迎して宴会を開いてくれたのですが……笮融は広陵が大変栄えていたのに目をつけ、宴会中に趙昱を殺害

 

さらに自身の兵を放って広陵の街で大々的に略奪を働き、奪った物資を荷車に詰め込んで広陵を後にしたのです。

 

 

 

 

その後笮融は南に下り、今度は揚州に赴任していた劉繇(リュウヨウ)の庇護を求め、彼の勢力下に加わります。

 

 

ここでまた力を蓄えよう。そう思っていた笮融でしたが、事態はあらぬ方向に。

 

 

 

当時劉繇と争っていた袁術(エンジュツ)の配下だった孫策(ソンサク)が、揚州に向けて進撃。劉繇軍の武将らは一気に蹴散らされ、ついには笮融までも駆り出されることになってしまうのです。

 

 

 

 

孫策相手とまた裏切り!?

 

 

 

さて、こうして孫策と戦うことになった笮融ですが、孫策軍は強く、野戦を挑みましたがあっさり敗北、砦に敗走してしまいます。

 

しかし、今度は砦に攻めかかってきた孫策との第二ラウンドに突入すると、奇跡が起こります。

 

 

なんと、笮融の兵が放った矢が孫策に命中してしまったのです。

 

 

さらにその後、孫策軍から投降兵が出始め、その兵士は「孫策は亡くなりました」というではありませんか。

 

 

 

これを聞いて勝利を確信した笮融は、砦から出て孫策の軍を再度攻撃。ついにこれを撃退………………できませんでした

 

 

なんと、この投降者の発言は嘘。孫策は当たり前のように生きており、笮融はまんまと誘い出された挙句、散々に打ち破られてしまったのです。

 

 

ここに来て戦線を維持できなくなった笮融は、主君の劉繇の元に逃亡。

 

さらにこの後劉繇まで敗れて本拠地を失ったため、劉繇に付き従ってさらに逃げることになったのです。

 

 

 

その後、再び劉繇を裏切り、道中で陶謙に追われて揚州に逃げていた薛礼(セツレイ)なる人物、さらには劉繇配下の豫章(ヨショウ)太守の朱皓(シュコウ)をどさくさ紛れに殺害。

 

再び主家を裏切り、完全に独立を果たしてしまったのです。

 

 

 

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略奪者の末路

 

 

こうして恩を仇で返す形で自立した笮融は豫章の役所を占拠し、群雄としての独り立ちを狙います。

 

 

が、当然、元主君の劉繇は、こんな裏切り者を許すはずがありません。

 

 

劉繇はすぐに裏切り者征伐の軍を起こし、笮融を攻撃。

 

 

笮融も「せっかく奪った土地を渡してなるものか」と奮戦し、一度は討伐軍を打ち負かしますが、執念に燃える劉繇の再びの攻撃には耐えきれず、敗北。

 

 

ただ一人山の中に逃げ延びて、再び己の身ひとつで再起を図りますが……行動に移す前に、偶然居合わせた、付近の名も無き農民に襲われてそのまま死亡。

 

仏教をもてあそび、群雄として立とうとした男のあっけない最期でした。

 

 

 

 

最後で仏教捨てた?

 

 

 

仏教徒としてという意味に限定すれば、なかなか敬虔で、その教えを広めるのに大きく貢献した人物。

 

 

これらの薄汚い謀略や裏切りの事績も、儒教からすれば「異端」でしかない仏教を確立するために必要な事だったのかもしれません。

 

 

実際、五斗米道の張魯(チョウロ)、果ては黄巾の乱の首謀者である張角(チョウカク)も、薄暗い陰謀家の一面を秘めているといってもよいでしょう。

 

 

 

……が、これはない。徐州の仏閣捨てて逃げたあたりからの事績は、とにかくないです。

 

 

正直、仏教を捨て、乱世に数多立つ群雄の一人として立とうとしたようにしか見えません。

 

 

そう考えると、仏教も彼からすると、単に自身に人を集めるための道具に過ぎなかったのでしょうか?

 

 

仏教の立役者・笮融の仏教への思いや如何に?

続きを読む≫ 2017/11/13 22:30:13

 

 

 

生没年:?~ 建安11年(207)

 

所属:魏?

 

生まれ:涼州武威郡祖厲県

 

 

三国志ヲタの暴走

 

 

張繍(チョウシュウ)は、羌(キョウ)という騎馬民族の土地と隣接した辺境の涼州出身の人。主に、曹操軍の参謀である賈詡(カク)の元主君として有名ですね。

 

叔父の張済(チョウサイ)は董卓(トウタク)の重臣で、演義では四天王に数えられる実力者。

 

当然、そんな叔父の跡を継いだ彼自身も、非常に優秀な武将であったことが伺えます。ちなみに、地元・中国ではかなり人気の高い武将だとか。

 

 

 

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若き俊英

 

 

張繍は若いころからその才覚を見出され、役人として働いていました。が、辺章(ヘンショウ)や韓遂(カンスイ)らが反乱を起こした際、麴勝(キクショウ)という人物がどさくさに紛れて張繍の上司を殺害。

 

取り立ててもらった恩義のあった張繍は、その報を聞いて仇討ちを決意し、隙を見つけて麴勝を殺害。この行いが当時の儒教観念には大いにウケて、そのまま地元の顔役として若者たちの間での人気者になったのです。

 

 

さて、叔父の張済(チョウサイ)は董卓(トウタク)に仕えていましたが、その董卓が義理の息子である呂布(リョフ)に暗殺されると、張繍もその弔い合戦に参加。董卓重臣の李傕(リカク)らと共に呂布らが鎮座する長安を攻め、呂布を追い出すことに成功。董卓の仇を討ったのです。

 

 

その後、董卓の跡を継いだ李傕の将として頭角を現し、将軍の地位にまで上り詰めた張繍でしたが、その後、思いもよらない凶報が飛び込んできたのです。

 

 

建安元年(196)、叔父の張済が死亡。弘農(コウノウ)という土地へ駐屯していたものの、食糧不足に陥って略奪のために敵軍を攻撃した際、流れ矢を受けての戦死でした。

 

 

叔父・張済の死の後、その後継ぎとして実力者である張繍にお鉢が回ってきました。以後張繍は一族郎党とその軍勢を率いる長として行動するようになります。

 

また、この頃にかの有名な参謀である賈詡(カク)が加わり、以後張繍は彼の進言に従う事となったのです。

 

 

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曹操との因縁

 

軍勢を引き継いだ張繍は、そのまま荊州(ケイシュウ)を治める劉表(リュウヒョウ)を頼って南下。宛(エン)の地に駐屯し、しばらくそこに割拠することになります。

 

が、建安2年(197)。曹操(ソウソウ)が張繍討伐の軍を起こし、宛の近くまで来て陣営を築くと、叶わぬと知った張繍は曹操に降伏。

 

 

張繍はそのまま曹操の配下に取り立てられるのですが……ここで思いもよらぬアクシデントが起こります。

 

なんと曹操は、張繍が身柄を引き取っていた張済の元妻を、自身の妾としてそばに置いたのです。

 

 

未亡人である叔父の元妻と肉体関係を築かれたのでは、さしもの張繍もいい気分はしません。

 

 

曹操の事を内心恨んでいた張繍。曹操もそんな張繍の気持ちはわかっており、あろうことか張繍暗殺計画を企画。その計画内容が張繍自身の耳にも入ってきたことから、とうとう火種が爆発します。

 

 

曹操への敵愾心を明確に抱いた張繍は、参謀の賈詡と策を練って曹操を急襲。

 

一説にはこの急襲、曹操軍の前を堂々と軍備を整えたうえで進み、曹操自身にも「輜重が多いわりに荷車の数が少なくこのような形での通貨になります。どうか鎧をつけたままの通過をお許しください」と一言断り、許諾を得てからの進撃だったとか。

 

 

ともあれ、この襲撃によって曹操は、息子の曹昂(ソウコウ)と甥の曹安民(ソウアンミン)、さらには信頼していたボディガードの典韋(テンイ)をまとめて失うことになり、曹操自身も悲嘆にくれたとか。

 

 

ちなみに張繍の反乱にも諸説あり、張繍と親密な間柄で並外れた武勇を持っていた胡車児(コシャジ)という人物を曹操が暗殺しようとしたのが引き金だとか、元から反逆するつもりで曹操に虚偽投降したとかいろいろと言われていますが、真相は不明。いずれにせよ、張繍の反乱が曹操に深いトラウマを植え付けたことは確かなようです。

 

 

 

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最終的には曹操に帰順

 

 

さて、こうして曹操配下を脱し、再び群雄に返り咲いた張繍。彼は再び劉表と同盟を結び、曹操と対峙。

 

何度も侵攻する曹操軍から領地を幾度も守り抜いたある時、転機が訪れることになります。

 

 

時は建安4年(199)。曹操と一触即発の状態であった群雄・袁紹(エンショウ)から、同盟の使者が訪れました。

 

 

南には袁紹の盟友であり、張繍自身の後ろ盾でもある劉表がおり、ここで北に勢力を伸ばす袁紹と同盟すれば、曹操の領土を挟撃する形が整い、いよいよ勝利が近くなります。

 

 

張繍は喜んでこの提案を引き受けようとしますが……なんとこの絶好の機会をふいにしてしまったのは、信頼できる参謀の賈詡でした。

 

賈詡袁紹からの使者に対し、「弟(袁術)と兄弟喧嘩をするような人物を信用はできない」と一蹴し、使者を追い返してしまったのです。

 

 

そして「じゃあどうすればいいんだ」と途方に暮れる張繍に対して、こう進言しました。

 

 

 

曹操は今、苦境にあります。余裕のある袁紹と苦戦を強いられている曹操。どちらに付いたほうがありがたがられるかは明白です。曹操は天下に覇を唱えようとするわけですから、怨恨を気にして民心を損なうわけにもいきませんし、何より帝を奉戴していて大義もあります」

 

 

 

とまり賈詡は、「今仇敵である曹操に降れば、過去の怨恨も水に流して重用してくれる」という旨の進言をしたのです。

 

 

にわかには信じられない計算ですが……恐ろしいことにこの賈詡の予言は的中。曹操は張繍や賈詡の手を取って喜び、張繍に将軍の職を与えました。

 

 

その後の張繍は官渡の戦いや袁紹の子である袁譚(エンタン)との戦いで奮戦し、曹操配下の中では破格の待遇を得たと言われいます。

 

 

が、異民族である烏丸(ウガン)を討伐する途上、病を発してそのまま死去。

 

後は息子の張泉(チョウセン)が継ぎましたが、張泉は後年、曹操軍における大規模反乱に加担したせいで処刑。張繍の得た領地も没収されてしまったのです。

 

 

 

評価

 

賈詡曰く、「戦争は非常に上手く、諸将の中でも群を抜く。だが曹操本人には及ばない」とのこと。降伏の際も、この言葉を過去に賈詡から受けていたことが決め手になったのかもしれませんね。

 

実際に賈詡の評価通り、曹操とは争う前に降伏、賈詡伝では本人の計略を前に敗北すらしているものの、曹操配下の将が攻めてきた際にはこれを撃破するなど、軍才においては他を圧倒するものがあったようです。

 

 

とはいえ、やはり曹操の息子を討ち取ったという一点は曹操軍の中でも汚名にもなっていたようで……死因に関しては曹操の息子である曹丕(ソウヒ)になじられたため恥じ入って自殺したというものまであります。

 

もっとも、賈詡曹丕に重用され、彼が魏帝の地位に就いた後も重役を任されたほどであると考えるに、その元主である張繍だけを追いつめる逸話の信憑性には疑問符が付きますが……

 

 

何にせよ、自殺の逸話は他ならぬ魏略に描かれていたものである以上、やはり曹操陣営には彼を快く思わない者がいたのは確かなようです。

続きを読む≫ 2017/11/01 01:03:01
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